2009年4月 4日 (土)

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

B090404 慶応大学の高橋信一准教授から、フルベッキ写真を取り上げた『日本の夜明け』(山口貴生著 文芸社)という単行本が発刊されたという連絡を受け、早速ジュンク堂に発注して取り寄せてみました。そして同書が到着したので早速目を通してみましたが、内容的に間違いだらけの酷い本であり、当初は取り上げる価値もないと思っていました。しかし、フルベッキ写真の背景を知らない一般の人たちが読めば、間違った知識を身につけてしまうことになりかねず、面倒ではあるもののこうした類の本が出るたびに、蠅たたきをしておく必要があると考えを改めました。よって、高橋先生に書いて戴いた同書の書評、今回も本ブログに公開させていただくことになりました。

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

 

慶應義塾大学 高橋信一

 久方振りに加治将一氏の「幕末維新の暗号」について行った検証と同じことをやる破目になった。2009年3月文芸社から刊行された「日本の夜明け フルベッキ博士と幕末維新の志士たち」の著者、山口貴生(隆男)氏が「フルベッキ写真」の陶板額を売り出した張本人である。彼の前著は、陶板額に付けて販売された解説書だが、「フルベッキ写真」自体の解明に纏わる事柄は記述されていなかった。これらについて最初に説明していないのは一種の情報操作である。彼に会ったのは3年前のことだが、その際にブログに掲載している私の「フルベッキ写真の調査結果」の草稿を送って、「陶板額の修正版を出すように」と言ったのに、無視されている。本書は、たくさんの歴史の記録を集めて来て、幕末・明治維新の周辺状況を詳述した労作には違いないが、そんな暇があったら、「古写真の歴史」についての学習を徹底的にした方がよかった。「古写真」を論じているのに、「古写真の歴史」がほとんど語られていない。参考文献として引用されているのは、渡辺出版の「上野彦馬歴史写真集成」のみである。それも、掲載する写真の引用に使っただけのようだ。「上野彦馬歴史写真集成」の巻末には「フルベッキ写真」に関する東京大学の倉持基氏の論考があるのに、それを読んだ形跡が認められない。読んだのなら、故意に無視しているとしか思えない。「古写真の歴史」の解明は、これまで限られた研究者によって行われて来たので、確かに不明な点は未だに多く、間違って解釈されてきたことが現在でも踏襲されているということがあることも否めない。「上野彦馬歴史写真集成」にも多くの修正すべき記述がある。しかし、「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオが上野彦馬のものでないということには断じてならないのである。そのことは、「古写真の歴史」をちょっと勉強すれば理解出来るはずである。

 偽説の信奉者たちは、秘密の会合の目的を主張しながら証拠写真撮影の目的を説明していない。坂本龍馬が持っていて近藤勇に見せたという土佐勤王党の血判状のようなものだというのか。では、でっち上げられた人物の誰が「フルベッキ写真」の保管者になったのか。現状、偽説に名前が上げられている人物の内、森有礼が所蔵したアルバムに大判のオリジナルでなく、名刺判の複写が残されていたのが、唯一である(平凡社刊 石黒敬章・犬塚孝明著「明治の若き群像」参照)。オリジナルと考えられるのは、フルベッキ自身が持っていたものと、長崎留学の記念写真を撮った岩倉具視の息子たち具定・具経兄弟の家にあったもののみである。これをもって、岩倉具視が最大の黒幕だったと言うのか。「フルベッキ写真」は秘蔵の写真ではなかったことが、2008年秋に明らかになった。横浜開港資料館に寄贈された明治前半のスチルフリード写真館が販売した写真アルバムの余白のページに、所有者オール氏が長崎の上野彦馬写真館で購入した数枚の長崎の写真の中に、「フルベッキ写真」のオリジナルが貼り付けられているのが見つかった。明治7年ごろには、上野写真館の店先で売られていたのである。明治初年における名刺判写真撮影の費用は現在の価格にして10万円くらいと推定される(図①に白米10kgの値段と比較した写真の値段の推移を示した。朝日新聞社刊「値段の明治大正昭和風俗史」と「続値段の明治大正昭和風俗史」参照)。1枚数万円はした大判の高価な写真を買えるのは、来日した外国商人たちくらいだった。このアルバムの複製は誰でも見ることが出来るようになっている。興味のある方は確認のこと。
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 以下に、「日本の夜明け」に見られる明らかな間違い・疑問点を順を追って指摘した。大筋は基本的に「フルベッキ写真の調査結果」以来、いろいろとブログで述べて来たことの再確認であるが、自費出版に近く、発行部数の少ない「日本の夜明け」は一般の書店に並んでいない。過去のブログを参照しながら、お読みでない方々にも、改めて「フルベッキ写真」に対する正しい認識を持っていただきたいと願っている。

 (1)  口絵説明・・・「フルベッキ博士の子孫と言われている中村保志孝氏」が所蔵する写真     や資料を基にして「日本の夜明け」を編纂したとしているが、私は中村保志孝氏と平成 18年3月にお会いして話しを伺った。ご両親の写真も複写させてもらった。父親は中 村氏が3歳の時に亡くなっているので、記憶は定かではないとのこと。長崎外人墓地の 墓碑を詳細に調査した長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授の「時の流れ を超えて-長崎国際墓地に眠る人々-」によれば、中村氏の父 ペーター・グースワー ド氏はフルベッキの次女エマが生れた翌年の1864年ごろオランダで生まれ、193 2年に長崎で68歳で死去した。顔もフルベッキとは似ていない。中村氏本人は当初か ら、子孫であることを認識しておらず、戦後知人から言われた。「フルベッキ写真」もオ リジナルでなく、ゼロックス・コピーを人からもらったと証言した。偽説のでっち上げ に利用されたのである。そうでないなら、フルベッキとの血縁を証明するべきであろう。

 (2)  p.4・・・「フルベッキ写真」のオリジナルに近いものは、平成9年岩波書店が刊行 した「上野彦馬と幕末の写真家たち」に掲載された産能大学所蔵の写真で初めて一般に 公開された。それ以外は複写写真である。「日本の夜明け」の「フルベッキ写真」の出所 を明らかにすべきである。「上野彦馬と幕末の写真家たち」のコピーであろう。

 (3) p.5・・・「緻密な研究による」というが、その根拠はこの本の何処にも書かれていな  い。「明治二年説」以外に「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏や私の「明治元年説」がある。「調査してまわったそれらの資料」の中に、名前が上げられた人物を識別出来るようにした、比較のための参照写真がまったく集められていない。どのようにして、「フルベッキ写真」に該当する人物を当て嵌めることが出来たのか、何の説明もない。

 (4)  p.39・・・フルベッキの「次女エマ・ジャポニカ」の誕生日を2月4日としている のは、「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏の解釈であるが、エマの誕生日は186 3年2月7日であることがクララ・ホイットニー「クララの明治日記」から読み取れる。 フルベッキの手紙(横浜開港資料館蔵「The Reformed Church in America, Japan Mission」)の原文を正確に解釈すると、マリアの陣痛が始まり出産の床に就いたのが2 月4日である。

 (5)  p.46・・・1869年3月23日フルベッキの東京出発に「長崎から36人の生徒 が付き添い」とあるが、佐賀藩士27名に東京等留学の許可が下りたのは、3月31日 であり、フルベッキと行動を共にしたわけではないし、全員が大学南校に入学したわけ でもない。

 (6)  p.48・・・横井小楠の甥「横井左平太・大平兄弟」は密航者であり、変名で渡航し たが、「日下部太郎」は幕府の渡航許可証を持ったれっきとした留学生である。変名では なく、新天地へ赴く意思をあらわすために改名した。

 (7) p.63・・・「フルベッキ博士の足跡」の日付けは村瀬寿代氏の「日本のフルベッキ」の年表に従って西暦で書かれているが、p.163からの「幕末維新の年表」は和暦で書かれているので注意が必要である。山口氏自身も混乱・混同しているようだ。肝心の(10)p.66に出て来る「西郷隆盛の空白期間」はどっちの暦年で考えるべきかによって、長崎でのアリバイがある人物とない人物が変って来る。いい加減な話である。

 (8) p.65・・・「2月4日」でなく、1863年2月7日に次女エマは生れた。

 (9) p.66・・・ここに上っている人物たちが済美館で学んだ記録はない。石橋重朝、丹 羽龍之助、中島永元、江副廉蔵、中野健明らは致遠館、陸奥宗光、高橋新吉は何礼之の私塾、大隈重信と副島種臣は致遠館設立以前にフルベッキの住居に通って個人教授を受 けた。村瀬寿代氏の研究論文(2000年「桃山学院大学キリスト教論集」と2006年「関西英学史研究」)を参照されたい。

 (10)p.66・・・「2月14日から3月4日頃」というのは、(48)p.187で私が扱 っている西郷隆盛の行動の記録のない空白期間を根拠にしているが、p.187の記述 は和暦で書かれているので、ここでは西暦に換算する必要がある。正しくは、1865 年3月11日から30日となる。それとも、西暦の2月14日から3月4日なのか。い い加減な記述である。記録がないのは、意味があってのことだと断定することは出来な い。単なる偶然である可能性が高い。空白期間を作るには、残っている記録の改竄が必 要になる。安易に改竄を主張するのは極めて危険である。

 (11)p.66・・・「3月22日」は和暦である。薩摩藩士たちが密航したのは、1865年 4月17日である。

 (12)p.67・・・「明治元年8月、庄村助左衛門が横井兄弟について相談にフルベッキを訪 れた」のは、慶応元年のことではないか。兄弟の留学希望を叶えるために、横井小楠が 庄村経由でフルベッキに頼んだ。

 (13)p.68・・・「折田彦一」は「折田彦市」の間違いである。折田彦市は岩倉兄弟といっ しょに長崎留学した人物で、「フルベッキ写真」に写っているはずの人物である。三高同 窓生の板倉創造著「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究-」を参照されたい。

 (14)p.75・・・「慶応元年説では問題ない」というが、この時期に長崎にいることの出来 ない人物がいないかどうかについて何ら説明されていない。明治二年がだめで、慶応元 年がなぜいいのか。

 (15)p.76・・・「上野スタジオで撮影したと断定されていない」というが、明治元年から 6、7年ごろまでに使われた上野写真館のスタジオは、専らこのスタジオであることは、 現在の古写真界の常識である。以前のブログの繰り返しになるが、昭和9年に永見徳太 郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置 き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のも のであることがわかる。参考になる撮影時期が明らかな写真をいくつか紹介する。1. 長崎歴史文化博物館が所蔵する明治2年1月10日撮影の振遠隊凱旋記念写真(ブログ に添付した写真① 振遠隊凱旋記念)と同じ日に幹部だけで撮られた集合写真。大正7年隊士の生き残り たちによって編纂された「振遠隊」にも掲載され、上野彦馬撮影と明記されている。こ の写真を見れば、このころ専ら使われていたスタジオであることが瞭然である。後者は 石黒敬七編「写された幕末3」にも掲載されている。2.明治2年6月撮影の山縣有朋・ 西郷従道洋行記念写真(「決定版 昭和史1」掲載)。(21)p.85に示されている「広 運館」の「フルベッキ写真」でもみられるように、スタジオの背景には欄干飾りの置物 が置かれている。これが、このスタジオの特徴である。「致遠館」の「フルベッキ写真」 では、大人数のため影に隠され、欄干飾りは見ることが出来ない。3.明治3年4月2 6日撮影の毛利元徳・木戸孝允ら集合写真。「写真の開祖 上野彦馬」に掲載、撮影日は 「木戸孝允日記」に記載がある。4.広運館教師レオン・ジュリーを囲む生徒集合写真 (写真② レオン・ジュリー)、「日本の開国 エミール・ギメ あるフランス人の見た明治」掲載の2枚。 上部の写真は明治3年10月にジュリーが広運館の教師になった際の記念に撮ったもの、 下部の写真は明治4年10月に退任して京都のフランス語学校に赴任する前に撮ったも のと思われる。スタジオの中央の敷石が外された時代の写真である。5.明治5年11 月14日撮影の「明治初年頃の外賓と外交官大隈侯」集合写真(写真③ 外交官大隈侯)。この写真は一 般にほとんど知られていないので、詳しく紹介したい。大正11年2月に大隈重信が亡 くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出て、多数の写真が口絵に取り 上げられたが、その中で大隈夫妻を囲んだ外国人たちの写真が掲載された。「大隈侯一言 一行」には、明治5年に大陸と長崎間に電信ケーブルが敷かれたのを機会に各国の外交 官と鉄道・灯台・電信関係者を引連れて長崎まで視察に行った際の大隈の述懐が載って いる。写っているのは大隈重信夫妻、山尾庸三夫妻、佐野常民、石丸安世、石井忠亮、 フレッシャー、ジョージ、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。横浜開港 資料館「図説アーネスト・サトウ幕末維新のイギリス外交官」、萩原延壽「遠い崖 アー ネスト・サトウ日記抄」、「灯台巡回日誌(「大隈文書」)」、「杉浦譲全集 第5巻」の「燈 台電信巡視日記」を見れば大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎 に滞在していたことが分かる。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事 なし」と書いてあり、仕事は休みとなったので、上野彦馬写真館で集合写真を撮った後、 会食している。このように、このスタジオは専ら、明治以降に上野写真館で使われてい たのである。その他、山口氏が引用する「上野彦馬歴史写真集成」にもスタジオの様子 が分かる写真が掲載されている。
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左より写真①、写真②、写真③(Ohkuma.pdf)

 (16)p.76・・・「フルベッキ博士と一緒に写っている子供」が男の子か女の子かの解釈に ついては人間の感性が同じでないことの証左であり、見解の相違は埋められない。断定 して、それに基づく推測をするべきではないと考える。(29)p.91で、再度触れる。

 (17)p.77・・・「名前なども判明しているはずが不明」なのは、「フルベッキ写真」が佐 賀藩の生徒たちには渡らなかったことが原因であろう。手元になければ、誰が写ってい るかの情報は残らない。岩倉兄弟の長崎到着を京都の親元に知らせるための記念撮影だ ったので、フルベッキと岩倉兄弟の分以外に焼き増しされなかった。留学生の身である 岩倉兄弟たちが、佐賀藩士たち全員に配ったとは考えられない。当時は一枚のネガから の拡大・縮小焼付けは出来なかったし、1枚数万円もする高価な大判写真は極少数しか 作られなかった。「フルベッキ写真」の名刺判が存在するが、後年の複写である。江副廉 蔵が持っていた複写は明治初年の鶏卵紙判ではなく、明治後半以降の銀塩写真である。

 (18)p.80・・・「フルベッキ博士の送別記念写真」ではないというのが、前述したように、 私の見解である。岩倉家に残っていたオリジナルは残念ながら戦災で焼失し、昭和の始 め岩倉具視50回忌「岩倉公記念祭」の際に複写したものが京都・岩倉記念館に残って いる。

 (19)p.81・・・「フルベッキ写真の写場」については、私の論考「書評 馬場章編『上野 彦馬歴史写真集成』」(2007年「民衆史研究」掲載)を参照されたい。ブログでも「上 野彦馬の写真館と写場の変遷」として詳しく扱っている。慶応3年の後半に上野邸の敷 地を囲む白壁の塀が新築された。その際に、今まで使われていた慶応年間の狭いスタジ オの一つが改造されて広いスタジオになったと推定しているが、断定出来るところまで 煮詰まっていないのが現状である。しかし、「明治15年、ビードロの家」というのは、 従来の研究者の見解を修正する必要がある。屋根にビードロ(ガラス)を張ったスタジ オの様子は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」に掲載の写真で知れる。その床 に敷かれた絨毯の模様を日本カメラ博物館刊行「写真館『上野撮影局』誕生 上野彦馬 が愛した長崎」に掲載されている明治10年までに成立したことが明らかな外国人所有 の写真アルバムの写真と比較すると、明治15年よりかなり早くから「ビードロの家」 のスタジオは完成していたと見なせる。このスタジオは先の欄干飾りを置いた「フルベ ッキ写真」のスタジオとは別に上野写真館の敷地内に作られたのである。同様な写真は 「上野彦馬歴史写真集成」にもあり、この新しいスタジオは明治7、8年ごろから既に あったと結論出来る。また、詳細は別の機会に取り上げるが、中島川沿いの塀際に建て られた上野写真館の二階家は明治5年には完成していたようだ。このような推測が出来 るのは、近年たくさんの幕末・明治の古写真が公開、研究者の目に入るようになったお 陰である。古い常識で、誤った妄想を正当化するのは、その内にぼろが出ることが必定 なのでそろそろやめた方がよい。

 (20)p.81・・・「植木と草履」のところには、植え込みを囲う置石も見えているが、広運 館の集合写真ではなくなっている。これが意味するところは、致遠館の「フルベッキ写 真」は明治元年の後半、広運館の「フルベッキ写真」は明治2年の前半と、撮影された時期の違いを示している。因みに「振遠隊凱旋写真」では植木の枝が残っている。

 (21)p.82・・・「勤務先の洋学所」は文久年間には江戸町にあった。その後の校舎の場所 の変遷は洋学所を引き継いだ現在の長崎市立長崎商業高等学校が刊行の「長崎商業百年 史」で辿ることが出来る。元治元年正月、大村町に移転し「語学所」に校名を改めた。 フルベッキはこの年の6月に教師として雇われた。(23)p.85の③の写真は、この ころのものであろう。慶応元年2月に新町の元長州蔵屋敷跡に校舎を竣工、8月に移転 して「済美館」となった。慶応元年2月に、p.86の①の「フルベッキ写真」が撮影 されたとすると、その場所は「洋学所」でも「済美館」でもなく、「語学所」である。「洋 学生」でなく、「語学生」でなければならない。「広運館」の前身「語学所」の教師と生 徒が写る方のp.87の③の「フルベッキ写真」がこのころ撮られたのであれば、大村 町の校舎がスタジオとして妥当かもしれないが、(28)p.89にあるように②「広運館」の「フルベッ キ写真」は明治2年に撮られた。その時、広運館は明治新政府によって移転させられ、 外浦町の西役所跡にあったのである。慶応元年と明治2年では、別々の場所にあったは ずの学校の校舎に同じ構造のスタジオがあり、両方で撮影されたというのか。訳の分か らない話である。①と②の二つの「フルベッキ写真」は同じスタジオで撮られている ことは疑いないので、「致遠館」の「フルベッキ写真」にはさらに相応しくない。このス タジオは日常的に写真を撮るために上野写真館の敷地内に作られた場所であり、たまた ま特別に用意されたものではないことは、(15)p.76の項で示したとおりである。

 (22)p.84・・・「薩摩藩の蔵屋敷」では、尚更のこと非常に特別な場所になる。考慮の他 である。秘密の会合から秘密のスタジオへと妄想が広がっているが、「古写真の歴史」だ けでなく、「長崎における洋学の歴史」が理解出来ていないことは明らかである。

 (23)p.85・・・「①」が致遠館の「フルベッキ写真」、②が広運館の「フルベッキ写真」、 ③は朝日新聞社刊行「読者所蔵 古い写真館」に掲載されたもので、元の所有者から板 橋区立郷土資料館に寄贈された。郷土資料館は明治2年の写真とは認定していない。根 拠もなく、勝手に決め付けている。こちらの写真はフルベッキが洋学所(語学所)で教 え始めた元治元年6月以降のもので、中列の右端に英語教師の岡田好樹(②の広運館の 写真にも写っている)、同じ列の左から二人目に柴田昌吉(岩崎克己「柴田昌吉傳」)が いるが、柴田は慶應3年3月、江戸の海軍伝習所の通詞として、柳谷謙太郎とともに出 仕したので、明治以降の撮影は考えられない。尚、この写真は長崎大学経済学部武藤文 庫にも複製が所蔵されている。ともに済美館に学んだ人物や教師が残したものであろう。 2007年版名古屋大学附属図書館研究年報掲載の中井えり子「『官許佛和辭典』と岡田 好樹をめぐって」を参照してほしい。3枚の写真の内、これが最も古い写真なのである。

 (24)p.86・・・「見事なまでの髭」はフルベッキの長崎時代の初期の姿そのものである。 長崎歴史文化博物館には、フルベッキの肖像画(「図説 大隈重信:近代日本の設計者生 誕150年記念」を参照)が所蔵されているが、それには髭が描かれている。フルベッ キは晩年にも髭を生やしていたので、時々そうしていたと考えた方がよい。「日本のフル ベッキ」の原書「Verbeck of Japan」には妻マリアと二人で写る晩年のフルベッキの写 真(写真④ フルベッキ夫妻)が掲載されているが、これには「立派な髭」が見られる。
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写真④

 (25)p.87・・・「②」のキャプションの「大隈重信、江藤新平、副島種臣」はどこにいる というのか。好意的に見れば、誤植である。偽説では①にこれらの人物が写っていることになっている。②にもいるなら、その位置も示すべきである。

 (26)p.88・・・「立派な髭」で年齢を考察するのは、笑止である。

 (27)p.89・・・「佐賀藩士としたら一体誰」かを追求するのが、地元の研究者の最大の課 題である。それを蔑ろにして妄想に耽っている場合ではない。「江藤南白」や「開国五十 年史」を読むべきである。致遠館に入学した佐賀藩士は岩松要輔氏によって杉本勲編「近 代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」にリストされている。山口氏はそれを 読んで、(37)p.123に名前を上げているのに、なぜ彼らの顔写真を集める努力を しないのか。

 (28)p.89・・・「③の写真が一番新しい」根拠は髭のようだが、武士たちの多くが、月代 を剃りあげている点はどう説明するか。月代をやめたのは、大政奉還以降であり、慶応 元年の時点では藩士たちの大部分は月代を剃っていた。「②の写真は明治2年、広運館 教師フルベッキ送別記念写真」と正確に記述しているので、世の中の常識に合わせてい る。この時、広運館は外浦町の西役所跡にあった。秘密のはずの①の「フルベッキ写真」 がなぜ、②の「フルベッキ写真」と同じスタジオで撮影されたのか。自己矛盾を取り繕 えなくなっている。

 (29)p.91・・・「男の子のようにショートカットはあり得ない」というのは、単なる思い 込みに過ぎない。平凡社刊行の石黒敬章・犬塚孝明「明治の若き群像」には明治11年 家族全員で米国へ発つ前に浅草の内田写真館で撮影されたフルベッキの家族写真(写真 ⑤ フルベッキとその家族)が掲載されている。後列には当時15歳の次女エマがショートヘアで立っており、 フルベッキが抱き寄せているのは、三女のエレノアである。フルベッキ家は妻マリアも 含めて髪を短くするのが伝統だったのではないか。「フルベッキ写真」の子供のチェック 柄の服は女の子のものであろう。
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写真⑤

 (30)p.96・・・秋田角館から出て来た「大礼服を着た謎の人物」は尾崎忠治であること が、東京大学馬場章研究室の研究で解明済みである。日本写真芸術学会平成15年度年次 大会研究報告予稿集で「歴史写真における新たな人物比定方法について」と題して報告 されている。倉持基氏の東京大学大学院情報学環・学際情報学府2003年度修士論文 「『歴史写真』における人物比定方法の基礎的研究」を参照のこと。尾崎家にも角館と同 様の写真が残っている。「フルベッキ写真」とは無関係である。「フルベッキ写真」の西 郷隆盛と名指しされた人物は鱈子唇ではない。

 (31)p.99・・・「只もちを延べたる如きめずらしき耳」の解釈は、耳タブが長い釈迦の耳 のようだと言ったに過ぎないのではないか。「もちをちぎったような」とは言っていない。

 (32)p.116・・・「フルベッキ小伝」は明治28年に刊行されてはいない。まだ草稿の段階であった。決定稿は1909年に軽井沢で開催されたオランダ改革派教会の集会でワイコフによって読まれ、出版された「Biographical Sketches read at the Council of Missions」(明治学院大学所蔵)である。2009年4月に明治学院大学から出版された「明治学院歴史資料館資料集 第6集『アメルマン・フルベッキ・ブラウン・ヘボン・J.H.バラ史料集』」に日本語訳が収められた。これには「日本のフルベッキ」からの引用が多く見られ、グリフィスの誤解の影響を受けているところもある点に注意すべきである。

 (33)p.118・・・戸川残花の「氏の交際せし人」以下の文章は正確に記述すべきである。 後世の研究者の誤解の元になった文章である。「氏の交際せし人、或は其門下の学生には 岩倉侯(具視でなく、具定のことである)、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之(博 之ではない)、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎(陶次郎ではない)の諸 君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和字典を著しし柴田(昌 吉)氏等のあれば美談逸事多しといえども氏の恭謙なる敢えて当年の事を語らず」。特に 秘密や世間をはばかったわけではない。

 (34)p.119・・・「長崎洋学生」や「維新前」についての厳密な議論に意味はない。(21)p.82で述べたように、広運館は慶応元年2月の時点では「洋学所」でなく、「語 学所」だった。戸川残花は総て分かって書いていたわけではないだろう。彼はフルベッ キが米欧回覧を提案したブリーフ・スケッチの存在を知らなかった。侍姿をほとんど見 ていない残花には、明治以前の写真に思えたと解釈出来る。

 (35)p.120・・・「致遠館の学生たち」と書かれても、反論しなかったのは、それが真実 だったからである。

 (36)p.122・・・「誰一人として反論しなかった」のは、p.121に上げられた人物が 「フルベッキ写真」に写っているとは戸川残花が主張していないからである。彼は人物 の特定を行っていない。勘違いすべきではない。

 (37)p.123・・・「香月経五郎」と「山中一郎」は写っている位置が、「中島永元」、「丹 羽龍之助」、「石橋重朝」、「江副廉蔵」、「大庭権之助」、「中野健明」は写っていると大正 3年刊行の「江藤南白」に明記されている。その他の歴史の中に消えて行った人物は5 0年が経過して、特定が困難になったということである。写真が高価でなく、佐賀藩士 の子孫たちに伝わっていれば、状況が変っていただろう。2008年、佐賀県立図書館 が刊行した佐賀藩の長崎における対外交渉役伊東外記(次兵衛)の日記(「佐賀県近世史 料 第5編第1巻幕末伊東次兵衛出張日記」)の明治元年10月27日の記録に「今晩か ら岩倉兄弟が致延(遠)館に寄宿することになった」と書かれている。この時、岩倉兄 弟が長崎に到着したのであり、その後に「フルベッキ写真」は撮影されたわけである。 また、それより少し前の10月8日に「中島写真館に副島要作らフルベッキ一同と出か け、写真を撮った後、藤屋で西洋料理を会食した」という記録があり、恐らく大判でな く、名刺判で撮られたであろう。この写真が現存すれば、「フルベッキ写真」解明の大き な手掛かりとなるはずだが、未だ発見されていない。私にはこちらの方が大変不思議で ある。佐賀の乱で佐賀市内一帯が焼けたこととも関係があろうか。

 (38)p.124・・・「致遠館の名前が分かっている」証拠は、「上野彦馬歴史写真集成」の巻 末にも取上げられた篠田鉱造の「明治百話」に載っているフルベッキの証言である。「長 崎の日本第一の写真師が撮った。一方は佐賀藩の侍、一方は幕府の侍」とあり、前者は 致遠館を、後者は広運館を指している。

 (39)p.130・・・「構図法」を島田氏が確かに実行したかは検証されていない。西郷隆盛 は対照写真が存在しないので、実行しても信頼性のある結論は出なかったはずであるが、それをまことしやかに説明しているのに写真の素人の歴史論文査読者が引っ掛かった。 彼の方法が真に科学的なら、その手法を山口氏自身が、対照写真の残っている人物に適 用してみせるべきである。恐らく、三者三様の結論が出るであろう。警視庁の科学研究 所は、鑑定に責任を持つべきである。鑑定が正しいのなら、46人全員に適用してみせる責任がある。

 (40)p.131・・・「①大隈侯八十五年史」には「フルベッキ写真」は登場しない。「開国 五十年史」の間違いである。「②江藤南白」は大正3年刊行である。「致遠館の教師とそ の門弟、明治初年記念撮影・・・・・」はちゃんと記述すべきである。「慶應年間長崎に 設立したる佐賀藩英語学校致遠館の教師及び其の門弟等が明治初年に於ける記念の撮影 中段の中央に在るは教師フルベッキ(米人)にして左側の少年は其長男右側は公爵岩倉 具定なり向って右より上段の第五に立てるは香月経五郎之に隣りして其六に在るは山中 一郎なり中島永元、丹羽龍之助、石橋重朝、江副廉造、大庭権之助、中野健明等亦此中 に在り」。江藤新平と大隈重信の名前は何処にも入っていない。江藤や大隈の存在を隠し たいのなら、写真自体載せなければよいのである。「フルベッキ写真」には真に彼ら二人 は写っていないのである。情報操作すべきではない。「江藤南白」には「フルベッキ写真」 以外に佐賀藩士の集合写真が数枚挿入されており、同定の参照写真として極めて貴重で ある。

 (41)p.134・・・「Verbeck of Japan」には致遠館の「フルベッキ写真」は掲載されてい ない。「広運館の写真」が、「フルベッキ写真」についての記述の近くに挿入されている。 グリフィスの日記によれば、フルベッキの息子のウィリアムは「Verbeck of Japan」出 版前にグリフィスと原稿の読み合わせを行っており、その際に「広運館の写真」をグリ フィスに貸したが、返却された。「Verbeck of Japan」に使われた写真のほとんどはラト ガース大学のグリフィス・コレクションに保管されているが、これらの二つの写真は現 存しない。

 (42)p.135・・・「大隈侯」が写っているとしたのはグリフィスの勘違いである。大隈と の面識はほとんどなかった。産能大の「フルベッキ写真」を拡大すれば、大隈とされる 人物の額に凹凸が見られるが、真の大隈重信にそのようなものがあったことはない。島 田氏は江副家の解像度の低い複写写真を基に同定を行っており、信頼性に大いに疑問が ある。

 (43)p.136・・・「江副暢子女史の手紙」が本物であるかどうかについて、論文では保証されていない。女史の筆跡を鑑定出来る、肝心な証言の部分を写真に撮って論文に掲載していれば、こんな疑念は生まれないが、そんなことは出来なかったのだろう。島田氏のでっち上げでないと言えるか。女史の記憶違いも含まれているであろう。大隈重信の最初の妻美登は江副廉蔵の姉であり、関係が深かったので、大隈が写っていれば、どの位置にいるかはっきり示せたのではないか。そうではなかった。

 (44)p.159・・・「集合場所は秘密が漏れずに安全な場所」というが、「フルベッキ写真」 のスタジオは日常的に使われて来た。

 (45)p.160・・・「中村先生の資料」が中村保志孝氏自身に渡ったのが、いつなのか、説 明してもらいたい。全員の名前と、撮影時期を明記したのは誰なのか。中村保志孝氏の 資料を基にして「日本の夜明け」を書いたなら、山口氏はそれらを明らかにすべきであ る。

 (46)p.160・・・「顕著な疑問点」についての反証は、前述までに既に論じて来たので繰 り返さない。

 (47)p.187・・・「西郷隆盛は太宰府で五卿と会談した」なら、なぜ、三条実美は長崎の 秘密会合に加わらなかったのか。岩倉具視が「フルベッキ写真」に写っているなら、三 条もいたはずではなかったか。

 (48)p.187・・・「西郷隆盛の空白期間2月14日から3月4日」に誰が何処にいたか、 もっと徹底的に調査すべきである。そうすれば、歴史の記録を改竄しなければ、辻褄が 合わない人物が大量に出て来るであろう。この空白期間を西暦で考えると、薩摩藩の密 航留学生は1865年2月15日から4月17日まで、鹿児島羽島に潜伏していた。残 っている記録(「森有礼全集」には密航の詳細な記録が収められている)は捏造されたも のなのか。「大久保利通日記」によると、大久保利通と吉井友実は1865年2月23日 (慶応元年1月28日)に博多に着き、27日に博多から西郷隆盛に手紙を出し、3月 4日に京都に着いた。一方、空白期間を和暦で考えても、薩摩藩留学生は長崎に行って いない。大久保利通は慶応元年2月から3月は京都におり、京都を発ったのは3月22 日(西暦4月17日)であり、鹿児島に4月3日(西暦4月27日)に着いた。坂本龍 馬と中岡慎太郎は京都にいて、2月22日(西暦3月19日)に大久保利通と会ってい る。小松帯刀はこの年4月まで京都二本松の私邸におり、鹿児島へ帰るのは4月後半で ある。後藤象二郎も慶応元年には鹿児島におり、長崎滞在の記録は存在しない。みんな で情報を持ち寄れば、如何に空白期間に意味のないことなのかよく分かるのではないか。

 (49)p.222・・・「人物の断定」の作業は放棄されている。杜撰な研究である。「本物」 といっても、所謂有名人が写っている写真と同じ顔が「フルベッキ写真」に写っている かどうかは別である。その判断の材料はまったく提供されていない。偽説に上げられた 有名人の内で、実際に幕末期に上野写真館で写真を撮り、名刺替りに配っていた藩士た ちは、伊藤博文、大隈重信、木戸孝允、後藤象二郎、坂本龍馬、副島種臣、高杉晋作、 中野健明、陸奥宗光、横井左平太・大平兄弟とかなりいる。萩原延壽「陸奥宗光」には、 陸奥宗光の遺族が持っていた慶応元年当時の狭いスタジオで写る陸奥宗光と横井左平太 ・大平兄弟らの集合写真が掲載されている。しかし、それ以外の人物も同時期に長崎に いたことが偽説では想定されているのに、写真が残っていないのはどうしたことか。こ のことは長崎に行っていないことを示すのではないのか。振り返って致遠館で学んだ佐 賀藩士たちの写真も現存するものは少なく、先に上げた「江藤南白」の口絵に数枚見る のみである。そうしたことから、佐賀藩士たちの人物像を現代の我々はほとんど知るこ とが出来ない。それをもって、佐賀藩士ではないと決め付けることは出来ないのである。 山口氏がやらない以上、ブログの読者にこちらから情報を提供するしかないと思い、主 な人物の参照写真の出所を以下に上げることにする。人間の顔は年齢と共に変化し、髭 や髪形でも印象が変る。出来るだけ慶応元年に近い年代に撮影された写真を集める必要 があるが、日本で写真撮影が始まって数年しか経っていない時期の写真はほとんど現存 しない。島田氏らは不完全な写真を基に同定を行ったはずで、同定というよりも、似通 っている人物の当て嵌めを行ったに過ぎない。それを実証するためにも、読者の方々も 同定作業を試みてほしい。

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フルベッキ写真に写る人物

 (50)p.224・・・「フルベッキ」:「フルベッキ書簡集」、「図説 日本医療文化史」、「明治 の若き群像」。

 (51)p.226・・・「ウィリアム・フルベッキ」:「明治の若き群像」中のフルベッキの家族 写真に次女エマと並んで写っているが、二人はよく似ている。小さい頃の写真は男女の 区別がつかなかっただろう。

 (52)p.227・・・「石橋重朝」:「佐賀 幕末明治500人」。

 (53)p.228・・・「伊藤博文」:「伊藤博文傳」、「幕末明治の肖像写真」、「伊藤公実録」、 「写された幕末3」。大正2年刊行の「歴史写真」には明治元年神戸で撮影の鮮明な伊藤 の写真が掲載されている。

 (54)p.230・・・「井上馨」:「世外井上公傳」、「幕末明治の肖像写真」。

 (55)p.231・・・「岩倉具視」:「幕末明治の肖像写真」。彼の公家の結髪姿は日本カメラ 博物館刊行「よみがえる幕末・明治 写真で楽しむ ときの流れ」の裏表紙に掲載され ている。彼は明治4年、米欧回覧でアメリカに行くまで、髪を伸ばすことはなかった。

 (56)p.233・・・「岩倉具定」と「岩倉具経」の留学は当時の「Japan Weekly Mail」な どで調べがついている。明治3年2月22日にAmerica号でサンフランシスコに向け出 航した。1月にアメリカに向けて出発した船はない。岩倉兄弟の写真は岩倉具忠「岩倉 具視-国家と家族-」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」を 参照。

 (57)p.234・・・「岩倉具綱」:「雑誌 太陽 明治30年2月号880ページ」。彼の写 真はほとんど知られていない。

 (58)p.237・・・「大室寅之佑(祐)」の名前が「フルベッキ写真」に登場するのは、近年になってからである。島田氏は関係していない。平成14年ごろからではないか。明治天皇すり替え説を補強するためにでっち上げられた人物である。写真など存在しない。

 (59)p.238・・・「江副廉蔵」:「佐賀 幕末明治500人」、「大隈重信と江副廉蔵」。彼が慶応元年から長崎に留学していた記録はない。「佐賀県教育委員五十年史」によると、致遠館の前身蕃学所設立当時の人物は、大隈重信、副島種臣、小出千之助、石丸安世、中牟田倉之助、馬渡八郎、中野健明、副島要作、中島永元、堤喜六、中山九郎、相良知安、綾部新五郎、本野周蔵、山口尚芳らである。江副廉蔵は慶応3年12月12日に致遠館伝習生として登録されている。ここでは、江副家からいただいた青年期の写真を掲載する。

 (60)p.239・・・「江藤新平」:「江藤南白」、「幕末明治の肖像写真」。

 (61)p.240・・・「大木喬任」:「日本人物百年史」、「近世名士写真」、「幕末明治の肖像写真」。

 (62)p.242・・・「大久保利通」:「日本人物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。

 (63)p.244・・・「大隈重信」:「実業之日本 大隈侯哀悼号 大正11年2月」、「日本人 物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。彼の最もよく知られている肖像写真は明治5年12 月にウィーン万博に出品するために横山松三郎によって撮影されたものである。「東京国 立博物館所蔵 幕末明治期写真資料目録」参照。彼は明治元年10月から11月にかけ て長崎にいたことが「大隈重信関係文書」の中の大隈の手紙で知れるので、「フルベッキ 写真」が真に撮影された明治元年10月後半には長崎にいて、撮影に参加した可能性は 否定出来ない。しかし、(42)p.135で述べたように、大隈の顔とは一致しない。 この「フルベッキ写真」の人物を「写真の開祖 上野彦馬」のp.55に写る人物と比 較してほしい。皆さんにはどのように見えますか。「日本のフルベッキ」のグリフィスは 「フルベッキ写真」に大隈が写っていると書いているが、彼が大隈と会ったのは187 1年1月以外に知られていない。グリフィスの来日当時の日記に大隈は登場しないし、 「大隈重信関係文書」や「グリフィス・コレクション」には彼らがやり取りした手紙は 残っていない。グリフィスが大隈について研究するようになったのは、1900年に「日 本のフルベッキ」を刊行したのが切っ掛けである。物事の順序を間違えてはいけない。 内海孝「大隈重信とW・E・グリフィス(「大隈重信とその時代」)を参照のこと。後年 の大隈の顔しか知らなかったことは十分考えられる。彼が正しいとすると、「フルベッキ 写真」には柳屋謙太郎が写っていなければならない。柳屋は何処にいるのか。

 (64)p.245・・・「大村益次郎」の写真は現存しない。

 (65)p.247・・・「岡本健三郎」:「幕末・明治美人帖」

 (66)p.248・・・「勝海舟」:「勝海舟」、「幕末明治の肖像写真」。

 (67)p.249・・・「香月経五郎」は「本物」として、写っている位置が同定されている数 少ない人物で、「江藤南白」に掲載の「フルベッキ写真」の説明の中に明確な記述がある。 (40)p.131の項を参照してほしい。この本には、他のページに佐賀藩士たちの 写真が何枚も掲載されており、「フルベッキ写真」との照合の格好の参照写真である。試 みられたい。

 (68)p.250・・・「木戸孝允」:「幕末明治の肖像写真」。

 (69)p.252・・・「日下部太郎」は慶応元年9月に長崎に留学した。福井県立図書館に記 録が残っている。3月には長崎にいなかった。彼の顔写真はほとんど知られていない。 1982年と近年刊行の「よみがえる心のかけ橋:日下部太郎/W.E.グリフィス」 以外は、ラトガース大学所蔵のグリフィス・コレクションに留学中の写真を見出すのみ である。どうやって同定したのか。単に当て嵌めただけだろう。

 (70)p.253・・・「黒田清隆」:「幕末明治の肖像写真」。

 (71)p.255・・・「五代友厚」:「幕末明治の肖像写真」。偽説を信奉する人たちは常に強 弁しているが、本当は山中一郎であり、(67)p.249でも述べたように「江藤南白」 に位置も明記されている。それを認めないなら、「香月」も削除されるべきだが、辻褄合 わせのため、どうしても「五代」を加えたいのであろう。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (72)p.256・・・「後藤象二郎」:「上野彦馬歴史写真集成」、「伯爵後藤象二郎」。

 (73)p.258・・・「小松帯刀」:「近世名士写真」。

 (74)p.260・・・「西郷隆盛」の写真は現存しない。どんなにそれらしい写真や肖像画を 持って来ても照合は意味がない。似顔絵で指名手配の犯人を逮捕するようなものである。同定はあくまでも、本人の写真と確認出来ているものを用いて行われなければならない。

 (75)p.262・・・「西郷従道」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「元帥西郷 従道伝」。

 (76)p.263・・・「坂本龍馬」:「クロニクル 坂本龍馬の33年」、「上野彦馬歴史写真集 成」。

 (77)p.264・・・「鮫島誠蔵」:「日本名家肖像事典」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アル バム」。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (78)p.266・・・「品川弥二郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名 士写真」。

 (79)p.267・・・「副島種臣」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「蒼海遺稿」、 「副島種臣全集」。慶応元年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮られた写真が「鍋島直正公伝」 に掲載されている。副島は明治天皇が洋髪になる明治5年まで丁髷をけっしてやめよう とはしなかった。

 (80)p.268・・・「高杉晋作」:「東行:高杉晋作」、「伊藤博文傳」。

 (81)p.269・・・「寺島宗則(松木弘安)」:「写真集 甦る幕末」、「幕末明治の肖像写真」。     慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (82)p.271・・・「中岡慎太郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「勝海舟」。

 (83)p.272・・・「中島信行」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士 写真」。

 (84)p.273・・・「中村宗見」:「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」。慶応元年薩摩 藩の密航留学生。

 (85)p.274・・・「中野健明」:「佐賀 幕末明治500人」。森重和雄氏の指摘によれば、 明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家 寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の 前に坐る人物、つまり「岩倉具視」の本当の姿の可能性がある。

 (86)p.276・・・「広沢真臣」:「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレ クション」。

 (87)p.277・・・「別府晋介」:「西郷隆盛」。

 (88)p.278・・・「陸奥宗光」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、萩原延壽 「陸奥宗光」。彼が中島信行、横井左平太・大平兄弟らと長崎に行ったのは慶応元年3月 18日、神戸の海軍操練所の閉鎖が決定した後である。陸奥は面長で知られていた。

 (89)p.280・・・「村田新八」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」。

 (90)p.281・・・「森有礼」:「森有礼全集」。これには森の若い頃の写真や両親の写真が あり、森の顔の特徴が遺伝によることがよく分かる。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (91)p.282・・・「横井小楠」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「横井小楠 傳」、「勝海舟」。

 (92)p.284・・・兄「横井左平太」と弟「横井大平」が米国に発ったのは慶応2年4月 28日である。西暦と和暦の混同がある。陸奥宗光らと上野写真館で撮った集合写真が 萩原延壽「陸奥宗光」にある。ここではラトガース大学留学中の写真をグリフィス・コ レクションから示す。

 (93)p.286・・・「吉井友実」:「北海道大学 北方資料室 明治大正期北海道写真目録」。 吉井の写真も非常に少ない。

 以上のように参考として上げた文献から抽出した参照写真を使って、偽説に名前が上っている人物について画像工学的な評価を少しずつ進めている。顔の何処の部分が一致して、何処が違うかを感覚でなく、画像認証の立場で見極める作業は容易でなく、感性に頼った同定作業に陥らないように古写真から人物同定するには何が必要かを検討している。いつか、まとめて報告したいと思っている。一般受けのするキャッチフレーズに惑わされずに、一つ一つの事実の記録を確証していくのが、本当の歴史の探求である。古写真(歴史写真)の分野でも同じことをやらなければならないことを理解していただきたい。何度も言うようだが、無名の佐賀藩士たちにも規模の大小はあれ、時代の変革期に生きたロマンがあったはずである。それを掘り起こすことにご協力いただける方が出て来ることを期待している。島田氏は西郷隆盛への思い入れが嵩じて偽説を創造した。「幕末維新の暗号」の加治将一氏はフリーメーソンへの幻想を脚色するために「フルベッキ写真」を利用した。偽説の総集編を書いたが、何を主張したいのか分からないいい加減な本だった。山口氏は大変革時代の日本の若者へのメッセージを形にしたかったかもしれないが、方法が間違っている。正しいことを論じるには正しいことの積重ねが必要であることを真摯に受け止めて間違いを訂正してほしいと思う。

(平成21年4月1日)

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2008年12月 1日 (月)

朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価

朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価

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※ 本論文に挿入した写真は、『甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社刊)よりスキャンしたものです

 

慶應義塾大学 高橋信一

 1986年から1987年にかけて、朝日新聞社が主催するオランダ国内各地に所蔵されている日本の幕末から明治にかけて撮影された多数の写真の展示会が全国各地で開催された。それらの写真を編集した写真集は最終的に1987年朝日新聞社版「写真集 甦る幕末」(1)に結実し、古写真の歴史資料としての価値を一般に知らしめる役割を担った。その展示会開催の経緯は巻末の解説と、その後に編集者によって刊行された二冊の本(2、3)に明らかにされている。この「写真集 甦る幕末」は、現在も古写真研究のバイブル的な資料となっているが、発表から20年以上が経過しており、出版当時の古写真に関する知識をこれまでの様々な研究成果を利用して更新する時期に来ているのではないかと考え、掲載写真に付されている説明の見直しを試みた。2007年秋に長崎大学はオランダのボードイン家から4冊の写真アルバムを購入し、2008年10月に長崎歴史文化博物館で「長崎大学所蔵ボードインコレクション展」を開催した。さらに、Web(4)上での公開を開始した。これを機会に「写真集 甦る幕末」のベースにもなっているオランダ・ライデン大学のボードイン・コレクションを始め、各種の写真の内容を一度整理し、理解し直すことは意義あることと考えたからである。
 「写真集 甦る幕末」に3つの異なるバージョンがあり、上記の最終版以外に1986年朝日新聞社刊の「甦る幕末」(5)と、それをベースにした1987年のライデン大学版「甦る幕末」(6)がある。その他に、1996年にライデン大学・アムステルダム海事博物館・ハーグ国立公文書館などから、オランダ国内の古写真を集めたCD版の「Memories of Japan(日本の想い出)1859-1875」(7)が出されている。これには所蔵元や撮影者、撮影対象など毎にソートを掛ける機能があり、ほとんどの写真の所蔵元や撮影者などの情報を知ることができる。中でもボードイン・コレクションにはアルバム毎の分類分けがなされている。そのコレクションには3つの大きなアルバムがあり、ベアトの「Views of Japan」や「Views in Japan」アルバム(8)掲載の写真やボードイン兄弟たち自身や上野彦馬が撮影した写真が混ざっているB1、B2、B3アルバム。その他に小さいアルバムが数冊あり、和紙で作られた手製のBDアルバムや350枚余りの1870年以降、A.J.ボードイン(Albertus Johannes Bauduin)の帰国後に収集されたと思われるBAアルバムなどがある。今回長崎大学の購入したアルバムは、この内のB1、B2、B3とBAのアルバムであり、CD版「日本の想い出」にも既に収録されている。その他のボードイン・コレクションはライデン大学が所蔵している。
 これらの資料を基に、オランダ貿易会社の日本駐在員であり、オランダ駐日領事だったA.J.ボードインの書簡集「オランダ領事の幕末維新」(9)やオランダ領事ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)の「ポルスブルック日本報告」(10)、長崎精得館オランダ人化学教師グラタマ(Koenraad Wolter Gratama)の「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(11)、そして2001年にオランダで出版されたボードイン写真集「Arts en koopman in japan(幕末のオランダ人兄弟 医師と商人)」(12)、ポルスブルック・コレクションを収蔵するアムステルダム海事博物館(13)のデータベースなどを参考にして、1987年朝日新聞版「写真集 甦る幕末」掲載の写真の所蔵元調査と説明文の再検討を行った。残念ながら、450件の写真の内、数件の身元は判明していない。表1に写真のタイトル・所蔵元コレクション名・撮影者を調べた結果をまとめた。1/3近くはボードイン兄弟以外、かなりポルスブルックの収集になることが分かる。Bは長崎大学所蔵のボードイン・コレクションを含むライデン大学のボードイン・コレクション全体。その内B1、B2、B3、BA、BDはCD版「日本の想い出」に使われているライデン大学のアルバムの分類記号である。先に述べたようにB1、B2、B3、BAのアルバムは現在長崎大学所蔵のものだが、ライデン大学の分類番号をそのまま使用した。Pはアムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクション。Gはオランダ民族学博物館のグラタマ・コレクション。Lはライデン大学のボードイン以外のコレクション。Hはハーグ国立公文書館のコレクションである。括弧付きで示した(B)はベアト(Felice Beato)の撮影。(H)は上野彦馬、(R)はロシエ(Pierre Joseph Rossier)、(AJ)はA.J.ボードイン、(U)は内田九一、(S)は下岡蓮杖、(Sa)はサンダース(William Saunders)、(Su)はサットン(F.W.Sutton)、(W)はウィルソン(John Wilson)、(I)は市田左右太の撮影である。撮影者の判定は、上記の参考資料や先輩諸氏の意見を参考に筆者の判断で行った。(AJ)とした写真については本文の中で根拠を説明する。その他のベアト以外の撮影者に関しての検討は進んでいない。かなりベアトのものが含まれているが、今後の課題である。また、ボードインとポルスブルックのコレクションの間で、かなりの所蔵の重複があることが分かる。ベアトの写真が相当数流布していたことを示している。
 先ず、「写真集 甦る幕末」と上野彦馬との繋がりを見つけるために、2007年の「上野彦馬賞」展示会の際に尼崎総合文化センターが出版した「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(14)(以後、「江崎べっ甲店アルバム」と呼ぶ)と比較した。これは、長崎の江崎べっ甲店が所蔵するもので、元々上野彦馬写真館が作製した写真アルバムであり、文久2年開業当時から慶応2年暮れごろまでに撮影された写真が収められている。両者を比較すると、「写真集 甦る幕末」の写真No.125は「べっ甲店No.39」と同じ。No.160は「べっ甲店No.44」と同じときに撮影された別バージョンである。小舟の影が水面に

No.160 

160
160 長崎・大浦川

投影しているが、角度が変わっていることを堺屋修一氏からご指摘いただいた。No.148は「べっ甲店No.42」に釣り人を加えて撮った同じ場面の写真である。No.126は「べっ甲店No.38」と同じではないが、ほとんど場所が一致する。東京国立博物館所蔵の上野彦馬によるウィーン万博出品アルバム「長崎市郷之撮影」(15)中の明治5年までに撮影の写真「長崎港 第二」と位置・構図が同じだが、それより、後年のものと思われる。No.143は「べっ甲店No.36」と近い別の日に撮ったものと思われる。何れにしろ、これらは上野彦馬が撮った写真と考えてよい。その他にも上野彦馬撮影のものがあり、後述する。上野彦馬撮影の写真はボードイン・コレクションには少ないが、グラタマは上野彦馬写真館で写真を買っていたのではないかと考えられる。

写真No.241、242

241
241 オランダ総領事ポルスブルック

 ここからは、ライデン大学所蔵のボードイン・コレクション解明のために人物写真 の再検討を始める。これらのポルスブルック所蔵の写真の内、前者はボードイン・コ レクション中にオランダ医師A.F.ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin)撮影と されている。長崎出島の旧オランダ領事館の書斎で撮影された可能性があり、次の項 で論じる本質的な問題に係わるが、筆者はA.J.ボードインの撮影だと考える。後者は ポルスブルック・コレクション中にベアト撮影とされるものである。写真No.30 3の項で中原猶介に関連して、また触れるが、名刺判で江戸のオランダ領事館でベア トによって撮影されたと考える。

No.259 

259_2
259 ボードイン兄弟のステレオ写真

 このステレオ写真のような写真について考える前に、書簡集「オランダ領事の幕末 維新」(16)を基にボードイン兄弟の来日後の行動について整理しておきたい。末弟の A.J.ボードインは1855~1859年までバタヴィアのオランダ貿易会社の東イン ド支社で働いた後、1859年4月3日にオランダ貿易会社の日本支社員として長崎 に到着し、出島に住む。同8月4日の家族に宛てた手紙で「ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)が写真に凝っているので、自分の写真を頼んだ」 と書いて、1860年3月の手紙ではその写真を本国に送っている。1862年10 月28日に次兄で医師のA.F.ボードインが長崎に到着、A.J.ボードインとは別に住居 を構える。この間にA.J. ボードインはポンペに感化されて写真術を覚えたと推測され、 撮った自分の写真を家族に送っている。1863年3月24日の手紙で、ステレオ写 真のようにして兄弟の写る2枚の写真を(A.J.ボードインが)撮って同封した。これが、 写真No.259である。A.J.ボードインは1863年8月にオランダ領事に任命さ れ、旧領事館に住むことになる。1864年にはA.F.ボードインもしょっちゅうこの 家で寝泊りしていたようである。1865年1月にA.J.ボードインはこの家を買い取 り、その6月に自分で自宅の写真を撮り、よく撮れたと本国に送った。つまり、この ころまでにA.J.ボードインは日常的に自前で写真を撮っていたと言えるのである。一 方、1865年10月のA.J.ボードインの手紙で「A.F.ボードインも時々写真を撮っ ている」と言っているので、A.F.ボードインが写真を撮るようになったのはこのころ と考える。全てがA.F.ボードイン撮影の写真であるという考えは修正されるべきであ ろう。現存する写真がどちらの撮影になるものかについては後に論じる。

262
262 ボードイン兄弟と友人たち

さらに、写場は1864年以前とそれ以降で変化することに注意する必要がある。即ち、写真No.258、259、262、267、287、301、302、303、304は最初のA.J.ボードインの住居で、写真No.241、254、255、257、260、263、264、274、277、286,288、290、298、299は旧領事館で撮影されたと思われるが、今後の検討により変更しなければならなくなる場合もあり得る。特に中庭での撮影に関しては判定が困難である。尚、1987年に長崎市が編纂した「出島図:その景観と変遷」(17)の「研究篇 第3章」の中村 賢「開国後の出島」にある「1860-1870年の出島借地人表」によれば、A.J.ボードインは1865年に旧オランダ領事館を買い取った時点で、最初の住居は引き 払い、領事館の住居は大阪に移ってから、一時帰国・再来日した1870年の時点で も所有していたことが分かる。1874年に帰国する前に長崎へ行って処分したと考 えられる。

No.277

277
277 オランダ医師ポンペ

 このポンペの写真は上野彦馬が撮ったと推定されているが、ポンペが在日していた 1862年の時点で、文久2年(1862年)秋に開業(18)した上野彦馬がこのよう な写真を撮れるはずはない。松本良順や緒方惟準ら養生所の医学生と撮ったポンペの 集合写真(19)(日本医事新報No.1739号「ポンペ先生とその弟子」)と比較すると、服 装が同じなので、同時期に同じ場所で撮影されたものと考えられる。

Photo
ポンペを囲む養生所の医学生たち(「日本医事新報No.1739 号」

A.J.ボードイン がポンペの自宅か、旧オランダ領事館で撮ったのであろう。A.F.ボードインでは有り 得ない。ポンペは1862年10月15日で全ての講義を終了し(「ポンペ日本滞在見 聞記」(20)、A.F.ボードインが来日した4日後の11月1日に離日している。仕事の引 継ぎで、それどころではなかった。おそらく、それより遥か以前にA.J.ボードインに よって撮られたものであろう。CD版「日本の想い出」(21)には全1188枚の内に7 16枚のボードイン・コレクションが納められているが、撮影者の名前にA.F.ボード インはあっても、A.J.ボードインの名前がないのは、甚だ疑問である。尚、ポンペが 離日した翌日、養生所(後の精得館)の伊東方成と林研海が、榎本武揚・赤松則良ら 7人と伴に第1回幕府派遣オランダ留学生として長崎から出発している(22)(「赤松則 良半世談:幕末オランダ留学の記録」及び村上一郎「蘭医佐藤泰然その生涯とその一 族門流」)(23)。これには9人の集合写真が載っている。一説にはポンペといっしょの 船で渡蘭したとされているが、明らかな間違いである。

No.256 

256
256 大坂のA.F.ボードイン医師

 CD版「日本の想い出」(24)によれば、この写真の裏面に漢字で「中川信輔、写真師、 長崎、北詰」と書いてあるので、大坂心斎橋北詰の中川信輔が撮影したものと思われ る。グラタマの「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(25)にも、1869年6月10 日の大阪医学校「舎密局」開校式のA.F.ボードインらとの集合写真が載っているが、 その時のA.F.ボードインの服装はこの写真No.256と同じなので、集合写真も中 川信輔によって大阪で撮影されたと考えてよい。中川信輔は長崎の上野彦馬に学んだ 横田朴斎の弟子である(26)。

No.257 

257
257 ボードイン兄弟とその友人

 ボードイン三兄弟となっているが、根拠は明らかではない。この写真の写場はA.J. ボードインが1865年1月に購入し(27)、1867年末まで住んでいた旧オランダ 領事館(1863年に横浜に移転した)内に作られたものである。「写真集 甦る幕末」 ではA.F.とA.J.ボードイン以外に四男のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)が写っているとなっている。また、「オランダ領事の幕末維新」(28)では翻訳 者によって甥のフランス・デ・ライテル(Frans de Ruiter)とされているが、これらに は疑問がある。ドミニクスについては写真No.266で論じる。アムステルダム海 事博物館のデータベースで見ると、この写真の台紙にはA.J.とA.F.ボードインのとこ ろに名前が入れられているが、三人目には名前がない。ポルスブルックも確認出来な い人物であり、親族ではなかったのだろう。ドミニクスやライテルは1869年に別々 に初めて日本にやって来る(29)。A.F.ボードインは1867年4月末に江戸へ行き、 以降帰国まで長崎には行っていない。A.J.ボードインも1868年始めには神戸に住 んでいる。関係者のみの当て嵌めの一種である。この写真は1868年までのもので ある。

No.258 

258
258 オランダ領事A.J.ボードイン

 このA.J.ボードインの写真と写真No.303の項で詳しく検討する中原猶介の写 真は同じ草木の背景の下で撮影されている。それぞれ別々のB2とB3のボードイン・ アルバムにあるものだが、同じ1863年の夏に同じ場所で撮られたと思われる。ま た、CD版「日本の想い出」(30)によれば、No.254のA.F.ボードインの写真も写 真No.258といっしょにB2アルバムの同じページに貼られているので、同じ頃に 撮影されたと結論できる。このように見て行けば、各アルバムの成立過程が解明でき るのではないかと思う。

No.266 

266
266 ボードイン三兄弟

 この写真は1870年に大阪の大福寺でA.F.およびA.J.ボードインとドミニクスが 3人で再会して撮ったものと考えられる。「オランダ領事の幕末維新」(31)に三人の再 会について書かれている。写真中にはエリメリンス(C.J.Ermerins)と緒方惟準も写っ ている。エリメリンスは写真No.272で確認できる。石黒忠悳の「石黒忠悳 懐 旧九十年」(32)には三兄弟が同じ場所で写っている写真がある。三人目はエリメリンス だと書かれているが、間違いである。二つの写真の撮影者は大阪の写真家だと思われ る。確定できないが、存在するはずのA.F.とA.J.ボードインの両方のアルバムにある べき写真である。実際はA.J.ボードインが本国に送った写真を集めたと思われるBDア ルバムにのみ入っている。

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ボードイン医師とドムスおよび緒方惟準(「石黒忠悳 懐旧九十年」)

No.268 

268
268 A.F.ボードイン医師の小石川園送別会

 上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードイン に3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20 日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月 にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏 10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影され た。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写 真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。

No.273 

273
273 グラタマ医師と生徒

 このグラタマの写真は上野彦馬の撮影ではなく、写真No.274と同じ1866 年来日当初から住んでいた、A.J.ボードインの写場で撮られたものである。グラタマ は帰国後は写真の撮影を覚えた(34)が、日本では専ら人に撮ってもらっている。

No.274 

274
274 A.F.ボードイン医師とグラタマ

 このA.F.ボードインとグラタマの写真は1866年4月16日にグラタマが来日し て旧オランダ領事館に住んでいたころのものと考えられる。その年の暮に江戸に招聘 され、翌年2月には長崎を離れた(35)。

No.275、276

276
276 ベウケマ=ツワーテル夫妻

 これらは、1874年にA.J.ボードインによって撮影されたと考えるのが妥当であ る。撮影当時、A.F.ボードインは日本にいなかった。「オランダ領事の幕末維新」(36) に何回も出て来るが、この年の2月に結婚したバウケマ=ツワーテル(Tj.W.Beukema、 Mevr.I.C.Beukema-Toewater)夫妻は恋人同士のころからのA.J.ボードインの友人であ った。この写真が入っているBDアルバムはA.J.ボードインのアルバムと考えられる。 「写真集 甦る幕末」中には65枚以上のBDアルバム所載の写真が掲載されている。 しかし、アルバム中の写真の貼り方には疑問がある。CD版「日本の想い出」(37)によ れば、BDアルバムには260枚の写真が収められているが、その整理番号は何の脈絡 もなく振られているように見える。場所や撮影時期に無関係である。これは整理番号 がアルバム中の写真の順番に従って付けられたからである。二枚のバウケマ夫妻の写 真No.275と276は別の場所に貼られていた。恐らく、A.J.ボードインから家 族宛てに送られた写真を、彼らの遺族が内容を吟味できずに集めてアルバム化したと 考えられる。そのために、写真の前後関係が失われた。写真の内容は多岐に渡ってお り、BDアルバムの再構成を極めて困難にしている。

No.291 

291
291 オランダ領事A.J.ボードイン

 これは写真No.264から明らかにA.J.ボードインである。服装・帽子が同じで、 坊主頭が隠れている。彼の最初の家の中庭で撮られたものであろう。

No.292 

292
292 中国人召使い

 この中国人召使いの写真の椅子は写真No.308の椅子に近く、上野彦馬の文久 年間に使われていた椅子とも違う。堺屋修一氏は坐るところの構造や横木の位置関係 を計算して、上野彦馬の写真館と判定されている。耳や唇の形、足のポーズの形が似 ているので、写真No.293と同じ男の子であり、ポルスブルック・コレクション にあったことから、彼の召使いだと判定する。

No.293 

293
293 中国人召使い

 この写真はNo.176から179までの写真と同じ高輪・長応寺で撮影されてい る。ポルスブルックが宿舎にしていた。彼の召使いかもしれない。

179
179 オランダ公使館・高輪長応寺

No.296、297

297
297 徳川慶喜

 これらの写真は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」(38)で解明されているよ うに、慶応3年3月27日に大阪でイギリス公使パークスが徳川慶喜に謁見した際に 同行のサーペント号の技師長F.W.サットンが撮影したものをベアトが複製・販売して 広まったものである。他に写真No.225と226のパークス襲撃事件の犯人三枝 と林田の写真や写真No.390と391のアイヌの写真もサットン撮影である。

No.298、299

299
299 長崎奉行とその家来

 これらの写真はポルスブルック・コレクションにあるものだが、後者はボードイン・ コレクションのBDアルバムにも入っている。A.J.ボードインの1862年11月15 日の手紙(39)に、「近々新任の長崎奉行大久保豊後守忠恕が病院(養生所)を見学に来 訪する」と書かれているので、その際の記念に撮ったものの可能性がある。夫々旧領 事館の中庭とテラスの写場で撮影されたと解釈できる。

No.301、302

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301 ボードイン医師と戸塚文海

 これらの写真に写る人物が、松木弘安(寺島宗則)だと、1987年のライデン大 学版「甦る幕末」(40)と「Arts en koopman in Japan」(41)で説明され、「写真集 甦 る幕末」にも記載されているが、誤認である。1865年当時、彼は隠密行動を取て おり、3月に英国密航を敢行する準備を長崎でしていた(42,43)。グラバーとは接触 したが、ボードインとは関係していない。彼が医者の出であることと、写真No.3 32の写真と似ているために当て嵌められたものであろう。松木弘安の家紋は丸に十 の字のはずだが、そのようには見えない。この人物と同じ人物が「出島の科学」(44) に掲載された「ボードインと医学生の集合写真」の中央近くに写っている。こちらの 写真は同時に写っている人物から池田謙斎(45)が長崎・養生所に入学した1864年 初めの撮影と推測される。この写場は背景に写る建物の構造が写真No.259の立 体写真もどきを始めとする、一連のA.J.ボードイン撮影写真に使われた旧宅のテラス の構造と同じであることは明らかである。また、CD版「日本の想い出」(46)によれば、 BDアルバムの、この写真No.302には、「長崎病院の二人の主任医師」という説明 が書かれているので、松木弘安であるはずはない。真の人物は当時の養生所頭取医師 戸塚文海(静珀)である。戸塚文海の写真は鈴木要吾「蘭学全盛時代と蘭畴の生涯」(4 7)に掲載されており、酷似している。
 さらに、次の項で触れるが、写真No.303と304の中原猶介が写る写真の写 場は椅子や背景から、この写真No.301と302と同じである。中原猶介が長崎 に出張したのは下関事件や薩英戦争直前の1863年5月から9月ごろまで(「贈正五 位 中原猶介事蹟稿」(48)及び「鹿児島県史料 忠義公史料2」(49))と考えられる。 先の写真No.259の写場の推定から、「出島の科学」の写真が撮られたのが、上記 のように池田謙斎ら幕府派遣医学生8人が養生所に揃った後の1864年始めとする と、松木弘安が長崎にいるチャンスはない。彼は1862年1月からの1年間、遣欧 使節で国外におり、帰国後の薩英戦争で捕虜になった後、1864年暮れまで江戸に 潜伏していた。「写真集 甦る幕末」では写真No.301と302の説明文に186 5年撮影とされている。これは、中原猶介の写真の撮影と矛盾する。

02
元治元年のボードインと医学生(「Arts en koopman in Japan」(12)掲載)

 ところで、「出島の科学」の「集合写真」とは別のものが「Arts en koopman in Japan」 (50)に掲載されていて、下1/3くらいが焼かれて破損している。「出島の科学」に 載っている完全な写真はコレクションが異なることが分かる。脇道に逸れるが、ここ に写る人物の同定に関して、推測の現状を述べる。後列A.F.ボードインの右隣は竹内 玄庵(51)、その右は土生玄豊(「図説 日本医療文化史」(52))、後列右から二人目は 相良知安(53,54)、中列右から二番目は緒方惟準(55,56)、その左は半井澄(57)、そ の左の中央の人物は前述した戸塚文海、その左は吉雄圭斎(渋谷雅之「近世土佐の群 像(2)萩原三圭のことなど」(58))、前列吉雄の前は三崎嘯輔(59)、その右二人目は 岩佐純(60)、その右は松本銈太郎(61)、その右後方は池田謙斎(62)、その右隣りはそ の後の精得館頭取高橋正純(63)と考える。中列右端の人物は写真No.302の前列 左の人物と似ている。中央の人物が当時の養生所の頭取の戸塚文海ならば、前列右の 人物は副頭取の可能性がある。BDアルバムには、この人物の単独写真がある。その他 に1862年秋に松本良順の後を受けて頭取になった八木称平(64)や池田謙斎といっ しょに長崎入りした8人の残りの医学生、佐藤道碩・大槻玄俊(65)もいる可能性があ る。つまり、この写真は8人が長崎留学した記念に撮影されたのかもしれない。一方、 撮影時期を1864年始めとすると、橋本綱常(66)は当時長崎にいなかったので、写 っていない。実際、似た人物はいない。尚、1862年から3年にかけては養生所の 頭取は八木称平で、彼は慶応元年3月19日(鹿児島市篇「洋学者伝 郷土読本」(67)) に亡くなる以前に、鹿児島に帰って藩校の教授になっていて、1864年当時は戸塚 文海が養生所の頭取だった。その後、相良知安(68)が頭取を務める。そのように考え て来ると、写真No.301、302の写真は1864年か65年に旧オランダ領事 館の中庭で撮影された可能性がある。

No.303、304

303
303 薩摩藩士・中原猶介

 この中原猶介の写真を考える前に、石黒敬七「写された幕末」(69)にある中原猶介 の写真について考えたい。

02
旧オランダ領事館書斎の中原猶介(「贈正五位中原猶介事蹟稿」)

石黒敬章氏(70)によると、石黒敬七氏がパリで見つけたベ アトの名刺判写真アルバムの中にあったものである。ベアトが複写した可能性も指摘 された。この写真の背景には書棚が写っているが、同じ写場で撮られた別の外国人の 写真がボードイン・コレクションのB2アルバムに含まれていて、「Arts en koopman in Japan」(71)には、それが「ベアトが1863年にA.F.ボードインの書斎で撮影した」 と説明されている。しかし、1863年にベアトが長崎に行った記録(72)はない。こ の写真の人物は特定されていないが、写真No.241と242の写真と比較してポ ルスブルックではないかと考えている。また、これらの写真に写る椅子は写真No. 254のA.F.ボードインが坐る椅子と同じであることを森重和雄氏から指摘された。

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254 A.F.ボードイン医師

実は、「写された幕末」の方の中原猶介の写真を基にして画かれた日本人の肖像画が 1870年にフランスで出版されたA.アンベール(Aime Humbert)の「Le japon illustre」(73)、それの翻訳「幕末日本図絵」(74)(1969-70年出版)、「絵で見 る幕末日本」(75)(2006年新版)に載っており、「外国奉行付き通訳」と説明され ている。

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外国奉行付き通訳(「絵で見る幕末日本」)

この本に掲載されている何十枚にも及ぶ日本の版画絵は、スイスの参議院議 員のアンベールを全権とする遣日使節団が日本との修好通商条約締結のために、18 63年4月9日に長崎到着し、同27日に横浜上陸、以降1864年2月6日に江戸 のオランダ公使館(長応寺)で条約に調印して同17日に離日するまでに集めたスケ ッチ、版画、写真を基にして構成されている。しかし、全てが日本滞在中に収集され たり、図版が実際の現場を再現したものであるかどうかは検証が必要である。先の「贈 正五位 中原猶介事蹟稿」(76)によると、中原猶介は文久2年の暮れまで江戸の江川塾 にいたが、それ以降元治元年3月まで主に鹿児島、5月から8月まで長崎、京都にい たことが分かっている。その間、元治元年1月9日(1864年2月16日)に船の 買い付けの英国との交渉のために一時横浜に出張している(「薩藩海軍史 中卷」(77)) が、彼が江戸でアンベールの通訳として働くチャンスはなかった。アンベールの都合 で取り上げられたに過ぎない。
 それでも、アンベールがどのようにして、中原猶介の写真を手に入れたかを考える のは意味がある。アンベールは来日間もないベアト(78)を雇って、いっしょに江戸市 中を歩き回りながら撮影をさせているので、彼の写真を基にした版画絵が多数ある。 しかし、アンベールが滞日中にベアトからどの写真を手に入れていたかは明らかでな い。「写真集 甦る幕末」には写真No.2、3、4、5、7、8、9、10、11、 12、13、23、24、27、28、33、35、36、42、58、63、65、

No.65 

65
65 鎌倉・大仏

116、118、123、143、151、164、172、179、183、18 4、199、204、310、357、364、366、368、370、374、

No.143 

143
143 長崎・大音寺

375、376、379、382、403、425、432、447、450と18 64年の下関や1865年の長崎の写真を始めとして1868年に発売されたベアト の各種の「Views of Japan」アルバムから転用されたと思しき対応する写真が50枚 に程に及ぶ。特に、次の2枚は「幕末日本図絵」のフランス語の原本「Le japon illustre」 (神奈川大学図書館所蔵)に掲載されているが、写真No.118のベアトが上野彦 馬邸を中島川の下流側から撮影した写真が、そのまま版画絵に起こされている。また、 もう一枚、長崎大学古写真データベース(79)のNo.1297はベアトのアルバムの写真だ が、上野彦馬邸の前から下流を写した川岸に釣り人が座る写真も使われているので、 1863年より後年の写真を手に入れたことは明らかである。一部はアンベールの日 本滞在中にベアトから手に入れたとも考えてよいが、大部分は帰国後に「Le japon illustre」出版の前に雑誌「Le Tour du Monde」に1866~1869年にかけて日 本旅行記(80)を連載するに当たって「Views of Japan」等から集めたのである。尚、 「幕末日本図絵」と古写真の関係については、沓沢宣賢氏の「アンベール『幕末日本 図絵』所収の絵画と古写真との関係について」(81)(「日蘭学会会誌1998年、第 22巻第2号」)に先駆的な研究がある。

199
199 下関・前田下砲台占領

 今後はベアトと中原猶介の出会いを調べることが残されている。それについては写」真No.195の写真で再度述べる。まとめと、「写された幕末」(82)にある中原猶介の写真が撮影された場所は長崎の旧オランダ領事館の書斎だったと考えらる。撮影者はA.J.ボードインと結論する。さらに補足の情報は前述の「贈正五位 中原猶介事蹟稿」(83)及び「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」(84)の、「写された幕末」とは別バージョンの中原猶介の写真である。中原猶介はベアトに自分の写真を複写させ、焼いた写真を名刺代わりに親交のあった人たちに配っていたと考えられる。先の写真No.254の検討から写真No.303と304は、それとは別に、A.J.ボードインが旧オランダ領事館に引っ越す前の自宅の庭で撮影したと考える。撮影時期は1863年5~9月である。尚、この二つの写真の内前者はB3アル バム、後者はBDアルバムのものである。特に写真No.303は、アルバムの次のペ ージ以降にベアトから買ったいろいろな写真が貼ってあり、撮影時に日を置かずアル バムに貼られたと断定できない。1864年の鎌倉事件現場写真(No.215)や 1862年の生麦事件現場写真(No.188)が順序逆で貼られている。写真No. 303より前のページに1866年に撮ったA.F.ボードインとグラタマの写真(No. 274)がある。後年整理して貼ったと結論される。もう一つ付け加えると、この写 真No.303はグラタマ・コレクションにも入っている。彼はいつ・どこで手に入 れたのか。中原猶介は慶応2年(1866年)暮れにも長崎に出張しているので、そ の時にA.J.ボードインに紹介されたのかもしれない。

No.300、308、310、415

310
310 蘭通詞・石橋兄弟

 これらの写真は同じ写場で撮られているが、ボードインとは関係ない。ポルスブル ック・コレクションとライデン大学のボードイン以外のコレクションの両方にあった ものである。CD版「日本の想い出」(85)には1863年上野彦馬撮影となっているが、上野彦馬邸の白い飾り台とも違う。上野彦馬が文久3年にこのような写真を撮っていた形跡はない。これらの写真は前項の写真No.303、304と関連付けて考えることができる。「写真集 甦る幕末」とCD版「日本の想い出」(86)によると、写真No.310は長崎のオランダ通詞石橋兄弟の写真となっているので、それが正しいとすると、長崎での写真ということになる。それを裏付けるものとして、この写真No.310を版画絵にしたものが先のアンベールの「幕末日本図絵」(87)にある。つまり、写真No.308と310はアンベールら遣日使節団の通訳として彼らの世話をした人たちを撮ったものかもしれない。ボードイン・コレクションにはこれら4枚の写真は残っていないので、現状撮影者は特定できない。写真No.415はCD版「日本の想い出」(88)によると、「tea houseの娘」と説明されているので、出島に喫茶所があった可能性を示唆しているが、確証はない。長崎か横浜の領事館内での可能性も残されている。尚、これらの写真に写っている下部が四角で上部が丸い2種類の柱で構成される飾り台は伊藤博文や井上馨ら5人の長州藩士が密航したロンドンで1863年に撮った写真(89)にも写っており、一般的な飾り台だったようである。「下岡蓮杖写真集」(90)にもある。
 ここで、ひとつの仮説を提示する。アンベールの「幕末日本図絵」の抄訳の一つ、 東都書房刊「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(91)(講談社版「絵で見る幕末日本」 (92))にも書かれているが、1861年7月4日の江戸高輪英国公使館(東禅寺)襲 撃事件の補償の一環で建設されていた御殿山の洋式建築の英国公使館が1863年1 月31日、外国人に反発する長州の一派、高杉晋作、伊藤博文、井上馨らにより放火 され、焼失した。この英国公使館焼き打ち事件(93)を受けて各国公使館は横浜に居を 移し始める。1862年9月8日来日したアーネスト・サトウ(Earnest Satow)は12 月3日に建設中の御殿山英国公使館を視察した。「すこし離れて眺めると、二棟に見え る壮大なもので、部屋の高さや広さは雄大。床は漆が塗られ、壁と天井はきれいな壁 紙が張られている」と日記(「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」)(94)に書き、落成 間近だったことが知れる。焼き打ちの顛末は伊藤博文(95)や井上馨(96)の伝記に詳し い。写真No.300などの写真は、この洋館において撮影されたのではないか。使 用されたのが、完成前後の極めて短期間だったことから、その後の写真がまったく存 在しないことになった。とすると、撮影者はベアトやウィルソン、ロシエでもなく、 ソンダースの可能性がある。上海の英国人写真家ソンダース(William Saunders)は1 862年8月から3ヶ月間日本に滞在(97)し、横浜・江戸で撮影、パノラマ写真など を残した。時期的には附合するが、謎は依然として残る。

No.311 

311
311 長崎・精得館と生徒たち

 この写真に写っているのは洋学塾でなく、2003年にライデン大学に赴いた本馬 貞夫氏(前長崎県立長崎図書館副館長)らによって慶応年間の養生所(精得館)の病 棟と冠木門、そこで学ぶ医学生たちであることが判明した。A.J.ボードインの撮影の 可能性がある。病棟と冠木門は長与専斎の「松香遺稿」(98)に掲載されている写真で確 認できる。

No.312~354

337
337 遣欧使節団通訳・福沢諭吉

 これらの写真は、1862年にロシアとの樺太境界問題の交渉に臨む遣欧使節団が オランダを訪れた際の歓迎会で国王に寄贈した使節団員のアルバムで、ハーグのオラ ンダ国立公文書館が所蔵する写真である。CD版「日本の想い出」によれば、43枚の 内16枚がパリで、26枚がハーグで撮影されている。トータル85枚になる。その 内の30名近くの人物の写真は日本にも残されていて、明治38年8月号「写真画報」 臨時増刊第31号「樺太回復紀念帖」(99)に掲載されている。大正元年の「日本歴史写 真帖」(100)に転載された。しかし、ハーグで撮影された「松木弘安」以外はすべて違 う場所で撮られたものになっており、主にロンドンとサンクトペテルブルグで撮られ た。

332
332 遣欧使節団通訳・松木弘安

No.356 

356
356 竜吐水・火消し

 この写真はポルスブルック・コレクションのものである。これのトリミングされて いない原版からのベタ焼き写真がW.ブルガー(Wilhelm Burger)の写真集「Wilhelm Burger Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera 1844-1920」(101)に掲載されている。ブルガーはポルスブルックの1869年2月離日後の9月に来日しているので、オランダ帰国後に収集された写真である。ブルガーはヨーロッパで写真展を開いたりして自分の写真を売っていたので、それを手に入れたのだろう。ボードイン・コレクションもそうだが、必ずしも滞日中に得た写真ばかりではないことに注意が必要である。

No.1~13、23、33~36

8
8 三田綱坂・島原藩下屋敷

 「写真集 甦る幕末」掲載の写真の成立に係わる写真についての検討を一通り終え たので、写真の先頭に戻って見直しを試みる。ここに写真番号を示したもの以外にも 写真No.303、304の項で示したように、アンベールに使われた写真のほとん どはベアトが撮影したと思われる写真であるが、ここで挙げた写真はアンベールが江 戸市中を探索しながら、ベアトに撮らせた写真と考えてよいのではないか。スイス使 節団が江戸の宿舎にした長応寺にベアトの仕事場を設けていた(102)。また、薩摩藩下 屋敷をベアトが撮った際の様子が書かれている。しかし、挿入されている版画絵の元 になった写真No.8は松本健氏の「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問」(港区立港郷土資料館研究紀要4)(103)によれば、三田綱坂を撮ったものとされている。「幕末日本図絵」の記述にある薩摩藩下屋敷の写真は使われなかったということだろうか。

No.14~22

16
16 日光・神橋

 これらの一連の「日光」の写真は内田九一の撮影と考えられるが、明治5年にウィ ーン万博出品用に撮影されたものかどうか確認できていない。分かっているのは、写 真No.14と16が「The Far East」(104)の1873.5.1号に掲載され、本文には編 集者のブラックが外国人の友人と連れ立って日光へ撮影旅行した時の様子が、友人の 日記と彼が撮った写真とともに紹介されていることである。旅行記の最後に内田九一 が撮影した写真も使ったと記されているが、旅行は1872年6月中旬に横浜からは 始まっているので、内田九一の随伴は有り得ない。彼はこの時西国巡幸に従って九州 に滞在中だった。恐らく、その後に日光へ出かけたと考えられる。撮影時期は明治5 年7月から6年3月の間で詰めていく必要がある。尚、CD版「日本の想い出」(105) には大量の日光周辺で撮影された写真があり、専らBDアルバムに集中している。

No.23~54

33
33 横浜・弁天社

 ほとんどがポルスブルック・コレクションのものだが、ベアトの「Views of Japan」 にある横浜の風景ものである。

No.52  

52
52 横浜・ポルスブルック邸

 このポルスブルックの横浜の住居の写真はオランダ海事博物館(106)のデータベー スによると、1869年2月13日の撮影となっている。領事を退任し、オランダへ 帰る直前に撮影されたものである。

No.53  

53
53 神戸・競馬場

 写真の説明には「The Far East」(107)の1870.11.16号掲載の横浜の競馬場の二等 観客席だと記されているが、位置や構造が異なっている。ベネット(Terry Bennett)の 「Old Japan」(108)カタログNo.34中に掲載のNo.46にある1872年成立の「神戸 コレクション」には市田左右太か内田九一の撮影と思われる写真が入っている。「写真 集 甦る幕末」の写真No.101と102が対応している。その中に、この写真N o.53と同じスタンドが写っており、「神戸競馬場の大スタンド」と記されている。 横浜(1867年開設)と神戸(1869年開設)には同時期に競馬場があったので、 混同したのであろう。

No.72~82

78
78 富士宮・登山口

 ポルスブルックのコレクションにはベアトの写真が多数入っているが、それは、ベ アトの「Views of Japan」が1巻丸ごとあるためである。表1のリストでは、まだベ アトの作品の洗い出しを完全には終わっていない。1867年富士登山の途中で静岡 ・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルック が長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。

79
79 静岡・原宿植松家の人々

9年ぶりの再会である。ベアトが同行 した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブル ックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No. 78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。 彼らの子供もいっしょだったかもしれない。

No.83~92、101~105

102
102 神戸・布引の滝

 これらの大阪・神戸の写真はベネットの「Old Japan」カタログNo.34(109)掲載の No.46の写真と比較して市田左右太の撮影と考えられる。

No.114~116、118

118
118 長崎・中島川と彦馬邸

 この4枚の写真はベアトの初期の長崎の写真で、1868年以降に販売されるよう になった「Views of Japan」には入っていないので、ポルスブルックのコレクション にはない。A.J.ボードインが横浜で購入し、B1アルバムに貼って持ち帰ったと考えら れる。撮影時期はNo.133と同じ1865年6月と考える。一説には、1864 年と66年にベアトが長崎に来ていたとされているが、根拠は明確ではない。ベアト は1864年10月に下関で写真を撮っているが、長崎へは行っていない。特に、「江 崎べっ甲店アルバム」(110)の「べっ甲店No.41」にある「皓台寺の墓地」が、長崎大 学古写真データベース(111)では1866年にベアトによって撮影されたとされてい るが、これはベアトの「Views of Japan」にある「春徳寺」(112)の写真と混同してい る。他の資料から、厳密な立証が必要だと考える。

No.117 

117
117 長崎・中島川高麗橋

 この写真はNo.116のベアトの写真と同じ構図だが、後年のものである。撮影 時期を考えるヒントは長崎大学コレクション①「明治7年の古写真集」(113)の写真 No.14にある。これも同じ構図だが、中島川の高麗橋の左岸の袂に石油灯が立っている。 写真No.117の右岸にある石油灯は小屋に隠れて見えない。石油灯が中島川に設 置された時期を記録したものは見出せていないが、「上野彦馬歴史写真集成」(114)の 写真No.44から明治5年ごろと考えられる。こちらの写真は巨大サイズであり、上野 彦馬でなくスチルフリード(Raimund Von Stillfried-Ratenicz)が明治5年5月に撮影 したものと推定できる。日本カメラ博物館の「スティルフリードの見た日本」(115)の 彼の写真を集めたものに見られるからである。同時に撮影された別バージョンが放送 大学(116)のホームページにも掲載されている。これらの写真は彦馬邸の白い二階建 ての写場が明治5年前半までに建てられたことを証明している。この写真No.11 7の写真は明治5、6年撮影と結論される。撮影者は彦馬と考える。この写真はBDア ルバムのものなので、A.J.ボードインが1874年2月に彦馬の写真館で購入したと 考えられる。

No.119 

119
119 長崎・中島川上流を望む

 この写真の所蔵元は掴めていない。CD版「日本の想い出」(117)には収録されていず、 その他のコレクションにも該当がない。恐らく彦馬の撮影だと考えられるが、白い二 階建ての写場が出来て以降としか言えない。しかし、「明治7年の古写真集 長崎・熊 本・鹿児島」(118)の写真No.15の「中島聖堂の正門と上野彦馬邸」は、中島川沿いの 「もやし屋の井戸」と呼ばれる湧き水付近から上流を撮影したものだが、構図だけで なく、写っているほとんどの被写体が対応する。季節はずれているようだが、写真N o.119は明治7年ごろまでに撮影されたと言ってよい。

No.122 

122
122 長崎・伊良林からの展望

 この写真はB3アルバムにあるものだが、撮影時期、撮影者が不明である。上野彦馬 邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望 んだ写真である。手前左に彦馬邸、正面に高木邸とその倉庫の建物が写っている。上 野彦馬邸の東南の角の家屋は建て直される前のもの。写真No.130の写真と比べ ると、屋根の形が旧いものとなっている。しかし、塀沿いの西側の建物は撤去されて いるので、慶応年間の後半であろう。塀の様子が判然としないので、白壁の塀の築造 との関係は読み取れない。今後の課題である。明治以降に使われた広い写場について の考察は拙著「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究」第74号、 2007年12月号)(119)を参照されたい。

No.130 

130
130 長崎・風頭山からの展望

 この長崎の風頭山からのパノラマ写真は、長崎監獄があり、舞鶴座がないことから、 明治15年から23年の間に上野彦馬によって撮影されたと考えられる。上野彦馬邸 の玄関の西側には白壁で窓付きの新しい塀が作られている。東南の角の家屋の北側に 大工小屋が建てられている。CD版「日本の想い出」(120)によれば、所蔵はアムステル ダム海事博物館だが、その写真データベース(121)のポルスブルック・コレクション には含まれていない。別系統からの収集であろう。「写真集 甦る幕末」中に多数のポ ルスブルック収集の写真が含まれているが、上野彦馬由来の写真はない。ポルスブル ックは彦馬の開業前の1859年に神奈川に移った。1863年6月に一度長崎に行 ったが、下関事件に遭遇して、写真どころではなかった。専らベアトから買っていた のであろう。

No.133 

133
133 長崎・大浦居留地

 この大浦居留地を望む写真はB1アルバムの中で、ベアトの撮影とされているもので ある。慶応元年2月に落成した大浦天主堂の3本の尖塔が写っているので、1865 年6月にベアトが撮影したとしてよいと考える。

No.134 

134
134 長崎・大浦天主堂

 この大浦天主堂の写真はボードイン・コレクションでなく、オランダ民俗学博物館 グラタマ・コレクションの中にあったものである。グラタマは彦馬の写真館でいくつ か写真を買っていたようである。撮影も頼んでいたのではないか。彼は慶応2年の4 月から、その年の年末までしか長崎にいなかったので、その間に購入したのだろう。この写真は1866年末までに撮られたと考えてよい。「上野彦馬歴史写真集成」(122)には明治以降の写真とされているが、慶応年間だと思う。また、江崎べっ甲店アルバム(123)の「江崎べっ甲店No.25-3」は時期的に近い写真であり、1866~67年を想起させる。

No.142 

142
142 長崎・大浦妙行寺

 この写真は裏面に書かれている記名(124)から1859年6月、ガワー(Abel A. Gower)の撮影とされて来たが、斎藤多喜夫氏は「幕末明治 横浜写真館物語」(125) で、1859年ごろ来日したロシエによる可能性を示唆している。写真の所蔵はオラ ンダ・アムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクションである。ポルスブ ルックは1857年7月24日に長崎に来日し、1859年7月4日に神奈川に移っ た(126)。ロシエは横浜でもステレオ写真を撮っているので、そのころ買ったのではな いか。ポルスブルックの帰国は1869年2月ごろである。ところで、1869年9 月に来日したブルガーの写真集(127)には、この写真のネガからのベタ焼きが掲載さ れている。また、大英図書館(前大英博物館)が1872年から所蔵している56枚 に及ぶブルガーが日本で撮影した写真にも含まれていて、台紙にはブルガー撮影と印 刷されている。そこで、本当に1869年にブルガーによって撮られた写真かどうか を検証してみる。ベネットの「Photography in Japan」(128)には、1860年10月 にロシエによって撮られた大浦居留地造成前の梅ヶ崎のパノラマ写真が紹介されてい るが、妙行寺の向うに見える入り江は埋め立て前であることが分かる。写真No.1 42もそれと近い頃、恐らく前年の風景であると考えられる。明治以降の大浦海岸が 完成した時期の写真ではない。ブルガーはロシエからネガを買ったのであろうか。因 みにオランダ海事博物館の写真は16×21cmで、横浜開港資料館所蔵の写真とサ イズは同じだが、大英図書館の写真は14.5×19cmで、サイズが一致しない。

No.153 

153
153 長崎・鼠島ピクニック

 この長崎・鼠島でのピクニック写真はボードイン・コレクションの大型のB1とB2 の両方のアルバムにある。B1アルバムにはベアト撮影と思しき写真がかなりあるが、B2アルバムにはボードイン兄弟、ポンペとポルスブルックの肖像以外に長崎の写真がないのに、この写真のみが入っているのは何か意味があると思われる。ベネットは「Early Japanese Images」(129)の中で1865年5月24日のビクトリア女王の誕生日を祝うピクニック・パーティをベアトが撮影したとしている。

No.152、154、158

154
154 長崎港の郵船

 これらの写真は上野彦馬がウィーン万博用に1872年に撮影したアルバム「長崎 市郷の撮影」の一部で、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録3」(130)で確 認できる。最後の所でも述べるが、A.J.ボードインは日本での最後の年1874年2 月に長崎へ出かけ、彦馬の写場で写真を撮ってもらう。これらは、その際に購入した と考えられる。A.J.ボードインのアルバムにあるべき写真である。BDアルバムに入っ ている。

No.161 

161
161 長崎・大浦居留地と出島

 出島を望む写真の内、この写真と対をなすものが、「長崎古写真集」(131)の写真No.34 と「幕末:写真の時代」(132)の写真No.134にある。何れもベアトの撮影と言われて いるが、撮影時期が不明である。1864年から1866年の間と見られる。出島の 築足と馬廻しが完成した慶応3年よりは前である。「長崎古写真集」(133)の写真No.29 の「1865年6月」とのベアト撮影の説明がある「出島」の町並みと比べても差異 が見出せない。1865年としていいと考える。写真No.128にも写真No.1 61とほぼ同じ場所からのパノラマ写真があるが、こちらは1866年ごろ、上野彦 馬によって撮影されたと考える。グラタマのコレクションにあるものである。上野彦 馬の写真館で購入したものであろう。大浦海岸や梅香崎海岸の建物が増えている。

No.163 

163
163 長崎・出島

 これはボードイン・コレクションのB1アルバムとポルスブルック・コレクションの 両方にあるものである。写真No.161と近い風景となっている。

No.165~226、242~248

176
176 オランダ領事と護衛隊

 これらはポルスブルックの交友関係を示す写真である。

No.166 

166
166 ヒュースケンの遺体

 ヒュースケンの襲撃は1861年1月15日の夜、アメリカ公使館が置かれた善福 寺の近くで起こった。担ぎ込まれた彼の臨終には、プロシア使節団に随行したアメリ カ人写真家ウィルソンが立会った(東京大学史料編纂所研究紀要1996年3月号「ヒ ュースケン暗殺事件」(134))。その時、彼が撮影した写真だと考える。

No.169 

169
169 ポルスブルックの日本人妻

 この写真には「ヒュースケンの日本人妻」というキャプションが振られているが、 アムステルダム海事博物館(135、136)のポルスブルック・コレクションのものである。 ポルスブルックのアルバム中では「写真集 甦る幕末」の写真No.166の前のペ ージに1864年の鎌倉事件の写真といっしょに貼られているだけで、後から出て来 る写真No.166の写真と関連付ける根拠はない。アルバムは時系列的に貼られて いるわけではない。ポルスブルック自身の作製ではなく、キャプションも事情を知ら ないものが入れたのかもしれない。写真No.78の「富士宮登山口」に写る女性と 似ているので、ポルスブルックの恋人の可能性を考えるべきである。出島のA.J.ボー ドインの家か、旧オランダ領事館の中庭で撮影されたと考えられる。写真No.24 3のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)米国総領事が写る写真の背景と同じであ り、同じ場所で撮影されたと考えることが出来る。植え込みは出島の領事館の中庭に 生えているものと同じである。ポンペが撮影した可能性が高い。尚、写真No.24 3が写されたと思われる1859年4月のハリスの長崎行きにヒュースケンが同行し た記録はない。写真No.259の項で述べたように、写真No.169は1858 年4月にポルスブルックが江戸へ移る前に撮影されたと考える。

No.189

189
189 リチャードソンの遺体

 この1862年9月14日に殺害されたリチャードソンの写真は「Photography     in Japan」(137)でベネットはソンダースが撮影したと推測している。

No.195 

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195 中原猶介と江戸詰薩摩藩士たち

 この写真はベアトの撮影とされている。長応寺のベアトの仕事場で撮られたもので あろうか。説明にあるように1862年8月に起こった生麦事件でのリチャードソン 殺害の補償交渉に際し、1863年9月~12月に横浜に臨んだ薩摩藩士と幕府立会 人らの集合写真と言われている。しかし、もしそうだとすると、前列中央が鹿児島黎 明館(138)所蔵の写真から岩下左次衛門(方平)と比定できるが、ムースハルトの「Arts en koopman in japan」(139)の写真No.B2-18Aの後列右に中原猶介が写るとする記述 は間違いとなる。なぜなら、この交渉時の参加者はアーネスト・サトウの日記「遠い 崖2」(140)の薩英戦争の項に記述されているが、中原猶介は含まれていないからであ る。薩摩藩の代表重野厚之丞と高崎(正風の甥)猪太郎らは佐土原藩の介添え人二人 と長崎経由で横浜に向かうが、その当時中原猶介は熱病で床に就いていて横浜には行 っていないのである。9月20日に藩元に手紙(「鹿児島県史料 忠義公史料2」(141)) を書いた後、数日で長崎から鹿児島に帰った。この写真は中原猶介が1864年2月 に横浜の英国公使館で船の購入交渉をした際のものである。江戸詰めの岩下方平が同 席したことは「薩藩海軍史中卷」(142)で確認できる。横浜開港資料館「F.ベアト幕 末日本写真集」(143)には、この中原猶介と岩下方平を除いた同じ4人が写る写真が載 っている。特にはっきり言えることは、「よこはま人物伝」(144)にある、介添え人の 一人佐土原藩士の樺山舎人の写真に該当する人物はいないということである。家紋も 明らかに違う。「幕末明治 横浜写真館物語」(145)でも間違った解釈がされている。 4人は江戸詰の薩摩藩士であろう。前年秋に鹿児島から出向いた重野厚之丞と高崎猪 太郎ではなく、南部弥八郎・堀平右衛門・関太郎・肥後七左衛門・新納嘉藤次ら(146) の誰かである。写真No.303、304の所で紹介した旧オランダ領事館の書斎で の撮影された中原猶介の写真は、この時ベアトによって複製が作られたと考えられる。 尚、昭和25年鹿児島市が編纂した「洋学者伝 郷土読本」(147)には中原猶介の伝記 とこれまでとは別の彼の肖像写真が掲載されている。さらに、この本には松木弘安や 八木称平のことも書かれ、1864年2月に江戸潜伏中の松木弘安と中原猶介が会っ ていると記されている。

No.197 

197
197 ボクサー英国レイホーク艦長

 この写真はキューパー提督の写真ではない。写真No.250の合成写真を参照す れば、レイホース艦長のボクサー提督であることが分かる。

No.203

203
203 下関・占領された長州の砲台

 1864年9月6日に、下関戦争で占領された長州の砲台をベアトが撮影したもの だが、同じ場面をワーグマン(Charles Wirgman)がスケッチした絵がIllustrated London News(148)の1864年12月24日号に掲載されている。写真No.303、 304の項で述べたようにベアトの下関の写真はこの時に撮影されたものである。ア ンベールは帰国後にそれらを収集して利用した。また、アンベールはIllustrated London Newsに載ったワーグマンのスケッチも改変して利用している。

No.243

243
243 米国公使タウンゼント・ハリス

 1856年8月21日に通訳H.ヒュースケン(Henry Heusken)とともに下田に来航し たタウンゼント・ハリスが残した日記(149)は1858年6月9日までであり、その 間に長崎に出かけた記録はない。その他の記録(150)から1859年4月に長崎で病 気の療養をしたことが分かっている。この写真は、その時に撮影されたと推測される。 背景の木立ちは長崎・出島でのA.J.ボードインの写真によく登場する。しかし、この 段階ではA.J.ボードイン(151)は来日直後であり、写真を撮っていないので、ハリス の診療もしたであろうポンペが撮影したと考える。

 その他の検討した事柄について述べる。先ず大事なことだが、見過ごされていることが ある。A.F.ボードインは1867年6月13日に横浜から、緒方惟準、松本銈太郎、赤星 研造、武谷椋山ら4人を連れて一時帰国する(152)が、その直前の5月14日にアムステルダム行きのソリデ号にあらゆる私物と日本での美術収集品を23個もの木箱に入れて発送した。手配はA.J.ボードインがやった。しかし、貨物船はスペインのペスカドレス近海で沈没し、A.F.ボードインの財産は全て水泡に帰した。A.J.ボードインは家族への手紙(153)で悲嘆に暮れている。帰国後に知ったA.F.ボードインの衝撃は如何ばかりだっただろうか。つまり、1867年までにA.F.ボードインが撮影・収集した写真のほとんどは、この時失われたと考えられる。江崎べっ甲店アルバム(154)の「江崎べっ甲店No.3-1」にはA.F.ボードインが写る写真があり、同じものは「写真の開祖 上野彦馬」(155)の写真No.260にも掲載されているが、これは現在のライデン大学のコレクションには残っていない。これが意味することを結論付けるのは未だ早いかもしれないし、A.J.ボードインと共通の写真はA.J.ボードインのアルバムによって救われたかもしれないが、現在残っているA.F.ボードインのアルバムは1868年末に再来日して以降のものではないかと考えられる。ボードイン絡みの写真を論じる前に、この辺のことを明らかにしておくことが大前提ではないか。写真No.259で述べたようにA.J.ボードインが写真の撮影をしていたこと無視すべきではない。
 今まで「写真集 甦る幕末」とそれには入っていない写真を含むCD版「日本の想い出」 を再検討して来たが、A.F.ボードインが撮った写真と思われるものを、はっきり見出せていない。長崎でも大阪でも、A.J.ボードインがそばにいたことが多い。明治以降は、A.F.ボードインは移動が多いし、1867年にカメラ類を他の私物といっしょに本国に送った船が沈んで以来、自分で写真を撮っていないのではないか。CD版には、「写真集 甦る幕末」には入っていないが、大福寺(法性寺?)の本堂前で緒方惟準ら医学生とA.F.ボードインが写る集合写真がある(156)。ライデン大学のボードイン・コレクションのBDアルバムに入っているが、その台紙には大阪・佐野の写真師 横田朴斎の朱印が押されている。他の大阪舎密局関係で撮られた写真の撮影者もライデン大学では特定されていないが、先に写真No.256で書いたように中川信輔である。また、ボードイン・コレクションに入っている神戸近郊の写真は内田九一か神戸の写真家市田左右太が撮影したと考えられる。写真No.101と102は「The Far East」(157)にも使われている。このころはボードイン兄弟とも、撮影はやっていなかったのかもしれない。
 A.J.ボードインは1874年日本での最後の年の2月に、長崎で上野彦馬写真館で撮ってもらった肖像写真を家族に送っている(158)。A.J.ボードインは上野彦馬とは、伊勢津藩主藤堂高猷のために写真機材を販売して以来の付き合いだが、ボードイン・コレクションには上野彦馬由来の写真が少ない。彼らは自分の身の回りにしか興味がなかったのか。この1874年のA.J.ボードインの写真はライデン大学のボードイン・コレクションにはない。失われてしまったボードイン・コレクションが存在するのかもしれない。ボードイン・コレクションは兄弟が作製したアルバムのみではない。ボードインらは撮った写真を日本から家族に逐次送っている。ボードイン兄弟は生涯独身で、父母を早くに亡くしているので、専ら兄姉宛てに手紙を送った。送られて来た写真を家族がまとめたアルバムも含まれていると考えられる。「写真集 甦る幕末」にピックアップされた写真以外も精査して見なければならない。CD版「日本の想い出」をじっくり見直してみる必要がある。今回長崎大学の所蔵になったボードインコレクションの内、BAアルバムは1874年にA.J.ボードイ ンが帰国後に収集されたと思しき写真が多い。中には、銀座通りの明治9年から16年に存在した「共同社」の看板が写る明治10年ごろの写真(159)などがあり、今後の厳密な調査が望まれる。
 以上、いろいろと疑問を提示して来たが、筆者が把握している限り、ライデン大学におけるボードイン・コレクションについての見解は2000年10月に日本で開催された「日蘭交流400年記念シンポジウム」の報告が載っている洋学史学会「江戸時代の日本とオランダ」(160)中のムースハルト氏の「オランダにある初期の日本写真:ボードワン・コレクション」が最新のものである。国内の研究も個別のものはあっても、総合された研究結果は公表されて来なかった。多くの幕末・明治の歴史写真に関心のある方々が見直しに参加してくださることを希望する。今回の「写真集 甦る幕末」再評価に当たっては、堺屋修一氏、石黒敬章氏、姫野順一氏、森重和雄氏、倉持基氏を始め、多数の古写真に造形の深い方々のご意見・ご協力・ご指導をいただいた。浅学故の先走った間違いがあれば、著者の責任である。

(平成20年11月21日)

参考資料
(1)  後藤和雄・松本逸也編、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションよ り」、朝日新聞社、1987。
(2)  後藤和雄、「写真考古学:写された歴史と写した目と」、皓星社、1997。
(3)  松本逸也、「幕末漂流」、人間と歴史社、1993。
(4)  長崎大学がWeb上で公開している各種の画像情報「長崎大学電子化コレクショ ン(http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/)」の中に「日本古写真ア ルバム ボードイン・コレクション」として納められている。URLは  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/11.htmlである。
(5)  朝日新聞社編、「甦る幕末 オランダで保存されていた800枚の写真から」、     朝日新聞社、1986。
(6)  University of Leiden, ed.,“Herinneringen ann Japan 1850-1870(甦る幕末)”,           University of Leiden, The Netherlands, 1987.
(7)  I.Th.Leijerzapf and H.J.Moeshart,“Memories of Japan 1859-1875 Japanese           Photographs in Dutch Collections(日本の想い出、1859-1875 日本の写真・      在オランダ・コレクション)“, IDC Publishers, The Netherlands, 1996.
(8)  ベアトの写真アルバムの「Views of Japan」の一つはポルスブルックのコレク ションとして(13)に示すアムステルダムのオランダ海事博物館のデータベ ースで見ることができる。それ以外のベアトのコレクションとしては横浜開港 資料館が多数所蔵しており、横浜開港資料館編、「F.ベアト写真集1-幕末日本 の風景と人々」及び「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」、 (2006)に集約されている。
(9)  A.ボードウアン、フォス美弥子訳、「オランダ領事の幕末維新:長崎出島からの 手紙」、新人物往来社、1987。
(10) ポルスブルック、井熊 文訳、「ポルスブルック日本報告:1857-1870オランダ 領事の見た幕末事情」、雄松堂出版、1995。
(11) ハラタマ、芝哲夫、「オランダ人の見た幕末・明治 化学者ハラタマ書簡集」、      菜根出版、1993。三崎嘯輔、緒方惟準、松本銈太郎が写る集合写真がある。
(12) H.J.Moeshart, “Arts en koopman in Japan(医師と商人 幕末のオランダ人 兄弟)”, De Bataafsche Leeuw, Amsterdam, The Netherlands, 2001.
(13) アムステルダムのオランダ海事博物館のURL は  http://www.maritiemdigitaal.nl/である。
(14) 尼崎総合文化センター編、「長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局-開業初 期アルバム-』(「第7回上野彦馬賞フォトコンテスト」受賞作品展 特別企画 展目録)」、尼崎総合文化センター、2007。
(15) 東京国立博物館編、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録1-3」、国 書刊行会、1997-2002。
(16) 前掲(9)。
(17) 長崎市出島史跡審議会、「出島図:その景観と変遷」、長崎市、1987。
(18) 八幡政男、「評伝 上野彦馬 日本最初のプロカメラマン」、武蔵野書房、1993。
(19) 「日本医事新報 1739号」、医事新報社、1957。
(20) ポンペ、沼田次郎訳、「ポンペ日本滞在見聞記:日本における五年間」、雄松堂 書店、1968。
(21) 前掲(7)。
(22) 赤松則良、「赤松則良半生談:幕末オランダ留学の記録」、平凡社、1977。
(23) 村上一郎、「蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流」、房総郷土研究会、1931。
(24) 前掲(7)。
(25) 前掲(11)。
(26) 梅本貞雄編、「日本写真界の物故功労者顕彰録」、日本写真協会、1952。
(27) 前掲(9)。
(28) 前掲(9)。
(29) 前掲(9)。
(30) 前掲(7)。
(31) 前掲(9)。
(32) 石黒忠悳、「石黒忠悳懐旧九十年」、大空社、1994。
(33) 石井良助編、「太政官日誌 第1卷」、東京堂出版、1980。
(34) 前掲(11)。
(35) 前掲(11)。
(36) 前掲(9)。
(37) 前掲(7)。
(38) 石黒敬章、「幕末・明治のおもしろ写真」、平凡社、1996。
(39) 前掲(9)。
(40) 前掲(6)。
(41) 前掲(12)。
(42) 犬塚孝明、「密航留学生たちの明治維新:井上馨と幕末藩士」、日本放送協会、      2001。
(43) 犬塚孝明、「薩摩藩英国留学生」中央公論者、1974。
(44) 長崎大学「出島の科学刊行会」編、「出島の科学:長崎を舞台とした近代科学の 歴史ドラマ」、九州大学出版会、2002。
(45) 池田謙斎、「回顧録」(「医学のあゆみ」第30巻1~4号)、医歯薬出版、1959。
(46) 前掲(7)。
(47) 鈴木要吾、「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯:伝記松本順」、大空社、1993。
(48) 中原尚徳、中原尚臣、「贈正五位中原猶介事蹟稿」、中原尚徳、1929。
(49) 鹿児島県維新史料編纂所編、「鹿児島県史料 忠義公史料 第2巻」、鹿児島県、      1975。
(50) 前掲(12)。
(51) 岩崎克己、「柴田昌吉伝」、岩崎克己、1935。
(52) 日本眼科学会、「日本眼科を支えた明治の人々(日本眼科学会百周年記念誌 第 5巻)」、日本眼科学会、1997。
(53) 鍵山栄、「相良知安」、日本古医学資料センター、1973。
(54) 相良知安、「相良翁懐舊譚」(「医海時報」第499~541号)、医海時報社、 1900。この連載は知安からの直接の聞書きがまとめられており、今まで知られ ていなかった隠された事実が知れる。
(55) 前掲(11)。
(56) 前掲(32)。
(57) 宗田一、「図説 日本医療文化史」、思文閣出版、1989。
(58) 渋谷雅之、「近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど」、私家版、2008。
(59) 前掲(11)。
(60) 前掲(47)。
(61) 前掲(11)。
(62) 池田文書研究会編、「東大医学部初代綜理池田謙斎 上」、思文閣出版、2006。
(63) 長崎大学医学部編、「長崎医学百年史」、長崎大学医学部、1961。
(64) 鹿児島市編、「洋学者伝 郷土読本」、鹿児島市、1950。
(65) 前掲(45)。
(66) 日本赤十字社病院編、「伝記・橋本綱常」、大空社、1994。
(67) 前掲(64)。
(68) 前掲(54)。
(69) 石黒敬七編、「写された幕末」、アソカ書房、1957。
(70) 石黒敬章氏私信。
(71) 前掲(12)。
(72) John Clark,“Japanese Exchanges in Art 1850s-1930s with Britain,           continental Europe, and the USA“, University of Sydney, Australia, 2006.
(73) Aime Humbert, “Le japon illustre”, Hachette & Cie, Paris, France, 1870.           アンベールはこの本の出版の前に1866年から1869年まで雑誌「Le Tour du monde:nouveau journal des voyages(Hachette, Paris, France)」に絵入り紀 行記を発表し、それをまとめて、上記の二冊の本にした。すでに356枚の図版 が使われ、内43枚の版画の原写真が「写真集 甦る幕末」に入っている。
(74) エメェ・アンベール、茂森唯士訳、「絵で見る幕末日本」、講談社、2004。      この本は「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(東都書房、1966)を底本に      している。
(75) エメェ・アンベール、高橋邦太郎訳、「続・絵で見る幕末日本」、講談社、2006。      この本は「アンベール幕末日本図絵」(雄松堂出版、1969-1970)を底本にして いる。
(76) 前掲(48)。
(77) 公爵島津家編纂所編、「薩藩海軍史 中卷」、原書房、1968。
(78) 前掲(73)。
(79) 「長崎大学古写真データベース」は「長崎大学電子化コレクション」(前掲(4)) からリンクされている。直接のURLはhttp://hikoma.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/
(80) 前掲(73)。
(81) 沓澤宣賢、「アンベール『幕末日本図絵』所収の絵画と古写真との関係について -『甦る幕末』所収のベアトの写真との対照を中心に-」(「日蘭学会会誌」第 22巻第2号)、日蘭学会、1998。
(82) 前掲(69)。
(83) 前掲(48)。
(84) 東京都港区教育委員会編、「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレ クション」、東京都港区立港郷土資料館、1991。
(85) 前掲(7)。
(86) 前掲(7)。
(87) 前掲(75)。
(88) 前掲(7)。
(89) 犬塚孝明・石黒敬章、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」、平凡社、2006。
(90) 石黒敬章編、「下岡蓮杖写真集」、新潮社、1999。
(91) 前掲(74)。
(92) 前掲(74)。
(93) 宮永孝、「幕末異人殺傷録」、角川書店、1996。
(94) 萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄1 旅立ち」、朝日新聞社、 1998.
(95) 春畝公追頌会編、「伊藤博文伝 上巻」、原書房、1970。
(96) 井上馨侯伝記編纂会、「世外井上公伝 1」、原書房、1968。
(97) 前掲(72)。
(98) 長與専斎、松本良順、「松本順自伝・長與専斎自伝」、平凡社、1980。
(99) 樺太回復紀念帖(「写真画報」臨時増刊第31号)、博文館、1905。
(100)秋好善太郎編、「日本歴史写真帖」、東光園、1912。
(101)Gert Rosenbert,“Wilhelm Burger Ein Welt- und Forschungsreisender mit der           Kamera 1844-1920”, Wien: Christian Brandstaetter, 1984.
(102)前掲(74)。
(103)松本 健、「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問 -幕末写 真の撮影地点についての一考察-」(「東京都港区立港郷土資料館研究紀要4」)、 東京都港区立港郷土資料館、1997。
(104)John Reddie Black,“The Far East: an illustrated fortnightly newspapers”          (1870-1875)、雄松堂複製、1965。
(105)前掲(7)。
(106)前掲(13)。
(107)前掲(104)。
(108)Terry Bennett, “Old Japan”, Catalogue 34, Old Japan, Surrey, England,           2007.
(109)前掲(108)。
(110)前掲(14)。
(111)前掲(79)。
(112)H. von Claudia Gabriele Philipp ed., “Felice Beato in Japan: Photographien           zum Ende der Feudalzeit 1863-1873”, Edition Braus, Munchen, 1991。
(113)長崎大学附属図書館編、「長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集 長崎・      熊本・鹿児島」、長崎文献社、2007。
(114)馬場章編、「上野彦馬歴史写真集成」、渡辺出版、2006。
(115)井桜直美、「明治の古写真 スティルフリードが見た日本」、日本カメラ博物館、      2005。
(116)放送大学附属図書館所蔵コレクションから放送大学のホームページ、「日本の残 像 写真で見る幕末・明治」に取上げられた。 URLはhttp://lib.u-air.ac.jp/koshashin/koshashin.htmlである。
(117)前掲(7)。
(118)前掲(113)。
(119)高橋信一、「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究 第74号」、      民衆史研究会、2007。
(120)前掲(7)。
(121)前掲(13)。
(122)前掲(114)。
(123)前掲(14)。
(124)長崎市教育委員会編、「長崎古写真集 居留地篇」、長崎市教育委員会、1995。
(125)斎藤多喜夫、「幕末明治 横浜写真館物語」、吉川弘文館、2004。
(126)前掲(10)。
(127)前掲(101)。
(128)Terry Bennett, “Photography in Japan 1853-1912”, Tuttle Publishing, Singapore, 2006。
(129)Terry Bennett, ”Early Japanese Images”, Charles E. Tuttle Company, Rutland, Vermont & Tokyo, Japan, 1996。
(130)前掲(15)。
(131)前掲(124)。
(132)小沢健志編、「幕末:写真の時代」、筑摩書房, 1994。
(133)前掲(124)。
(134)レイニア H.ヘスリンク、「ヒュースケン暗殺事件」(「東京大学史料編纂所研究 紀要」)、1996。
(135)前掲(13)。
(136)宮永孝、「開国の使者-ハリスとヒュースケン-」、雄松堂出版、1986。
(137)前掲(128)。
(138)吉満庄司、「岩下方平関係資料目録」(「黎明館調査研究報告」第19集)、鹿児島 県歴史資料センター黎明館、2006。
(139)前掲(12)。
(140)萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄2 薩英戦争」、朝日新聞社、 1998。 
(141)前掲(49)。
(142)前掲(76)。
(143)前掲(8)。
(144)横浜開港資料館編、「よこはま人物伝:歴史を彩った50人」、神奈川新聞社、1995。
(145)前掲(125)。
(146)前掲(140)。
(147)前掲(64)。
(148)The Illustrated London News, 1842-1880, Reprint Ed., Kashiwashobo Pub. Co., 1997.
(149)T.ハリス、坂田精一訳、「ハリス日本滞在記」、岩波書店、1954。
(150)前掲(136)。
(151)前掲(9)。
(152)荒木康彦、「近代日独交渉史研究序説 最初のドイツ大学日本人学生馬島済治と カール・レーマン」、雄松堂出版、2003。
(153)前掲(9)。
(154)前掲(14)。
(155)鈴木八郎・小沢健志・八幡政男・上野一郎監修、「写真の開祖 上野彦馬 写真 に見る幕末・明治」、産業能率短期大学出版部、1975。
(156)前掲(7)。
(157)前掲(104)。
(158)前掲(9)。
(159)石黒敬章、斎藤多喜夫、青木祐介、松信裕、「古写真でみる文明開化期の横浜・ 東京」(「有鄰」第479号)、有隣堂、2007。
(160)J.ムースハルト、「オランダにある初期の日本写真」(「江戸時代の日本とオラン ダ」日蘭交流400年記念シンポジウム報告集②、洋学史学会、2001。

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2008年2月18日 (月)

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について

フルベッキ写真の一環として、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生から、「下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について」についての掲載の許可を先月の1月25日にいただいておりましたが、パソコンの不調でアップが大変遅くなり申し訳ありません。急ぎpdfにまとめたものをアップさせていただきましたので、一人でも大勢の方々に目にしていただければ幸いです。よろしくお願い致します。

「080125.pdf」をダウンロード

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2007年8月23日 (木)

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真に関して新たな発見があったということで全く新しい考察論文が届きました。ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

 「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。

 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。

 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。

 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。

(平成19年8月22日)

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2007年8月 4日 (土)

上野彦馬の写真館と写場の変遷

 慶応大学の高橋信一准教授から「上野彦馬の写真館と写場の変遷」と題する論文が届きましたので、本ブログ上で以下に一般公開致します。

上野彦馬の写真館と写場の変遷

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

「フルベッキ写真」が幕末・維新の英傑が多数写っていると喧伝され、それが多数の支持を得ていることの原因は、歴史のロマンの対象になりやすい素材であることと相俟って、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の巻末で上野一郎氏によって解明された撮影場所と時期についての結論の一般大衆への流布と理解が不十分であることも挙げられる。上野一郎氏は幕末維新当時の長崎に到来し写真を撮った志士たちの事蹟や彦馬の家族の生没年、写場の構造や写し込まれた小道具といった手懸かりを駆使して写場と小道具の変遷を解明した。細部には昭和50年当時、十分な情報がなかったことに起因する間違いも見受けられるが、概ね正しく、根本的な誤謬は認められない。「フルベッキ写真」の撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置された石畳、戸板、出入り口、敷物の模様などによって特定出来る。この写場にはロクロ細工の欄干飾りを施した置物が全体に渡って置かれていることが、同じ写場で撮影された別の写真から知られている。「フルベッキ写真」では集合者が写場いっぱいに広がっているため、置物は隠されてしまっている。それまで使われていたのは横幅が半分以下で、慶應元年3月ごろ伊藤博文と高杉晋作(伊藤博文公伝)が従者と撮った写真や、福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影された佐賀藩士たち9名の写真が撮影された狭い写場である。こちらの写場で使われていた小道具も上野一郎氏によって明らかになっている。

ここでは、上野一郎氏の研究結果を参考にするとともに、その後の知見を交えて、彦馬の写場の変遷を明らかにする。先ず、上野撮影局開設以前に、長崎は中島川(銭屋川)の辺、その後に新大工町と呼ばれる町外れに彦馬の父、俊之丞が天保年間に開いた硝石精錬所があった。この場所の家屋の配置は俊之丞自筆の絵巻「長崎製硝図絵」(化学古典叢書:紀伊国屋書店)に見ることが出来る。その敷地内の建物の名残は、ライデン大学が所蔵するベアトらによる長崎などの写真を集めた「写真集 甦る幕末」中のNo.120の写真にも残っており、敷地の東南の角の建屋が完全に同じである。また、慶應年間には中島川沿いの境界が石を積み重ねたなまこ塀となるところは、それまで生垣があったことが分かる。この場所は盛り土がされており、中島川の氾濫に対処する堤防になっていたようである。東側は木の板塀が家屋と家屋の間に作られ、北東側に出入り口があったことが分かる。中庭で鶏やひよこと遊ぶ子供たちの一人は彦馬かもしれない。No.120の写真は慶應元年から2年にかけての冬場に撮影されたことが、阿弥陀橋近くに立つ反り屋根の小屋と並屋根の水車小屋の存在、彦馬邸の前の川縁には、まだ石灯篭がないことから分かる。慶應2年に初代の石灯篭が出来るが、慶應3年ごろに水車小屋とともに洪水で流され、石灯籠は2代目が置かれた。それ以前の様子を知ることが出来るのは同じ「写真集 甦る幕末」中のNo.118にあるベアトによって慶應元年6月ごろ撮影された川中に牛が立っている写真である。これには、東南角から川沿いの建屋となまこ塀、彦馬邸の玄関の様子がよく写っている。中島川を中心とした彦馬邸周辺を写した写真は多数残っており、彦馬邸並びに写場の変遷解明の貴重な資料である。

上野撮影局が開設されたころの写場は、邸内の空き地に青天井の下で設営されていて、江崎べっ甲店が所有する上野写真館のアルバム「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(尼崎総合文化センター)に多数見られる。このアルバムには慶應2年ごろまでの写真が貼られており、「フルベッキ写真」に使われた広い写場の痕跡はない。「写真集 甦る幕末」中のNo.122には中島川を挟んだ伊良林の奥、若宮神社辺りからの眺望が写っている。この写真は慶應3年ごろのものと思われ、東南角から2棟目の建屋は壊されて空き地が出来ている。さらに彦馬邸の景観が変わるのは、恐らく慶應3年から慶應4年に掛けて行われた大規模な改築によるが、改築中の写真は、今のところ見出されていない。唯一変化を証明出来る写真が「Felice Beato in Japan」に掲載されている。これは1991年にヨーロッパで開催されたベアトが日本で撮影したと考えられる写真の巡回展示に使われたものであるが、全てがベアトの撮影という訳ではない。その中に、明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中の写真が4枚含まれており、その一つが、彦馬邸を含む長崎市内を風頭山から一望するパノラマ写真で、明治5年秋の撮影である。これは「東京国立博物館所蔵 幕末明治期古写真資料目録3」にも「長崎全景」として掲載されている。これを最大限に拡大すると、既になまこ塀は白壁の塀に変わっており、東南角の建屋も形を変えている。内部には川縁と東側の塀近くに大きな空き地が2箇所あることが分かる。「写真集 甦る幕末」のNo.130にある長崎のパノラマ写真は片淵の長崎監獄が写り、明治20年以降に撮影されたものであるが、それと比較すると後者には川縁の塀際の空き地には、「ビードロの家」と言われる素となった2階建てが見え、東側の空き地には「大工小屋」と言われる小さい建屋が完成している。

ここで、2箇所の空き地のどちらを広い写場に比定するかを考えるために、「フルベッキ写真」と「長崎全景」の拡大写真を見比べてみる。「フルベッキ写真」では3方が高い壁に取り囲まれており、2方には可動式と思われる格子状の大きな板戸が嵌められている。このような状況に当て嵌まるのは、東側の空き地ではないかと思われる。永見徳太郎は昭和9年1月「アサヒカメラ」や「カメラ」、「長崎談叢」などで「白壁の塀際に幕を垂れ、ロクロ細工の欄干飾りを置いて、その前で青天井で撮影した」と言っている。彼は、広い写場の時代には生まれていなかったので、伝聞に過ぎないが、証言は矛盾しない。この写場で撮影された写真で、時期が特定出来るものは慶應4年以降にしかない。慶應4年2月ごろに沢宣嘉が長崎鎮撫総督として来た際に撮った写真(「長崎図説」)、4月ごろに松方正義が日田県知事を拝命した際に撮った写真(「松田正義」)、彦馬の家族を撮影した写真(「写真の開祖 上野彦馬」)などである。明治2年以降になれば、明治7年まで時期を確定出来るものが多数ある。フルベッキが写っている写真としては、明治2年2月ごろ、長崎奉行所管轄の済美館の後継、広運館の教員らと撮影されたもの(「日本のフルベッキ」原本)があり、致遠館の「フルベッキ写真」と対をなしている。こちらには集合者たちの背後に欄干飾りの置物がはっきり写っている。続いて、明治2年6月に山県有朋や西郷従道らが洋行前に撮った写真(「決定版 昭和史1」)がある。11月に彦馬が家族や弟幸馬と写真(「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.25)を撮っている。さらに、明治3年4月26日に毛利元徳ら一行が木戸孝允と撮った写真(「写真の開祖 上野彦馬」)があり、これは「木戸孝允日記」に記載されている。

さらに、撮影日が判明した写真として、大正11年2月に大隈重信が亡くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出たが、その口絵に掲載された「大隈夫妻を囲んだ外国人たち」の写真を挙げることが出来る。この写真は明治5年10月29日に灯台及び電信視察のため大隈等が巡視船テーボル号で大阪・神戸・長崎に向け出航した「灯台巡回」の際に撮られたものである。乗り込んだのは大隈重信、山尾庸三、佐野常民、石丸安世の他に杉浦譲、石井忠亮、佐藤興三、フレッシャー、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。これらのことは、「図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」、「灯台巡回日誌(大隈文書)」、さらに「杉浦譲全集 第5巻」の「燈台電信巡視日記」で知れる。また、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」には大隈と山尾が夫人同伴で行ったと書かれている。つまり、大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎に滞在していたのだ。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事なし」と書いてあり、巡視船への石炭積み込みのため仕事は休みとなったので、上野写真館に行って写真を撮った。「サトウの日記」には、その日の夕方に明治天皇がこの年の6月に巡幸の途中で泊まった料亭で会食したと書かれている。と云うわけで、この写真は明治5年11月14日に上野彦馬の写場で撮影されたものである。この写真では明治4年の後半に手前にあった石畳を剥ぎ取った跡が写っている。

その他に、明治3年と4年にフランス語教師のレオン・ジュリーが広運館生徒らと集合写真を撮っており、「日本の開国」に載っている。このように、「フルベッキ写真」の広い写場は紛れもなく、上野彦馬の写場であり、慶應3年の後半から慶應4年にかけて作られたことが分かるが、その場所には「大工小屋」が建てられて消滅し、名残を後年に留めることはなかった。広い写場で撮影された写真で最も新しいものは、「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.20に紹介されており、台紙の裏の記述から明治7年9月である。この頃までは青天井の広い写場が使われていたと結論出来る。その後、明治6年ごろ邸内の北東の端に屋根にガラスを張った写場が出来、屋内での撮影に移っていった。2階建ての写場の完成は明治14、5年とされているが、これも確定的なことは分かっていない。撮影日のはっきりした写真の発見が望まれる。最後に明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中のパノラマ写真「長崎全景」の一部を東京国立博物館所蔵の写真より複写拡大してお目にかける。右隅の家屋が彦馬邸の東南の角に当たる。広い写場を置く余地は、この角の棟の西側か北側の白壁の塀際のどちらかである。西側の塀際は「長崎製硝図絵」の通り、盛り土の堤防があったとすると写場を作るのは無理だったと思われる。以上から、広い写場には東側の塀際の空き地が使われたと結論する。     

(平成19年8月3日)

* 以下の写真をクリックしてください
Part_of_nagasakis_panorama_photo__2 Part of Nagasaki’s panorama Photo by Ueno Hikoma
Image:TNM Image Archives, Source:http://TnmArchives.jp
提供:東京国立博物館

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2007年6月28日 (木)

フルベッキ写真検証 落合莞爾

070629newleader 経営誌『NEW LEADER』7月号に「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」という記事が載っています。この記事は落合莞爾氏の筆による連載物であり、同氏は『平成日本の幕末現象』(東興書院)や在米の国際ジャーナリスト藤原肇氏との共著『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)などを著しており、私は両書から色々な意味で啓発されたものです。そして、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」という落合氏のシリーズ物も、近代日本の裏の歴史を知る上で大変興味深い内容だと今まで読んできたのでした。しかし、今週届いた経営誌『NEW LEADER』7月号に目を通し、落合氏がフルベッキ写真を取り上げているのに気づき興味津々で読み進めてみたものの、同じ落合氏の筆によるものとは思えないほどお粗末な内容であったので落胆した次第です。その落合氏が記事の中でフルベッキ写真について言及している箇所を最後に転載しておきますので、読者にはじっくり目を通してもらうとして、落合氏の記事の何処が出鱈目なのか以下に列記しておきましょう。ちなみに、灰色の囲みは落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」から、茶色の囲みは慶應義塾大学准教授の高橋信一氏の論文やメールからです。

1.撮影場所

撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

以下の論文を落合氏は見落としているのが一目瞭然です。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

2.子供

次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

私は高橋先生とのメールのやり取りで、以下のような情報を頂いています。加治氏だけではなく、落合氏の意見も是非聞かせて欲しいところです。

所謂一般市民に、この写真を知らしめたのは石黒敬七さんで、島田氏よりはるかに早い、昭和32年の「写された幕末」で、娘と書いています。その写真が石黒敬章さんの「明治の若き群像」に転載されました。彼は、想像でキャプションを書いたはずですが、感性は正しかったと思います。また、村瀬寿代先生がブログの掲載の前から、娘だと私に言われていました。服飾の歴史の専門家に聞いて子供が着ているのは、女の子のドレスだそうです。

2007年5月27日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

3.大室寅之佑

さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

まさか、大室寅之佑(明治天皇)が写っているといった出鱈目を落合氏が信じているのでなければいいのですが…、万一そうだとすれば、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」の信憑性を根本から見直す必要が出てきそうです。

4.伊藤博文

私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

この下りを読んだ瞬間、自分の心の中では雲の上的存在であった落合莞爾像はガラガラと崩れ落ちました。同記事に目を通した高橋先生も呆れたようで、落合氏の記事についてサムライが何か書くことがあれば、以下のメッセージも載せて欲しいという依頼がありましたので、一部を割愛の上、転載させていただきます。

落合莞爾氏は佐賀藩士を平凡な人生と言ってますが、「フルベッキ写真」に写る彼らの半分は当時としては破格の海外留学経験をし、それを活かして明治の世の中を作っていった人たちです。それらの価値を掘り起こすのが、平凡な作家の使命のはずです。西郷や伊藤などだけが歴史を作ったのではないことを伝えてください。

2007年6月28日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

落合氏は高橋先生の以下の論文に未だ目を通していないようなので、ここは是非一読を勧める次第です。目を通した後でも落合氏の目が覚めないようであれば、「駿馬も老いては駄馬に劣る」という諺を落合氏に贈る他はなさそうです。

「フルベッキ写真」に関する調査結果
小説「幕末維新の暗号」の検討結果

「フルベッキ写真」検証
行方不明の坂本龍馬は…

 吉井友実が宣教師フルベッキに親炙したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい数力月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面化する兆しが生じた。

 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。折しも慶応二年一月には薩長秘密同盟が締結され、翌年には薩土秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。

 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

 吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラバーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。

 一八六四(元治元)年二月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、八月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、十一月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を立つ。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(二〇八頁)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年四月五日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。

 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。

 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くが、グラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。

 結局、明治維新の真相の一班にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。

『NEW LEADER』7月号

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2007年6月 7日 (木)

閉鎖された加治将一氏のブログ

過日、「『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント」というテーマの記事を投稿し、加治将一氏本人のブログから以下を引用したのを覚えておられると思います。

『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

ところが、その後上記のかじまさ.netが閉鎖されているというメールが道友から届きました。あれだけの“名文”が読めなくなるということは大変惜しいことなので、以下に加治氏本人が自著『幕末維新の暗号』について述べていた箇所を再録しておきましょう。後は読者の判断にお任せします。

『幕末維新の暗号』あとがき

 Kaji

『幕末維新の暗号』を出してから、有形無形の圧力を受けている。脅しさえも。
 日本には『幕末維新の暗号』という、一介のフィクション小説の出版さえ、許さない得体の知れない勢力がいる。

 言論弾圧、出版妨害。

 あるものは政府機関を名乗り、あるものは弁護士を名乗り、あるものは教育者を名乗り、あるものは学者を名乗り、いややはりその中には、まったく名乗らない闇の勢力もいる。  妨害には、さまざまな方法がある。 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

 『幕末維新の暗号』は、盗作で読む価値なしだという言いがかりもよく使われる。

 『幕末維新の暗号』は、駄作だと中傷する古典的な方法がある。
 いずれも、知識遺産を知りたいと思う情熱を抹殺する恥ずべき人間のやることだが、そうはいっても確信犯的な連中には通用するわけはないのだが・・・

 出版社や新聞社に、『幕末維新の暗号』の書評を載せるなと、圧力をかける方法もある。
 そして直接版元に、本の抹殺を狙って難癖をつける方法もとられるが、現代において、もやはそれは成功しないはずだ。
 情報が公開され、一定程度の言論の自由という意識が浸透している時代になってきているからだ。

 さらにまた、作家やその周辺を震えるほどに脅す方法がある。オーソドックスだが、効果的だ。


 正直、身の危険を感じている。
 しかし加治は、屈服する年齢ではない。
 もう充分、好きなように生きてきたし、この世に未練はあまりない。この先、長く生きてもせいぜいあと20年だろうか。それが仮に数年短くなったとしても、冷静に受け止められると思っている。
 正直に生きるためなら、あえて危険な領域に踏み込むことはいとわない。
 とは言え、セキュリティのために公表していた顔写真を引っ込め、暮らしを移させてもらった。これはすべきことだと思う。 


 過去における真実とはなにか?
 個人が決めることじゃない。多くの人が、さまざまなことを知り、考えることに参加すれば、より真実に近づけるはずだと信じている。
 それにはまず、知ること。
 加治は『幕末維新の暗号』という小説で、世に問題を提起した。この本は長い取材と調査。そして多くの人の協力があっての賜物だった。

 もう一度、見つめようではないか?
 考えようではないか? 
 我々、日本という国を・・・
 我々には、それが可能なはずである。

 『幕末維新の暗号』は、発売わずか3週間で、4度も刷り増しするという栄誉にあずかった。
 購入し、読んでいただいたみなさんには、深い感謝と尊敬の念を抱かざるをえず、さらにより多くの人が、『幕末維新の暗号』を自分なりに見つめていただきたい気持ちでいっぱいでだ。
 そこになにかを見出し、気付いていだだければ、作家としては本望なのだ。



 応援歌がたくさん聞こえる。 すべての人に、感謝と愛情をこめて・・・

加治将一
by kaji-masa | 2007-05-18 07:01

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2007年6月 3日 (日)

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶應義塾大学准教授 高橋信一

明治元年10月、岩倉具視の息子具定・具経兄弟が長崎の佐賀藩藩校致遠館に国内留学した際、フルベッキや致遠館関係者と撮影された集合写真、「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の中で初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されており、素性は明らかである。その後の偽説に利用された軌跡を辿ってみることにする。

先ず、明治33年米国で出版されたW.E.Guriffisの「Verbeck of Japan」では写真は掲載されていず、説明のみ書かれている。それには岩倉兄弟の他大隈重信と柳屋謙太郎が写るとしているが、後者二人については疑問がある。グリフィスが米国で指導した日下部太郎や横井兄弟の言及はない。私が先に説明したように、大隈はこの本を読んでいた。次に、明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」に掲載された。それ以前の存在については後で記す。写っている人物として、岩倉具定、石橋重朝、丹羽龍之介、中島永元、江副廉蔵、中野健明、香月経五郎、山中一郎、大庭権之助が挙げられており、江藤新平や大隈重信はいない。居もしない他の人物を当て嵌める以前に、先ず、これらの人物を同定する必要がある。昭和6年に出版された「明治百話」には晩年(明治31年死去)のフルベッキが篠田鉱造のインタビューに答えて、この致遠館の「フルベッキ写真」と長崎奉行所の学校済美館の後継広運館の関係者と写した集合写真を示しながら、上野彦馬が撮影したことなど、当時を気さくに語っている。秘密の写真ではなかった。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で、明治22年に暗殺された森有礼が残したアルバム中の名刺判が「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。この写真は平成18年に出版された石黒敬章「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にも載っている。明治の中ごろまでに、この写真の名刺判の複製が一般に流布していた証拠である。ここまでは、「フルベッキ写真」は特別な意味合いのあるものではなかったのである。

これに根拠もない汚名を着せたのは、自称肖像画家の島田隆資である。昭和47年5月10日の読売新聞に「オイどんの写真じゃと・・・」と題して「フルベッキ写真に西郷隆盛が写っている」と発表した。さらに、昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表し、撮影時期と20数名の人物の比定を行った。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の評価は未だ全くなされていない。そのことによって、いろいろな憶測が次々に加わっていった。島田氏はその後31人まで江副廉蔵が手に入れて家に残した名刺判からの複製である「フルベッキ写真」のコピーに名前を書き込んだ。それがいろいろな方面に流布し、波紋を広げた。尚、この論文と前後して昭和50年に出版された「写真の開祖 上野彦馬」の中で、上野一郎が上野彦馬の写場の変遷を多数の写真から推定し、「フルベッキ写真」を撮影した写場が明治以降のものであることを立証した。これを覆す証拠は未だ見つかっていない。上野氏は平成9年安田克廣編「幕末維新 写真が語る」の中でも繰り返し、慶応年間説を否定している。以降、昭和49年の「勝海舟」始め小沢健志氏の各種の著作には「フルベッキ写真」は「長崎の致遠館生徒らの集合写真」として取り上げられて来た。そのような写真界の常識に反抗するように偽説は燻り続けるのである。

昭和55年に秋田角館の青柳家から、この島田氏の書き込みが入った写真が発見され、昭和55年8月19日の佐賀新聞に当時の佐賀大学教授(現佐賀城本丸歴史館長)杉谷昭氏が記事を寄せ、島田論文を既に擁護している。この角館のものと同様のものが、昭和60年5月28日、当時の自民党二階堂進副総裁から国会に持ち込まれて話題になり、東京新聞が特集記事を掲載し、島田氏の論拠は否定された。にも拘らず、平成7年12月号(高橋佐知)及び平成11年7月号(中津文彦)の「歴史読本」に見られるように、西郷隆盛と関連付けて、上野氏の論考を無視した偽説の展開が続いて来た。それに対して正当な歴史家の研究として、平成15年「日本のフルベッキ」を翻訳出版した村瀬寿代氏は、翻訳の過程で知った「フルベッキ写真」の問題を歴史学的に解明し、平成12年「桃山学院大学キリスト教論集第36号」で明治元年撮影を結論付けている。この内容を基礎にした論証は「日本のフルベッキ」の注釈に載っており、私の調査のベースになっている。また、平成15年8月に大阪市立大学名誉教授毛利敏彦氏が佐賀で講演し、慶應元年説を否定した。ここで、問題を複雑にしている明治天皇との関連を見ておきたいが、明治天皇(大室寅之祐)が写っているという話は、この時点まではどこからも出ていなかったのである。

大室寅之祐の子孫を自称する大室近祐が明治天皇すり替え説を唱えていたことは、その支持者である歴史家の鹿島昇の著作「日本王朝興亡史(平成元年)」や「裏切られた三人の天皇(平成9年)」で知られていた。しかし、これらの著作には「フルベッキ写真」への言及はまったくなかった。平成13年4月24日に鹿島氏が亡くなった後、共同研究者の松重揚江氏が「日本史のタブーに挑んだ男(平成15年)」の中で、始めて「フルベッキ写真に明治天皇(大室寅之祐)が写っている」と唱えた。一方、国際ジャーナリスト中丸薫氏は「真実のともし火を消してはならない(平成14年)」の中で、自分が明治天皇の子孫であるとの主張とともに、「平成13年4月14日に大阪でフルベッキの孫の知り合いの人物から額に入った「フルベッキ写真」をもらった」と言っている。「フルベッキ写真」には全員の名前が入っており、明治天皇が写っていると主張している。明治天皇説が捏造されたのは、平成13年ごろである可能性がある。誰が始めて全員の名前を入れたか未だに不明であり、偽説によって登場人物に多少の変動が見られる。

また、こうした偽説の流布が発展する契機になったものとして、平成9年岩波書店が発行した「日本の写真家シリーズ1」の「上野彦馬と幕末の写真家たち」に、これまでで最も高精細で完全なオリジナルに近い「フルベッキ写真」が掲載されたことが挙げられる。これは近年になってからパリで競売に掛ったものが日本に持ち込まれ、産業能率大学の購入所蔵となったものである。台紙にフランス語のキャプションが入っているが、業者が入れたもので、意味はない。以降、インターネットや土産物屋、各種出版物で見られるほとんどの「フルベッキ写真」はこれから無断・同意で盗用・引用されたものと考えられる。ちなみに私がブログで使用しているのは、このブログ上に野田氏が掲載しているもので、「上野彦馬と幕末の写真家たち」からスキャンした画像である。中丸氏が手に入れたものも、これに類するものだろう。しかし、中丸氏からの反論はない。

陶板額の流布はおそらく、平成13年ごろに佐賀の陶業者金龍窯が最初に発売した。前掲昭和55年の佐賀新聞の記事に触発されたそうで、島田氏の論文のコピーを付けていたが、名前は入っていなかった。佐賀を中心に山口、高知、京都などの行楽地の土産物屋の店先に並び、インターネットでオークションにもかかった。全員の名前を入れたものは同じく彩生陶器によって平成16年ごろに売り出され、この年の暮れから翌年にかけて、全国紙朝日、毎日、産経、日経、そして読売の旅行雑誌に広告が掲載された。これが全国の幕末史愛好家に与えたインパクトは大きかったと思われる。「フルベッキの子孫が日本に実在した」という虚偽とともに、歴史家が解明していないことをいいことに、世の中の受けだけを狙った一種の詐欺行為が堂々と行われた訳である。添付の冊子には、歴史的な解明は全くされていず、名前が入った人物の紹介文のみが載っている。慶應元年当時の年齢が全員入っており、佐賀の相当熟達した研究者が、背後で「フルベッキ写真」を利用して自己の勝手な主張を公にしようと諮ったものである。

昭和55年の佐賀新聞の記事を書いた杉谷氏は平成19年4月に郷土史機関紙「葉隠研究」に歴史小説を発表して、慶應元年明治天皇長崎到来説を唱えているが、内容には歴史的事実に反することが何箇所も見受けられ、元々無理な主張である。同様な偽説を信奉する諸説は、本来真摯に歴史を探求しているはずの歴史愛好家のグループからも出て来ており、一例は平成17年2月の長崎県有家町史談会の会報「獄南風土記」第12号であり、偽説を無批判に取り上げ、流布させようとしている。今回の加治将一「幕末維新の暗号」は、これまでの偽説をトレースしただけで、新たな推測はワンパターンの「フリーメーソン」に留まっている。同定も不完全で、このようなアジテーゼに感激する読者がいる日本の風土に大きな疑問を感じる。自由な発想だと擁護する向きも多いが、事実の記録を尊重して、ちゃんと考えた上での判断でなければならない。他人に流される国民性の問題である。「幕末維新の暗号」の欺瞞については、先のブログを参照されたい。今後も繰り返して「フルベッキ写真」は蒸し返されるかもしれないが、近年は古写真を重要な歴史を記録した史料として正規に認め、学問的に研究する気運が盛り上がりつつある。世界的にも日本の古写真は注目されており、このようないい加減な議論がまかり通るのは恥ずかしいことである。これを機会に、一般の歴史研究者が古写真を見つめるノウハウを勉強してほしいと節に願う。今回の内容に訂正・情報がありましたら、寄せていただくとありがたく思います。                           

(平成19年6月3日)

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2007年5月31日 (木)

『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント

過日、高橋信一先生の投稿『小説「幕末維新の暗号」の検討結果』 にコメントを寄せたエスなる人物が、実は真っ赤な偽物であることが判明しました。
エスなる人物の偽の投稿

上記のエスなる人物が、自分のホームページということで示していたリンク先のH様とは全くの別人であることは、ご本人であるH様から直接メールをいただいて判明した次第であり、H様の要請に従ってエスが勝手に使用したH様のリンクは削除させていただきました。H様、誠に申し訳ありませんでした。

ブログ【教育の原点を考える】では今回の事件を重く見て、今後本ブログの投稿に際して「スパム防止認証画像」を必ず表示させる仕組みに変更すると同時に、仮に投稿してもブログのオーナーである私が判断して掲載する否を決めることができるように、公開前に一時保留できる設定に変更しました。こうした一連の処置を講じたことにより、勝手に他人のURLやメールアドレスが使われるという事件が一件でも減少してくれることを祈ります。

なお、トラックバックについても最近は「セーラー服云々」といった下らないトラックバックが急増していることもあり、並行してトラックバック機能を閉鎖致しましたのでお知らせ致します。今後の皆様のご意見・ご感想は、コメントを利用していただけますようお願い致します。

さて、以下はエスの投稿です。

こんにちは。
エスと申します。

私は「明治維新の暗号」を読んで、また、別の感懐を持ちました。
確かにご批判のような事もあるのかと思いますが、加治氏と祥伝社がこれだけの事を書いて出版された勇気に感服いたしました。
明治天皇すり替えの噂はこれまですでに山ほどありました。
しかし、学者もマスコミも積極的にそれを検証しようとはしませんでした。理由は言わなくてもおわかりになるでしょう。
仮にも、日本がもし本当の民主主義国家を標榜したいのであれば、憲法で「国家の象徴」とまで謳われる天皇がまがい物か否かは検証する必要があるのではないでしょうか。改憲もすでに現実になろうとしています。
このせっかくの機会をとらえて、学会に呼びかけ、加治氏に対するご批判から天皇の真偽も含めてすべてを検証する委員会を立ち上げられてはいかがかと思います。
それが学者の務めではあるかと存じます。

いかにも、他人のホームページのURLを勝手に使用しても何とも思わない厚顔無恥なエスらしいコメントです。

ところで、エス氏のコメントを読みながら、加治氏が自身のブログに書いてあったことを思い出し、同時に『幕末維新の暗号』に加治氏本人が書いていた下りを思い出しました。

『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている」と見得を切った加治氏は、高橋先生の『小説「幕末維新の暗号」の検討結果』の何を検証し、何処が根拠の薄いものと考えたのか、そのあたりを明瞭に示して欲しいものです。それにしても、「そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話」と書くあたりは笑わせてくれます。加治氏本人が『幕末維新の暗号』に書いた以下の記述を一読ください。

「フルベッキ写真を、本にするんですか?」
「書こうと思っている。ただし純粋な創作より、本当であるという事実の方を上位に置いた小説だ。しかしその前に、一つ大きく躓いている。なんたることか肝心なところで、確証がつかめないんだな」

『幕末維新の暗号』P.444

一体、加治氏の本音は何処にあるのでしょうか。「小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話」なのでしょうか、それとも「ただし純粋な創作より、本当であるという事実の方を上位に置いた小説だ」なののでしょうか?

「言いがかりなら、やめていただきたい。それに僕は歴史学者じゃない。小説家だ。あくまでも面白く読ませることが主眼です。
「小説に逃げますか。うまい逃げ場だ。癪ですが、世間に対する影響力は学術本より小説の方がはるかにでかい。その分、責任重大でしょうが」
「読者だって馬鹿じゃありません。もし書いているものが嘘なら、すぐに見破るはずです。その時点で読者の心はさっと離れ、作家はすべてを失うことになります」

『幕末維新の暗号』P.97

もし書いているものが嘘なら、すぐに見破るはずです」という加治氏の言葉に全く同感です(笑)。

サムライ拝

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2007年5月 8日 (火)

『幕末維新の暗号』

B070508 『あやつられた龍馬』(祥伝社)や『石の扉』(新潮社)といった一連のフリーメンソンものを書いている加治将一氏が、『幕末維新の暗号』((祥伝社))という新著を出したと【阿修羅】という掲示板のトップページに紹介されていたので、早速クロネコヤマトのブックサービスに発注をかけると同時に、本ブログ【教育の原点を考える】でフルベッキに関する貴重な論文を寄せて頂いている高橋信一先生にも即メールでお知らせしました。すると、すぐに高橋先生からメールで応答があったのであり、その後幾度がメールのやり取りを行った結果、加治将一氏『幕末維新の暗号』の書評をアップしようということになりました。よって、ここに高橋先生の書評に続いて私サムライの書評を載せますので宜しくお願い致します。

書評:『幕末維新の暗号』

■TVディレクターvs.作家
私が加治将一氏の新著『幕末維新の暗号』を読了してつくづく思ったことは、過日私がアップした『覇王不比等』を著した黒須紀一郎氏の著作と比較して、同じ小説とはいえ両書には雲泥の差があるという点でした。思うに、この違いは黒須氏がテレビのフリー・ディレクターであり、加治氏が作家であるということに由来するのでしょう。『覇王不比等』でも既に読者の皆様に紹介しましたが、アマゾンドットコムに載っていた書評にあった、「売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多い」、という発言の正しさがここでも証明された形になります。

ただし、誤解のないように一言添えておきますが、作家の中にも本物はやはりいるものであり、その一人が『曼陀羅の人』を著した陳舜臣氏です。拙ブログでも同氏の『曼陀羅の人』を取り上げていますので、一度是非ご訪問いただければ幸いです。
曼陀羅の人

■インテリジェンスvs.インフォメーション
黒須紀一郎氏の『覇王不比等』や陳舜臣氏の『曼陀羅の人』がインテリジェンス・レベルの本であるとすれば、加治将一氏の『幕末維新の暗号』はインフォメーション・レベルの本に過ぎないという点もここで指摘しておきたいと思います。インテリジェンスとインフォメーションの違いは、拙ブログでもたびたび取り上げていますのでここでは敢えて繰り返しませんが、参考として以下の2本の拙ブログの記事を一読していただければ、ある程度はインテリジェンスとインフォメーションの違いを理解していただけるものと思います。
空海の夢
聖徳太子と日本人

■誠実さ
聖徳太子と日本人』では、最後の方で『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏の本をインフォメーション・レベルに留まっている本と批評しましたが、それでも引用先を米国政府の『年次改革要望書』であることを正確に書いている点は当然とは云え常識ある態度だと思うし、また日本人に『年次改革要望書』の存在を広く知らしめた功績は大きかったと思います。

それに反して、加治氏の場合はどうでしょう。関岡英之氏の場合はノンフィクションであり加治氏の場合は小説というフィクションだという違いはあるにせよ、高橋信一先生が『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』でも述べておられるように、他人の説を盗用し、恰も自説の如く小説に書く加治氏は、人間として当然持つべきモラルが欠けていると謂わざるを得ません。たとえば、以下の高橋先生の書評が好例です。

(17) p.269・・・「鍋島直彬」の存在の仮説は私のオリジナルである。出展を明示しないのは、盗用である。彼が明治元年に長崎にいた理由は戊辰戦争に勇んで参戦しようとした直彬が鍋島直正から長崎警備を命令されたためである。通例なら、佐賀本藩の仕事であった。慶応元年の所在証明は別にする必要がある。

『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』

とあるように、「鍋島直彬」についての情報を最初に知った者の一人が私であり、かつ拙ブログにアップロードしているだけに、間違いなく「鍋島直彬」の存在の仮説を初めて発表したのは高橋先生であることを此処に証言しておきたいと思います。

また、『幕末維新の暗号』は明治天皇すり替えという日本のタブーを取り扱っていますが、これは加治氏のオリジナリティでは全くなく、故鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』(国民社)を下敷きにしていることは明らかです。『裏切られた三人の天皇』については拙ブログでも若干ふれていますで参照頂ければ有り難く思います。
明治天皇(2)

なお、『幕末維新の暗号』は小説という形を取っているにしては、何故か巻末に主要参考文献を掲げています。そして、その中に『裏切られた三人の天皇』も羅列してありました。『幕末維新の暗号』の中での明治天皇に関する記述は『裏切られた三人の天皇』無しには成り立たなかっただけに、流石の加治氏も知らんぷりはできなかったようです。

■品性
高橋先生の『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』を一読すれば明白のように、小説とは云え加治氏の『幕末維新の暗号』は嘘が余りにも多い本であり、多くの読者を惑わせる愚書です。

同じ小説でも、黒須純一郎氏の著書群には品性が感じられました。その点、加治氏の本からは全く品性は感じられなかったのですが、何故かとよくよく考えてみたところ、高橋先生といった他人の説を平気で盗用するといった人格の問題もさることながら、『裏切られた三人の天皇』といった本をそのまま下敷きにして加治氏に都合よく編集しているだけの本である点が大きいように思えます。その点、黒須純一郎氏の『覇王不比等』を一読した後、改めて中国の兵法書である『孫子』、『六韜』、『三略』を紐解いてみたいという衝動に駆られたことを思えば、品性だけでなく作者の持つ人間的な深みにおいても天地ほどの開きがありそうです。

加治氏の本に惑わされる読者が一人でも減ることを祈りつつ本稿の筆を擱きます。

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小説「幕末維新の暗号」の検討結果

 慶応大学の高橋信一助教授から『幕末維新の暗号』(加治将一著 祥伝社)の書評が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。なお、以下の「フルベッキ年表」(verbeck_relatled_chronology01.xls)も是非参照願います。
「verbeck_relatled_chronology01.xls」をダウンロード

小説「幕末維新の暗号」の検討結果

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

(1) 私がブログで論じたことを出展の引用をしないで、盗用している。平成18年4月8日に加治将一氏に呼ばれて大崎のホテル・ニューオータニ・イン東京で会合し、私の資料のコピーを渡し、いろいろな説明をした。その内容が、登場人物の名前を変えて随所に使われている。それ以後更新されたブログは踏まえていない。加治氏にはブログの最新版を精読することを強く薦める。
p.32・・・「フルベッキ写真」流布の経緯。
p.39・・・「四分の一が悲劇に見舞われた」の記述。
p.46・・・ここの記述もブログを踏まえたもの。
p.79・・・「オリジナルの存在について」の記述。勝手な引用が他にも多数ある。

(2) 空想を論じるのは自由である。しかし、それをもっともらしく見せるために、記録が残っている史実をねじ曲げてよいはずがない。

(3) 偽説を唱える人たちの常として、いつも最初に出てくるのは、「写真に写っている人物がこれこれであるから、撮影はこれこれの年だ」といういい方である。この本は一貫して、その姿勢で書かれている。しかし、似ていても、別人である可能性はいくらでもある。主観に基づく人物の同定は極めて難しく、慎重に行われなくてはならない。簡単に決め付ける前に、証拠を上げて論拠を説明すべきである。古写真を観察する際に常に必要なのは、人物如何に関係なく、その写真がいつ撮影されたかということを出来得る限り厳密に説明するべきだということである。最初から判断が間違っていれば、結論が正しいはずがない。

(4) p.47・・・「彦馬の子孫・・・」はまったく根も葉もない為にするものである。感情的な攻撃の前に上野一郎氏が間違っている証拠を一つでも上げて論証すべきであろう。それをやろうとしないのは、上野氏の研究を否定しないと偽説の立つ瀬がないからである。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

(6) p.60・・・「4,5歳に見える」なら、明治元年のエマでまったく差し支えない。外人の子供の男女の見分けは不可能である。

(7) p.79・・・島田隆資の論文をちゃんと読めば、「一ばん前列左はしは木戸さんか、岩倉さん」、「江副廉蔵は前列左から三人目」となっている。指している人物は木戸孝允と目される人物から数えて三人目でなくてはならない。江副家に残る若い頃の江副の写真からも、この人物の一人右隣りであることは明白である。尚、江副廉蔵は慶応3年12月29日に致遠館に入学したことが記録に残っている。慶応元年に入学した事実はない。撮影されたのは、慶応4年(明治元年)以降である。「岩松要輔 近代文明との出会い 英学校・致遠館」参照。

(8) p.81・・・「大隈重信」の対照写真は明治5年暮れから翌年初めにかけて、横山松三郎により、ウィーン万博出品のために撮影されたもので、同定に使うには後年過ぎる。中野健明の同定(p.149)に利用された慶応3年撮影の「佐賀 幕末明治500人」の口絵写真が順当なところである。それと比較すると月代が剃られていない点や、眼つき、あごの形など明らかに別人である。「フルベッキ写真」の人物は額に凹凸があるが、大隈にはまったくない。古写真研究家の森重和雄氏が指摘したように、「写真の開祖 上野彦馬」所載の人物の方がよく似ている。

(9) p.82・・・「済美館生徒とフルベッキ」写真に全員の名前が入っているというのは事実誤認である。ほとんどは広運館の教師たちであるが、一部氏名が不明になっている。長崎県立歴史文化博物館所蔵。

(10) p.107・・・「折田彦市」についても、私のブログの転用である。せめて、「一枚の肖像画 折田彦市先生の研究」を引用すべきである。尚、折田の周辺の人たちは、この人物の後ろの高杉晋作と目される人物だとしている。主観に頼る人物同定の限界である。

(11) p.133・・・「横井兄弟」の対照写真は慶応2年の留学前に上野彦馬の写場で撮られたものである。こちらも広い写場ではない。「陸奥宗光」参照。なぜ慶応元年に撮られた写真の方が月代を剃っていないのか?本物に見えるという主観の方が疑わしい。「日本のフルベッキ」でグリフィスが「フルベッキ写真」の説明をしていて、それを根拠に大隈がいると主張しているが、グリフィスはラトガース大学で長期間自分が直接面倒を見た横井兄弟や日下部太郎(p.410)が写っていると言っていない。岩倉具定兄弟以前に先ず名前が上げられるはずである。p.248に「グリフィスは大隈と入魂」と書いているが、大隈との面識や交友の記録は存在しない。「グリフィス・コレクション」を精査すべきである。

(12) p.148・・・「中野健明」に関しては、私のブログを訂正をしなければならないかもしれない。森重和雄氏の指摘によれば、明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の前に坐る人物の可能性がある。年齢とともに顔が大きく変化する人物の実例かもしれない。決め付けは厳に慎むべきである。

(13) p.230・・・「フリーメーソン」の関与を考えるには、もっと当時のメンバーの活動について明らかにする必要がある。名称だけを引き合いに出して何かを論じるのは妄想以外の何者でもない。幕末から明治にかけて来日した外人の内、誰がフリーメーソンに関係したかは、1864年に横浜に設立されたフリーメーソンのメンバー・リストで知れる。それによると、例えば、1867年にフェリーチェ・ベアトがフリーメーソンのメンバーになったことが知られている。「フルベッキ写真」とベアトの関係を解明してみせよ。「John Clark: Japanese exchanges in art, 1850s to 1930s with Britain, continental Europe, and the USA : papers and research materials」及び「Terry Bennett: Old Japanese Photographs」参照。

(14) p.247・・・「山中一郎」の対照写真は私のブログからの盗用である。

(15) p.249・・・「江藤新平」の名誉回復を目指した「江藤南白」のキャプションに江藤の名前がないことが、彼が写っていないことの傍証である。こちらに「フルベッキ写真」が使われたのは、江藤が関係した佐賀藩士を紹介するためでしかない。

(16) p.259・・・「フルベッキの長男」とキャプションされているのは「開国五十年史」でなく、大隈が関係していない「江藤南白」である。事情を知らない編纂者が子供を男子と見間違えたと考える。

(17) p.269・・・「鍋島直彬」の存在の仮説は私のオリジナルである。出展を明示しないのは、盗用である。彼が明治元年に長崎にいた理由は戊辰戦争に勇んで参戦しようとした直彬が鍋島直正から長崎警備を命令されたためである。通例なら、佐賀本藩の仕事であった。慶応元年の所在証明は別にする必要がある。

(18) p.274・・・勝手にトリミングされた写真に対角線を引くのは、何の意味もない。敢えてやるなら、カメラのレンズの焦点の位置を探すべきである。これはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でも行われている。両サイドに写る板戸の水平線と、石畳のラインを延長した交点はフルベッキと子供の頭の中間に来る。イエス・キリストでも大室寅之祐の頭でもない。これは上野彦馬が撮影した集合写真全般に言えることだが、彦馬は常に中心人物からカメラの中心をずらして撮っている。むしろこの「フルベッキ写真」は中心が合っており、異常である。写場は彦馬邸であるが、撮影は他の人物を考えてもいい。

(19) p.288・・・「高杉晋作と伊藤博文」が長崎でグラバーにイギリス行きを相談し、時期が悪いと説得されて思い留まったのは慶応元年3月であり、完全な勘違いである。この間違いは後にも繰り返されている。上野彦馬の慶応元年当時の狭い写場で撮った二人を含む三名の写真が以下の文献に掲載されている。「伊藤博文伝」、「東行:高杉晋作」。

(20) p.350・・・明治政府が「天皇の写真」を囲い込み始めたのは、1872年1月に横須賀に巡幸した際にスチルフリードが撮影した写真をネガごと買い取ったことが始まりである。「John Clark: Japanese exchanges in art, 1850s to 1930s with Britain, continental Europe, and the USA : papers and research materials」参照。尚、私の最近のブログでは岩倉家に「フルベッキ写真」のオリジナルが存在したことを論証している。処分されたり、秘蔵されるようなものではなかった。単に流布しなかっただけである。「済美館生徒とフルベッキ」写真もオリジナルは流布していない。

(21) p.412・・・「森有礼」の留学記録は存在する。「森有礼全集」参照。彼は慶応元年1月に他の薩摩藩士と伴に鹿児島を出て羽島の船宿に潜伏、3月にイギリス密航を敢行した。密航者の本名と変名は分かっており、森が含まれているのは自明である。「薩摩藩英国留学生」及び「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にそのリストと主だった密航者の慶応元年当時の写真が掲載されている。イギリスで撮影した集合写真も残っている。その写真をつぶさに検討すれば、「フルベッキ写真」に該当者がいるかどうかわかるはずである。誰もこれを検証しようとしない。

(22) p.415・・・「三条実美と岩倉具経」が写っているという写真は、明治2年8月に来日した写真家ブルガーが2週間ほどの長崎滞在中に撮影したステレオ写真の片割れであり、ステレオ写真のホルダーにはブルガーの名前が印刷されている。「サムライ古写真帖」参照。この写場で撮影が行われていたのは明治元年から明治6年の間である。それ以前の写真は存在しない。探し出すべきである。はっきり慶応元年と証明出来る写真があれば、偽説が真説になろう。明治2年のこの時期には、三条は東京におり、具経は兄具定と長崎で行動を伴にしていたはずである。なぜ三条や具経だと思い込んだのか。写真の内容も吟味せずに勝手な当て嵌めが行われた。

(23) p.416・・・下岡蓮杖にS.R.ブラウンの娘が写真術を教えたとしているが、教えたのはブラウン本人である。「S.R.ブラウン書簡集」参照。

(24) 全体として、これまで言われて来た俗説を掻き集めて来たもので、目新しい発見はない。似ている写真の当て嵌めに終始している。そのやり方も個人的な主観以外に何も明示されていない。密航者を含めた薩摩藩士の存在についてほとんど触れていないのは、可能性を論証出来ないためであろう。撮影日を絞り込むことが出来なかったことも含めて、文献調査や歴史の事実の探求が大幅に不足している。小説としているが、加治氏の意図が成功したとは言い難い作品である。

(平成19年5月5日)

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2007年2月20日 (火)

フルベッキ 終章

本ブログにアップするのを忘れていた『近代日本とフルベッキ』の最終章をアップ致します。

終章

1.はじめに

 1年間にわたってシリーズ『近代日本とフルベッキ』を連載してきた。フルベッキについては序章および一章で取り上げ、他の章ではフルベッキ写真に写っている(とされている)坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇を一人一人毎月取り上げるという形を取ってきた。そして、終章を迎えることになった今号では再びフルベッキにスポットライトを当ててみよう。

 人によってはフルベッキのことを近代日本の父であると主張する者もいるかと思えば、宣教師はフルベッキの仮の姿であって、本当はパックスブリタニカの世界戦略の一環として日本に送り込まれてきた謀報員(スパイ)であると主張する者もいるなど、人によってフルベッキ像はまさに千差万別である。尤も、フルベッキのことを謀報員と考える人がいるのも無理もないのであり、実際に当時の日本に送り込まれてきた宣教師のほとんどが一方では福音を説き、他方では帝国主義の尖兵として活躍していたからだ。筆者も本シリーズを開始した当時こそフルベッキ=謀報員説に関心を持っていたが、その後フルベッキの人物および時代背景を多少なりとも深く知るようになった現在、フルベッキが謀報員であったかどうかということには関心が薄れ、寧ろフルベッキが日本の近代化に果たした役割に強い関心を抱くようになったのである。よって、本号では最初にフルベッキが日本の近代化に果たした役割とは何だったのかについて改めて簡単な見直しを行い、その上でフルベッキの〝遺志〟をどう継ぐべきかについて私見を述べた後、本シリーズを終えることにしよう。

2.近代日本とフルベッキ

 幕末から明治にかけてのフルベッキの行動は、主に三つの時期に分けられる。

1. 長崎において、将来の日本の指導者に対して啓蒙を行っていた時代
2. 維新政府に協力し、近代日本の基礎造りに貢献していた時代
3. 在野にあって、主に宣教師として活躍していた時代

 安政6年(1859年)に日本に到着し、維新政府に招聘されて明治2年(1869年)に長崎を後にするまで、フルベッキにとって10年間におよんだ長崎時代は、後に日本の近代化に大きく貢献した人材の育成の時期であったともいえよう。大隈重信、副島種臣といった後に維新政府の中枢として活躍した人材を育て上げただけではなく、横井小楠、坂本龍馬といった当時一流の人材との交流を重ね、人脈を築いていった時期でもあり、フルベッキにとっての長崎時代は正に〝充電〟の時期であった。

 次に、長崎時代がフルベッキにとっての〝充電〟の時代であったとすれば、維新政府に招聘された明治2年から、政府との契約が終了して元老院顧問を辞して民間人に戻るまでの明治10年(1877年)という時期は、日本近代化に向けて数々の精力的な貢献を行ったことから明らかなように、フルベッキにとっては正に〝放電〟の時代であったといえよう。そして、見逃せないフルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立があり、これは意外と知られていないフルベッキの功績である。『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』(新人物往来社)という本を、静岡県弁護士会に所属する大橋昭夫弁護士が共著で著しており、フルベッキが日本の法律体制の父となった経緯および法律体制におけるフルベッキの業績を余すところなく伝えた良書であり、関心のある読者に一読をお薦めしたい。ご参考までに、フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があったことは案外知られていない。

 なお、この期間において特記すべきフルベッキの政治面における貢献の一つに岩倉使節団があり、これが後々の日本の近代化に大きな影響を及ぼしたのであるが、この岩倉使節団を提起したのもフルベッキであったことを知る人は少ない。それは岩倉具視がフルベッキに対して提案者であることを秘密にするよう厳重に求めたからであり、もし岩倉使節団が一人の宣教師の提案であると知られたら大騒ぎになったことであろう。岩倉使節団の起草者は自分であるという名誉を放棄した姿勢からも分かるように、フルベッキは日本に対して行った自身の業績について殆ど口外したことのない人物であった。1日でも早く日本の近代化が成り、宣教師としての布教が自由になることのみがフルベッキの唯一の願いだったのであり、そこにフルベッキの厚い信仰心が偲ばれるのである。

 最後に、明治10年頃という時期は日本の近代化路線も方向も定まりつつあった時期であった。すなわち、日本の近代化に向けて手探りの状態であった当初こそ百科全書派を彷彿させるフルベッキの頭脳が欠かせなかったが、近代化に向けた青写真がほぼ完成した明治10年頃は日本の軍事化が顕著になり、自由民権への弾圧が加わるようになった時代だったのであり、既に維新政府にとってフルベッキは〝危険人物〟となっていたのである。そうした自分の立場を悟ったのだろうか、フルベッキは在野に下ってキリスト教普及活動に専念するようになった。フルベッキは聖書の翻訳にも関与し、フルベッキが翻訳を担当した旧約聖書の詩編とイザヤ書は、後に日本文学に大きな影響をもたらしている。

 かように、日本の近代化に大きく貢献したフルベッキであったが、惜しくも明治31年(1898年)に心臓発作のため急逝している。

3.フルベッキの遺志を継ぐ

 明治2年から明治10年にかけて、フルベッキが貢献した分野は何も上述の法律制度だけではない。法律制度以上に貢献したのが教育制度ではなかったと思う。俗に日本の大学の源流は長崎にあると言われるようになった当時の長崎の致遠館などの私塾では自治の精神に溢れ、学問の自由を謳歌していたのであり、これが日本の近代化に大きく貢献したことは言を待たない。ただ、こうした自由な気風が後年の大学設立に生かされることなく、文部省という権力に屈したものに成り果てたのが現在の日本の教育制度であり、そのために日本社会の真の進歩が中途半端なものになってしまったのは返す返すも残念なことであった。現在の日本はバブル崩壊から久しく、かつ近い将来には嘗ての産業革命に匹敵する大きな社会的変革が日本はもとより世界を襲うのは確実であり、そうした新時代に相応しい人材育成に欠かせないのが自治の精神と学問の自由である。その意味で、人材育成という観点から教育のあり方を見直すことは、今日における緊急の課題であるといえよう。幸い、【宇宙巡礼】というホームページを管理している筆者の知人から、人材育成について深く考えさせてくれるという今や絶版となった『教育の原点を考える』(早川聖・他 亜紀書房)という本の筆者の了解を得て、同本を電子化して公開したという知らせが届いた。以下が『教育の原点を考える』のURLであるが、教育とは何も学校教育という問題だけではなく、広くは日本の将来をも左右しかねない大きな意味を持つものであるからして、一人でも多くの読者に目を通して頂き、教育の原点について考えるきっかけとなれば大変有り難く思う。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm

 とまれ、教育は正しく国の骨幹であり、微力ながら筆者も何らかの形で世の中に貢献できればと願っている。その意味で、近代日本の父・フルベッキの遺志を思い出し、明日の日本を背負う若者たちの踏み台になりたいと、心から願う今日ころ頃である。

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2007年1月15日 (月)

「フルベッキ写真」に関する調査結果

 慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真の考察論文の最新版が久し振りに届きましたので、ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。

■謎のフルベッキ写真
■フルベッキ写真の真偽

「フルベッキ写真の真偽」の一番下側の江副廉蔵、中野健明らの氏名が入った写真は、高橋助教授が作成したものです。
高橋助教授の論文中の付表1は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
chronology01.xls

「フルベッキ写真」に関する調査結果

慶應義塾大学 高橋信一

 最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」によって初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されている。明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載された。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。本格的に世に知られるようになったのは自称肖像画家の島田隆資が昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の人物の比定を試み、「西郷隆盛が写っている」としてからである。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が、学界で議論が進んでいないにもかかわらず、勝手に「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館(広運館)の関係者と写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っているというものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。

 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。それ以前にはこの「フルベッキ写真」を撮影出来るほど広い場所はなかった。それまで使われていた写場は横幅が半分以下で、例えば福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている長崎の佐賀藩士たち9名の写真が撮影された。この大隈重信や副島種臣が写っている写真は慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影されたものであることがわかっている。小出は慶應4年6月に帰国したが、そのころ長崎には大隈も副島もいなかった。小出は大隈が長崎に来る前の9月の始めに落馬により亡くなった。この写真は上野彦馬の写場の識別の重要な基準である。上野一郎氏の研究は30年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。すべての議論はここから始めるべきである。「フルベッキ写真」が撮影された広い写場は、慶應4年の始めから明治7年ごろまで使われたと考えられるが、上野写真館の敷地内のどこにあったかは不明である。中島川に沿う彦馬邸の外からの写真は元治年間から大正年間まで、何度となく撮影されて来た。それらを集めて推測すると以下のようになる。19世紀の写真家F.ベアトの写真集「Felice Beato in Japan, 1863-1877」には風頭山から長崎市中を一望するパノラマ写真が掲載されている。この明治5年ごろに撮影されたと思しき写真を拡大すると、彦馬邸を鳥瞰することが出来る。これには白壁の塀沿いにそれまで建てられていた古い平屋の家屋が取り払われた更地が写っている。この場所には明治7年ごろ、ガラス窓を持つ二階建ての屋内写場が建設され、以後屋外での撮影は行われていない。つまり、この空き地に北向きの青天井の写場が作られたのではないかと想像される。それまでの、狭い写場は別の場所で明治2年ごろまで使われていたことが、W.ブルガーの写真集「Wilhelm Burger: Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera, 1844-1920」から確認出来る。

 また、島田氏が用いた人物同定の手法は根本的に間違っている。画像工学の立場からきちんと再評価する必要がある。人間だけでなく、生物の体の各部分は所謂黄金分割のような比率で構成されており、顔の長い人物も丸い人物も各部の比率はほほ同じようなものである。島田氏のやり方では誰が見ても違うと思われる写真同士をかなりの確率で同一人物のものと断定してしまう惧れが高い。このような場合はむしろ、警察が用いているモンタージュの手法が必要である。目・鼻・口・耳・あご・眉毛・ひげ・頭髪などの個々の部分がどのような形をしているか、どのような配置になっているかを慎重に検討した上で、全体のバランスを検証して始めて同定が可能である。島田氏は西郷隆盛以外の人物に自分の手法を適用した証拠を示していない。これも大きな問題で、個々の人物に対する同定の確からしさを定量的に確証すべきだった。現状で島田氏の手法を歴史上の人物の同定に用いるのは極めて危険である。これらの点について言及した歴史研究家はいない。140年前の人物に誰もあったことはないのに、個人の主観に基づいた人物の同定や、根拠もない当て嵌めが行われ、それがなんの反証もなしに受け入れられる風土も問題視されなければならない。

 明治4年8月9日に「散髪脱刀勝手令」が太政官布告されたのを始め、文明の刷新を目指した明治政府の奨励・強制にも係わらず、「断髪」の実行は容易に進まなかったのが実情である(坂口茂樹「日本の理髪風俗」)。明治6年3月20日に明治天皇が断髪し、この年内田九一撮影の洋髪・洋装の天皇の写真が全国に流布したのを契機として普及したと見るべきである。「フルベッキ写真」には月代を剃っていない惣(総)髪の武士がたくさん写っているが、鎌倉時代以後普及した丁髷と月代の風習はおいそれと捨てることが出来なかった。前に紹介した慶應3年初めまでに撮影された佐賀藩士9人の写真では大隈重信を始めとして、まだ月代を剃った丁髷姿が大部分であった。慶應元年当時、惣髪にした何十人もの集団が長崎の市中を歩き回ったとすると、民衆は何が起こったかと目を見張ったであろう。「~惣髪頭をたたいて見れば、王政復古の音がする」の唄の文句にあるように、一般武士が惣髪になったのは、大政奉還・王政復古を体験した後の意識改革の表われだったのではないか。以下に偽説に登場する人物の写真の所在を調べた結果を示すが、慶應元年当時の写真が現存する人物は極めて少なく、後年の写真でもって若い時代を推測して当て嵌めを行うことにかなりの無理があり、似てもいない人物がほとんどである。

陸奥宗光 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「陸奥宗光」
坂本龍馬 「クロニクル 坂本龍馬の33年」、「上野彦馬歴史写真集成」に掲載の写真は慶應3年1月に上野彦馬写真館で彦馬に師事した土佐の井上俊三が撮影したとするのが有力である。これには黒い飾り台が写っており、時期の特定の手懸かりである。
岡本健三郎 「幕末・明治美人帖」
中岡慎太郎 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「勝海舟」
中島信行 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士写真」
後藤象二郎 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「上野彦馬歴史写真集成」に掲載の写真は慶應3年6月に坂本龍馬と船で(舟中八策)京都に上る前に上野彦馬の写場で撮影された。1月に龍馬が撮影された写場とは内装が変わっており、先に述べたように明治2年ごろまで使われた形跡がある。
森 有礼 「森有礼全集」
吉井友実 「北海道大学 北方資料室 明治大正期北海道写真目録」
五代友厚 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」
鮫島尚信 「日本名家肖像事典」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」
黒田清隆 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」
中村宗見 「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」
寺島宗則 別名松木弘安。「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「幕末 写真の時代」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」
別府晋介 「西郷隆盛」
西郷隆盛 「西郷隆盛」、「勝海舟」、肖像画のみで写真は現存せず
西郷従道 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「元帥西郷従道伝」
大久保利通 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」
小松帯刀 「近世名士写真」
村田新八 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」
伊藤博文 「伊藤博文傳」に掲載の文久年間江戸で撮影の写真は慶應元年3月高杉晋作らと撮影された上野彦馬写真館で同じ時に撮られたと見るべきである。「伊藤公実録」、「写された幕末3」、「歴史写真」には明治元年11月16日に福井の高見原四郎に宛てた手紙に添えた兵庫県知事当時の写真が掲載されている。
品川弥二郎 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士写真」
井上 馨 「幕末 写真の時代」、「世外井上公傳」
高杉晋作 「幕末 写真の時代」、「伊藤博文傳」に掲載の写真は慶應元年3月に伊藤とグラバー邸に日参して英国密航の相談をしていた頃の写真である。一方「上野彦馬歴史写真集成」掲載の単独で写る写真は、伊藤と別れた後に一人で撮影されたものと考えられる。
大室寅之祐 「近世防長人名辞典」、「近代防長人物誌」、「防長関係者要覧」に記述なし、ほとんど無名の人物で写真現存せず。明治5年内田九一撮影の明治天皇に似た人物に当て嵌めるためでっち上げられたと考えられる。
広沢真臣 「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレクション」「上野彦馬歴史写真集成」、他に慶應3年8月長崎遊学中の渡邉蒿蔵ら数人と上野彦馬の写場で撮った写真が存在する。
大村益次郎 「大村益次郎」、肖像画のみで写真は現存せず
大木喬任 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士写真」、「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「江藤南白」
副島種臣 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「蒼海遺稿」、「副島種臣全集」
大隈重信 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「大正11年2月「実業之日本」大隈侯哀悼号」
横井大平 「陸奥宗光」に掲載の写真は慶應2年4月留学前に陸奥宗光らと上野彦馬の写場で撮影された。留学中の写真は「ラトガース大学グリフィスコレクション」に残っている
横井左平太 「陸奥宗光」に掲載の写真は慶應2年4月留学前に陸奥宗光らと上野彦馬の写場で撮影された。留学中の写真は「ラトガース大学グリフィスコレクション」に残っている
横井小楠 「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「横井小楠傳」
日下部太郎 「よみがえる心のかけ橋:日下部太郎/W.E.グリフィス」、留学中の写真は「ラトガース大学グリフィスコレクション」に残っている
岩倉具視 「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレクション」
岩倉具綱 「明治30年2月、第3巻4号「太陽」880ページ」
勝 海舟 「勝海舟」

 万が一、慶應元年(正しくは元治2年)の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に英国に送り込んだ事実がある。慶應2年4月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚や石河確太郎(大久保利謙「幕末維新の洋学」)の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島から送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(「森有礼全集」及び大塚孝明「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だった藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影された際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、この時上野彦馬の写場で撮影された彼らの写真が残っている(春畝公追頌会「伊藤博文伝」)が、新しい写場ではない。島田・山口説に従えば「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士、寺島宗則、中村宗見、鮫島誠蔵、五代友厚、森有礼の5名が写っていることになる。その内、五代友厚と見なされる人物は「江藤南白」によれば明らかに山中一郎であり、他の全ても単なる当て嵌めと考えられる。

 その他の関連人物の内、勝海舟は慶應元年の1年間は、前年軍艦奉行を罷免され、江戸赤坂永川邸に蟄居させられていた。福井藩士の日下部太郎は9月に藩命を受け長崎に赴き(福井市立郷土歴史博物館「よみがえる心のかけ橋 日下部太郎/W・E・グリフィス」)、済美館に入った。横井小南の甥たち、横井大平・左平太兄弟は当時神戸の海軍操練所にいたが、3月18日に廃止になってから陸奥宗光・中島信行らと長崎に出てフルベッキの教えを受けることになる。横井小南は4月になって岩男内蔵充の手紙で、兄弟が語学所(済美館)に入ったことを知る。小南は文久3年福井藩で失脚し、熊本の自宅で謹慎しており、8月に持病の治療のためと願い出て、長崎の兄弟に会いに行く。この時、フルベッキには会っていない。留学の仲介を荘村助右衛門に頼んだ(福本武久「呑剣奔る 小説横井小南」)。陸奥宗光は何礼之の私塾でフルベッキに学んだ記録が残っている。大隈重信らが後に致遠館となる佐賀藩校で英学の教育を始めるのは、これより後である(久米邦武「鍋島直正公傳」)。岩倉具視の息子たちが長崎に出向いたのは参戦した戊辰戦争が終わった明治元年秋以降で、大隈重信や副島種臣の活躍に感銘を受けた岩倉具視が佐賀藩の教育を受けさせたいと希望するようになったのは慶應4年5~6月である(同じ文献)。その岩倉具視自身は皇女和宮降嫁の強行で反感を買い、文久2年9月から慶應3年11月まで京都から追放になって、京都北東の岩倉村に身辺危険を感じながら蟄居していた。各藩の藩士が来訪するようになるのは慶應元年春以降である(大久保利謙「岩倉具視」)。江藤新平は脱藩の咎により文久2年に小城に永蟄居させられ、禁が解かれたのは大政奉還後の慶應3年12月である。慶應元年12月7日に太宰府に潜行して三条実美に面会しているが。大村益次郎は下関にいて、慶應元年(元治2年)2月7日に但馬に潜伏中の木戸孝允に手紙で下関および藩内の戦況を報告し、2月9日に銃器購入の目的で壬戊丸を処分しに上海に出かけた。12日に高杉晋作から木戸孝允の居所を尋ねられた(大村益次郎先生伝記刊行会「大村益次郎」)。このころ木戸孝允は行方が秘された存在だったのである。大久保利通は当時、吉井友実と共に薩摩から博多経由で京都に出かけており、2月2日に博多出帆に当たって、2月24日に京都から夫々西郷隆盛に宛てた手紙を出している(「大久保利通文書」)。2月9日に小松帯刀と大久保利通が参内し、参勤交代停止の朝命を請うた。中岡慎太郎と坂本龍馬は2月5日と12日に夫々京都と大阪で土方楠左衛門と会合を持っている。さらに中岡慎太郎と大久保利通は22日に京都で会っている。全体を見ると、陶業者山口氏が写っていると主張する人物の内、20名以上が、慶應元年2月に長崎に滞在出来る理由付けが困難なのである。

 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英学塾、致遠館関係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のために、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っており、それを参考にした。しかし、大隈に関しては後に述べるように、極めて議論がある。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」によって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭「鍋島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大橋昭夫・平野日出雄「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」とグリフィスの「Verbeck of Japan」、村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」を参考にした。彼の事績については尾形裕康「近代日本建設の父フルベッキ博士」が詳しい。尚、尾形氏のこれを含むいくつかの著作中に「長崎時代のフルベッキの門下から、大隈重信・副島種臣・大木喬任・伊藤博文・加藤弘之・辻新次・杉亨次・何礼之・岩倉具定・岩倉具経・江藤新平・中野健明・細川潤次郎・大久保利通・横井小南・・・」とあり、これを引用する文献が多数あるが、これは、戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の文章中の「氏の交際せし人、或は其門下の学生には・・・」の文章の解釈ミスによるまったくの混同であることに十分注意しておく必要がある。全員が長崎時代の弟子という訳ではない。また、戸川が参考にしたワイコフの「フルベッキ小伝」は現存しておらず、その草稿の決定稿は1909年に出版された「Biographical Sketches read at tde Council of Missions」中の明治学院の教授M.N.ワイコフによるフルベッキの紹介文である。それを読むと、戸川は明治4年「米欧回覧」の実現に対するフルベッキの貢献について知らなかったことがわかる。

 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具視、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具視公傳」などで調べた。「大隈侯八十五年史」、「日本のフルベッキ」、久米邦武「鍋島直正公傳」等を総合すると、慶應元年夏ごろ、大隈重信は長崎海軍伝習所や弘道館の佐賀藩士に呼びかけ、長崎の佐賀藩校で副島種臣を学頭として英学の教授を始め、フルベッキは非公式に長崎奉行所の済美館と掛け持ちの授業を引き受けた。この時から相良知安は慶應3年暮れに娘が生まれたのを機会に佐賀に帰るまで、致遠館で学んだ。慶應4年、年明けに鍋島閑叟の正式な侍医となり、以降京都での行動を共にしている。「岩倉具定公伝」によると、岩倉具視は上の息子二人には漢学を、下の二人には洋学を学ばせたいと考えていたので、この表から推測すると久米邦武は明治元年の10月に折田彦市・宇田栗園の二人の従者(「久米博士九十年回顧録」)と伴に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟をフルベッキに預けることにして、石丸安世・相良知安らに長崎まで送らせたのではないか。フルベッキはこの時点で大阪に移籍する(東京に行くことになるのは、これより後である)ことが決まっていたが、致遠館は存続することになっていた。致遠館が廃止になったのは、版籍奉還があり、佐賀藩の内情が変化、生徒の大部分が大学南校に留学する許可を得て東上し、教員が佐賀に戻って新しく学校が作られた明治2年8月以降である。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。

 同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎歴史文化博物館に所蔵、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎商業百年史」に掲載されている。尚、これを産能大学の「写真の開祖 上野彦馬」や石黒敬章の「幕末・明治のおもしろ写真」中の上野彦馬が写っている写真と比較すると、後列右から4人目の不明となっている人物は彦馬自身と思われる。前者の写真の左端には草履を置いた石囲いをした植え込みと木の枝が写っているが後者にはない。またフルベッキのネクタイの形の違い、敷物の位置のずれなどから、二つの写真には撮影時期に多少の差異があると推定される。尚、東京富士美術館にはこの済美館の方の写真の同時に撮られた別バージョンが所蔵されている(「開かれた窓 写真誕生の170年」)。産能大所蔵の致遠館の「フルベッキ写真」と同様、ヨーロッパで競売に掛かったものが、国内に持ち込まれた。何故、二種類が世に出、どのように海外流出したか、今後の解明が必要である。彦馬らしき人物の位置のみが異なっているのは興味深い。

 フルベッキを囲む済美館生徒の集合写真には上記とはまったく別の時期に撮影されたものがあることは知られている(松本逸也「読者所蔵 「古い写真館」」及び「幕末漂流」)。こちらはフルベッキが済美館で教え始めた元治年間のもので、上野彦馬がきちんとした囲いを設けた写場を作る前に、庭に屏風のようなものを立て撮影した。中列の右端に英語教師の岡田好樹、左から二人目に同じく柴田昌吉(岩崎克己「柴田昌吉傳」)がいるが、柴田は慶應3年3月、江戸の海軍伝習所の通詞として、柳谷謙太郎と出仕したので、明治以降の撮影は考えられない。

 フルベッキは11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。致遠館の今後について話し合ったと思われるが、「鍋島直正公傳」や「フルベッキ書簡集」には記述がない。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新しい大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。大隈は明治元年の9月から11月23日ごろまで、英国水夫暗殺事件の取調べのため長崎にいたと考えられる(「大隈侯八十五年史」、東京大学編と早稲田大学編の「大隈重信関係文書」)。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。

 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。同定の方法は、間違って写っていると見なされる人物も含めて、関係者の写真を各種の文献から調査し、顔の各部を慎重に比較することで行い、付表1でまとめた人物の当時の行動と照らし合わせて推定した。今後は画像解析による顔認証の技術を利用した検証が必要である。人物説明中に同定に用いた写真が掲載されている文献を示した。

フルベッキ 写真中央の外国人(村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」。済美館の写真とは服装、胸元のネクタイ等の形が違うので同じ日に撮影されたものではない。グリフィスの原本「Verbeck of Japan」にはフルベッキの写る大学南校の大集合写真が掲載されている。東京大学図書館には同じ時に写されたグリフィスの写る同様の別バージョンの写真が現存する。撮影日はグリフィス・コレクション(「Japan tdrough Western Eyes 1853-1941, Part 2」)中のグリフィスの日記から、1872年7月19日(明治5年6月14日)であることが分かる。「Verbeck of Japan」には1871年となっているが、その時グリフィスは福井にいた。尚、撮影者は当時の長岡出身の学生内田三省氏が東大所蔵のものと同じ写真を人物名の書き込みといっしょに残しており、内田九一であることが、浅田正春氏の協力で判明した)
エマ フルベッキの左隣りの子供(長男のウィリアムとも考えられているが、「立教女学院百年史資料集」や石黒敬章氏所蔵で「明治の若き群像」所載のフルベッキの家族写真から、次女のエマと思われる。尚、エマの誕生日は1863年2月7日であることがクララ・ホイットニー「クララの明治日記」に書かれている。フルベッキの手紙(横浜開港資料館蔵「tde Reformed Church in America, Japan Mission」)の原文を正確に解釈すると、マリアが出産の床に就いたのが2月4日であることが分かる。このことは「フルベッキ書簡集」には触れられていない))
大隈重信 中列中腰の人物中左から2人目(「実業之日本-大隈侯哀悼号」、「大隈伯百話」。大隈の顔は広く大きな額、鋭い眼、への字の唇、長い顎が特徴だが、この写真にはそれが見られない。耳の形が違う。また、頭髪の中央部が盛り上がった形や額中央部の大きな凸凹(解像度の高い写真でないとわからない)は他の大隈の写真に類似のものを見出せていない点が問題である。大隈は明治元年9月初めから11月23日の間に、前年長崎の丸山で起こった英国水夫殺人事件の処理に奔走しており(「大隈重信関係文書 第2巻」)、撮影時期に長崎に居たことは立証出来るが、「江藤南白」や大隈自身が編纂し、明治40年に刊行された「開国五十年史」に掲載されている「フルベッキ写真」には多くの人物の氏名を入れたキャプションがついているのに、極めて重要なはずの大隈の名はない。早稲田大学には「Verbeck of Japan」の原本が所蔵されているが、明治39年12月11日大隈自身からの寄贈になるものである。大隈はこれを読んで、グルフィスの間違いを訂正する必要を感じたのではないか。さらに大隈自身が「フルベッキ写真」に言及した記録は残っていない。これらの点は今後慎重な検討を要する課題である。尚、森重和雄氏から、この「フルベッキ写真」に写る人物はアソカ書房版「写された幕末1」の「郷土の伜」に写る人物と酷似しているとの指摘を受けている。この写真は慶應2年ごろ上野彦馬の写場で撮影されたと推測出来る。また、「出島の科学」所載の「ボードインと医学生たち」の写真中にも同様の人物が見られる))
相良知安 左端の立ち居の人物(鍵山栄の「相良知安」、長崎大学「出島の科学」他。鍋島直正の侍医として二度に渡り、直正に従って京都に出かけており、岩倉兄弟とは面識があったと考えられる。記録はないが、佐賀での歓迎後に長崎まで随行したのではないか。直正はこのころ、湯治に出かけたりしていて、体調は良好だった。「相良知安」掲載の知安が正装した写真は明治2年以降に内田九一の東京・浅草の写場で撮影されたことが、後方の欄干の形で確認された(森重和雄氏より)))
中野健明 知安の右隣り(福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵))
倉永猪一郎 中野健明の右(「江藤南白」中の写真))
鍋島平五郎 倉永猪一郎の右隣り(毎日新聞社「日本の肖像 第8巻 旧皇族・華族秘蔵アルバム」))
村地才一郎 鍋島平五郎の右隣り(「江藤南白」中の写真、村地慮山「蝉蛻物語」、昭和45年10月号「佐賀史談」、佐賀の乱に係わったが運良く生き残った。札幌地方裁判所長))
丹羽龍之助 大隈重信の左隣り(「江藤南白」の口絵を参考にして同定したが、解像度が悪い。「アサヒグラフ写真百年記念号」所載の写真とは似ていないので、他の人物の可能性もある。しかし、口絵のキャプションにあるので、必ず写っているはずである))
江副廉蔵 大隈重信の前の二人のうち右(「佐賀幕末明治500人」、「在京佐賀の代表的人物」)
岩倉具経 大隈重信の右隣り(「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」中にある岩倉兄弟が明治3年初め、服部一三・折田彦市・山本重輔と米国留学前に撮影した写真。「フルベッキ書簡集」にある岩倉具定と写っているのは具経でなく、小姓である))
鍋島直彬 岩倉具経の右隣り(「鍋島直彬公伝(昭和45年版)」。家紋が杏葉である。鹿島藩主。慶應4年2月戊辰戦争で徳川慶喜追討に出陣したが、長崎防備の命を受ける。岩倉兄弟を致遠館に迎えるにあたり、佐賀藩側の代表として列席したと考えられる))
石井範忠 鍋島直彬の左後方(「江藤南白」、幼名範次郎))
丹羽雄九郎 石井範忠の左二人目(「佐賀藩海軍史」、三重津海軍学校教諭。龍之助とは別人))
山中一郎 後列右から6人目(「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」))
香月経五郎 山中一郎の右隣り(「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人」))
副島要作 香月経五郎の右隣り(「佐賀 幕末明治500人」の口絵))
中島永元 後列右から2人目(「佐賀 幕末明治500人」の口絵))
石橋重朝 副島要作の前(「佐賀 幕末明治500人」))
石丸安世 石橋重朝の前(「佐賀 幕末明治500人」。岩倉兄弟を佐賀から長崎まで送ったことが「久米博士九十年回顧録」に記されている。大正11年「実業之日本、大隈侯哀悼号」中の大隈夫妻及び山尾庸三夫妻がアーネスト・サトウ等外人と写る写真は明治5年11月14日長崎の彦馬の写場で撮影されたものだが、石丸も写っている))
岩倉具定 フルベッキの右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」、岩倉具定公伝」。岩倉兄弟はフルベッキが東京に去った後、広運館に移り、後任のスタウトの指導により勉強を続けたことが、明治3年彼らの留学時にフルベッキが本国へ送った紹介状の手紙の原文から知れる(横浜開港資料館蔵「tde Reformed Church in America, Japan Mission」。「フルベッキ書簡集」の記述は誤訳である。尚、岩倉具綱・南岩倉具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、漢学を学ぶため弘道館に入ったので、長崎に来ていない))
折田彦市 岩倉具定の前方、前列右から4人目(板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」。岩倉兄弟の下僕として長崎遊学に随行、岩倉兄弟と伴に米国留学、ニュージャージー大学に入学。後の第三高等中学校長。尚、折田以外の下僕は当時岩倉具視の側近だった宇田栗園(「岩倉具定公伝」)で、兄弟の警護のために長崎まで随行したと考えられる。「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」には佐賀への道中や致遠館での兄弟の様子が述べられている))
宇田栗園 前列相良知安の右隣(宇田栗園「静観亭遺稿」、明治2年留守判官となる))
大塚綏次郎 フルベッキの右前(板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「専修大学120年 1888-2000」。明治4年ラトガース大学留学))

 香月経五郎、丹羽龍之助、江副廉蔵は慶應3年12月に、山中一郎は慶應4年9月に致遠館に入学している(岩松要輔「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学))。その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時副島は40歳に近く、月代を剃っていた。また、明治元年当時あご髭を生やしていた(「蒼海遺稿」)。若い時の写真が似ているというだけで、人物を振り当てるのは学問的でない。伊藤博文は当事、兵庫県知事の職にあり、9月3日に起こった神戸での米国水夫暴行事件の処理に10月16日まであたっていた。また、11月の初めに版籍奉還の建言を政府にしている(「伊藤博文傳」)。長崎に出向いた形跡はない。慶應元年、福井藩の命令で長崎遊学した日下部太郎、熊本藩の横井大平、横井左平太は済美館で学び、当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。慶應年間、薩摩・長州・土佐から何人もが長崎に遊学し、済美館や何礼之の私塾に通っっていたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。「佐賀県教育五十年史(上)」および勝田銀次郎「服部一三翁景伝」によれば、薩摩の松方正義と長州の服部一三が致遠館に出入りしていた形跡がある。付表1に見るように大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀は京都におり、上京の準備をしていた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光(「陸奥宗光」は数冊出されている)は面長であったことが各種肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。

 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は上記の岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に40名余りが詳しく記載されている。また、明治2年2月19日付けで佐賀藩より出された「請御意」(佐賀県立図書館 佐賀鍋島文庫蔵)には、東京等への留学が許可された致遠館の教師および生徒27名の名前が挙げられている。両文献にある人物の大部分が「フルベッキ写真」に写っていると考えられるが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本のフルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎(若すぎる)などを特定出来ていない。サンフランシスコ赴任前に税関長を務めた柳谷謙太郎の写真は横浜税関に所蔵されているが、岩崎克己「柴田昌吉傳」掲載の写真とも参照して比較しても該当者は認められない。グリフィスは「Verbeck of Japan」編纂時には致遠館の「フルベッキ写真」が手元になく、済美館の方の写真を掲載した。よって、不確かな情報で記述した大隈重信と同様に彼の勘違いの可能性が高い。ただし、岩松要輔氏のリストにある辻小伝太や大塚綏次郎の他、鶴田揆一、副島要作の名は創立当初の佐賀県立中学校(分離前の佐賀高等学校)の教員記録(「佐賀県教育五十年史」)にあり、郷土の教育に尽力し、佐賀の地に骨を埋めたことから、彼らの子孫が現存する可能性はある。

 その他の「フルベッキ写真」解明の手懸かりとして、人物像中の家紋が考えられ、島田氏や一説には北海道テレビのプロデューサが写真を大幅に拡大して家紋の判読を行って、人物を特定したと伝えられている。しかし、例えば「フルベッキ写真」の最も右端と左端の人物の家紋は正面から写っているにも拘らず、露光オーバーで細部が完全に潰れており、写真の解像度の問題でなく、拡大しても判読は不可能である。その他の極限られた可能性についてみると、以下のようになる。最もよく判定出来ているのはフルベッキの右隣りの人物で、極めてめずらしい「二重輪」の紋であり、別府晋介の「三つ扇」ではない。フルベッキの後ろの西郷隆盛と誤解された人物の左隣りの人物は大久保利通の「三つ藤巴」の紋ではない。さらに、その左隣りの人物は「鍋島杏葉」の紋の鍋島直彬であり、小松帯刀の「抱き梶の葉」ではない。井上馨は当時長崎奉行所の「済美館」の後を引き継いだ英学校「広運館」を監督していたのでフルベッキとの繋がりはあった。しかし「丸に三つ星」の井上家の次男として生まれ、安政2年志道家の養子(家紋は「蛇の目」)となって一女をもうけていたが、文久3年洋行前に離別し、井上姓に戻った。元治元年以降の写真には新しく創作した「桜菱」の紋が写っており、井上馨の墓石でも確認出来る。江副廉蔵は家紋から特定することは出来ない。その他の人物には家紋は写っていない。

 「フルベッキ写真」には相当数の人物が写っているので、鶏卵紙に焼き増しされたものが多数配布されたと考えられるにも係わらず、実際は極少数しか残っていない。確実に分かっているのは、産業能率大学にあるパリでの競売に掛かったものと江副廉蔵の子孫の家に伝わるものだけである。前者はオリジナルに極めて近いもので、フルベッキから米国のオランダ改革派教会本部に早期に送られたものと考えられる。グリフィスの「Verbeck of Japan」執筆時にはアメリカにはなかった。挿入した写真は遺族から借りた「済美館」のものである。後者は島田氏が同定に用いたものだが、前者と違い鶏卵紙に焼き付けられたものではなく、後年小沢健志氏が取得し、「勝海舟」などに掲載された名刺判の元になった写真を明治年間に複写したものであることが、表面に直接付けられたものでない、写し込まれた皺やキズ等で判明した。同じ元写真からの複写が東京大学史料編纂所に「中野健明氏関係史料」として保管されている。元写真の所在であるが、長崎大学の武藤文庫にも同様に複写された写真が残されており、その由来は上野彦馬写真館が顧客の見本用に作った写真アルバムだと考えられる。この写真アルバムの内1冊は現在長崎の「江崎べっ甲店」が所蔵している。明治40年エマより提供されて「開国五十年史」に掲載されたものの所在は不明である。大正3年「江藤南白」掲載の写真とも同一かどうか確認出来ない。

 前述したように「Verbeck of Japan」の原本には致遠館の「フルベッキ写真」は掲載されていない。使われたのは、フルベッキの家族から借りたと思われる「済美館」のものである。グリフィスはこの写真の人物に言及せず、「致遠館」の写真についてのみ述べているが、大隈重信と柳谷謙太郎が写っているとする記述には疑問がある。グリフィスは明治3年の暮れに日本に来ているが、おそらく、それ以前にフルベッキが米国の改革派教会本部に送った「フルベッキ写真」を見ており、うろ覚えで彼らとは来日後ほとんど(大隈も含めて)面識がないのに、30年後に集めた知識を基にそのように書いたのであろう。偽説にある日下部太郎、横井大平・左平太兄弟はラトガース大学でグリフィスが常に世話をした生徒であるから、一目で識別出来たはずだが、他のページには3人の記述があるにも係わらず、ここでは名前が挙がっていない。特に日下部太郎は極めて優秀な成績で卒業を前にして肺結核で死亡し、特別に贈られた記念の金の鍵はグリフィスが明治4年来日の際に持参し、福井の実家に届けている。そのような人物を見逃すはずがない。このことからも、偽説の信頼性は既に崩壊していることが分かる。明治3年に米国留学し、ラトガース大学に入った岩倉兄弟たちはちゃんと識別出来ている。なお、グリフィスが日本で集めた各種資料はラトガース大学に「グリフィス・コレクション」として保存されており、「Verbeck of Japan」掲載の他の写真は残っている。村瀬寿代氏の訳編「日本のフルベッキ」にはそれらの写真は使われていない。尚、写真以外のほとんどの「グリフィス・コレクション」に関してはマイクロフィルム化されたものが東京大学アメリカ太平洋地域文化研究センター等にあり、閲覧可能である。

 近年陶板額等、フルベッキの子孫に伝わるものと云うのが流布しているが、真偽は不明である。フルベッキの子孫が戦後まで、日本に在籍した証拠はない。朝日新聞等に掲載された彩生陶器の陶板額の広告には、フルベッキのひ孫として中村保志孝氏の名前が紹介されているが、彼の父ピーター・グーズワード氏は1863年オランダに生まれている(レイン・アーンズ及びブライアン・バークガニフ「時の流れを超えて 長崎国際墓地に眠る人々」)。フルベッキの長男ウィリアムは1861年1月に日本で生まれており、まったく年代が合わない。中村氏の持っていた「フルベッキ写真」は戦後、人からもらった完全な白黒コピーで、鶏卵紙のオリジナルではない。フルベッキの子供たちの消息については村瀬寿代「日本のフルベッキ」に詳しいが、早世した最初の子供長女のエマ・ジャポニカや日本に向かう船中で亡くなった六男バーナードを除く全員がアメリカに渡り、彼の地で生を終えた。最も長く日本に在住した次女のエマは夫の東京大学英国法教師ヘンリー・テリー(和田啓子ICCLP Annual Report 2004「明治お雇い外国人から、2004年夏法科大学院サマースクールへ」)が停年退職した明治45年にアメリカに渡った(宮内庁書陵部所蔵「明治大正年間雇外国人教師人名録」)。彼女は明治32年フルベッキの死後に結婚しており、家族がいたとしても日本に残せる年齢ではない。

 こうした「フルベッキ写真」自体に関する情報が極めて少ない状況に至ったのは撮影の目的が岩倉兄弟の歓迎のためだったことにより、極少数の関係者にのみ配布されたものだからと推察される。全員に配布されたら莫大な費用が掛かったはずである。今回の調査で、岩倉家には「フルベッキ写真」のオリジナルが残されていたことを昭和の始めまでは確認出来た。岩倉家から昭和初年に贈られた「フルベッキ写真」の複製を大久保利通の子孫、大久保利泰氏が所蔵している。岩倉家にはオリジナルは現存しておらず、戦災で焼失したものと思われる。「岩倉公旧蹟保存会 対岳文庫」には大久保家所蔵と同じく京都の森田写真館で作られた複製が現存している。致遠館の生徒・教師とフルベッキとの送別のためではなかった。また、佐賀藩の多数の出身者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なものだったとされているが、記録が曖昧なままである。おそらく在籍者は数十名に留まるだろう。それらの子孫が記念のために、いつのころか名刺判に複写したものを所持している可能性は十分考えられる。その内の一枚は最初に述べたように石黒敬七「写された幕末」にかって掲載されたが、森有礼所蔵のアルバム中にあったもので、キャプションは「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘を囲む44人の各藩生徒」となっていた。もちろん森の記入ではなく、石黒敬七氏の記入である。「森有礼全集」には明治2年7月に森が長崎から名和道一宛てに出した手紙が残っており、その中で岩倉兄弟の長崎での勉学の様子を伝えているが、その森がこの「フルベッキ写真」を見てこのように記述するはずはない。他にも江副廉蔵の子孫や古写真収集家の小沢健志氏の手元にある古本屋から購入した複製などが現存しているが、入手の経緯は不明である。

 明治31年フルベッキが亡くなった年に墓碑を建立するための募金活動が行われた。その報告書「故フルベッキ先生紀念金募集顛末報告」(早稲田大学所蔵「大隈重信関係文書」)には216名の賛同者の名前が記されているが、致遠館関係者は大隈重信を含めても10名に満たない。明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。明治初期の各種官員録に「フルベッキ写真」に写っている可能性のある人物として鍋島直彬、中山信彬、中野健明、鶴田揆一、江副廉蔵、石橋重朝、堤 董信、中島永元、大塚綏次郎などを見つけることが出来る(川副 博「明治維新政府の佐賀閥」(昭和42年4、6月「佐賀人」))。しかし、維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるにも拘らず、佐賀出身者は20名余りと薩摩・長州の数分の一である。各種の明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎等が断罪された佐賀の乱を引き金とする明治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの薫陶を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、明治後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。

 偽説を主張する人たちには、常識的なものの見方が欠落していると言わざるを得ない。根拠もなく当て嵌められた人物の内、刑死・戦死・暗殺など異常な死に方をした人物は森有礼、香月経五郎、別府晋介、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、江藤新平、大村益次郎、中岡晋太郎、広沢真臣、坂本龍馬、横井小南と1/4に及ぶ。岩倉具視や大隈重信もテロに遭って死ぬところだった。本当は写っているはずの山中一郎は佐賀の乱で処刑された。あの時代は和気藹々で未来を語る希望に満ちた時代と云うよりは、命懸けで生き方を模索した時代だった。慶應元年にこれだけの大規模な秘密の会合をするだけの意思の疎通が出来ていれば、薩長同盟は愚か大政奉還も版籍奉還ももっと早く行われ、戊辰戦争・西南戦争そして佐賀の人たちにとって諸悪の根源であった大久保・伊藤路線による佐賀出身の人材排除の切っ掛けを作った佐賀の乱も不要だったのではないか。そういう歴史認識が根本的に欠如している。佐賀県の地元にそのような認識を明確に表明する意識がないのは極めて残念である。香月経五郎、そして五代友厚ではなく山中一郎は留学から帰ったばかりで乱に巻き込まれて命を落とした。優秀な生徒を亡くしたフルベッキの無念さを痛切に感じる。フルベッキが晩年大隈たちと疎遠になり、布教活動に専念した一因だったかもしれない。

 「フルベッキ写真」ではフルベッキをカメラの中心に置いて数人が椅子に坐っているが、その両隣に坐る岩倉具定と具経がこの写真の中で最も重要な、位の高い人物である。岩倉具経の前に岩倉具視あるいは具慶がいるとの主張があるが、何処の世界に親を跪かせて写真を撮る人間がいるのか。この写真はお公家の子息である岩倉兄弟が一介の藩校に入学したことを記念するため撮影された、彼らを迎えた致遠館の教師と生徒による集合写真である。何処かへ消えて行った致遠館の生徒たちの消息を解明するために、おそらくは佐賀を中心とした何処かにいるであろうその子孫たちの記憶を掘り起こして行くのが、今後に残された課題である。 

(平成19年1月7日)

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2006年5月 8日 (月)

『週刊ポスト』の記事になったフルベッキ写真

4月28日号の『週刊ポスト』でフルベッキ写真が取り上げられました。高橋信一慶応大学助教授も登場されている他、本ブログ【教育の原点を考える】も紹介されています。

http://www.nextftp.com/tamailab/photo/article02.htm

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2006年2月 6日 (月)

新聞記事になったフルベッキ写真

昨日の2月5日、東京新聞でフルベッキ写真が特集として取り上げられました。高橋信一慶応大学助教授も登場されていますので是非一読ください。

http://www.nextftp.com/tamailab/photo/article01.htm

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2005年9月30日 (金)

本ブログの今後について

m022 6月12日にブログをスタートしてから、早いもので今日で3ヶ月半が経ちました。その間の体験により、ブログとはどういうものか良く分かりましたので、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】を将来“改装”してブログ化する際に、今回の体験を十分に生かしたいと考えてます。なお、『教育の原点を考える』の電子化も、電子化プロジェクトメンバーの一人、相良さんが最終章のチェックを行っている最中であり、まもなくアップできると思いますので暫くお待ち願います。ともあれ、以前から再三お伝えしてきましたように、3ヵ月半にわたって教育を主テーマに毎日書き続けてきた本ブログの更新は、明日の10月1日以降からは不定期となるものの、今すぐに閉鎖するというわけではなく、当面は不定期更新を続けながら残しておきたいと思いますが、将来においてブログ版「藤原肇宇宙巡礼」が開設された場合、本ブログの閉鎖を視野に入れています。

3ヶ月半にわたってブログを毎日書き続けることが可能だったは、過去において書き連ねてきた私自身の原稿、地質学者の藤原肇氏をはじめとする大勢の先達の原稿の一部を編集し、それに一言二言個人のコメントを付け加えた形ものを数多く投稿してきたことにより、毎日の更新が可能だったと云えると思います。しかし、そうした過去の“原稿”、特に私自身の“原稿”がそろそろ無くなりかけたのが、更新が不定期になる大きな理由の一つです。また、8月の下旬に久しぶりの映画の台本の翻訳が入り、ブログに向かう時間がほとんど取れないという時期がありましたが、その時は苦し紛れに過去の“原稿”を引っ張り出してきて、10回シリーズにわたる「フルベッキ写真」を流したのですが、今から振り返るに怪我の功名だったと思います。何故なら、フルベッキ写真シリーズを通じ、高橋さんをはじめとする多くの人たちと知り合うことができたからです。

ともあれ、この3ヵ月半で過去の原稿を中心に大分“放電”(ブログへの投稿)してきましたので、ここ暫くは仕事と教育を中心に、残りの時間を“充電”(読書、セミナー参加等)にあてていく予定です。それでも気が向けばブログに書くことがあろうかと思いますので、忘れかけたころにご訪問ください。その意味で、ブログ【教育の原点を考える】を今後も宜しくお願い申し上げます。ご参考までに、本ブログの各カタログについては、今後は以下のように取り扱う予定です。

【教育】…既に 「暗黒日記」にて定義した教育について、今後も書き続けていきたいと思います。何となれば、教育こそ国の根幹だからです。
【エネルギー】…毎月、某組織のエネルギー関連の記事の翻訳を担当していることもあり、20世紀を動かしてきた石油文明から、21世紀を動かしていくであろう情報文明にスムーズに移行するための道標になればと願いつつ、筆を進めていく所存です。
【フルベッキ】…その後、高橋先生が精力的にフルベッキ写真についての調査を根気よく続けておられ、その後も時折戴く報告メールに書かれた新しい発見に目を見張ることがしばしばです。高橋さんに頼んで、フルベッキ写真について調査のまとめをお願いしている最中です。
【書籍・雑誌】…過日、某官庁に勤める弟と本のことで話し合った際、「忙しいので月に一冊がせいぜい」と言っていました。私の場合はフリーランスであることからまとまった時間も取れることもあり、同年代と較べて割と書籍を良く読む方だと思いますので、今後もこれはと思う書籍を順次皆様に紹介していくつもりです。
【経済・政治・国際 】…今後もブログに書いても支障の出ない範囲で書き続けます。過日の9・11選挙の正体のように、タイムリーな話題を取り上げていくかと思えば、大久保利通などのように過去の政治家や財界人を取り上げることもあります。
【翻訳】一人の翻訳者として、翻訳の仕事そのもの以外に、翻訳ビジネスあるいは翻訳の将来についても関心がありますので、今後も時々翻訳についての情報を流していくつもりです。

最後に、今後は不定期になるのにもかかわらず、上記のカテゴリー以外に新たなカテゴリー【フリーメーソン】を設けることにしました。本ブログでも時折フリーメーソンについて書き連ねてきましたが、このテーマは非常に重要なテーマであるだけでなく、現在の私たちの生活は無論のこと、21世紀を生きる人たちの行動・思考様式に大なり小なりの影響をもたらすであろうことは必定であることから、新たにカテゴリーとして独立させることにしたものです。今月は20日あたりまでバタバタしていますが、それ以降にでもフリーメーソンについての第一弾を書く予定です。

今度もブログ【教育の原点を考える】を宜しくお願い申し上げます。

1998年9月30日にサラリーマンを辞め、今日でちょうど7年目のサムライ拝

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
 散歩コースの里山では手入れが行き届かなくなり、ミドリヒョウモンを見かけることが少なくなりました。それではと、手入れがされている里山に足を伸ばしたところ、いました、いました。(むうじんさん)

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2005年9月20日 (火)

ホームページ【フルベッキ写真】

新たに【フルベッキ写真】というホームページを立ち上げましたのでお知らせ致します。

また、フルベッキ写真から数少ない“本物”の一人と判明した中野健明の子孫にあたる方から、ブログ【フルベッキ】を紹介していただきましたので併せてお知らせ致します。
フルベッキ、西郷隆盛、中野健明
http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/cult/cultd8.htm

その後も高橋信一助教授がフルベッキ写真の真相について追求しておられますので、いずれ纏めて皆様にも御報告させていただく予定です。今後も日本の近代化に大きく貢献した外国人(正確には、オランダ国籍を喪失した晩年のフルベッキは無国籍人)の一人、フルベッキを取り上げている本ブログにご注目ください。

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2005年9月 7日 (水)

フルベッキ写真の懲りない面々

フルベッキ写真に関する記事を本ブログに公開しましたが、これから徐々に大勢の人たちが検索エンジン等を通じて本ブログに訪問してくることが予想されます。そうした訪問者の中には、フルベッキ写真に西郷隆盛や明治天皇などが写っていると主張しているHPオーナー達もいることでしょう。彼らが今までのフルベッキ写真についての主張を訂正するのか、あるいはあくまでも西郷隆盛や明治天皇などが写っていると、今後も主張を貫き通すのかは分かりませんが、ここは記録に残す意味で、明治の元勲がフルベッキ写真に写っていると主張する主なサイト(阿修羅などの掲示板や2チャンネル除く)を以下に羅列しておきます。

■異業種交流会BIN
ここでは西郷隆盛や明治天皇らが写っているとして、フルベッキ写真を80,000万円で販売しています。
http://www.binnet.co.jp/shop/details/054.html

■某市会議員
HPのオーナーは某市の市会議員さんです。その某市会議員さんのサイトでフルベッキ写真をアップしているページに、「……中丸薫さん(国際政治評論家)が『真実のともし火を消してはならない』(サンマーク出版)と言う本を出版され、同じ写真が紹介された……」と書いてあるのが目に止まりました。明治天皇の孫と称する中丸薫氏が、フルベッキ写真に祖父が写っていると信じ込んでいることが明白です。
http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

■幕末維新新選組
これは新撰組を中心テーマにしたサイトであり、『幕末維新新選組』(新選社)という単行本も出版しているようです。このサイトも西郷隆盛や明治天皇らが写っていると主張しているサイトです。
http://www.bakusin.com/toubaku.html

■有限会社アデプト
冒頭で、「衝撃の事実!」と仰々しくフルベッキ写真を紹介しており、明治天皇らが写っているとして19,800円で販売しています。
http://www.store-mix.com/ko-bai/product.php?afid=4176694&pid=138559&oid=116&hid=30050

■情報ネットワーク『INFAC』
『真事実の明治維新史』と題したコピーしたものを綴じただけのファイルやCDなどを併せて6,500円で販売しています。(1年ほど前は3,500円高の10,000円で販売していました)『真事実の明治維新史』には堂々と「“玉”とフルベッキ博士を囲む志士達の記念写真」と明記しています。
http://www.infact-j.com/matsushige/mc1bm2.htm

※『真事実の明治維新史』
http://www.nextftp.com/tamailab/photo/pic/verbeck03.jpg

■ゆめたいWeb
楽天にも出店しています。
http://www.yumetai.co.jp/data/45848.php

■(株)東京書芸館
極めつけは東京書芸館でしょう。昨年(2004年12月暮れ)、大胆にも全国主要紙に坂本龍馬や西郷隆盛らが写っているとして広告を出した会社です。以下の[風のまにまに]というブログにも書かれているように、各方面から批判のメールがあったことが容易に推測できるのであり、今では問題のページは削除されていますが、朝日新聞などの主要紙にフルベッキ写真の広告を掲載した事実は、永遠に消し去ることはできません。

(株)東京書芸館
http://www.rakuten.co.jp/shogeikan/

ブログ[風のまにまに]
http://d.hatena.ne.jp/ironsand/20041228#p1

なお、以下は副島隆彦氏のフルベッキ写真に関する発言です。出典は副島氏自身の掲示板[気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板]からです。

[3995]安易で根拠の薄弱な陰謀論(コンスピラシー・セオリー)に流れる人々に警告します。 投稿者:副島隆彦投稿日:2005/03/10(Thu) 10:38:52

それから、その変な写真の件ですが、それは、幕末のフルベッキ英語塾(フルベッキは、オランダ人で、20歳で渡米、そのあと40歳ぐらいで長崎に来ていた。)に通っていた、上級武士の良家の息子たちの集合写真であって、これを、「幕末の元勲の勢ぞろい」などと、馬鹿な見出しをつけて、ネット上を出回っているものです。 年齢から考えてごらんなさい。維新の元勲の勢ぞろいなどあるわけがないでしょう。余計な、馬鹿な陰謀論をご自分で払拭してください。それ以上は私はつきあいません。勝手にやっていなさい。  副島隆彦拝

フルベッキ写真に明治天皇、坂本龍馬、横井小楠らが写っているとする一部のサイトと較べ、フルベッキ親子以外は贋物とする常識派に副島氏は属していますが、そうした常識派である他のサイト同様、フルベッキ親子以外に大隈重信や岩倉兄弟が写っているとは、副島氏も夢にも思わなかったことでしょう。さらに付言すれば、「フルベッキ英語塾」だとか、「40歳くらいで長崎に来ていた」だとか、「オランダ人」などと副島氏は書いていますが、明らかな間違いです。評論家というプロの物書きなら、出鱈目を書くのではなく、もう少し慎重に筆を進めるべきでした。

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2005年8月31日 (水)

「フルベッキ写真」の連載を終えて

フルベッキ写真(1)でも述べましたように、1年半前に国際ビジネスのコンサルティング会社のIBDのウェブ機関誌に1年間にわたって寄稿した「近代日本とフルベッキ」では、フルベッキ写真について様々な角度から調べていますが、その「近代日本とフルベッキ」の最終章で私は以下のように書いたことがあります。

 1年ほど前、フルベッキを囲む志士たちの集合写真に初めて接した時の驚きは、まるで昨日のことのように覚えている。フルベッキ写真に写っているのが日本人なら誰でも知っているはずの明治天皇、西郷隆盛、横井小楠、勝海舟だと言われても信じられない思いだったが、写っている人物が本物か偽物かについて明白に断言できるだけの自信もなかった当時の筆者であった。しかし、1年間にわたって連載を続けていくうちに、フルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟を除き、あとはほぼ間違いなく〝贋物〟であると確信が持てるようになった。ともあれ、1年間続いた本シリーズに最後まで付き合っていただいた読者に対し、この場を借りて御礼を申し上げるとともに、いつの日か再び『世界の海援隊』誌上でお目にかかれるのを祈念しつつ筆を擱く。

昨日アップした「フルベッキ写真の考察」を著した慶応大学の高橋助教授に指摘されて、フルベッキ写真に写っているとされる岩倉具経は、実は岩倉具経ではなく江副廉蔵であることを教えていただいたのは、今から思うに大変有り難い指摘でした。所有している『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』に、フルベッキ写真に写る本物の岩倉具経とそっくりな岩倉具経が掲載されていたのですから、もう少し同書の岩倉兄弟の写真に注意を払うべきだったと思います。ともあれ、この一点のミスを除き、「フルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟」以外(さらには中野健明も含む)は別人であるという点で高橋助教授と意見の一致を見ました。今度とも高橋助教授と意見や情報交換を交わしていきたいと思うし、新しい発見があれば拙ブログを訪問した皆さんにも報告するつもりですので、フルベッキに関心のある方は折りにふれて本ブログを訪問して戴ければ有り難く思います。また、何らかの情報なり意見をお持ちの方は、是非本ブログまでお願いします。

1年ほど前に、『賢者のネジ』の出版のお手伝いをした際、アメリカの藤原肇地質学博士から拙宅に電話があり、フルベッキ写真についても話題になったことがありました。その時に藤原博士が、「まともにフルベッキ写真を調べた者はいない」と語っておられたのを今でも覚えています。確かに、当時の世間におけるフルベッキ写真を巡る論争は、(1)フルベッキ写真に映る武士の一団は、佐賀藩が長崎に開校した致遠館の生徒であるという説、および(2)後に明治政府の元勲となる西郷隆盛、大久保利通ら明治政府の元勲であるという説の二つの説が主なものだったと思います。結論から言えば、西郷隆盛や大久保利通、さらには明治天皇までもが写っているとする(2)明治政府の元勲であるという説は明らかな間違いでしたが、(1)致遠館の生徒であるという説にしても、フルベッキ親子以外は贋物と主張する説が専らであり、これは厳密な意味では正しくありませんでした。そうした(1)致遠館の生徒であるという説の主張に対して、「フルベッキ親子以外にも、大隈重信、岩倉兄弟も本物である」と主張した先覚者が、私の知る限り『日本のフルベッキ』(洋学堂書店)を著した村瀬寿代氏だったと思います。村瀬氏に続き、そうした村瀬氏の意見に賛意を示したのが慶応大学の高橋助教授であり、私サムライであったということになります。尤も、写真に大隈重信、岩倉兄弟らが写っているという事実は、ウィリアム・エリオット・グリフィスが自著『Verbeck Of Japan』(Reprint Services Corp)の中で百年以上も前に既に述べていることであり、格別新しい発見というほどのものではなく、単にグリフィスの著した『Verbeck Of Japan』を原典で読んだ日本人がほとんどいなかったため、今日まで見過ごされてきたに過ぎなかったと言えそうです。

最後に、教育と関連させて心に留めておくべきなのは、世の中の風説に惑わされることなく、自分自身の目と足とで確かめ、関係者とのインタビューを積み重ねたり資料に当たったりすることの大切さであり、さらにはそれらを基に自分の頭で考え、真実を地道に発掘していくというプロセスがいかに大切かという点でしょう。もしかしたら、IBDのウェブ誌『世界の海援隊』に1年間にわたって「近代日本とフルベッキ」を連載して得た最大の成果は、「自分の目と足で確かめる」ということの重要性を再認識したことだったような気がする今日この頃です。

■謎のフルベッキ写真
■フルベッキ写真の真偽

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2005年8月30日 (火)

フルベッキ写真の考察

慶応大学の高橋信一助教授と、ここ一ヶ月ほど「フルベッキ写真」を巡ってメールのやり取りを行いました。8月26日のフルベッキ写真(8)で取り上げた大隈重信の章でも既述したように、フルベッキ写真に写る“岩倉具経”は、実は江副廉蔵であったことを高橋助教授に指摘していただき、大変有り難く思った次第です。その高橋助教授の承諾を得た上で、「フルベッキ写真の考察」と題する同助教授の論文を以下に転載します。なお、「フルベッキ写真の真偽」と題して、昨日まで公開していた「謎のフルベッキ写真」とともに以下のURLにアップしましたのでお知らせ致します。

■謎のフルベッキ写真
■フルベッキ写真の真偽

「フルベッキ写真の真偽」の一番下側の江副廉蔵、中野健明らの氏名が入った写真は、高橋助教授が作成したものです。
高橋助教授の論文中の付表1は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
chronology01.xls

「フルベッキ写真」に関する調査結果

慶應義塾大学 高橋信一

 最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月雑誌「太陽」に戸川残花によって初めて一般に紹介され、大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載された。戦後肖像画家の島田隆資が昭和48年と50年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の人物の比定を試みている。しかし、比定の方法や時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館の関係者と写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。

 島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っているというものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。

 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい野外写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。この研究は40年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。

 万が一、慶應元年の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に英国に送り込んだ事実がある。慶應2年6月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島を送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(大塚孝明の「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だった藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影された際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士が5名写っていることになっている。

 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英語塾、致遠館係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のために、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っていて間違いないところである。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」によって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭の「鍋島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武の「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大橋昭夫・平野日出雄の「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」と村瀬寿代訳「日本のフルベッキ」を参考にした。

 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具実、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具実公傳」などで調べた。相良知安は鍋島閑叟の侍医として、京での行動を共にしている。この表から推測すると、明治元年の10月に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟の面倒を命じられた久米邦武はフルベッキに預けることにして、相良知安に長崎まで送らせたのではないか。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎商業百年史」に掲載されている。フルベッキは11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新しい大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。

 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。

相良知安  左端の立ち居の人物(鍵山栄の「相良知安」他)
中野健明  知安の右隣り(福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
丹羽龍之助  大隈重信の左隣り(「江藤南白」)
江副廉蔵  大隈重信の前(「佐賀 幕末明治500人」)
岩倉具経  大隈重信の右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)
山中一郎  後列右から6人目(「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」)
香月経五郎  山中一郎の右隣り(「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人
副島要作  香月経五郎の右隣り(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
中島永元  後列右から2人目(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
石橋重朝  副島要作の前(「佐賀 幕末明治500人」
岩倉具定  フルベッキの右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」。尚、岩倉具綱・具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、弘道館に入ったので、長崎に来ていない)

 その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時副島は40歳に近く、月代を剃っていた。似ているというだけで、人物を振り当てるのは学問的でない。伊藤博文は兵庫県知事としてどのような仕事をしていたか、フルベッキとの繋がりなど明らかになっていない。致遠館に学んだものとして、日下部太郎、横井大平、横井左平太は当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。当時、薩摩・長州・土佐から何人か長崎に遊学するものがいたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も付表2に見るように東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀は京にいた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光は面長であったことが各種肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。

 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に詳しく記載されているが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本のフルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、堤喜六、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎などを特定出来ていない。

 佐賀藩の多数の出身者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なものだったが、明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるが、佐賀出身者は20名余りと薩摩・長州の数分の一である。各種の明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎が断罪された佐賀の乱を引き金とする明治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの傾倒を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、明治の後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。

(平成17年8月23日)

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2005年8月29日 (月)

フルベッキ写真(最終回)

meiji01 本日のフルベッキ写真(最終回)は明治天皇を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“明治天皇”です。

最終回の本日は、フルベッキ写真の中でも最大の謎である〝明治天皇〟を取り上げることにしよう。最初に、三葉の写真と肖像画を眺めていただきたい。

 明治天皇は嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に誕生しているから、松浦玲・村瀬寿代説によるフルベッキ写真の撮影時期である1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)当時の明治天皇は、16歳(ちなみに、佐宗邦皇氏等が唱える慶応元年説に従えば、フルベッキ写真が撮影された慶応元年当時の〝明治天皇〟は12歳)のはずであり、フルベッキ写真に写る〝明治天皇〟も大体同じような年格好の青年である。しかし、明治天皇の即位の礼は1868年(慶応4年、すなわち明治元年)8月27日に行われており、同年11月4日(明治元年9月20日)に明治天皇は京都を出発、11月26日(明治元年10月13日)に江戸城に入っているので、そうした日本の歴史が大きく転換しつつあった時期に明治天皇が長崎のフルベッキのもとを訪れたという証拠資料はなく、その点を考えただけでもフルベッキ写真に写る〝明治天皇〟は偽物であることが明らかだ。しかし、フルベッキ写真に写る〝明治天皇〟とされた青年の意志の強そうな表情から察するに、地道ではあっても日本の近代化にそれなりの貢献をした人物ではなかったかと、ふと思った。

※明治天皇肖像画については、『天皇の肖像』(多木浩二著 岩波書店)を参照のこと。

 なお、 問題になったフルベッキ写真の広告であるが、これは昨年の暮れに五大紙がフルベッキ写真の広告として掲載したものであり、フルベッキ写真に対する関心の高まりを示したものと言えそうだ。ただ、以下の広告のコピーからもお分かりのように広告主は東京書芸館という会社だが、写真は本物であるとは云え、写真に勝海舟や坂本龍馬が写っているとして10万円以上もの値を付けて販売しているのは人をバカにした話であり、そのような広告を載せる新聞社も新聞社である。このように、モノの真贋を見分ける眼力すら最早失ってしまった大手マスコミの凋落ぶりは目を覆うばかりではないか。

 最後に、1年ほど前にフルベッキを囲む志士たちの集合写真に初めて接した時の驚きは、まるで昨日のことのように覚えている。フルベッキ写真に写っているのが日本人なら誰でも知っているはずの明治天皇、西郷隆盛、横井小楠、勝海舟だと言われても信じられない思いだったが、写っている人物が本物か偽物かについて明白に断言できるだけの自信もなかった当時の筆者であった。しかし、1年間にわたって連載を続けていくうちに、フルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟を除き、あとはほぼ間違いなく“贋物”であると確信が持てるようになった。ともあれ、1年間続いた本シリーズに最後まで付き合っていただいた読者に対し、この場を借りて御礼を申し上げるとともに、いつの日か再び『世界の海援隊』誌上でお目にかかれるのを祈念しつつ筆を擱く。

謎のフルベッキ写真

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2005年8月28日 (日)

フルベッキ写真(9)

ito01 本日のフルベッキ写真(9)は伊藤博文を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“伊藤博文”です。

 伊藤博文の場合、幸いにして数多くの写真が残されているので、フルベッキ写真に写っている(とされる)伊藤博文との比較がし易いはずだ。また、フルベッキと交流のあった伊藤だけに、フルベッキ写真に写っていたとしても決して不思議ではないはずだが、果たしてフルベッキ写真に写る伊藤は本物なのだろうか? さっそく伊藤博文の写真を比較してみよう。

本シリーズでは、坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信と、フルベッキ写真に写る人物が本物かどうかについて検証してきたが、実際にフルベッキ写真に写る人物と本物の写真とを並べてみて、フルベッキ写真に写るのは果たして本物かどうかの見極めに迷うことが都度あった筆者であり、その点は読者も同じではと思う。今回のフルベッキ写真に写る伊藤博文にしても、「似ていると言えば似ているし、似ていないと言えば似ていない」と思う読者が多いのではないか。また、伊藤博文の写真(2)、(3)、(4)、はいずれも本物の伊藤博文であるが、それとは知らずに初めて写真(2)、(3)、(4)を目にした読者であれば、果たして全部の写真が本物の伊藤博文なのだろうかと戸惑うのではないだろうか。

ここは“直感”に頼るしかなさそうであるが、フルベッキ写真を初めて目にした時の筆者は、坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、大村益次郎等々、幕末から明治にかけて活躍した蒼々たる元勲が一堂に集うというのは現実離れしているし、フルベッキ写真には何処か嘘があると直感的に感じ取ったのであるが、伊藤博文にしても本物の写真と較べて何処となく違うものを感じたのである。

念のため、松浦玲・村瀬寿代説によるフルベッキ写真の撮影日である1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間を調べてみると、その間は初代兵庫県知事に就いていた時期(1868年5月23日 - 1869年4月10日)と重なるのであり、筆者が調べた限りでは1868年12月~1869年1月30日間に兵庫県知事として長崎を訪れたという記録は残っていないようだ。その意味でも、フルベッキ写真に写る伊藤博文は贋物とみて良いだろう。

 ご参考までに、フルベッキ写真に写っているとされる他の有名な長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)、大村益次郎、高杉晋作の写真も載せたので、フルベッキ写真に写るそれと比較していただきたい。この他にもフルベッキ写真に写っているとされる長州藩士に、広沢真臣、品川弥次郎、井上聞太(後の井上馨)らがいるが割愛させていただく。

 大村益次郎の場合、写真が一枚も遺されていないとされており、我々は上に掲げた一枚の肖像画によってしか在りし日の大村に想像を巡らすしかないのだが、特徴的な広い額などからフルベッキ写真に写る大村益次郎は本物に違いないと主張する某識者が存在する。その識者はフルベッキ写真について独自に調べたようであり、筆者の知己でもあるから、もしかしたらフルベッキ写真の大村益次郎は本物かもしれないが、筆者自身で調べたわけではないので現時点では何とも言えないところだ。

 桂小五郎の場合、素人目にも他人であることがわかるような写真であり、フルベッキ写真に写るのは桂小五郎ではないと判断して差し支えないと思う。高杉晋作の場合、馬と並ぶと馬の方が丸顔に見えるというくらい面長だったと伝えられているが、フルベッキの写真に写っているとされる高杉の顔の長さは人並みであり、また、その他の顔の特徴などを較べてみても、フルベッキ写真に写っているとされる高杉晋作は本物ではないと筆者は思う。第一、高杉の場合は維新直前に病死しているのだから、明治元年に撮影されたフルベッキ写真に写っているはずがないのである。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(最終回)に続く

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2005年8月26日 (金)

フルベッキ写真(8)

ohkuma01 本日のフルベッキ写真(8)は大隈重信を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“大隈重信”です。

今回は大隈重信を取り上げよう。筆者がフルベッキ写真(6)で、謎のフルベッキ写真に写っている大隈重信とされる人物は、本物の大隈重信にほぼ間違いないと述べたのを覚えている読者も多いと思う。そして、その理由については大隈重信を取り上げた際に言及する旨約束していたので、今回大隈重信=本物説について筆を進めたい。

 最初に、フルベッキ写真に写るのは間違いなく大隈重信だと語っているのは、『Verbeck Of Japan』(Reprint Services Corp)を著したウィリアム・エリオット・グリフィスである。そのグリフィスの『Verbeck Of Japan』を訳した村瀬寿代氏による『新訳考証 日本のフルベッキ』(洋学堂書店)の中に、グリフィスが問題の “フルベッキ写真”について言及している個所があり、フルベッキ写真に写っているのは間違いなく大隈重信であることを示す興味深い内容になっているので以下に全文を引用しておこう。

 フルベッキ氏がアメリカに送った、教師とその生徒たちの写真(筆者注:フルベッキ写真)は日本の歴史家にとっては非常に価値のある資料であろう。この若者たちの中には、後に政府の様々な部署で大きな影響力を持った多くの人物を認めることができる。各省の長、大臣、海外派遣の外交官、そして皇国の首相になった人物など。本の助けや、人に聞くことなく筆者(筆者注:グリフィス)が思い出したり、判別できる中に岩倉兄弟[岩倉具定・具経]がある。また、大隈伯[重信]がいる。日本の新体制の下、この40年間に大隈伯の活躍はめざましく、財務の長や外務大臣、大学の創立者となった。1874年に中国に派遣され外務卿となった副島[種臣]とともに、大隈はフルベッキ氏の下で特に合衆国憲法を学び、ほとんどすべての西欧諸国の基本法に精通した。柳谷謙太郎は特許局長であり、その他にも、1874年にキリスト教国に派遣された使節団の中に、写真に写る者を多く認めることができる。

『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)p.119

ちなみに、グリフィスはフルベッキが福井藩の教師招聘をラトガース大学に要請したのをきっかけに来日している。一年近く福井藩で教師を勤めた後のグリフィスは、南校(東京大学)の教師として雇用されており、当時南校の教頭をしていたフルベッキの日々の仕事および生活をつぶさに観察出来る立場にいた。

次に、肝心なフルベッキ写真の撮影時期であるが、問題のフルベッキ写真が撮影されたのは1869年(明治二年)という世間で通説となっている撮影時期でもなく、また佐宗邦皇氏らが主張する1865年 (慶応元年)という撮影時期でもなく、撮影時期を1868年12月(明治元年10月)から1869年1月末(明治元年12月)の間と松浦玲・村瀬寿代の両氏が推定しているのは以下の理由による。

 岩倉兄弟、大隈、フルベッキの行動は概ね記録が残っているので、この四名が長崎で会することのできる時期を調べれば撮影時期が推定できる。大隈が長崎で起きた英国水兵斬殺事件の審査のために来崎したのが1868年10月(明治元年9月)頃である。事件解決後、1869年1月30日(明治元年12月18日)には京都に戻っている。岩倉兄弟は1868年12月(明治元年10月)頃来崎する。また、彼らは1869年1月3日(明治元年11月21日)には佐賀に招かれ、フルベッキも同行したようで、フルベッキはその前日1月2日(旧暦11月20日)に鍋島閑叟の別荘に招かれる。以上から、岩倉兄弟・フルベッキが佐賀を訪問する1868年12月末~1869年1月初頭(明治元年11月)を除き、岩倉兄弟が来崎した1868年12月(明治元年10月)から、大隈が長崎を離れる1869年1月末(明治元年12月)までの二ヶ月足らずの間に、写真が撮られたと推定できる。

『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)p.138

 さらに、フルベッキ写真には従来から謎めいたところが多々あったと指摘しつつ、その原因を佐賀の乱に村瀬氏は求めているが、なるほど一つの考え方であると思った。そのあたりの村瀬氏の推測に関心のある読者は、直接村瀬氏の『新訳考証 日本のフルベッキ』を参照されたい。

最後に、三葉の大隈重信の写真をお見せしよう。大隈重信(1)はフルベッキ写真から、大隈重信(2)は北海道大学付属図書館がオンラインで公開している大隈重信の写真である。大隈重信(3)は後年の大隈重信であり、読者にも馴染みの写真だと思う。なお、岩倉兄弟の写真も併せてアップしたので一度見て頂ければと思う。岩倉具定(1)はフルベッキ写真から、岩倉具定(2)は以下の集合写真からのものである。その次はフルベッキ写真から抜き取った岩倉具経(1)と上記の集合写真から抜き取った岩倉具経(2)である。

 ちなみに、下側の集合写真は『専修大学1880-2000』に掲載されたもので、写真の表題(写真左下)が「米国ニュージャージー州ラトガース大学の日本人留学生(明治4年)となっており、岩倉具定・具経兄弟が写っている。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(9)に続く

訂正: その後、フルベッキ写真に写る“岩倉具経”は、江副廉蔵であることが判明しました。また、フルベッキ写真で従来は“岩倉具綱”とされていた人物が、実は岩倉具経であることが判明しています。このあたりについての経緯は、本シリーズ「フルベッキ写真」を終えた後に報告します。

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2005年8月25日 (木)

フルベッキ写真(7)

saigo03 本日のフルベッキ写真(7)は西郷隆盛を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“西郷隆盛”です。

 最初に、西郷隆盛の写真をクリックしていただきたい。最初に目に飛び込んでくるのが、東京の上野公園にある西郷隆盛の銅像(1)、イタリア人の画家キヨソネが描いたという西郷隆盛の肖像画(2)、フルベッキ写真から切り取った西郷隆盛(とされる)写真(3)である。

実は、今回改めて三葉の写真を並べてみてピンときたことがある。それは、三葉の写真に共通して見出せる太い眉毛と大きな目、ずんぐりとした体躯といった、南九州から沖縄にかけての南方系の日本人たちに多く見られる身体的特徴である。筆者の兄弟は沖縄の女性と結婚したが、彼女の兄弟を見ても明らかに顔立ちが本土の人間と異なることが分かるのである。フルベッキ写真の西郷隆盛(とされる)写真(3)にしても、太い眉毛や目許などの特徴が西郷隆盛(1)と(2)と共通しているので、もしかしたら本物かと一瞬思ったほどであるが、下唇と顎の間に大きな瘤のようなものがある他、顔の輪郭などから見ても明らかに西郷隆盛(1)と(2)とは“別人”であることが分かる。しかし、そもそも我々が“本物の西郷隆盛”と思っている銅像(1)と肖像画(2)にしても、本当に西郷隆盛にそっくりなのかどうかについて確かなことは言えないのである。何故なら、西郷隆盛の写真は、少なくとも現時点において、一枚も“発見”されていないからだ。

1899年、上野公園の銅像除幕式に列席した西郷隆盛の未亡人イトが亡夫の銅像を見た瞬間、「宿んしは、こげなお人じゃなかったこて」(うちの人は、このような人ではなかったのに」)と思わず声を出すと、隣席に腰かけていた西郷縦道がイトの足を踏んでたしなめたというエピソードが噂となって全国に広まり、それが元になって銅像の西郷隆盛の顔は本物と似ていないと信じる人が増えたということを物の本で読んだことあるが、このイト未亡人の言葉は「銅像の顔が記憶に残る亡夫の顔と似ていない」ことを意味するのではなく、「銅像のように、西郷が着物姿で人前に現れるはずがない」という意味であったと、新人物往来社編集の『西郷隆盛 七つの謎』に書いてあった。参考までに、『西郷隆盛 七つの謎』でも紹介されている財団法人西郷南洲顕彰会の『敬天愛人』誌第二号に載った、河野辰三の「南洲翁と博文約礼」と題する論文の一部を以下に引用しておこう。

これは筆者が少年時代に祖母から聞いた話である。

南洲翁の上野の銅像が竣工してその除幕式の時、翁の知己朋友であった維新の生き残りの元勲を始めとして、朝野の貴顕名士が『こりゃ、本当に西郷じゃ』と異口同音に讃歎する中に、独り南洲翁の未亡人のみは、『あんな不様な格好では、世間の皆様に対して、まことにお恥ずかしい次第でございます。西郷は、ふだんうちに居る時でも、服装などはやかましく、いつもきちんと端坐し、決してあぐらをかいたり、寝そべったりしたことはありませんし、あんな格好で、世間の皆様の前に立っていますことは、西郷もさぞ心苦しいことでしょう』と言われたそうである。

あの銅像は、誰が見ても、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり、この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり、と言われた翁の面目風貌をいかにもよく表している傑作である。又、未亡人のいわれる不様な格好であればこそ、永く一般民衆から、西郷さん西郷さんと、親近感を以て呼ばれるゆえんであるが、未亡人のいわれることも真実であった。

柴山海軍大将の言に『私が、南洲翁に親しく接して殊に感じたのは、翁は日本の大黒柱で、国家の為繁忙な人であるのに、私の如き小僧が会いに行っても、用さえなければ、何時でも快く会見し、礼儀厳かに一時間でも二時間でも正座して、ついぞ膝を崩されたことがない。我輩如き小僧に対するもなおこの通りであって、帰りには自ら見送り、チャンと畳に両手をつき、別れを告げるという風であるから、誠に恐縮した』とあるが、これは未亡人の言を裏書きするものである。

『敬天愛人』誌第二号「南洲翁と博文約礼」(河野辰三著)

しかし、上野公園の銅像こそが本物の西郷隆盛だと主張する『敬天愛人』は、西郷隆盛を敬う組織が発行する雑誌なので多少は割り引いて読む必要があるだろう。事実としては西郷隆盛の写真が未だに発見されていないことから、上野公園の銅像こそが本物の西郷隆盛だと言われても俄には同意できないというのが正直なところだ。ちなみに、肖像画はキヨソネが西郷の弟の従道などをモデルに描いたもので、その肖像画をモデルにして西郷隆盛の銅像を高村光雲が制作している。

 最後に、昨夏(2003年8月)新聞等で「西郷隆盛の肖像画発見」というニュースが一斉に報道された件に関連して一言述べておきたい。最初に、以下に新聞記事を引用する。

西郷隆盛の肖像画見つかる 僧侶・五岳が直接会い?描く

 明治維新に活躍した西郷隆盛(1827~77年)の肖像画が、大分県日田市で見つかった。幕末・明治期に日田で文人画家として活躍した僧侶の平野五岳が掛け軸に描いたもので、西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。西郷の写真は残されておらず、肖像画数点も伝聞をもとに描かれたとされる。掛け軸は五岳が直接会って描いたとみられ、鹿児島県立歴史資料センター「黎明館」(鹿児島市)は「貴重な史料」と評価している。

 掛け軸を保管していたのは五岳研究家として知られる日田市在住の川津信雄さん(73)。10年ほどまえに骨董(こっとう)品店で見つけて買い求めたという。河内昭圓・大谷大文学部教授が調査。肖像画に描かれた「丸に十字」の薩摩藩の紋付き羽織が、西郷南洲顕彰館(鹿児島市)で保存されている遺品の紋付き羽織と同じと見られると判断した。肖像画は上半身で、顔にはうっすらと彩色が施されている。

 漢詩は、五岳が西郷にあてた書簡。西郷が在野の身でありながら天下を思う気骨をたたえ、「お会いしたい」と申し入れている。

 書簡の日付は明治9(1876)年10月で、西南戦争の4カ月前。同月、鹿児島を訪問した五岳は、西郷の蜂起を思いとどまらせるよう明治政府の大久保利通から依頼を受けていたといわれる。これまでは五岳は西郷に会えなかったとされてきたが、川津さんは「五岳は書簡の原文を手元に残したうえで鹿児島で直接西郷に会い、後にまとめて掛け軸に残した」と推測している。

http://www.asahi.com/top/update/photonews/0827/OSK200308270008.html

実は、上記の肖像画と同一人物と思われる若いころの“西郷隆盛”の写真を発見した人がいる。ホームページ【カシオペア紀行】のオーナーである。以下が問題の写真であり、同写真と情報を快く提供してくれたホームページ【カシオペア紀行】のオーナーに、この場を借りて篤く御礼を申し上げる次第である。

 ホームページ【カシオペア紀行】のオーナーによれば、真ん中の立っている人物の目許が朝日新聞などに報道された西郷隆盛の肖像画と似ていると言う。なるほど、確かに目許が似ているかもしれない。しかし、キヨソネが描いたという肖像画とあまりにもかけ離れ過ぎており、どちらが本物の西郷隆盛なのだろうかと戸惑う読者も少なくないのではなかろうか。ちなみに、右側に腰を掛けている人物は、西郷隆盛の“影武者”と言われた永山弥一郎だが、一時は西郷隆盛本人と間違われていた人物であった。問題の掛け軸、上記の写真に写る“西郷隆盛”、永山弥一郎等についてさらに詳細を知りたいという読者は、ホームページ【【カシオペア紀行】】を訪問されたい。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(8)に続く

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2005年8月24日 (水)

フルベッキ写真(6)

yokoi02 本日のフルベッキ写真(6)は横井小楠を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“横井小楠”です。

 世に出回っている横井小楠の写真(1)と、フルベッキ写真に写っている(とされる)横井小楠(2)の写真を以下のURLに並べてみた。

横井一族の写真

 フルベッキと交流のあった横井小楠だったのでフルベッキ写真に写っていたとしても決して不思議ではないのだが、上記横井一族の写真のよう実際に二枚の写真を並べてみると頬のあたりの特徴などが似ているものの、フルベッキ写真に写っている横井小楠の方が年齢的に一段と若く見えることからして同一人物である可能性は低い。

 次に、横井小楠とされる人物の下に座っている(とされる)甥の横井左太平と横井太平の二人についても見ておこう。横井左太平(2)と横井太平(2)と思われるセピア色の写真は共にフルベッキ写真から切り取ったものであり、白黒写真の横井左太平(1)および横井太平(1)はホームページ【維新の散歩道】に掲載されている本物の写真である。写真を比べて見る限りでは同一人物の可能性があるような気もするが(特に横井左太平)、二葉ずつの写真だけでは明確な断定が困難であるので、現時点における断定は差し控えたいと思う。なお、白黒写真の横井左太平(1)および横井太平(1)については、ホームページ【維新の散歩道】のオーナーの承諾を得たものであり、この場を借りて御礼を申し上げる次第である。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/

 写真の比較だけでは何とも言えないので、次に撮影日を確認してみよう。最初に、撮影日を1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間という松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、新政府の参与として出仕した小楠が京都で暗殺されたのは1869年2月15日(明治2年1月5日)だったので、松浦玲・村瀬寿代説のフルベッキ写真撮影日から幾許もなくして暗殺されたことになる。さらに、暗殺数ヶ月前の小楠は病床に伏せていたのであり、そのような病身で長崎に行けたとは到底思えない。

 一方、撮影日を元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日の間とする佐宗邦皇説はどうか。当時の小楠は熊本に居た上に、フルベッキと交流を重ねていた小楠だったので、元治2年という撮影日が本当であれば、写真に写っている人物が小楠本人である可能性は高いと思う。

 しかし、佐宗邦皇氏がフルベッキ写真の撮影日を慶応元年としているのは、『日本歴史』三三二号に「維新史上解明されていない群像写真について 其の二」という題の論文を発表した島田隆資氏の説に基づいていることは明白である。その島田氏の論文については松浦氏が以下のように第一印象を述べている。

本文のこの部分を書き終えたあとで、島田隆資の「維新史上解明されていない群像写真について 其の二」(『日本歴史』三三二号)に接した。慶応元年長崎で写したフルベッキを囲む群像写真中に、西郷隆盛・西郷縦道・大久保利通・大隈重信・中岡慎太郎・副島種臣・伊藤博文・江藤新平・小松帯刀等々に加えて横井小楠もいると断定し、また、推定人物中には、坂本龍馬・陸奥宗光等々の他に横井左平太・太平兄弟の顔も見えるという驚くべきものである。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.292

 以上のように島田氏の論文を紹介した上で、フルベッキ写真に小楠は写っていないと松浦玲氏は断言しているのである。

評伝選(『横井小楠 儒学的正義とは何か』)刊行後に少し検討して、これだけの人物が一堂に会する時間的可能性は皆無だと断定した。慶応元年の撮影という島田(隆資)氏の判断も誤りである。横井小楠と甥の左平太・太平は写っていない。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.292

 松浦氏が横井小楠は写っていないと断言できたのは、撮影日が明治元年の暮れであると確信していたからである。筆者が既述したように、明治元年暮れの小楠は病床にあったのだから長崎に居るはずがないと筆者同様に松浦氏も考えたのであろう。

 なお、ここで読者に改めて思い出していただきたいのは、「フルベッキ写真はフルベッキが明治政府に招聘されて上京する前の記念撮影であり、従って撮影日はフルベッキが長崎を発つ明治2年(1869年)3月23日の直前である」というのが世間一般に信じられているフルベッキ写真を巡る説であるということだ。それを裏づけるかのように、問題のフルベッキ写真を撮影した日本の写真の父・上野彦馬と縁のある某人物も、フルベッキ写真を撮影した場所は明治2年に完成した上野撮影局のスタジオであることは間違いないと証言しているのである。では、どうして松浦氏はフルベッキ写真の撮影が上野撮影局のスタジオが完成する前の明治元年であると断言しているのか、さらには何故(島田隆資)佐宗邦皇説の撮影日が間違いであると断定できるのかという点については、近い将来に大隈重信について取り上げる機会があれば言及するつもりである。何故なら、フルベッキ写真に写っている(とされる)大隈重信は、本物と断定しても差し支えないだけの確かな証拠があるからであり、その大隈の存在によってフルベッキ写真の撮影時期、すなわち大隈が長崎に滞在していた時期が特定できるからに他ならないからである。

謎のフルベッキ写真

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2005年8月23日 (火)

フルベッキ写真(5)

ryoma 本日のフルベッキ写真(5)は、坂本龍馬を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“坂本龍馬”です。

 最初に、写真真に写っている(とされている)龍馬を見て頂きたい。

次に、一般に出回っている龍馬の写真6枚が【坂本龍馬の写真】に公開されているので、上記のフルベッキ写真に写っている(とされる)龍馬と見比べていただきたい。ちなみに、【坂本龍馬の写真】はホームページ[龍馬写真館]のオーナーに直接メールを送って承諾を得たものであり、この場をかりて篤く御礼を申し上げる次第である。ホームページ[龍馬写真館]では、龍馬の写真以外にも貴重な幕末明治の写真を数多く展示しており、一度訪問する価値はあると思う。

 それにしても、フルベッキ写真に写っているとされる龍馬は、唇や鼻などが何処となく似ている気がするが、目許から受ける印象が大分違う上、同時期に撮影した割には全体的に受ける印象としては若すぎるような気がする。しかし、同一人物をほぼ同時期に撮影した場合でも、まるで他人のように見えたりするケースも多いことからして、何とも判断しかねるところである。果たして、読者の判断は如何だろうか。

 一歩譲ってフルベッキ写真の龍馬が本物の龍馬だとしたら、果たしてフルベッキ写真が撮影されたとしている時期におかしな点がないかどうか見ておこう。

 最初に、撮影日を1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間という松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、龍馬が暗殺されたのは慶応三年(1867年)の12月10日であるので、写真の〝龍馬〟は偽物ということになる。一方、撮影日を元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日の間とする佐宗邦皇説が正しいとすれば、龍馬が暗殺される前であり、時期的に長崎で海援隊の活動を開始した頃に重なるので、写真に写っているとされる龍馬が本物という可能性も出てくる。佐宗邦皇説の元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日以外の時期に撮影されたものだとすれば、文久二年(1862)の3月に土佐藩を脱藩し、同年10月に勝海舟を訪ねて思想転換した時以降から、暗殺される慶応三年(1867年)の12月10日までのおよそ5年の間のいずれかの日ということになろう。

ところで、その期間中において、1864年10月頃から翌1965年の4月にわたって龍馬の行動が空白になっているのが大変気になっている。『石の扉』によれば、その期間に龍馬がイギリスに渡った可能性があるという。なかなか面白い話ではあるものの、俄には信じ難いというのが正直なところだが、好奇心旺盛の龍馬のこと、当時であれば半年でイギリスを行き来することができたことからして、その間にイギリスに行っていたとしてもおかしくはない。何故なら、確証があるわけではないものの、ヨーロッパで体験した者だけが持つある種独特のものの見方・考え方が龍馬に備わっているように見えるからであり、もしかしたら本当にイギリスに行ったのかもしれないと、ふと思ったりもする。

 本シリーズの主人公であるフルベッキと龍馬は、実際に会ったことがあるのだろうか。好奇心が旺盛だった龍馬のことを考えれば、間違いなく幾度かフルベッキと会っているはずだと筆者は思いたい。そのフルベッキから西洋事情に関する多岐にわたる情報を収集しながら、西洋思想を龍馬流に自家薬籠中の物にし、当時の日本人にはないヨーロッパ風の合理性精神を知らず知らずのうちに龍馬は身に付けたのではと筆者は思う。以下のように、『賢者のネジ』でもフルベッキと竜馬とが会っていると想定しているようだ。

藤原肇:坂本龍馬がフルベッキに学んだとは誰も書かないが、あれだけ好奇心の強い龍馬のことだから、彼が長崎で海援隊を動かしていた時期に、頻繁にフルベッキの塾に出入りしていたはずです。長崎奉行所が作った済美館と佐賀藩の致遠館は、ともにフルベッキが校長として教えた教育施設だし、致遠館の逸材が大隈重信と副島種臣でした。だから、大隈が創立した早稲田大学は致遠館が源流で、明治になると、東京に招聘されたフルベッキが大学南校の教頭に就任している。私学と官学の源流に立つ人だったわけです。

『賢者のネジ』(藤原肇ほか たまいらぼ出版)P.150

謎のフルベッキ写真

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2005年8月22日 (月)

フルベッキ写真(4)

 フルベッキが長崎滞在中に問題の写真が撮られたというのが事実とすれば、フルベッキがアメリカから上海経由で長崎に到着した1859年11月7日夜から、明治政府に招聘されて長崎を発つ1869年3月23日までの、およそ十年の間に撮影された写真ということになる。では、具体的にそれは何時だろうか。そのヒントの一つが、写真に写っているフルベッキの長男ウィリアムだ。まだ幼いウィリアムを連れてきたフルベッキが、大勢の侍たちに囲まれて記念写真に収まるのはどういうケースなのだろうか。

 フルベッキ夫妻は11人の子供を授かっている。夫妻の最初の子供は1860年1月26日に誕生した長女・エマ・ジャポニカであったが、生後まもなく病気にかかり、同年2月9日に天国に召されている。翌年の1861年1月18日に、写真に写っているとされる長男ウィリアムが誕生。ちなみに、ウィリアムはその後立派に成人し、1930年8月24日に亡くなった。ウィリアムの次に誕生したのが、1863年2月4日に生まれた次女のエマ・ジャポニカであった。夭折した長女の名前を継いだ形になったのだが、次女の場合は天命を全うし、1949年に亡くなっている。その次に誕生したのが次男のチャニング・ムアであるが、残念ながら正確な誕生日は分かっていない。三男のグスターヴが1867年(誕生月日は不明)に生まれているから、次女のエマ・ジャポニカが生まれた1863年2月4日から三男のグスターヴが生まれた1867年の間ということになるのは確かである。続く四男ギドーは1868年7月15日に生まれた。その他の子供たちはフルベッキが長崎を発った1869年3月23日以降の生まれなので本稿では割愛する。以上、フルベッキが上京するまで生まれた子供たちを一覧表にまとめると以下のようになる。ちなみに、松浦玲・村瀬寿代説あるいは佐宗邦皇説とあるのは、各人が主張するフルベッキ写真の撮影日のことである。

子ども
子ども
松浦玲・村瀬寿代説※1
佐宗邦皇説※2
ウィリアム(男) 7歳11ヶ月~8歳 4歳1ヶ月~4歳2ヶ月
ジャポニカ(女) 5歳10ヶ月~5歳11ヶ月 2歳~2歳1ヶ月
ムア(男) ジャポニカと年子であれば4歳10ヶ月~4歳11ヶ月 ジャポニカと年子であれば、1歳~1歳1ヶ月
グスターヴ(男) 1歳~2歳 誕生していない
ギドー(男) 5ヶ月~6ヶ月 誕生していない

松浦玲・村瀬寿代説※1…1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間に撮影。
佐宗邦皇説※2…元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日の間に撮影。[筆者注:元治2年=西暦1865年]

 ところで、写真に映っているフルベッキは椅子に座っている。そしてウィリアムであるが、著者はウィリアムがフルベッキの脇に立っているのだろうと当初考えていたが、ウィリアムの姿勢から察してフルベッキがウィリアムを膝に抱いていると思うに至った。いずれにせよ、写真から受ける印象では、ウィリアムは5~6歳といったところだろうか。当時の銀板写真技術では、明るい場所でも20分は同じポーズを取り続けなければならなかったと聞く。とすれば、佐宗邦皇説の4歳2ヶ月の子供が長い間同じポーズを取っていられるとは到底思えないという声もあるが、実は1851年に上野彦馬が湿板写真を発明しており、露光時間も秒単位になったので、たとえ4歳の子供でも問題はなかったと思う。仮に松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、撮影時のウィリアムは「7歳11ヶ月~8歳」の小学二年生ということになろうが、小学三年生の子供がいる筆者からみれば、写真のウィリアムは小学二年生にしては小さすぎるのではと思う。無論、同学年の子供でも身長にばらつきがある点も考慮しなければならないだろうが、兎も角写真に写っているウィリアムは5~6歳に筆者には見えるのである。

仮に、写真に写っている子供がウィリアムでないとしたらどうだろうか。松浦玲・村瀬寿代説を当て嵌めれば、次女のジャポニカの5歳10ヶ月~5歳11ヶ月と、ほぼ6歳の年齢であるが、写真に写っている子供は蝶ネクタイをしているので男の子であることが明らかであるので、ジャポニカではないことは確かだ。次に、具体的な誕生日がはっきりしていないムアが年子だったと仮定すれば、写真撮影時のムアは4歳10ヶ月~4歳11ヶ月であり、かろうじて〝合格〟ということになるが、残念ながら確実な裏付けがない。結局、写真に写っている子供はウィリアムであると考えるのだが如何だろうか。

謎のフルベッキ写真

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2005年8月21日 (日)

フルベッキ写真(3)

5W1H
そこで写真の真贋について調査していくにあたり、本シリーズでは原点に立ち返り、5W1Hの観点から写真の真贋について慎重に筆を進めていこう。

5W1H
5W1H
松浦玲・村瀬寿代説
佐宗邦皇説
When 1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間 元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日の間。[筆者注:元治2年=西暦1865年]
Who 上野彦馬 上野彦馬
Where 長崎・上野彦馬写真スタジオ 長崎・上野彦馬写真スタジオ
What 致遠館の生徒 各藩勤王党の志士
Why フルベッキ上京前の記念 各藩の勤王党志士が一堂に会した記念
How 戸川残花がフルベッキ博士から借りて、明治28年に雑誌『太陽』に発表 戸川残花がフルベッキ博士から借りて、明治28年に雑誌『太陽』に発表

写真を撮影したのは何時か(When)…撮影時期を元治二年とする根拠として佐宗氏は、(1) 刀と丁髷、(2) ウィリアムの年齢の2点を挙げている。刀と丁髷に関して佐宗氏は、明治二年になっているのにも拘わらず全員が刀を差している上、丁髷を結っているのはおかしいと言う。しかし、断髪令が発令されたのは2年後の1871(明治4年)8月9日であり、廃刀令に至っては7年後の1876年(明治9年)3月28日であった。だから、明治2年の段階であれば刀を差し丁髷を結った侍で占められた集合写真であってもおかしくはないと筆者は思うのだが、当時について詳しい読者にご教示いただければ有り難い。

次にウィリアム・フルベッキはフルベッキの長男であり、1861年1月18日に誕生している。佐宗氏の説が正しいとして逆算すると、写真撮影時のウィリアムは4歳になったばかりということになる。逆に松浦・村瀬説が正しいとすると、ウィリアムは7歳から8歳にかけての年齢である。果たして、読者の目にはウィリアムは何歳に見えるだろうか。

写真を撮ったのは誰か(Who)・写真を何処で撮ったか(Where)…長崎・上野彦馬写真スタジオで上野彦馬が撮影したということで両者とも一致している。誰が写真を撮ったかということはあまり重要ではないが、何処で写真を撮ったかという点になると慎重な検証が必要であろう。本シリーズにおいては長崎・上野彦馬写真スタジオ説が正しいと想定して筆を進めていくが、途中で新事実が発見されて思わぬ展開になるかもしれないことを予めお断りしておく。

写真に写っているのは何(誰)か(What)…インターネットの様々なサイトで問題の写真を取り上げているが、写真に写っている侍は致遠館の生徒であるとするサイトが大半を占めており、勤王の志士とするサイトは少数派といったところだろうか。ともあれ、これから本シリーズにおいて写真に写っている志士を一人一人検証していくこととしたい。

写真を撮った目的は何か(Why)…フルベッキ上京前の記念撮影という松浦・村瀬説は頷けるものがあり、実際にそのように説くサイトも多い。一方で佐宗氏の場合、「各藩の勤王党志士が一堂に会した記念」の集合写真であるとしている。本稿ではどちらが正しいかといった結論を急いで出すのではなく、慎重に筆を進めていくつもりである。

写真はどのようにして存在が知られたのか(How)…明治28年に雑誌『太陽』に発表されてから存在を知られるようになったと主張するサイトが大半である。松浦・村瀬説および佐宗説もその例に漏れない。なお、『新訳考証 日本のフルベッキ』にも口絵に問題の写真が紹介されているが、その説明文は「長崎の上野彦馬写真館で撮られたと思われる写真。フランスで発見した」となっていた点が興味深い。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(4)に続く

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2005年8月19日 (金)

フルベッキ写真(2)

 写っている人物の服装などから、幕末から明治にかけての写真だという見当が直ちにつく。しかし、この写真は単に幕末あるいは明治初期の写真だから珍しいというのではなく、近代日本史に関心のある人たちの間では今でも話題にのぼることの多い謎の写真なのであり、その謎を色々と回り道をしながら解き明かしていこうとするのが本シリーズの狙いである。

 最初に、写真の真ん中で椅子に座っている西洋人を紹介しよう。この西洋人はギドー・ヘルマン・フリドリン・フルベッキ(Guido Hermann Fridolin Verbeck, 1830~1898)といい、本シリーズの主人公となる人物だ。小さな子供はウィリアムで、フルベッキの長男である。そのフルベッキ親子を取り囲む侍の一団であるが、佐賀藩が長崎に開いた致遠館の生徒たち、すなわちフルベッキの教え子というのが通説となっている。ところが、フルベッキを取り囲む侍の一団は致遠館の生徒たちではなく、写真には日本の近代化に貢献した明治維新の元勲が写っているという驚くような説もある。すなわち、勝海舟・西郷隆盛・横井小楠・大村益次郎・大隈重信…と、日本人なら誰もが知っている志士が一堂に会した写真だという説なのである。しかし、突然そのようなことを言われても、初めてこの写真に接した読者であれば俄には信じられないであろう。参考までに、写真に写っているといわれている志士の氏名を以下に掲げておくので、人物に番号を振り当てたイラストを参照にしつつ、再度写真を眺めて頂きたい。

フルベッキ写真
1.勝海舟 2.中野健明 3.中島信行 4.後藤象二郎
5.江藤新平 6.大木喬任 7.井上肇 8.品川弥二郎
9.伊藤博文 10.村田新八 11.小松帯刀 12.大久保利通
13.西郷隆盛 14.西郷従道 15.別府晋介 16.中村宗見
17.川路利良 18.黒田清隆 19.鮫島誠蔵 20.五代友厚
21.寺島宗則 22.吉井友実 23.森有禮 24.正岡隼人
25.陸奥宗光 26.中岡慎太郎 27.大隈重信 28.岩倉具綱
29.ウィリアム 30.フルベッキ 31.岩倉具定 32.高杉晋作
33.横井小楠 34.大村益次郎 35.桂小五郎 36.江副廉蔵
37.岩倉具経 38.岩倉具慶 39.広沢真臣 40.明治天皇
41.岡本健三郎 42.副島種臣 43.坂本龍馬 44.日下部太郎
45.横井左太平 46.横井太平

写真の真贋について
 ここで、写真の真贋について世間はどう捉えているのだろうか。最初に、写真は贋物であると主張する人たちの代表として松浦玲氏を挙げておこう。松浦玲氏は幕末から明治にかけての日本史研究家として多くの著作を世に送り出しており、中央公論社刊『日本の名著 第30巻 佐久間象山・横井小楠』の責任編集・解説を担当している。同書の付録「変革期の政治と思想」は松浦玲氏本人と作家の小田実氏との珍しい対談であり、松浦玲氏の人となりを知る上で格好の資料となっている。その松浦玲氏が、『新訳考証 日本のフルベッキ』(W・E・グリフィス著 松浦玲監修 村瀬寿代訳編 洋学堂書店)の「序」で問題の写真について言及しているので少々長くなるが以下に引用しておこう。

村瀬さんが修士論文で取り上げたフルベッキについて、私には小さな因縁があった。一九七六年に朝日評伝選で『横井小楠』を出したとき、校正も終わろうという時点で雑誌『日本歴史』二三二号に「維新史上解明されていない群像写真について其二」が載った。長崎のフルベッキを囲んで西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・大隈重信・副島種臣・中岡慎太郎・伊藤博文等々、そして横井小楠が写るという刺激的な説が披露されていた。私は子細に検討する余裕を持たなかったので、このような論文が出たということだけを巻末に注記し判断を保留した。次いで拙著刊行後になったが、挙げられた人物群が一堂に会する可能性の皆無であることを確認してこれはニセモノだと判定し、それきり写真のことを忘れた。

 関心が甦ったのは、修士論文準備期の村瀬さんが精力的にフルベッキ関連の資料を集めては報告してくれる中に、この写真のことが出て来たからである。考えてみれば西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀……横井小楠と、写っていない人物を列挙するからニセモノになるのであって、写真そのものは紛れもなくフルベッキを囲む群像だった。合成写真の類ではない。

 論文準備中の村瀬さんの報告を聞くのは楽しかった。佐賀藩の中牟田倉之助など以前から私の守備範囲に居る人物が、フルベッキとの関連で意外な側面を見せてくれる。それが手掛かりになって初耳の佐賀クリスチャン武士のことにも焦点を合せやすく、既知の事実と未知の話が頭の中で絡まりあって脳細胞に新しい襞が刻まれるという感触を何度も味わった。教師である私にとって非常に勉強になった。 問題の写真は、そういう勉強の過程で再浮上した。フルベッキを囲むのは佐賀藩が長崎に開いた致遠館の生徒らしいということまでは既につきとめられていた。村瀬さんは写っている人物について他ならぬグリフィスの証言があることを押え、それにより撮影時期を明治元年末と絞りこんだ。

 これは村瀬さんが修士号を獲得し、私は桃山学院大学を退職した後のことになるのだが、前記『横井小楠』の増補版を二〇〇〇年の二月に朝日選書で出したとき、原著の注に追記するだけでは足りないと感じたので「補論」中に問題の写真を掲げ、村瀬さんの修士論文にも言及した。この拙著増補版での紹介は、村瀬さんのフルベッキ探索の網が広がることに聊かは貢献したようだ。写真については、そのたどりついた結果が本書の口絵と注記に示されている。(口絵写真3)

『新訳考証 日本のフルベッキ』W.E.グリフィス著 松浦玲監修 村瀬寿代訳編 p.i

 ここで取り上げた『新訳考証 日本のフルベッキ』は、佐賀県の洋学堂という書店が〝直販のみ限定500部再版予定なし〟という触れ込みで2003年2月1日に刊行したものである。洋学堂のホームページでも高らかに謳っているように、グリフィスの原著『Verbeck of Japan』にある誤謬を克明に論考・校正した良書であり、フルベッキが近代日本に及ぼした影響の大きさを思えば、同書はフルベッキの研究さらには近代日本史の研究に不可欠な資料の一つといえよう。

 次に、写真を真物とする人たちの中で注目すべき発言を行っているのは、ワールドフォーラム代表幹事の佐宗邦皇氏である。問題の写真の真贋について佐宗氏は、「科学と歴史の掲示板」という掲示板の2002年度版に投稿している。本稿で全部を取り上げたいところだが佐宗氏の投稿は長文であるため、筆者の独断で重要かつ問題の写真と関連があると思われる箇所のみの抜粋にとどめた。(誤字脱字などは、一カ所(*1)を除き、未訂正のまま転載)佐宗氏の投稿を全文で読んでみたいという読者は、以下のURLを参照されたい。
http://www32.ocn.ne.jp/~yoshihito/notes/board5.html

この写真は、勝海舟の親戚の戸川残花が明治28年に雑誌「太陽」にフルベッキ博士から借りて、「佐賀鍋島藩の致遠館での英語の生徒達との長崎での送別会」の記念集合写真だということで発表されたものです。明治2年その塾生であった岩倉一家や伊藤博文や大隈重信らの明治新政府によって顧問就任のために赴任するべく、行われた送別会だったというのだが、「ご一新後」の明治2年にもなって全員が「刀と丁髷」というのもおかしなことであり、フルベッキ博士の長男ウィリアムは、この写真では5ー6歳の幼稚園児ぐらいであって、もし明治2年なら9ー10歳になっていたはずであり、この写真と符号しません。従ってこの写真は元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日までの間と推定され、実質的な西南雄藩の討幕派志士達の結成大会でありますから、実質的な薩長同盟であり歴史では同盟成立は翌慶応2年1月のことですからはるかにその約1年も前のことでした。しかし、いかなる歴史書にもこの会合の記録もこうした歴史的事件の意義も説かれてはおりません。何故か?第1には、そこのフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」の存在があるからです。しかし「刀と丁髷」の孝明天皇の皇太子「裕宮(さちのみや)」が朝廷のある京を離れて長崎にこうして討幕派志士達と共にいること自体が奇妙なことです。孝明天皇は極めて保守的な考えの持ち主であり、その外国人嫌いによるその「攘夷」の気持ちが皇室の過激派を育て、「尊王攘夷」運動を引き起こした一方、その京都守護職松平容保に対する深い信頼や親近感や妹和宮を降嫁させたことからも討幕派には同調してはいません。そこで孝明天皇の皇太子「裕宮」が、追放され長州藩に匿われてていた三条実美ら尊攘過激派公家らと同調する討幕派の結成大会に参加している筈がないのです。すなわち、このフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」は、孝明天皇の皇太子「裕宮」ではないのではないか?となると、翌年12月25日の孝明天皇暗殺の際に、同時に皇太子裕宮も父親と共に暗殺されていて、ここに写っていた14歳の少年とすり換えられて明治天皇として新たに擁立された可能性が強い。それで翌年1月7日の明治天皇即位までの2週間の空白も、すり替えに要した時間と解されます。更に、江戸への遷都の際にも、殆ど女官や公家らこれまでの朝廷の人々は連れて行かなかったということや、そもそも遷都しなければならなかったというのも、京都近辺の皇太子裕宮を知る人々の目を恐れてと読み取れます。事実明治末期に、北朝と南朝の正統性について質問された明治天皇は本来は自分が北朝出身である筈なのに、「南朝」の方が正統だと思わず口を滑らしてしまいました。長州藩の防府に代々住み続けてきた「大浦*1」という南朝の末裔が、岩倉具視らにかつがれて皇太子裕宮に成りすまして明治天皇になったとも推定されます。

第2には、実質的な薩長同盟成立の主人公は、勝海舟であったことが翌判り、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」以来歴史では同盟成立は坂本龍馬がやったとなっているが、この写真1枚で勝が西郷を使って倒幕派志士の集合をかけさせて、実質的な薩長同盟を行ない、実務は坂本龍馬が、薩摩藩預かりとなって長崎駐在となり、師匠の勝海舟に代わって仲立ちをするために、亀山社中や海援隊を作って薩長間の橋渡しをしていたことが判る。

こうした事実が表面化しては困る、孝明天皇の暗殺の下手人達(岩倉、大久保、伊藤博文ら)の生き残りの伊藤博文が、この写真と事実の公表に圧力を掛け続けて、遂にはこの事実そのものが抹殺されたのでありましょう。こうして歴史は、時の権力者に都合の良いようにいつも修正、捏造、抹消されてきたのであり、このように歴史には、間違った歴史が定説となって通用しております。

2002年度版 「科学と歴史の掲示板」過去ログ

筆者注:*1「大浦」ではなく、「大室(寅之祐)」の間違い

以下も同様で、佐宗氏が2002年4月17日付の「科学と歴史の掲示板」過去ログに書き込みをした投稿の抜粋である。

この写真の真贋についてはNHKのあるプロジューサーが番組作製の目的で注目して徹底的に調べ上げて、100倍近く拡大してその着ている着物の家紋からその人物を特定した結果、後の明治の元勲達が勢揃いした「本物」であることが判明しましたが、問題の人物が後の明治天皇であることも100%間違いないことをつきとめましたところ、いずこよりかの圧力により番組作製を断念せざるを得なかったという曰く付きのものです。この写真の中央奥に立つ西郷隆盛こそ本物の西郷三で、キヨソネの絵以来騙されて信じ込まされている西郷イメージは、上半分が西郷従道下半分が大山巌の合成モンタージュ画です。晩年象皮病という皮膚病にかかりドイツ人医師から薦められれて飲んだ薬の影響で禿げ上がり、誠に醜くなってしまったのに加えて、西南戦争の賊軍の首魁となり反乱軍として特定されるのを嫌い偽の肖像画を行き渡らせたのと郷土の英雄がこんなに醜くてはとの郷里薩摩の人々の願望からあのような似ても似つかないデブの西郷イメージが流布してしまい、西郷の真実暴露を嫌う勢力もまた、この写真の偽物説を言い立てるのです。

2002年度版 「科学と歴史の掲示板」過去ログ

 以上、写真を贋物とする松浦玲氏に対して、写真は真物と主張する佐宗邦皇氏の間には意見の大きな隔たりがある。ともあれ、写真の贋物を巡る諸意見があれども真実は一つしかないのであり、松浦氏あるいは佐宗氏のいずれか(場合によっては両者)が間違っているのは確かである。さらに穿った見方をすれば、両氏のいずれかが偽情報(ディスインフォメーション)に踊らされているか、逆に両氏のいずれかが故意に偽情報を流しているのかもしれないといった、様々な可能性も念頭に置くべきかもしれない。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(3)に続く

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2005年8月18日 (木)

フルベッキ写真(1)

verbeck 私は「近代日本とフルベッキ」と題したシリーズを、国際契約コンサルティング会社のIBDのウェブ機関誌に1年間にわたって執筆したことがあります。シリーズの内容は、フルベッキ本人およびフルベッキと縁のある人たちを毎月1人ずつ取り上げるというものでした。

1年間の間に取り上げた人物は、坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇です。同時に、それと並行して「フルベッキ写真」という謎の集合写真についての私見も毎月書き続けてきました。題名は「追跡:フルベッキ写真」というものだったのですが、これを本ブログ用に再編集し、数回に分けてアップしたいと思います。なお、ブログ上の分類ですが、「教育」の分類に入れることにしました。本来であれば、「歴史」あるいは「写真」といったジャンルが相応しいのでしょうが、煩雑になりますので余りブログのジャンルを増やしたくないのと、物事の真偽を見極める姿勢を示すことも教育の道につながると考え、敢えて「教育」のジャンルに分類してあります。

verbeck01 スタートにあたり、フルベッキ写真を一度眺めてみてください。写真を見ると、フルベッキ親子を取り囲むようにして、勝海舟、後藤象二郎、小松帯刀、江藤新平、伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛、西郷縦道、黒田清隆、五代友厚、吉井友実、陸奥宗光、中岡慎太郎、大隈重信、高杉晋作、横井小楠、大村益次郎、桂小五郎、広沢真臣、坂本龍馬、副島種臣、明治天皇と、錚錚たる人物が一堂に会した写真とされており、初めてフルベッキ写真を目にするする皆さんは唖然としたのではないでしょうか。実は、フルベッキ写真には多くの謎が隠されているのであり、明日より順を追ってフルベッキ写真について筆を進めていきたいと思います。

※IBDに投稿していた「追跡:フルベッキ写真」は「である」調でしたので、本ブログに明日から再録する「フルベッキ写真」も、そのまま「である」調を残すことにします。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(2)に続く

※追伸:ブログ上の分類を「教育」から「フルベッキ」に変更(2005/08/24)

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2005年7月11日 (月)

近代日本とフルベッキ

m008 「近代日本とフルベッキ」と題したシリーズをIBDという国際ビジネスコンサルティング会社で1年間にわたり執筆してきたが、フルベッキといっても単にお雇い外国人の一人くらいにしか思われず、私が何故フルベッキについて1年間も取り組んだのか理解して貰えないことが多いようです。そこで、ホームページ「近代日本とフルベッキ」を数日の内に閉鎖するにあたり、前書きの形で書いた拙文を以下に再掲しておくことにしました。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/ibd/

はじめに

 幕末から明治にかけて活躍したお雇い外国人は多い。そうしたお雇い外国人の一人にオランダ出身のフルベッキがおり、日本近代化の基盤をつくった人物であったといわれている。そのフルベッキおよびフルベッキと縁のあった明治の元勲について、様々な角度からスポットライトを当てていこうとするのが本シリーズの狙いである。  尤も、フルベッキといっても直ぐにはピンと来ない読者も多いと思うし、明治初期のお雇い外国人について書かれた物の本にフルベッキの名が羅列されていた程度にしか思い出せない読者も多いのではないだろうか。何を隠そう筆者も最近まではそうした一人であったが、そんな筆者が改めてフルベッキの日本における業績を見直してみようと漠然とながらも思うようになったのは、1年ほど前に発行された総合経営誌『ニューリーダー』(2003年7月号)に掲載された「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈(上)」という記事のコピーを入手したのがきっかけであった。

 その後は仕事に追われていたこともあり、フルベッキの記事が載っていた『ニューリーダー』のコピーは机の片隅に積まれたままになっていた。それが本腰を入れてフルベッキとフルベッキを取り囲んだ人脈について掘り下げて調べてみようと決心するに至ったのは、たまいらぼ出版の玉井禮一郎社長と今年の5月に秩父山脈の麓にある蕎麦屋に立ち寄り、夕食においしい蕎麦に舌鼓を打ちながら歓談を持った時であった。実は、今年の6月下旬にたまいらぼ出版から『賢者のネジ』(藤原肇著)という新刊が発行されたが、その本に上記のフルベッキの記事が収録されている。筆者は藤原肇博士と知己であった関係で、たまいらぼ出版発行の『賢者のネジ』の校正などを手伝うことになったのであるが、それが蕎麦屋での『賢者のネジ』を巡る話に繋がったのである。しばらくして話がフルベッキに及んだとき、玉井社長が非常に珍しい写真があると切り出してきた。どのような写真かと思わず身を乗り出すと、玉井社長の口をついて出てきたのは勝海舟・西郷隆盛・大久保利通・大村益次郎・大隈重信といった明治の元勲が、フルベッキを取り囲むようにして雁首を並べている写真があるという、まさに我が耳を疑うような話だったのである。しかし、いくら人間的に信頼している玉井社長の言葉であっても、筆者にとって俄には信じ難い話であった。常識的に考えても、明治の元勲が一堂に集まった集合写真が存在するはずがないと考えるのが普通ではなかろうか。幸いにして問題の写真のコピーを入手したので、本シリーズの第一回「序章」で問題の写真を読者に公開すると共に、写真の真贋について筆者の意見を述べたいと思っている。なお、筆者にとってのフルベッキ研究の道標となった「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」が収録される『賢者のネジ』の詳細については、以下のたまいらぼ出版のサイトを参照していいだければ幸いである。
http://www.nextftp.com/tamailab/

 『ニューリーダー』の対談記事「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」で一番印象に残ったのは、同記事の副題「人材育成が〝東亜ルネッサンス〟へのキーワード」でも謳っている人材育成についてであった。同記事の中で藤原博士は以下のように述べている。


藤原肇:(フルベッキが)教育者として人材を育てたという視点が重要であり、西欧文明に根を生やすフルベッキという幹から、横井小楠をはじめ大隈重信や勝海舟の枝が伸びた。そして、幕末にかけて育った人材が葉や花となって、われわれに近代国家の果実を約束したのに、普仏戦争の幻想に迷ったプロシア派の日本人が、ドイツ産の幹を接木したのは悲劇でした。

 勝海舟・西郷隆盛・大久保利通・大村益次郎・大隈重信といった、綺羅星の如く一流の人材を輩出した幕末の日本が、その後は坂を転げ落ちるように堕落し、ついには第二次世界大戦による敗戦を迎えるに至ったのである。そして時代は移り変わり、今や平成幕末を迎えようとしている日本の姿が私たちの目の前にある。歴史は繰り返すというが、敗戦後の日本は過去から何も学ばなかったのであり、そのツケが平成幕末の到来を招いたといえるのではなかろうか。世間ではグローバルスタンダード、IT革命などを指して現代の黒船と騒いでいるが、これらは単なる細波に過ぎないのであり、本当の大波である黒船の正体はそのような生易しいものではない。黒船の正体はズバリ情報大革命という名の巨大な黒船であり、今日明日にも浦賀沖に全容を現すというのに、それに気づいている人たちが意外と少ないのは大変奇妙な光景に筆者には映る。

 それでも、大勢の人たちにも一目瞭然の形で浦賀沖に黒船が全容を現す日も近いと思うが、今度の黒船はどのような影響を東洋の小さな島国日本にもたらすのだろうか。幕末の時のように、現代の「お雇い外国人」が現代の日本にも出現するのだろうか。さらには、現代の〝勝海舟〟〝西郷隆盛〟〝大隈重信〟〝横井小楠〟〝坂本龍馬〟ら一流の人材が現代の日本に再び出現するのだろうか。

 本シリーズの目指すところは、フルベッキを軸として幕末・明治という時代を振り返ると同時に、現代の日本のとるべき進路を提示してみようとする大それた試みであるが、たとえ1%でも日本丸の舵取りに反映してもらえるのであれば、これに勝る喜びはない。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
街のワンダーランド…

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2005年6月26日 (日)

フルベッキ

m005 人材育成と言えば、幕末から明治にかけて活躍したお雇い外国人の一人、G・F・フルベッキを取り上げないわけにはいきません。私は、ある企業のウェブ誌に1年間にわたり、「近代日本とフルベッキ」と題して、フルベッキおよびフルベッキを取り巻く明治の志士たちを描いてきました。さらに、この1年間の間に「近代日本とフルベッキ」という臨時ホームページを公開してきましたが、今月号を以てウェブ誌への掲載が終了するのに伴い、来月の上旬に臨時ホームページも閉鎖の予定です。よって、日本近代化の父の一人であったフルベッキに関心のある方は、閉鎖する前に一度訪問していただけたら幸いです。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/ibd/

今月の最終号で、私は以下のように書いています。

フルベッキの遺志を継ぐ

 明治2年から明治10年にかけて、フルベッキが貢献した分野は何も上述の法律制度だけではない。法律制度以上に貢献したのが教育制度ではなかったかと思う。俗に日本の大学の源流は長崎にあると言われるようになった当時の長崎の致遠館などの私塾では自治の精神に溢れ、学問の自由を謳歌していたのであり、これが日本の近代化に大きく貢献したことは言を待たない。ただ、こうした自由な気風が後年の大学設立に生かされることなく、文部省という権力に屈したものに成り果てたのが現在の日本の教育制度であり、そのために日本社会の真の進歩が中途半端なものになってしまったのは返す返すも残念なことであった。現在の日本はバブル崩壊から久しく、かつ近い将来には嘗ての産業革命に匹敵する大きな社会的変革が日本はもとより世界を襲うのは確実であり、そうした新時代に相応しい人材育成に欠かせないのが自治の精神と学問の自由である。その意味で、人材育成という観点から教育のあり方を見直すことは、今日における緊急の課題であるといえよう。幸い、【宇宙巡礼】というホームページを管理している筆者の知人から、人材育成について深く考えさせてくれるという今や絶版となった『教育の原点を考える』(早川聖・他 亜紀書房)という本の筆者の了解を得て、同本を電子化して公開したという知らせが届いた。以下が『教育の原点を考える』のURLであるが、教育とは何も学校教育という問題だけではなく、広くは日本の将来をも左右しかねない大きな意味を持つものであるからして、一人でも多くの読者に目を通して頂き、教育の原点について考えるきっかけとなれば大変有り難く思う。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm

 とまれ、教育は正しく国の骨幹であり、微力ながら筆者も何らかの形で世の中に貢献できればと願っている。その意味で、近代日本の父・フルベッキの遺志を思い出し、明日の日本を背負う若者たちの踏み台になりたいと、心から願う今日この頃である。

http://www.ibd-net.co.jp/official/kaientai/index.html#7

フルベッキについては、『日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)や『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』(大橋昭夫・平野日出雄共著 新人物往来社)がお薦めです。なお、W・E・グリフィスの著した『Verbeck of Japan』を翻訳した村瀬氏の講演会が、来月下旬に神戸大学で行われます。フルベッキその人に関心を持つ訪問者は、この機会に参加してみてはいかがでしょうか。

公演:「幕末期、日本人の西洋文化受容-長崎における新教宣教師、フルベッキを中心として-」村瀬寿代(桃山学院大学)
日時:2005年7月22日(金曜日) 午後1時30分~5時
場所:神戸大学国際協力研究科棟 1階 大会議室

その他詳細は、以下のURLを参照願います。
http://www.nime.ac.jp/jsmr/kenkyukai_kansai03.html

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
田植えを体験する子どもたち。

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