下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について
フルベッキ写真の一環として、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生から、「下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について」についての掲載の許可を先月の1月25日にいただいておりましたが、パソコンの不調でアップが大変遅くなり申し訳ありません。急ぎpdfにまとめたものをアップさせていただきましたので、一人でも大勢の方々に目にしていただければ幸いです。よろしくお願い致します。
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フルベッキ写真の一環として、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生から、「下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について」についての掲載の許可を先月の1月25日にいただいておりましたが、パソコンの不調でアップが大変遅くなり申し訳ありません。急ぎpdfにまとめたものをアップさせていただきましたので、一人でも大勢の方々に目にしていただければ幸いです。よろしくお願い致します。
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慶應義塾大学 准教授 高橋信一
「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。 (平成19年8月22日) |
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慶応大学の高橋信一准教授から「上野彦馬の写真館と写場の変遷」と題する論文が届きましたので、本ブログ上で以下に一般公開致します。
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経営誌『NEW LEADER』7月号に「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」という記事が載っています。この記事は落合莞爾氏の筆による連載物であり、同氏は『平成日本の幕末現象』(東興書院)や在米の国際ジャーナリスト藤原肇氏との共著『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)などを著しており、私は両書から色々な意味で啓発されたものです。そして、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」という落合氏のシリーズ物も、近代日本の裏の歴史を知る上で大変興味深い内容だと今まで読んできたのでした。しかし、今週届いた経営誌『NEW LEADER』7月号に目を通し、落合氏がフルベッキ写真を取り上げているのに気づき興味津々で読み進めてみたものの、同じ落合氏の筆によるものとは思えないほどお粗末な内容であったので落胆した次第です。その落合氏が記事の中でフルベッキ写真について言及している箇所を最後に転載しておきますので、読者にはじっくり目を通してもらうとして、落合氏の記事の何処が出鱈目なのか以下に列記しておきましょう。ちなみに、灰色の囲みは落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」から、茶色の囲みは慶應義塾大学准教授の高橋信一氏の論文やメールからです。
1.撮影場所
| 撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。
「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」 |
以下の論文を落合氏は見落としているのが一目瞭然です。
| (5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。 |
2.子供
| 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。
「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」 |
私は高橋先生とのメールのやり取りで、以下のような情報を頂いています。加治氏だけではなく、落合氏の意見も是非聞かせて欲しいところです。
| 所謂一般市民に、この写真を知らしめたのは石黒敬七さんで、島田氏よりはるかに早い、昭和32年の「写された幕末」で、娘と書いています。その写真が石黒敬章さんの「明治の若き群像」に転載されました。彼は、想像でキャプションを書いたはずですが、感性は正しかったと思います。また、村瀬寿代先生がブログの掲載の前から、娘だと私に言われていました。服飾の歴史の専門家に聞いて子供が着ているのは、女の子のドレスだそうです。
2007年5月27日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより |
3.大室寅之佑
| さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。
「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」 |
まさか、大室寅之佑(明治天皇)が写っているといった出鱈目を落合氏が信じているのでなければいいのですが…、万一そうだとすれば、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」の信憑性を根本から見直す必要が出てきそうです。
4.伊藤博文
| 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。
「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」 |
この下りを読んだ瞬間、自分の心の中では雲の上的存在であった落合莞爾像はガラガラと崩れ落ちました。同記事に目を通した高橋先生も呆れたようで、落合氏の記事についてサムライが何か書くことがあれば、以下のメッセージも載せて欲しいという依頼がありましたので、一部を割愛の上、転載させていただきます。
| 落合莞爾氏は佐賀藩士を平凡な人生と言ってますが、「フルベッキ写真」に写る彼らの半分は当時としては破格の海外留学経験をし、それを活かして明治の世の中を作っていった人たちです。それらの価値を掘り起こすのが、平凡な作家の使命のはずです。西郷や伊藤などだけが歴史を作ったのではないことを伝えてください。
2007年6月28日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより |
落合氏は高橋先生の以下の論文に未だ目を通していないようなので、ここは是非一読を勧める次第です。目を通した後でも落合氏の目が覚めないようであれば、「駿馬も老いては駄馬に劣る」という諺を落合氏に贈る他はなさそうです。
「フルベッキ写真」に関する調査結果
小説「幕末維新の暗号」の検討結果
行方不明の坂本龍馬は… 吉井友実が宣教師フルベッキに親炙したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい数力月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面化する兆しが生じた。 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。折しも慶応二年一月には薩長秘密同盟が締結され、翌年には薩土秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。 吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラバーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。 一八六四(元治元)年二月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、八月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、十一月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を立つ。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(二〇八頁)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年四月五日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くが、グラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。 結局、明治維新の真相の一班にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。 『NEW LEADER』7月号 |
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過日、「『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント」というテーマの記事を投稿し、加治将一氏本人のブログから以下を引用したのを覚えておられると思います。
| 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。 |
ところが、その後上記のかじまさ.netが閉鎖されているというメールが道友から届きました。あれだけの“名文”が読めなくなるということは大変惜しいことなので、以下に加治氏本人が自著『幕末維新の暗号』について述べていた箇所を再録しておきましょう。後は読者の判断にお任せします。
『幕末維新の暗号』を出してから、有形無形の圧力を受けている。脅しさえも。 言論弾圧、出版妨害。 あるものは政府機関を名乗り、あるものは弁護士を名乗り、あるものは教育者を名乗り、あるものは学者を名乗り、いややはりその中には、まったく名乗らない闇の勢力もいる。 妨害には、さまざまな方法がある。 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。 『幕末維新の暗号』は、盗作で読む価値なしだという言いがかりもよく使われる。 『幕末維新の暗号』は、駄作だと中傷する古典的な方法がある。 出版社や新聞社に、『幕末維新の暗号』の書評を載せるなと、圧力をかける方法もある。 さらにまた、作家やその周辺を震えるほどに脅す方法がある。オーソドックスだが、効果的だ。 もう一度、見つめようではないか? 『幕末維新の暗号』は、発売わずか3週間で、4度も刷り増しするという栄誉にあずかった。 加治将一 by kaji-masa | 2007-05-18 07:01 |
慶應義塾大学准教授 高橋信一
明治元年10月、岩倉具視の息子具定・具経兄弟が長崎の佐賀藩藩校致遠館に国内留学した際、フルベッキや致遠館関係者と撮影された集合写真、「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の中で初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されており、素性は明らかである。その後の偽説に利用された軌跡を辿ってみることにする。 先ず、明治33年米国で出版されたW.E.Guriffisの「Verbeck of Japan」では写真は掲載されていず、説明のみ書かれている。それには岩倉兄弟の他大隈重信と柳屋謙太郎が写るとしているが、後者二人については疑問がある。グリフィスが米国で指導した日下部太郎や横井兄弟の言及はない。私が先に説明したように、大隈はこの本を読んでいた。次に、明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」に掲載された。それ以前の存在については後で記す。写っている人物として、岩倉具定、石橋重朝、丹羽龍之介、中島永元、江副廉蔵、中野健明、香月経五郎、山中一郎、大庭権之助が挙げられており、江藤新平や大隈重信はいない。居もしない他の人物を当て嵌める以前に、先ず、これらの人物を同定する必要がある。昭和6年に出版された「明治百話」には晩年(明治31年死去)のフルベッキが篠田鉱造のインタビューに答えて、この致遠館の「フルベッキ写真」と長崎奉行所の学校済美館の後継広運館の関係者と写した集合写真を示しながら、上野彦馬が撮影したことなど、当時を気さくに語っている。秘密の写真ではなかった。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で、明治22年に暗殺された森有礼が残したアルバム中の名刺判が「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。この写真は平成18年に出版された石黒敬章「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にも載っている。明治の中ごろまでに、この写真の名刺判の複製が一般に流布していた証拠である。ここまでは、「フルベッキ写真」は特別な意味合いのあるものではなかったのである。 これに根拠もない汚名を着せたのは、自称肖像画家の島田隆資である。昭和47年5月10日の読売新聞に「オイどんの写真じゃと・・・」と題して「フルベッキ写真に西郷隆盛が写っている」と発表した。さらに、昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表し、撮影時期と20数名の人物の比定を行った。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の評価は未だ全くなされていない。そのことによって、いろいろな憶測が次々に加わっていった。島田氏はその後31人まで江副廉蔵が手に入れて家に残した名刺判からの複製である「フルベッキ写真」のコピーに名前を書き込んだ。それがいろいろな方面に流布し、波紋を広げた。尚、この論文と前後して昭和50年に出版された「写真の開祖 上野彦馬」の中で、上野一郎が上野彦馬の写場の変遷を多数の写真から推定し、「フルベッキ写真」を撮影した写場が明治以降のものであることを立証した。これを覆す証拠は未だ見つかっていない。上野氏は平成9年安田克廣編「幕末維新 写真が語る」の中でも繰り返し、慶応年間説を否定している。以降、昭和49年の「勝海舟」始め小沢健志氏の各種の著作には「フルベッキ写真」は「長崎の致遠館生徒らの集合写真」として取り上げられて来た。そのような写真界の常識に反抗するように偽説は燻り続けるのである。 昭和55年に秋田角館の青柳家から、この島田氏の書き込みが入った写真が発見され、昭和55年8月19日の佐賀新聞に当時の佐賀大学教授(現佐賀城本丸歴史館長)杉谷昭氏が記事を寄せ、島田論文を既に擁護している。この角館のものと同様のものが、昭和60年5月28日、当時の自民党二階堂進副総裁から国会に持ち込まれて話題になり、東京新聞が特集記事を掲載し、島田氏の論拠は否定された。にも拘らず、平成7年12月号(高橋佐知)及び平成11年7月号(中津文彦)の「歴史読本」に見られるように、西郷隆盛と関連付けて、上野氏の論考を無視した偽説の展開が続いて来た。それに対して正当な歴史家の研究として、平成15年「日本のフルベッキ」を翻訳出版した村瀬寿代氏は、翻訳の過程で知った「フルベッキ写真」の問題を歴史学的に解明し、平成12年「桃山学院大学キリスト教論集第36号」で明治元年撮影を結論付けている。この内容を基礎にした論証は「日本のフルベッキ」の注釈に載っており、私の調査のベースになっている。また、平成15年8月に大阪市立大学名誉教授毛利敏彦氏が佐賀で講演し、慶應元年説を否定した。ここで、問題を複雑にしている明治天皇との関連を見ておきたいが、明治天皇(大室寅之祐)が写っているという話は、この時点まではどこからも出ていなかったのである。 大室寅之祐の子孫を自称する大室近祐が明治天皇すり替え説を唱えていたことは、その支持者である歴史家の鹿島昇の著作「日本王朝興亡史(平成元年)」や「裏切られた三人の天皇(平成9年)」で知られていた。しかし、これらの著作には「フルベッキ写真」への言及はまったくなかった。平成13年4月24日に鹿島氏が亡くなった後、共同研究者の松重揚江氏が「日本史のタブーに挑んだ男(平成15年)」の中で、始めて「フルベッキ写真に明治天皇(大室寅之祐)が写っている」と唱えた。一方、国際ジャーナリスト中丸薫氏は「真実のともし火を消してはならない(平成14年)」の中で、自分が明治天皇の子孫であるとの主張とともに、「平成13年4月14日に大阪でフルベッキの孫の知り合いの人物から額に入った「フルベッキ写真」をもらった」と言っている。「フルベッキ写真」には全員の名前が入っており、明治天皇が写っていると主張している。明治天皇説が捏造されたのは、平成13年ごろである可能性がある。誰が始めて全員の名前を入れたか未だに不明であり、偽説によって登場人物に多少の変動が見られる。 また、こうした偽説の流布が発展する契機になったものとして、平成9年岩波書店が発行した「日本の写真家シリーズ1」の「上野彦馬と幕末の写真家たち」に、これまでで最も高精細で完全なオリジナルに近い「フルベッキ写真」が掲載されたことが挙げられる。これは近年になってからパリで競売に掛ったものが日本に持ち込まれ、産業能率大学の購入所蔵となったものである。台紙にフランス語のキャプションが入っているが、業者が入れたもので、意味はない。以降、インターネットや土産物屋、各種出版物で見られるほとんどの「フルベッキ写真」はこれから無断・同意で盗用・引用されたものと考えられる。ちなみに私がブログで使用しているのは、このブログ上に野田氏が掲載しているもので、「上野彦馬と幕末の写真家たち」からスキャンした画像である。中丸氏が手に入れたものも、これに類するものだろう。しかし、中丸氏からの反論はない。 陶板額の流布はおそらく、平成13年ごろに佐賀の陶業者金龍窯が最初に発売した。前掲昭和55年の佐賀新聞の記事に触発されたそうで、島田氏の論文のコピーを付けていたが、名前は入っていなかった。佐賀を中心に山口、高知、京都などの行楽地の土産物屋の店先に並び、インターネットでオークションにもかかった。全員の名前を入れたものは同じく彩生陶器によって平成16年ごろに売り出され、この年の暮れから翌年にかけて、全国紙朝日、毎日、産経、日経、そして読売の旅行雑誌に広告が掲載された。これが全国の幕末史愛好家に与えたインパクトは大きかったと思われる。「フルベッキの子孫が日本に実在した」という虚偽とともに、歴史家が解明していないことをいいことに、世の中の受けだけを狙った一種の詐欺行為が堂々と行われた訳である。添付の冊子には、歴史的な解明は全くされていず、名前が入った人物の紹介文のみが載っている。慶應元年当時の年齢が全員入っており、佐賀の相当熟達した研究者が、背後で「フルベッキ写真」を利用して自己の勝手な主張を公にしようと諮ったものである。 昭和55年の佐賀新聞の記事を書いた杉谷氏は平成19年4月に郷土史機関紙「葉隠研究」に歴史小説を発表して、慶應元年明治天皇長崎到来説を唱えているが、内容には歴史的事実に反することが何箇所も見受けられ、元々無理な主張である。同様な偽説を信奉する諸説は、本来真摯に歴史を探求しているはずの歴史愛好家のグループからも出て来ており、一例は平成17年2月の長崎県有家町史談会の会報「獄南風土記」第12号であり、偽説を無批判に取り上げ、流布させようとしている。今回の加治将一「幕末維新の暗号」は、これまでの偽説をトレースしただけで、新たな推測はワンパターンの「フリーメーソン」に留まっている。同定も不完全で、このようなアジテーゼに感激する読者がいる日本の風土に大きな疑問を感じる。自由な発想だと擁護する向きも多いが、事実の記録を尊重して、ちゃんと考えた上での判断でなければならない。他人に流される国民性の問題である。「幕末維新の暗号」の欺瞞については、先のブログを参照されたい。今後も繰り返して「フルベッキ写真」は蒸し返されるかもしれないが、近年は古写真を重要な歴史を記録した史料として正規に認め、学問的に研究する気運が盛り上がりつつある。世界的にも日本の古写真は注目されており、このようないい加減な議論がまかり通るのは恥ずかしいことである。これを機会に、一般の歴史研究者が古写真を見つめるノウハウを勉強してほしいと節に願う。今回の内容に訂正・情報がありましたら、寄せていただくとありがたく思います。
(平成19年6月3日)
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過日、高橋信一先生の投稿『小説「幕末維新の暗号」の検討結果』 にコメントを寄せたエスなる人物が、実は真っ赤な偽物であることが判明しました。
エスなる人物の偽の投稿
上記のエスなる人物が、自分のホームページということで示していたリンク先のH様とは全くの別人であることは、ご本人であるH様から直接メールをいただいて判明した次第であり、H様の要請に従ってエスが勝手に使用したH様のリンクは削除させていただきました。H様、誠に申し訳ありませんでした。
ブログ【教育の原点を考える】では今回の事件を重く見て、今後本ブログの投稿に際して「スパム防止認証画像」を必ず表示させる仕組みに変更すると同時に、仮に投稿してもブログのオーナーである私が判断して掲載する否を決めることができるように、公開前に一時保留できる設定に変更しました。こうした一連の処置を講じたことにより、勝手に他人のURLやメールアドレスが使われるという事件が一件でも減少してくれることを祈ります。
なお、トラックバックについても最近は「セーラー服云々」といった下らないトラックバックが急増していることもあり、並行してトラックバック機能を閉鎖致しましたのでお知らせ致します。今後の皆様のご意見・ご感想は、コメントを利用していただけますようお願い致します。
さて、以下はエスの投稿です。
| こんにちは。 エスと申します。 私は「明治維新の暗号」を読んで、また、別の感懐を持ちました。 |
いかにも、他人のホームページのURLを勝手に使用しても何とも思わない厚顔無恥なエスらしいコメントです。
ところで、エス氏のコメントを読みながら、加治氏が自身のブログに書いてあったことを思い出し、同時に『幕末維新の暗号』に加治氏本人が書いていた下りを思い出しました。
| 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。 |
「よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている」と見得を切った加治氏は、高橋先生の『小説「幕末維新の暗号」の検討結果』の何を検証し、何処が根拠の薄いものと考えたのか、そのあたりを明瞭に示して欲しいものです。それにしても、「そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話」と書くあたりは笑わせてくれます。加治氏本人が『幕末維新の暗号』に書いた以下の記述を一読ください。
| 「フルベッキ写真を、本にするんですか?」 「書こうと思っている。ただし純粋な創作より、本当であるという事実の方を上位に置いた小説だ。しかしその前に、一つ大きく躓いている。なんたることか肝心なところで、確証がつかめないんだな」 『幕末維新の暗号』P.444 |
一体、加治氏の本音は何処にあるのでしょうか。「小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話」なのでしょうか、それとも「ただし純粋な創作より、本当であるという事実の方を上位に置いた小説だ」なののでしょうか?
| 「言いがかりなら、やめていただきたい。それに僕は歴史学者じゃない。小説家だ。あくまでも面白く読ませることが主眼です。 「小説に逃げますか。うまい逃げ場だ。癪ですが、世間に対する影響力は学術本より小説の方がはるかにでかい。その分、責任重大でしょうが」 「読者だって馬鹿じゃありません。もし書いているものが嘘なら、すぐに見破るはずです。その時点で読者の心はさっと離れ、作家はすべてを失うことになります」 『幕末維新の暗号』P.97 |
「もし書いているものが嘘なら、すぐに見破るはずです」という加治氏の言葉に全く同感です(笑)。
『あやつられた龍馬』(祥伝社)や『石の扉』(新潮社)といった一連のフリーメンソンものを書いている加治将一氏が、『幕末維新の暗号』((祥伝社))という新著を出したと【阿修羅】という掲示板のトップページに紹介されていたので、早速クロネコヤマトのブックサービスに発注をかけると同時に、本ブログ【教育の原点を考える】でフルベッキに関する貴重な論文を寄せて頂いている高橋信一先生にも即メールでお知らせしました。すると、すぐに高橋先生からメールで応答があったのであり、その後幾度がメールのやり取りを行った結果、加治将一氏『幕末維新の暗号』の書評をアップしようということになりました。よって、ここに高橋先生の書評に続いて私サムライの書評を載せますので宜しくお願い致します。
■TVディレクターvs.作家
私が加治将一氏の新著『幕末維新の暗号』を読了してつくづく思ったことは、過日私がアップした『覇王不比等』を著した黒須紀一郎氏の著作と比較して、同じ小説とはいえ両書には雲泥の差があるという点でした。思うに、この違いは黒須氏がテレビのフリー・ディレクターであり、加治氏が作家であるということに由来するのでしょう。『覇王不比等』でも既に読者の皆様に紹介しましたが、アマゾンドットコムに載っていた書評にあった、「売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多い」、という発言の正しさがここでも証明された形になります。
ただし、誤解のないように一言添えておきますが、作家の中にも本物はやはりいるものであり、その一人が『曼陀羅の人』を著した陳舜臣氏です。拙ブログでも同氏の『曼陀羅の人』を取り上げていますので、一度是非ご訪問いただければ幸いです。
『曼陀羅の人』
■インテリジェンスvs.インフォメーション
黒須紀一郎氏の『覇王不比等』や陳舜臣氏の『曼陀羅の人』がインテリジェンス・レベルの本であるとすれば、加治将一氏の『幕末維新の暗号』はインフォメーション・レベルの本に過ぎないという点もここで指摘しておきたいと思います。インテリジェンスとインフォメーションの違いは、拙ブログでもたびたび取り上げていますのでここでは敢えて繰り返しませんが、参考として以下の2本の拙ブログの記事を一読していただければ、ある程度はインテリジェンスとインフォメーションの違いを理解していただけるものと思います。
『空海の夢』
『聖徳太子と日本人』
■誠実さ
『聖徳太子と日本人』では、最後の方で『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏の本をインフォメーション・レベルに留まっている本と批評しましたが、それでも引用先を米国政府の『年次改革要望書』であることを正確に書いている点は当然とは云え常識ある態度だと思うし、また日本人に『年次改革要望書』の存在を広く知らしめた功績は大きかったと思います。
それに反して、加治氏の場合はどうでしょう。関岡英之氏の場合はノンフィクションであり加治氏の場合は小説というフィクションだという違いはあるにせよ、高橋信一先生が『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』でも述べておられるように、他人の説を盗用し、恰も自説の如く小説に書く加治氏は、人間として当然持つべきモラルが欠けていると謂わざるを得ません。たとえば、以下の高橋先生の書評が好例です。
| (17) p.269・・・「鍋島直彬」の存在の仮説は私のオリジナルである。出展を明示しないのは、盗用である。彼が明治元年に長崎にいた理由は戊辰戦争に勇んで参戦しようとした直彬が鍋島直正から長崎警備を命令されたためである。通例なら、佐賀本藩の仕事であった。慶応元年の所在証明は別にする必要がある。
『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』 |
とあるように、「鍋島直彬」についての情報を最初に知った者の一人が私であり、かつ拙ブログにアップロードしているだけに、間違いなく「鍋島直彬」の存在の仮説を初めて発表したのは高橋先生であることを此処に証言しておきたいと思います。
また、『幕末維新の暗号』は明治天皇すり替えという日本のタブーを取り扱っていますが、これは加治氏のオリジナリティでは全くなく、故鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』(国民社)を下敷きにしていることは明らかです。『裏切られた三人の天皇』については拙ブログでも若干ふれていますで参照頂ければ有り難く思います。
『明治天皇(2)』
なお、『幕末維新の暗号』は小説という形を取っているにしては、何故か巻末に主要参考文献を掲げています。そして、その中に『裏切られた三人の天皇』も羅列してありました。『幕末維新の暗号』の中での明治天皇に関する記述は『裏切られた三人の天皇』無しには成り立たなかっただけに、流石の加治氏も知らんぷりはできなかったようです。
■品性
高橋先生の『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』を一読すれば明白のように、小説とは云え加治氏の『幕末維新の暗号』は嘘が余りにも多い本であり、多くの読者を惑わせる愚書です。
同じ小説でも、黒須純一郎氏の著書群には品性が感じられました。その点、加治氏の本からは全く品性は感じられなかったのですが、何故かとよくよく考えてみたところ、高橋先生といった他人の説を平気で盗用するといった人格の問題もさることながら、『裏切られた三人の天皇』といった本をそのまま下敷きにして加治氏に都合よく編集しているだけの本である点が大きいように思えます。その点、黒須純一郎氏の『覇王不比等』を一読した後、改めて中国の兵法書である『孫子』、『六韜』、『三略』を紐解いてみたいという衝動に駆られたことを思えば、品性だけでなく作者の持つ人間的な深みにおいても天地ほどの開きがありそうです。
加治氏の本に惑わされる読者が一人でも減ることを祈りつつ本稿の筆を擱きます。
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慶応大学の高橋信一助教授から『幕末維新の暗号』(加治将一著 祥伝社)の書評が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。なお、以下の「フルベッキ年表」(verbeck_relatled_chronology01.xls)も是非参照願います。
「verbeck_relatled_chronology01.xls」をダウンロード
慶應義塾大学 准教授 高橋信一
(1) 私がブログで論じたことを出展の引用をしないで、盗用している。平成18年4月8日に加治将一氏に呼ばれて大崎のホテル・ニューオータニ・イン東京で会合し、私の資料のコピーを渡し、いろいろな説明をした。その内容が、登場人物の名前を変えて随所に使われている。それ以後更新されたブログは踏まえていない。加治氏にはブログの最新版を精読することを強く薦める。 (2) 空想を論じるのは自由である。しかし、それをもっともらしく見せるために、記録が残っている史実をねじ曲げてよいはずがない。 (3) 偽説を唱える人たちの常として、いつも最初に出てくるのは、「写真に写っている人物がこれこれであるから、撮影はこれこれの年だ」といういい方である。この本は一貫して、その姿勢で書かれている。しかし、似ていても、別人である可能性はいくらでもある。主観に基づく人物の同定は極めて難しく、慎重に行われなくてはならない。簡単に決め付ける前に、証拠を上げて論拠を説明すべきである。古写真を観察する際に常に必要なのは、人物如何に関係なく、その写真がいつ撮影されたかということを出来得る限り厳密に説明するべきだということである。最初から判断が間違っていれば、結論が正しいはずがない。 (4) p.47・・・「彦馬の子孫・・・」はまったく根も葉もない為にするものである。感情的な攻撃の前に上野一郎氏が間違っている証拠を一つでも上げて論証すべきであろう。それをやろうとしないのは、上野氏の研究を否定しないと偽説の立つ瀬がないからである。 (5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。 (6) p.60・・・「4,5歳に見える」なら、明治元年のエマでまったく差し支えない。外人の子供の男女の見分けは不可能である。 (7) p.79・・・島田隆資の論文をちゃんと読めば、「一ばん前列左はしは木戸さんか、岩倉さん」、「江副廉蔵は前列左から三人目」となっている。指している人物は木戸孝允と目される人物から数えて三人目でなくてはならない。江副家に残る若い頃の江副の写真からも、この人物の一人右隣りであることは明白である。尚、江副廉蔵は慶応3年12月29日に致遠館に入学したことが記録に残っている。慶応元年に入学した事実はない。撮影されたのは、慶応4年(明治元年)以降である。「岩松要輔 近代文明との出会い 英学校・致遠館」参照。 (8) p.81・・・「大隈重信」の対照写真は明治5年暮れから翌年初めにかけて、横山松三郎により、ウィーン万博出品のために撮影されたもので、同定に使うには後年過ぎる。中野健明の同定(p.149)に利用された慶応3年撮影の「佐賀 幕末明治500人」の口絵写真が順当なところである。それと比較すると月代が剃られていない点や、眼つき、あごの形など明らかに別人である。「フルベッキ写真」の人物は額に凹凸があるが、大隈にはまったくない。古写真研究家の森重和雄氏が指摘したように、「写真の開祖 上野彦馬」所載の人物の方がよく似ている。 (9) p.82・・・「済美館生徒とフルベッキ」写真に全員の名前が入っているというのは事実誤認である。ほとんどは広運館の教師たちであるが、一部氏名が不明になっている。長崎県立歴史文化博物館所蔵。 (10) p.107・・・「折田彦市」についても、私のブログの転用である。せめて、「一枚の肖像画 折田彦市先生の研究」を引用すべきである。尚、折田の周辺の人たちは、この人物の後ろの高杉晋作と目される人物だとしている。主観に頼る人物同定の限界である。 (11) p.133・・・「横井兄弟」の対照写真は慶応2年の留学前に上野彦馬の写場で撮られたものである。こちらも広い写場ではない。「陸奥宗光」参照。なぜ慶応元年に撮られた写真の方が月代を剃っていないのか?本物に見えるという主観の方が疑わしい。「日本のフルベッキ」でグリフィスが「フルベッキ写真」の説明をしていて、それを根拠に大隈がいると主張しているが、グリフィスはラトガース大学で長期間自分が直接面倒を見た横井兄弟や日下部太郎(p.410)が写っていると言っていない。岩倉具定兄弟以前に先ず名前が上げられるはずである。p.248に「グリフィスは大隈と入魂」と書いているが、大隈との面識や交友の記録は存在しない。「グリフィス・コレクション」を精査すべきである。 (12) p.148・・・「中野健明」に関しては、私のブログを訂正をしなければならないかもしれない。森重和雄氏の指摘によれば、明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の前に坐る人物の可能性がある。年齢とともに顔が大きく変化する人物の実例かもしれない。決め付けは厳に慎むべきである。 (13) p.230・・・「フリーメーソン」の関与を考えるには、もっと当時のメンバーの活動について明らかにする必要がある。名称だけを引き合いに出して何かを論じるのは妄想以外の何者でもない。幕末から明治にかけて来日した外人の内、誰がフリーメーソンに関係したかは、1864年に横浜に設立されたフリーメーソンのメンバー・リストで知れる。それによると、例えば、1867年にフェリーチェ・ベアトがフリーメーソンのメンバーになったことが知られている。「フルベッキ写真」とベアトの関係を解明してみせよ。「John Clark: Japanese exchanges in art, 1850s to 1930s with Britain, continental Europe, and the USA : papers and research materials」及び「Terry Bennett: Old Japanese Photographs」参照。 (14) p.247・・・「山中一郎」の対照写真は私のブログからの盗用である。 (15) p.249・・・「江藤新平」の名誉回復を目指した「江藤南白」のキャプションに江藤の名前がないことが、彼が写っていないことの傍証である。こちらに「フルベッキ写真」が使われたのは、江藤が関係した佐賀藩士を紹介するためでしかない。 (16) p.259・・・「フルベッキの長男」とキャプションされているのは「開国五十年史」でなく、大隈が関係していない「江藤南白」である。事情を知らない編纂者が子供を男子と見間違えたと考える。 (17) p.269・・・「鍋島直彬」の存在の仮説は私のオリジナルである。出展を明示しないのは、盗用である。彼が明治元年に長崎にいた理由は戊辰戦争に勇んで参戦しようとした直彬が鍋島直正から長崎警備を命令されたためである。通例なら、佐賀本藩の仕事であった。慶応元年の所在証明は別にする必要がある。 (18) p.274・・・勝手にトリミングされた写真に対角線を引くのは、何の意味もない。敢えてやるなら、カメラのレンズの焦点の位置を探すべきである。これはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でも行われている。両サイドに写る板戸の水平線と、石畳のラインを延長した交点はフルベッキと子供の頭の中間に来る。イエス・キリストでも大室寅之祐の頭でもない。これは上野彦馬が撮影した集合写真全般に言えることだが、彦馬は常に中心人物からカメラの中心をずらして撮っている。むしろこの「フルベッキ写真」は中心が合っており、異常である。写場は彦馬邸であるが、撮影は他の人物を考えてもいい。 (19) p.288・・・「高杉晋作と伊藤博文」が長崎でグラバーにイギリス行きを相談し、時期が悪いと説得されて思い留まったのは慶応元年3月であり、完全な勘違いである。この間違いは後にも繰り返されている。上野彦馬の慶応元年当時の狭い写場で撮った二人を含む三名の写真が以下の文献に掲載されている。「伊藤博文伝」、「東行:高杉晋作」。 (20) p.350・・・明治政府が「天皇の写真」を囲い込み始めたのは、1872年1月に横須賀に巡幸した際にスチルフリードが撮影した写真をネガごと買い取ったことが始まりである。「John Clark: Japanese exchanges in art, 1850s to 1930s with Britain, continental Europe, and the USA : papers and research materials」参照。尚、私の最近のブログでは岩倉家に「フルベッキ写真」のオリジナルが存在したことを論証している。処分されたり、秘蔵されるようなものではなかった。単に流布しなかっただけである。「済美館生徒とフルベッキ」写真もオリジナルは流布していない。 (21) p.412・・・「森有礼」の留学記録は存在する。「森有礼全集」参照。彼は慶応元年1月に他の薩摩藩士と伴に鹿児島を出て羽島の船宿に潜伏、3月にイギリス密航を敢行した。密航者の本名と変名は分かっており、森が含まれているのは自明である。「薩摩藩英国留学生」及び「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にそのリストと主だった密航者の慶応元年当時の写真が掲載されている。イギリスで撮影した集合写真も残っている。その写真をつぶさに検討すれば、「フルベッキ写真」に該当者がいるかどうかわかるはずである。誰もこれを検証しようとしない。 (22) p.415・・・「三条実美と岩倉具経」が写っているという写真は、明治2年8月に来日した写真家ブルガーが2週間ほどの長崎滞在中に撮影したステレオ写真の片割れであり、ステレオ写真のホルダーにはブルガーの名前が印刷されている。「サムライ古写真帖」参照。この写場で撮影が行われていたのは明治元年から明治6年の間である。それ以前の写真は存在しない。探し出すべきである。はっきり慶応元年と証明出来る写真があれば、偽説が真説になろう。明治2年のこの時期には、三条は東京におり、具経は兄具定と長崎で行動を伴にしていたはずである。なぜ三条や具経だと思い込んだのか。写真の内容も吟味せずに勝手な当て嵌めが行われた。 (23) p.416・・・下岡蓮杖にS.R.ブラウンの娘が写真術を教えたとしているが、教えたのはブラウン本人である。「S.R.ブラウン書簡集」参照。 (24) 全体として、これまで言われて来た俗説を掻き集めて来たもので、目新しい発見はない。似ている写真の当て嵌めに終始している。そのやり方も個人的な主観以外に何も明示されていない。密航者を含めた薩摩藩士の存在についてほとんど触れていないのは、可能性を論証出来ないためであろう。撮影日を絞り込むことが出来なかったことも含めて、文献調査や歴史の事実の探求が大幅に不足している。小説としているが、加治氏の意図が成功したとは言い難い作品である。 (平成19年5月5日) |
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本ブログにアップするのを忘れていた『近代日本とフルベッキ』の最終章をアップ致します。
1.はじめに
1年間にわたってシリーズ『近代日本とフルベッキ』を連載してきた。フルベッキについては序章および一章で取り上げ、他の章ではフルベッキ写真に写っている(とされている)坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇を一人一人毎月取り上げるという形を取ってきた。そして、終章を迎えることになった今号では再びフルベッキにスポットライトを当ててみよう。
人によってはフルベッキのことを近代日本の父であると主張する者もいるかと思えば、宣教師はフルベッキの仮の姿であって、本当はパックスブリタニカの世界戦略の一環として日本に送り込まれてきた謀報員(スパイ)であると主張する者もいるなど、人によってフルベッキ像はまさに千差万別である。尤も、フルベッキのことを謀報員と考える人がいるのも無理もないのであり、実際に当時の日本に送り込まれてきた宣教師のほとんどが一方では福音を説き、他方では帝国主義の尖兵として活躍していたからだ。筆者も本シリーズを開始した当時こそフルベッキ=謀報員説に関心を持っていたが、その後フルベッキの人物および時代背景を多少なりとも深く知るようになった現在、フルベッキが謀報員であったかどうかということには関心が薄れ、寧ろフルベッキが日本の近代化に果たした役割に強い関心を抱くようになったのである。よって、本号では最初にフルベッキが日本の近代化に果たした役割とは何だったのかについて改めて簡単な見直しを行い、その上でフルベッキの〝遺志〟をどう継ぐべきかについて私見を述べた後、本シリーズを終えることにしよう。
2.近代日本とフルベッキ
幕末から明治にかけてのフルベッキの行動は、主に三つの時期に分けられる。
1. 長崎において、将来の日本の指導者に対して啓蒙を行っていた時代
2. 維新政府に協力し、近代日本の基礎造りに貢献していた時代
3. 在野にあって、主に宣教師として活躍していた時代
安政6年(1859年)に日本に到着し、維新政府に招聘されて明治2年(1869年)に長崎を後にするまで、フルベッキにとって10年間におよんだ長崎時代は、後に日本の近代化に大きく貢献した人材の育成の時期であったともいえよう。大隈重信、副島種臣といった後に維新政府の中枢として活躍した人材を育て上げただけではなく、横井小楠、坂本龍馬といった当時一流の人材との交流を重ね、人脈を築いていった時期でもあり、フルベッキにとっての長崎時代は正に〝充電〟の時期であった。
次に、長崎時代がフルベッキにとっての〝充電〟の時代であったとすれば、維新政府に招聘された明治2年から、政府との契約が終了して元老院顧問を辞して民間人に戻るまでの明治10年(1877年)という時期は、日本近代化に向けて数々の精力的な貢献を行ったことから明らかなように、フルベッキにとっては正に〝放電〟の時代であったといえよう。そして、見逃せないフルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立があり、これは意外と知られていないフルベッキの功績である。『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』(新人物往来社)という本を、静岡県弁護士会に所属する大橋昭夫弁護士が共著で著しており、フルベッキが日本の法律体制の父となった経緯および法律体制におけるフルベッキの業績を余すところなく伝えた良書であり、関心のある読者に一読をお薦めしたい。ご参考までに、フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があったことは案外知られていない。
なお、この期間において特記すべきフルベッキの政治面における貢献の一つに岩倉使節団があり、これが後々の日本の近代化に大きな影響を及ぼしたのであるが、この岩倉使節団を提起したのもフルベッキであったことを知る人は少ない。それは岩倉具視がフルベッキに対して提案者であることを秘密にするよう厳重に求めたからであり、もし岩倉使節団が一人の宣教師の提案であると知られたら大騒ぎになったことであろう。岩倉使節団の起草者は自分であるという名誉を放棄した姿勢からも分かるように、フルベッキは日本に対して行った自身の業績について殆ど口外したことのない人物であった。1日でも早く日本の近代化が成り、宣教師としての布教が自由になることのみがフルベッキの唯一の願いだったのであり、そこにフルベッキの厚い信仰心が偲ばれるのである。
最後に、明治10年頃という時期は日本の近代化路線も方向も定まりつつあった時期であった。すなわち、日本の近代化に向けて手探りの状態であった当初こそ百科全書派を彷彿させるフルベッキの頭脳が欠かせなかったが、近代化に向けた青写真がほぼ完成した明治10年頃は日本の軍事化が顕著になり、自由民権への弾圧が加わるようになった時代だったのであり、既に維新政府にとってフルベッキは〝危険人物〟となっていたのである。そうした自分の立場を悟ったのだろうか、フルベッキは在野に下ってキリスト教普及活動に専念するようになった。フルベッキは聖書の翻訳にも関与し、フルベッキが翻訳を担当した旧約聖書の詩編とイザヤ書は、後に日本文学に大きな影響をもたらしている。
かように、日本の近代化に大きく貢献したフルベッキであったが、惜しくも明治31年(1898年)に心臓発作のため急逝している。
3.フルベッキの遺志を継ぐ
明治2年から明治10年にかけて、フルベッキが貢献した分野は何も上述の法律制度だけではない。法律制度以上に貢献したのが教育制度ではなかったと思う。俗に日本の大学の源流は長崎にあると言われるようになった当時の長崎の致遠館などの私塾では自治の精神に溢れ、学問の自由を謳歌していたのであり、これが日本の近代化に大きく貢献したことは言を待たない。ただ、こうした自由な気風が後年の大学設立に生かされることなく、文部省という権力に屈したものに成り果てたのが現在の日本の教育制度であり、そのために日本社会の真の進歩が中途半端なものになってしまったのは返す返すも残念なことであった。現在の日本はバブル崩壊から久しく、かつ近い将来には嘗ての産業革命に匹敵する大きな社会的変革が日本はもとより世界を襲うのは確実であり、そうした新時代に相応しい人材育成に欠かせないのが自治の精神と学問の自由である。その意味で、人材育成という観点から教育のあり方を見直すことは、今日における緊急の課題であるといえよう。幸い、【宇宙巡礼】というホームページを管理している筆者の知人から、人材育成について深く考えさせてくれるという今や絶版となった『教育の原点を考える』(早川聖・他 亜紀書房)という本の筆者の了解を得て、同本を電子化して公開したという知らせが届いた。以下が『教育の原点を考える』のURLであるが、教育とは何も学校教育という問題だけではなく、広くは日本の将来をも左右しかねない大きな意味を持つものであるからして、一人でも多くの読者に目を通して頂き、教育の原点について考えるきっかけとなれば大変有り難く思う。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm
とまれ、教育は正しく国の骨幹であり、微力ながら筆者も何らかの形で世の中に貢献できればと願っている。その意味で、近代日本の父・フルベッキの遺志を思い出し、明日の日本を背負う若者たちの踏み台になりたいと、心から願う今日ころ頃である。
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慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真の考察論文の最新版が久し振りに届きましたので、ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。
※「フルベッキ写真の真偽」の一番下側の江副廉蔵、中野健明らの氏名が入った写真は、高橋助教授が作成したものです。
※高橋助教授の論文中の付表1は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
chronology01.xls
慶應義塾大学 高橋信一
最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」によって初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されている。明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載された。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。本格的に世に知られるようになったのは自称肖像画家の島田隆資が昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の人物の比定を試み、「西郷隆盛が写っている」としてからである。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が、学界で議論が進んでいないにもかかわらず、勝手に「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館(広運館)の関係者と写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っているというものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。それ以前にはこの「フルベッキ写真」を撮影出来るほど広い場所はなかった。それまで使われていた写場は横幅が半分以下で、例えば福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている長崎の佐賀藩士たち9名の写真が撮影された。この大隈重信や副島種臣が写っている写真は慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影されたものであることがわかっている。小出は慶應4年6月に帰国したが、そのころ長崎には大隈も副島もいなかった。小出は大隈が長崎に来る前の9月の始めに落馬により亡くなった。この写真は上野彦馬の写場の識別の重要な基準である。上野一郎氏の研究は30年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。すべての議論はここから始めるべきである。「フルベッキ写真」が撮影された広い写場は、慶應4年の始めから明治7年ごろまで使われたと考えられるが、上野写真館の敷地内のどこにあったかは不明である。中島川に沿う彦馬邸の外からの写真は元治年間から大正年間まで、何度となく撮影されて来た。それらを集めて推測すると以下のようになる。19世紀の写真家F.ベアトの写真集「Felice Beato in Japan, 1863-1877」には風頭山から長崎市中を一望するパノラマ写真が掲載されている。この明治5年ごろに撮影されたと思しき写真を拡大すると、彦馬邸を鳥瞰することが出来る。これには白壁の塀沿いにそれまで建てられていた古い平屋の家屋が取り払われた更地が写っている。この場所には明治7年ごろ、ガラス窓を持つ二階建ての屋内写場が建設され、以後屋外での撮影は行われていない。つまり、この空き地に北向きの青天井の写場が作られたのではないかと想像される。それまでの、狭い写場は別の場所で明治2年ごろまで使われていたことが、W.ブルガーの写真集「Wilhelm Burger: Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera, 1844-1920」から確認出来る。 また、島田氏が用いた人物同定の手法は根本的に間違っている。画像工学の立場からきちんと再評価する必要がある。人間だけでなく、生物の体の各部分は所謂黄金分割のような比率で構成されており、顔の長い人物も丸い人物も各部の比率はほほ同じようなものである。島田氏のやり方では誰が見ても違うと思われる写真同士をかなりの確率で同一人物のものと断定してしまう惧れが高い。このような場合はむしろ、警察が用いているモンタージュの手法が必要である。目・鼻・口・耳・あご・眉毛・ひげ・頭髪などの個々の部分がどのような形をしているか、どのような配置になっているかを慎重に検討した上で、全体のバランスを検証して始めて同定が可能である。島田氏は西郷隆盛以外の人物に自分の手法を適用した証拠を示していない。これも大きな問題で、個々の人物に対する同定の確からしさを定量的に確証すべきだった。現状で島田氏の手法を歴史上の人物の同定に用いるのは極めて危険である。これらの点について言及した歴史研究家はいない。140年前の人物に誰もあったことはないのに、個人の主観に基づいた人物の同定や、根拠もない当て嵌めが行われ、それがなんの反証もなしに受け入れられる風土も問題視されなければならない。 明治4年8月9日に「散髪脱刀勝手令」が太政官布告されたのを始め、文明の刷新を目指した明治政府の奨励・強制にも係わらず、「断髪」の実行は容易に進まなかったのが実情である(坂口茂樹「日本の理髪風俗」)。明治6年3月20日に明治天皇が断髪し、この年内田九一撮影の洋髪・洋装の天皇の写真が全国に流布したのを契機として普及したと見るべきである。「フルベッキ写真」には月代を剃っていない惣(総)髪の武士がたくさん写っているが、鎌倉時代以後普及した丁髷と月代の風習はおいそれと捨てることが出来なかった。前に紹介した慶應3年初めまでに撮影された佐賀藩士9人の写真では大隈重信を始めとして、まだ月代を剃った丁髷姿が大部分であった。慶應元年当時、惣髪にした何十人もの集団が長崎の市中を歩き回ったとすると、民衆は何が起こったかと目を見張ったであろう。「~惣髪頭をたたいて見れば、王政復古の音がする」の唄の文句にあるように、一般武士が惣髪になったのは、大政奉還・王政復古を体験した後の意識改革の表われだったのではないか。以下に偽説に登場する人物の写真の所在を調べた結果を示すが、慶應元年当時の写真が現存する人物は極めて少なく、後年の写真でもって若い時代を推測して当て嵌めを行うことにかなりの無理があり、似てもいない人物がほとんどである。
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