西郷隆盛の新手の偽写真
久しぶりに高橋信一先生からメールが届き、急ぎ本文を読んでみたところ、今日発売された『週刊現代』に西郷隆盛の記事が載ったという知らせだった。早速、近所のコンビニに行って同誌を手に取り、帰宅して読み始めたのだが、あの「サンメディア」社が登場していたのには正直驚いた。この会社については、以下の拙記事で高橋先生の論文と併せて紹介したことがある。
スポーツ報知宛て公開状
ともあれ、『週刊現代』の西郷関係の記事に目を通したものの、内容的に腑に落ちない点が多かったのだが、そのあたりはメールに添付されていた高橋先生の論文を読み、漸く納得できた次第である。そこで、読者にも論文を公開するべきだと考え、高橋先生の承諾を得た上で一般公開することにした。
西郷隆盛の新手の偽写真
高橋信一
本日11月10日付けの『週刊現代』に新手の「西郷隆盛」の偽写真が載っていました。先日、講談社の『週刊現代』編集部に呼ばれてこの写真を鑑定してくれと言われました。私が以前から持っていた写真を添付します。明治7年に陸軍省で撮影されたもので、後列左から、乃木希典、大山巌、西郷隆盛、山縣有朋、前列左から川村純義、勝安房、ジュリアス・ヘルム、西郷従道であると、記名されているそうです。ヘルムはドイツ人で明治2年に横浜にやって来て、日本で職を見つけ、商売を始めて成功し、子孫を残して大正11年に横浜で亡くなりました。彼の子孫が持っていた写真であることは分かっているのですが、他の人物、特に「西郷隆盛」の真偽を訊ねられました。しかし、記事の内容は既に決まっていたようです。
西郷隆盛は明治天皇から写真を贈られ、自身の肖像写真を所望されたにも関わらず、献上しませんでした。「米欧回覧」中にイギリスで撮った写真を送って来られた隆盛は、大久保利通に「このようなみっともない真似はお止めなさい」と返信しました。家族も写真はないと言っています。存命中から偽写真が出回ったほどの隆盛には写真を拒否する何かがあったのだと思います。自殺未遂の経験が作用しているかもしれませんが、誰にも真相は分かりません。上野の「西郷さん」の銅像を見て、隆盛の妻が「内の人は、このような人ではありません」と言ったのは、顔の形のことでなく、余りに太った姿に対してであることは、他にも証言が残っています。誤った「西郷伝説」が多過ぎます。
私は「西郷隆盛」の写真は現存しないこと、これまで言われているものは全て偽写真であることを説明し、彼の人物的特徴を挙げて、この写真に写る人物ではないと申し上げました。縮れ毛であること、眉毛がかなり太いこと、団子目玉と言われた黒目勝ちな大きい目をしていること、お釈迦様のような耳朶の長い耳であることなどを。キヨソネが画いたチョーク画は肉親からもらった隆盛の顔のスケッチと大山巌と西郷従道の写真を基にしたものですが、耳の特徴は二人とは明らかに異なっており、これが真実に近い耳である点に注意すべきです。世の中では間違った解釈が広まっています。また、写真は存在しませんが、隆盛の肖像画はキヨソネのもの以外にも現存します。床次正精や肥後直熊ら隆盛と生前面識があった人たちが画いたものもちゃんと参考にすべきです。肖像画も本人の特徴を相当程度表していると思います。この写真の人物は明らかにこれらの条件に合致していないと申し上げましたが、記事にはまったく取り上げられていません。
ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。軍服と勲章に関しては「軍装史研究家」の平山晋先生に伺うのが最も確かだとアドバイスしておきました。実は3年前に、私もこの写真を知人からもらって、平山先生に相談したことがありました。その時の写真を添付しました。今回編集部からももらってあります。平山先生からは、この軍服は明治8年制定のものであり、勲章の形から明治11年以降の写真だと言われました。西郷隆盛を破った西南戦争の勲功を表するために作られたものです。その勲章を「西郷隆盛」が着けているというのは、まさに滑稽です。当時勲章を授与された陸軍の人物は分かっていますので、人物特定は可能だと思います。私は、その一人が後で出て来ますが、後列左端の陸軍軍医「橋本綱常」ではないかと考えます。隆盛が勲章をもらった記録は何処にもありません。要するに、隆盛が写っている可能性はゼロであるということです。『週刊現代』は平山先生にコメントを依頼しておきながら、その内容をまったく無視した原稿を載せています。大変失礼な話です。締め切りに間に合わないなら、1週間ずらせば済むことです。隆盛は明治6年11月に「征韓論」に敗れて下野し、鹿児島に帰って以降死ぬまで東京には出て来ていません。『週刊現代』はその歴史の事実を覆そうとしています。
また、『海舟日記』を明治7年から13年まで調べましたが、陸軍省や陸軍関係者の集まる場、そしてヘルム氏との会合場所に勝海舟が出掛けて写真を撮った形跡はありません。このことについて、反証を挙げるべきだと思います。3年前は誰かが戯言を言っているだけだろうと思い、大して気にしていませんでしたが、今回はこの写真を商売に利用しようとする輩がいるようなので、上に挙げた沢山の矛盾を孕む新手の偽写真として私なりに検討してみました。
先ず、明治7年でなく、これを明治11年以降の写真として名前を宛てられた人物の特徴を比較しました。全ての人物は『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』に載っていますので、それと比べました。蛇足ですが、勝海舟は大変写真好きでした。写真を撮りに行く度に日記に常に記録しています。『海舟日記』によると、明治13年8月16日に朝から(東京印刷局に)写真を撮りに行っています。8月24日に写真を持たせて宮内省へ遣わせています。それが、『「人物写真帖」』に使われました。宮内庁側にも記録が残っています。もし添付した写真のようなことが起こっていれば、海舟は必ず日記に書いたはずです。
では一人ずつ行きます。本当の「乃木希典」は眉毛が濃く、眼光鋭い眼をしています。当時から顎鬚を生やしていました。私は陸軍軍医の「橋本綱常」の方が似ていると思います。彼は明治10年に留学から帰国し、西南戦争に軍医として参加します。「大山巌」は髪型や耳の形が違い、髭はなく、もっと頬はふっくらしています。隆盛に似ていたはずです。「西郷隆盛」は先に挙げたように眉毛が太く目が大きくてふっくらした品のある顔です。髭は生やしていません。この人物は耳朶がありません。隆盛ではないです。「山縣有朋」は髪型が違います。顎鬚はなく、目がパッチリしているのが一番の特徴です。頬骨がもっと張っていました。「川村純義」はもっと額が広く、細面です。「勝安房」も髪型が違います。縮れ毛ではありません。頬がふっくらして下唇が厚いです。スーツ姿の「勝」は見たことがありません。「西郷従道」は顎鬚を生やしていたはずです。隆盛と同じく太い眉毛でした。この人物は顎が細過ぎます。かようにして、ヘルム以外の全員が本物とは似つかない顔をしています。「フルベッキ写真」に始まって、似ていなくても名指しされると信じてしまう風潮が広まっていると感じます。
写真のスタジオは陸軍省内とされていますが、本当でしょうか。背景のカーテンのようなものには風景が画かれていて、写真館の書割りのように見えます。カーテンの左端から見えている腰板は、当時内田九一、清水東谷、塚本写真館などいろいろな写真館で使われていたものとよく似ています。陸軍省にある必然性が疑われます。写真館を識別するには、より鮮明なオリジナル画像が必要です。敷物については、まだ心当たりはありません。写真館での撮影の可能性は排除すべきではないと思います。
次は偽説の発祥について考えます。私は真実であり得ないことには何らかのからくりがあると思っています。ジュリアス・ヘルムから4代目の子孫レスリー・ヘルムが昨年『Yokohama Yankee: My Family’s Five Generations in Japan』(国立国会図書館にあります)を出版しました。その本にこの写真が載っています。彼は父親ドナルド・ヘルムが残していたものの中からこの写真を見つけました。オリジナルからコピーした写真の裏面にタイプされた明治7年という年号と人物名を見て、著者は先祖が明治の日本の有名人と親交があったことにいたく感激して、ヘルム家一族5代の歴史を書く決心をしたそうです。名前を書き込んだのが誰かは不明です。著者の父親かもしれません。ジュリアス・ヘルム本人ならドイツ語で書かれたと考えられます。タイプライターがなければ、手書きのオリジナルがあるはずです。どの時点かに英語でタイプしたのが誰かを示す根拠になる資料は提示されていません。最も肝心な、なぜ明治7年なのかがこの本では説明されていません。ジュリアス・ヘルムの生い立ちに始まって、来日後の仕事の中で、明治4年半ばに和歌山へ行かされて軍事顧問になります。明治5年に横浜に帰り、妻になる女性小宮ヒロと巡り会って明治8年に結婚しますが、その間の明治7年中に陸軍の軍人たちとどのような付き合いがあったのか、名前が挙がっている人物との関係についても何も説明されていません。明治9年に彼は運送業を始め、それが成功したようです。以降この本は彼の後半生と家族の物語がずっと続きますが、写真に関する本からの手掛かりは以上です。要するに、肝心な点は皆目分かりません。不信感だけが残りました。
講談社では、写真の来歴に関係する附属の説明書(ジュリアス・ヘルムの日記なら、なぜその内容が本に書かれていないのか。本を書く切っ掛けを作った最重要な写真のことなのにです)のドイツ語の原文とその英語訳・日本語訳の一部を見せられました。著者が自分の想像に基づいて書いたものなのかもしれません。ジュリアス・ヘルム自身が書き残した資料に基づくものなのか慎重に調べる必要があると思います。私が最も危惧しているのは、偽説のでっち上げのために捏造された可能性です。この写真のような陣容で、明治7年にこの写真が撮られることは今まで述べて来たことから考えてあり得ないからです。説明書に書かれている、明治5年に横浜に帰ってくる前に和歌山で西郷従道に会ったことについては、本の中に言及はありません。西郷従道が軍事訓練の参観に和歌山に行ったのは、明治3年秋であり、ジュリアス・ヘルムの和歌山到着の前年のことです。従道とヘルムの関係は不確かな情報により後付けされたものであり、私は事実無根だと思います。単なる妄想か、あるいは何かの勘違いで、実際は明治11年以降に撮られたのなら、割り振られた人物名を大幅に変更する再度の調査が必要になるはずです。
昔、島田隆質は雑誌『日本歴史』の論文の中で「フルベッキ写真」の偽説の信憑性を上げるために、写真を持っていた江副廉蔵の息子の嫁からの手紙を改竄しました。写ってもいない人物の名前を書き加えたのです。当時の歴史研究者たちは誰もそのことを指摘出来ませんでした。何が真実かは、徹底的に検討されるべきだと思います。この写真の大元の持主には、何故に明治7年の撮影と断定したのか、どうしてこれらの人物が集合したのか、きちんと納得の行く説明をする責任があります。マスコミにも面白半分な報道は人心を惑わすだけであることを自覚されるべきだと思います。今回の『週刊現代』の記事は貴重な写真を商業主義に利用する手助けをマスコミが率先して行ったケースとして、以前もっともらしい理由を付けて「フルベッキ写真」のカラー版を掲載した『スポーツ報知』に匹敵するものです。あの時も、私は事前にインタビューを受けました。掲載する記事の内容は既に決まっていたようです。マスコミとはウソを平気でつく人種のようです。
平成26年11月10日
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