2011年4月27日 (水)

昭和は遠くなりにけり

同志が心温まるビデオを作成したので、メッセージと共に以下に紹介いたします。

今や、「明治は遠くなりにけり」どころか、私達の生きた昭和という時代すら、過去の物語になりつつありました。しかし、今回の東日本大震災をきっかけに、私達祖先の遺風を見直そうとする機運が高まりつつあります。同志の運動は、そうした流れから生まれたものですが、同志の運動に賛同頂ける方はご一報ください。お待ちしております。

わが学び舎(廃校)永遠の校歌・新潟県 北条中央小学校

私が小学校3年生まで通った新潟県の農村(現柏崎市)の小学校は昭和43年に廃校となってしまいました。

当時唄っていた校歌のメロディは今も覚えているのですが歌詞は1/4位しか思い出せず長い間気になっていました。

先日、矢張りその後一家が村から引っ越して現在群馬県に住んでいる幼馴染みの二人を訪ねる機会が出来ましたので卒業アルバム(自分は既に転校したので写っていない)や廃校になった後でCD化されていた校歌の伴奏などを探し出してもらい、三人で懐かしい当時を思い出しながら校歌の合唱をして来ました。

何世代にも亘って歌い継がれてきた小学校の校歌というものはその土地の歴史・風土・人情・理想などの熱い想いが込められて歌い上げられており、(廃校になってしまった後も)私たちの胸に脈々と生き続けているものだとあらためて感じました。大変心が洗われた次第です。

全国各地の皆さんに思い思いの「廃校になった小学校の校歌」の動画を作って貰い、ネット上でシリーズ化されたものをリストアップするウィキペディアのようなホームページを作れないものか?などと考えています。

(別の世代の人が別の角度から同じ小学校の動画を作り、複数になっても構わないと思います。)

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2010年10月 3日 (日)

海外武者修行のすすめ

1ヶ月ほど前、「職人のすすめ」という記事をアップしましたが、これは『New Leader』誌9月号の「新卒採用も国際競争時代 見捨てられる? 日本人学生」という記事に、以下のような行を目にしたからでした。

産業能率大学が一〇年四月採用の一八~二六歳の新卒社員四〇〇人を対象に実施した「新入社員のグローバル意識調査」によると、半数近い四九・○%が「海外で働きたいと思わない」と回答したという。『New Leader』誌9月号

今回は、残り五一・〇%の人たち、すなわち海外で働くことを“苦”としない若者に向けた記事です。

B101003 秋分の日(9月23日)、弟が久しぶりに墓参りの帰りに拙宅に寄ったので、酒を酌み交わしながら色々と互いの近状報告をしました。話はさらに政治、経済、教育へと進み、その中で青山繁晴という名前が弟の口からついて出てきたのでした。迂闊にも小生は青山氏という人物について知らなかったので、弟が帰った後ネットで確認、国士であると直感したので同氏の本を取り寄せてみました。取り寄せたのは『王道の日本』(PHP)と『世界政府アメリカの嘘と正義』(飛鳥新社)の2冊であり、読み進めながら青山氏は筆者と同期であることを知り、さらに青山氏の祖国を思う熱い気持ちに触れて嬉しく思ったものでした。

 これまでの既得権益とは無縁で、おのれの利益もカネも栄誉も、そして命もいらずに日本を救うためにだけ立つ人材が、まもなく湧くだろう。『王道の日本』p.41

さらに、「青山繁晴.TV」に青山氏のビデオを幾本か見ましたが、これからの日本を背負う若者にとって優れたメッセージとなっているので、一度アクセスしてみることをお勧めします。たとえば、以下のビデオ…
地球規模で物事を見よ!大久保流経済観(1)~(4)

青山氏の対談相手のフォーバル会長・大久保秀夫氏の生き様に、前回の記事「職人のすすめ」に登場させた和菓子職人の安藤奈津の生き様が重なり、ここに古き良き日本人を見出せたようで嬉しく思った次第です。

B101002 青山氏の『王道の日本』では、ダライラマがチベット人の心の支えとなっていることや、中国がウイグル人に対して何をしたかを、ありのままに書いた青山氏の男気に感じるものがありました。また、テレビなどで青山氏が小沢一郎を徹底的に批判していることを知り、流石と思った次第です。ただ、北朝鮮については従来の「ならず者国家」という既成概念の枠を超えておらず、北朝鮮は残置国家であるという、もう一つの北朝鮮の裏の顔に気付いていないのは残念な気がしたものです。

最後に、青山氏と大久保氏の対談ビデオでノキアが話題に出てきますが、何故フィンランドという小さな国から、戦後の日本に彗星のごとく現れた本田やソニーを彷彿させるノキアが登場し、ウィンドウズOSに対抗する形でリナックスOSが登場したのか、調べてみるとなかなか興味深い事実が浮かび上がります。ここで支障のない範囲で書けば、過日の記事「近代日本史の舞台裏」でも取り上げた、「ワンワールド」と拮抗させるために登場したのが、ノキアとリナックスでした。

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2010年8月29日 (日)

職人のすすめ

『NEW LEADER』という経済誌を読んでいたところ、「新卒採用も国際競争時代 見捨てられる? 日本人学生」という題の記事が目に止まりました。本記事の最後に同記事を転載したので参照してもらうとして、同記事によれば「二〇一〇年四月の大学新卒者のうち、進学も就職もしなかった者が前年比二八・三%増の約八万七〇〇〇人」とのことです。たしかに周囲を見渡しても、従妹の娘で学芸員の資格を取得して大学を出たものの、雇ってくれる博物館はゼロだったとか、友人の娘さんで大学を卒業しても就職先が見つからず、現在は自宅で家事の手伝いをやっているといった具合で、拙宅の息子たちが就職先を探す数年先には、さらに厳しい状態になっていることを暗示しているかのような記事でした。

同記事は、昨今の日本の若者が“グローバル競争”に巻き込まれている事実を述べています。その場合、自らグローバル競争に参入し、世界中の若者たちと競い合う道も一つの選択肢でしょう。しかし、同記事にもあるように、「半数近い四九・○%が海外で働きたいと思わない」とアンケートに回答したとあります。なるほど、治安がよく、日本語が通じ、食べ物も美味しく、四季折々の母国に留まりたいのは本心だと思います。そうであれば公務員になるのも一つの手ですが、昨今にあっては公務員になるのも難関であり、現に公務員の実弟を見ても、将来的に必ずしもバラ色の道とは思えないのです。そこで、日本で仕事をしたい若者は、職人を目指すのも一つの道かもしれないと思った次第です。

B100825 職人とはどういう世界なのかを分かりやすく示してくれるものに、小学館の『ビッグオリジナル』誌に連載されている「あんどーなつ」というマンガがあり、直向きに和菓子の修行に打ち込む、安藤奈津という女の子を描いています。小生は翻訳業を生業とする職人ですが、同じ職人として若い奈津からだけでなく、奈津を囲む人たちからも色々と教わることが多いのです。
Andonatsu02

また、このマンガは職人としての心構えを説いているだけではなく、昨今には珍しい古き良き日本人を登場させているのも魅力的です。たとえば、以下のシーン…
Andonatsu00

これは奈津が初めて一人で創意工夫して拵えた、和菓子が完成した時のシーンです。周囲の協力があって初めて、自分の和菓子を完成できたことを感謝する奈津の姿に、昔の良き日本人を目のあたり見る思いでした。

古き良き日本人と言えば、以下のシーンも印象的です。これは奈津が働く和菓子屋の女将の兄が工芸和菓子を作っているのを見て、自分もやりたいと思った奈津ですが、どうしても親方の梅吉に面と向かって言えない…、そのあたりの奈津の奥ゆかしさを示すシーンです。このような若い日本人を殆ど目にすることが少なくなった今日この頃だけに、このシーンを見るたびに清々しい気分になります。
Andonatsu01

しかし、愚生が「あんどーなつ」というマンガが好きな本当の理由は、生きていれば再来年は成人式を迎えるはずだった我が娘を、奈津と重ね合わせて見ているからかもしれません。

新卒採用も国際競争時代 見捨てられる? 日本人学生

 

待ってもどうにもならない

 

再び氷河期が到来したといわれる新卒採用。文部科学省の「学校基本調査速報」によると、二〇一〇年四月の大学新卒者のうち、進学も就職もしなかった者が前年比二八・三%増の約八万七〇〇〇人に達し、新卒者全体に占める割合も同四・○ポイント増の一六・一%に上昇した。一方、就職率は同七・六ポイント減の六〇・八%に低下。実に四割近い大学新卒者が職を得られなかったことになる。この中には大学院などへの進学者もいるが、「院卒のほうが就職に有利なのは理系だけ。文系大学院進学者の多くは、学部卒で採用してもらえなかった就職浪人」(大学院修上課程在学者)という。

 

とはいえ「待てばなんとかなる」状態ではなさそうだ。都内私立大学の就職担当者は「以前の就職氷河期は業績悪化に伴う一時的な採用抑制だったが、今年は業績が回復しているにもかかわらず採用を絞っている企業が多い。これからは景気の動向に関係ない慢性的な就職氷河期になる」と危惧する。

 

ところが新卒採用に熱心な大手もある。対象は日本人ではなく、外国人留学生だ。「日本に留学した外国人留学生は日本語も堪能で、漢字の読み書きもできる。さらに母国語に加えて、英語も使いこなせる人材がほとんど。アジアからの留学生が多いので、成長市場であるアジアで活躍する即戦力として重視している」と、大手IT企業の人事担当者は打ち明ける。

 

こうした外国人留学生重視の背景には、企業のグローバル化と日本人学生の国内志向というミスマッチが影響している。「海外勤務がイヤだとか、短期間で帰国させろなどと上司に訴える若手社員が増えている」と、大手電機メーカ―の幹部は閉口する。高齢化と人口減で日本市場が縮小するのは避けられない。これから日本企業が生き残るにはグローバル化しかないが、若い日本人の意識が追いついていない。

 

一生離れたくない!

 

前出の私大就職担当者も「最近の学生からは『一生、東京を離れなくてよい会社はないか』とか、『故郷の優良企業には転勤がある。転勤のない会社は中小ばかり。なんとかならないか』といった相談が多い。経済はグローバル化しているが、新卒者は反対に土着化の傾向が強まっている」と指摘する。

 

産業能率大学が一〇年四月採用の一八~二六歳の新卒社員四〇〇人を対象に実施した「新入社員のグローバル意識調査」によると、半数近い四九・○%が「海外で働きたいと思わない」と回答したという。〇一年の調査に比べると海外志向の弱い(国内志向)層は二〇ポイント以上も増えている。一方で海外志向の強い(海外志向)層も増えているが、国内志向層の急増に打ち消されている状態だ。

 

ならば海外志向の強い新卒者を選んで採用すればよさそうなものだが、「最近の学生は採用試験テクニックが向上し、受験時は『どこの国へも行きます』とアピールするが、採用されると『海外だけはイヤ』と平気で言う。採用されるためなら平気でうそをつく学生も増えており、はっきり言って信用できない」と、前出の電機メーカー幹部はこぼす。

 

かつて外国人留学生は、日本企業から「企業文化になじまない」「協調性に問題がある」と敬遠されてきた。が、外国人留学生を多数採用している電子部品メーカー経営者は「留学生の多くは優秀だが謙虚で協調性もあり、早く職場に溶け込んでスキルを磨こうと必死で頑張っている。中高年層から見れば、仕事もろくにできないくせに権利意識とプライドばかり高い今の日本人学生よりも、よほど日本人らしい」と太鼓判を押す。

 

経済のグローバル化が進み、日本企業も「別に日本人を優先的に採用する必要はない」(前出のIT企業人事担当者〕と気づき始めている。企業だけでなく、労働力も厳しいグローバル競争にさらされつつあるのだ。

 

NEW LEADER』2010.9


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2009年7月 3日 (金)

幾何学のすすめ

以下は、5年半前の2004年1月に国際契約関連の某コンサルティング会社のウェブに寄稿した、幾何学に関する原稿です。

 『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』(ダイヤモンド社刊 絶版)という名著を著した小室直樹博士が、世界を舞台に活躍する国際ビジネスマンにとって、数学が不可欠であると自著に書いているのを読者はご存じだろうか。例として、以下の『超常識の方法』(小室直樹著 祥伝社 絶版)のまえがきに目を通していただきたい。

 多民族の融合によって成る欧米社会にとって、民族的、個人的感情を超越した明確なる基準、つまり社会的規範の存在は不可欠であり、しかも、その成立過程に西洋近代精神も育成されたのである。では、その規範は何に準拠するのか。実は「数学の論理」こそ、その根底にあると言える。たとえば、欧米が契約社会であるはご存じのとおりだが、この「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また、「必要条件と十分条件」の基本がわかならければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」は理解しがたい。要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい。
小室直樹著『超常識の方法』P.3~4

 ここで、「契約の精神」という言葉が登場したので一言。国際契約コンサルティング会社であるIBDが発行する『海援隊』の読者は、国際契約に関わる仕事に従事されている方々が多いことだろう。契約書と言えば、拙稿「第三回・意味論のすすめ」でセマンティックスを意識して言葉をきちんと使うことが、国際契約書の作成において重要である旨筆者は書いたが、総合経営誌『ニューリーダー』1994年10月号に載った対談記事の中でも、小室博士がセマンティックスを無視した契約書を以下のようにバッサリと切り捨てている。

小室直樹:つまり、責任に対しての自覚もセマンティックスの意識もないのは言葉がきちんと使えないからであって、この点で日本は中国や欧米の支配層と全く違う。言葉がないことで典型的なのは、日本の契約書を見れば歴然としている。十数年前からアメリカとの障害が日常茶飯事になってから、契約書の形式も大分変わってきたとはいえ、昔の日本の契約書なんていうのは「もし争いが生じた場合には双方が誠意を持って談合する」なんてバカなことが書かれていた。
藤原肇:それに契約の概念だって無きに等しかったのは、数学がわからなかったからだと思う。数学つまり理の世界はレシオで比率が重要であり、契約とは比率の問題を明確にすることだから、責任の取り方の比例配分を決める。
小室直樹:契約の概念はないが約束という概念はあるというが、これはとんでもないことであり、セマンティックスのない約束なんてお笑いだ。欧米でもとくにアメリカにおける約束というのは、実に細かなところまで規定しており、契約書も大事なことは注にまた注をつけて、厳密で詳しければ詳しいほど良い約束である。日本での約束は「俺の目を見ろ、何も言うな」であり、言葉のない約束が最高のものということになる。この場合にはこうしてあの場合はこうしろと言っていたら、「俺のことを信用しないのか」と言って怒り出すんだから始末に困る(笑)。

出典:『ニューリーダー』1994年10月号-意味論音痴が日本を亡ぼす

 以上、小室博士が「数学は国際ビジネスマンに不可欠」と主張されている理由がよくおわかりいただけたと思う。国際ビジネスマンに不可欠な数学思考は興味の尽きないテーマではあるが、紙幅も限られていることもあり、急いで本稿の主テーマである幾何学に筆を進めよう。

最初に、数学の一分野である幾何学の英語は”geometry”だが、これは「土地測量」を意味するギリシア語の” geometria”から派生している。何故、幾何学の原義が「土地測量」なのか、ここで簡単に幾何学の歴史を振り返っておこう。

今から4000年前、チグリス・ユーフラテス河畔に古代バビロニア文明が発生。その遺跡から粘土板が発掘され、その粘土板に書かれていた楔型文字から、土地の測量などに必要な高等数学が発達していたことが明らかになった。それは古代エジプトでも同様であり、たとえばギザのピラミッドが高等数学を駆使して造られたのは周知の事実である。そうした古代の諸高等数学を『原論(Element)』という大著に集大成したのが、2500年ほど前のギリシアの数学者ユークリッドであった。ユークリッドの著した『原論』は、2000年以上の長きにわたって科学的思考の基底を成していた基本文献だったのであり、聖書に次いで多くの人びとに読まれた本でもあった。何故それだけ多くの人びとに読まれたのかと言えば、ユークリッド幾何学の持つ普遍性、すなわち国籍・人種・信仰・学歴・性別・年齢・身分の違いを超越した人類共通の「言葉」である数学が『原論』に書かれていたからであった。その後19世紀に入り、N・IロバチェフスキーやJ・ボイヤらによってユークリッド幾何学から一歩進んだ非ユークリッド幾何学が誕生している。

幾何学という言葉を目にして、プラトンが創設した学園「アカデメイア」の入り口に、「幾何学を知らざる者は、この門を入るべからず」と書いた額が飾ってあったという逸話を思い出した読者が多かったのではないだろうか。それにしても何故、かくもプラトンは幾何学を重要視していたのだろうか。実は、その答えを解く鍵がピタゴラスに隠されていた。

ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、紀元前570年ころにギリシア東南部のサモス島で生まれている。成長したピタゴラスはエジプトを訪れ、黄金比の中に宇宙の秩序が隠されているという古代エジプト人の秘密に触れ、彼らの秘密を自家薬籠中の物にした人物であった。そうした“エジプト派”のピタゴラスが創立したピタゴラス教団では、ペンタグラム(五芒星、pentagram))およびペンタゴン(五角形、pentagon)を同教団の符牒としていたのである。

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図1:ペンタゴンとペンタグラムがもたらす神秘的な2つの三角形
(ピュタゴラスの定理の原型と黄金の三角形)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.241

図1を見ていただきたい。上図のペンタゴンの中に、ピタゴラスの定理のモデルである底辺が三・高さが四・斜辺が五の直角三角形が描かれているのに、目を見張った読者が多かったのではないだろうか。さらに下図に目を移せば、ペンタゴンがペンタグラムの外縁であると共に内核を作っているのがお分かりいただけるはずだ。そのあたりに、ピタゴラス教団が五芒星の持つ神秘的な魔力を感じ、五芒星を守護用のシンボルにした理由があるのだろう。軍人たちも喜んで五芒星を魔除けに使ったようであり、その典型的な例がペンタゴンの形をしたアメリカの国防総省である。皮肉にも、9・11事件で一部を破壊されたが…。

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図2:ペンタグラムと黄金の三角形(H. Huntley原図)
(ΔABC:ΔABD:ΔDBC = Φ2:Φ:1)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.243

ペンタグラムは幾何学的に素晴らしい魅力を秘めており、図形全体が黄金比で満たされているのを示しているのが図2である。ちなみに、ペンタグラムの星を構成するトンガリ帽子の二等辺三角形が、黄金の三角形と呼ばれているものである。何故なら、斜辺を1と考えると底辺は0.618の長さになり、これをギリシア文字のファイの小文字φで表わせるからである。さらに、底辺を1だと考えると斜辺は1.618になり、これは大文字のファイでΦと表すわけだし、底辺の長さをΦと考えると斜辺の長さは2.618になり、1プラスΦか2プラスφになるのがお分かりいただけるだろうか。ともあれ、2枚の図から様々なインスピレーションが閃くかもしれないので、頭の体操のつもりで暫し眺めていただければと思う。

このように、黄金の三角形が秘めている神秘的な力に魅せられたが故に、エジプト人は黄金分割を秘伝中の秘伝扱いにしたのだろうし、それを受けついだピタゴラス教団の人びとも、秘伝を外部にもらさないように秘密結社の形で秘伝を大事に守ってきたのであり、その伝統が今日のフリーメーソンにも引き継がれているのだと筆者は思う。かように、数学や芸術哲学は無論のこと、鉱物学、金属学、医学、心理学など、幅広い知の全領域に思考が及ぶ百科全書派の人間だけが真に習得することの出来る、人類至高の智慧こそが黄金比に他ならないのである。ここに、古代エジプト人の「黄金比の中に宇宙の秩序が有る」という信仰にも似た確信に、筆者も同意する所以である。

アカデメイアの入り口に「何学を知らざる者は、この門を入るべからず」という額を飾ったプラトンは、神秘主義を貫き通したピタゴラス教団を深く研究し、ペンタグラムにまつわる黄金の三角形の秘密を掴んでいたであろうことは、最早疑う余地がない。

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2009年7月 2日 (木)

野ごころ

昨夕、学校(埼玉県の某私立高校)から戻った上の息子(高一)が、開口一番「このままでは学校の成績が下がって、特待生の資格を失うかもしれない…」と打ち明けてきました。その言葉を耳にして、この春先に藤原(肇)さんに会わせただけの甲斐があったと、親父として非常に嬉しく思ったことでした。

このあたりの背景を少し説明しておきましょう。現在息子が通っている高校は最寄りの駅から出ているスクールバスで30分ほどのところにある、自然に囲まれた隣の市にあります。この高校では2年ほど前から特待生制度を設けており、中学生だった去年の暮れに校長面談を受けた息子は、無事に特待生として合格しています。無論、学校側が特待生に期待していることは、名の通った大学に進学して貰うことで学校の実績とし、より多くの新入生を募るところにあり、所謂広告塔という役目を息子は仰せつかったことになります。当然ながら、二年半後の大学入試を突破するための暗記型の授業が中心となるのですが、これが息子には苦痛のようです。そのため、学校の授業の全部とは言わないまでも、暗記中心の授業やマルバツ式の問題集を解く訓練が中心の授業などに、息子は嫌気がさしているようであり、このまま行けばそうした科目の成績が落ちることは目に見えているのですが、親父としてはそれはそれで良いと思います。

寧ろ、そのような暗記型、マルバツ式問題集型の学習に精を出すよりは、和漢洋の古典の大海を泳ぎ、部活で身体を鍛え、リーダーシップを養い、宮崎県知事の東国原英夫や大阪府知事の橋下徹のような、四流五流以下の人物ではなく、藤原さんといった一流の人物に引き合わせていくことで人物を観る眼を養って貰い、大勢の学友と時には夜を徹して語り合うといった、充実した高校生活を送ることの方が遙かに大切です。そのため、特待生の資格を失うことがあったとしても、それはそれで仕方のないことであり、寧ろ春先に会った藤原さんからの話を真に理解してくれたことを親として喜ぶべきなのです。こうした真の学問については本ブログでも幾度か書いてきましたので、以下に数例を挙げておくことで繰り返しを避けたいと思います。関心のある方は一読ください。

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体
21世紀を生きる子どもたちへの最良の指南書
一流教授の下で学べ

なお、2時間にわたった藤原さんとの話の中で、息子は色々と本人なりに学んだようであり、その現れが文系から理工系の道を進む決心をしたという、息子からの後日の報告でした。また、藤原さんが息子に諭すように語っていた、「数学、特に幾何学に打ち込むと良い」というアドバイス、今後も時折思い出して欲しいものです。そこで、「幾何学のすすめ」と題して明日アップしようと思います。お楽しみに。

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『間脳幻想』に書いて戴いた息子へのメッセージ

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2007年6月13日 (水)

「この道」 小錦八十吉

東京新聞の夕刊に元大関小錦の手記が連載されていますが、特に今日の記事(第111回目)には心を打たれました。最近取り上げている在米の国際コメンテーター・藤原肇氏の「愛国心」に相通じるものがありそうです。

070613_konishiki ボクが来日したのは一九八二年だった。人と車の多さに目を丸くしたのを今でも覚えている。それから二十五年。日本はずいぶん変わったね。変わったというより、悪くなった。若者の乱れは深刻だ。とくに若い女性が心配だよ。だって、平気で売春するんだもの。それを日本の社会は深く追及しない。見て見ぬふりをする。

ハワイでは売春をやっているとすぐに捕まるから、簡単にはできない。性風俗の乱れに加えて、麻薬が簡単に手に入るのも社会のひずみにつながっている。六本木や渋谷の盛り場に出かけて、一万円も出せば麻薬が買えてしまう。これは恐ろしいことだよ。

この前、ハワイで一番偉い米連邦捜査局(FBI)の捜査官と学校をまわった。行く先々でビデオをまわした。子どもたちに麻薬を乱用すると死に至ると啓蒙してきた。子どもは社会の宝でしょ。その子どもたちにたやすく麻薬が手に入る社会なんてボクには考えられないよ。

早く手を打たないと、本当に怖い社会になっていく。実際、東京は国際的な犯罪都市になりつつある。金のためなら平気で人を殺す風潮がまん延しつつある。精神的に荒廃した子どもたちが、そのまま大人になったら…、と考えただけでも恐ろしくなる。

今の日本人には愛国心がなくなったね。愛国心といっても戦前の軍国主義につながる愛国心じゃない。日本の社会と人を思う心だ。本当に国を愛する気持ちがあれば、ボクが嘆く問題を少しでもよくしようとするはずじゃないか。

例えとして適当かどうかは分からないが、尖閣諸島・魚釣島問題で、エスカレートした一部の中国人活動家がかつて、魚釣島に上陸した。領土問題の是非はともかく、あれくらいの勢いがないと駄目だと思うね。

日本人に愛国心が出てくるのはスポーツのときだけでしょ。「ニッポン、チャチャチャ…」というときしか、愛国心を発揮できないのは寂しく、悲しいね。

社会を変えるにはまず家庭を大切にすることだ。誰もが家族を思う気持ちがあれば社会だって自然と変わっていく。

「この道」 元大関 小錦八十吉

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2007年5月22日 (火)

思考停止推し進める「改正」教育基本法

小学校の先生の筆による過日改正された教育基本法に関する意見が、5月21日付の東京新聞夕刊に載っていました。教育に関心のある方々に一読してもらいたく、以下に転載致します。


思考停止推し進める「改正」教育基本法

岡崎勝(おかざきまさる)
名古屋市立小学校教員
1952年生まれ。愛知教育大保健体育科卒。学校マガジン『おそい・はやい・ひくい・たかい』の編集人、自立独立組合「がっこうコミュニティユニオン・あいち」の執行委員などを務める。著書に『学校再発見! 子どもの生活の場をつくる」『がっこう百科』 (編著)など。

軽視される「議論をつくす」

教育基本法が「改正」されて半年がたつ。全国で学力テストが実施され、着々と教育が「改苗」されている。だが、「改革」は、現場を少しも良くしていないし、「改正」は、大きな問題を残していった。

新学期が始まった学校は、どこも「落ち着かない」ものだ。私の仕事をしている小学校でも、新しい担任や新しい教科書、新しい児童会活動や学級の係り活動など、教室が本格的に動き出すのに時間がかかる。

友だちと学校生活をうまくやっていくために、どんなふうに役割を分担するかを、子どもたちは学級会で話し合い、「決めごと」をつくる作業に取り組む。「先生が決めた方が早い」という子どもの声もときにあがる。だが自分たちの生活は自分たちで考え、試行錯誤しながらよりよいものを追求して欲しいと思う。子どもの動きが円滑になるまで、私たちは慎ましくアドバイスしながらじっと待つ。教員の「指導力」と「忍耐力」が試される時期である。

私は、昨年の教盲基本法「改正」の経過を思いだし、子どもたちの学級会に比べ、「なんと情けない、結局、でかい声が、勝っただけなんだ」という想いがわき上がってくる。私にとって「でかい声」は、桐喝的な力を誇示できるが、中身の論議を吹き飛ばしてしまうという意味である。

教育基本法も法律だから、手続きに則って改変する「可能性」は保障されていると思う。しかし、当然のことだが、民主主義は多数決「主義」の社会ではない。一番重要なのは「論議をつくす」ということなのだ。果たして今回の「改正」で論議が尽くされたのだろうか?

政府レベルの論議は、一番大事な時期に、不正タウンミーティング問題で終始し、総理は論議を尽くしたという。しかし、実質的には、与党によって強行採決されたとしか言いようがない。強行採決は「論議打ち切り」を前提としている。

政府、国会レベルだけでなく、もっと問題だと思うのは、学校現場や保護者市民のレベルでこの「基本法」が、十分に論議されていないことである。それは、「改正」したこと以上の問題があると思う。

私が改正に反対した理由の一つに、「現場の学校の現実は、教育基本法とは、程遠いものである」ことをあげた。子どもたちの自殺や子どもの虐待があいついで報道されたことによって、子育てや学校教育の現実が非常に厳しいことが分かってきたのだ。それなら、よけいに「個の尊重」という旧基本法の理念に立ち返るような論議や施策がなされなければならない。

学校の現場では、友だちの意見を十分にまず聞くこと、声に出して言えない子の気持ちを察することを教えてきたはずだ。それは、個人が大事にされない教室は教室全体が死んでしまうと思うからだ。個人の意見を聞くのは面倒くさいものだし、納得するにも時間がかかる。論議には、意地もいるし、我慢も必要になる。何より集中力が欠かせない。それを承知での民主主義なのだ。旧教育基本法は、それを念頭に置いて「個人の尊厳と自由」を重視した。

「先生、面倒だから、多数決にしてよ」「最初から負けることわかってんのにやだよ」「多数決にしていいかという姦決をしたらいいよ」といった仲問を大切にしようという論議から学ぶことは多い。

職員会でも意見を言わない教職員、意見を言わせない管理職、そんな大人社会こそ「面倒くさがりで、忍耐力がない」のではない.か。「改正」教育基本法とこれからつき合いながら、もう一度、教育の「基本」とは何かを足下から点検するしかない。「でかい声」でない、静かな「教養と知性、自由と個性」で、忍耐強く「改正」の改正を求めていきたい。

今、一番危険なことは、思考と試行を停止してしまうことだ。学校評価制度や学力テストをはじめ、子どもたちをとりまく世界では、今まで以上に、他者からの評価をすべてとし、評価で強迫される社会になろうとしている。

「国を愛すべき」という前に、「愛せる国」とはどんな国かを考える。そんな面倒なことから逃げないでいたい。「生きる力」と「忍耐力」が必要なのは、私たち大人なのだ。

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2007年5月21日 (月)

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体

M024 昨日(5月20日)は埼玉県飯能市で開催されたツーデーマーチの2日目であり、私も小学校6年生の息子のサッカーチームの父兄として18キロの山道コースに挑みました(左側の写真が完走の証です)。普段は自宅でパソコンに向かって翻訳の仕事をしている私にとって久し振りの運動であり、流石に疲れましたが心地よい疲れでした。今後も機会を見て山歩きなどで健康を維持していかねばと痛切に思った次第です。ところで、昨日はヤマモト・ジョージという俳優だか歌手だかが参加したというので、帰宅後インターネットで調べてみたら歌手の山本譲二でした。
第5回 新緑飯能ツーデーマーチ

この山本譲二に関して以下のような投稿が地元飯能市の掲示板にありました。

263 名前: まちこさん 投稿日: 2007/05/20(日) 20:44:39 ID:t/EUdtEA [ ntsitm221116.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp ]

ゲストのジョージ山本は5kmコースに参加。
5kmの出発式で一緒に歩きましょう!と言ってた割には
スタートしてスグの中山陸橋から車に乗っていた。そりゃないぜ。

山本譲二に関する投稿は上記の一件だけでしたので事の真偽のほどは私には分からないものの、もし、この話が本当であれば、山本譲二が車に乗り込むのを目撃した大人は兎も角、子供たちの目にどのように映ったのかと心配になった次第です。目を日本の芸能界に転じてみれば「やらせ」のやり放題という感じであり、そのあたりの実情は「きっこの日記」に目を通すとよいと思います。
テレビを信じるナンミョー予備軍たち

さて、全員の子供たちか完走した後、市役所でコーチの訓辞があった際、一人の子がサッカー部を退団するということで、その子からお別れの言葉がありました。聞く話では中学校受験のためとのことです。受験と言えば、私の上の息子は現在中学校二年生であり、最近行われた中間試験の数日前から相当悩んでいる様子が傍目から分かりました。彼は県内でも有数の県立の進学校(高校)を目指すため、私の知人の塾で頑張ってきた甲斐があって、学年で10番目程度に入りました。しかし、塾の先生は二学年が勝負だということで5番目以内に入るようにと厳しく指導しているようであり、そのあたりが息子に負担になったようです。そこで、試験の前日、私は以下のような言葉を息子に投げたのです。

受験のための丸暗記の勉強だけに没頭していては駄目だ。たとえば、「大化の改新は645年に起こり、中大兄皇子と藤原鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革」と教わっただけで、後は丸暗記するだけで終わりだろう。そんな無駄なことを記憶するのに精を出すより、今の中学生という時期は大勢の友達と付き合い、部活(サッカー)を楽しみ、学校で最も優れた図書館という先生のところに行って様々な本、殊に和漢洋の古典と言われている本を、内容は深く理解できなくても良いから、沢山読破して欲しいな。そうした体験を通じて、自分が一生を賭けたい分野を探し出すように努め、その分野で最高の先生がいる大学を目指せば良いではないか。東大だ京大だといったハコモノで大学を選ぶのは間違っている。日本では最高学府とされている東大にしても、世界レベルで見れば200番台目に辛うじて入る大学に過ぎない。実際に東大を出ているお父さんの叔父さんたちを見れば分かるだろう。ともあれ、世界を見渡せば一流の教授が集う大学が沢山ある。自分が一生を賭けたい分野を見つけ、その分野で最高とされる教授の所へ行くべきだな。

このように諭すように語り聞かせたところ、様子も大分落ち着いたようであり、高校受験という下らないプレッシャーから解放された様子が手に取るように分かり、親父としても安堵した次第です。それにしても、一流中学・高校・大学に進学すれば、卒業後は官公庁や一流企業に就職でき、生涯安定した生活ができると勘違いしている親が未だに多いのには驚かされます。そうした親に受験とは何かを考えてもらう意味で、私が管理しているホームページ【宇宙巡礼】から、受験に関連した言葉を最後に羅列しておきましょう。

 考え方を学ぶよりも結果を覚えこむという、後進国型の技術主義にガンジガラメになっていることが、自由な個人に育つべき若者たちの精神を窒息させているのだが、日本という枠組の中から見ている限り、突破口はおそらくみつからないだろう。閉された世界で絶対的な威力を持って君臨する価値観に対して叛逆するのは、なみ大低のことではないのだ。だが、その枠を乗りこえて一歩外の世界に踏み出したとたん、このロジカルな価値の基準はその意味を全く失ってしまうことが多い。そのいい例が受験地獄である。日本全体を狂気に追いやり、著者の青春を灰色に塗りこめている画一的な受験競争は、実体の核心に気づくやいなや、たちどころにその意味を失ってしまう。受験地獄の実体は大学に入れないことではなく、志望する有名校に入るのが難しいだけであり、狂躁曲に踊る姿が哀れだというだけにすぎないのだ。その有名校が自分の人生にとって、果してどれだけ本質的であり、生きざまの充実にどこまで意味を持つかを考えたことが無いか、あるいは、その無関係さに気づいていないだけのことである。

 そうであれば、有名校や大会社という評判は、世界のレベルでは単に日本国内というローカルな名声にすぎず、そこに気づくことで人生は一転してしまう。しかも、問題は所属する組織の名前や肩書きではない。世界に通用する普遍的な価値基準は、個人としての今のパーフォーマソスと将来に向けてのポテソシアルであり、すべてが人間としての生きざまと魅力にかかわっているのだ。その上、世界の次元では、まったく新しい文明時代が始まろうとしているのであり、新時代にふさわしい人材に成長することが、最優先の人生の課題になるのである。

だから僕は日本の若い人に、日本を脱藩する勇気を持ちなさいと呼びかけるのです。日本の大学受験熱にうかされたり、塾なんかに行ったところで、手に入れるものはタカが知れています。せいぜい有名商社や大銀行に入杜するくらいであり、そういうところの優れた人間は、現在ではいかにそこから脱出するかを悩んでいるのです。前田百万石の旗本になって二人扶になるか、一匹狼をしばらくやってみるかの選択が待ち構えているなら、僕は一人の自由人としての体験をもとに、一匹狼をやるようにと自信を持ってすすめたいと思いますね。

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体

動態幾何学(Curvilinear geometry)には厳めしい響きがあり、何かとてつもなく難しそうな感じで、これは頭が痛いと思う人がいるかもしれない。言葉の持つイメージは確かに難解に見えて、非常に大変だという印象を与えてしまうが、第一印象の強さに驚いてしまう必要はない。それは最近の中学生の数学に[集合]があるのを見て、何だかさっぱり分からない記号が多いが、自分が時代遅れになったのかと驚くのに似ている。新しい概念に初めて出会った場合には、常にそんな印象を持つのが人間であり、最初に外国語を習った日の当惑と同じである。

[This is a book.]という文章を黒板に書いた先生が、最初のジスは主語でコレという意味を持ち、次のイズは三人称のビー動詞だが、不完全自動詞だから補語のブックを持ち、これが単文という基本文型だと説明したら、誰だって目を白黒するに決まっている。

だが、アメリカやイギリスに行けば英語は共通語で、幼稚園児でも英語を喋っており、文法などを知らなくても不自由はしないし、慣れるだけで誰とでも意思疎通ができる。

数学も似たようなもので一種の言葉だから、慣れてしまえば無意識で言葉が使え、方程式は一七文字の俳句や五言絶句と同じで、考えを濃縮するルールの種に過ぎない。最初に俳句を作った時は難しく考えるが、言葉のリズムが分かれば簡単であり、季語の約束が面倒くさいと思えば、俳句にしないで川柳にしたらいい。

それと同じことで、方程式の代わりに図を描くのが幾何学で、三角形や円は子供の時から描いたはずだし、子供の学習はまず塗り絵から始まるのだから、図形で表現する幾何は川柳の身近さを持つ。それを難しいものと思い込んでいるのは、今の学校教育のやり方が悪いからであり、図形が表現するのは文字のない太古の昔から、人間にとって身近な思考の表現手段だった。歌えば楽しい音楽という表現の形式が、中学校の授業では短三度とかフーガだといって、知識として教えこもうとするために、音を楽しむ音楽が苦痛になることが多い。

それと同じで本来は楽しくて仕方がない図形発想が、入試のための幾何学の解法の複雑さのために、楽しみが苦痛になってしまっただけで、問題は日本の受験地獄の現状にあるのだ。

知識は力の源泉として必要なものだが、知識はそれ自体が静態的なもので、発想や判断という動態的なものに比べ、次元において遥かに劣っている。

ところが、日本の教育制度は知識に偏重し過ぎており、これは近代の始まりの頃には有効だったが、二一世紀には余り重要度がないものである。

しかも、これは知識の多さや記憶量で人間を計る、受験制度の悪い習慣が支配するためであり、一流校に入るために聳える受験地獄の関門が、どれだけ若者を苦しめていることだろうか。

このような知識万能が日本を支配したのは、技術至上主義の路線を適進するために、産業社会としての経済的な理由のせいである。大量生産の設備を能率的に動かす、巨大組織の部品(パーツ)として役立つ人間教育は、マニュアル(教科書)に忠実で知識の量を誇るから、人材が日本のような規格型にならざるを得ない。

こうしてパブロフの犬のように国民を育て、人間が規格品外にならないように、偏差値を使って選別しているのだし、荘園の領民に似た奴隷的な人間になる儀式が、受験地獄の隠れた正体(実態の意味の全体)に他ならない。

しかも、国内では最高と思われている東大が、米国の大学を除くと67番目に過ぎず、アメリカを含む全世界で200位以下なのに、国内に向けて輝いた虚像に幻惑され、青年たちは世界の三流校に憧れている。教育制度が経済的な理由に基づいて、人間疎外のシステムとして機能しているのなら、即刻この迷路から抜け出す必要がある。

日本の大学入試は教育制度ではなく、若い世代のエネルギーを無限に摩耗させ、ブラックホールに等しい存在として機能するなら、この虚妄の構造の放置は悲惨ではないだろうか。

『経世済民の新時代』(藤原肇著 東明社)p.58~60

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2006年12月20日 (水)

21世紀を生きる子どもたちへの最良の指南書

私が管理しているホームページ【宇宙巡礼】に、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」 という記事をアップしましたが、同記事は新世紀を生きる子どもたちにとって最良の指南書になり得ると思い、急遽本稿をアップする次第です。

私は息子たちと彼らの将来について語り合うことが多いのですが、下の子(小五)は昆虫博士を目指すと言って奥本大三郎氏が著した子ども向けの『ファーブル昆虫記(1)~(8)』(集英社)などに熱心に目を通したり、学校の後に近辺の野山で虫と接しているようです。一方、長男(中一)は実業家を目指すといって、『マクロメガ経済学の構造』(松崎弘文・藤原肇共著、東明社)に目を通したり、インターネットで株関連の情報を熱心に目にしたりしています。尤も、日本の株式といっても情で動いているようなもので、かつ今日に至っても相変わらずインサイダー取引が横行している世界であり、さらには野村證券に代表されるように個人投資家を大切にせずに機関投資家を優遇するという世界です。そうした背景を上の子に教えた上で、「日本の株式市場なんか相手にするのではなく、シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade)を相手にしてみたらどうだ」、とアドバイスしています。そうすれば英語の勉強になるだけでなく、世界規模での穀物の相場を追うことにより、真のインテリジェンスを身につけるための土台造りになると思うからです。

さて、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」 を子どもたちに目を通してもらい、(1)「これからの世界はどうなっていくのか」、(2)「どのような生き方を目指すべきか」、(3)「どのような職業に就くべきか」といった点について子どもたちなりに自分の頭で考えて答えを出すようにさせると良いと思います。「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」に書かれている内容は大人にも難しいと思いますが、頭脳の柔軟な中学生や高校生という年代に「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」のような頭の痛くなるような文章を読ませるべきであると私は思います。鉄は熱いうちに打てではありませんが、若いうちから古典や「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」のような内容の文章に親しむべきなのです。

最初に、「(1)これからの世界はどうなっていくのか」ですが、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」の冒頭にも書いてあるとおり、人類が過去に二度体験した大革命に匹敵する第三の大革命、すなわち情報革命の時代を現在の人類は迎えています。現在進行中の革命は、私たちのハード面の生活環境を一変してしまうだけではなく、今日の人類の持つ思考・行動様式というソフト面も劇的に変えてしまうはずです。ちなみに、私が属する翻訳業界は図1の真ん中の「2」(労働力から技術集約型への移行期の産業社会)に相当します。文学作品や論文といった分野の翻訳では今後も人間の頭脳による翻訳に頼る他はありませんが、その他一般の翻訳(特許申請、メーカーのカタログやマニュアルなど)はいずれ機械に置き換わるでしょう。換言すれば文学作品や論文の翻訳などは人間(M)が中心になって今後も行っていくと思いますが、その他の翻訳は殆ど機械(T)で間に合うはずであり、そうした方向に大方の翻訳会社はシフトしていくはずです。ただし、翻訳業界が(K)型の産業に移行することはないでしょう。何故なら、翻訳とは主に情報が未加工の状態であるインフォメーションを扱っているのに過ぎないからであり、情報の加工技術ともいえるインテリジェンスをさほど必要としない業界だからです。なお、ここで言うインフォメーションとインテリジェンスの違いは、かつて執筆していたメールマガジン【日本脱藩のすすめ】の第15号で述べてありますので、関心のある方は一読ください。

今後はどのような世界になるのかという、大雑把なイメージを子どもたちに掴んでもらったら、次に(2)「どのような生き方を目指すべきか」という点についてですが、これは反骨精神を持った人間に育てることが必要だと思います。換言すれば、自分の頭で考え行動できる人間に育てることを目指すべきなのです。そのためには、時の権力に対しても堂々と対峙するだけの気構えを持つことが必要となり、(たとえ会社という組織に属していたとしても)会社という組織に飼われた社畜の立場に甘んじるのではなく、たとえ会社を辞めても家族を路頭に迷わさないだけのモノを身につけておくことが必要です。

会社を飛び出しても食っていける職業としてコンサルタント、作家など色々とありますが、これからの社会で(3)「どのような職業に就くべきか」を考える場合、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」の以下の文章に注目すべきでしょう。

 21世紀の文明の決め手になるのは智慧であり、知識集約型社会の活力源が情報であるが故に、インテリジェンスに卓越した人材の育成と適材適所は、何にも増して優先で緊急の度合いがとても高い。

以上、中学生のうちからインテリジェンスを磨いていけるよう、子どもたちを仕向けていくことが大切です。

ここで教育の観点から離れて、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」の中心テーマであるメタサイエンスに目を向けておきましょう。最初に、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」を執筆した藤原さんが、世界で初めてメタサイエンスの入門書である『宇宙巡礼』という書籍を著している事実を指摘しておきたいと思います。また、英文のメタサイエンスに関する論文「Holocosmics」もあります。なお、これは『宇宙巡礼』には書かれていないことですが、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」の図7にある直角転移次元飛躍は重要です。「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」には、直角転移次元飛躍の重要性について以下のように書かれています。

多次元構造を自在に思考する頭脳の持ち主が、21世紀において惰報社会の主役を演じるのであり、次元の飛躍をする秘密の鍵はメビウスの輪にあって、これは一回の捻り(90度×2)を行うことに決め手がある。
……中略……
これまで解り難い抽象的な理論を展開して、ホロコスミックスや直角転移を論じた理由は、
21世紀に先駆的な仕事を実現するために、思考と発想の大変革が必要だからである…

上の子に「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」を数日前に渡しましたが、どのような質問が飛び出して来るか父として今から楽しみです。なお、息子に対しては、「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」には将来の進路を考える上で大変重要なことが書かれてあるとのみ伝えてあります。

※ 「21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦」をWordファイルにまとめてみました。ご活用ください。
21世紀の文明社会と新しいアジアの挑戦

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2006年11月29日 (水)

社会への恩返しのすすめ

皆様、大変ご無沙汰しております。本業(翻訳)が多忙であった上、実母の介護に追われていたため、本ブログの更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。

ところで、本ブログにはアクセス・カウンタ機能があるのを最近になって知りました。早速調べてみたところ、すでに2万アクセスもあったのには驚くと同時に、大変有り難く思った次第です。よって、以前のように毎日とはいきませんが、これからも折に触れて更新を続けていきたいと思いますので宜しくお願い致します。

さて、現在、二人の息子(中学校1年生・小学校5年生)が、地元飯能市の東飯能駅前にある学研CAIスクールに通っています。二人とも親が無理に行かせたわけではなく、自ら進んで塾に行きたいと言うので同スクールに通わせることにしたのであり、二人が同スクールに通い始めてから2年近くが経ちます。

同スクールでは毎年2回ほど、子供たちの学習状況などについて保護者を対象に個人面談を行っており、小生も先週の26日(日)の夕方にアポを取って同スクールに行き面談を受けてきました。その時、何処かの掲示板で同スクールが話題になったという話を息子たちがお世話になっている先生から聞いたので、帰宅後グーグルで調べたところ以下のようなやり取りを発見したのでした。

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256 名前: まちこさん 投稿日: 2006/04/05(水) 22:11:10 ID:K91C2OgA [ p5141-ipad37souka.saitama.ocn.ne.jp ]

新小5の親ですが、市内学習塾情報をお願いします!!
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260 名前: まちこさん 投稿日: 2006/04/06(木) 07:51:33 ID:fg/9MOPA [ FLH1Aen187.stm.mesh.ad.jp ]

>>256
東飯能駅前にある学研CAIスクールがお勧め。一人ずつパソコン使って
授業するんだけど、きちんとマンツーマンで教えてくれるので、基本的には
家庭教師と一緒。

多くの子供達の中で切磋琢磨しながら勉強するのが好きな子にはあんまり
向いていない。

うちは今年の春まで行かせていたけど(卒業したのでやめました)、とてもよい
先生達ですよ。ご夫婦で、とても丁寧に教えてくれますし、一人一人の子供を
よく見てくれます。
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264 名前: まちこさん 投稿日: 2006/04/06(木) 20:53:16 ID:Vf/eO2ac [ softbank219183192152.bbtec.net ]

>>260
東飯能駅前にある学研CAIスクールがお勧め。同感です。
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同スクールの先生には失礼ながら、学習塾であれば何処も同じようなものだと思っていたのですが、どうも塾によって差が出てくるようで、愚息の通っているスクールは評判の良いスクールであることを知り嬉しく思った次第です。

だが、それ以上に息子の先生の話から深く共鳴したのは、「私が学研CAIスクールを始めたのは、地元に何らかの形で貢献したいと思ったからでした。それがたまたま教育だったのです」という言葉でした。実は、この言葉の中に閉塞感に覆われた今日の日本を立て直すキーが隠されています。

国際政治コメンテーターの藤原肇氏が『マチュアライフ』に寄稿した記事があり、そこに答えが書いてありますので以下に転載しましょう。記事名もそのものズバリ「社会への恩返しのすすめ」というものです。

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社会への恩返しのすすめ

 失政で長びく不況と金詰まりのために、企業は人件費を削減しようと、早期退職者の募集や昇進停止などを始め、40代で転職の肩叩きをしている。その一方で、社会危機回避のため、年金受給年齢引き上げや定年延長が言われているが、退職金の年金への繰り入れの方が優先ではないか。日本人の平均余命が世界最長の水準に達し、出生率が大幅に低下して社会の老齢化が進むから、定年延長は一見もっともらしいが、果たして正しい選択かどうかは疑問だ。定年延長は、情報革命の進展で社会が知識集約型になり、組織と個人が非固定的なネットワークで結ばれるのに、仕事と個人の関係が流動化するのを阻害する。 
 年金の保障ネットは第2の人生の支えであり、それが第2の職場かボランタリー活動になるかは、個人の能力や好みによって違うが、いずれにしても組織に従属する生活態度の限界は見えている。50歳を過ぎたら人生の軸足を社会への恩返しに移し、それに意義を感じて生き甲斐にする人が増えることで、荒廃した日本を立て直せるのではないか。
 1980年代の中曽根内閣から竹下内閣時代に、カジノ経済で投機による金儲けが蔓延して、日本は拝金主義に毒されてしまい、その後の長い不況のために、社会は余裕を失い、日本は閉塞感で息苦しい社会に成り果てた。政府の累積赤字は税収の20年分に近く、その借金の山を築き上げたのは、中央と地方政府の両方で行政が肥大化し、日本の社会に恐竜が君臨しているためである。
 その克服には小さな政府を指向するとともに、企業や団体が地域社会の〝企業市民〟として、社会に利益還元をする思想に従う必要がある。その原動力は社会人意識の確立した個人である。円熟した世代が知恵と経験を生かして、自発的な行動としての恩返しに参加することが、開かれた社会を作るのだ。
 たとえ僅かでも老後の貯金と年金があれば、爽やかに人生を生きることは可能だ。力ーネギーが「人間はカネを持ったまま死ぬのは恥だ」と言ったのを思い出して、自力で社会への貢献を目指す人が増えることを期待したい。
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今日の各新聞にも、「自殺者が4人に1人がプロミスをはじめとするアコム、アイフル、武富士、三洋信販といった消費者金融の借り手」と報道しているように、一方では人を死に追いやった上に、保険金を遺族から掠め取るような、社会への恩返しの逆を行くようなニュースに接する毎日だけに、息子のお世話になる先生の言葉を耳にして、日本もまだまだ捨てたものではないと嬉しく思った次第です。

※消費者金融はまさに悪魔のビジネス・モデルであり、詳しくは須田慎一郎氏が著した『下流喰い』(ちくま新書)を参照

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