2010年3月 9日 (火)

『真贋大江山系霊媒衆』

B100301 『真贋大江山系霊媒衆』(栗原茂著 文明地政学協会刊)という本があります。この本は一般の書店やオンラインでは入手出来ず、直に文明地政学協会という出版元に申し込む形でしか、入手することができない本です。今回は同書の書評を試みますが、最初に以下のサイトに目を通し、同書がどのような本なのか輪郭を掴んでください。
http://2006530.blog69.fc2.com/?q=%A4%DF%A4%C1

上記のサイトのページに目を通して、単に興味深い内容だから1冊購入してみるかといった、軽い気持ちで手に入れようとするのであれば止めた方が良いでしょう。なぜなら、この本は読み手を選ぶと思うからです。よって、以下のような人たちにこそ、本書を推薦いたします。

自分を生み、育んでくれた日本を思う気持ちがあること
昨夏の民主党の地滑り的な圧勝に見られるように、国民が自民公明党に対して、明確に「ノー」を叩き付けたのは記憶に新しいところです。しかし、期待された民主党もその後の支持率が35%前後に低迷、自民党にしても舛添要一に続き、与謝野馨元も離党の意思を示す有様で、政界の混乱に拍車がかかりそうな塩梅です。
しかし、こうした時代だからこそ真剣に自身、家族、会社、地域、日本、そして世界の動向に目を向けるようになった人たちが増えてきたのかもしれません。よって、今回ご紹介する『真贋大江山系霊媒衆』は、日本の将来を憂ふ人たちにこそ読んで欲しい本です。

右も左も関係なく、広量な心の持ち主であること
筆者の栗原茂氏は尊皇派です。それも只の尊皇派ではなく、ある意味では皇室のインナーサークルと云えるのです。同書に以下のようなくだりがあります。

かつて筆者は高松宮宣仁(のぶひと)親王殿下に問うを許された。それは青年将校蹶起の五・一五事件に加わる在野の志(ここざし)に関する問いであったが、高松宮は「当時、海軍一部に第二の同様事件を醸(かも)す空気は消えておらず、その目的の禊祓は重大ゆえ…」と思(おぼ)し召(め)され「通常ロンドン条約に係(かか)る問題を第一段といい、社会改造は第二段という考え方が伝わり広まるが、第一段は軍内首脳に向けての不平不信を何とかして一糸(いっし)も乱れぬよう整備する目標を抱えており、第二段は政党の腐敗(ふはい)、財閥(ざいばつ)の横暴(おうぼう)、農村の疲弊(ひへい)、道徳の堕落(だらく)、為政(いせい)の態度、等々の社会問題であり、条約問題は副(ふく)とも思えるが、大部分の純心を汲み取る公が法に適(かな)わぬは、我が身の不徳かな…」と諭(さと)された。
 この事件は将兵が軍司法機構で裁判を受けるが、民間人は一般法廷で裁(さば)かれ、刑の軽重に大きな違いを生じた。筆者は高松宮の思し召しを賜る(たまわ)までは、独り国賊(こくぞく)たらんも可なりと己れの死処を模索していたのだ。
(p.175)

もし、読者が左翼的思想の持ち主であれば、同書を色メガネで読んでしまう可能性が高く、折角の栗原氏のメッセージも正確に読み取れない恐れがあります。反面、左とも右とも付き合えるという人であれば得るものは大きいはずです。

自然に畏怖の念を抱いていること
筆者は黒須紀一郎の『役小角』(作品社)を読み、役小角は天皇や貴族といった支配階層とは敵対関係にあったと思い込んでいました。しかし、そのように述べた筆者に対して、栗原氏の原稿を編集している天童竺丸氏の意見は「否」だったのです。何故、天童氏は否と答えたのか。最初に天童氏自身が執筆した以下のページ、「大和へ、そして吉野へ 3(世界戦略情報「みち」平成21年(2009)2月15日第288号)」を一読してください。
http://michi01.com/kantougen.html

上記の文章のポイントは、「役行者すなわち役小角もまた紛れもなく皇統奉公衆の一人であった、いやその棟梁であったと考えられる」という箇所です。そのあたりを追究したところ、天童氏から以下のような言葉を引き出しました。

国体と政体の狭間の存在として捉えると、役行者が何者かがすっきりしたことで書いた論でした。役行者は人間に奉仕したのではなく、神々に対する仕事をしたのだと考えれば、それが すなわち皇統奉公衆の務めだったのだと納得したのでした

恐らく、天童氏のその言葉を耳にした人の反応は大雑把に分けて三タイプに分けられるのではないでしょうか。すなわち、(1)「正に、その通りだ」と心から肯ける人、(2)「……」、漠然と人間を超越した何かが存在することを“朧気ながら感じている”ものの、心から肯けるわけでもなければ、頭から否定するわけでもなく、迷っている人、(3)「神さま? そんなものは存在するわけがない」と、頭から否定する人、という三タイプにです。

B100304 筆者の場合、頭では肯けるレベルであるが、未だに「正に、その通りだ」と心から肯けるまでには至っていない、(2)のレベルにあることが分かります。従って、現時点では頭の中でしか納得しておらず、今後の課題として実際に現地に足を運ぶといった形で、身体で納得する(心から肯くに至る)道を通るしかないと一時は思いました。しかし、数日前に『はじめての修験道』(田中利典・正木晃著 春秋社)を読み進めていくにつれ、天童氏の云う「神々」に既に“出会っていた”ことを思い出したのです。

筆者は二十代のはじめ、人生に行き詰まって自殺を考えていた一時がありました。そんなおり、ニューヨークの日本レストランで一緒に働いていた友人の地元、群馬県沼田市の実家に数日泊めてもらい、その間に友人に尾瀬ヶ原を案内してもらったことがあります。季節は5月連休直前だったと記憶しています。車で大清水に到着した時は未だ辺りが真っ暗闇でした。車から降りて徒歩で尾瀬ヶ原に近づくにつれて、周囲も明るくなり始めたものの、依然としてあたりは濃霧に包まれて何も見えませんでした。やがて、嘘のように霧が晴れると、目の前には雄大な尾瀬ヶ原の大自然が忽然と姿を現したのです。その時、まさに人智を超越した「ある存在」を感じ取りました。爾来、数十年の歳月が経ちましたが、今にして思うに、あの時こそ心の中における役小角との出会いだったのではと、ふと思うのです。このように、「神々」あるいは「人智を超えた存在」を信じる気持ちがあるかどうかで、『真贋大江山系霊媒衆』を真に理解出来るかどうかの分かれ道になるような気がします。

以上を参考に、『真贋大江山系霊媒衆』を読む読まないを判断して欲しいと思います。なお、今回はとても書評の形を取れそうにありません。何故なら、未だ同書を十分に理解したとは言えず、今後さらに掘り下げていかなければならないテーマが、数多く残されたからです。よって、今後追究していきたい主なテーマ毎に、筆者が『真贋大江山系霊媒衆』に線を引いた箇所を、今回は列記するに留めておきたいと思います。

■ 古事記
日本の古事記・日本書紀がなにゆえに後発であるのか、その所以(ゆえん)を解(と)けば史観の基礎(きそ)も透(す)けて見える。(p.180)
剖判の義を究(きわ)めれば、記紀が描く神々の名前は本来は音すなわち波動であるが、同時にその神名を文字で表記するとき、その文字は粒子であって、両者は対発生(ついはっせい)の関係にあることが分かる。この関係を極めれば、大江山系霊媒衆の真贋も透けてくるのである。つまり、大江山系は記紀が描く世界共通の性癖を意味するが、日本の大江山に巣立つ霊媒衆は例証となりえる。(p.180~181)

■ 宗教
B100302日野強の卓説「宗教を知らざれば奇で珍なるも、宗教を知れば奇も賃もあらざりき」の通りで、その忍びが大江山に潜伏するのも共時性を伴う場の歴史ゆえである。(p.105)
神つまり宇宙万般に働くエネルギーはその一つとして人を生み出したが、人は神の信号を託宣と称して、事物の解明に励み場の歴史を整え始める。(p.115)
大江山に根ざす霊媒衆は自ら真贋を自問自答しつつ、史上初の大本教団創設を決したのである。(p.117)
このバイブルは既に大江山霊媒衆が解読しており、大本教団と行き交う浪士ほか、京の都に留まる保守系公家衆の手引きとして、教皇ワンワールド構想を探究する糧ともなる。(p.121)

■ 氏姓鑑識
氏姓鑑識は少なくとも史観の入口(p.125)

■ 役小角
抑も(そもそ)神格は、霊峰富士を東に仰いでこそ備えられた資質であり、皇祖皇宗(こうそこうそう)(スメラミオヤスメラオンハシラ)の遺訓もまた霊峰富士の御来光をアマテラスに見立て、天皇自身の慢心を抑えるよう諭(さと)している。こうした勅諭(ちょくゆ)を知るゆえ、役行者は吉野に根ざしたのであり、霊媒衆もまた神格天皇に仕えるべく大江山に控えたのである。(p.116)

■ 家紋
・  連日行幸の視察に教育環境や産業現場は当然として、最も時間をかけたのは樺太特有の植物観察と記録されている。これぞ神格の神格たる所以であり、万世一系これ歴代の生命メカニズムは、共時性を伴う場の歴史にあり、空と海と陸の滋養(じよう)に生かされる植物を知ることは、その土壌(どじょう)(鉱物)と動物を知ることに通じて、そこに手を加える人の生き方あれば、これ先住アイヌ民族ゆえに、深く敬意を表する意味を含むのだ。(p.166)

■ 皇統奉公衆
奉公の神格モデルは皇紀暦制定前にも存在しており、先住民も渡来人も、その威徳に順い奉公を身に帯び各種の姓((かばね)家業)を設けていた。この姓に巣立つ異能の先達(せんたち)こそ、皇紀元年から世界各地に配置されて、天文気象ほか場の歴史を情報化のうえ、生涯を奉公に尽くし悔い無き人生と自覚する達人(たつじん)である。この先達は男女を問わず、幼年三歳ころから世界の結界(けっかい)領域を修験(しゅげん)の場とし、成年一五歳に達すると、その動向は広域に及んで、一旦緩急(いったんかんきゅう)あれば義勇奉公これ天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)に身を委(ゆだ)ねて惜しまない。以下この先達を「皇統奉公衆」と仮称のうえ、大江山系霊媒衆や在野の浪士と区別、必要のとき書き加えていく。(p.158)

■ 堀川辰吉郎
B100303杉山の邪気を含まない霊媒エネルギーが最大に達したとき、そのエネルギーを受け止めた存在こそ真の大江山霊媒衆であり、それ以降の杉山は辰吉郎二〇歳の求心力を軸として、その遠心力たるフィールドワークは他の耳目(じもく)を惹(ひ)くエネルギーを持つようになる。(p.146)
辰吉郎の入営なければ、あるいは満洲建国なければ、現在の北京政府は成立しようのない痕跡を刻んでいる。(p.160)
辰吉郎は入営当初に清朝再生を視野に捉えており、その意は皇統奉公衆を通じて東京の昭和天皇にも通じている。通説の宮中グループはともかく、天皇が満洲建国に特段の異を顕(あら)わさないのは、清朝再興について、辰吉郎に絶対の信を託していたからだ。(p.172)

最後に、筆者は平均して月に二回栗原茂氏を囲む「舎人学校」という集いに参加しています。舎人学校の内容については、『真贋大江山系霊媒衆』の終章「奉公を貫く舎人たち」(p.198~)を参照してもらうとして、今後も機会があれば氏姓鑑識や古事記といった上記のテーマをキーワードに、舎人学校で知り得たもの、あるいは身につけたものを、支障の無い範囲で公開していきたいと思います。

■ 資料
『歴史の闇を禊祓う』(文明地政学協会刊)
『超克の型示し』(文明地政学協会刊)
『真贋大江山系霊媒衆』(文明地政学協会刊)
以上の入手先:http://michi01.com/kankousyo.html
『伊犂紀行』(日野強著 芙蓉書房)絶版
『日本を動かした大霊脈』(中矢伸一著 徳間書店)絶版

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2010年3月 1日 (月)

『侠-墨子』

B100202_2 先週の2月27日、南米チリを襲った大地震は記憶に生々しいところですが、なかでも筆者が注目したのは現地で相次いで起きた略奪でした。
チリ大地震死者700人超す 震源地近く 略奪で夜間外出禁止

ここで思い出すのは平成7年(1995年)の阪神淡路大震災であり、自衛隊が到着するよりも早く、地域社会に救援の手を差し伸べたのは山口組でした。だからこそ略奪を未然に防ぐことができたのですが、一部の週刊誌を除き、日本の大手マスコミで当時の山口組の活躍を報道した所は皆無だったのです。

本ブログの読者であれば、「ヤクザ=犯罪者」というネガティブ・キャンペーンを張る、権力の言葉を鵜呑みにすることはないと思いますが、それを一歩進めた形で、「日本を救済できる切り札は、義侠としてのヤクザなのである」とすら主張する本を今回ご紹介します。それは行政調査新聞の社主こと、松本州弘氏が著した『侠 墨子』(イプシロン出版企画)で、同書を読むことによりヤクザの源流を遡ると墨子に行き着くことが分かり、ヤクザは暴政や権力に対峙して庶民の側に立つ存在であることを教えてくれます。

ちなみに、「墨」の由来について同書は以下のように説明しています。

墨子が前科者に刻印される「入れ墨」の男であったからだとされている」(『侠 墨子』p.23)

筆者にとって同書の中で最も印象に残ったのは以下のくだりでした。

 こうした墨子の精神、ヤクザ的な感性を最も苦手とする人間が、いわゆる支配者層に位置する官僚や政治家である。

 彼らの判断基準は「義は不義か」ではなく、「損か得か」である。損得勘定ならヤクザにも確かにある。
 しかし、彼らの支配者層の損得勘定とは、単に自分たちの利益についてだけのことであるから、恩義や忠義といった人間の情理を優先させて損得を抜きに身を捨てるような行動をするヤクザの利害意識とはまったく異質なものなのである。
 現在の官僚主義の支配者層は、墨子の時代における儒家思想である。
 彼らは礼(法律)を重んじる顔をしながら、裏では自分たちだけが特権的な利益を享受している。つまり「法治国家」とは「義」を畏れる官僚主義が編み出した「ヤクザ封じ」ヤクザを抹殺する「棄民政策」のスローガンのようなものである。
 現在の日本社会が法治国家だというならば、公約に違反した政治家は罰せられるべきであるし、警察による犯罪事件はその最高責任機関である警視庁や警察庁の長官も処罰されるべきである。
 ヤクザならば、族に倍量刑、三倍量刑とも言われ、一般庶民と同じ犯罪で裁かれるときに通常の判例から妥当とされる刑期の倍から三倍の懲役刑を言い渡される。それならば、法治国家の番人である警察官が犯罪者となれば、十倍量刑でも不足なくらいではないか。
(『侠 墨子』p.28)

これは、藤原(肇)さんの以下の言葉にも繋がるのです。

藤原 私が冒頭で、日本が非近代であると断言した。そこから脱皮するには、政教分離をきちんと行うことです。それではじめて日本は近代国家として国民の幸せのために政治は何をしなければいけないかという出発点に立てる。そして、前の政治が如何に悪かったかと、悪かった人は法治国家である以上は、きちんと裁判で明らかにし、税金を八兆円注いで救った銀行を十億円で外国に叩き売った行為が、犯罪かどうかとはっきりさせることです。
 これが革命におけるイロハで、弾圧しろとかいうことでなく、悪いことをした人たちは悪いことをしたんだという形、いわゆる法を破ったのだという形にしなければ社会正義とか法における正義の問題が抜け落ちてしまう。

(『財界にっぽん』2月号 「『無血革命』後の日本を展望」)

このように、小沢一郎に対するのと同じくらいに、暴政時代の自公民で「悪いことをした」議員たちも、徹底的に追究するべきでしょう。

B100201 最後に、ヤクザの元祖ともいうべき墨子ですが、筆者は中央公論社の世界の名著シリーズ『諸子百家』に収められている『墨子』を読みました。その他に徳間書店や講談社学術文庫の『墨子』もあります。また、小説ですが中島敦文学賞を受賞した『墨攻』(酒見賢一著 新潮文庫)は、漫画家の森秀樹氏が描いた『墨攻』の原作であり、一読をお勧めします。

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2010年1月 2日 (土)

『天皇霊性の時代』

昨年末、知人のブロガーであるふるいちまゆみさんが、「鳩山総理からのメッセージ」と題する心温まるビデオを紹介していました。

Hatoyama01

http://www.youtube.com/watch?v=gprYFxPjTEc

 

B100102 今までの自民党の首相とは違う“何か”を、鳩山総理の言動から敏感に嗅ぎ取っていることが、彼女のブログの端端から読み取れるのであり、流石は『青い音』を著した著者だけのことはあると思った次第です。まゆみさん以外にも、日本の地下水脈である「霊性」について熟知している者であれば、今までの鳩山総理の言動は自然なものと映るはずなのです。ここで、元参議院員である平野貞夫氏が執筆した、『月刊日本』1月号の「敢えて民主党を叱る」と題する記事を一部抜粋してみましょう。なお、「霊性」について詳細に説明するとなると骨ですので省きますが、関心のある読者は『天皇霊性の時代』(竹本忠雄著 海竜社)を直接紐解いてください。

 

 今回の政権交代とは、皇紀2669年の歴史の中で、鎌倉幕府の成立、明治維新に比すべき大きな変化なのだ。それは、「わが国史上初めて、民衆の手によって国家政治権力が作られた」ということだ。律令制の大和朝廷から藤原摂関政治による貴族政治、鎌倉幕府の成立による武士の政治、明治維新による中央集権的官僚政治、そしてそれに連なる変化として、今回の連立政権成立があるのだ。

『月刊日本』1月号 p.21

 

筆者が注目したのは、平野氏が「皇紀」を使用したこと、今回の出来事を単なる政権交代ではないと平野氏が観ていることの二点でした。筆者の場合、この平野発言を目にしたからこそ、『天皇霊性の時代』について簡単な書評を試みてみようと思い立ったのでした。

 

霊性の時代へ

最初に、平野氏は今回の政権交代を「鎌倉幕府の成立、明治維新に比すべき大きな変化」であると、歴史という目に見える形で時代を大区分しています。ところが、平野氏のように歴史上の大区分以外に、霊性という目に見えぬ形で時代を大区分するという、もう一つのやり方があります。この霊性による大区分の仕方は、フランスの最高の頭脳の一つであったアンドレ・マルローをはじめとする、近代ヨーロッパの最高頭脳の多くが支持している大区分の仕方なのです。

 

西洋では、二〇世紀末から二一世紀初めにかけてこの文明の交代劇が起こるであろうと、久しい以前からさまざまに予告されてきていました。神を絶対者として崇めた往古の「父の時代」から、男性性の原理を中心としたイエスこと「息子の時代」へ、そして女性性が重んじられる「霊性の時代」へと移行が行われるであろうというのです。そして実際に、西洋は大変化を遂げました。

『天皇霊性の時代』p.12

 

 多くのブログや掲示板で、「何か大きな変化が訪れるような気がする」という記事や投稿を目にします。彼らの直感は正しいのであり、正に世界は霊性の復興へと向かっています。これだけの大きな変化を遂げようとしている時代に生まれ合わせて、私たちは幸せ者と云えるのではないでしょうか。

 

教育勅語

筆者は「まほろば会」という神道系の会合に時々出席していますが、ここでは毎回誰かしらが教育勅語を奉読させられます。筆者の場合、初めて会合に出席した時、いきなり振り仮名を振っていない教育勅語を読まされたのであり、正確に読めない漢字も多く大恥をかいたものでした。GHQによる戦後の教育を受けてきた筆者は、戦後の似非教育を受けてきた世代の人間であり、西洋の毒を盛られた一人でした。爾来、解毒を試みてきた甲斐もあって漸く毒も薄まってきたようで、徐々に太古の日本に関心が向いていくようになりました。そして、今回『天皇霊性の時代』に目を通し、西洋では教育勅語が極めて高い評価を得ていることを知り、目から鱗が落ちる思いをしています。少々長くなりますが、『天皇霊性の時代』で教育勅語について言及している個所を、以下に抜粋しておきましょう。

 

 フランスにルネ・セルヴォワーズ大使という方がおられますが、『日本…その理解の鍵』という著書のなかで『教育勅語』を絶賛し、他の二つの世界的に有名な国家宣言と比較して、そのどれよりも優れていると書いています。一つは、一七世紀、一八世紀に在位六十余年におよんだ清の康煕帝の詔勅です。康煕帝といえば、中国歴代君主中、随一の名君と讃えられ、かつ文武両道に優れ、勅令によってかの歴史的な『康煕字典』を編纂せしめたほどの方ですが、これほどの大皇帝の発布したものでありながら「康煕帝の詔勅のほうは、具体的でプラクティカルなだけだが、これに較べて『教育勅語』のほうは遙かに偉大な道徳的高みを持つものである」とセルヴォワーズ氏は、はっきり、軍配を日本に挙げているのです。そしてもう一つ、一七八九年にフランス革命政府の発した『人権・市民権宣言』と較べて、こう述べているのです。

 

 両者の比較は、雄弁にこのことを物語っている。

 『人権・市民権宣言』のほうは個人の権利をいろいろと認めているが、社会に対する個人の義務については事実上これを没却している。一方、『教育勅語』のほうは、共同体の構成メンバーの相互的責務についてこれを強調している。天皇は、共同体の要をなし、天上の秩序を代表しておられるのである。

 (明治天皇の)数々の詔勅のなかで、まことに『教育勅語』は鍵となる重要性を持ったテキストである。それは、天皇の臣下に対する直接的コミュニケーションとして呈され、日本人たる以上、十五の義務あることを喚起する。が、ただに臣民の知性と理性に訴えるのみならず、尊敬される一家の家長、父が語るごとくに語るのである。この意味でこの勅語は心理学的傑作と称すべきものである。

『天皇霊性の時代』p.216-217

 

 すなわち、教育勅語の「朕 爾臣民ト倶ニ 挙挙服膺シテ 咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ(私も、あなたがた臣民とともに謹んでその純一の徳を実践することを冀っております)」というくだり、私たち日本人にとっては何てことないくだりに見えますが、西洋の目からみると帝王の勅語としては大変なものであり、これを知った西洋人は誰もが驚愕するそうです。

 

神話

さて、霊性を知った上で、では自分はどのように行動べきかを考えねばなりませんが、そうした行動にあたっての指針を得るには神話を知らねばならず、殊に古事記を徹底的にやる必要があります。その意味で、筆者は昨夏から古事記という神話を誦習することにしたのでした。神話と云えば、柳田国男は以下のようにもらしたそうです。

 

 民俗学の大家、柳田国男翁は、最晩年に、こう痛恨の一言を発したと伝えられています。

 「しまった。昔話や方言などに熱を上げるんじゃなかった! 神話を研究すべきだった。なぜなら、神話は、神話などというものではないからだ。日本人とは何かを知るために自ら開いた民俗学の目標は、究極には日本の神々の研究によって果たされるべきだった。だが、もう時間がない…」

 神話は神話などというものではない… 

 では何か、といえば、それは霊性の大河である、と筆者は言いたいように思います。

 その大河には、さらに、水源がある。そこに遡って、流れと身をなして下るべし……と。

 柳田翁の後悔を私どもも引きずってはなりますまい。

『天皇霊性の時代』p.124

 

本稿で幾度か登場した「霊性」、実は神話こそ霊性という名の大河の水源なのであり、その水源である神武天皇の令(みことのり)を改めて噛み締めるべきかと思います。

「苟くも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ」(日本書紀巻第三)

(いやしくもたみにかがあらば、いずくんぞひじりのわざにたがはむ)

 

意味するところは、「自分の実践することが少しでも民衆の利益になるならば、どうしてそれが自ずから、聖の行いと合致しないはずがあろうか」というものであり、日本建国にあたり神武天皇が明確に打ち出した民利優先思想なのです。この逆を行ってきたのが嘗ての自民公明政権でした。そして、改めて冒頭の鳩山総理のビデオをもう一度見つめてください。ビデオに映る鳩山総理の言葉には、神武天皇の令が色濃く反映されていると云えないでしょうか。

 

とまれ、ヨーロッパの知識人は、「霊性」という新しい海洋を見つけ、大型船の建造を終えて間もなく大航海に出航しようとしています。そして、岸壁に取り残されるのは、折角日本という霊性に囲まれている環境にありながら、その存在にすら気づかず、置いてきぼりをくらいそうな「進歩的文化人」と呼ばれる日本人たちのようです…。

 

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2009年7月 1日 (水)

ブックオフは本のゴミ屋さん

今年の春先、二人の息子を連れて在米の藤原肇さんとお会いした時、ブックオフのことが話題になったことがあります。その時、藤原さんがブックオフのことを「ブックオフは本のゴミ屋さんだからね…」と喝破したとき、本好きな長男(高一)が呆気にとられた顔をしていたのを思い出します。

私の住んでいる街も御多分に漏れず、ブックオフが公害…、ではなくて郊外にあります。私は時々仕事中の息抜きに、子ども達を連れて車で件のブックオフに行くことがあり、オンラインの古本屋さんでも手に入らない本や、手に入るにしても高い値が付いている本などを探し出して入手するのが狙いですが、それ以外にも初めて接した本でなかなかの良書が定価の半額、時には105円で売っていることもあり、そうした場合は必ず購入することにしています。子ども達にもマンガ本以外は買ってやるから、好きなだけ選んでも構わないと言っているので、結構彼らなりに気に入った本をたくさん探し出してきます。その意味で、ブックオフにとって我々親子は良いお得意様かもしれません。藤原さんもロスにあるブックオフという本のゴミ捨て場に時々寄り、掘り出し物に当たることが時々あるとのことでした。

そのブックオフですが、ご存知のように集英社、講談社、小学館という日本を代表する大手出版社、そして大日本印刷がブックオフの株を取得したニュースは記憶に新しいところです。このあたりのニュースは6月27日付の東京新聞が詳しいので、記事のコピーを載せておきましょう。以下の記事をクリックして下さい。特に注目すべきは最後のページ右下のイラスト「ブックオフをめぐる出資の流れ」であり、この図を眺めることによって現在の出版業界の潮流が読み取れると思います。
090627_tokoyo00  090627_tokoyo01  090627_tokoyo02

ところで、上記の記事の中で、『だれが「本」を殺すのか』を著した佐野眞一氏は、今回の動きについて以下のように述べています。

すでに書店の淘汰は進んでおり、今回の動きで廃業が増えるとも思えない。出版三社の狙いはまだよく分からず、あまり大げさに考える必要はないのかもしれない

この佐野氏の発言を目にして、筆者は物足りなさを感じました。何故なら、筆者にとって本は単なる物ではないからであり、本を物扱いにしてバナナの叩き売りよろしく売りまくっているブックオフに対して、佐野氏は本と物の違いについて何か発言しなかったのでしょうか…。

藤原さんは本を非常に大事にする人であり、たとえば7年ほど前、東明社という出版社が自社の書庫を売却するため、藤原さんの本をはじめとして多くの本を裁断するということになった時、藤原さんは自著を含め、東明社から刊行された貴重な図書を買い取ったのでした。現在、その時の本は拙宅に大量に保管してあり、希望者には有償で頒布しています。以下は頒布本の案内のページですが、本に対する藤原さんの言葉の数々をページの最後の方にまとめてありますので、関心のある方は一読下さい。

「宇宙巡礼」書店のご案内

なお、近日中に藤原さんの新著が出る予定であり、詳細は以下の掲示板(投稿No.156~)を参照願います。

藤原肇の最新刊発売

ともあれ、上記の大手出版社の台所は火の車であるという情報を筆者は掴んでおり、その辺りから今回のブックオフ株の取得の裏を読み取っていく必要がありそうです。

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2009年1月 3日 (土)

『シルクロードの経済人類学』

B090101 最近、栗本慎一郎氏の新著『シルクロードの経済人類学』(東京農大出版会、2007年8月1日刊)を手にしました。きっかけは、昨年の暮れにお会いした某ジャーナリストが同書を高く評価していたからであり、日頃から注目していたジャーナリストの言葉だけに、帰宅後私は早速オンラインで申し込んだのでした。その後、数日して届いた同書を一読していくうちに、私の北ユーラシア史観が音を立てて崩れていくのが分かりました。2ヶ月前、山形明郷氏の『邪馬台国論争 終結宣言』(星雲社)を読んで、自分の東アジア史観を根底から覆されたという体験をしたばかりであり、まさか同様の体験を2ヶ月もしないうちに再び体験するようになろうとは、夢にも思いませんでした。

同書から得た最大の収穫は、日本文化の土台(基礎)は「北のシルクロード(草原の道)」の遊牧民族が持ち込んだ文化であるという“史実”を知ったことであり、そのおかげで中国や韓国経由で今日の日本文化の土台(基礎)が構築されたという、従来の固定概念に囚われていた自分に気づいたことでした。さらに、ユーラシア大陸に存在していた遊牧民族の思考行動様式を同書で学んだことにより、長年にわたって中華思想や西洋思想の観点から捉えていた北ユーラシア史観から解放されたことにも繋がりました。

ここで、「草原の道」について簡単に触れておきましょう。私たち(40代以降)がシルクロードという言葉を耳にして最初に思い浮かべるのは、1980年代前半にNHKが中国領土内のシルクロードに足を踏み入れ、世界で初めて特集として放送したシルクロードではないでしょうか。NHKが放送したシルクロードは、タクラマカン砂漠からパミール高原を越えて長安に至る道であり、私たちにとって書籍や雑誌などを通じて馴染みのシルクロードです。しかし、実際には長安に至る道は他にもあり、それが「海のシルクロード」と上述の「北のシルクロード」です。以下の地図をクリックしてください。

Eurasia02_2
出典:Mr & Mrs Abraham's世界紀行

北のシルクロードが日本に及ぼした影響は、縄文中期から晩期かけての三内丸山遺跡(冬至夏至ネットワーク)、さらには古墳時代以降の大和三山を中心とする日本各地(聖方位)にも及んでいるのですが、このあたりは栗本氏が著した『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版)に目を通していただくとして、本稿では北のシルクロードについてさらに詳しく追求してみたいと思います。

北のシルクロードが日本に及ぼしたものの中で最も重要なものとして、栗本氏は「七世以降の律令制の整備と官僚制度および法概念の整備であって、これらはまさしく天皇制の基盤確立に繋がるものだ。またそこに宗教観までもが加わるとすれば、“関わった”と言うより“基本要素を引き継いだ”とさえ言いうるのではないか(p.11)」と述べており、さらに栗本氏は以下のように言葉を続けています。

 

 
 これら多くの基礎となるものをこれまでの歴史学では「中国から」あるいは「中国から朝鮮を経て」来たと言ってきたが、間違いである。技術的なもの(たとえば漢字)は確かに多数、中国朝鮮からやってきている。中国朝鮮の影響を日本が受けなかったということは絶対にない。しかし、主要な要素は「中国朝鮮を通らずに北から」日本へやってきていると考えるべきだ。
 たとえば法概念のように、確かに一見中国から日本へ持ち込まれたように見えるのでもそうだ。法は慣習の原点をよく調べると元は北方の遊牧民の世界において育まれたものが中国へ持ち込まれて、それが日本へ来たと考えるべきものが多い。そもそも中国は、隋や唐の大帝国が成立するまで紀元前からずっと北方世界の影響下にあったからである。そして隋も唐も鮮卑族の影響下に建国された帝国であったことが、(いささか政治的な判断に基づいて)不当に無視されていることも問題だ。要するに、これまでもとはすべて中国のものだと言われてきた「風水」や道教的な諸要素も、いずれも元来は北のシルクロードのものであったと考えることが出来る。確かにそこに漢民族文化の味付けがあったことも間違いない。だが、日本人はそれらの基となる北の文化とはなじみの深い民族であったから、必ずしも中国経由でそれを採り入れる必要はなかったのである」(p.11~12)

(注:栗本氏の本にも書いてあることですが、皇帝が遊牧民出身だったのは何も隋や唐だけではなく、その前の北魏も遊牧民鮮卑の築いた王朝だったという史実があります)

ここで、栗本氏の言う「いささか政治的な判断に基づいて」という下りを以下に補足しておきましょう。

私は四書五経をはじめとする、中国の主な古典は一通り揃えて目を通してきたし、特に唐詩といった漢詩が好きで、何処かへ旅に出るときは必ず旅行鞄に詰めていくのを専らとしています。その反面、中国の歴代の史書は嘘が多い事実も知っており、また現在の中国共産党の非情さといった面は、現在読み進めている『中国はチベットからパンダを盗んだ』(有本香著 講談社+α新書)を例に取り上げるまでもなく知っていたつもりだったし、人類の智恵が鏤められた中国古典の延長線で一方的に中国に畏敬心を抱いたことはないつもりでした。それでもなお、栗本氏の本を読み進めながら、まだまだ自分の中国に対する認識が甘かったと反省した次第です。中国の史書の正体は嘘偽りのオンパレードであり、鮮卑だの卑弥呼だのといった相手を侮辱するような漢字を多用しているという点に大きな特徴があります。

それはともかく、北のシルクロードの遊牧民族はどのような思考・行動様式を持っていたのでしょうか。この点は栗本氏の他、余裕があれば杉山正明氏、川田順造氏、岡田英弘氏らの書籍、殊に遊牧民族に関する書籍も、栗本氏の本と比較検討の意味で目を通すのも一考かと思いますし、さらには栗本氏の思想の根底を成すカール・ポランニーの一連の書籍(たとえば、ちくま学芸文庫で発行している『経済の文明史』)などにも目を通すといいかもしれません。本稿では、北のシルクロードの遊牧民族を理解するには、北のシルクロードとはどのような場所だったのかについて栗本氏の書籍を引用する形で述べた上で、遊牧民族の思考・行動様式に絞って筆を進めてみたいと思います。

最初に草原の道、すなわち北のシルクロードとは、どのようなルートだったのか確認してみましょう。以下の地図をクリックしてください。

Steppe_road
『シルクロードの経済人類学』p.8

真ん中の点線の道が通常知られているシルクロードですが、このように天山北路でもなく南路でもない、その北を通っている草原の道(北のシルクロード)、すなわち太い一本の矢印で引いた道こそが本物のシルクロードでした。そのあたりについて栗本氏は以下のように説明しています。

 

 
 真のシルクロードは、歴史において、あるいは歴史が書かれるようになるもっと前から遊牧民たちが支配し動かすルートにあった。地理学や歴史学からではなく、交易や移動に対する人類学や経済史や社会学の研究がなかったことがこの真実から目がそらされた原因のひとつである。
 シルクロードの根源的背景、すなわちユーラシア大陸の歴史における大きな流れを考えるなら、真に絹や民族や貴重財が移動したのは草原の道であったことは間違いない。そここそ、蘇我氏や天皇制の成立に大きな影響を持っていたユーラシアにおける本当の「文明の高速道路」(西突厥研究者内藤みどり氏)であった。その道なら、重たい鉄も比較的簡単に運搬できた。車輪が使えるからである。前三〇〇〇年前から南シベリア・エニセイ川上流域で栄えたミヌシンスク文化末期のタガール文化(前三〇〇〇~前一〇〇〇)では、各種の車輪が発明されていたことが知られている。それはいわばこの草原の道のためである。(p.63~64)

北のシルクロードとは、実際はどのような道だったのか、上記の引用でお分かりいただけたのではないでしょうか。次に、遊牧民族とはどのような思考・行動様式の持ち主だったのかを見ていきましょう。突厥を例に同じく栗本氏の書籍から引用してみ ます。

 

 
 簡単にだけ述べておくと、一見混乱のように見えるものはすべて遊牧民の国家が本質的に連合国家だったから起きたことにすぎない。逆に他国民から見るとまったく統一されているように見えても、内部ではカガン(皇帝)と副カガンは相互にかなりの独立性を保ちつつ協調していたし、指導部にずれが生じ混乱が起きたかに見えてもわずかな時間でシステムを復元させる力を持っていた。治下にあった諸王国に対しても、相当以上の自治権が与えているのが普通だが、軍事や税についてのように厳しく管理が徹底されているものもあった。これはまさしく、かのパルティアなどにも見られた遊牧民の帝国の特徴なのである。これを農耕民族中心の帝国観から見ては間違える。
 だから、五八三年東西突厥に分裂したといっても、二国が永続的に分立して完全に対立抗争するといった様相ではまったくなかった。その後、七世紀初頭でも東西突厥皇家は対立とともに協力も行っていて、なんと立場の相互交代をも繰り返した。東突厥系のアシナ氏が西突厥の皇帝になったり、また西突厥を追われた皇帝(タルドゥ)が東突厥の皇位を占める(バガ・カガンとして五九九年即位)ということも起きた。また東の第二可汗国は西突厥アシナ皇家滅亡後もモンゴル高原に勢力を残していた。有名なオルホン川流域の突厥オルホン碑文は、この第二可汗国のビルゲ可汗(~七三四)のころのものである。これは西側や中国側の歴史家には理解の外に出るものであったろうが、遊牧民の帝国では決して異常なことではない。パルティア帝国がそうであったように、争いは争いでありながら、帝国の政治的宗教的統一性はそれなり以上に保たれていたのである。(p.70~71)

この栗本氏の突厥に関する記述を読むだけでも、朧気ながらも今までに抱いていた遊牧民族に対するイメージとは異なるものを感じていただけたことでしょう。ともあれ、必要なのは遊牧民族の本来の姿を知ることであり、その意味で栗本慎一郎氏をはじめ、杉山正明氏、川田順造氏、岡田英弘氏らの書籍に目を通すと良いのではないでしょうか。以上の作業を行うことで、今まで遊牧民族に対して抱いていた間違ったイメージを払拭し、改めて己れのユーラシア史観を再構築していただければ幸いです。

最後に、同書では草の道の遊牧民族といったテーマ以外にも興味深いテーマがありますので、以下に列記しておきましょう。なお、聖方位に関しては、読者からの要望があれば『シリウスの都 飛鳥』(栗本慎一郎著 たちばな出版)を取り上げてみたいと思います。

★ 蘇我氏

 
 かくして3世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。最新の諸研究が示すように、聖徳太子はおそらく実存の人物ではなく、実存したのはただ蘇我氏の一団だった可能性が高いが、個人としての聖徳太子が実際にいてもいなくても彼らが律令制、大化の改新以降の天皇制の基礎を築き、弥勒仏教を導入し、日の本やスメラミコトの名称を導入し、漢字やそれを用いた日本史の編纂を行ったのである。
 その日本史『天皇記』(スメラミコトノフミ)はおそらく北シルクロード自出の日本王権の正当性を述べていたものだから、六四五年の乙巳の変のクーデター後、最緊急の課題として蘇我邸が急襲され焼却されたと考える。そのことのほうが蘇我入鹿の殺害より重要であった可能性が高い。そして聖徳太子や蘇我氏が書いた歴史に対抗して反蘇我勢力側が作らねばならなかったのが『日本書紀』と『古事記』である。要するに、今日に繋がる日本文化の基礎は彼ら(蘇我氏とそれに主導される一団)が築いたものだ。そして、聖方位について以外はどれも日本文化の基礎的要因だったと誰もが公式に認知しているものである。間違いなく蘇我氏こそ日本を日本にした帝王だったのだ。蘇我氏は北日本を土台にし、九州の王・物部氏を倒し、継体天皇に代表される北陸系の勢力(これも渡来勢力?)も抑え、全日本を統一した現実の帝王だったのだ。確かに蘇我一族宗家は乙巳の変(六四五年)で一掃された。しかし、その影響(そこまでの仕事)が日本を築き、その後の日本を大きく決定づけたことは間違いない。(p.20~21)

★ 聖方位

 
 聖方位とは、日本の著名な研究家で古代史家の渡辺豊和教授(京都造形芸術大学)が最初にペルセポリスと日本の巨大前方後円墳および主要神社、仏閣に共通する不思議な方位として発見し研究されたもので、真北から20度西に振った特別な北を持つ方位のことだ。言うなれば、北が20度西に振れている角度である。これを私は「聖方位」と名づけ、日本を中心にペルセポリス、バビロンなど多くの実例とその関係を研究したのが『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版 二〇〇五年)だ。

-------中略---------

 聖方位は実は、冬至の深夜の太陽シリウスの位置に関係する。冬至の深夜12時が新年の始まりならば特に関係がある。シリウスは大体南南東の夜空に輝く。基本的には真南から20度ほど東に振れた角度の空にである。そのシリウスを遙拝したとすると、その背中に当たる真後ろの方角は真北から20度西に向くことになる。これが聖方位だ。日本ではあるものの真後ろに当たる角度を「後ろの正面」と言って特別視するが、それはここから来ているというのが私の説である。(p.178)

★ 日本語

 
日本語はアルタイ語系と言われても一応、孤立語の性質のほうが強いということになっている。日常的ないくつかが似ているということから相互の共通性を一方的に仮定する議論はもうたくさんであろう。誤報や単語は「本質的な」ものについてだけの検討をなすべきだろう。その場合、何が本質的なのかという点についてはこれまでいかにも無勝手流の推測がなされてきた。だから、今のところここから決定的なものは引き出せないと考えるべきだ。けれども、すでに述べたとおり、王権や宗教および聖性などに関するものは別だ。これらは特別に重要なものであり、そこにおいて日本語と北ユーラシア諸語との共通性が大きいことは逆にあまりにも無視されてきた。スメラ、アスカ、ナラ、テン、ヤマト、マホロバなどの決定的に重要な語はいずれも北ユーラシアとの繋がりを示すものではないか。そして何よりも、蘇我およびサカであろう。(p.15~16)

★ 古墳

 
日本に突如生まれた巨大古墳の文化は、北のシルクロードどころかユーラシア草原の特定の地域に紀元前から広がっていたクルガン(巨大盛り土墓)と繋がるものであることは疑いない。(p.17)

★ ユダヤ

 
ところで、六五七年、東部分のアシナ家は権力を失ったが、それはイステミ系ながらトンヤブグの子の兄シェグイの系統の家系であった。西にはトンヤブグの子(名前不詳、王名はイルビス Irbis)を始祖とするアシナ朝カザール王国が残った。そこから今日のハンガリー、ブルガリアが生まれ、ロシア人諸王国(公国)が大きな影響を受け、そこから今日のユダヤ人の主流・アシュケナージ・ユダヤ人の主軸が生まれた。(p.155)

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2008年10月27日 (月)

『邪馬台國論争 終結宣言』

B081001マヨのぼやき」というブログがあります。数ヶ月前に何かのきっかけで同ブログを訪れたところ、たまたまフルベッキ写真が話題になっていました。しかし、同ブログのオーナーであるマヨさんが、フルベッキ写真に写っているのは本物の坂本龍馬だの、高杉晋作だのという具合に書いているので、拙ブログのフルベッキシリーズを紹介した上で、マヨさんのフルベッキ写真に対する誤解をズバリ指摘したところ、素直に間違いを認めるマヨさんを見て大変驚いたものでした。なぜなら、他人から指摘されるのは普通であれば余り良い気持ちはしないものであり、却って開き直られることが過去に度々あったからです。しかし、マヨさんはそうした連中とは異なり、素直に自身の間違いを認めたのですから、誠実で信頼するに足りる人物だという印象を持つに至ったのであり、爾来いろいろと情報交換を行うようになった次第です。

そんなある日、マヨさんが「卑弥呼はころされた」という投稿をしていました。その投稿のコメント欄に山形明郷という人の著した『邪馬台國論争 終結宣言』という題名の本を、マヨさんが紹介していたのに目が止まったのです。あの古代史に強いマヨさんが推薦する本なのだからと云うことで、至急インターネットでサーチしてみたところ、ラッキーなことに絶版となっていた同書がインターネットの古本屋にあることが分かり、迷わず購入を決めました。そのお礼を同記事のコメント欄に書いたところ、マヨさん本人から以下のような回答がありました。

サムライさん、いつもどうも。山形氏は本物です。これ以上の本は出ていないでしょう……以下略

数日後、同書が届いたので早速目を通してみました。装丁が非常に丁寧であり、かつ色鮮やかな地図も何枚か目に飛び込んできました。そして、何よりも格調高い山形氏の文章が気に入ったのです。どうしてこれだけの格調高い文章を書けるのだろうと思いつつ、同書の冒頭に栃木県婦人ペンクラブ会長の吉田利枝先生の書評を最初に読み、さもありなんと思った次第です。大変優れた書評なので以下に吉田先生の書評を全文転載しておきましょう。

 

 
書評

 著者・山形明郷氏は、在野の古代東アジア史研究家である。

 我が国の古代史をめぐって、往年の松下見林、新井白石、本居宣長以降三百余年の歳月を閲しながら、今日尚古代の一国邑「邪馬台国」の確たる所在、その実相さえも明証し得ぬまま、いつ果てるともなき論争が終結をみない現況を座視し得ないとされる著者が、意を決して古代アジア・日本列島の実相究明にその人生の大半を耗して精魂を傾け、漸くにして成就させたこの著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である。

 未だに記述文化不毛の草創期の我が国が、その古代史形成に当たって依拠したのが、歴史大国・隣邦中国が蓄積保蔵する萬巻の大史録中の一誌(志)「魏志倭人伝」であった。これに依拠以降の我が国は、これを「日本古伝」と看做し、おしなべての国民が教育されて今日に及んでいる。

 古代中国の魏朝期、陳寿なる一吏員の筆になる右「魏志倭人伝」は撰者自らが「倭国」に出赴たわけではなく、当時の歴史的断片たる官府の記録や、自国近域の伝風聞、倭使からの情報や魏使の報告書等による雑記文的二千文字の小誌である。

 しかるに我が史学界は、散漫・粗笨の謗りを免れ得ないこの小誌を今日尚固執し続け、しかもこの叙述内容への驚くべき曲解、誤認の視座から、些かの躊躇もなく「倭」は日本国、「倭人」は日本民族と即断して疑わず、更に同誌上に登場する「女帝・卑弥呼」も、この倭国日本列島内の王朝「邪馬台国」に君臨した強大な首領だったとし、これらの所在地域に、「九州」、「近畿(大和その他)」等を各々が立論してその正当性を互いに譲らず、また古代の面影を遺して列島内各地から発掘・出土の遺構・墳墓・武具・刀剣・馬具さては金印・鏡・貨銭・玉等々を見分の都度も亦曲解、誤認の「倭人伝」を基底に繰返す憶測、謬見が賑う紛々の論争は、いよいよ真個の古代東アジア・古代日本の史実を遠ざけている。

 このような、現日本古代史が内包する曖昧模糊たる迷雲を払拭し、確固たる日本古代史の再構築を期する為には、何よりも先づ「魏志倭人伝」への固執、且つ歪曲の旧弊から決別し、「広大なアジアの一角に生きてきた古代日本の視座からの究明を」翹望される著者は、古代東アジア史研究家ならではの漢文字に通暁の非凡の手腕を駆使して、広汎な古代文献、即ち先にふれた有史四千余年の星霜が蓄積、保蔵する歴史大国・中国の古史録(原書)を本国からとり寄せて座右にし、畢生の大業に挑まれた。

 「正史二十五王朝史」総冊実に二百八十九冊・三千六百六十八巻に上る驚異の大冊原書に加え、「戦国策」「国語」「春秋左伝」「十八史略」「高麗史」「三国史記」等々、更に、現・人民中国編集委員会が発行する「月刊・人民中国」そして、李鐘恒氏をはじめとする現・朝鮮半島内学者と共に、在日朝鮮公民として亦斯界で活躍される全浩天氏諸兄の関係著作論文、その入手に苦労されたであろう往年の「大満州国地図」「中国歴史地図」をも机辺にされ、これら厖大、広範な古文献、多彩な諸資料を丹念に解読・精読を重ね更にこれら叙述内容への精緻な比較・照合・検索・検証に亦精魂を傾けられ、待望久しかった私どもは、この程漸くにして上梓完成されたこの珠玉の大著に見えることができた。

 まさに著者・山形明郷氏ならではの蘊蓄に彩られた峻厳・明晰の一大論証であり、余りにも長歳月に跨った紛々の論争に、鮮烈な「終結」を宣した我が国古代史界希有の大書である。

一九九四年 水無月の佳き日に

吉田先生も書評で述べておられるように、山形氏が目を通したという同書にある参考文献の一覧表を見て圧倒されました。同一覧表にあった『史記』、『国語』、『春秋左伝』、『三国志』、『十八史略』、『山海経』などは愚生も一応は目を通してはいるものの、あくまでも和文に翻訳された翻訳本に目を通したに過ぎず、その点、山形氏の場合は何十冊にも及ぶ参考文献を全て原典で読み通したというのですから、彼我の知的レベルの違いに圧倒されたのでした。そうした優れた漢籍の素養が有るからこそ、山形氏はあのような味わい深い文章を書けるのだということがよく分かったものです。

さて、同書の本文に目を通し、結論として山形氏の主張は本物であることが分かります。同書の白眉は何と云っても古代朝鮮の所在地を明白に解明してみせたという点にあり、それにより以下の◆印の結論に達するのですが、同書の冒頭から目を通した一読者としてどれもが納得できるものでした。以下の点について素直に納得できるということは、換言すれば過去の『魏志倭人伝』に対する解釈や卑弥呼像が全くの間違いであったことが分かるということに他ならないのです。

◆ 古代朝鮮・楽浪・前三韓の所在地は、旧満州であった(現在の朝鮮半島ではなかった)
◆ 卑弥呼の正体は、遼東侯公孫氏の係累であった(日本の卑弥呼ではなかった)
◆ 倭の所在地は、古代「韓」半島であった(日本ではなかった)

以上の三点のみを以てしても、日本さらには東アジアの古代史を根底から書き直さなければならないのは一目瞭然です。ともあれ、『邪馬台國論争 終結宣言』との出会いにより、己れが今までに築いてきた歴史観を根底から再構築しなければならなくなりました。そして、同書との出会いは拙ブログで公開しているフルベッキ写真シリーズを立ち上げた当時を思い出させてくれたのです。つまり、フルベッキ写真の存在を知った当時の自分は本当に驚いたものであり、本当に、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、大村益次郎、果ては明治天皇が写っているのだろうか、ことの真偽を確かめてやろというのが、一年間にわたって合計で100ページを超える「近代日本とフルベッキ」を某国際契約関係のコンサルティング会社のウェブに掲載し、その後は慶応大学の高橋信一先生とさらにブログでフルベッキ写真について追究してきたきっかけとなったのですが、今では、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、大村益次郎、明治天皇はフルベッキ写真には写っていないことを明白に断言できます。しかし、、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、大村益次郎、果ては明治天皇がフルベッキ写真に写っているという俗説を信じている人たちが未だに多いのが今日の日本であり、今の私にはそうした人たちと邪馬台国が九州だ近畿だのと未だに言い争っている人たちとがだぶって見えてきたのでした。

ともあれ、わずか一葉の写真の真実を追究するだけでも、かくも多大な時間とエネルギーが必要です。だから、日本では常識となっている上記の「邪馬台国=九州 or 近畿説」を覆すだけの証拠を、何百巻もの原書を調べ尽くして抽出してみせた山形氏の仕事を目の前にすれば、インテリジェンスが分かる者ならば誰もが山形氏が導き出した結論を率直に信用し納得できるはずなのです。同書冒頭の書評にある吉田利枝先生の、「我が国の古代史をめぐって、往年の松下見林、新井白石、本居宣長以降三百余年の歳月を閲しながら、今日尚古代の一国邑「邪馬台国」の確たる所在、その実相さえも明証し得ぬまま、いつ果てるともなき論争が終結をみない現況を座視し得ないとされる著者が、意を決して古代アジア・日本列島の実相究明にその人生の大半を耗して精魂を傾け、漸くにして成就させたこの著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である」という言葉は決して誇張ではありませんでした。

残念ながら、同書は絶版であり、私がサーチした限りオンラインの古本屋さんでは『邪馬台國論争 終結宣言』の入手は不可能です。よって、最寄りの図書館で探していただくか、東京・神田の古本屋街などに出向いて探していただく他はなさそうです。山形氏のホームページもあるものの、私がそうであったように、それだけでは十分に納得できないでしょう。『邪馬台國論争 終結宣言』は、その人の持つ今までの東アジア古代史観を、根底から覆してしまうだけのパワーを秘めた本であり、その意味でも是非一度は同書を紐解くようお勧め致します。

・比較図(画像をクリックしてください)

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2008年10月17日 (金)

『免疫力を高める生活』

B081017 2ヶ月前に夏休みを利用して、下の息子(中学一年生)を連れて比国レイテ島を訪問したものの、息子が滞在中に下痢になり、帰国しても治らないので近所の医者の診断を受けました。最初はアメーバ赤痢かもしれないということでしたが、検便の結果はシロでした。そうだとすれば潰瘍性大腸炎の可能性があるということで、近くの大学病院で精密検査を受けるべく紹介状を作成してもらい、再び大学病院でも検便や血液検査などを行ったのですが、やはり結果は同じくシロでした。そうこうするうちに今までになく腹痛がひどくなったと息子が訴えてきたので、急ぎ同大学病院を再訪、その場で緊急入院ということになった次第です。掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】の道友に別件でメールした折りに息子の件に触れたところ、西原克成医学博士の著書に潰瘍性大腸炎について言及している箇所があるとメールで教えてくれたのでした。そこで、久しぶりに『免疫力を高める生活』(サンマーク出版)を再読し、改めて西原先生の凄さを再認識した次第です。

恐らく、息子だけではなく全国にさまざまな難病に苦しんでいる人たちが多いことを思い、改めて西原先生の著した『免疫力を高める生活』をベースに西原先生の革新的な治療法について以下に述べてみます。以下を一読の上、西原先生の考え方に共鳴していただけるようでしたら、是非とも『免疫力を高める生活』を入手して今後の生活にご活用ください。

最初に、世間一般では潰瘍性大腸炎をはじめとする難病についてどのように考えているのか、難病情報センターというサイトで確認してみたところ、潰瘍性大腸炎の原因について以下のように書いてありました。

「原因は明らかになっていません。これまでに腸内細菌の関与や本来は外敵から身を守る免疫機構が正常に機能しない自己免疫反応の異常、あるいは食生活の変化の関与などが考えられていますが、まだ原因は不明です」
http://www.nanbyou.or.jp/sikkan/009.htm

しかし、西原先生は潰瘍性大腸炎の原因を突き止め、また大勢の潰瘍性大腸炎の患者を完治させています。私は言葉こそ交わしたことはないものの、共通の知人(藤原肇氏)を囲む集い(脱藩会)で西原先生にお会いしたことが数度あります。西原先生は数多くの本を出版されていますが、そのうちの一冊『免疫力を高める生活』(サンマーク出版)に以下のように冒頭に述べています。

「私の研究所が、いわゆる難病に苦しむ人たちの間で「医療界の駆け込み寺」といわれているのは、原因不明で根治が難しいとされる免疫病の治療に、大きな成果をあげているからでしょう」(p.2)

さらに、以下のようにも西原先生は述べています。

「眼科、耳鼻科の病気をはじめ、消化器、循環器、泌尿器、呼吸器、婦人科系などの病気も、治し方と予防法は同じ。とにかく、免疫力を高める生活に切り替えるだけでよいのです」(p.4)

免疫力の高め方には以下の七つの方法があり、それらの背景を正しく理解して実践すれば難病も完治すると西原先生は述べておられます。


(1) 鼻で呼吸する
(2) 両顎でよく噛む
(3) 上向きで寝る(骨休みする)
(4) 冷たいものを飲み過ぎない、食べ過ぎない
(5) 軽い運動とリラックスを心がける
(6) 太陽の光を浴びる
(7) 「心に優しいエネルギー」を取り入れる(「心に優しいエネルギー」とは、要するに笑いや入浴の心地よさを味わう、すなわちリラックスのことです)

何故、上記の七つの方法を実践するだけで、潰瘍性大腸炎といった難病が治せるのかという点については割愛しますので、ここは是非同書にあたって頂ければ幸いです。

なお、本ブログでは西原理論について二年前にも言及しています。併せて一読ください。

『内臓が生みだす心』

『究極の免疫力』

以下は西原理論で直せる難病の例です(クリックしてください)。

Mouth_breathing_related_diseases_01 Mouth_breathing_related_diseases_02

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2007年5月 8日 (火)

『幕末維新の暗号』

B070508 『あやつられた龍馬』(祥伝社)や『石の扉』(新潮社)といった一連のフリーメンソンものを書いている加治将一氏が、『幕末維新の暗号』((祥伝社))という新著を出したと【阿修羅】という掲示板のトップページに紹介されていたので、早速クロネコヤマトのブックサービスに発注をかけると同時に、本ブログ【教育の原点を考える】でフルベッキに関する貴重な論文を寄せて頂いている高橋信一先生にも即メールでお知らせしました。すると、すぐに高橋先生からメールで応答があったのであり、その後幾度がメールのやり取りを行った結果、加治将一氏『幕末維新の暗号』の書評をアップしようということになりました。よって、ここに高橋先生の書評に続いて私サムライの書評を載せますので宜しくお願い致します。

書評:『幕末維新の暗号』

■TVディレクターvs.作家
私が加治将一氏の新著『幕末維新の暗号』を読了してつくづく思ったことは、過日私がアップした『覇王不比等』を著した黒須紀一郎氏の著作と比較して、同じ小説とはいえ両書には雲泥の差があるという点でした。思うに、この違いは黒須氏がテレビのフリー・ディレクターであり、加治氏が作家であるということに由来するのでしょう。『覇王不比等』でも既に読者の皆様に紹介しましたが、アマゾンドットコムに載っていた書評にあった、「売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多い」、という発言の正しさがここでも証明された形になります。

ただし、誤解のないように一言添えておきますが、作家の中にも本物はやはりいるものであり、その一人が『曼陀羅の人』を著した陳舜臣氏です。拙ブログでも同氏の『曼陀羅の人』を取り上げていますので、一度是非ご訪問いただければ幸いです。
曼陀羅の人

■インテリジェンスvs.インフォメーション
黒須紀一郎氏の『覇王不比等』や陳舜臣氏の『曼陀羅の人』がインテリジェンス・レベルの本であるとすれば、加治将一氏の『幕末維新の暗号』はインフォメーション・レベルの本に過ぎないという点もここで指摘しておきたいと思います。インテリジェンスとインフォメーションの違いは、拙ブログでもたびたび取り上げていますのでここでは敢えて繰り返しませんが、参考として以下の2本の拙ブログの記事を一読していただければ、ある程度はインテリジェンスとインフォメーションの違いを理解していただけるものと思います。
空海の夢
聖徳太子と日本人

■誠実さ
聖徳太子と日本人』では、最後の方で『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏の本をインフォメーション・レベルに留まっている本と批評しましたが、それでも引用先を米国政府の『年次改革要望書』であることを正確に書いている点は当然とは云え常識ある態度だと思うし、また日本人に『年次改革要望書』の存在を広く知らしめた功績は大きかったと思います。

それに反して、加治氏の場合はどうでしょう。関岡英之氏の場合はノンフィクションであり加治氏の場合は小説というフィクションだという違いはあるにせよ、高橋信一先生が『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』でも述べておられるように、他人の説を盗用し、恰も自説の如く小説に書く加治氏は、人間として当然持つべきモラルが欠けていると謂わざるを得ません。たとえば、以下の高橋先生の書評が好例です。

(17) p.269・・・「鍋島直彬」の存在の仮説は私のオリジナルである。出展を明示しないのは、盗用である。彼が明治元年に長崎にいた理由は戊辰戦争に勇んで参戦しようとした直彬が鍋島直正から長崎警備を命令されたためである。通例なら、佐賀本藩の仕事であった。慶応元年の所在証明は別にする必要がある。

『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』

とあるように、「鍋島直彬」についての情報を最初に知った者の一人が私であり、かつ拙ブログにアップロードしているだけに、間違いなく「鍋島直彬」の存在の仮説を初めて発表したのは高橋先生であることを此処に証言しておきたいと思います。

また、『幕末維新の暗号』は明治天皇すり替えという日本のタブーを取り扱っていますが、これは加治氏のオリジナリティでは全くなく、故鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』(国民社)を下敷きにしていることは明らかです。『裏切られた三人の天皇』については拙ブログでも若干ふれていますで参照頂ければ有り難く思います。
明治天皇(2)

なお、『幕末維新の暗号』は小説という形を取っているにしては、何故か巻末に主要参考文献を掲げています。そして、その中に『裏切られた三人の天皇』も羅列してありました。『幕末維新の暗号』の中での明治天皇に関する記述は『裏切られた三人の天皇』無しには成り立たなかっただけに、流石の加治氏も知らんぷりはできなかったようです。

■品性
高橋先生の『小説「幕末維新の暗号の検討結果」』を一読すれば明白のように、小説とは云え加治氏の『幕末維新の暗号』は嘘が余りにも多い本であり、多くの読者を惑わせる愚書です。

同じ小説でも、黒須純一郎氏の著書群には品性が感じられました。その点、加治氏の本からは全く品性は感じられなかったのですが、何故かとよくよく考えてみたところ、高橋先生といった他人の説を平気で盗用するといった人格の問題もさることながら、『裏切られた三人の天皇』といった本をそのまま下敷きにして加治氏に都合よく編集しているだけの本である点が大きいように思えます。その点、黒須純一郎氏の『覇王不比等』を一読した後、改めて中国の兵法書である『孫子』、『六韜』、『三略』を紐解いてみたいという衝動に駆られたことを思えば、品性だけでなく作者の持つ人間的な深みにおいても天地ほどの開きがありそうです。

加治氏の本に惑わされる読者が一人でも減ることを祈りつつ本稿の筆を擱きます。

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2007年4月11日 (水)

『役小角』

B070411 今回取り上げる『役小角』も『覇王不比等』同様に黒須紀一郎氏の作品です(ちなみに、役小角は「えんのおづぬ」と読む)。前回、『覇王不比等』の最後の方で取り上げた「くずもん」を代表する人物こそが役小角ですが、役小角が『日本書紀』に登場することは一切なく、『日本書紀』の編者は役小角をはじめとする「ぐすもん」の存在を故意に隠そうとしたことが分かります。しかし……。

『日本書紀』は、巻第二十八のすべてを費やして、壬申の乱を事細やかに記している。そして、その狙いは、大海人の決起が決して反乱などではないことを強調することにあった。それともう一つ、小角の率いる賀茂の民参戦の隠蔽である。『日本書紀』に記載された壬申の乱のどの箇所にも、役小角もしくはそれを思わせる一族の名はない。しかし、僅かに痕跡を留めた箇所は、幾つかある。いくら『日本書紀』の編者が隠そうとしても、これだけの大乱を詳述してしまえば、どこかに綻びは出てしまうものである。

『役小角』第二部 p.243

役小角やその一団が壬申の乱に参戦した痕跡が『日本書紀』の何処に記してあるかは、拙ブログを訪問してくれた皆さんが『役小角』第二部を読む際の楽しみに残しておくとして、当時10人中9人までが渡来人という日本にあって、当然ながら「くずもん」である土着系住民は10人中1人程度でした。しかし、役小角を代表とする「くずもん」は渡来人にはない、理解の及ばない世界の住人だったのです。そうした役小角らの教えを伝承した代表的な人物の一人が後に登場する空海でした。その空海が修験道の開祖とされている役小角から引き継いだものの一つが錬金術であったことは明白であり、そのあたりの詳細は 佐藤任氏の著した『空海のミステリー―真言密教のヴェールを剥ぐ』 (出帆新社) を一読すると良いでしょう。また、佐藤任氏の著作に関して意見交換を行ったスレッドがありますので、ご参考までに以下に紹介しておきます。
空海の夢

さて、役小角ら「くずもん」は何も太古の昔の人たちではなく、現代も「サンカ」と名を変えて生き続けています。尤も、サンカというと河原乞食を連想する読者も多いかもしれませんが、それは違います。藤原肇氏の著した『朝日と読売の火ダルマ時代』の中で役小角を引き合いに出した以下のような対談がありました。

 歴史的にサンカを生態人類学的に調べたら、海系統と山系統の2つの流れがあって、海系統の海人(あま)は海や川で漁をする海部で、山系統の山人は山岳地帯に住む山部であり、海部と山部の総支配人をアヤタチと呼び、これがサンカの大統領に相当します。そして、アヤタチの住む所が丹波のアヤベであり、出口王仁三郎はサンカ出身だから、その後に政府の大弾圧で徹底的に破壊されたが、大本教の本部を京都府の綾部に置いたのだし、丹波はサンカ文化にとって本拠地のようです。

 出口王仁三郎は本名が鬼三郎だった通り、確かにサンカ出身だったのは明らかだが、それで綾部に本部をつくったというのはどうかな。
丹波は古くから全体としてサンカの聖地で、大統領はしばしばアヤタチ丹波であるし、丹波、丹後、但馬はサンカ王国の中心だった。だが、出口王仁三郎や大本の話は明治のことだし、歴史的にみれば割に最近の出来事であり、中世に起源を持つサンカの歴史にとっては、それほど決め手になるとはいえないな。

 その意味で一気に古代に溯って考えると、奈良時代の役小角に関係しているようだし、深山で修行した山伏の生活にも結びつき、起源的には随分と古い時代になるようです。だから、エリアーデが論じる宗教史のような、きわめて文明の問題との関連で、学問的に文化人類学の側面からもアプローチして、きちんと整理しなければならない。また、どうしても関連領域が拡大してしまい、漂泊民と定住民という生活様式に基づく、部落問題と農民との関係という古い枠組を越え、新しいパラダイムの捉え方が必要になりました。そして、サンカの問題を社会的に理解するには、漂泊民の問題として山人と谷人の問題があり、仙と俗の間の情報理論が明らかになりました。

『朝日と読売の火ダルマ時代』 p.91~93

以上の箇所だけを紹介すると、いかにもサンカあるいはくずもんは過去の話として考える読者が出てくる恐れがあります。しかし、現実はそうではなく、今日においてもサンカは実存するのであり、しかも日本社会にかなりの影響力を持っています。そのあたりを述べた下りを『朝日と読売の火ダルマ時代』から差し障りのない範囲で引用しておきましょう。

 それは昭和史だけではなく明治史にも共通で、鉄道と電力会社の経営に関しては、山岳地帯や河川領域を握っていたから、サンカ系統が支配する傾向が濃厚でした。

 地方の鉄道は森林や鉱山の開発が関係して、山岳地帯の土地の買収や工事のせいで、山を支配していたグループが強かったし、水力発電所も同じ理由によるわけですが、それに、明治時代の電力事業はすべてが民間でやり、地方のブルジョワが式心を出し合ったし、鉄道の建設も民間会社がやっていて、国営化はずっと後になってからでしたね。

 明治政府を動かした薩長の武士のほとんどは、足軽などの下級武士が中心だったから、資金的には行商や両替を営む商人や、換金商品の生糸や鉱産物を扱う豪農に、産業を育てる資金を仰いだわけです。それが工場や発電所の建設になったり、鉱山開発や鉄道の付設に結びついたし、明治の後半になると化学工場も生まれ、ナントカ電工という工場が育ちます。それが揖斐川電工、昭和電工、日窒コンツェルンにと育ち、化学工業のほとんどが川筋者との関係で、サンカ系統の企業家に活動の場を提供した。

 それは川の利権と結びついていたわけですね。

 鉄道が敷かれるまでの運輸の主体は船であり、木曾川や淀川は筏の輸送でも賑わい、河川の利権と結びついた形で産業が発達し、明治となって石炭が使われた時には、筑豊地帯は遠賀川の川船が大繁盛して、川筋者がこの世の春を謳歌したものです。それを扱ったのが火野葦平や五木寛之の小説で、筑豊炭田地帯の川筋者のあらくれ物語であり、別の意味では都市化の中でのサンカの立志伝です。また、漂泊者が居着いたのがイツキであり、それを浪民のロマンとして描いたのが『風の王国』で、五木寛之はサンカからのメッセージを託しました。

『朝日と読売の火ダルマ時代』 p.97~98

以下も『朝日と読売の火ダルマ時代』で述べられているサンカに関する重要な内容ですので引用しておきましょう。

 漂泊生活のパターンを持って移動するサンカは、定住する農民や耕作人に較べて自由奔放で、行動力に富んでいる人間に属します。だから、戦国時代や社会が不安定な変革期には、古い秩序からはみ出して生きているだけに、新しい勢力として台頭する力を持っていた。しかも、戦国時代の終わりに野武士や商人となったり、幕末に商人や産業人として進出して、新しい時代の覇者になることが出来たのです。
私は地質学を専門にして生きてきたお陰で、大学時代にはダム工事の関連の仕事をしたし、ヨーロッパでは石炭開発の仕事をしており、アフリカでは鉱山の開発に関係しました。私自身がある意味で山師として生きたことは、ある意味でサンカや山伏の生活に共通だし、徳川時代や明治時代は鉱山開発が重要で、明治の日本の産業発展史と一致します。

 これまで日本人はサンカと部落民を混同して、一種のタブーのように扱って来たが、これはとんでもない間違いであり、そのために多くの誤解と悲劇の種となった。部落や同和というのは行政上の概念で、特定な歴史的な事情によって、文化的、経済的な改善が著しく立ち遅れた地域に住む者を指し、地域の住民の認定であっても身分ではなく、失業者や身体障害者と同じ扱いなのです。ところが、日本人のほとんどはこの区別が分からずに、サンカを同和問題とごちゃ混ぜにして、差別と誤解してタブーにして来ました。

『朝日と読売の火ダルマ時代』 p.93~94

朧気ながら、サンカの特徴を掴んで頂けたのではないでしょうか。時代は正に情報大革命という大転換期に突入しようとしており、そうした時代にあっては「自由奔放で、行動力に富んでいる人間」であるサンカあるいはサンカ的気質を持った人たちが活躍する時代であると思います。私自身も、「自由奔放で行動力に富む」サンカ的な生き方をしたいと思う今日この頃です。

以上、『日本書紀』にまつわる日本のタブーの一部について言及してみました。今後も機会があれば『日本書紀』関連のテーマを取り上げてみたいと思います。

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2007年4月10日 (火)

『覇王不比等』

B070410 最初に、黒須紀一郎氏の『覇王不比等』(作品社)を一読してみたいと思うに至ったのは、アマゾンに載っていた以下の書評がきっかけであったことを告白しておかなければなりません。

われわれは日本史で壬申の乱について教わったが、その実態が何だったかについて先生は説明しなかった。また、「万葉集」で天智天皇の歌について教わったが、この天皇が誰であるかについての説明は無く、天皇は天皇としてそれ以上は教えようとしない。だが、大学の授業の時に天智天皇は天武天皇によって殺され、それが壬申の乱だったと教えられて仰天した。しかし、それ以上の秘密が日本史には隠されていて、天智天皇は百済系の支配者として君臨したのであり、天武天皇は新羅系の支配者だった事実について、この本は藤原不比等の生涯を軸にして描き、日本最大のタブーに挑んでいる点で、非常に衝撃的な内容によって貫かれている。人はこれを小説だと思いたいだろう。だが、タブーとされている歴史の真実を語るためには、小説の形をとらなければならないことが多いし、そういった仕事は売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多いということを本書は証明していると痛感させられた。特に第二部が圧巻である。

この書評にある「売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多い」という主張は、笠原和夫の『昭和の劇』などを読んだことのある私にとって大いに肯ける事実でした。

さて、黒須紀一郎氏の『覇王不比等』は三部からなる小説ですが、第一部の「鎌足の謎」のあとがきを読み、目を見張った箇所があります。

埴原和郎のシミュレーションによれば、
「7世紀の日本の総人口539万9800人の内、渡来人と土着系住民との比率は8.6対1となる」
という。
つまり、10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たちということになる。7世紀までの日本には、様々な民族が共存していたのである。古代史を考える上で、これは重要である。そして不比等の活動も、この問題を抜きにして語ることはできない。

『覇王不比等』第一部p.294

上記の下りを読むまでは、10人の内1人程度が大陸や朝鮮半島からの渡来人と記憶していたし、埴原和郎氏の本も所有しているだけに慌てました。早速書架から20年前に購入した埴原和郎氏の『日本人の起源』(朝日選書)を見つけ出し、パラパラと捲ってみたものの、「10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たち」という記述は見つからず、今度機会があれば同書を再度じっくりと紐解いてみたいと思います。科学的人類学の描く日本人成立のシナリオというサイトでも埴原説を紹介しており、「10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たち」について明瞭に述べてはいませんでしたが、埴原説の骨格を述べた文章だと思うので参照願います。

次回取り上げる『役小角』と関連することですが、日本の峻険な山々に住む人々の主流が縄文時代から日本に住んでいた原住民らであり、平地に定住していた人々が渡来人が中心だったと私は思います。そして平地に住んでいた人々の頂点にいたのが上記のアマゾンの書評にもある「天智天皇は百済系の支配者として君臨したのであり、天武天皇は新羅系の支配者」の天皇だったということで、正に日本のタブーに属する事柄だったと言えます。だからこそ、黒須氏は小説の形を取ったのでしょう。

藤原不比等に話を戻すとして、不比等の父、藤原鎌足の出自については『覇王不比等』に目を通していただくとして、第一部を読み進めながら、第七章「乙巳の変」に入ろうとするあたりから、当時は10人中9人が渡来人であったことを考えれば多分藤原鎌足も渡来人だろうという推測が働いたのであり、鎌足の正体が明かされた下りを読むに及んで、やはりという思いでした。しかし、その後に衝撃が待っていました。渡来人は渡来人でも鎌足が単なる渡来人ではなかったのです。鎌足が日本に来た目的を説明した同書の下りを読みながら、いくら“小説”とはいえ真に迫っていたので背筋が寒くなりました。それだけ、第一部の第七章「乙巳の変」は私にとって迫力ある章でした。

その他、斉明天皇・中大兄皇子(後の天智天皇)らは何故勝ち目のない白村江の戦に兵を送ったのかという疑問も、アマゾンドットコムの「天智天皇は百済系の支配者として君臨した」というコメントが不気味に脳裏に浮かぶのだし、さらには佐々克明氏の「天武天皇は、新羅の王子金多遂である」という説も説得力をもって迫ってきます。このあたりは天智と天武の関係を取り上げた「天智と天武の関係について」というサイトや、藤村由加氏の『額田王の暗号』(新潮社)を参照にするとよいかもしれません。そして、そうした天智天皇・天武天皇兄弟を中心テーマとして追求したのが『覇王不比等』の第二部と言えるでしょう。

最後の第三部は稀代の大政治家であった不比等の総仕上げの仕事を追った部ですが、まさに「日本」を生んだのは不比等であったと納得させられるような内容でした。その最終部の後、作者・黒須紀一郎氏はあとがきで以下のように述べています。

「夫れ葬は蔵すなり。人の見ることを得ざらむことを欲す」
不比等は死を目前にしても尚、必死にこの言葉を呟いている。これこそが、彼の生きざまであった。
生前の不比等は左大臣になることも、また大政大臣になることも望まなかった。彼の欲したのは地位や名誉ではなく、自分の理想を完遂できる実権であった。
「秘すれば花なり」という言葉があるが、不比等は自分の業績を秘することによって、逆に藤原氏という巨大な花を咲かせた。しかもその花は、1300年後の今日でも枯れることなく咲き続けている。

『覇王不比等』第三部 p.268

ところで、『覇王不比等』の第三部が終わろうとするあたりで、以下のような暗示的なシーンが登場します。

「刀根、お前は自分の顔をよく見たことがあるか。お前やわしの顔は、この大和に住む大方の“渡りもん”とはだいぶ違っておるじゃろう。わしらこそがこの大和を最初に開いた“くずもん”の子孫じゃ。この国はわしらの国じゃった。それを、海を渡ってやってきた“渡りもん”たちが奪ったんじゃ。刀根、心配するな。たとえ都の軍勢を全部相手にしてもわしは決して退きはせぬ。追われたらこの山に逃げ込め。他の皆にもそう伝えるがよいぞ」

『覇王不比等』第三部 p.121~122

刀根という男に向かって語っているのは、やはり黒須紀一郎氏が著した『役小角』の主人公、役小角です。では“くずもん”とはどのような人々だったのでしょうか。次回、同じ黒須紀一郎氏の『役小角』を取り上げつつ、“くずもん”の正体に迫ってみたいと思います。

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