2016年4月19日 (火)

『古写真研究こぼれ話 三』出版のお知らせ

16041907_2 高橋信一先生がフェイスブックに書き連ねた記事が、『古写真研究こぼれ話』、さらには『古写真研究こぼれ話 二』の形となって出版されていますが、この度、第三弾『古写真研究こぼれ話 三』が発行の運びとなりましたのでお知らせします。詳細は以下のPDFファイルを参照してください。
「book3.pdf」をダウンロード

この古写真研究こぼれ話シリーズ、今後も続いて欲しいところですが、どうやら今回の『古写真研究こぼれ話 三』が最後になるかもしれません。このあたりについて、上記のPDFファイルには書かれていないのですが、高橋先生から私信で最終弾になるかもしれないという理由を教えていただいており、またご本人からも承諾を得ているので、以下に簡単に背景を述べさせていただきます。

私は今年の2月に慶應義塾大学の文学部の3年生の図書館・情報学専攻への学士入学試験を受けて合格しました。5年前に慶應義塾大学を選択定年で退職した時に、東日本大震災の直前に今までのエレクトロニクスの専門とは異なる分野のことを勉強したいと思ってチャレンジしたのですが、受け入れてもらえませんでした。今回はそれのリベンジでした。

かつては慶應義塾大学の教壇に立っておられた身でありながら、今度は敢えて一書生として若い学生と肩を並べ、未知の分野を学ぶのだという行を読み、還暦を過ぎているというのに、衰えを知らぬ先生の向学心に頭が下がる思いをしたのでした。一方、学業に時間を取られるため、やむを得ず今までの活動を一時中止することになったようです。ともあれ、“最後になるかもしれない”と高橋先生は書いておられるものの、今後の成り行きによっては第四巻が出る可能性もゼロではないという点、少しは期待したいところです。

古写真の研究自体は、時間が許す範囲で続けますが、3月いっぱいでフェイスブックへの古写真の情報書き込みは一旦終了しました。ですから、将来第四巻を出せるようになるかは何とも言えません。3年後に考えます。

なお、以下は現在の高橋先生が過ごしておられるキャンパス生活の様子です。昨日京都に戻った上の息子も、京都の大学で歴史・古文書等を学んでおり、また高橋先生とも一度だけ顔を合わせていることから、将来どこかの学会で再会するかもしれませんね。

大学では「図書館・情報学」や「考古学」、「博物館学」などとともに「図書館の歴史」、「図書館の考古学」を勉強・研究します。元々小学生の頃から考古学の研究者になろうと思っていたので、55年振りに希望が叶いました。文字の発明・発達から書物を集積する図書館がどのようにして出来て、どのように発展して来たかを世界中の文明毎に比較・研究した成果を、古写真と同様本に書けるようになれればと思っています。

長い間フルベッキ写真でお世話になり、誠に有り難うございました。今後の高橋先生のご健闘を祈念しております。

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2015年6月 2日 (火)

『古写真研究こぼれ話 二』出版のお知らせ

Book2 昨年の9月、高橋信一先生がフェイスブックに書き連ねてこられた記事が1冊の本となって、『古写真研究こぼれ話』が刊行されましたが、この度、第二弾『古写真研究こぼれ話 二』が出版されることになりました。同書を希望される方は、有限会社渡辺出版にメールかファックスでお願いいたします。今月中旬に刊行され次第、渡辺出版より送付(郵便振替同封のうえで)されます。詳細は以下のファイルでご確認願います。

「book2.pdf」をダウンロード
なお、新刊本『古写真研究こぼれ話 二』の部数が限られていますので、早めにお申し込みください。

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2014年11月10日 (月)

西郷隆盛の新手の偽写真

久しぶりに高橋信一先生からメールが届き、急ぎ本文を読んでみたところ、今日発売された『週刊現代』に西郷隆盛の記事が載ったという知らせだった。早速、近所のコンビニに行って同誌を手に取り、帰宅して読み始めたのだが、あの「サンメディア」社が登場していたのには正直驚いた。この会社については、以下の拙記事で高橋先生の論文と併せて紹介したことがある。
スポーツ報知宛て公開状

ともあれ、『週刊現代』の西郷関係の記事に目を通したものの、内容的に腑に落ちない点が多かったのだが、そのあたりはメールに添付されていた高橋先生の論文を読み、漸く納得できた次第である。そこで、読者にも論文を公開するべきだと考え、高橋先生の承諾を得た上で一般公開することにした。

 

西郷隆盛の新手の偽写真

高橋信一

 本日11月10日付けの『週刊現代』に新手の「西郷隆盛」の偽写真が載っていました。先日、講談社の『週刊現代』編集部に呼ばれてこの写真を鑑定してくれと言われました。私が以前から持っていた写真を添付します。明治7年に陸軍省で撮影されたもので、後列左から、乃木希典、大山巌、西郷隆盛、山縣有朋、前列左から川村純義、勝安房、ジュリアス・ヘルム、西郷従道であると、記名されているそうです。ヘルムはドイツ人で明治2年に横浜にやって来て、日本で職を見つけ、商売を始めて成功し、子孫を残して大正11年に横浜で亡くなりました。彼の子孫が持っていた写真であることは分かっているのですが、他の人物、特に「西郷隆盛」の真偽を訊ねられました。しかし、記事の内容は既に決まっていたようです。

 

 西郷隆盛は明治天皇から写真を贈られ、自身の肖像写真を所望されたにも関わらず、献上しませんでした。「米欧回覧」中にイギリスで撮った写真を送って来られた隆盛は、大久保利通に「このようなみっともない真似はお止めなさい」と返信しました。家族も写真はないと言っています。存命中から偽写真が出回ったほどの隆盛には写真を拒否する何かがあったのだと思います。自殺未遂の経験が作用しているかもしれませんが、誰にも真相は分かりません。上野の「西郷さん」の銅像を見て、隆盛の妻が「内の人は、このような人ではありません」と言ったのは、顔の形のことでなく、余りに太った姿に対してであることは、他にも証言が残っています。誤った「西郷伝説」が多過ぎます。

 

私は「西郷隆盛」の写真は現存しないこと、これまで言われているものは全て偽写真であることを説明し、彼の人物的特徴を挙げて、この写真に写る人物ではないと申し上げました。縮れ毛であること、眉毛がかなり太いこと、団子目玉と言われた黒目勝ちな大きい目をしていること、お釈迦様のような耳朶の長い耳であることなどを。キヨソネが画いたチョーク画は肉親からもらった隆盛の顔のスケッチと大山巌と西郷従道の写真を基にしたものですが、耳の特徴は二人とは明らかに異なっており、これが真実に近い耳である点に注意すべきです。世の中では間違った解釈が広まっています。また、写真は存在しませんが、隆盛の肖像画はキヨソネのもの以外にも現存します。床次正精や肥後直熊ら隆盛と生前面識があった人たちが画いたものもちゃんと参考にすべきです。肖像画も本人の特徴を相当程度表していると思います。この写真の人物は明らかにこれらの条件に合致していないと申し上げましたが、記事にはまったく取り上げられていません。

 

 ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。軍服と勲章に関しては「軍装史研究家」の平山晋先生に伺うのが最も確かだとアドバイスしておきました。実は3年前に、私もこの写真を知人からもらって、平山先生に相談したことがありました。その時の写真を添付しました。今回編集部からももらってあります。平山先生からは、この軍服は明治8年制定のものであり、勲章の形から明治11年以降の写真だと言われました。西郷隆盛を破った西南戦争の勲功を表するために作られたものです。その勲章を「西郷隆盛」が着けているというのは、まさに滑稽です。当時勲章を授与された陸軍の人物は分かっていますので、人物特定は可能だと思います。私は、その一人が後で出て来ますが、後列左端の陸軍軍医「橋本綱常」ではないかと考えます。隆盛が勲章をもらった記録は何処にもありません。要するに、隆盛が写っている可能性はゼロであるということです。『週刊現代』は平山先生にコメントを依頼しておきながら、その内容をまったく無視した原稿を載せています。大変失礼な話です。締め切りに間に合わないなら、1週間ずらせば済むことです。隆盛は明治6年11月に「征韓論」に敗れて下野し、鹿児島に帰って以降死ぬまで東京には出て来ていません。『週刊現代』はその歴史の事実を覆そうとしています。

 

また、『海舟日記』を明治7年から13年まで調べましたが、陸軍省や陸軍関係者の集まる場、そしてヘルム氏との会合場所に勝海舟が出掛けて写真を撮った形跡はありません。このことについて、反証を挙げるべきだと思います。3年前は誰かが戯言を言っているだけだろうと思い、大して気にしていませんでしたが、今回はこの写真を商売に利用しようとする輩がいるようなので、上に挙げた沢山の矛盾を孕む新手の偽写真として私なりに検討してみました。

 

 先ず、明治7年でなく、これを明治11年以降の写真として名前を宛てられた人物の特徴を比較しました。全ての人物は『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』に載っていますので、それと比べました。蛇足ですが、勝海舟は大変写真好きでした。写真を撮りに行く度に日記に常に記録しています。『海舟日記』によると、明治13年8月16日に朝から(東京印刷局に)写真を撮りに行っています。8月24日に写真を持たせて宮内省へ遣わせています。それが、『「人物写真帖」』に使われました。宮内庁側にも記録が残っています。もし添付した写真のようなことが起こっていれば、海舟は必ず日記に書いたはずです。

 

では一人ずつ行きます。本当の「乃木希典」は眉毛が濃く、眼光鋭い眼をしています。当時から顎鬚を生やしていました。私は陸軍軍医の「橋本綱常」の方が似ていると思います。彼は明治10年に留学から帰国し、西南戦争に軍医として参加します。「大山巌」は髪型や耳の形が違い、髭はなく、もっと頬はふっくらしています。隆盛に似ていたはずです。「西郷隆盛」は先に挙げたように眉毛が太く目が大きくてふっくらした品のある顔です。髭は生やしていません。この人物は耳朶がありません。隆盛ではないです。「山縣有朋」は髪型が違います。顎鬚はなく、目がパッチリしているのが一番の特徴です。頬骨がもっと張っていました。「川村純義」はもっと額が広く、細面です。「勝安房」も髪型が違います。縮れ毛ではありません。頬がふっくらして下唇が厚いです。スーツ姿の「勝」は見たことがありません。「西郷従道」は顎鬚を生やしていたはずです。隆盛と同じく太い眉毛でした。この人物は顎が細過ぎます。かようにして、ヘルム以外の全員が本物とは似つかない顔をしています。「フルベッキ写真」に始まって、似ていなくても名指しされると信じてしまう風潮が広まっていると感じます。

 

 写真のスタジオは陸軍省内とされていますが、本当でしょうか。背景のカーテンのようなものには風景が画かれていて、写真館の書割りのように見えます。カーテンの左端から見えている腰板は、当時内田九一、清水東谷、塚本写真館などいろいろな写真館で使われていたものとよく似ています。陸軍省にある必然性が疑われます。写真館を識別するには、より鮮明なオリジナル画像が必要です。敷物については、まだ心当たりはありません。写真館での撮影の可能性は排除すべきではないと思います。

 

 次は偽説の発祥について考えます。私は真実であり得ないことには何らかのからくりがあると思っています。ジュリアス・ヘルムから4代目の子孫レスリー・ヘルムが昨年『Yokohama Yankee: My Family’s Five Generations in Japan』(国立国会図書館にあります)を出版しました。その本にこの写真が載っています。彼は父親ドナルド・ヘルムが残していたものの中からこの写真を見つけました。オリジナルからコピーした写真の裏面にタイプされた明治7年という年号と人物名を見て、著者は先祖が明治の日本の有名人と親交があったことにいたく感激して、ヘルム家一族5代の歴史を書く決心をしたそうです。名前を書き込んだのが誰かは不明です。著者の父親かもしれません。ジュリアス・ヘルム本人ならドイツ語で書かれたと考えられます。タイプライターがなければ、手書きのオリジナルがあるはずです。どの時点かに英語でタイプしたのが誰かを示す根拠になる資料は提示されていません。最も肝心な、なぜ明治7年なのかがこの本では説明されていません。ジュリアス・ヘルムの生い立ちに始まって、来日後の仕事の中で、明治4年半ばに和歌山へ行かされて軍事顧問になります。明治5年に横浜に帰り、妻になる女性小宮ヒロと巡り会って明治8年に結婚しますが、その間の明治7年中に陸軍の軍人たちとどのような付き合いがあったのか、名前が挙がっている人物との関係についても何も説明されていません。明治9年に彼は運送業を始め、それが成功したようです。以降この本は彼の後半生と家族の物語がずっと続きますが、写真に関する本からの手掛かりは以上です。要するに、肝心な点は皆目分かりません。不信感だけが残りました。

 

 講談社では、写真の来歴に関係する附属の説明書(ジュリアス・ヘルムの日記なら、なぜその内容が本に書かれていないのか。本を書く切っ掛けを作った最重要な写真のことなのにです)のドイツ語の原文とその英語訳・日本語訳の一部を見せられました。著者が自分の想像に基づいて書いたものなのかもしれません。ジュリアス・ヘルム自身が書き残した資料に基づくものなのか慎重に調べる必要があると思います。私が最も危惧しているのは、偽説のでっち上げのために捏造された可能性です。この写真のような陣容で、明治7年にこの写真が撮られることは今まで述べて来たことから考えてあり得ないからです。説明書に書かれている、明治5年に横浜に帰ってくる前に和歌山で西郷従道に会ったことについては、本の中に言及はありません。西郷従道が軍事訓練の参観に和歌山に行ったのは、明治3年秋であり、ジュリアス・ヘルムの和歌山到着の前年のことです。従道とヘルムの関係は不確かな情報により後付けされたものであり、私は事実無根だと思います。単なる妄想か、あるいは何かの勘違いで、実際は明治11年以降に撮られたのなら、割り振られた人物名を大幅に変更する再度の調査が必要になるはずです。

 

昔、島田隆質は雑誌『日本歴史』の論文の中で「フルベッキ写真」の偽説の信憑性を上げるために、写真を持っていた江副廉蔵の息子の嫁からの手紙を改竄しました。写ってもいない人物の名前を書き加えたのです。当時の歴史研究者たちは誰もそのことを指摘出来ませんでした。何が真実かは、徹底的に検討されるべきだと思います。この写真の大元の持主には、何故に明治7年の撮影と断定したのか、どうしてこれらの人物が集合したのか、きちんと納得の行く説明をする責任があります。マスコミにも面白半分な報道は人心を惑わすだけであることを自覚されるべきだと思います。今回の『週刊現代』の記事は貴重な写真を商業主義に利用する手助けをマスコミが率先して行ったケースとして、以前もっともらしい理由を付けて「フルベッキ写真」のカラー版を掲載した『スポーツ報知』に匹敵するものです。あの時も、私は事前にインタビューを受けました。掲載する記事の内容は既に決まっていたようです。マスコミとはウソを平気でつく人種のようです。

 

平成26年11月10日

 

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2014年9月24日 (水)

古写真研究こぼれ話

先日ご案内しましたとおり、高橋信一先生の新刊本『古写真研究こぼれ話』が発売され、なかなか好評のようです。そこで、高橋先生を囲んだ座談会が行われることになりました。以下に高橋先生からの案内状を公開いたしますので、この機会に是非ご参加ください。お待ちしております。

「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話」の出版(4)

高橋信一

 私の本は一応好評を得ているようで、ほっとしています。まだご購入されていない方への便宜になるかもしれないと思い、今度新選組研究の第一人者釣洋一先生の経営されている四谷三丁目のスナック「春廼舎」での「江戸史談会」で久し振りに講演をやらせていただきます。その際に、私の本の販売も併せて行います。「史談会」の会費は通常どおり、4000円ですが、本を買ってくださる方には、本代・消費税を含めて合計5000円とさせていただきます。本を用意する予定がありますので、当日購入を希望される方は、その旨予めコメントを入れてください。

第58回 江戸史談会

テーマ:明治5年西国巡幸における長崎パノラマ写真について(明治天皇の

西国巡幸に随行した写真師内田九一が撮影したと言われる長崎港を望むパノラマ写真は本当に当時の内田九一が撮影したのか、疑問点の追及の現状をお話します。私の本の主要なテーマの一つになっており、まだ最終結論に至っていません。私は、これは古写真研究の一つの練習問題だと思っております。いろいろな視点からの事実の解明の過程を知っていただきます)

日 時:平成26年10月18日(土)午後4時~6時

場 所:四谷三丁目スナック「春廼舎」、場所・連絡先は以下のホームページでご確認ください。

http://www.geocities.jp/haruno_ya/edoshidankai.html

会 費:4000円(講演後の懇親会費を含む:本も買われる方は合計5000円で結構です。本だけ欲しい方は書店でのご購入をお願いします)

よろしくお集まりください。

平成26年9月23日

 

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2014年9月 1日 (月)

『古写真研究こぼれ話』出版のお知らせ

このたび、高橋信一先生がフェイスブックに書き連ねてこられた、一連の記事が本となって出版されることになりました。同書を希望される方は、有限会社渡辺出版にメールかファックスでお願いいたします。。9月中旬に刊行され次第、渡辺出版より送付(郵便振替同封のうえで)されます。詳細は以下のファイルでご確認願います。

なお、新刊本『古写真研究こぼれ話』の部数が限られていますので、早めにお申し込みください。

「newbook.JPG」をダウンロード

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2014年4月 8日 (火)

斎藤充功さんの『消された「西郷隆盛」の謎』

『消された「西郷隆盛」の謎』に目を通したという高橋信一先生から論文が届いたので、転載の了解を得た上で以下に公開する。大勢の人たちに一読して戴ければ幸いである。

斎藤充功さんの『消された「西郷隆盛」の謎』

高橋信一

 斎藤充功さんが「西郷隆盛」の写真に関する近刊『消された「西郷写真」の謎 写真がとらえた禁断の歴史』を出されました。斎藤さんは元々「西郷隆盛の写真は存在する説」で、私の「存在しない説」とはまったく相入れませんでした。私の『古写真研究こぼれ話』をお読みの方や「春廼舎」等での講演をお聞きの方は、そのことを理解されていると思います。「ないこと」を「あること」にするには、写真の捏造しかありません。「フルベッキ写真」の偽説の連中は、明治元年に撮影された写真を慶応元年だと言い張っていますが、そのようなものを新たに作ろうとしています。もし「西郷隆盛」の写真に関心があってこの本をお読みになられて、「存在しない説」を覆す有力な証拠だと納得させるものがありましたら、私に教えてください。でも古写真研究者として、決定的な欠陥は指摘しておかなければなりません。

 本の中に、明治の頃から昭和の時代まで繰り返して「西郷隆盛」が写っていると噂されて来た、「島津家の殿様たちの集合写真」が取り上げられています。この写真は古くから島津家の多くの近親者からの情報で、人物の解明はほぼ済んでいたはずでした。昭和12年5月号『明治大正史談』に俗説の間違いがきちんと説明されています。『大西郷 謎の顔』も参考になります。それを斎藤さんは蒸し返ししています。写真の右端に「大久保利通」が写っているという仮定を前提に、この写真が明治4年暮の大久保や岩倉具視の「米欧回覧」出発前に撮影されたとして論理を展開していますが、それは大きな間違いです。この写真は浅草の内田九一写真館で撮影されたものですが、平成24年7月3日のフェイスブックに書き、『古写真研究こぼれ話』の「捏造写真の系譜」にも掲載してあるとおり、スタジオの背景になる腰板と敷物の模様から、明治6年10月から明治8年までの間に撮影されたことが分かっています。これ以前でも以後でもありません。斎藤さんの本では、故意か無作為か分かりませんが、敷物の部分がトリミングされています。他の本でもこの重要な情報が隠されていることが多いです。『英傑たちの肖像写真』でも敷物の模様は確認いただけます。『幕末明治の肖像写真』の明治7年10月8日撮影の記名がある「福沢諭吉ら慶應義塾社中集合」の写真と背景・敷物が同じです。明治4年暮れ当時の敷物とは明らかに違うのです。斎藤さんには私の『古写真研究こぼれ話』を差し上げてありますが、「内田九一写真館スタジオの変遷」についての研究が無視されたようで、大変残念です。

 斎藤さんは、「大久保利通」が髭を生やしていない時代の写真が欲しかったのだと思いますが、間違った選択です。それを前提にした以後の論理は当然破綻しています。間違った前提を基準にして間違った結論に導かれています。それに、橋本先生の鑑定が100%正しい根拠は存在しないと思います。髭のある人物の顔の髭の下を推測しようとすることはまったく非常識です。ここに「古写真による顔鑑定」の限界が露呈されています。「大久保利通」は昨年刊行の『大久保家秘蔵写真帖』で髭のある写真をたくさん見ることが出来ますが、それと比べてみれば違いは明らかです。「大久保利通」は「米欧回覧」以後、暗殺されるまでずっと髭を生やしていました。明治8年前後の髭のない「大久保利通」の写真など存在しません。それを鑑定書という権威付けで、「あること」にするのは、捏造そのものです。きちんと計測してみれば分かりますが、「島津家の殿様たちの集合写真」で名指しされた右端の人物より、「大久保利通」の唇から顎の先までの長さの方が相当大きいと思います。つまり「大久保利通」は顎の大きな人物でした。スーパーインボーズというような怪しげな手法を使うべきではなかったと考えます。

平成26年4月8日

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2013年5月26日 (日)

『古写真研究こぼれ話』

13052601_2 昨日(5月25日)、高橋(信一)先生の講演会に久しぶりに顔を出してきた。場所は東京は四谷三丁目にあるスナック、「春廼舎」(ハルノヤ)で、テーマは「捏造写真の系譜-坂本龍馬の妻お龍、唐人お吉、西郷隆盛の写真を検証する-」というものだった。このスナックで、不定期だが「江戸史談会」という集いが開かれており、過去に高橋先生から二回ほどお誘いを受けていたが、仕事の都合でなかなか実現しなかった。昨夜は三度目の正直ということで漸く参加できた次第である。高橋先生の貴重なお話の他、本邦における本物の古写真研究家の方々との名刺交換を行い、古写真分野の人脈を広げることができたのは収穫だった。帰り際、高橋先生の貴重な私家版『古写真研究こぼれ話』を謹呈していただいた。400ページを超える、浩瀚なる古写真研究書であり、今後の貴重な古写真史料となりそうだ。

昨日お会いした古写真研究家の一人、森重和雄氏のブログに古写真研究家を紹介した記事がある。
いつも不思議に思うこと

その中に、昨日お会いした数名の古写真研究家のお名前があった。

最初に、古写真全般の専門家である石黒敬章先生。『英傑たちの肖像写真』で森重氏とともに編集協力をされている。

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それから、下岡蓮杖および横浜写真が専門の斎藤多喜夫先生。 『幕末明治 横浜写真館物語』等を執筆されている。

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また、昨日は席が隣同士だった、小川一真が専門の国立民族学博物館の添野勉先生。昨夕は席が隣同士ということもあり、千里の国立民族学博物館を巡って話が弾んだ。

さらに、『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック』の斎藤充功氏も顔を出しておられたので、名刺交換を頂戴してきた。ミリオン出版から出るであろう、明治天皇シリーズの第二弾が楽しみである。

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その他、旧河内国丹南藩の家老の曾孫という杉浦さん、奥会津の出身で「奥会津戦国風土記」というブログを開設している、宮下さん等とも話を交わした。

最後に、以下は当日配布された高橋先生の挨拶文である。

捏造写真の系譜

一坂本龍馬の妻お龍、唐人お吉、西郷隆盛の写真を検証する一

高橋信一 

キヨソネ作製したものも含めて西郷隆盛の肖像画は多数現存しています。私はその最大公約数としての隆盛の人物のイメージを持っていますが、今まで登場した偽写真で似たものは見たことがありません。偽写真から隆盛の肖像画は作れません。真影を残さなかった隆盛の真意についての逸話は数々あります。それでも人々の思い込みを反映して偽写真の捏造は彼の生前から繰り返して行われ、現代の「フルベッキ写真」に繋がっています。私はこの追究のために古写真の世界に入りました。文系でなく、理系の人間として古写真を見て来ました。

先ず・西郷隆盛がどのような人物だったのか、顔の特徴について従来言われていることを見直し、肖像画と偽写真を多数ご紹介しようと思いまず。私が集中的に研究して来ました「フルベッキ写真」に隆盛が写っているにしても、明治元年正月以降明治8年頃まで使われたスタジオで撮影されたもので、慶応元年には存在し得ない写真なのです。にも拘わらず、似た人物の当て嵌めに幻想されて思い込む人々が多く、騒ぎをドンドン大きくしています。この誤解を解きたいと思って研究をしています。

次に下田の唐人お吉についても本人でない写真が下田の記念館を中心にまことしやかな理由をつけて宣伝に利用されています。お吉の偽写真の撮影は明治10年頃、横浜の外人写真家、スチルフリードによって行われ、その後はいろいろな写真館から水彩で色付けされて、「横浜写真」のアルバムに明治30年代まで、利用されてきました。何種類もあるいろいろなポーズの写真を示して、彼女が当時の売れっ子モデルだったこと、イタリア系の混血だったという説もご紹介します。

最後に坂本龍馬の妻お龍の偽写真について、私の疑問点をご説明してみたいと思います。若い為写真が、もしも本物のお龍だったら、何歳の時の写真なのか、スタジオの背景から、撮影はいつ頃でなくてはならないかを撮影した写真家内田九一のスタジオの変遷から推測します。お龍はいつ東京に出てきたかは明確になっていませんが、現在ある資料と写真は符合するのかについて疑問点をお話します。偽写真と晩年の本物のお龍の写真との違いを指摘して、彼女の妹たちとの遺伝学的な比較研究の重要性を他の人物(松平春嶽の子供たちの兄弟姉妹、津田梅子、大隈綾子)を例にして強調したいと思います。

 歴史上のヒーロー、ヒロインには、それに相応しい写真が嘱望されて、その偽写真の捏造に繋がっているのかもしれませんが、古写真は真の歴史の資料としてもっと大事にして欲しいと思います。面白半分の勝手な当て嵌めは、過去に生きた人たちを冒涜するものだと思います。歴史に傾倒する方々には他人の言ったことを鵜呑みせず、古い文書文献を読み込むのと同じようにご自分の冷静な目を古写真にも向けていただきたいと思います。

平成25525日 江戸史談会

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2013年4月20日 (土)

古写真研究資料集「古写真研究こぼれ話」の無料頒布会のお知らせ

古写真研究資料集「古写真研究こぼれ話」の無料頒布会のお知らせ

高橋信一

 8年前から、仕事の合間に古写真に纏わる諸々について、コツコツ調べた結果を亀山信夫さんのブログ「舎人学校」や昨年からはフェイスブックからも情報発信して来ました。主たる研究の「フルベッキ写真」やそれに関連した上野彦馬の写真に関わることは各種講演・論文等でも発表しています。朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末-オランダ・ライデン大学所蔵写真-」の記述内容の見直しには非常に多くの時間とエネルギーを割き、その大方は先のブログに掲載してあります。そうした研究調査の過程で集めた古写真の画像データや関係する資料は膨大になっています。折角集めたものを自宅のコンピュータの中に埋もらせて置くのは勿体ないし、いつかは消えてなくなるので、印刷媒体として残そうと思い、今回私費出版ですが、「資料集」としてまとめることにしました。

 新撰組研究の第一人者釣洋一さんが経営する四谷三丁目のスナック春廼舎で行った過去6回の「江戸史談会」の講演の資料も改稿して集めてあります。データ集、あるいは研究ノートに近いので、「資料集」の前半に入れた昨年来フェイスブックに掲載していた70件程の原稿以外は、説明が不十分で読み物としては面白くないかもしれませんが、古写真に関心のある方に参考資料として、あるいは研究の取掛りとして利用いただけたら嬉しい限りです。国会図書館等の図書館や古写真に関連のある美術館・博物館等には寄贈する予定です。印刷残部は少ないですが、個人の方にもお分けしたいと思っております。

 そこで、来る5月25日(土)午後4時30分からの春廼舎での「第53回江戸史談会」の席上で無料頒布会を開きます。当日、通常の私の講演の後で「資料集」をお渡ししながら内容について若干のご説明もする予定です。「資料集」を酒の肴にして、古写真についていろいろな面から語り合いたいと思います。恒例のことですが、会の参加費として食事代4000円をいただきます。どなたでもお出でいただきたく、よろしくお願いしたします。

 

第53回 江戸史談会

「捏造写真の系譜-坂本龍馬の妻お龍、唐人お吉、西郷隆盛の写真を

検証する-」

平成25年5月25日(土)午後4時30分から

四谷三丁目 スナック 春廼舎(ハルノヤ) 03-3350-3732

http://www.geocities.jp/haruno_ya/edoshidankai.html

 

参加いただける方は予め、フェイスブックへの書き込みか、以下にメールをいただけると準備が楽になります。重ねてよろしくお願いします。

http://www.facebook.com/shinichi.takahashi.940

shin123◆jcom.home.ne.jp (※スパムメール防止のため、@を◆にしました。メールを送信する際は、◆を半角の@に入れ替えてください。

最後に「資料集」の目次を添付します。

 

目次

 

1. 古写真研究こぼれ話(フェイスブック掲載)

001. 私の情報発信

002. ロッキングチェアに座った勝海舟の写真

003. フジフィルム・ギャラーの写真

004. 唐人お吉の偽写真

005. 宣教師の娘について

006. 鼠島ピクニック写真

007. 中牟田倉之助と石丸安世の写真

008. 神奈川の成仏寺と本覚寺

009. お蝶とピート

010. 横浜写真

011. 坂本龍馬の妻お龍の写真と内田九一写真館スタジオの変遷

012. 薩摩藩士の集合写真

013. 上野彦馬の江戸行きについて

014. ボードイン兄弟の写真

015. フランソワ・ペルゴとアンベール

016. 佐賀藩士9人の集合写真

017. 戸塚文海とAFボードイン

018. 神戸競馬場のスタンド

019. アンベールの集合写真

020. ポルスブルックの肖像写真

021. ポンペの肖像写真

022. 大徳寺大集合写真

023. 松本良順の写真

024. 長崎奉行の写真

025. 中国服の女性

026. 小石川薬園送別会の写真

027. 通詞石橋兄弟の写真

028. 熊本城の写真

029. 夏休み宣言とボードイン

030. 欄干の置物

031. 妙行寺の写真

032. 上野彦馬の肖像写真

033. 尾張徳川四兄弟

034. ガワー再び

035. レンズが撮らえた幕末明治日本紀行(1)

036. 清水東谷のスタジオ

037. 発見された明治三陸津波の古写真

038. 勝海舟の明治4年の写真

039. 厚木宿

040. 明治4年の勝海舟

041. 岡田屋写真館について

042. 幕末明治の肖像写真(1)

043. 巡幸パノラマ写真(1)

044. ブレンワルドの日記

045. 巡幸パノラマ写真(2)

046. 日文研九一アルバム

047. 巡幸パノラマ写真(3)

048. 巡幸パノラマ写真(4)

049. 巡幸パノラマ写真(5)

050. 巡幸パノラマ写真(6)

051. 巡幸パノラマ写真(7)

052. 巡幸パノラマ写真(8)

053. レンズが撮らえた上野彦馬の世界

054. 巡幸パノラマ写真(9)

055. 巡幸パノラマ写真(10)

056. 九一の巡幸写真

057. 巡幸パノラマ写真(11)

058. 巡幸パノラマ写真(12)

059. 懺悔

060. 巡幸パノラマ写真(13)

061. フルベッキ群像写真

062. 斎藤月岑の日記

063. 宇和島報告(1)

064. 巡幸パノラマ写真(14)

065. 宇和島報告(2)

066. ビードロの家

067. 長崎為政写真館について

068. 巡幸パノラマ写真(15)

069. 巡幸パノラマ写真(16)

 

 

2. 講演資料など(洋学史研究会、江戸史談会他)

070. 書評「上野彦馬歴史写真集成」(「民衆史研究」)

071. 幕末・維新の集合写真01講演資料

072. 幕末維新の集合写真(1)講演

073. 幕末・維新の集合写真02講演資料

074. 幕末維新の集合写真(2)講演

075. お龍三姉妹(内田九一写真館スタジオの変遷)講演

076. 上野彦馬写真館スタジオの変遷講演

077. 捏造写真の系譜資料

078. 捏造写真の系譜講演

 

3. 「写真集 甦る幕末」の再評価

079. 「甦る幕末」再評価本文

080. 「甦る幕末」写真タイトル目録

081. ボードイン兄弟の年譜

082. 下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について

 

4. 「フルベッキ写真」の解明

083. 「フルベッキ写真」に関する調査結果

084. 明治元年のフルベッキ年譜

085. 慶応元年の偽フルベッキ年譜

086. 「フルベッキ写真」の真実講演

087. 「フルベッキ写真」の講演資料

088. 「フルベッキ写真」について(「日蘭学会通信」) 

089. 「幕末維新の暗号」粗探し 

090. 反証「日本の夜明け」

 

5. 各種博物館所蔵写真調査結果

091. 横浜開港資料館アルバム目録

092. 長崎大学古写真画像データベース目録

093. 国際日本文化研究センター画像データ目録

 

094. あとがき

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2012年10月24日 (水)

『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え”説のトリック』

B121024藤充功氏の『フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック』(ミリオン出版)が発売され、自宅に届いたと思ったら、間髪を容れずに高橋(信一)先生から書評が届いたので以下に公開する。過去において斎藤氏の記事に関する高橋先生のメールを戴いたり、斎藤氏のフルベッキ写真に関する記事を『怖い噂』などで読んでいたこともあり、殆どが既知の内容であったが、フルベッキ写真に写る“明治天皇”が本物で無いことが判明したことは大きい。なお、藤氏は後書きに「天皇の写真一枚にも近代史を揺るがす秘密が隠されているのかもしれない。次の取材テーマは“天皇写真の謎を追う”と決めている」と書いており、今から待ち遠しい。

『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え”説のトリック』について

高橋信一

 この本でノンフィクション作家の斎藤充功さんは、私が8年前から亀山信夫(サムライ)氏のブログ「舎人学校」を通じてやってきたことを追認して下さっています。一人でも多くそういう方が増えることを願います。「フルベッキ写真」の偽説の解明のために、いっしょに取材に付き合って下さいました同士なので、余りきついことは書けませんが、読んで下さる方々の理解の助けになるよう問題点の整理と疑問点を少し書かせてもらいます。

 嘘を正当化するために、沢山の嘘が生産され、それが意図してなのか、そうでないのか、絡み合っていく様子がよく分かりました。しかし、フィクションは火のない所に煙を立てる(創造する)のが本質であって、そもそもフィクションの裏付けを追究することに意味があるのか疑問にも思います。意味があるとすれば、フィクションを真実と言い募る輩の真の目的が何処にあるかを明らかにすることなんでしょうか。それでも、ノンフィクションに推測や推理を多用すれば、それは結局フィクションになってしまう危険性があることは十二分に認識しておく必要があると思います。

 いろいろな方面から検討されていますが、以前ブログの「フルベッキ写真 汚名の変遷」で取り上げました点に絞って、「フルベッキ写真」に「ニセの付加価値」が付けられた経緯をもう一度整理しておきたいと思います。

 昭和49年と51年に雑誌『日本歴史』に論文を出した島田隆資氏は数年後に亡くなりますが、それまでに同定者を33人までに増やしました。それを佐賀藩士江副廉蔵の子孫が所蔵するオリジナルからの再コピー写真を、さらに複写させてもらって人名を書き込んだものを各方面に配って回っていました。古写真研究の権威小沢健志氏の所にも出入りしていたようです。名前入りのコピーは昭和55年秋田は角館・青柳家の開かずの蔵や昭和60年の二階堂副総裁が国会に持ち込んだものとかを始めとして、全国各地で「発見」されています。全てベースは江副家の写真であることが確認出来ています。ここで注目しておくべきことは、昭和55年8月19日の『佐賀新聞』に当時の佐賀大学教授の杉谷昭氏が一文を寄稿して、島田論文を支持する発言をしていることです。第一線の佐賀学の研究者が偽説を支持したことが、その後に問題を拗らせる元凶になったと考えます。杉谷氏は近年になってもその姿勢を変えていないようです。

 平成10年9月1日の『体力健康新聞』に載ったのも同じ類のものです。それを見た松重正氏が『周南新報』(平成11年となっていますが、掲載日を明らかにしてほしい)に「大室寅之祐」を加えて掲載しました。「頭山満」は信憑性を上げるための方策に過ぎません。しかし、この時彼が同定した人物は現在我々が「岩倉具経」と認識している人物でした。これが、平成15年の『日本史のタブーに挑んだ男』で、現在の明治天皇に似た「不明の人物」に変更されています。この間に何があったのか? 誰が松重氏に入れ智恵したのかが問題です。

 平成13年に佐賀の「金龍窯」が人名無しの「フルベッキ写真」の陶板額を造り、島田論文のコピーを添えて売り出しました。論文は誰からもらったのか? ここから山口一派が動き出したのです。平成13年4月14日に長崎のミニコミ誌の社長柳原政史氏が、この陶板額と全員の人名を書き込んだ資料を中丸薫氏に贈ります。斎藤さんは山口貴生氏だとしていますが、「フルベッキの子孫の友人」は柳原氏だと思います。全員の人名の資料は誰がでっち上げたのでしょうか? 山口氏が作った陶板額とは人名に若干違いがあります。検討途上にあったということでしょうか。その中に「正岡隼人」という名前があります。ニセ情報には尾ひれが付き易く佐賀藩士の一人だと言った人がいますが、現在の佐賀県は全国一「正岡」姓の少ない県です。そこの出身の佐賀藩士なら簡単に判明するはずです。案の定、人名入り陶板額では外されました。私は全員の人名を捻り出した幕末・維新史に相当詳しい人物が遊び心で自分の変名を加えたのだと思います。中丸氏は自己の宣伝『真実のともし火を消してはならない』に、これらを利用しました。この時点で松重氏と繋がったのでしょうか。それが、平成15年の松重氏の本に反映されたと考えるべきでしょうか。

 また、中村保志孝氏をフルベッキの子孫として担ぎ出す画策は平成13年には完成していたことになります。それを謳い文句に人名入り「フルベッキ写真」の陶板額が同じく佐賀の山口氏の「彩生陶器」から平成16年に発売されます。なぜか「金龍窯」は使われませんでした。時間がかかったのも引っ掛かる点です。この時小冊子が付けられましたが、人物の経歴が書かれていただけです。陶板額には人名と同時に慶応元年当時の年齢が入っていました。その基礎資料程度のものだったと思いますが、全員の生年月日を調べるのは素人には出来ません。「慶応元年2月成立」の理由も書いてありませんでした。山口氏は平成21年に相当加筆した「日本の夜明け」を出版しますが、正常な歴史の事実を無視した間違いだらけの本であることは私がブログの「反証・山口貴生著『日本の夜明け』」で詳細に指摘しました。柳原氏の思索を無視した山口氏の単独行動だったようですね。以降、次々に販売される「変種」の「フルベッキ写真」は問題の本質に関係ないので、加治将一氏の著作も含めて無視していいと思います。

 その外で、気になった所をいくつか上げます。111ページに私の「舎人学校」掲載の文章を引用して下さっていますが、大事な所に誤植が散見されるのは残念です。122ページの写真の説明が「済美館の生徒たち」となっていますが、正しくは「明治2年2月撮影の明治政府の洋学校広運館の教員たち」の写真です。155ページに上野彦馬の開業が慶応3年から明治元年とあるのは、広いスタジオの完成時期との混同があります。正式な開業は文久2年秋とされています。また、156ページの坂本龍馬そして伊藤博文と高杉晋作の写真について、撮影時期は背景に置かれた小道具についての分析から、現在私はそれぞれ前者は慶応3年春、後者は慶応2年春と考えています。

 中村保志孝氏とお会いした際にご両親の写真を拝見し、複写も撮らせていただきました。フルベッキはフランス人系の顔立ちですが、ホーツワード氏はドイツ人系でまったくフルベッキの子供には見えませんでした。最後に「あとがき」に触れられていたことと関連しますが、『英傑たちの肖像写真』でも触れられていなかった明治天皇の死亡診断書や病歴、若い頃からの健康記録(身長・体重など)は現存するのでしょうか。その辺から調査を始めるべきかと思います。

 正直言って、今回の斎藤さんのレポートは未完成だと思います。問題点は以下の3点に集約されます。

1.松重一派と山口一派の間に繋がりがあったのか、なかったのか? あったとしたら、両者を結びつけたのは誰か? 次の2.との関連で平成11年から13年までのギャップを埋める必要があります。この間、何が行われたのか?

2.全員の人名を入れたのは誰か? 中丸氏の本にあった「正岡隼人」は現代に実在する人物の変名であり、全員の人名を入れた張本人だと考えます。

私は平成19年7月佐賀の地方史研究の雑誌『葉隠研究62号』にブログの内容を整理した「フルベッキ写真の解明」を掲載しました。それは、その前号『61号』に杉谷氏が小早川景澄の変名で「幕末・動座物語」というフィクションを載せ、その号を頼まれもしないのに私に送り付けて来たからです。内容には慶応元年2月に明治天皇の幼少時の祐宮の長崎動座(天皇の居所の移動)が起こったという、正に「フルベッキ写真」の偽説のシナリオが書かれていました。私は佐賀の人たちが大きな疑念を持つと感じたので、真相を知ってもらおうと原稿を書きました。杉谷氏とはかなり以前に会って、私のブログの原稿を渡し見解を伝えてありましたが、まったく聞く耳を持たず、新たな人物名を欄外に書き込んだ島田論文のコピーを送り付けて来たり、このような暴挙を平気でやって来ます。松重氏の「天皇すり替え」説に繋がるものと思います。

3.今回は上野彦馬のスタジオの変遷について、まったく裏付けを取ってもらえませんでした。この点は現状、私のブログの論考「上野彦馬の写真館と写場の変遷」を丹念に読んでいただくしかないと思います。加治将一氏の『西郷の貌』に載った薩摩藩士11人の集合写真の狭いスタジオと「フルベッキ写真」の広いスタジオが慶応元年当時、同時に存在したということはありえません。このことを理解するだけで、「フルベッキ写真」問題がフィクションであることの証明は必要かつ十分です。

 島田隆資氏は西郷隆盛への思いが高じて33人まで同定を進めましたが、「天皇すり替え」説のような不純なものはまったくなく、西郷の国家への気持ちを慮った純粋な気持ちで取り組んでいたと思います。しかし、全員の人名を入れた人物には腹黒い意図があったに違いありません。売名か、金儲けか、本当に「天皇制」を覆そうと思っていたのか、未だ掴みきれませんが、新しい「付加価値」を創造したことは認めねばなりません。有名人の写真を真面目に集めて来て集合写真の上に貼り付けるフェイクをやったのなら、アイデアとしては面白いと評価出来ますが、関係のない生写真にニセ情報を付加するという横着な行為は、その影響を考えれば犯罪と言っていいと思います。この「ニセの付加価値」を生んだ真犯人は、影でこの事態を楽しんでいるのでしょうね。鬼籍に入る前に、いい加減に自首して出て来てもらいたいものです。

平成24年10月23日

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2012年3月 8日 (木)

『西郷の貌』

B120308 高橋信一先生からメールが届き、加治将一氏が新著『西郷の貌』を祥伝社から出したという連絡を戴く。早速、小生も同書を斜め読みしてみたが、フルベッキ写真に明治天皇、岩倉具視親子、横井小楠らが写っていると相変わらず信じ込んでいることを知り、どうしようもない作家先生だと呆れる思いであった(『西郷の貌』p.76)。

また、同書に「天皇という虚構」(p.57)という一節もあるので目を通してみたが、一読して山崎行太郎氏の「マンガ右翼・小林よしのりへの退場勧告」に登場する、小林よしのり氏の天皇観を彷彿させるに十分だった。加治将一氏は1948年生まれ、小林よしのり氏は1953年生まれと、二人ともマルキシストの影響を強く受けた日教組の申し子だから、あのような天皇観を持つに至るのも無理もない。

ところで、加治氏は「万世一系は虚構である」と主張しているが(p.63)、このあたりは小生が喜んでセッティングするので、尊皇派の栗原茂氏と堂々と議論をして欲しいと切望する。それとも、『西郷の貌』はあくまでも小説だと逃げるのかな…(苦笑)しかし、掲示板でハンドル名をコロコロと変えるような連中と較べれば、まだ加治氏は潔いと思う。ハンドル名を変えても、分かる人には分かるものである。

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一人の人間がどんなに言葉を変えても独特の癖が出てしまうんです。人間一人の脳みそで何十人もの書き方は無理なんです。どうしてもパターン化します
http://maglog.jp/nabesho/Article1374632.html
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加治将一「西郷の貌」の問題点

高橋信一

 前作「幕末維新の暗号」の妄想を正当化したいと、いろいろな写真を漁っていることは理解出来るが、歴史の事実の検証能力の不足は解消していないと思われる。不足分を空想で補う手法は変わらない。それが作家の役割と言ってしまえば、その通りである。様々な歴史の周辺状況を書き込んでもっともらしさを演出しているが、ここでは写真関連についてのみ問題点を指摘することにする。
 70ページに掲載された写真は、元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。この「島津久治公一行」の写真は「フルベッキ写真」が撮影された明治元年より4年先立つ元治年間に作られた上野彦馬の初期のスタジオのひとつで撮影されたことを如実に表している。このスタジオは一部改造されながら使われ、慶應3年始めに坂本龍馬の有名な立ち姿の写真の撮影にも使用されたものである。本文の中で、作者は鹿児島の博物館の職員に「全員の名前は知られている」と言わせているのに、事実を真面目に検証しないまま勝手な当て嵌めを行っている。使用した写真は解像度が悪く、オリジナルのものではないと思われる。オリジナルはイギリスの古写真研究家テリー・ベネット氏の「Early Japanese Images」に取り上げられている。
 島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。唯一、仁礼景範のみが当っていることには敬意を表したいが、他の既に知られた人名が間違いであると言える根拠を示すのが先決ではないか。解像度の悪い写真を用いたため、似てもいない右端の人物「床次正義」の顔を「フルベッキ写真」の「黒マント」の男と同一視している。ふたつの写真の撮影時期が近いというなら、両者は酷似していなければならない。「島津久治公一行」の写真に写っている「床次正義」の家紋は西郷家の「菊」ではない。
 東郷平八郎の伝記を確認したが長崎に留学した記録はない。彼が慶應元年に留学した証拠として長崎県立歴史文化博物館所蔵の松田雅典が伝えた「英学生入門点名簿」を上げているが、これは長崎奉行所管轄の「済美館」教師柴田昌吉が運営していた私塾の学生名簿であり、柴田が慶應3年4月に幕府に徴用されて江戸に出た後を継いだ兄の松田雅典が残したものであることは名簿中の記載から明らかである。「済美館入門学生」の名簿ではない。名簿には慶應元年9月に入門した人物として曽我祐準の名前があるが、「曽我祐準翁自叙伝」にある「この年5月に長崎に出て柴田塾に入門した」という記述と符合する。その他の同時期の柴田塾入門学生として、曽我が親しくした十時信人、関沢孝三郎、江口栄治郎、柘植善吾が符合する。その名簿に記載されている「東郷平八」が東郷平八郎であるかどうかは別にしても、この人物が入門したのは、名簿の記載状況から慶應元年でなく、慶應3年4月以降であると言える。「名簿」をしっかりと隅々まで読み直すべきである。
 その他の間違いは343ページの三条実美と岩倉具経が写る写真の解釈である。前作の発表の際にも私が「教育の原点を考える」ブログで指摘したことだが、無視している。こちらの写真は明治2年8月に来日したオーストリアの写真家ウィルヘルム・ブルガーが長崎の上野彦馬の「フルベッキ写真」のスタジオを借りて撮影したステレオ写真の片割れである。全体像を示せば、ステレオ写真のホルダー兼用の台紙にはブルガーの記名の印刷が見えていたはずだが、都合が悪いと見て掲載時にトリミングして隠してしまったのである。三条がこの時東京にいたのは自明である。
「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオは明治元年以降に本格的に使用されたものである。慶應元年前後には存在しなかったことは「島津久治公一行」の写真を例にして明白である。撮影時期を混乱させるのはいい加減にしてもらいたい。
(平成24年3月6日)

左の写真は『西郷の貌』(p.366)に載っているもの、高橋信一先生が訂正した写真は以下のpdfファイルで確認のこと。
13men 「saigo01.pdf」をダウンロード

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