2009年7月21日 (火)

フルベッキの子孫を巡る噂

中村保志孝氏という、フルベッキ博士の子孫とされる人物がいるという噂は、前々から耳にしていました。これが真実とすればビッグニュースです。このあたりの真偽を確認するため、先々月の5月連休、慶応大学の高橋信一准教授とノンフィクション・ライターの斎藤充功氏が東京都八王子市の中村保志孝氏の自宅を訪問し、詳細なインタビューを行っています。その時の様子を高橋信一准教授にまとめていただきましたので、以下にご報告いたします。なお、斎藤充功氏も『怖しい噂 Vol.2』(ミリオン出版)から「フルベッキ写真に幕末の英傑たちは写っていなかった」と題する記事を発表されています。同誌はコンビニで入手可能ですので、一度手にとって戴ければ幸いです。

 

 

中村保志孝氏の略歴

 

中村保志孝氏との単独および斎藤充功氏といっしょのインタビュー、参考資料、さらに木下孝氏からの情報を総合して分かったことをまとめる。

中村氏の父ペーター・グーズワード(Pieter Goudswaard)氏は通称ピー・ホーツワードといい、1868年10月20日にオランダのドイツとの国境近くの町ヒルゲースベルゲ(Hillegersberg)で生まれ、フルベッキとの直接の繋がりはない。横浜に1900年に設立されたライジング・サン石油会社(後のシェル石油)の長崎支社長として長崎に来日した。その後2回の結婚をしたようだ。一度目は1905年10月18日に赤井フジ(1874年5月23日生、結婚時31歳)とで婚姻届けが残っている。二度目は恐らく1920年代の後半、フジとは子供が出来なかったので中村氏のキミエ内縁で結婚し、生まれた中村氏は母方の籍に入っている。現在も長崎の中村家とは親交があり(キミエの妹中村フジ子も長崎在住だった)、寺町の長照寺に今でも中村家の墓があり、墓参りもされている。中村氏の誕生は1928年2月3日であるが、4歳の1932年2月12日に父は64歳で突然亡くなった。死亡記事が長崎新聞に載った。父の住まいは大浦東山手であり、西山の家から葬式に連れて行かれたことを覚えている。新坂本国際墓地(No.68)にあるお墓の墓碑には日本人妻赤井フジの銘がある。こちらにも墓参りしている。母の若い写真と父の来日当時の若い写真を夫々枠に入れて持っている。中村氏の生まれた年の7月1日に撮られた父の署名入りの晩年の集合写真が残っている。長崎新聞に載った写真はない。父の若いころの他の写真は散逸して残っていない。赤井家にあるのではないか。赤井家の血筋の長崎大学の教授がオランダに行って、グーズワード氏の家系を調べたが、フルベッキ家との繋がりは見出せなかった。

フルベッキは1859年にアメリカで結婚して来日し、長男ウィリアムは1861年に日本で生まれている。1868年7月16日に日本で生まれた四男ギドーは1884年に米国で亡くなった。グーズワード氏はフルベッキの子供でも孫でも曾孫でも有り得ない。フルベッキの子供たちは、生まれてすぐ長崎で亡くなった長女エマ、一年足らずで亡くなった四女メアリを除いて、最終的にアメリカで(正確にはもう一人6男バーナードが日本に向かう船中で)亡くなっている。長女エマは長崎悟真寺のオランダ人墓地に眠り、メアリとバーナードの墓は横浜外国人墓地にある。次女のエマが東京で結婚したのは1899年。1912年夫と米国へ引き上げた。フルベッキを除く全員はアメリカ籍であり、オランダ人ではない。

母キミエと一時東京に出たが、昭和12年小学校4年の時、母が大陸大連へ商売をしに出かけることになり、長崎に戻り片淵の住まいで中村家の祖母に育てられた。赤井家は中村家を金銭的に援助していたようだ。現赤井家のキヌコは子供のころ中村家へお金を持って行かされたことを記憶していると語っている。昭和13年伊良林小学校5年の夏、祖母が亡くなった。昭和14年自分も満州に渡り、小学校は昭和15年大連で卒業し、大連の中学校に入学した。母は昭和15年4月9日に35歳(生年は1905年ごろであろう)で大連で亡くなった。母とは1年ほどの生活だった。終戦の時(17歳)、新京第二中学校を卒業し、旅順工科大学にいたが、翌年博多に帰国、昭和22年金沢の第四高等学校に編入、次いで東大へ入った。長崎の家は売り払った。昭和29年東大を卒業、東大大学院でインド哲学を学んだ。そのころアルバイトで電気のことを勉強した。昭和31年に会社を起こし、幾多の発明・特許・事業化を手がけて来た。いろいろな発明で表彰も受けた。

フルベッキの子孫ということは、両親からは聞かされておらず、戦後まで意識していなくて、長崎の人たちとの付き合いの中で、柳原氏から言われた(平成元年前後か?)が、時期は曖昧である。オランダへ調査に行った長崎大学の教授も関係者の一人かもしれない。中村氏は長崎の関係者の集まりに招かれてフルベッキの話しを聞かされたと証言している。「フルベッキ写真」は自宅に最初からあったものではなく、戦後昭和30年代に人からもらった。島田氏の論文や名前を書き込んだ写真の流布は昭和50年以降のものなので、違う系統ということになる。鶏卵紙のオリジナル写真ではなく、完全な白黒写真で大判。後年のコピー。人型のトレースとその中に名前が書き込まれたものが付いていた。当時は写真の内容についてまったく関心がなかったので、書き込まれた名前についての記憶はない。書き込みの様式から、戦前から長崎県立図書館(現長崎歴史文化博物館蔵)に存在していた広運館の写真のコピーと図面の可能性があるが、現在中村氏の手元に取り出せる状態になく、確認出来ていない。「フルベッキ写真」に昭和30年代に名前を入れた事実は他に確認されていない。陶板額の基になった資料は柳原氏が持って来た。中村家に最初からあったものではない。フルベッキの子孫というのも全員の名前も柳原氏らの創作の疑いが濃厚である。

 

参考資料

1.「時の流れを超えて -長崎国際墓地に眠る人々-」 

レイン・R・アーンズ、ブライアン・バークガフニ著 長崎文献社 1991。

2.「長崎に眠る西洋人 長崎国際墓地墓碑巡り」

  木下孝著、ブライアン・バークガフニ/西堀昭監修 長崎文献社 2009。

3.褒章クラブ編「国家褒章に輝く人びと 第四巻」

Nakamura01

Nakamura02
「長崎に眠る西洋人 長崎国際墓地墓碑巡り」より

お知らせ
高橋信一先生が、フルベッキ写真をテーマに講演を行います。
日時 : 2009年8月22日(土) 15:00より   
場所 : 春廼舎(新宿区荒木町8 根本ビル1F)

詳細は以下を参照願います。なお、会場は40名程度しか入場できないとのことですので、お早めにお申し込みください。
江戸史談会

 

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2009年4月 4日 (土)

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

B090404 慶応大学の高橋信一准教授から、フルベッキ写真を取り上げた『日本の夜明け』(山口貴生著 文芸社)という単行本が発刊されたという連絡を受け、早速ジュンク堂に発注して取り寄せてみました。そして同書が到着したので早速目を通してみましたが、内容的に間違いだらけの酷い本であり、当初は取り上げる価値もないと思っていました。しかし、フルベッキ写真の背景を知らない一般の人たちが読めば、間違った知識を身につけてしまうことになりかねず、面倒ではあるもののこうした類の本が出るたびに、蠅たたきをしておく必要があると考えを改めました。よって、高橋先生に書いて戴いた同書の書評、今回も本ブログに公開させていただくことになりました。

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

 

慶應義塾大学 高橋信一

 久方振りに加治将一氏の「幕末維新の暗号」について行った検証と同じことをやる破目になった。2009年3月文芸社から刊行された「日本の夜明け フルベッキ博士と幕末維新の志士たち」の著者、山口貴生(隆男)氏が「フルベッキ写真」の陶板額を売り出した張本人である。彼の前著は、陶板額に付けて販売された解説書だが、「フルベッキ写真」自体の解明に纏わる事柄は記述されていなかった。これらについて最初に説明していないのは一種の情報操作である。彼に会ったのは3年前のことだが、その際にブログに掲載している私の「フルベッキ写真の調査結果」の草稿を送って、「陶板額の修正版を出すように」と言ったのに、無視されている。本書は、たくさんの歴史の記録を集めて来て、幕末・明治維新の周辺状況を詳述した労作には違いないが、そんな暇があったら、「古写真の歴史」についての学習を徹底的にした方がよかった。「古写真」を論じているのに、「古写真の歴史」がほとんど語られていない。参考文献として引用されているのは、渡辺出版の「上野彦馬歴史写真集成」のみである。それも、掲載する写真の引用に使っただけのようだ。「上野彦馬歴史写真集成」の巻末には「フルベッキ写真」に関する東京大学の倉持基氏の論考があるのに、それを読んだ形跡が認められない。読んだのなら、故意に無視しているとしか思えない。「古写真の歴史」の解明は、これまで限られた研究者によって行われて来たので、確かに不明な点は未だに多く、間違って解釈されてきたことが現在でも踏襲されているということがあることも否めない。「上野彦馬歴史写真集成」にも多くの修正すべき記述がある。しかし、「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオが上野彦馬のものでないということには断じてならないのである。そのことは、「古写真の歴史」をちょっと勉強すれば理解出来るはずである。

 偽説の信奉者たちは、秘密の会合の目的を主張しながら証拠写真撮影の目的を説明していない。坂本龍馬が持っていて近藤勇に見せたという土佐勤王党の血判状のようなものだというのか。では、でっち上げられた人物の誰が「フルベッキ写真」の保管者になったのか。現状、偽説に名前が上げられている人物の内、森有礼が所蔵したアルバムに大判のオリジナルでなく、名刺判の複写が残されていたのが、唯一である(平凡社刊 石黒敬章・犬塚孝明著「明治の若き群像」参照)。オリジナルと考えられるのは、フルベッキ自身が持っていたものと、長崎留学の記念写真を撮った岩倉具視の息子たち具定・具経兄弟の家にあったもののみである。これをもって、岩倉具視が最大の黒幕だったと言うのか。「フルベッキ写真」は秘蔵の写真ではなかったことが、2008年秋に明らかになった。横浜開港資料館に寄贈された明治前半のスチルフリード写真館が販売した写真アルバムの余白のページに、所有者オール氏が長崎の上野彦馬写真館で購入した数枚の長崎の写真の中に、「フルベッキ写真」のオリジナルが貼り付けられているのが見つかった。明治7年ごろには、上野写真館の店先で売られていたのである。明治初年における名刺判写真撮影の費用は現在の価格にして10万円くらいと推定される(図①に白米10kgの値段と比較した写真の値段の推移を示した。朝日新聞社刊「値段の明治大正昭和風俗史」と「続値段の明治大正昭和風俗史」参照)。1枚数万円はした大判の高価な写真を買えるのは、来日した外国商人たちくらいだった。このアルバムの複製は誰でも見ることが出来るようになっている。興味のある方は確認のこと。
「fig01.pdf」をダウンロード
 以下に、「日本の夜明け」に見られる明らかな間違い・疑問点を順を追って指摘した。大筋は基本的に「フルベッキ写真の調査結果」以来、いろいろとブログで述べて来たことの再確認であるが、自費出版に近く、発行部数の少ない「日本の夜明け」は一般の書店に並んでいない。過去のブログを参照しながら、お読みでない方々にも、改めて「フルベッキ写真」に対する正しい認識を持っていただきたいと願っている。

 (1)  口絵説明・・・「フルベッキ博士の子孫と言われている中村保志孝氏」が所蔵する写真     や資料を基にして「日本の夜明け」を編纂したとしているが、私は中村保志孝氏と平成 18年3月にお会いして話しを伺った。ご両親の写真も複写させてもらった。父親は中 村氏が3歳の時に亡くなっているので、記憶は定かではないとのこと。長崎外人墓地の 墓碑を詳細に調査した長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授の「時の流れ を超えて-長崎国際墓地に眠る人々-」によれば、中村氏の父 ペーター・グースワー ド氏はフルベッキの次女エマが生れた翌年の1864年ごろオランダで生まれ、193 2年に長崎で68歳で死去した。顔もフルベッキとは似ていない。中村氏本人は当初か ら、子孫であることを認識しておらず、戦後知人から言われた。「フルベッキ写真」もオ リジナルでなく、ゼロックス・コピーを人からもらったと証言した。偽説のでっち上げ に利用されたのである。そうでないなら、フルベッキとの血縁を証明するべきであろう。

 (2)  p.4・・・「フルベッキ写真」のオリジナルに近いものは、平成9年岩波書店が刊行 した「上野彦馬と幕末の写真家たち」に掲載された産能大学所蔵の写真で初めて一般に 公開された。それ以外は複写写真である。「日本の夜明け」の「フルベッキ写真」の出所 を明らかにすべきである。「上野彦馬と幕末の写真家たち」のコピーであろう。

 (3) p.5・・・「緻密な研究による」というが、その根拠はこの本の何処にも書かれていな  い。「明治二年説」以外に「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏や私の「明治元年説」がある。「調査してまわったそれらの資料」の中に、名前が上げられた人物を識別出来るようにした、比較のための参照写真がまったく集められていない。どのようにして、「フルベッキ写真」に該当する人物を当て嵌めることが出来たのか、何の説明もない。

 (4)  p.39・・・フルベッキの「次女エマ・ジャポニカ」の誕生日を2月4日としている のは、「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏の解釈であるが、エマの誕生日は186 3年2月7日であることがクララ・ホイットニー「クララの明治日記」から読み取れる。 フルベッキの手紙(横浜開港資料館蔵「The Reformed Church in America, Japan Mission」)の原文を正確に解釈すると、マリアの陣痛が始まり出産の床に就いたのが2 月4日である。

 (5)  p.46・・・1869年3月23日フルベッキの東京出発に「長崎から36人の生徒 が付き添い」とあるが、佐賀藩士27名に東京等留学の許可が下りたのは、3月31日 であり、フルベッキと行動を共にしたわけではないし、全員が大学南校に入学したわけ でもない。

 (6)  p.48・・・横井小楠の甥「横井左平太・大平兄弟」は密航者であり、変名で渡航し たが、「日下部太郎」は幕府の渡航許可証を持ったれっきとした留学生である。変名では なく、新天地へ赴く意思をあらわすために改名した。

 (7) p.63・・・「フルベッキ博士の足跡」の日付けは村瀬寿代氏の「日本のフルベッキ」の年表に従って西暦で書かれているが、p.163からの「幕末維新の年表」は和暦で書かれているので注意が必要である。山口氏自身も混乱・混同しているようだ。肝心の(10)p.66に出て来る「西郷隆盛の空白期間」はどっちの暦年で考えるべきかによって、長崎でのアリバイがある人物とない人物が変って来る。いい加減な話である。

 (8) p.65・・・「2月4日」でなく、1863年2月7日に次女エマは生れた。

 (9) p.66・・・ここに上っている人物たちが済美館で学んだ記録はない。石橋重朝、丹 羽龍之助、中島永元、江副廉蔵、中野健明らは致遠館、陸奥宗光、高橋新吉は何礼之の私塾、大隈重信と副島種臣は致遠館設立以前にフルベッキの住居に通って個人教授を受 けた。村瀬寿代氏の研究論文(2000年「桃山学院大学キリスト教論集」と2006年「関西英学史研究」)を参照されたい。

 (10)p.66・・・「2月14日から3月4日頃」というのは、(48)p.187で私が扱 っている西郷隆盛の行動の記録のない空白期間を根拠にしているが、p.187の記述 は和暦で書かれているので、ここでは西暦に換算する必要がある。正しくは、1865 年3月11日から30日となる。それとも、西暦の2月14日から3月4日なのか。い い加減な記述である。記録がないのは、意味があってのことだと断定することは出来な い。単なる偶然である可能性が高い。空白期間を作るには、残っている記録の改竄が必 要になる。安易に改竄を主張するのは極めて危険である。

 (11)p.66・・・「3月22日」は和暦である。薩摩藩士たちが密航したのは、1865年 4月17日である。

 (12)p.67・・・「明治元年8月、庄村助左衛門が横井兄弟について相談にフルベッキを訪 れた」のは、慶応元年のことではないか。兄弟の留学希望を叶えるために、横井小楠が 庄村経由でフルベッキに頼んだ。

 (13)p.68・・・「折田彦一」は「折田彦市」の間違いである。折田彦市は岩倉兄弟といっ しょに長崎留学した人物で、「フルベッキ写真」に写っているはずの人物である。三高同 窓生の板倉創造著「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究-」を参照されたい。

 (14)p.75・・・「慶応元年説では問題ない」というが、この時期に長崎にいることの出来 ない人物がいないかどうかについて何ら説明されていない。明治二年がだめで、慶応元 年がなぜいいのか。

 (15)p.76・・・「上野スタジオで撮影したと断定されていない」というが、明治元年から 6、7年ごろまでに使われた上野写真館のスタジオは、専らこのスタジオであることは、 現在の古写真界の常識である。以前のブログの繰り返しになるが、昭和9年に永見徳太 郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置 き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のも のであることがわかる。参考になる撮影時期が明らかな写真をいくつか紹介する。1. 長崎歴史文化博物館が所蔵する明治2年1月10日撮影の振遠隊凱旋記念写真(ブログ に添付した写真① 振遠隊凱旋記念)と同じ日に幹部だけで撮られた集合写真。大正7年隊士の生き残り たちによって編纂された「振遠隊」にも掲載され、上野彦馬撮影と明記されている。こ の写真を見れば、このころ専ら使われていたスタジオであることが瞭然である。後者は 石黒敬七編「写された幕末3」にも掲載されている。2.明治2年6月撮影の山縣有朋・ 西郷従道洋行記念写真(「決定版 昭和史1」掲載)。(21)p.85に示されている「広 運館」の「フルベッキ写真」でもみられるように、スタジオの背景には欄干飾りの置物 が置かれている。これが、このスタジオの特徴である。「致遠館」の「フルベッキ写真」 では、大人数のため影に隠され、欄干飾りは見ることが出来ない。3.明治3年4月2 6日撮影の毛利元徳・木戸孝允ら集合写真。「写真の開祖 上野彦馬」に掲載、撮影日は 「木戸孝允日記」に記載がある。4.広運館教師レオン・ジュリーを囲む生徒集合写真 (写真② レオン・ジュリー)、「日本の開国 エミール・ギメ あるフランス人の見た明治」掲載の2枚。 上部の写真は明治3年10月にジュリーが広運館の教師になった際の記念に撮ったもの、 下部の写真は明治4年10月に退任して京都のフランス語学校に赴任する前に撮ったも のと思われる。スタジオの中央の敷石が外された時代の写真である。5.明治5年11 月14日撮影の「明治初年頃の外賓と外交官大隈侯」集合写真(写真③ 外交官大隈侯)。この写真は一 般にほとんど知られていないので、詳しく紹介したい。大正11年2月に大隈重信が亡 くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出て、多数の写真が口絵に取り 上げられたが、その中で大隈夫妻を囲んだ外国人たちの写真が掲載された。「大隈侯一言 一行」には、明治5年に大陸と長崎間に電信ケーブルが敷かれたのを機会に各国の外交 官と鉄道・灯台・電信関係者を引連れて長崎まで視察に行った際の大隈の述懐が載って いる。写っているのは大隈重信夫妻、山尾庸三夫妻、佐野常民、石丸安世、石井忠亮、 フレッシャー、ジョージ、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。横浜開港 資料館「図説アーネスト・サトウ幕末維新のイギリス外交官」、萩原延壽「遠い崖 アー ネスト・サトウ日記抄」、「灯台巡回日誌(「大隈文書」)」、「杉浦譲全集 第5巻」の「燈 台電信巡視日記」を見れば大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎 に滞在していたことが分かる。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事 なし」と書いてあり、仕事は休みとなったので、上野彦馬写真館で集合写真を撮った後、 会食している。このように、このスタジオは専ら、明治以降に上野写真館で使われてい たのである。その他、山口氏が引用する「上野彦馬歴史写真集成」にもスタジオの様子 が分かる写真が掲載されている。
Photo Photo_2 「Ohkuma.pdf」をダウンロード
左より写真①、写真②、写真③(Ohkuma.pdf)

 (16)p.76・・・「フルベッキ博士と一緒に写っている子供」が男の子か女の子かの解釈に ついては人間の感性が同じでないことの証左であり、見解の相違は埋められない。断定 して、それに基づく推測をするべきではないと考える。(29)p.91で、再度触れる。

 (17)p.77・・・「名前なども判明しているはずが不明」なのは、「フルベッキ写真」が佐 賀藩の生徒たちには渡らなかったことが原因であろう。手元になければ、誰が写ってい るかの情報は残らない。岩倉兄弟の長崎到着を京都の親元に知らせるための記念撮影だ ったので、フルベッキと岩倉兄弟の分以外に焼き増しされなかった。留学生の身である 岩倉兄弟たちが、佐賀藩士たち全員に配ったとは考えられない。当時は一枚のネガから の拡大・縮小焼付けは出来なかったし、1枚数万円もする高価な大判写真は極少数しか 作られなかった。「フルベッキ写真」の名刺判が存在するが、後年の複写である。江副廉 蔵が持っていた複写は明治初年の鶏卵紙判ではなく、明治後半以降の銀塩写真である。

 (18)p.80・・・「フルベッキ博士の送別記念写真」ではないというのが、前述したように、 私の見解である。岩倉家に残っていたオリジナルは残念ながら戦災で焼失し、昭和の始 め岩倉具視50回忌「岩倉公記念祭」の際に複写したものが京都・岩倉記念館に残って いる。

 (19)p.81・・・「フルベッキ写真の写場」については、私の論考「書評 馬場章編『上野 彦馬歴史写真集成』」(2007年「民衆史研究」掲載)を参照されたい。ブログでも「上 野彦馬の写真館と写場の変遷」として詳しく扱っている。慶応3年の後半に上野邸の敷 地を囲む白壁の塀が新築された。その際に、今まで使われていた慶応年間の狭いスタジ オの一つが改造されて広いスタジオになったと推定しているが、断定出来るところまで 煮詰まっていないのが現状である。しかし、「明治15年、ビードロの家」というのは、 従来の研究者の見解を修正する必要がある。屋根にビードロ(ガラス)を張ったスタジ オの様子は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」に掲載の写真で知れる。その床 に敷かれた絨毯の模様を日本カメラ博物館刊行「写真館『上野撮影局』誕生 上野彦馬 が愛した長崎」に掲載されている明治10年までに成立したことが明らかな外国人所有 の写真アルバムの写真と比較すると、明治15年よりかなり早くから「ビードロの家」 のスタジオは完成していたと見なせる。このスタジオは先の欄干飾りを置いた「フルベ ッキ写真」のスタジオとは別に上野写真館の敷地内に作られたのである。同様な写真は 「上野彦馬歴史写真集成」にもあり、この新しいスタジオは明治7、8年ごろから既に あったと結論出来る。また、詳細は別の機会に取り上げるが、中島川沿いの塀際に建て られた上野写真館の二階家は明治5年には完成していたようだ。このような推測が出来 るのは、近年たくさんの幕末・明治の古写真が公開、研究者の目に入るようになったお 陰である。古い常識で、誤った妄想を正当化するのは、その内にぼろが出ることが必定 なのでそろそろやめた方がよい。

 (20)p.81・・・「植木と草履」のところには、植え込みを囲う置石も見えているが、広運 館の集合写真ではなくなっている。これが意味するところは、致遠館の「フルベッキ写 真」は明治元年の後半、広運館の「フルベッキ写真」は明治2年の前半と、撮影された時期の違いを示している。因みに「振遠隊凱旋写真」では植木の枝が残っている。

 (21)p.82・・・「勤務先の洋学所」は文久年間には江戸町にあった。その後の校舎の場所 の変遷は洋学所を引き継いだ現在の長崎市立長崎商業高等学校が刊行の「長崎商業百年 史」で辿ることが出来る。元治元年正月、大村町に移転し「語学所」に校名を改めた。 フルベッキはこの年の6月に教師として雇われた。(23)p.85の③の写真は、この ころのものであろう。慶応元年2月に新町の元長州蔵屋敷跡に校舎を竣工、8月に移転 して「済美館」となった。慶応元年2月に、p.86の①の「フルベッキ写真」が撮影 されたとすると、その場所は「洋学所」でも「済美館」でもなく、「語学所」である。「洋 学生」でなく、「語学生」でなければならない。「広運館」の前身「語学所」の教師と生 徒が写る方のp.87の③の「フルベッキ写真」がこのころ撮られたのであれば、大村 町の校舎がスタジオとして妥当かもしれないが、(28)p.89にあるように②「広運館」の「フルベッ キ写真」は明治2年に撮られた。その時、広運館は明治新政府によって移転させられ、 外浦町の西役所跡にあったのである。慶応元年と明治2年では、別々の場所にあったは ずの学校の校舎に同じ構造のスタジオがあり、両方で撮影されたというのか。訳の分か らない話である。①と②の二つの「フルベッキ写真」は同じスタジオで撮られている ことは疑いないので、「致遠館」の「フルベッキ写真」にはさらに相応しくない。このス タジオは日常的に写真を撮るために上野写真館の敷地内に作られた場所であり、たまた ま特別に用意されたものではないことは、(15)p.76の項で示したとおりである。

 (22)p.84・・・「薩摩藩の蔵屋敷」では、尚更のこと非常に特別な場所になる。考慮の他 である。秘密の会合から秘密のスタジオへと妄想が広がっているが、「古写真の歴史」だ けでなく、「長崎における洋学の歴史」が理解出来ていないことは明らかである。

 (23)p.85・・・「①」が致遠館の「フルベッキ写真」、②が広運館の「フルベッキ写真」、 ③は朝日新聞社刊行「読者所蔵 古い写真館」に掲載されたもので、元の所有者から板 橋区立郷土資料館に寄贈された。郷土資料館は明治2年の写真とは認定していない。根 拠もなく、勝手に決め付けている。こちらの写真はフルベッキが洋学所(語学所)で教 え始めた元治元年6月以降のもので、中列の右端に英語教師の岡田好樹(②の広運館の 写真にも写っている)、同じ列の左から二人目に柴田昌吉(岩崎克己「柴田昌吉傳」)が いるが、柴田は慶應3年3月、江戸の海軍伝習所の通詞として、柳谷謙太郎とともに出 仕したので、明治以降の撮影は考えられない。尚、この写真は長崎大学経済学部武藤文 庫にも複製が所蔵されている。ともに済美館に学んだ人物や教師が残したものであろう。 2007年版名古屋大学附属図書館研究年報掲載の中井えり子「『官許佛和辭典』と岡田 好樹をめぐって」を参照してほしい。3枚の写真の内、これが最も古い写真なのである。

 (24)p.86・・・「見事なまでの髭」はフルベッキの長崎時代の初期の姿そのものである。 長崎歴史文化博物館には、フルベッキの肖像画(「図説 大隈重信:近代日本の設計者生 誕150年記念」を参照)が所蔵されているが、それには髭が描かれている。フルベッ キは晩年にも髭を生やしていたので、時々そうしていたと考えた方がよい。「日本のフル ベッキ」の原書「Verbeck of Japan」には妻マリアと二人で写る晩年のフルベッキの写 真(写真④ フルベッキ夫妻)が掲載されているが、これには「立派な髭」が見られる。
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写真④

 (25)p.87・・・「②」のキャプションの「大隈重信、江藤新平、副島種臣」はどこにいる というのか。好意的に見れば、誤植である。偽説では①にこれらの人物が写っていることになっている。②にもいるなら、その位置も示すべきである。

 (26)p.88・・・「立派な髭」で年齢を考察するのは、笑止である。

 (27)p.89・・・「佐賀藩士としたら一体誰」かを追求するのが、地元の研究者の最大の課 題である。それを蔑ろにして妄想に耽っている場合ではない。「江藤南白」や「開国五十 年史」を読むべきである。致遠館に入学した佐賀藩士は岩松要輔氏によって杉本勲編「近 代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」にリストされている。山口氏はそれを 読んで、(37)p.123に名前を上げているのに、なぜ彼らの顔写真を集める努力を しないのか。

 (28)p.89・・・「③の写真が一番新しい」根拠は髭のようだが、武士たちの多くが、月代 を剃りあげている点はどう説明するか。月代をやめたのは、大政奉還以降であり、慶応 元年の時点では藩士たちの大部分は月代を剃っていた。「②の写真は明治2年、広運館 教師フルベッキ送別記念写真」と正確に記述しているので、世の中の常識に合わせてい る。この時、広運館は外浦町の西役所跡にあった。秘密のはずの①の「フルベッキ写真」 がなぜ、②の「フルベッキ写真」と同じスタジオで撮影されたのか。自己矛盾を取り繕 えなくなっている。

 (29)p.91・・・「男の子のようにショートカットはあり得ない」というのは、単なる思い 込みに過ぎない。平凡社刊行の石黒敬章・犬塚孝明「明治の若き群像」には明治11年 家族全員で米国へ発つ前に浅草の内田写真館で撮影されたフルベッキの家族写真(写真 ⑤ フルベッキとその家族)が掲載されている。後列には当時15歳の次女エマがショートヘアで立っており、 フルベッキが抱き寄せているのは、三女のエレノアである。フルベッキ家は妻マリアも 含めて髪を短くするのが伝統だったのではないか。「フルベッキ写真」の子供のチェック 柄の服は女の子のものであろう。
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写真⑤

 (30)p.96・・・秋田角館から出て来た「大礼服を着た謎の人物」は尾崎忠治であること が、東京大学馬場章研究室の研究で解明済みである。日本写真芸術学会平成15年度年次 大会研究報告予稿集で「歴史写真における新たな人物比定方法について」と題して報告 されている。倉持基氏の東京大学大学院情報学環・学際情報学府2003年度修士論文 「『歴史写真』における人物比定方法の基礎的研究」を参照のこと。尾崎家にも角館と同 様の写真が残っている。「フルベッキ写真」とは無関係である。「フルベッキ写真」の西 郷隆盛と名指しされた人物は鱈子唇ではない。

 (31)p.99・・・「只もちを延べたる如きめずらしき耳」の解釈は、耳タブが長い釈迦の耳 のようだと言ったに過ぎないのではないか。「もちをちぎったような」とは言っていない。

 (32)p.116・・・「フルベッキ小伝」は明治28年に刊行されてはいない。まだ草稿の段階であった。決定稿は1909年に軽井沢で開催されたオランダ改革派教会の集会でワイコフによって読まれ、出版された「Biographical Sketches read at the Council of Missions」(明治学院大学所蔵)である。2009年4月に明治学院大学から出版された「明治学院歴史資料館資料集 第6集『アメルマン・フルベッキ・ブラウン・ヘボン・J.H.バラ史料集』」に日本語訳が収められた。これには「日本のフルベッキ」からの引用が多く見られ、グリフィスの誤解の影響を受けているところもある点に注意すべきである。

 (33)p.118・・・戸川残花の「氏の交際せし人」以下の文章は正確に記述すべきである。 後世の研究者の誤解の元になった文章である。「氏の交際せし人、或は其門下の学生には 岩倉侯(具視でなく、具定のことである)、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之(博 之ではない)、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎(陶次郎ではない)の諸 君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和字典を著しし柴田(昌 吉)氏等のあれば美談逸事多しといえども氏の恭謙なる敢えて当年の事を語らず」。特に 秘密や世間をはばかったわけではない。

 (34)p.119・・・「長崎洋学生」や「維新前」についての厳密な議論に意味はない。(21)p.82で述べたように、広運館は慶応元年2月の時点では「洋学所」でなく、「語 学所」だった。戸川残花は総て分かって書いていたわけではないだろう。彼はフルベッ キが米欧回覧を提案したブリーフ・スケッチの存在を知らなかった。侍姿をほとんど見 ていない残花には、明治以前の写真に思えたと解釈出来る。

 (35)p.120・・・「致遠館の学生たち」と書かれても、反論しなかったのは、それが真実 だったからである。

 (36)p.122・・・「誰一人として反論しなかった」のは、p.121に上げられた人物が 「フルベッキ写真」に写っているとは戸川残花が主張していないからである。彼は人物 の特定を行っていない。勘違いすべきではない。

 (37)p.123・・・「香月経五郎」と「山中一郎」は写っている位置が、「中島永元」、「丹 羽龍之助」、「石橋重朝」、「江副廉蔵」、「大庭権之助」、「中野健明」は写っていると大正 3年刊行の「江藤南白」に明記されている。その他の歴史の中に消えて行った人物は5 0年が経過して、特定が困難になったということである。写真が高価でなく、佐賀藩士 の子孫たちに伝わっていれば、状況が変っていただろう。2008年、佐賀県立図書館 が刊行した佐賀藩の長崎における対外交渉役伊東外記(次兵衛)の日記(「佐賀県近世史 料 第5編第1巻幕末伊東次兵衛出張日記」)の明治元年10月27日の記録に「今晩か ら岩倉兄弟が致延(遠)館に寄宿することになった」と書かれている。この時、岩倉兄 弟が長崎に到着したのであり、その後に「フルベッキ写真」は撮影されたわけである。 また、それより少し前の10月8日に「中島写真館に副島要作らフルベッキ一同と出か け、写真を撮った後、藤屋で西洋料理を会食した」という記録があり、恐らく大判でな く、名刺判で撮られたであろう。この写真が現存すれば、「フルベッキ写真」解明の大き な手掛かりとなるはずだが、未だ発見されていない。私にはこちらの方が大変不思議で ある。佐賀の乱で佐賀市内一帯が焼けたこととも関係があろうか。

 (38)p.124・・・「致遠館の名前が分かっている」証拠は、「上野彦馬歴史写真集成」の巻 末にも取上げられた篠田鉱造の「明治百話」に載っているフルベッキの証言である。「長 崎の日本第一の写真師が撮った。一方は佐賀藩の侍、一方は幕府の侍」とあり、前者は 致遠館を、後者は広運館を指している。

 (39)p.130・・・「構図法」を島田氏が確かに実行したかは検証されていない。西郷隆盛 は対照写真が存在しないので、実行しても信頼性のある結論は出なかったはずであるが、それをまことしやかに説明しているのに写真の素人の歴史論文査読者が引っ掛かった。 彼の方法が真に科学的なら、その手法を山口氏自身が、対照写真の残っている人物に適 用してみせるべきである。恐らく、三者三様の結論が出るであろう。警視庁の科学研究 所は、鑑定に責任を持つべきである。鑑定が正しいのなら、46人全員に適用してみせる責任がある。

 (40)p.131・・・「①大隈侯八十五年史」には「フルベッキ写真」は登場しない。「開国 五十年史」の間違いである。「②江藤南白」は大正3年刊行である。「致遠館の教師とそ の門弟、明治初年記念撮影・・・・・」はちゃんと記述すべきである。「慶應年間長崎に 設立したる佐賀藩英語学校致遠館の教師及び其の門弟等が明治初年に於ける記念の撮影 中段の中央に在るは教師フルベッキ(米人)にして左側の少年は其長男右側は公爵岩倉 具定なり向って右より上段の第五に立てるは香月経五郎之に隣りして其六に在るは山中 一郎なり中島永元、丹羽龍之助、石橋重朝、江副廉造、大庭権之助、中野健明等亦此中 に在り」。江藤新平と大隈重信の名前は何処にも入っていない。江藤や大隈の存在を隠し たいのなら、写真自体載せなければよいのである。「フルベッキ写真」には真に彼ら二人 は写っていないのである。情報操作すべきではない。「江藤南白」には「フルベッキ写真」 以外に佐賀藩士の集合写真が数枚挿入されており、同定の参照写真として極めて貴重で ある。

 (41)p.134・・・「Verbeck of Japan」には致遠館の「フルベッキ写真」は掲載されてい ない。「広運館の写真」が、「フルベッキ写真」についての記述の近くに挿入されている。 グリフィスの日記によれば、フルベッキの息子のウィリアムは「Verbeck of Japan」出 版前にグリフィスと原稿の読み合わせを行っており、その際に「広運館の写真」をグリ フィスに貸したが、返却された。「Verbeck of Japan」に使われた写真のほとんどはラト ガース大学のグリフィス・コレクションに保管されているが、これらの二つの写真は現 存しない。

 (42)p.135・・・「大隈侯」が写っているとしたのはグリフィスの勘違いである。大隈と の面識はほとんどなかった。産能大の「フルベッキ写真」を拡大すれば、大隈とされる 人物の額に凹凸が見られるが、真の大隈重信にそのようなものがあったことはない。島 田氏は江副家の解像度の低い複写写真を基に同定を行っており、信頼性に大いに疑問が ある。

 (43)p.136・・・「江副暢子女史の手紙」が本物であるかどうかについて、論文では保証されていない。女史の筆跡を鑑定出来る、肝心な証言の部分を写真に撮って論文に掲載していれば、こんな疑念は生まれないが、そんなことは出来なかったのだろう。島田氏のでっち上げでないと言えるか。女史の記憶違いも含まれているであろう。大隈重信の最初の妻美登は江副廉蔵の姉であり、関係が深かったので、大隈が写っていれば、どの位置にいるかはっきり示せたのではないか。そうではなかった。

 (44)p.159・・・「集合場所は秘密が漏れずに安全な場所」というが、「フルベッキ写真」 のスタジオは日常的に使われて来た。

 (45)p.160・・・「中村先生の資料」が中村保志孝氏自身に渡ったのが、いつなのか、説 明してもらいたい。全員の名前と、撮影時期を明記したのは誰なのか。中村保志孝氏の 資料を基にして「日本の夜明け」を書いたなら、山口氏はそれらを明らかにすべきであ る。

 (46)p.160・・・「顕著な疑問点」についての反証は、前述までに既に論じて来たので繰 り返さない。

 (47)p.187・・・「西郷隆盛は太宰府で五卿と会談した」なら、なぜ、三条実美は長崎の 秘密会合に加わらなかったのか。岩倉具視が「フルベッキ写真」に写っているなら、三 条もいたはずではなかったか。

 (48)p.187・・・「西郷隆盛の空白期間2月14日から3月4日」に誰が何処にいたか、 もっと徹底的に調査すべきである。そうすれば、歴史の記録を改竄しなければ、辻褄が 合わない人物が大量に出て来るであろう。この空白期間を西暦で考えると、薩摩藩の密 航留学生は1865年2月15日から4月17日まで、鹿児島羽島に潜伏していた。残 っている記録(「森有礼全集」には密航の詳細な記録が収められている)は捏造されたも のなのか。「大久保利通日記」によると、大久保利通と吉井友実は1865年2月23日 (慶応元年1月28日)に博多に着き、27日に博多から西郷隆盛に手紙を出し、3月 4日に京都に着いた。一方、空白期間を和暦で考えても、薩摩藩留学生は長崎に行って いない。大久保利通は慶応元年2月から3月は京都におり、京都を発ったのは3月22 日(西暦4月17日)であり、鹿児島に4月3日(西暦4月27日)に着いた。坂本龍 馬と中岡慎太郎は京都にいて、2月22日(西暦3月19日)に大久保利通と会ってい る。小松帯刀はこの年4月まで京都二本松の私邸におり、鹿児島へ帰るのは4月後半で ある。後藤象二郎も慶応元年には鹿児島におり、長崎滞在の記録は存在しない。みんな で情報を持ち寄れば、如何に空白期間に意味のないことなのかよく分かるのではないか。

 (49)p.222・・・「人物の断定」の作業は放棄されている。杜撰な研究である。「本物」 といっても、所謂有名人が写っている写真と同じ顔が「フルベッキ写真」に写っている かどうかは別である。その判断の材料はまったく提供されていない。偽説に上げられた 有名人の内で、実際に幕末期に上野写真館で写真を撮り、名刺替りに配っていた藩士た ちは、伊藤博文、大隈重信、木戸孝允、後藤象二郎、坂本龍馬、副島種臣、高杉晋作、 中野健明、陸奥宗光、横井左平太・大平兄弟とかなりいる。萩原延壽「陸奥宗光」には、 陸奥宗光の遺族が持っていた慶応元年当時の狭いスタジオで写る陸奥宗光と横井左平太 ・大平兄弟らの集合写真が掲載されている。しかし、それ以外の人物も同時期に長崎に いたことが偽説では想定されているのに、写真が残っていないのはどうしたことか。こ のことは長崎に行っていないことを示すのではないのか。振り返って致遠館で学んだ佐 賀藩士たちの写真も現存するものは少なく、先に上げた「江藤南白」の口絵に数枚見る のみである。そうしたことから、佐賀藩士たちの人物像を現代の我々はほとんど知るこ とが出来ない。それをもって、佐賀藩士ではないと決め付けることは出来ないのである。 山口氏がやらない以上、ブログの読者にこちらから情報を提供するしかないと思い、主 な人物の参照写真の出所を以下に上げることにする。人間の顔は年齢と共に変化し、髭 や髪形でも印象が変る。出来るだけ慶応元年に近い年代に撮影された写真を集める必要 があるが、日本で写真撮影が始まって数年しか経っていない時期の写真はほとんど現存 しない。島田氏らは不完全な写真を基に同定を行ったはずで、同定というよりも、似通 っている人物の当て嵌めを行ったに過ぎない。それを実証するためにも、読者の方々も 同定作業を試みてほしい。

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フルベッキ写真に写る人物

 (50)p.224・・・「フルベッキ」:「フルベッキ書簡集」、「図説 日本医療文化史」、「明治 の若き群像」。

 (51)p.226・・・「ウィリアム・フルベッキ」:「明治の若き群像」中のフルベッキの家族 写真に次女エマと並んで写っているが、二人はよく似ている。小さい頃の写真は男女の 区別がつかなかっただろう。

 (52)p.227・・・「石橋重朝」:「佐賀 幕末明治500人」。

 (53)p.228・・・「伊藤博文」:「伊藤博文傳」、「幕末明治の肖像写真」、「伊藤公実録」、 「写された幕末3」。大正2年刊行の「歴史写真」には明治元年神戸で撮影の鮮明な伊藤 の写真が掲載されている。

 (54)p.230・・・「井上馨」:「世外井上公傳」、「幕末明治の肖像写真」。

 (55)p.231・・・「岩倉具視」:「幕末明治の肖像写真」。彼の公家の結髪姿は日本カメラ 博物館刊行「よみがえる幕末・明治 写真で楽しむ ときの流れ」の裏表紙に掲載され ている。彼は明治4年、米欧回覧でアメリカに行くまで、髪を伸ばすことはなかった。

 (56)p.233・・・「岩倉具定」と「岩倉具経」の留学は当時の「Japan Weekly Mail」な どで調べがついている。明治3年2月22日にAmerica号でサンフランシスコに向け出 航した。1月にアメリカに向けて出発した船はない。岩倉兄弟の写真は岩倉具忠「岩倉 具視-国家と家族-」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」を 参照。

 (57)p.234・・・「岩倉具綱」:「雑誌 太陽 明治30年2月号880ページ」。彼の写 真はほとんど知られていない。

 (58)p.237・・・「大室寅之佑(祐)」の名前が「フルベッキ写真」に登場するのは、近年になってからである。島田氏は関係していない。平成14年ごろからではないか。明治天皇すり替え説を補強するためにでっち上げられた人物である。写真など存在しない。

 (59)p.238・・・「江副廉蔵」:「佐賀 幕末明治500人」、「大隈重信と江副廉蔵」。彼が慶応元年から長崎に留学していた記録はない。「佐賀県教育委員五十年史」によると、致遠館の前身蕃学所設立当時の人物は、大隈重信、副島種臣、小出千之助、石丸安世、中牟田倉之助、馬渡八郎、中野健明、副島要作、中島永元、堤喜六、中山九郎、相良知安、綾部新五郎、本野周蔵、山口尚芳らである。江副廉蔵は慶応3年12月12日に致遠館伝習生として登録されている。ここでは、江副家からいただいた青年期の写真を掲載する。

 (60)p.239・・・「江藤新平」:「江藤南白」、「幕末明治の肖像写真」。

 (61)p.240・・・「大木喬任」:「日本人物百年史」、「近世名士写真」、「幕末明治の肖像写真」。

 (62)p.242・・・「大久保利通」:「日本人物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。

 (63)p.244・・・「大隈重信」:「実業之日本 大隈侯哀悼号 大正11年2月」、「日本人 物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。彼の最もよく知られている肖像写真は明治5年12 月にウィーン万博に出品するために横山松三郎によって撮影されたものである。「東京国 立博物館所蔵 幕末明治期写真資料目録」参照。彼は明治元年10月から11月にかけ て長崎にいたことが「大隈重信関係文書」の中の大隈の手紙で知れるので、「フルベッキ 写真」が真に撮影された明治元年10月後半には長崎にいて、撮影に参加した可能性は 否定出来ない。しかし、(42)p.135で述べたように、大隈の顔とは一致しない。 この「フルベッキ写真」の人物を「写真の開祖 上野彦馬」のp.55に写る人物と比 較してほしい。皆さんにはどのように見えますか。「日本のフルベッキ」のグリフィスは 「フルベッキ写真」に大隈が写っていると書いているが、彼が大隈と会ったのは187 1年1月以外に知られていない。グリフィスの来日当時の日記に大隈は登場しないし、 「大隈重信関係文書」や「グリフィス・コレクション」には彼らがやり取りした手紙は 残っていない。グリフィスが大隈について研究するようになったのは、1900年に「日 本のフルベッキ」を刊行したのが切っ掛けである。物事の順序を間違えてはいけない。 内海孝「大隈重信とW・E・グリフィス(「大隈重信とその時代」)を参照のこと。後年 の大隈の顔しか知らなかったことは十分考えられる。彼が正しいとすると、「フルベッキ 写真」には柳屋謙太郎が写っていなければならない。柳屋は何処にいるのか。

 (64)p.245・・・「大村益次郎」の写真は現存しない。

 (65)p.247・・・「岡本健三郎」:「幕末・明治美人帖」

 (66)p.248・・・「勝海舟」:「勝海舟」、「幕末明治の肖像写真」。

 (67)p.249・・・「香月経五郎」は「本物」として、写っている位置が同定されている数 少ない人物で、「江藤南白」に掲載の「フルベッキ写真」の説明の中に明確な記述がある。 (40)p.131の項を参照してほしい。この本には、他のページに佐賀藩士たちの 写真が何枚も掲載されており、「フルベッキ写真」との照合の格好の参照写真である。試 みられたい。

 (68)p.250・・・「木戸孝允」:「幕末明治の肖像写真」。

 (69)p.252・・・「日下部太郎」は慶応元年9月に長崎に留学した。福井県立図書館に記 録が残っている。3月には長崎にいなかった。彼の顔写真はほとんど知られていない。 1982年と近年刊行の「よみがえる心のかけ橋:日下部太郎/W.E.グリフィス」 以外は、ラトガース大学所蔵のグリフィス・コレクションに留学中の写真を見出すのみ である。どうやって同定したのか。単に当て嵌めただけだろう。

 (70)p.253・・・「黒田清隆」:「幕末明治の肖像写真」。

 (71)p.255・・・「五代友厚」:「幕末明治の肖像写真」。偽説を信奉する人たちは常に強 弁しているが、本当は山中一郎であり、(67)p.249でも述べたように「江藤南白」 に位置も明記されている。それを認めないなら、「香月」も削除されるべきだが、辻褄合 わせのため、どうしても「五代」を加えたいのであろう。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (72)p.256・・・「後藤象二郎」:「上野彦馬歴史写真集成」、「伯爵後藤象二郎」。

 (73)p.258・・・「小松帯刀」:「近世名士写真」。

 (74)p.260・・・「西郷隆盛」の写真は現存しない。どんなにそれらしい写真や肖像画を 持って来ても照合は意味がない。似顔絵で指名手配の犯人を逮捕するようなものである。同定はあくまでも、本人の写真と確認出来ているものを用いて行われなければならない。

 (75)p.262・・・「西郷従道」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「元帥西郷 従道伝」。

 (76)p.263・・・「坂本龍馬」:「クロニクル 坂本龍馬の33年」、「上野彦馬歴史写真集 成」。

 (77)p.264・・・「鮫島誠蔵」:「日本名家肖像事典」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アル バム」。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (78)p.266・・・「品川弥二郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名 士写真」。

 (79)p.267・・・「副島種臣」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「蒼海遺稿」、 「副島種臣全集」。慶応元年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮られた写真が「鍋島直正公伝」 に掲載されている。副島は明治天皇が洋髪になる明治5年まで丁髷をけっしてやめよう とはしなかった。

 (80)p.268・・・「高杉晋作」:「東行:高杉晋作」、「伊藤博文傳」。

 (81)p.269・・・「寺島宗則(松木弘安)」:「写真集 甦る幕末」、「幕末明治の肖像写真」。     慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (82)p.271・・・「中岡慎太郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「勝海舟」。

 (83)p.272・・・「中島信行」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士 写真」。

 (84)p.273・・・「中村宗見」:「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」。慶応元年薩摩 藩の密航留学生。

 (85)p.274・・・「中野健明」:「佐賀 幕末明治500人」。森重和雄氏の指摘によれば、 明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家 寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の 前に坐る人物、つまり「岩倉具視」の本当の姿の可能性がある。

 (86)p.276・・・「広沢真臣」:「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレ クション」。

 (87)p.277・・・「別府晋介」:「西郷隆盛」。

 (88)p.278・・・「陸奥宗光」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、萩原延壽 「陸奥宗光」。彼が中島信行、横井左平太・大平兄弟らと長崎に行ったのは慶応元年3月 18日、神戸の海軍操練所の閉鎖が決定した後である。陸奥は面長で知られていた。

 (89)p.280・・・「村田新八」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」。

 (90)p.281・・・「森有礼」:「森有礼全集」。これには森の若い頃の写真や両親の写真が あり、森の顔の特徴が遺伝によることがよく分かる。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (91)p.282・・・「横井小楠」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「横井小楠 傳」、「勝海舟」。

 (92)p.284・・・兄「横井左平太」と弟「横井大平」が米国に発ったのは慶応2年4月 28日である。西暦と和暦の混同がある。陸奥宗光らと上野写真館で撮った集合写真が 萩原延壽「陸奥宗光」にある。ここではラトガース大学留学中の写真をグリフィス・コ レクションから示す。

 (93)p.286・・・「吉井友実」:「北海道大学 北方資料室 明治大正期北海道写真目録」。 吉井の写真も非常に少ない。

 以上のように参考として上げた文献から抽出した参照写真を使って、偽説に名前が上っている人物について画像工学的な評価を少しずつ進めている。顔の何処の部分が一致して、何処が違うかを感覚でなく、画像認証の立場で見極める作業は容易でなく、感性に頼った同定作業に陥らないように古写真から人物同定するには何が必要かを検討している。いつか、まとめて報告したいと思っている。一般受けのするキャッチフレーズに惑わされずに、一つ一つの事実の記録を確証していくのが、本当の歴史の探求である。古写真(歴史写真)の分野でも同じことをやらなければならないことを理解していただきたい。何度も言うようだが、無名の佐賀藩士たちにも規模の大小はあれ、時代の変革期に生きたロマンがあったはずである。それを掘り起こすことにご協力いただける方が出て来ることを期待している。島田氏は西郷隆盛への思い入れが嵩じて偽説を創造した。「幕末維新の暗号」の加治将一氏はフリーメーソンへの幻想を脚色するために「フルベッキ写真」を利用した。偽説の総集編を書いたが、何を主張したいのか分からないいい加減な本だった。山口氏は大変革時代の日本の若者へのメッセージを形にしたかったかもしれないが、方法が間違っている。正しいことを論じるには正しいことの積重ねが必要であることを真摯に受け止めて間違いを訂正してほしいと思う。

(平成21年4月1日)

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2008年12月 1日 (月)

朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価

朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価

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※ 本論文に挿入した写真は、『甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社刊)よりスキャンしたものです

 

慶應義塾大学 高橋信一

 1986年から1987年にかけて、朝日新聞社が主催するオランダ国内各地に所蔵されている日本の幕末から明治にかけて撮影された多数の写真の展示会が全国各地で開催された。それらの写真を編集した写真集は最終的に1987年朝日新聞社版「写真集 甦る幕末」(1)に結実し、古写真の歴史資料としての価値を一般に知らしめる役割を担った。その展示会開催の経緯は巻末の解説と、その後に編集者によって刊行された二冊の本(2、3)に明らかにされている。この「写真集 甦る幕末」は、現在も古写真研究のバイブル的な資料となっているが、発表から20年以上が経過しており、出版当時の古写真に関する知識をこれまでの様々な研究成果を利用して更新する時期に来ているのではないかと考え、掲載写真に付されている説明の見直しを試みた。2007年秋に長崎大学はオランダのボードイン家から4冊の写真アルバムを購入し、2008年10月に長崎歴史文化博物館で「長崎大学所蔵ボードインコレクション展」を開催した。さらに、Web(4)上での公開を開始した。これを機会に「写真集 甦る幕末」のベースにもなっているオランダ・ライデン大学のボードイン・コレクションを始め、各種の写真の内容を一度整理し、理解し直すことは意義あることと考えたからである。
 「写真集 甦る幕末」に3つの異なるバージョンがあり、上記の最終版以外に1986年朝日新聞社刊の「甦る幕末」(5)と、それをベースにした1987年のライデン大学版「甦る幕末」(6)がある。その他に、1996年にライデン大学・アムステルダム海事博物館・ハーグ国立公文書館などから、オランダ国内の古写真を集めたCD版の「Memories of Japan(日本の想い出)1859-1875」(7)が出されている。これには所蔵元や撮影者、撮影対象など毎にソートを掛ける機能があり、ほとんどの写真の所蔵元や撮影者などの情報を知ることができる。中でもボードイン・コレクションにはアルバム毎の分類分けがなされている。そのコレクションには3つの大きなアルバムがあり、ベアトの「Views of Japan」や「Views in Japan」アルバム(8)掲載の写真やボードイン兄弟たち自身や上野彦馬が撮影した写真が混ざっているB1、B2、B3アルバム。その他に小さいアルバムが数冊あり、和紙で作られた手製のBDアルバムや350枚余りの1870年以降、A.J.ボードイン(Albertus Johannes Bauduin)の帰国後に収集されたと思われるBAアルバムなどがある。今回長崎大学の購入したアルバムは、この内のB1、B2、B3とBAのアルバムであり、CD版「日本の想い出」にも既に収録されている。その他のボードイン・コレクションはライデン大学が所蔵している。
 これらの資料を基に、オランダ貿易会社の日本駐在員であり、オランダ駐日領事だったA.J.ボードインの書簡集「オランダ領事の幕末維新」(9)やオランダ領事ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)の「ポルスブルック日本報告」(10)、長崎精得館オランダ人化学教師グラタマ(Koenraad Wolter Gratama)の「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(11)、そして2001年にオランダで出版されたボードイン写真集「Arts en koopman in japan(幕末のオランダ人兄弟 医師と商人)」(12)、ポルスブルック・コレクションを収蔵するアムステルダム海事博物館(13)のデータベースなどを参考にして、1987年朝日新聞版「写真集 甦る幕末」掲載の写真の所蔵元調査と説明文の再検討を行った。残念ながら、450件の写真の内、数件の身元は判明していない。表1に写真のタイトル・所蔵元コレクション名・撮影者を調べた結果をまとめた。1/3近くはボードイン兄弟以外、かなりポルスブルックの収集になることが分かる。Bは長崎大学所蔵のボードイン・コレクションを含むライデン大学のボードイン・コレクション全体。その内B1、B2、B3、BA、BDはCD版「日本の想い出」に使われているライデン大学のアルバムの分類記号である。先に述べたようにB1、B2、B3、BAのアルバムは現在長崎大学所蔵のものだが、ライデン大学の分類番号をそのまま使用した。Pはアムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクション。Gはオランダ民族学博物館のグラタマ・コレクション。Lはライデン大学のボードイン以外のコレクション。Hはハーグ国立公文書館のコレクションである。括弧付きで示した(B)はベアト(Felice Beato)の撮影。(H)は上野彦馬、(R)はロシエ(Pierre Joseph Rossier)、(AJ)はA.J.ボードイン、(U)は内田九一、(S)は下岡蓮杖、(Sa)はサンダース(William Saunders)、(Su)はサットン(F.W.Sutton)、(W)はウィルソン(John Wilson)、(I)は市田左右太の撮影である。撮影者の判定は、上記の参考資料や先輩諸氏の意見を参考に筆者の判断で行った。(AJ)とした写真については本文の中で根拠を説明する。その他のベアト以外の撮影者に関しての検討は進んでいない。かなりベアトのものが含まれているが、今後の課題である。また、ボードインとポルスブルックのコレクションの間で、かなりの所蔵の重複があることが分かる。ベアトの写真が相当数流布していたことを示している。
 先ず、「写真集 甦る幕末」と上野彦馬との繋がりを見つけるために、2007年の「上野彦馬賞」展示会の際に尼崎総合文化センターが出版した「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(14)(以後、「江崎べっ甲店アルバム」と呼ぶ)と比較した。これは、長崎の江崎べっ甲店が所蔵するもので、元々上野彦馬写真館が作製した写真アルバムであり、文久2年開業当時から慶応2年暮れごろまでに撮影された写真が収められている。両者を比較すると、「写真集 甦る幕末」の写真No.125は「べっ甲店No.39」と同じ。No.160は「べっ甲店No.44」と同じときに撮影された別バージョンである。小舟の影が水面に

No.160 

160
160 長崎・大浦川

投影しているが、角度が変わっていることを堺屋修一氏からご指摘いただいた。No.148は「べっ甲店No.42」に釣り人を加えて撮った同じ場面の写真である。No.126は「べっ甲店No.38」と同じではないが、ほとんど場所が一致する。東京国立博物館所蔵の上野彦馬によるウィーン万博出品アルバム「長崎市郷之撮影」(15)中の明治5年までに撮影の写真「長崎港 第二」と位置・構図が同じだが、それより、後年のものと思われる。No.143は「べっ甲店No.36」と近い別の日に撮ったものと思われる。何れにしろ、これらは上野彦馬が撮った写真と考えてよい。その他にも上野彦馬撮影のものがあり、後述する。上野彦馬撮影の写真はボードイン・コレクションには少ないが、グラタマは上野彦馬写真館で写真を買っていたのではないかと考えられる。

写真No.241、242

241
241 オランダ総領事ポルスブルック

 ここからは、ライデン大学所蔵のボードイン・コレクション解明のために人物写真 の再検討を始める。これらのポルスブルック所蔵の写真の内、前者はボードイン・コ レクション中にオランダ医師A.F.ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin)撮影と されている。長崎出島の旧オランダ領事館の書斎で撮影された可能性があり、次の項 で論じる本質的な問題に係わるが、筆者はA.J.ボードインの撮影だと考える。後者は ポルスブルック・コレクション中にベアト撮影とされるものである。写真No.30 3の項で中原猶介に関連して、また触れるが、名刺判で江戸のオランダ領事館でベア トによって撮影されたと考える。

No.259 

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259 ボードイン兄弟のステレオ写真

 このステレオ写真のような写真について考える前に、書簡集「オランダ領事の幕末 維新」(16)を基にボードイン兄弟の来日後の行動について整理しておきたい。末弟の A.J.ボードインは1855~1859年までバタヴィアのオランダ貿易会社の東イン ド支社で働いた後、1859年4月3日にオランダ貿易会社の日本支社員として長崎 に到着し、出島に住む。同8月4日の家族に宛てた手紙で「ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)が写真に凝っているので、自分の写真を頼んだ」 と書いて、1860年3月の手紙ではその写真を本国に送っている。1862年10 月28日に次兄で医師のA.F.ボードインが長崎に到着、A.J.ボードインとは別に住居 を構える。この間にA.J. ボードインはポンペに感化されて写真術を覚えたと推測され、 撮った自分の写真を家族に送っている。1863年3月24日の手紙で、ステレオ写 真のようにして兄弟の写る2枚の写真を(A.J.ボードインが)撮って同封した。これが、 写真No.259である。A.J.ボードインは1863年8月にオランダ領事に任命さ れ、旧領事館に住むことになる。1864年にはA.F.ボードインもしょっちゅうこの 家で寝泊りしていたようである。1865年1月にA.J.ボードインはこの家を買い取 り、その6月に自分で自宅の写真を撮り、よく撮れたと本国に送った。つまり、この ころまでにA.J.ボードインは日常的に自前で写真を撮っていたと言えるのである。一 方、1865年10月のA.J.ボードインの手紙で「A.F.ボードインも時々写真を撮っ ている」と言っているので、A.F.ボードインが写真を撮るようになったのはこのころ と考える。全てがA.F.ボードイン撮影の写真であるという考えは修正されるべきであ ろう。現存する写真がどちらの撮影になるものかについては後に論じる。

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262 ボードイン兄弟と友人たち

さらに、写場は1864年以前とそれ以降で変化することに注意する必要がある。即ち、写真No.258、259、262、267、287、301、302、303、304は最初のA.J.ボードインの住居で、写真No.241、254、255、257、260、263、264、274、277、286,288、290、298、299は旧領事館で撮影されたと思われるが、今後の検討により変更しなければならなくなる場合もあり得る。特に中庭での撮影に関しては判定が困難である。尚、1987年に長崎市が編纂した「出島図:その景観と変遷」(17)の「研究篇 第3章」の中村 賢「開国後の出島」にある「1860-1870年の出島借地人表」によれば、A.J.ボードインは1865年に旧オランダ領事館を買い取った時点で、最初の住居は引き 払い、領事館の住居は大阪に移ってから、一時帰国・再来日した1870年の時点で も所有していたことが分かる。1874年に帰国する前に長崎へ行って処分したと考 えられる。

No.277

277
277 オランダ医師ポンペ

 このポンペの写真は上野彦馬が撮ったと推定されているが、ポンペが在日していた 1862年の時点で、文久2年(1862年)秋に開業(18)した上野彦馬がこのよう な写真を撮れるはずはない。松本良順や緒方惟準ら養生所の医学生と撮ったポンペの 集合写真(19)(日本医事新報No.1739号「ポンペ先生とその弟子」)と比較すると、服 装が同じなので、同時期に同じ場所で撮影されたものと考えられる。

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ポンペを囲む養生所の医学生たち(「日本医事新報No.1739 号」

A.J.ボードイン がポンペの自宅か、旧オランダ領事館で撮ったのであろう。A.F.ボードインでは有り 得ない。ポンペは1862年10月15日で全ての講義を終了し(「ポンペ日本滞在見 聞記」(20)、A.F.ボードインが来日した4日後の11月1日に離日している。仕事の引 継ぎで、それどころではなかった。おそらく、それより遥か以前にA.J.ボードインに よって撮られたものであろう。CD版「日本の想い出」(21)には全1188枚の内に7 16枚のボードイン・コレクションが納められているが、撮影者の名前にA.F.ボード インはあっても、A.J.ボードインの名前がないのは、甚だ疑問である。尚、ポンペが 離日した翌日、養生所(後の精得館)の伊東方成と林研海が、榎本武揚・赤松則良ら 7人と伴に第1回幕府派遣オランダ留学生として長崎から出発している(22)(「赤松則 良半世談:幕末オランダ留学の記録」及び村上一郎「蘭医佐藤泰然その生涯とその一 族門流」)(23)。これには9人の集合写真が載っている。一説にはポンペといっしょの 船で渡蘭したとされているが、明らかな間違いである。

No.256 

256
256 大坂のA.F.ボードイン医師

 CD版「日本の想い出」(24)によれば、この写真の裏面に漢字で「中川信輔、写真師、 長崎、北詰」と書いてあるので、大坂心斎橋北詰の中川信輔が撮影したものと思われ る。グラタマの「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(25)にも、1869年6月10 日の大阪医学校「舎密局」開校式のA.F.ボードインらとの集合写真が載っているが、 その時のA.F.ボードインの服装はこの写真No.256と同じなので、集合写真も中 川信輔によって大阪で撮影されたと考えてよい。中川信輔は長崎の上野彦馬に学んだ 横田朴斎の弟子である(26)。

No.257 

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257 ボードイン兄弟とその友人

 ボードイン三兄弟となっているが、根拠は明らかではない。この写真の写場はA.J. ボードインが1865年1月に購入し(27)、1867年末まで住んでいた旧オランダ 領事館(1863年に横浜に移転した)内に作られたものである。「写真集 甦る幕末」 ではA.F.とA.J.ボードイン以外に四男のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)が写っているとなっている。また、「オランダ領事の幕末維新」(28)では翻訳 者によって甥のフランス・デ・ライテル(Frans de Ruiter)とされているが、これらに は疑問がある。ドミニクスについては写真No.266で論じる。アムステルダム海 事博物館のデータベースで見ると、この写真の台紙にはA.J.とA.F.ボードインのとこ ろに名前が入れられているが、三人目には名前がない。ポルスブルックも確認出来な い人物であり、親族ではなかったのだろう。ドミニクスやライテルは1869年に別々 に初めて日本にやって来る(29)。A.F.ボードインは1867年4月末に江戸へ行き、 以降帰国まで長崎には行っていない。A.J.ボードインも1868年始めには神戸に住 んでいる。関係者のみの当て嵌めの一種である。この写真は1868年までのもので ある。

No.258 

258
258 オランダ領事A.J.ボードイン

 このA.J.ボードインの写真と写真No.303の項で詳しく検討する中原猶介の写 真は同じ草木の背景の下で撮影されている。それぞれ別々のB2とB3のボードイン・ アルバムにあるものだが、同じ1863年の夏に同じ場所で撮られたと思われる。ま た、CD版「日本の想い出」(30)によれば、No.254のA.F.ボードインの写真も写 真No.258といっしょにB2アルバムの同じページに貼られているので、同じ頃に 撮影されたと結論できる。このように見て行けば、各アルバムの成立過程が解明でき るのではないかと思う。

No.266 

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266 ボードイン三兄弟

 この写真は1870年に大阪の大福寺でA.F.およびA.J.ボードインとドミニクスが 3人で再会して撮ったものと考えられる。「オランダ領事の幕末維新」(31)に三人の再 会について書かれている。写真中にはエリメリンス(C.J.Ermerins)と緒方惟準も写っ ている。エリメリンスは写真No.272で確認できる。石黒忠悳の「石黒忠悳 懐 旧九十年」(32)には三兄弟が同じ場所で写っている写真がある。三人目はエリメリンス だと書かれているが、間違いである。二つの写真の撮影者は大阪の写真家だと思われ る。確定できないが、存在するはずのA.F.とA.J.ボードインの両方のアルバムにある べき写真である。実際はA.J.ボードインが本国に送った写真を集めたと思われるBDア ルバムにのみ入っている。

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ボードイン医師とドムスおよび緒方惟準(「石黒忠悳 懐旧九十年」)

No.268 

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268 A.F.ボードイン医師の小石川園送別会

 上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードイン に3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20 日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月 にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏 10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影され た。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写 真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。

No.273 

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273 グラタマ医師と生徒

 このグラタマの写真は上野彦馬の撮影ではなく、写真No.274と同じ1866 年来日当初から住んでいた、A.J.ボードインの写場で撮られたものである。グラタマ は帰国後は写真の撮影を覚えた(34)が、日本では専ら人に撮ってもらっている。

No.274 

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274 A.F.ボードイン医師とグラタマ

 このA.F.ボードインとグラタマの写真は1866年4月16日にグラタマが来日し て旧オランダ領事館に住んでいたころのものと考えられる。その年の暮に江戸に招聘 され、翌年2月には長崎を離れた(35)。

No.275、276

276
276 ベウケマ=ツワーテル夫妻

 これらは、1874年にA.J.ボードインによって撮影されたと考えるのが妥当であ る。撮影当時、A.F.ボードインは日本にいなかった。「オランダ領事の幕末維新」(36) に何回も出て来るが、この年の2月に結婚したバウケマ=ツワーテル(Tj.W.Beukema、 Mevr.I.C.Beukema-Toewater)夫妻は恋人同士のころからのA.J.ボードインの友人であ った。この写真が入っているBDアルバムはA.J.ボードインのアルバムと考えられる。 「写真集 甦る幕末」中には65枚以上のBDアルバム所載の写真が掲載されている。 しかし、アルバム中の写真の貼り方には疑問がある。CD版「日本の想い出」(37)によ れば、BDアルバムには260枚の写真が収められているが、その整理番号は何の脈絡 もなく振られているように見える。場所や撮影時期に無関係である。これは整理番号 がアルバム中の写真の順番に従って付けられたからである。二枚のバウケマ夫妻の写 真No.275と276は別の場所に貼られていた。恐らく、A.J.ボードインから家 族宛てに送られた写真を、彼らの遺族が内容を吟味できずに集めてアルバム化したと 考えられる。そのために、写真の前後関係が失われた。写真の内容は多岐に渡ってお り、BDアルバムの再構成を極めて困難にしている。

No.291 

291
291 オランダ領事A.J.ボードイン

 これは写真No.264から明らかにA.J.ボードインである。服装・帽子が同じで、 坊主頭が隠れている。彼の最初の家の中庭で撮られたものであろう。

No.292 

292
292 中国人召使い

 この中国人召使いの写真の椅子は写真No.308の椅子に近く、上野彦馬の文久 年間に使われていた椅子とも違う。堺屋修一氏は坐るところの構造や横木の位置関係 を計算して、上野彦馬の写真館と判定されている。耳や唇の形、足のポーズの形が似 ているので、写真No.293と同じ男の子であり、ポルスブルック・コレクション にあったことから、彼の召使いだと判定する。

No.293 

293
293 中国人召使い

 この写真はNo.176から179までの写真と同じ高輪・長応寺で撮影されてい る。ポルスブルックが宿舎にしていた。彼の召使いかもしれない。

179
179 オランダ公使館・高輪長応寺

No.296、297

297
297 徳川慶喜

 これらの写真は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」(38)で解明されているよ うに、慶応3年3月27日に大阪でイギリス公使パークスが徳川慶喜に謁見した際に 同行のサーペント号の技師長F.W.サットンが撮影したものをベアトが複製・販売して 広まったものである。他に写真No.225と226のパークス襲撃事件の犯人三枝 と林田の写真や写真No.390と391のアイヌの写真もサットン撮影である。

No.298、299

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299 長崎奉行とその家来

 これらの写真はポルスブルック・コレクションにあるものだが、後者はボードイン・ コレクションのBDアルバムにも入っている。A.J.ボードインの1862年11月15 日の手紙(39)に、「近々新任の長崎奉行大久保豊後守忠恕が病院(養生所)を見学に来 訪する」と書かれているので、その際の記念に撮ったものの可能性がある。夫々旧領 事館の中庭とテラスの写場で撮影されたと解釈できる。

No.301、302

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301 ボードイン医師と戸塚文海

 これらの写真に写る人物が、松木弘安(寺島宗則)だと、1987年のライデン大 学版「甦る幕末」(40)と「Arts en koopman in Japan」(41)で説明され、「写真集 甦 る幕末」にも記載されているが、誤認である。1865年当時、彼は隠密行動を取て おり、3月に英国密航を敢行する準備を長崎でしていた(42,43)。グラバーとは接触 したが、ボードインとは関係していない。彼が医者の出であることと、写真No.3 32の写真と似ているために当て嵌められたものであろう。松木弘安の家紋は丸に十 の字のはずだが、そのようには見えない。この人物と同じ人物が「出島の科学」(44) に掲載された「ボードインと医学生の集合写真」の中央近くに写っている。こちらの 写真は同時に写っている人物から池田謙斎(45)が長崎・養生所に入学した1864年 初めの撮影と推測される。この写場は背景に写る建物の構造が写真No.259の立 体写真もどきを始めとする、一連のA.J.ボードイン撮影写真に使われた旧宅のテラス の構造と同じであることは明らかである。また、CD版「日本の想い出」(46)によれば、 BDアルバムの、この写真No.302には、「長崎病院の二人の主任医師」という説明 が書かれているので、松木弘安であるはずはない。真の人物は当時の養生所頭取医師 戸塚文海(静珀)である。戸塚文海の写真は鈴木要吾「蘭学全盛時代と蘭畴の生涯」(4 7)に掲載されており、酷似している。
 さらに、次の項で触れるが、写真No.303と304の中原猶介が写る写真の写 場は椅子や背景から、この写真No.301と302と同じである。中原猶介が長崎 に出張したのは下関事件や薩英戦争直前の1863年5月から9月ごろまで(「贈正五 位 中原猶介事蹟稿」(48)及び「鹿児島県史料 忠義公史料2」(49))と考えられる。 先の写真No.259の写場の推定から、「出島の科学」の写真が撮られたのが、上記 のように池田謙斎ら幕府派遣医学生8人が養生所に揃った後の1864年始めとする と、松木弘安が長崎にいるチャンスはない。彼は1862年1月からの1年間、遣欧 使節で国外におり、帰国後の薩英戦争で捕虜になった後、1864年暮れまで江戸に 潜伏していた。「写真集 甦る幕末」では写真No.301と302の説明文に186 5年撮影とされている。これは、中原猶介の写真の撮影と矛盾する。

02
元治元年のボードインと医学生(「Arts en koopman in Japan」(12)掲載)

 ところで、「出島の科学」の「集合写真」とは別のものが「Arts en koopman in Japan」 (50)に掲載されていて、下1/3くらいが焼かれて破損している。「出島の科学」に 載っている完全な写真はコレクションが異なることが分かる。脇道に逸れるが、ここ に写る人物の同定に関して、推測の現状を述べる。後列A.F.ボードインの右隣は竹内 玄庵(51)、その右は土生玄豊(「図説 日本医療文化史」(52))、後列右から二人目は 相良知安(53,54)、中列右から二番目は緒方惟準(55,56)、その左は半井澄(57)、そ の左の中央の人物は前述した戸塚文海、その左は吉雄圭斎(渋谷雅之「近世土佐の群 像(2)萩原三圭のことなど」(58))、前列吉雄の前は三崎嘯輔(59)、その右二人目は 岩佐純(60)、その右は松本銈太郎(61)、その右後方は池田謙斎(62)、その右隣りはそ の後の精得館頭取高橋正純(63)と考える。中列右端の人物は写真No.302の前列 左の人物と似ている。中央の人物が当時の養生所の頭取の戸塚文海ならば、前列右の 人物は副頭取の可能性がある。BDアルバムには、この人物の単独写真がある。その他 に1862年秋に松本良順の後を受けて頭取になった八木称平(64)や池田謙斎といっ しょに長崎入りした8人の残りの医学生、佐藤道碩・大槻玄俊(65)もいる可能性があ る。つまり、この写真は8人が長崎留学した記念に撮影されたのかもしれない。一方、 撮影時期を1864年始めとすると、橋本綱常(66)は当時長崎にいなかったので、写 っていない。実際、似た人物はいない。尚、1862年から3年にかけては養生所の 頭取は八木称平で、彼は慶応元年3月19日(鹿児島市篇「洋学者伝 郷土読本」(67)) に亡くなる以前に、鹿児島に帰って藩校の教授になっていて、1864年当時は戸塚 文海が養生所の頭取だった。その後、相良知安(68)が頭取を務める。そのように考え て来ると、写真No.301、302の写真は1864年か65年に旧オランダ領事 館の中庭で撮影された可能性がある。

No.303、304

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303 薩摩藩士・中原猶介

 この中原猶介の写真を考える前に、石黒敬七「写された幕末」(69)にある中原猶介 の写真について考えたい。

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旧オランダ領事館書斎の中原猶介(「贈正五位中原猶介事蹟稿」)

石黒敬章氏(70)によると、石黒敬七氏がパリで見つけたベ アトの名刺判写真アルバムの中にあったものである。ベアトが複写した可能性も指摘 された。この写真の背景には書棚が写っているが、同じ写場で撮られた別の外国人の 写真がボードイン・コレクションのB2アルバムに含まれていて、「Arts en koopman in Japan」(71)には、それが「ベアトが1863年にA.F.ボードインの書斎で撮影した」 と説明されている。しかし、1863年にベアトが長崎に行った記録(72)はない。こ の写真の人物は特定されていないが、写真No.241と242の写真と比較してポ ルスブルックではないかと考えている。また、これらの写真に写る椅子は写真No. 254のA.F.ボードインが坐る椅子と同じであることを森重和雄氏から指摘された。

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254 A.F.ボードイン医師

実は、「写された幕末」の方の中原猶介の写真を基にして画かれた日本人の肖像画が 1870年にフランスで出版されたA.アンベール(Aime Humbert)の「Le japon illustre」(73)、それの翻訳「幕末日本図絵」(74)(1969-70年出版)、「絵で見 る幕末日本」(75)(2006年新版)に載っており、「外国奉行付き通訳」と説明され ている。

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外国奉行付き通訳(「絵で見る幕末日本」)

この本に掲載されている何十枚にも及ぶ日本の版画絵は、スイスの参議院議 員のアンベールを全権とする遣日使節団が日本との修好通商条約締結のために、18 63年4月9日に長崎到着し、同27日に横浜上陸、以降1864年2月6日に江戸 のオランダ公使館(長応寺)で条約に調印して同17日に離日するまでに集めたスケ ッチ、版画、写真を基にして構成されている。しかし、全てが日本滞在中に収集され たり、図版が実際の現場を再現したものであるかどうかは検証が必要である。先の「贈 正五位 中原猶介事蹟稿」(76)によると、中原猶介は文久2年の暮れまで江戸の江川塾 にいたが、それ以降元治元年3月まで主に鹿児島、5月から8月まで長崎、京都にい たことが分かっている。その間、元治元年1月9日(1864年2月16日)に船の 買い付けの英国との交渉のために一時横浜に出張している(「薩藩海軍史 中卷」(77)) が、彼が江戸でアンベールの通訳として働くチャンスはなかった。アンベールの都合 で取り上げられたに過ぎない。
 それでも、アンベールがどのようにして、中原猶介の写真を手に入れたかを考える のは意味がある。アンベールは来日間もないベアト(78)を雇って、いっしょに江戸市 中を歩き回りながら撮影をさせているので、彼の写真を基にした版画絵が多数ある。 しかし、アンベールが滞日中にベアトからどの写真を手に入れていたかは明らかでな い。「写真集 甦る幕末」には写真No.2、3、4、5、7、8、9、10、11、 12、13、23、24、27、28、33、35、36、42、58、63、65、

No.65 

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65 鎌倉・大仏

116、118、123、143、151、164、172、179、183、18 4、199、204、310、357、364、366、368、370、374、

No.143 

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143 長崎・大音寺

375、376、379、382、403、425、432、447、450と18 64年の下関や1865年の長崎の写真を始めとして1868年に発売されたベアト の各種の「Views of Japan」アルバムから転用されたと思しき対応する写真が50枚 に程に及ぶ。特に、次の2枚は「幕末日本図絵」のフランス語の原本「Le japon illustre」 (神奈川大学図書館所蔵)に掲載されているが、写真No.118のベアトが上野彦 馬邸を中島川の下流側から撮影した写真が、そのまま版画絵に起こされている。また、 もう一枚、長崎大学古写真データベース(79)のNo.1297はベアトのアルバムの写真だ が、上野彦馬邸の前から下流を写した川岸に釣り人が座る写真も使われているので、 1863年より後年の写真を手に入れたことは明らかである。一部はアンベールの日 本滞在中にベアトから手に入れたとも考えてよいが、大部分は帰国後に「Le japon illustre」出版の前に雑誌「Le Tour du Monde」に1866~1869年にかけて日 本旅行記(80)を連載するに当たって「Views of Japan」等から集めたのである。尚、 「幕末日本図絵」と古写真の関係については、沓沢宣賢氏の「アンベール『幕末日本 図絵』所収の絵画と古写真との関係について」(81)(「日蘭学会会誌1998年、第 22巻第2号」)に先駆的な研究がある。

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199 下関・前田下砲台占領

 今後はベアトと中原猶介の出会いを調べることが残されている。それについては写」真No.195の写真で再度述べる。まとめと、「写された幕末」(82)にある中原猶介の写真が撮影された場所は長崎の旧オランダ領事館の書斎だったと考えらる。撮影者はA.J.ボードインと結論する。さらに補足の情報は前述の「贈正五位 中原猶介事蹟稿」(83)及び「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」(84)の、「写された幕末」とは別バージョンの中原猶介の写真である。中原猶介はベアトに自分の写真を複写させ、焼いた写真を名刺代わりに親交のあった人たちに配っていたと考えられる。先の写真No.254の検討から写真No.303と304は、それとは別に、A.J.ボードインが旧オランダ領事館に引っ越す前の自宅の庭で撮影したと考える。撮影時期は1863年5~9月である。尚、この二つの写真の内前者はB3アル バム、後者はBDアルバムのものである。特に写真No.303は、アルバムの次のペ ージ以降にベアトから買ったいろいろな写真が貼ってあり、撮影時に日を置かずアル バムに貼られたと断定できない。1864年の鎌倉事件現場写真(No.215)や 1862年の生麦事件現場写真(No.188)が順序逆で貼られている。写真No. 303より前のページに1866年に撮ったA.F.ボードインとグラタマの写真(No. 274)がある。後年整理して貼ったと結論される。もう一つ付け加えると、この写 真No.303はグラタマ・コレクションにも入っている。彼はいつ・どこで手に入 れたのか。中原猶介は慶応2年(1866年)暮れにも長崎に出張しているので、そ の時にA.J.ボードインに紹介されたのかもしれない。

No.300、308、310、415

310
310 蘭通詞・石橋兄弟

 これらの写真は同じ写場で撮られているが、ボードインとは関係ない。ポルスブル ック・コレクションとライデン大学のボードイン以外のコレクションの両方にあった ものである。CD版「日本の想い出」(85)には1863年上野彦馬撮影となっているが、上野彦馬邸の白い飾り台とも違う。上野彦馬が文久3年にこのような写真を撮っていた形跡はない。これらの写真は前項の写真No.303、304と関連付けて考えることができる。「写真集 甦る幕末」とCD版「日本の想い出」(86)によると、写真No.310は長崎のオランダ通詞石橋兄弟の写真となっているので、それが正しいとすると、長崎での写真ということになる。それを裏付けるものとして、この写真No.310を版画絵にしたものが先のアンベールの「幕末日本図絵」(87)にある。つまり、写真No.308と310はアンベールら遣日使節団の通訳として彼らの世話をした人たちを撮ったものかもしれない。ボードイン・コレクションにはこれら4枚の写真は残っていないので、現状撮影者は特定できない。写真No.415はCD版「日本の想い出」(88)によると、「tea houseの娘」と説明されているので、出島に喫茶所があった可能性を示唆しているが、確証はない。長崎か横浜の領事館内での可能性も残されている。尚、これらの写真に写っている下部が四角で上部が丸い2種類の柱で構成される飾り台は伊藤博文や井上馨ら5人の長州藩士が密航したロンドンで1863年に撮った写真(89)にも写っており、一般的な飾り台だったようである。「下岡蓮杖写真集」(90)にもある。
 ここで、ひとつの仮説を提示する。アンベールの「幕末日本図絵」の抄訳の一つ、 東都書房刊「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(91)(講談社版「絵で見る幕末日本」 (92))にも書かれているが、1861年7月4日の江戸高輪英国公使館(東禅寺)襲 撃事件の補償の一環で建設されていた御殿山の洋式建築の英国公使館が1863年1 月31日、外国人に反発する長州の一派、高杉晋作、伊藤博文、井上馨らにより放火 され、焼失した。この英国公使館焼き打ち事件(93)を受けて各国公使館は横浜に居を 移し始める。1862年9月8日来日したアーネスト・サトウ(Earnest Satow)は12 月3日に建設中の御殿山英国公使館を視察した。「すこし離れて眺めると、二棟に見え る壮大なもので、部屋の高さや広さは雄大。床は漆が塗られ、壁と天井はきれいな壁 紙が張られている」と日記(「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」)(94)に書き、落成 間近だったことが知れる。焼き打ちの顛末は伊藤博文(95)や井上馨(96)の伝記に詳し い。写真No.300などの写真は、この洋館において撮影されたのではないか。使 用されたのが、完成前後の極めて短期間だったことから、その後の写真がまったく存 在しないことになった。とすると、撮影者はベアトやウィルソン、ロシエでもなく、 ソンダースの可能性がある。上海の英国人写真家ソンダース(William Saunders)は1 862年8月から3ヶ月間日本に滞在(97)し、横浜・江戸で撮影、パノラマ写真など を残した。時期的には附合するが、謎は依然として残る。

No.311 

311
311 長崎・精得館と生徒たち

 この写真に写っているのは洋学塾でなく、2003年にライデン大学に赴いた本馬 貞夫氏(前長崎県立長崎図書館副館長)らによって慶応年間の養生所(精得館)の病 棟と冠木門、そこで学ぶ医学生たちであることが判明した。A.J.ボードインの撮影の 可能性がある。病棟と冠木門は長与専斎の「松香遺稿」(98)に掲載されている写真で確 認できる。

No.312~354

337
337 遣欧使節団通訳・福沢諭吉

 これらの写真は、1862年にロシアとの樺太境界問題の交渉に臨む遣欧使節団が オランダを訪れた際の歓迎会で国王に寄贈した使節団員のアルバムで、ハーグのオラ ンダ国立公文書館が所蔵する写真である。CD版「日本の想い出」によれば、43枚の 内16枚がパリで、26枚がハーグで撮影されている。トータル85枚になる。その 内の30名近くの人物の写真は日本にも残されていて、明治38年8月号「写真画報」 臨時増刊第31号「樺太回復紀念帖」(99)に掲載されている。大正元年の「日本歴史写 真帖」(100)に転載された。しかし、ハーグで撮影された「松木弘安」以外はすべて違 う場所で撮られたものになっており、主にロンドンとサンクトペテルブルグで撮られ た。

332
332 遣欧使節団通訳・松木弘安

No.356 

356
356 竜吐水・火消し

 この写真はポルスブルック・コレクションのものである。これのトリミングされて いない原版からのベタ焼き写真がW.ブルガー(Wilhelm Burger)の写真集「Wilhelm Burger Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera 1844-1920」(101)に掲載されている。ブルガーはポルスブルックの1869年2月離日後の9月に来日しているので、オランダ帰国後に収集された写真である。ブルガーはヨーロッパで写真展を開いたりして自分の写真を売っていたので、それを手に入れたのだろう。ボードイン・コレクションもそうだが、必ずしも滞日中に得た写真ばかりではないことに注意が必要である。

No.1~13、23、33~36

8
8 三田綱坂・島原藩下屋敷

 「写真集 甦る幕末」掲載の写真の成立に係わる写真についての検討を一通り終え たので、写真の先頭に戻って見直しを試みる。ここに写真番号を示したもの以外にも 写真No.303、304の項で示したように、アンベールに使われた写真のほとん どはベアトが撮影したと思われる写真であるが、ここで挙げた写真はアンベールが江 戸市中を探索しながら、ベアトに撮らせた写真と考えてよいのではないか。スイス使 節団が江戸の宿舎にした長応寺にベアトの仕事場を設けていた(102)。また、薩摩藩下 屋敷をベアトが撮った際の様子が書かれている。しかし、挿入されている版画絵の元 になった写真No.8は松本健氏の「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問」(港区立港郷土資料館研究紀要4)(103)によれば、三田綱坂を撮ったものとされている。「幕末日本図絵」の記述にある薩摩藩下屋敷の写真は使われなかったということだろうか。

No.14~22

16
16 日光・神橋

 これらの一連の「日光」の写真は内田九一の撮影と考えられるが、明治5年にウィ ーン万博出品用に撮影されたものかどうか確認できていない。分かっているのは、写 真No.14と16が「The Far East」(104)の1873.5.1号に掲載され、本文には編 集者のブラックが外国人の友人と連れ立って日光へ撮影旅行した時の様子が、友人の 日記と彼が撮った写真とともに紹介されていることである。旅行記の最後に内田九一 が撮影した写真も使ったと記されているが、旅行は1872年6月中旬に横浜からは 始まっているので、内田九一の随伴は有り得ない。彼はこの時西国巡幸に従って九州 に滞在中だった。恐らく、その後に日光へ出かけたと考えられる。撮影時期は明治5 年7月から6年3月の間で詰めていく必要がある。尚、CD版「日本の想い出」(105) には大量の日光周辺で撮影された写真があり、専らBDアルバムに集中している。

No.23~54

33
33 横浜・弁天社

 ほとんどがポルスブルック・コレクションのものだが、ベアトの「Views of Japan」 にある横浜の風景ものである。

No.52  

52
52 横浜・ポルスブルック邸

 このポルスブルックの横浜の住居の写真はオランダ海事博物館(106)のデータベー スによると、1869年2月13日の撮影となっている。領事を退任し、オランダへ 帰る直前に撮影されたものである。

No.53  

53
53 神戸・競馬場

 写真の説明には「The Far East」(107)の1870.11.16号掲載の横浜の競馬場の二等 観客席だと記されているが、位置や構造が異なっている。ベネット(Terry Bennett)の 「Old Japan」(108)カタログNo.34中に掲載のNo.46にある1872年成立の「神戸 コレクション」には市田左右太か内田九一の撮影と思われる写真が入っている。「写真 集 甦る幕末」の写真No.101と102が対応している。その中に、この写真N o.53と同じスタンドが写っており、「神戸競馬場の大スタンド」と記されている。 横浜(1867年開設)と神戸(1869年開設)には同時期に競馬場があったので、 混同したのであろう。

No.72~82

78
78 富士宮・登山口

 ポルスブルックのコレクションにはベアトの写真が多数入っているが、それは、ベ アトの「Views of Japan」が1巻丸ごとあるためである。表1のリストでは、まだベ アトの作品の洗い出しを完全には終わっていない。1867年富士登山の途中で静岡 ・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルック が長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。

79
79 静岡・原宿植松家の人々

9年ぶりの再会である。ベアトが同行 した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブル ックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No. 78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。 彼らの子供もいっしょだったかもしれない。

No.83~92、101~105

102
102 神戸・布引の滝

 これらの大阪・神戸の写真はベネットの「Old Japan」カタログNo.34(109)掲載の No.46の写真と比較して市田左右太の撮影と考えられる。

No.114~116、118

118
118 長崎・中島川と彦馬邸

 この4枚の写真はベアトの初期の長崎の写真で、1868年以降に販売されるよう になった「Views of Japan」には入っていないので、ポルスブルックのコレクション にはない。A.J.ボードインが横浜で購入し、B1アルバムに貼って持ち帰ったと考えら れる。撮影時期はNo.133と同じ1865年6月と考える。一説には、1864 年と66年にベアトが長崎に来ていたとされているが、根拠は明確ではない。ベアト は1864年10月に下関で写真を撮っているが、長崎へは行っていない。特に、「江 崎べっ甲店アルバム」(110)の「べっ甲店No.41」にある「皓台寺の墓地」が、長崎大 学古写真データベース(111)では1866年にベアトによって撮影されたとされてい るが、これはベアトの「Views of Japan」にある「春徳寺」(112)の写真と混同してい る。他の資料から、厳密な立証が必要だと考える。

No.117 

117
117 長崎・中島川高麗橋

 この写真はNo.116のベアトの写真と同じ構図だが、後年のものである。撮影 時期を考えるヒントは長崎大学コレクション①「明治7年の古写真集」(113)の写真 No.14にある。これも同じ構図だが、中島川の高麗橋の左岸の袂に石油灯が立っている。 写真No.117の右岸にある石油灯は小屋に隠れて見えない。石油灯が中島川に設 置された時期を記録したものは見出せていないが、「上野彦馬歴史写真集成」(114)の 写真No.44から明治5年ごろと考えられる。こちらの写真は巨大サイズであり、上野 彦馬でなくスチルフリード(Raimund Von Stillfried-Ratenicz)が明治5年5月に撮影 したものと推定できる。日本カメラ博物館の「スティルフリードの見た日本」(115)の 彼の写真を集めたものに見られるからである。同時に撮影された別バージョンが放送 大学(116)のホームページにも掲載されている。これらの写真は彦馬邸の白い二階建 ての写場が明治5年前半までに建てられたことを証明している。この写真No.11 7の写真は明治5、6年撮影と結論される。撮影者は彦馬と考える。この写真はBDア ルバムのものなので、A.J.ボードインが1874年2月に彦馬の写真館で購入したと 考えられる。

No.119 

119
119 長崎・中島川上流を望む

 この写真の所蔵元は掴めていない。CD版「日本の想い出」(117)には収録されていず、 その他のコレクションにも該当がない。恐らく彦馬の撮影だと考えられるが、白い二 階建ての写場が出来て以降としか言えない。しかし、「明治7年の古写真集 長崎・熊 本・鹿児島」(118)の写真No.15の「中島聖堂の正門と上野彦馬邸」は、中島川沿いの 「もやし屋の井戸」と呼ばれる湧き水付近から上流を撮影したものだが、構図だけで なく、写っているほとんどの被写体が対応する。季節はずれているようだが、写真N o.119は明治7年ごろまでに撮影されたと言ってよい。

No.122 

122
122 長崎・伊良林からの展望

 この写真はB3アルバムにあるものだが、撮影時期、撮影者が不明である。上野彦馬 邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望 んだ写真である。手前左に彦馬邸、正面に高木邸とその倉庫の建物が写っている。上 野彦馬邸の東南の角の家屋は建て直される前のもの。写真No.130の写真と比べ ると、屋根の形が旧いものとなっている。しかし、塀沿いの西側の建物は撤去されて いるので、慶応年間の後半であろう。塀の様子が判然としないので、白壁の塀の築造 との関係は読み取れない。今後の課題である。明治以降に使われた広い写場について の考察は拙著「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究」第74号、 2007年12月号)(119)を参照されたい。

No.130 

130
130 長崎・風頭山からの展望

 この長崎の風頭山からのパノラマ写真は、長崎監獄があり、舞鶴座がないことから、 明治15年から23年の間に上野彦馬によって撮影されたと考えられる。上野彦馬邸 の玄関の西側には白壁で窓付きの新しい塀が作られている。東南の角の家屋の北側に 大工小屋が建てられている。CD版「日本の想い出」(120)によれば、所蔵はアムステル ダム海事博物館だが、その写真データベース(121)のポルスブルック・コレクション には含まれていない。別系統からの収集であろう。「写真集 甦る幕末」中に多数のポ ルスブルック収集の写真が含まれているが、上野彦馬由来の写真はない。ポルスブル ックは彦馬の開業前の1859年に神奈川に移った。1863年6月に一度長崎に行 ったが、下関事件に遭遇して、写真どころではなかった。専らベアトから買っていた のであろう。

No.133 

133
133 長崎・大浦居留地

 この大浦居留地を望む写真はB1アルバムの中で、ベアトの撮影とされているもので ある。慶応元年2月に落成した大浦天主堂の3本の尖塔が写っているので、1865 年6月にベアトが撮影したとしてよいと考える。

No.134 

134
134 長崎・大浦天主堂

 この大浦天主堂の写真はボードイン・コレクションでなく、オランダ民俗学博物館 グラタマ・コレクションの中にあったものである。グラタマは彦馬の写真館でいくつ か写真を買っていたようである。撮影も頼んでいたのではないか。彼は慶応2年の4 月から、その年の年末までしか長崎にいなかったので、その間に購入したのだろう。この写真は1866年末までに撮られたと考えてよい。「上野彦馬歴史写真集成」(122)には明治以降の写真とされているが、慶応年間だと思う。また、江崎べっ甲店アルバム(123)の「江崎べっ甲店No.25-3」は時期的に近い写真であり、1866~67年を想起させる。

No.142 

142
142 長崎・大浦妙行寺

 この写真は裏面に書かれている記名(124)から1859年6月、ガワー(Abel A. Gower)の撮影とされて来たが、斎藤多喜夫氏は「幕末明治 横浜写真館物語」(125) で、1859年ごろ来日したロシエによる可能性を示唆している。写真の所蔵はオラ ンダ・アムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクションである。ポルスブ ルックは1857年7月24日に長崎に来日し、1859年7月4日に神奈川に移っ た(126)。ロシエは横浜でもステレオ写真を撮っているので、そのころ買ったのではな いか。ポルスブルックの帰国は1869年2月ごろである。ところで、1869年9 月に来日したブルガーの写真集(127)には、この写真のネガからのベタ焼きが掲載さ れている。また、大英図書館(前大英博物館)が1872年から所蔵している56枚 に及ぶブルガーが日本で撮影した写真にも含まれていて、台紙にはブルガー撮影と印 刷されている。そこで、本当に1869年にブルガーによって撮られた写真かどうか を検証してみる。ベネットの「Photography in Japan」(128)には、1860年10月 にロシエによって撮られた大浦居留地造成前の梅ヶ崎のパノラマ写真が紹介されてい るが、妙行寺の向うに見える入り江は埋め立て前であることが分かる。写真No.1 42もそれと近い頃、恐らく前年の風景であると考えられる。明治以降の大浦海岸が 完成した時期の写真ではない。ブルガーはロシエからネガを買ったのであろうか。因 みにオランダ海事博物館の写真は16×21cmで、横浜開港資料館所蔵の写真とサ イズは同じだが、大英図書館の写真は14.5×19cmで、サイズが一致しない。

No.153 

153
153 長崎・鼠島ピクニック

 この長崎・鼠島でのピクニック写真はボードイン・コレクションの大型のB1とB2 の両方のアルバムにある。B1アルバムにはベアト撮影と思しき写真がかなりあるが、B2アルバムにはボードイン兄弟、ポンペとポルスブルックの肖像以外に長崎の写真がないのに、この写真のみが入っているのは何か意味があると思われる。ベネットは「Early Japanese Images」(129)の中で1865年5月24日のビクトリア女王の誕生日を祝うピクニック・パーティをベアトが撮影したとしている。

No.152、154、158

154
154 長崎港の郵船

 これらの写真は上野彦馬がウィーン万博用に1872年に撮影したアルバム「長崎 市郷の撮影」の一部で、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録3」(130)で確 認できる。最後の所でも述べるが、A.J.ボードインは日本での最後の年1874年2 月に長崎へ出かけ、彦馬の写場で写真を撮ってもらう。これらは、その際に購入した と考えられる。A.J.ボードインのアルバムにあるべき写真である。BDアルバムに入っ ている。

No.161 

161
161 長崎・大浦居留地と出島

 出島を望む写真の内、この写真と対をなすものが、「長崎古写真集」(131)の写真No.34 と「幕末:写真の時代」(132)の写真No.134にある。何れもベアトの撮影と言われて いるが、撮影時期が不明である。1864年から1866年の間と見られる。出島の 築足と馬廻しが完成した慶応3年よりは前である。「長崎古写真集」(133)の写真No.29 の「1865年6月」とのベアト撮影の説明がある「出島」の町並みと比べても差異 が見出せない。1865年としていいと考える。写真No.128にも写真No.1 61とほぼ同じ場所からのパノラマ写真があるが、こちらは1866年ごろ、上野彦 馬によって撮影されたと考える。グラタマのコレクションにあるものである。上野彦 馬の写真館で購入したものであろう。大浦海岸や梅香崎海岸の建物が増えている。

No.163 

163
163 長崎・出島

 これはボードイン・コレクションのB1アルバムとポルスブルック・コレクションの 両方にあるものである。写真No.161と近い風景となっている。

No.165~226、242~248

176
176 オランダ領事と護衛隊

 これらはポルスブルックの交友関係を示す写真である。

No.166 

166
166 ヒュースケンの遺体

 ヒュースケンの襲撃は1861年1月15日の夜、アメリカ公使館が置かれた善福 寺の近くで起こった。担ぎ込まれた彼の臨終には、プロシア使節団に随行したアメリ カ人写真家ウィルソンが立会った(東京大学史料編纂所研究紀要1996年3月号「ヒ ュースケン暗殺事件」(134))。その時、彼が撮影した写真だと考える。

No.169 

169
169 ポルスブルックの日本人妻

 この写真には「ヒュースケンの日本人妻」というキャプションが振られているが、 アムステルダム海事博物館(135、136)のポルスブルック・コレクションのものである。 ポルスブルックのアルバム中では「写真集 甦る幕末」の写真No.166の前のペ ージに1864年の鎌倉事件の写真といっしょに貼られているだけで、後から出て来 る写真No.166の写真と関連付ける根拠はない。アルバムは時系列的に貼られて いるわけではない。ポルスブルック自身の作製ではなく、キャプションも事情を知ら ないものが入れたのかもしれない。写真No.78の「富士宮登山口」に写る女性と 似ているので、ポルスブルックの恋人の可能性を考えるべきである。出島のA.J.ボー ドインの家か、旧オランダ領事館の中庭で撮影されたと考えられる。写真No.24 3のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)米国総領事が写る写真の背景と同じであ り、同じ場所で撮影されたと考えることが出来る。植え込みは出島の領事館の中庭に 生えているものと同じである。ポンペが撮影した可能性が高い。尚、写真No.24 3が写されたと思われる1859年4月のハリスの長崎行きにヒュースケンが同行し た記録はない。写真No.259の項で述べたように、写真No.169は1858 年4月にポルスブルックが江戸へ移る前に撮影されたと考える。

No.189

189
189 リチャードソンの遺体

 この1862年9月14日に殺害されたリチャードソンの写真は「Photography     in Japan」(137)でベネットはソンダースが撮影したと推測している。

No.195 

195_2
195 中原猶介と江戸詰薩摩藩士たち

 この写真はベアトの撮影とされている。長応寺のベアトの仕事場で撮られたもので あろうか。説明にあるように1862年8月に起こった生麦事件でのリチャードソン 殺害の補償交渉に際し、1863年9月~12月に横浜に臨んだ薩摩藩士と幕府立会 人らの集合写真と言われている。しかし、もしそうだとすると、前列中央が鹿児島黎 明館(138)所蔵の写真から岩下左次衛門(方平)と比定できるが、ムースハルトの「Arts en koopman in japan」(139)の写真No.B2-18Aの後列右に中原猶介が写るとする記述 は間違いとなる。なぜなら、この交渉時の参加者はアーネスト・サトウの日記「遠い 崖2」(140)の薩英戦争の項に記述されているが、中原猶介は含まれていないからであ る。薩摩藩の代表重野厚之丞と高崎(正風の甥)猪太郎らは佐土原藩の介添え人二人 と長崎経由で横浜に向かうが、その当時中原猶介は熱病で床に就いていて横浜には行 っていないのである。9月20日に藩元に手紙(「鹿児島県史料 忠義公史料2」(141)) を書いた後、数日で長崎から鹿児島に帰った。この写真は中原猶介が1864年2月 に横浜の英国公使館で船の購入交渉をした際のものである。江戸詰めの岩下方平が同 席したことは「薩藩海軍史中卷」(142)で確認できる。横浜開港資料館「F.ベアト幕 末日本写真集」(143)には、この中原猶介と岩下方平を除いた同じ4人が写る写真が載 っている。特にはっきり言えることは、「よこはま人物伝」(144)にある、介添え人の 一人佐土原藩士の樺山舎人の写真に該当する人物はいないということである。家紋も 明らかに違う。「幕末明治 横浜写真館物語」(145)でも間違った解釈がされている。 4人は江戸詰の薩摩藩士であろう。前年秋に鹿児島から出向いた重野厚之丞と高崎猪 太郎ではなく、南部弥八郎・堀平右衛門・関太郎・肥後七左衛門・新納嘉藤次ら(146) の誰かである。写真No.303、304の所で紹介した旧オランダ領事館の書斎で の撮影された中原猶介の写真は、この時ベアトによって複製が作られたと考えられる。 尚、昭和25年鹿児島市が編纂した「洋学者伝 郷土読本」(147)には中原猶介の伝記 とこれまでとは別の彼の肖像写真が掲載されている。さらに、この本には松木弘安や 八木称平のことも書かれ、1864年2月に江戸潜伏中の松木弘安と中原猶介が会っ ていると記されている。

No.197 

197
197 ボクサー英国レイホーク艦長

 この写真はキューパー提督の写真ではない。写真No.250の合成写真を参照す れば、レイホース艦長のボクサー提督であることが分かる。

No.203

203
203 下関・占領された長州の砲台

 1864年9月6日に、下関戦争で占領された長州の砲台をベアトが撮影したもの だが、同じ場面をワーグマン(Charles Wirgman)がスケッチした絵がIllustrated London News(148)の1864年12月24日号に掲載されている。写真No.303、 304の項で述べたようにベアトの下関の写真はこの時に撮影されたものである。ア ンベールは帰国後にそれらを収集して利用した。また、アンベールはIllustrated London Newsに載ったワーグマンのスケッチも改変して利用している。

No.243

243
243 米国公使タウンゼント・ハリス

 1856年8月21日に通訳H.ヒュースケン(Henry Heusken)とともに下田に来航し たタウンゼント・ハリスが残した日記(149)は1858年6月9日までであり、その 間に長崎に出かけた記録はない。その他の記録(150)から1859年4月に長崎で病 気の療養をしたことが分かっている。この写真は、その時に撮影されたと推測される。 背景の木立ちは長崎・出島でのA.J.ボードインの写真によく登場する。しかし、この 段階ではA.J.ボードイン(151)は来日直後であり、写真を撮っていないので、ハリス の診療もしたであろうポンペが撮影したと考える。

 その他の検討した事柄について述べる。先ず大事なことだが、見過ごされていることが ある。A.F.ボードインは1867年6月13日に横浜から、緒方惟準、松本銈太郎、赤星 研造、武谷椋山ら4人を連れて一時帰国する(152)が、その直前の5月14日にアムステルダム行きのソリデ号にあらゆる私物と日本での美術収集品を23個もの木箱に入れて発送した。手配はA.J.ボードインがやった。しかし、貨物船はスペインのペスカドレス近海で沈没し、A.F.ボードインの財産は全て水泡に帰した。A.J.ボードインは家族への手紙(153)で悲嘆に暮れている。帰国後に知ったA.F.ボードインの衝撃は如何ばかりだっただろうか。つまり、1867年までにA.F.ボードインが撮影・収集した写真のほとんどは、この時失われたと考えられる。江崎べっ甲店アルバム(154)の「江崎べっ甲店No.3-1」にはA.F.ボードインが写る写真があり、同じものは「写真の開祖 上野彦馬」(155)の写真No.260にも掲載されているが、これは現在のライデン大学のコレクションには残っていない。これが意味することを結論付けるのは未だ早いかもしれないし、A.J.ボードインと共通の写真はA.J.ボードインのアルバムによって救われたかもしれないが、現在残っているA.F.ボードインのアルバムは1868年末に再来日して以降のものではないかと考えられる。ボードイン絡みの写真を論じる前に、この辺のことを明らかにしておくことが大前提ではないか。写真No.259で述べたようにA.J.ボードインが写真の撮影をしていたこと無視すべきではない。
 今まで「写真集 甦る幕末」とそれには入っていない写真を含むCD版「日本の想い出」 を再検討して来たが、A.F.ボードインが撮った写真と思われるものを、はっきり見出せていない。長崎でも大阪でも、A.J.ボードインがそばにいたことが多い。明治以降は、A.F.ボードインは移動が多いし、1867年にカメラ類を他の私物といっしょに本国に送った船が沈んで以来、自分で写真を撮っていないのではないか。CD版には、「写真集 甦る幕末」には入っていないが、大福寺(法性寺?)の本堂前で緒方惟準ら医学生とA.F.ボードインが写る集合写真がある(156)。ライデン大学のボードイン・コレクションのBDアルバムに入っているが、その台紙には大阪・佐野の写真師 横田朴斎の朱印が押されている。他の大阪舎密局関係で撮られた写真の撮影者もライデン大学では特定されていないが、先に写真No.256で書いたように中川信輔である。また、ボードイン・コレクションに入っている神戸近郊の写真は内田九一か神戸の写真家市田左右太が撮影したと考えられる。写真No.101と102は「The Far East」(157)にも使われている。このころはボードイン兄弟とも、撮影はやっていなかったのかもしれない。
 A.J.ボードインは1874年日本での最後の年の2月に、長崎で上野彦馬写真館で撮ってもらった肖像写真を家族に送っている(158)。A.J.ボードインは上野彦馬とは、伊勢津藩主藤堂高猷のために写真機材を販売して以来の付き合いだが、ボードイン・コレクションには上野彦馬由来の写真が少ない。彼らは自分の身の回りにしか興味がなかったのか。この1874年のA.J.ボードインの写真はライデン大学のボードイン・コレクションにはない。失われてしまったボードイン・コレクションが存在するのかもしれない。ボードイン・コレクションは兄弟が作製したアルバムのみではない。ボードインらは撮った写真を日本から家族に逐次送っている。ボードイン兄弟は生涯独身で、父母を早くに亡くしているので、専ら兄姉宛てに手紙を送った。送られて来た写真を家族がまとめたアルバムも含まれていると考えられる。「写真集 甦る幕末」にピックアップされた写真以外も精査して見なければならない。CD版「日本の想い出」をじっくり見直してみる必要がある。今回長崎大学の所蔵になったボードインコレクションの内、BAアルバムは1874年にA.J.ボードイ ンが帰国後に収集されたと思しき写真が多い。中には、銀座通りの明治9年から16年に存在した「共同社」の看板が写る明治10年ごろの写真(159)などがあり、今後の厳密な調査が望まれる。
 以上、いろいろと疑問を提示して来たが、筆者が把握している限り、ライデン大学におけるボードイン・コレクションについての見解は2000年10月に日本で開催された「日蘭交流400年記念シンポジウム」の報告が載っている洋学史学会「江戸時代の日本とオランダ」(160)中のムースハルト氏の「オランダにある初期の日本写真:ボードワン・コレクション」が最新のものである。国内の研究も個別のものはあっても、総合された研究結果は公表されて来なかった。多くの幕末・明治の歴史写真に関心のある方々が見直しに参加してくださることを希望する。今回の「写真集 甦る幕末」再評価に当たっては、堺屋修一氏、石黒敬章氏、姫野順一氏、森重和雄氏、倉持基氏を始め、多数の古写真に造形の深い方々のご意見・ご協力・ご指導をいただいた。浅学故の先走った間違いがあれば、著者の責任である。

(平成20年11月21日)

参考資料
(1)  後藤和雄・松本逸也編、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションよ り」、朝日新聞社、1987。
(2)  後藤和雄、「写真考古学:写された歴史と写した目と」、皓星社、1997。
(3)  松本逸也、「幕末漂流」、人間と歴史社、1993。
(4)  長崎大学がWeb上で公開している各種の画像情報「長崎大学電子化コレクショ ン(http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/)」の中に「日本古写真ア ルバム ボードイン・コレクション」として納められている。URLは  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/11.htmlである。
(5)  朝日新聞社編、「甦る幕末 オランダで保存されていた800枚の写真から」、     朝日新聞社、1986。
(6)  University of Leiden, ed.,“Herinneringen ann Japan 1850-1870(甦る幕末)”,           University of Leiden, The Netherlands, 1987.
(7)  I.Th.Leijerzapf and H.J.Moeshart,“Memories of Japan 1859-1875 Japanese           Photographs in Dutch Collections(日本の想い出、1859-1875 日本の写真・      在オランダ・コレクション)“, IDC Publishers, The Netherlands, 1996.
(8)  ベアトの写真アルバムの「Views of Japan」の一つはポルスブルックのコレク ションとして(13)に示すアムステルダムのオランダ海事博物館のデータベ ースで見ることができる。それ以外のベアトのコレクションとしては横浜開港 資料館が多数所蔵しており、横浜開港資料館編、「F.ベアト写真集1-幕末日本 の風景と人々」及び「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」、 (2006)に集約されている。
(9)  A.ボードウアン、フォス美弥子訳、「オランダ領事の幕末維新:長崎出島からの 手紙」、新人物往来社、1987。
(10) ポルスブルック、井熊 文訳、「ポルスブルック日本報告:1857-1870オランダ 領事の見た幕末事情」、雄松堂出版、1995。
(11) ハラタマ、芝哲夫、「オランダ人の見た幕末・明治 化学者ハラタマ書簡集」、      菜根出版、1993。三崎嘯輔、緒方惟準、松本銈太郎が写る集合写真がある。
(12) H.J.Moeshart, “Arts en koopman in Japan(医師と商人 幕末のオランダ人 兄弟)”, De Bataafsche Leeuw, Amsterdam, The Netherlands, 2001.
(13) アムステルダムのオランダ海事博物館のURL は  http://www.maritiemdigitaal.nl/である。
(14) 尼崎総合文化センター編、「長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局-開業初 期アルバム-』(「第7回上野彦馬賞フォトコンテスト」受賞作品展 特別企画 展目録)」、尼崎総合文化センター、2007。
(15) 東京国立博物館編、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録1-3」、国 書刊行会、1997-2002。
(16) 前掲(9)。
(17) 長崎市出島史跡審議会、「出島図:その景観と変遷」、長崎市、1987。
(18) 八幡政男、「評伝 上野彦馬 日本最初のプロカメラマン」、武蔵野書房、1993。
(19) 「日本医事新報 1739号」、医事新報社、1957。
(20) ポンペ、沼田次郎訳、「ポンペ日本滞在見聞記:日本における五年間」、雄松堂 書店、1968。
(21) 前掲(7)。
(22) 赤松則良、「赤松則良半生談:幕末オランダ留学の記録」、平凡社、1977。
(23) 村上一郎、「蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流」、房総郷土研究会、1931。
(24) 前掲(7)。
(25) 前掲(11)。
(26) 梅本貞雄編、「日本写真界の物故功労者顕彰録」、日本写真協会、1952。
(27) 前掲(9)。
(28) 前掲(9)。
(29) 前掲(9)。
(30) 前掲(7)。
(31) 前掲(9)。
(32) 石黒忠悳、「石黒忠悳懐旧九十年」、大空社、1994。
(33) 石井良助編、「太政官日誌 第1卷」、東京堂出版、1980。
(34) 前掲(11)。
(35) 前掲(11)。
(36) 前掲(9)。
(37) 前掲(7)。
(38) 石黒敬章、「幕末・明治のおもしろ写真」、平凡社、1996。
(39) 前掲(9)。
(40) 前掲(6)。
(41) 前掲(12)。
(42) 犬塚孝明、「密航留学生たちの明治維新:井上馨と幕末藩士」、日本放送協会、      2001。
(43) 犬塚孝明、「薩摩藩英国留学生」中央公論者、1974。
(44) 長崎大学「出島の科学刊行会」編、「出島の科学:長崎を舞台とした近代科学の 歴史ドラマ」、九州大学出版会、2002。
(45) 池田謙斎、「回顧録」(「医学のあゆみ」第30巻1~4号)、医歯薬出版、1959。
(46) 前掲(7)。
(47) 鈴木要吾、「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯:伝記松本順」、大空社、1993。
(48) 中原尚徳、中原尚臣、「贈正五位中原猶介事蹟稿」、中原尚徳、1929。
(49) 鹿児島県維新史料編纂所編、「鹿児島県史料 忠義公史料 第2巻」、鹿児島県、      1975。
(50) 前掲(12)。
(51) 岩崎克己、「柴田昌吉伝」、岩崎克己、1935。
(52) 日本眼科学会、「日本眼科を支えた明治の人々(日本眼科学会百周年記念誌 第 5巻)」、日本眼科学会、1997。
(53) 鍵山栄、「相良知安」、日本古医学資料センター、1973。
(54) 相良知安、「相良翁懐舊譚」(「医海時報」第499~541号)、医海時報社、 1900。この連載は知安からの直接の聞書きがまとめられており、今まで知られ ていなかった隠された事実が知れる。
(55) 前掲(11)。
(56) 前掲(32)。
(57) 宗田一、「図説 日本医療文化史」、思文閣出版、1989。
(58) 渋谷雅之、「近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど」、私家版、2008。
(59) 前掲(11)。
(60) 前掲(47)。
(61) 前掲(11)。
(62) 池田文書研究会編、「東大医学部初代綜理池田謙斎 上」、思文閣出版、2006。
(63) 長崎大学医学部編、「長崎医学百年史」、長崎大学医学部、1961。
(64) 鹿児島市編、「洋学者伝 郷土読本」、鹿児島市、1950。
(65) 前掲(45)。
(66) 日本赤十字社病院編、「伝記・橋本綱常」、大空社、1994。
(67) 前掲(64)。
(68) 前掲(54)。
(69) 石黒敬七編、「写された幕末」、アソカ書房、1957。
(70) 石黒敬章氏私信。
(71) 前掲(12)。
(72) John Clark,“Japanese Exchanges in Art 1850s-1930s with Britain,           continental Europe, and the USA“, University of Sydney, Australia, 2006.
(73) Aime Humbert, “Le japon illustre”, Hachette & Cie, Paris, France, 1870.           アンベールはこの本の出版の前に1866年から1869年まで雑誌「Le Tour du monde:nouveau journal des voyages(Hachette, Paris, France)」に絵入り紀 行記を発表し、それをまとめて、上記の二冊の本にした。すでに356枚の図版 が使われ、内43枚の版画の原写真が「写真集 甦る幕末」に入っている。
(74) エメェ・アンベール、茂森唯士訳、「絵で見る幕末日本」、講談社、2004。      この本は「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(東都書房、1966)を底本に      している。
(75) エメェ・アンベール、高橋邦太郎訳、「続・絵で見る幕末日本」、講談社、2006。      この本は「アンベール幕末日本図絵」(雄松堂出版、1969-1970)を底本にして いる。
(76) 前掲(48)。
(77) 公爵島津家編纂所編、「薩藩海軍史 中卷」、原書房、1968。
(78) 前掲(73)。
(79) 「長崎大学古写真データベース」は「長崎大学電子化コレクション」(前掲(4)) からリンクされている。直接のURLはhttp://hikoma.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/
(80) 前掲(73)。
(81) 沓澤宣賢、「アンベール『幕末日本図絵』所収の絵画と古写真との関係について -『甦る幕末』所収のベアトの写真との対照を中心に-」(「日蘭学会会誌」第 22巻第2号)、日蘭学会、1998。
(82) 前掲(69)。
(83) 前掲(48)。
(84) 東京都港区教育委員会編、「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレ クション」、東京都港区立港郷土資料館、1991。
(85) 前掲(7)。
(86) 前掲(7)。
(87) 前掲(75)。
(88) 前掲(7)。
(89) 犬塚孝明・石黒敬章、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」、平凡社、2006。
(90) 石黒敬章編、「下岡蓮杖写真集」、新潮社、1999。
(91) 前掲(74)。
(92) 前掲(74)。
(93) 宮永孝、「幕末異人殺傷録」、角川書店、1996。
(94) 萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄1 旅立ち」、朝日新聞社、 1998.
(95) 春畝公追頌会編、「伊藤博文伝 上巻」、原書房、1970。
(96) 井上馨侯伝記編纂会、「世外井上公伝 1」、原書房、1968。
(97) 前掲(72)。
(98) 長與専斎、松本良順、「松本順自伝・長與専斎自伝」、平凡社、1980。
(99) 樺太回復紀念帖(「写真画報」臨時増刊第31号)、博文館、1905。
(100)秋好善太郎編、「日本歴史写真帖」、東光園、1912。
(101)Gert Rosenbert,“Wilhelm Burger Ein Welt- und Forschungsreisender mit der           Kamera 1844-1920”, Wien: Christian Brandstaetter, 1984.
(102)前掲(74)。
(103)松本 健、「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問 -幕末写 真の撮影地点についての一考察-」(「東京都港区立港郷土資料館研究紀要4」)、 東京都港区立港郷土資料館、1997。
(104)John Reddie Black,“The Far East: an illustrated fortnightly newspapers”          (1870-1875)、雄松堂複製、1965。
(105)前掲(7)。
(106)前掲(13)。
(107)前掲(104)。
(108)Terry Bennett, “Old Japan”, Catalogue 34, Old Japan, Surrey, England,           2007.
(109)前掲(108)。
(110)前掲(14)。
(111)前掲(79)。
(112)H. von Claudia Gabriele Philipp ed., “Felice Beato in Japan: Photographien           zum Ende der Feudalzeit 1863-1873”, Edition Braus, Munchen, 1991。
(113)長崎大学附属図書館編、「長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集 長崎・      熊本・鹿児島」、長崎文献社、2007。
(114)馬場章編、「上野彦馬歴史写真集成」、渡辺出版、2006。
(115)井桜直美、「明治の古写真 スティルフリードが見た日本」、日本カメラ博物館、      2005。
(116)放送大学附属図書館所蔵コレクションから放送大学のホームページ、「日本の残 像 写真で見る幕末・明治」に取上げられた。 URLはhttp://lib.u-air.ac.jp/koshashin/koshashin.htmlである。
(117)前掲(7)。
(118)前掲(113)。
(119)高橋信一、「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究 第74号」、      民衆史研究会、2007。
(120)前掲(7)。
(121)前掲(13)。
(122)前掲(114)。
(123)前掲(14)。
(124)長崎市教育委員会編、「長崎古写真集 居留地篇」、長崎市教育委員会、1995。
(125)斎藤多喜夫、「幕末明治 横浜写真館物語」、吉川弘文館、2004。
(126)前掲(10)。
(127)前掲(101)。
(128)Terry Bennett, “Photography in Japan 1853-1912”, Tuttle Publishing, Singapore, 2006。
(129)Terry Bennett, ”Early Japanese Images”, Charles E. Tuttle Company, Rutland, Vermont & Tokyo, Japan, 1996。
(130)前掲(15)。
(131)前掲(124)。
(132)小沢健志編、「幕末:写真の時代」、筑摩書房, 1994。
(133)前掲(124)。
(134)レイニア H.ヘスリンク、「ヒュースケン暗殺事件」(「東京大学史料編纂所研究 紀要」)、1996。
(135)前掲(13)。
(136)宮永孝、「開国の使者-ハリスとヒュースケン-」、雄松堂出版、1986。
(137)前掲(128)。
(138)吉満庄司、「岩下方平関係資料目録」(「黎明館調査研究報告」第19集)、鹿児島 県歴史資料センター黎明館、2006。
(139)前掲(12)。
(140)萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄2 薩英戦争」、朝日新聞社、 1998。 
(141)前掲(49)。
(142)前掲(76)。
(143)前掲(8)。
(144)横浜開港資料館編、「よこはま人物伝:歴史を彩った50人」、神奈川新聞社、1995。
(145)前掲(125)。
(146)前掲(140)。
(147)前掲(64)。
(148)The Illustrated London News, 1842-1880, Reprint Ed., Kashiwashobo Pub. Co., 1997.
(149)T.ハリス、坂田精一訳、「ハリス日本滞在記」、岩波書店、1954。
(150)前掲(136)。
(151)前掲(9)。
(152)荒木康彦、「近代日独交渉史研究序説 最初のドイツ大学日本人学生馬島済治と カール・レーマン」、雄松堂出版、2003。
(153)前掲(9)。
(154)前掲(14)。
(155)鈴木八郎・小沢健志・八幡政男・上野一郎監修、「写真の開祖 上野彦馬 写真 に見る幕末・明治」、産業能率短期大学出版部、1975。
(156)前掲(7)。
(157)前掲(104)。
(158)前掲(9)。
(159)石黒敬章、斎藤多喜夫、青木祐介、松信裕、「古写真でみる文明開化期の横浜・ 東京」(「有鄰」第479号)、有隣堂、2007。
(160)J.ムースハルト、「オランダにある初期の日本写真」(「江戸時代の日本とオラン ダ」日蘭交流400年記念シンポジウム報告集②、洋学史学会、2001。

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2008年2月18日 (月)

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について

フルベッキ写真の一環として、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生から、「下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について」についての掲載の許可を先月の1月25日にいただいておりましたが、パソコンの不調でアップが大変遅くなり申し訳ありません。急ぎpdfにまとめたものをアップさせていただきましたので、一人でも大勢の方々に目にしていただければ幸いです。よろしくお願い致します。

「080125.pdf」をダウンロード

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2007年8月23日 (木)

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真に関して新たな発見があったということで全く新しい考察論文が届きました。ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

 「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。

 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。

 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。

 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。

(平成19年8月22日)

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2007年8月 4日 (土)

上野彦馬の写真館と写場の変遷

 慶応大学の高橋信一准教授から「上野彦馬の写真館と写場の変遷」と題する論文が届きましたので、本ブログ上で以下に一般公開致します。

上野彦馬の写真館と写場の変遷

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

「フルベッキ写真」が幕末・維新の英傑が多数写っていると喧伝され、それが多数の支持を得ていることの原因は、歴史のロマンの対象になりやすい素材であることと相俟って、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の巻末で上野一郎氏によって解明された撮影場所と時期についての結論の一般大衆への流布と理解が不十分であることも挙げられる。上野一郎氏は幕末維新当時の長崎に到来し写真を撮った志士たちの事蹟や彦馬の家族の生没年、写場の構造や写し込まれた小道具といった手懸かりを駆使して写場と小道具の変遷を解明した。細部には昭和50年当時、十分な情報がなかったことに起因する間違いも見受けられるが、概ね正しく、根本的な誤謬は認められない。「フルベッキ写真」の撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置された石畳、戸板、出入り口、敷物の模様などによって特定出来る。この写場にはロクロ細工の欄干飾りを施した置物が全体に渡って置かれていることが、同じ写場で撮影された別の写真から知られている。「フルベッキ写真」では集合者が写場いっぱいに広がっているため、置物は隠されてしまっている。それまで使われていたのは横幅が半分以下で、慶應元年3月ごろ伊藤博文と高杉晋作(伊藤博文公伝)が従者と撮った写真や、福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影された佐賀藩士たち9名の写真が撮影された狭い写場である。こちらの写場で使われていた小道具も上野一郎氏によって明らかになっている。

ここでは、上野一郎氏の研究結果を参考にするとともに、その後の知見を交えて、彦馬の写場の変遷を明らかにする。先ず、上野撮影局開設以前に、長崎は中島川(銭屋川)の辺、その後に新大工町と呼ばれる町外れに彦馬の父、俊之丞が天保年間に開いた硝石精錬所があった。この場所の家屋の配置は俊之丞自筆の絵巻「長崎製硝図絵」(化学古典叢書:紀伊国屋書店)に見ることが出来る。その敷地内の建物の名残は、ライデン大学が所蔵するベアトらによる長崎などの写真を集めた「写真集 甦る幕末」中のNo.120の写真にも残っており、敷地の東南の角の建屋が完全に同じである。また、慶應年間には中島川沿いの境界が石を積み重ねたなまこ塀となるところは、それまで生垣があったことが分かる。この場所は盛り土がされており、中島川の氾濫に対処する堤防になっていたようである。東側は木の板塀が家屋と家屋の間に作られ、北東側に出入り口があったことが分かる。中庭で鶏やひよこと遊ぶ子供たちの一人は彦馬かもしれない。No.120の写真は慶應元年から2年にかけての冬場に撮影されたことが、阿弥陀橋近くに立つ反り屋根の小屋と並屋根の水車小屋の存在、彦馬邸の前の川縁には、まだ石灯篭がないことから分かる。慶應2年に初代の石灯篭が出来るが、慶應3年ごろに水車小屋とともに洪水で流され、石灯籠は2代目が置かれた。それ以前の様子を知ることが出来るのは同じ「写真集 甦る幕末」中のNo.118にあるベアトによって慶應元年6月ごろ撮影された川中に牛が立っている写真である。これには、東南角から川沿いの建屋となまこ塀、彦馬邸の玄関の様子がよく写っている。中島川を中心とした彦馬邸周辺を写した写真は多数残っており、彦馬邸並びに写場の変遷解明の貴重な資料である。

上野撮影局が開設されたころの写場は、邸内の空き地に青天井の下で設営されていて、江崎べっ甲店が所有する上野写真館のアルバム「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(尼崎総合文化センター)に多数見られる。このアルバムには慶應2年ごろまでの写真が貼られており、「フルベッキ写真」に使われた広い写場の痕跡はない。「写真集 甦る幕末」中のNo.122には中島川を挟んだ伊良林の奥、若宮神社辺りからの眺望が写っている。この写真は慶應3年ごろのものと思われ、東南角から2棟目の建屋は壊されて空き地が出来ている。さらに彦馬邸の景観が変わるのは、恐らく慶應3年から慶應4年に掛けて行われた大規模な改築によるが、改築中の写真は、今のところ見出されていない。唯一変化を証明出来る写真が「Felice Beato in Japan」に掲載されている。これは1991年にヨーロッパで開催されたベアトが日本で撮影したと考えられる写真の巡回展示に使われたものであるが、全てがベアトの撮影という訳ではない。その中に、明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中の写真が4枚含まれており、その一つが、彦馬邸を含む長崎市内を風頭山から一望するパノラマ写真で、明治5年秋の撮影である。これは「東京国立博物館所蔵 幕末明治期古写真資料目録3」にも「長崎全景」として掲載されている。これを最大限に拡大すると、既になまこ塀は白壁の塀に変わっており、東南角の建屋も形を変えている。内部には川縁と東側の塀近くに大きな空き地が2箇所あることが分かる。「写真集 甦る幕末」のNo.130にある長崎のパノラマ写真は片淵の長崎監獄が写り、明治20年以降に撮影されたものであるが、それと比較すると後者には川縁の塀際の空き地には、「ビードロの家」と言われる素となった2階建てが見え、東側の空き地には「大工小屋」と言われる小さい建屋が完成している。

ここで、2箇所の空き地のどちらを広い写場に比定するかを考えるために、「フルベッキ写真」と「長崎全景」の拡大写真を見比べてみる。「フルベッキ写真」では3方が高い壁に取り囲まれており、2方には可動式と思われる格子状の大きな板戸が嵌められている。このような状況に当て嵌まるのは、東側の空き地ではないかと思われる。永見徳太郎は昭和9年1月「アサヒカメラ」や「カメラ」、「長崎談叢」などで「白壁の塀際に幕を垂れ、ロクロ細工の欄干飾りを置いて、その前で青天井で撮影した」と言っている。彼は、広い写場の時代には生まれていなかったので、伝聞に過ぎないが、証言は矛盾しない。この写場で撮影された写真で、時期が特定出来るものは慶應4年以降にしかない。慶應4年2月ごろに沢宣嘉が長崎鎮撫総督として来た際に撮った写真(「長崎図説」)、4月ごろに松方正義が日田県知事を拝命した際に撮った写真(「松田正義」)、彦馬の家族を撮影した写真(「写真の開祖 上野彦馬」)などである。明治2年以降になれば、明治7年まで時期を確定出来るものが多数ある。フルベッキが写っている写真としては、明治2年2月ごろ、長崎奉行所管轄の済美館の後継、広運館の教員らと撮影されたもの(「日本のフルベッキ」原本)があり、致遠館の「フルベッキ写真」と対をなしている。こちらには集合者たちの背後に欄干飾りの置物がはっきり写っている。続いて、明治2年6月に山県有朋や西郷従道らが洋行前に撮った写真(「決定版 昭和史1」)がある。11月に彦馬が家族や弟幸馬と写真(「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.25)を撮っている。さらに、明治3年4月26日に毛利元徳ら一行が木戸孝允と撮った写真(「写真の開祖 上野彦馬」)があり、これは「木戸孝允日記」に記載されている。

さらに、撮影日が判明した写真として、大正11年2月に大隈重信が亡くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出たが、その口絵に掲載された「大隈夫妻を囲んだ外国人たち」の写真を挙げることが出来る。この写真は明治5年10月29日に灯台及び電信視察のため大隈等が巡視船テーボル号で大阪・神戸・長崎に向け出航した「灯台巡回」の際に撮られたものである。乗り込んだのは大隈重信、山尾庸三、佐野常民、石丸安世の他に杉浦譲、石井忠亮、佐藤興三、フレッシャー、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。これらのことは、「図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」、「灯台巡回日誌(大隈文書)」、さらに「杉浦譲全集 第5巻」の「燈台電信巡視日記」で知れる。また、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」には大隈と山尾が夫人同伴で行ったと書かれている。つまり、大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎に滞在していたのだ。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事なし」と書いてあり、巡視船への石炭積み込みのため仕事は休みとなったので、上野写真館に行って写真を撮った。「サトウの日記」には、その日の夕方に明治天皇がこの年の6月に巡幸の途中で泊まった料亭で会食したと書かれている。と云うわけで、この写真は明治5年11月14日に上野彦馬の写場で撮影されたものである。この写真では明治4年の後半に手前にあった石畳を剥ぎ取った跡が写っている。

その他に、明治3年と4年にフランス語教師のレオン・ジュリーが広運館生徒らと集合写真を撮っており、「日本の開国」に載っている。このように、「フルベッキ写真」の広い写場は紛れもなく、上野彦馬の写場であり、慶應3年の後半から慶應4年にかけて作られたことが分かるが、その場所には「大工小屋」が建てられて消滅し、名残を後年に留めることはなかった。広い写場で撮影された写真で最も新しいものは、「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.20に紹介されており、台紙の裏の記述から明治7年9月である。この頃までは青天井の広い写場が使われていたと結論出来る。その後、明治6年ごろ邸内の北東の端に屋根にガラスを張った写場が出来、屋内での撮影に移っていった。2階建ての写場の完成は明治14、5年とされているが、これも確定的なことは分かっていない。撮影日のはっきりした写真の発見が望まれる。最後に明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中のパノラマ写真「長崎全景」の一部を東京国立博物館所蔵の写真より複写拡大してお目にかける。右隅の家屋が彦馬邸の東南の角に当たる。広い写場を置く余地は、この角の棟の西側か北側の白壁の塀際のどちらかである。西側の塀際は「長崎製硝図絵」の通り、盛り土の堤防があったとすると写場を作るのは無理だったと思われる。以上から、広い写場には東側の塀際の空き地が使われたと結論する。     

(平成19年8月3日)

* 以下の写真をクリックしてください
Part_of_nagasakis_panorama_photo__2 Part of Nagasaki’s panorama Photo by Ueno Hikoma
Image:TNM Image Archives, Source:http://TnmArchives.jp
提供:東京国立博物館

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2007年6月28日 (木)

フルベッキ写真検証 落合莞爾

070629newleader 経営誌『NEW LEADER』7月号に「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」という記事が載っています。この記事は落合莞爾氏の筆による連載物であり、同氏は『平成日本の幕末現象』(東興書院)や在米の国際ジャーナリスト藤原肇氏との共著『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)などを著しており、私は両書から色々な意味で啓発されたものです。そして、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」という落合氏のシリーズ物も、近代日本の裏の歴史を知る上で大変興味深い内容だと今まで読んできたのでした。しかし、今週届いた経営誌『NEW LEADER』7月号に目を通し、落合氏がフルベッキ写真を取り上げているのに気づき興味津々で読み進めてみたものの、同じ落合氏の筆によるものとは思えないほどお粗末な内容であったので落胆した次第です。その落合氏が記事の中でフルベッキ写真について言及している箇所を最後に転載しておきますので、読者にはじっくり目を通してもらうとして、落合氏の記事の何処が出鱈目なのか以下に列記しておきましょう。ちなみに、灰色の囲みは落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」から、茶色の囲みは慶應義塾大学准教授の高橋信一氏の論文やメールからです。

1.撮影場所

撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

以下の論文を落合氏は見落としているのが一目瞭然です。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

2.子供

次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

私は高橋先生とのメールのやり取りで、以下のような情報を頂いています。加治氏だけではなく、落合氏の意見も是非聞かせて欲しいところです。

所謂一般市民に、この写真を知らしめたのは石黒敬七さんで、島田氏よりはるかに早い、昭和32年の「写された幕末」で、娘と書いています。その写真が石黒敬章さんの「明治の若き群像」に転載されました。彼は、想像でキャプションを書いたはずですが、感性は正しかったと思います。また、村瀬寿代先生がブログの掲載の前から、娘だと私に言われていました。服飾の歴史の専門家に聞いて子供が着ているのは、女の子のドレスだそうです。

2007年5月27日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

3.大室寅之佑

さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

まさか、大室寅之佑(明治天皇)が写っているといった出鱈目を落合氏が信じているのでなければいいのですが…、万一そうだとすれば、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」の信憑性を根本から見直す必要が出てきそうです。

4.伊藤博文

私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

この下りを読んだ瞬間、自分の心の中では雲の上的存在であった落合莞爾像はガラガラと崩れ落ちました。同記事に目を通した高橋先生も呆れたようで、落合氏の記事についてサムライが何か書くことがあれば、以下のメッセージも載せて欲しいという依頼がありましたので、一部を割愛の上、転載させていただきます。

落合莞爾氏は佐賀藩士を平凡な人生と言ってますが、「フルベッキ写真」に写る彼らの半分は当時としては破格の海外留学経験をし、それを活かして明治の世の中を作っていった人たちです。それらの価値を掘り起こすのが、平凡な作家の使命のはずです。西郷や伊藤などだけが歴史を作ったのではないことを伝えてください。

2007年6月28日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

落合氏は高橋先生の以下の論文に未だ目を通していないようなので、ここは是非一読を勧める次第です。目を通した後でも落合氏の目が覚めないようであれば、「駿馬も老いては駄馬に劣る」という諺を落合氏に贈る他はなさそうです。

「フルベッキ写真」に関する調査結果
小説「幕末維新の暗号」の検討結果

「フルベッキ写真」検証
行方不明の坂本龍馬は…

 吉井友実が宣教師フルベッキに親炙したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい数力月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面化する兆しが生じた。

 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。折しも慶応二年一月には薩長秘密同盟が締結され、翌年には薩土秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。

 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

 吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラバーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。

 一八六四(元治元)年二月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、八月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、十一月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を立つ。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(二〇八頁)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年四月五日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。

 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。

 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くが、グラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。

 結局、明治維新の真相の一班にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。

『NEW LEADER』7月号

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2007年6月 7日 (木)

閉鎖された加治将一氏のブログ

過日、「『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント」というテーマの記事を投稿し、加治将一氏本人のブログから以下を引用したのを覚えておられると思います。

『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

ところが、その後上記のかじまさ.netが閉鎖されているというメールが道友から届きました。あれだけの“名文”が読めなくなるということは大変惜しいことなので、以下に加治氏本人が自著『幕末維新の暗号』について述べていた箇所を再録しておきましょう。後は読者の判断にお任せします。

『幕末維新の暗号』あとがき

 Kaji

『幕末維新の暗号』を出してから、有形無形の圧力を受けている。脅しさえも。
 日本には『幕末維新の暗号』という、一介のフィクション小説の出版さえ、許さない得体の知れない勢力がいる。

 言論弾圧、出版妨害。

 あるものは政府機関を名乗り、あるものは弁護士を名乗り、あるものは教育者を名乗り、あるものは学者を名乗り、いややはりその中には、まったく名乗らない闇の勢力もいる。  妨害には、さまざまな方法がある。 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

 『幕末維新の暗号』は、盗作で読む価値なしだという言いがかりもよく使われる。

 『幕末維新の暗号』は、駄作だと中傷する古典的な方法がある。
 いずれも、知識遺産を知りたいと思う情熱を抹殺する恥ずべき人間のやることだが、そうはいっても確信犯的な連中には通用するわけはないのだが・・・

 出版社や新聞社に、『幕末維新の暗号』の書評を載せるなと、圧力をかける方法もある。
 そして直接版元に、本の抹殺を狙って難癖をつける方法もとられるが、現代において、もやはそれは成功しないはずだ。
 情報が公開され、一定程度の言論の自由という意識が浸透している時代になってきているからだ。

 さらにまた、作家やその周辺を震えるほどに脅す方法がある。オーソドックスだが、効果的だ。


 正直、身の危険を感じている。
 しかし加治は、屈服する年齢ではない。
 もう充分、好きなように生きてきたし、この世に未練はあまりない。この先、長く生きてもせいぜいあと20年だろうか。それが仮に数年短くなったとしても、冷静に受け止められると思っている。
 正直に生きるためなら、あえて危険な領域に踏み込むことはいとわない。
 とは言え、セキュリティのために公表していた顔写真を引っ込め、暮らしを移させてもらった。これはすべきことだと思う。 


 過去における真実とはなにか?
 個人が決めることじゃない。多くの人が、さまざまなことを知り、考えることに参加すれば、より真実に近づけるはずだと信じている。
 それにはまず、知ること。
 加治は『幕末維新の暗号』という小説で、世に問題を提起した。この本は長い取材と調査。そして多くの人の協力があっての賜物だった。

 もう一度、見つめようではないか?
 考えようではないか? 
 我々、日本という国を・・・
 我々には、それが可能なはずである。

 『幕末維新の暗号』は、発売わずか3週間で、4度も刷り増しするという栄誉にあずかった。
 購入し、読んでいただいたみなさんには、深い感謝と尊敬の念を抱かざるをえず、さらにより多くの人が、『幕末維新の暗号』を自分なりに見つめていただきたい気持ちでいっぱいでだ。
 そこになにかを見出し、気付いていだだければ、作家としては本望なのだ。



 応援歌がたくさん聞こえる。 すべての人に、感謝と愛情をこめて・・・

加治将一
by kaji-masa | 2007-05-18 07:01

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2007年6月 3日 (日)

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶應義塾大学准教授 高橋信一

明治元年10月、岩倉具視の息子具定・具経兄弟が長崎の佐賀藩藩校致遠館に国内留学した際、フルベッキや致遠館関係者と撮影された集合写真、「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の中で初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されており、素性は明らかである。その後の偽説に利用された軌跡を辿ってみることにする。

先ず、明治33年米国で出版されたW.E.Guriffisの「Verbeck of Japan」では写真は掲載されていず、説明のみ書かれている。それには岩倉兄弟の他大隈重信と柳屋謙太郎が写るとしているが、後者二人については疑問がある。グリフィスが米国で指導した日下部太郎や横井兄弟の言及はない。私が先に説明したように、大隈はこの本を読んでいた。次に、明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」に掲載された。それ以前の存在については後で記す。写っている人物として、岩倉具定、石橋重朝、丹羽龍之介、中島永元、江副廉蔵、中野健明、香月経五郎、山中一郎、大庭権之助が挙げられており、江藤新平や大隈重信はいない。居もしない他の人物を当て嵌める以前に、先ず、これらの人物を同定する必要がある。昭和6年に出版された「明治百話」には晩年(明治31年死去)のフルベッキが篠田鉱造のインタビューに答えて、この致遠館の「フルベッキ写真」と長崎奉行所の学校済美館の後継広運館の関係者と写した集合写真を示しながら、上野彦馬が撮影したことなど、当時を気さくに語っている。秘密の写真ではなかった。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で、明治22年に暗殺された森有礼が残したアルバム中の名刺判が「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。この写真は平成18年に出版された石黒敬章「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にも載っている。明治の中ごろまでに、この写真の名刺判の複製が一般に流布していた証拠である。ここまでは、「フルベッキ写真」は特別な意味合いのあるものではなかったのである。

これに根拠もない汚名を着せたのは、自称肖像画家の島田隆資である。昭和47年5月10日の読売新聞に「オイどんの写真じゃと・・・」と題して「フルベッキ写真に西郷隆盛が写っている」と発表した。さらに、昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表し、撮影時期と20数名の人物の比定を行った。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の評価は未だ全くなされていない。そのことによって、いろいろな憶測が次々に加わっていった。島田氏はその後31人まで江副廉蔵が手に入れて家に残した名刺判からの複製である「フルベッキ写真」のコピーに名前を書き込んだ。それがいろいろな方面に流布し、波紋を広げた。尚、この論文と前後して昭和50年に出版された「写真の開祖 上野彦馬」の中で、上野一郎が上野彦馬の写場の変遷を多数の写真から推定し、「フルベッキ写真」を撮影した写場が明治以降のものであることを立証した。これを覆す証拠は未だ見つかっていない。上野氏は平成9年安田克廣編「幕末維新 写真が語る」の中でも繰り返し、慶応年間説を否定している。以降、昭和49年の「勝海舟」始め小沢健志氏の各種の著作には「フルベッキ写真」は「長崎の致遠館生徒らの集合写真」として取り上げられて来た。そのような写真界の常識に反抗するように偽説は燻り続けるのである。

昭和55年に秋田角館の青柳家から、この島田氏の書き込みが入った写真が発見され、昭和55年8月19日の佐賀新聞に当時の佐賀大学教授(現佐賀城本丸歴史館長)杉谷昭氏が記事を寄せ、島田論文を既に擁護している。この角館のものと同様のものが、昭和60年5月28日、当時の自民党二階堂進副総裁から国会に持ち込まれて話題になり、東京新聞が特集記事を掲載し、島田氏の論拠は否定された。にも拘らず、平成7年12月号(高橋佐知)及び平成11年7月号(中津文彦)の「歴史読本」に見られるように、西郷隆盛と関連付けて、上野氏の論考を無視した偽説の展開が続いて来た。それに対して正当な歴史家の研究として、平成15年「日本のフルベッキ」を翻訳出版した村瀬寿代氏は、翻訳の過程で知った「フルベッキ写真」の問題を歴史学的に解明し、平成12年「桃山学院大学キリスト教論集第36号」で明治元年撮影を結論付けている。この内容を基礎にした論証は「日本のフルベッキ」の注釈に載っており、私の調査のベースになっている。また、平成15年8月に大阪市立大学名誉教授毛利敏彦氏が佐賀で講演し、慶應元年説を否定した。ここで、問題を複雑にしている明治天皇との関連を見ておきたいが、明治天皇(大室寅之祐)が写っているという話は、この時点まではどこからも出ていなかったのである。

大室寅之祐の子孫を自称する大室近祐が明治天皇すり替え説を唱えていたことは、その支持者である歴史家の鹿島昇の著作「日本王朝興亡史(平成元年)」や「裏切られた三人の天皇(平成9年)」で知られていた。しかし、これらの著作には「フルベッキ写真」への言及はまったくなかった。平成13年4月24日に鹿島氏が亡くなった後、共同研究者の松重揚江氏が「日本史のタブーに挑んだ男(平成15年)」の中で、始めて「フルベッキ写真に明治天皇(大室寅之祐)が写っている」と唱えた。一方、国際ジャーナリスト中丸薫氏は「真実のともし火を消してはならない(平成14年)」の中で、自分が明治天皇の子孫であるとの主張とともに、「平成13年4月14日に大阪でフルベッキの孫の知り合いの人物から額に入った「フルベッキ写真」をもらった」と言っている。「フルベッキ写真」には全員の名前が入っており、明治天皇が写っていると主張している。明治天皇説が捏造されたのは、平成13年ごろである可能性がある。誰が始めて全員の名前を入れたか未だに不明であり、偽説によって登場人物に多少の変動が見られる。

また、こうした偽説の流布が発展する契機になったものとして、平成9年岩波書店が発行した「日本の写真家シリーズ1」の「上野彦馬と幕末の写真家たち」に、これまでで最も高精細で完全なオリジナルに近い「フルベッキ写真」が掲載されたことが挙げられる。これは近年になってからパリで競売に掛ったものが日本に持ち込まれ、産業能率大学の購入所蔵となったものである。台紙にフランス語のキャプションが入っているが、業者が入れたもので、意味はない。以降、インターネットや土産物屋、各種出版物で見られるほとんどの「フルベッキ写真」はこれから無断・同意で盗用・引用されたものと考えられる。ちなみに私がブログで使用しているのは、このブログ上に野田氏が掲載しているもので、「上野彦馬と幕末の写真家たち」からスキャンした画像である。中丸氏が手に入れたものも、これに類するものだろう。しかし、中丸氏からの反論はない。

陶板額の流布はおそらく、平成13年ごろに佐賀の陶業者金龍窯が最初に発売した。前掲昭和55年の佐賀新聞の記事に触発されたそうで、島田氏の論文のコピーを付けていたが、名前は入っていなかった。佐賀を中心に山口、高知、京都などの行楽地の土産物屋の店先に並び、インターネットでオークションにもかかった。全員の名前を入れたものは同じく彩生陶器によって平成16年ごろに売り出され、この年の暮れから翌年にかけて、全国紙朝日、毎日、産経、日経、そして読売の旅行雑誌に広告が掲載された。これが全国の幕末史愛好家に与えたインパクトは大きかったと思われる。「フルベッキの子孫が日本に実在した」という虚偽とともに、歴史家が解明していないことをいいことに、世の中の受けだけを狙った一種の詐欺行為が堂々と行われた訳である。添付の冊子には、歴史的な解明は全くされていず、名前が入った人物の紹介文のみが載っている。慶應元年当時の年齢が全員入っており、佐賀の相当熟達した研究者が、背後で「フルベッキ写真」を利用して自己の勝手な主張を公にしようと諮ったものである。

昭和55年の佐賀新聞の記事を書いた杉谷氏は平成19年4月に郷土史機関紙「葉隠研究」に歴史小説を発表して、慶應元年明治天皇長崎到来説を唱えているが、内容には歴史的事実に反することが何箇所も見受けられ、元々無理な主張である。同様な偽説を信奉する諸説は、本来真摯に歴史を探求しているはずの歴史愛好家のグループからも出て来ており、一例は平成17年2月の長崎県有家町史談会の会報「獄南風土記」第12号であり、偽説を無批判に取り上げ、流布させようとしている。今回の加治将一「幕末維新の暗号」は、これまでの偽説をトレースしただけで、新たな推測はワンパターンの「フリーメーソン」に留まっている。同定も不完全で、このようなアジテーゼに感激する読者がいる日本の風土に大きな疑問を感じる。自由な発想だと擁護する向きも多いが、事実の記録を尊重して、ちゃんと考えた上での判断でなければならない。他人に流される国民性の問題である。「幕末維新の暗号」の欺瞞については、先のブログを参照されたい。今後も繰り返して「フルベッキ写真」は蒸し返されるかもしれないが、近年は古写真を重要な歴史を記録した史料として正規に認め、学問的に研究する気運が盛り上がりつつある。世界的にも日本の古写真は注目されており、このようないい加減な議論がまかり通るのは恥ずかしいことである。これを機会に、一般の歴史研究者が古写真を見つめるノウハウを勉強してほしいと節に願う。今回の内容に訂正・情報がありましたら、寄せていただくとありがたく思います。                           

(平成19年6月3日)

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2007年5月31日 (木)

『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント

過日、高橋信一先生の投稿『小説「幕末維新の暗号」の検討結果』 にコメントを寄せたエスなる人物が、実は真っ赤な偽物であることが判明しました。
エスなる人物の偽の投稿

上記のエスなる人物が、自分のホームページということで示していたリンク先のH様とは全くの別人であることは、ご本人であるH様から直接メールをいただいて判明した次第であり、H様の要請に従ってエスが勝手に使用したH様のリンクは削除させていただきました。H様、誠に申し訳ありませんでした。

ブログ【教育の原点を考える】では今回の事件を重く見て、今後本ブログの投稿に際して「スパム防止認証画像」を必ず表示させる仕組みに変更すると同時に、仮に投稿してもブログのオーナーである私が判断して掲載する否を決めることができるように、公開前に一時保留できる設定に変更しました。こうした一連の処置を講じたことにより、勝手に他人のURLやメールアドレスが使われるという事件が一件でも減少してくれることを祈ります。

なお、トラックバックについても最近は「セーラー服云々」といった下らないトラックバックが急増していることもあり、並行してトラックバック機能を閉鎖致しましたのでお知らせ致します。今後の皆様のご意見・ご感想は、コメントを利用していただけますようお願い致します。

さて、以下はエスの投稿です。

こんにちは。
エスと申します。

私は「明治維新の暗号」を読んで、また、別の感懐を持ちました。
確かにご批判のような事もあるのかと思いますが、加治氏と祥伝社がこれだけの事を書いて出版された勇気に感服いたしました。
明治天皇すり替えの噂はこれまですでに山ほどありました。
しかし、学者もマスコミも積極的にそれを検証しようとはしませんでした。理由は言わなくてもおわかりになるでしょう。
仮にも、日本がもし本当の民主主義国家を標榜したいのであれば、憲法で「国家の象徴」とまで謳われる天皇がまがい物か否かは検証する必要があるのではないでしょうか。改憲もすでに現実になろうとしています。
このせっかくの機会をとらえて、学会に呼びかけ、加治氏に対するご批判から天皇の真偽も含めてすべてを検証する委員会を立ち上げられてはいかがかと思います。
それが学者の務めではあるかと存じます。

いかにも、他人のホームページのURLを勝手に使用しても何とも思わない厚顔無恥なエスらしいコメントです。

ところで、エス氏のコメントを読みながら、加治氏が自身のブログに書いてあったことを思い出し、同時に『幕末維新の暗号』に加治氏本人が書いていた下りを思い出しました。

『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている」と見得を切った加治氏は、高橋先生の『小説「幕末維新の暗号」の検討結果』の何を検証し、何処が根拠の薄いものと考えたのか、そのあたりを明瞭に示して欲しいものです。それにしても、「そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話」と書くあたりは笑わせてくれます。加治氏本人が『幕末維新の暗号』に書いた以下の記述を一読ください。

「フルベッキ写真を、本にするんですか?」
「書こうと思っている。ただし純粋な創作より、本当であるという事実の方を上位に置いた小説だ。しかしその前に、一つ大きく躓いている。なんたることか肝心なところで、確証がつかめないんだな」

『幕末維新の暗号』P.444

一体、加治氏の本音は何処にあるのでしょうか。「小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話」なのでしょうか、それとも「ただし純粋な創作より、本当であるという事実の方を上位に置いた小説だ」なののでしょうか?

「言いがかりなら、やめていただきたい。それに僕は歴史学者じゃない。小説家だ。あくまでも面白く読ませることが主眼です。
「小説に逃げますか。うまい逃げ場だ。癪ですが、世間に対する影響力は学術本より小説の方がはるかにでかい。その分、責任重大でしょうが」
「読者だって馬鹿じゃありません。もし書いているものが嘘なら、すぐに見破るはずです。その時点で読者の心はさっと離れ、作家はすべてを失うことになります」

『幕末維新の暗号』P.97

もし書いているものが嘘なら、すぐに見破るはずです」という加治氏の言葉に全く同感です(笑)。

サムライ拝

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