以下は、5年半前の2004年1月に国際契約関連の某コンサルティング会社のウェブに寄稿した、幾何学に関する原稿です。
『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』(ダイヤモンド社刊 絶版)という名著を著した小室直樹博士が、世界を舞台に活躍する国際ビジネスマンにとって、数学が不可欠であると自著に書いているのを読者はご存じだろうか。例として、以下の『超常識の方法』(小室直樹著 祥伝社 絶版)のまえがきに目を通していただきたい。
多民族の融合によって成る欧米社会にとって、民族的、個人的感情を超越した明確なる基準、つまり社会的規範の存在は不可欠であり、しかも、その成立過程に西洋近代精神も育成されたのである。では、その規範は何に準拠するのか。実は「数学の論理」こそ、その根底にあると言える。たとえば、欧米が契約社会であるはご存じのとおりだが、この「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また、「必要条件と十分条件」の基本がわかならければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」は理解しがたい。要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい。
小室直樹著『超常識の方法』P.3~4
ここで、「契約の精神」という言葉が登場したので一言。国際契約コンサルティング会社であるIBDが発行する『海援隊』の読者は、国際契約に関わる仕事に従事されている方々が多いことだろう。契約書と言えば、拙稿「第三回・意味論のすすめ」でセマンティックスを意識して言葉をきちんと使うことが、国際契約書の作成において重要である旨筆者は書いたが、総合経営誌『ニューリーダー』1994年10月号に載った対談記事の中でも、小室博士がセマンティックスを無視した契約書を以下のようにバッサリと切り捨てている。
小室直樹:つまり、責任に対しての自覚もセマンティックスの意識もないのは言葉がきちんと使えないからであって、この点で日本は中国や欧米の支配層と全く違う。言葉がないことで典型的なのは、日本の契約書を見れば歴然としている。十数年前からアメリカとの障害が日常茶飯事になってから、契約書の形式も大分変わってきたとはいえ、昔の日本の契約書なんていうのは「もし争いが生じた場合には双方が誠意を持って談合する」なんてバカなことが書かれていた。
藤原肇:それに契約の概念だって無きに等しかったのは、数学がわからなかったからだと思う。数学つまり理の世界はレシオで比率が重要であり、契約とは比率の問題を明確にすることだから、責任の取り方の比例配分を決める。
小室直樹:契約の概念はないが約束という概念はあるというが、これはとんでもないことであり、セマンティックスのない約束なんてお笑いだ。欧米でもとくにアメリカにおける約束というのは、実に細かなところまで規定しており、契約書も大事なことは注にまた注をつけて、厳密で詳しければ詳しいほど良い約束である。日本での約束は「俺の目を見ろ、何も言うな」であり、言葉のない約束が最高のものということになる。この場合にはこうしてあの場合はこうしろと言っていたら、「俺のことを信用しないのか」と言って怒り出すんだから始末に困る(笑)。
出典:『ニューリーダー』1994年10月号-意味論音痴が日本を亡ぼす-
以上、小室博士が「数学は国際ビジネスマンに不可欠」と主張されている理由がよくおわかりいただけたと思う。国際ビジネスマンに不可欠な数学思考は興味の尽きないテーマではあるが、紙幅も限られていることもあり、急いで本稿の主テーマである幾何学に筆を進めよう。
最初に、数学の一分野である幾何学の英語は”geometry”だが、これは「土地測量」を意味するギリシア語の” geometria”から派生している。何故、幾何学の原義が「土地測量」なのか、ここで簡単に幾何学の歴史を振り返っておこう。
今から4000年前、チグリス・ユーフラテス河畔に古代バビロニア文明が発生。その遺跡から粘土板が発掘され、その粘土板に書かれていた楔型文字から、土地の測量などに必要な高等数学が発達していたことが明らかになった。それは古代エジプトでも同様であり、たとえばギザのピラミッドが高等数学を駆使して造られたのは周知の事実である。そうした古代の諸高等数学を『原論(Element)』という大著に集大成したのが、2500年ほど前のギリシアの数学者ユークリッドであった。ユークリッドの著した『原論』は、2000年以上の長きにわたって科学的思考の基底を成していた基本文献だったのであり、聖書に次いで多くの人びとに読まれた本でもあった。何故それだけ多くの人びとに読まれたのかと言えば、ユークリッド幾何学の持つ普遍性、すなわち国籍・人種・信仰・学歴・性別・年齢・身分の違いを超越した人類共通の「言葉」である数学が『原論』に書かれていたからであった。その後19世紀に入り、N・IロバチェフスキーやJ・ボイヤらによってユークリッド幾何学から一歩進んだ非ユークリッド幾何学が誕生している。
幾何学という言葉を目にして、プラトンが創設した学園「アカデメイア」の入り口に、「幾何学を知らざる者は、この門を入るべからず」と書いた額が飾ってあったという逸話を思い出した読者が多かったのではないだろうか。それにしても何故、かくもプラトンは幾何学を重要視していたのだろうか。実は、その答えを解く鍵がピタゴラスに隠されていた。
ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、紀元前570年ころにギリシア東南部のサモス島で生まれている。成長したピタゴラスはエジプトを訪れ、黄金比の中に宇宙の秩序が隠されているという古代エジプト人の秘密に触れ、彼らの秘密を自家薬籠中の物にした人物であった。そうした“エジプト派”のピタゴラスが創立したピタゴラス教団では、ペンタグラム(五芒星、pentagram))およびペンタゴン(五角形、pentagon)を同教団の符牒としていたのである。
図1:ペンタゴンとペンタグラムがもたらす神秘的な2つの三角形
(ピュタゴラスの定理の原型と黄金の三角形)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.241
図1を見ていただきたい。上図のペンタゴンの中に、ピタゴラスの定理のモデルである底辺が三・高さが四・斜辺が五の直角三角形が描かれているのに、目を見張った読者が多かったのではないだろうか。さらに下図に目を移せば、ペンタゴンがペンタグラムの外縁であると共に内核を作っているのがお分かりいただけるはずだ。そのあたりに、ピタゴラス教団が五芒星の持つ神秘的な魔力を感じ、五芒星を守護用のシンボルにした理由があるのだろう。軍人たちも喜んで五芒星を魔除けに使ったようであり、その典型的な例がペンタゴンの形をしたアメリカの国防総省である。皮肉にも、9・11事件で一部を破壊されたが…。
図2:ペンタグラムと黄金の三角形(H. Huntley原図)
(ΔABC:ΔABD:ΔDBC = Φ2:Φ:1)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.243
ペンタグラムは幾何学的に素晴らしい魅力を秘めており、図形全体が黄金比で満たされているのを示しているのが図2である。ちなみに、ペンタグラムの星を構成するトンガリ帽子の二等辺三角形が、黄金の三角形と呼ばれているものである。何故なら、斜辺を1と考えると底辺は0.618の長さになり、これをギリシア文字のファイの小文字φで表わせるからである。さらに、底辺を1だと考えると斜辺は1.618になり、これは大文字のファイでΦと表すわけだし、底辺の長さをΦと考えると斜辺の長さは2.618になり、1プラスΦか2プラスφになるのがお分かりいただけるだろうか。ともあれ、2枚の図から様々なインスピレーションが閃くかもしれないので、頭の体操のつもりで暫し眺めていただければと思う。
このように、黄金の三角形が秘めている神秘的な力に魅せられたが故に、エジプト人は黄金分割を秘伝中の秘伝扱いにしたのだろうし、それを受けついだピタゴラス教団の人びとも、秘伝を外部にもらさないように秘密結社の形で秘伝を大事に守ってきたのであり、その伝統が今日のフリーメーソンにも引き継がれているのだと筆者は思う。かように、数学や芸術哲学は無論のこと、鉱物学、金属学、医学、心理学など、幅広い知の全領域に思考が及ぶ百科全書派の人間だけが真に習得することの出来る、人類至高の智慧こそが黄金比に他ならないのである。ここに、古代エジプト人の「黄金比の中に宇宙の秩序が有る」という信仰にも似た確信に、筆者も同意する所以である。
アカデメイアの入り口に「幾何学を知らざる者は、この門を入るべからず」という額を飾ったプラトンは、神秘主義を貫き通したピタゴラス教団を深く研究し、ペンタグラムにまつわる黄金の三角形の秘密を掴んでいたであろうことは、最早疑う余地がない。
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