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2014年4月 8日 (火)

斎藤充功さんの『消された「西郷隆盛」の謎』

『消された「西郷隆盛」の謎』に目を通したという高橋信一先生から論文が届いたので、転載の了解を得た上で以下に公開する。大勢の人たちに一読して戴ければ幸いである。

斎藤充功さんの『消された「西郷隆盛」の謎』

高橋信一

 斎藤充功さんが「西郷隆盛」の写真に関する近刊『消された「西郷写真」の謎 写真がとらえた禁断の歴史』を出されました。斎藤さんは元々「西郷隆盛の写真は存在する説」で、私の「存在しない説」とはまったく相入れませんでした。私の『古写真研究こぼれ話』をお読みの方や「春廼舎」等での講演をお聞きの方は、そのことを理解されていると思います。「ないこと」を「あること」にするには、写真の捏造しかありません。「フルベッキ写真」の偽説の連中は、明治元年に撮影された写真を慶応元年だと言い張っていますが、そのようなものを新たに作ろうとしています。もし「西郷隆盛」の写真に関心があってこの本をお読みになられて、「存在しない説」を覆す有力な証拠だと納得させるものがありましたら、私に教えてください。でも古写真研究者として、決定的な欠陥は指摘しておかなければなりません。

 本の中に、明治の頃から昭和の時代まで繰り返して「西郷隆盛」が写っていると噂されて来た、「島津家の殿様たちの集合写真」が取り上げられています。この写真は古くから島津家の多くの近親者からの情報で、人物の解明はほぼ済んでいたはずでした。昭和12年5月号『明治大正史談』に俗説の間違いがきちんと説明されています。『大西郷 謎の顔』も参考になります。それを斎藤さんは蒸し返ししています。写真の右端に「大久保利通」が写っているという仮定を前提に、この写真が明治4年暮の大久保や岩倉具視の「米欧回覧」出発前に撮影されたとして論理を展開していますが、それは大きな間違いです。この写真は浅草の内田九一写真館で撮影されたものですが、平成24年7月3日のフェイスブックに書き、『古写真研究こぼれ話』の「捏造写真の系譜」にも掲載してあるとおり、スタジオの背景になる腰板と敷物の模様から、明治6年10月から明治8年までの間に撮影されたことが分かっています。これ以前でも以後でもありません。斎藤さんの本では、故意か無作為か分かりませんが、敷物の部分がトリミングされています。他の本でもこの重要な情報が隠されていることが多いです。『英傑たちの肖像写真』でも敷物の模様は確認いただけます。『幕末明治の肖像写真』の明治7年10月8日撮影の記名がある「福沢諭吉ら慶應義塾社中集合」の写真と背景・敷物が同じです。明治4年暮れ当時の敷物とは明らかに違うのです。斎藤さんには私の『古写真研究こぼれ話』を差し上げてありますが、「内田九一写真館スタジオの変遷」についての研究が無視されたようで、大変残念です。

 斎藤さんは、「大久保利通」が髭を生やしていない時代の写真が欲しかったのだと思いますが、間違った選択です。それを前提にした以後の論理は当然破綻しています。間違った前提を基準にして間違った結論に導かれています。それに、橋本先生の鑑定が100%正しい根拠は存在しないと思います。髭のある人物の顔の髭の下を推測しようとすることはまったく非常識です。ここに「古写真による顔鑑定」の限界が露呈されています。「大久保利通」は昨年刊行の『大久保家秘蔵写真帖』で髭のある写真をたくさん見ることが出来ますが、それと比べてみれば違いは明らかです。「大久保利通」は「米欧回覧」以後、暗殺されるまでずっと髭を生やしていました。明治8年前後の髭のない「大久保利通」の写真など存在しません。それを鑑定書という権威付けで、「あること」にするのは、捏造そのものです。きちんと計測してみれば分かりますが、「島津家の殿様たちの集合写真」で名指しされた右端の人物より、「大久保利通」の唇から顎の先までの長さの方が相当大きいと思います。つまり「大久保利通」は顎の大きな人物でした。スーパーインボーズというような怪しげな手法を使うべきではなかったと考えます。

平成26年4月8日

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