『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え”説のトリック』
斎藤充功氏の『フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック』(ミリオン出版)が発売され、自宅に届いたと思ったら、間髪を容れずに高橋(信一)先生から書評が届いたので以下に公開する。過去において斎藤氏の記事に関する高橋先生のメールを戴いたり、斎藤氏のフルベッキ写真に関する記事を『怖い噂』などで読んでいたこともあり、殆どが既知の内容であったが、フルベッキ写真に写る“明治天皇”が本物で無いことが判明したことは大きい。なお、藤氏は後書きに「天皇の写真一枚にも近代史を揺るがす秘密が隠されているのかもしれない。次の取材テーマは“天皇写真の謎を追う”と決めている」と書いており、今から待ち遠しい。
『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え”説のトリック』について
この本でノンフィクション作家の斎藤充功さんは、私が8年前から亀山信夫(サムライ)氏のブログ「舎人学校」を通じてやってきたことを追認して下さっています。一人でも多くそういう方が増えることを願います。「フルベッキ写真」の偽説の解明のために、いっしょに取材に付き合って下さいました同士なので、余りきついことは書けませんが、読んで下さる方々の理解の助けになるよう問題点の整理と疑問点を少し書かせてもらいます。
嘘を正当化するために、沢山の嘘が生産され、それが意図してなのか、そうでないのか、絡み合っていく様子がよく分かりました。しかし、フィクションは火のない所に煙を立てる(創造する)のが本質であって、そもそもフィクションの裏付けを追究することに意味があるのか疑問にも思います。意味があるとすれば、フィクションを真実と言い募る輩の真の目的が何処にあるかを明らかにすることなんでしょうか。それでも、ノンフィクションに推測や推理を多用すれば、それは結局フィクションになってしまう危険性があることは十二分に認識しておく必要があると思います。
いろいろな方面から検討されていますが、以前ブログの「フルベッキ写真 汚名の変遷」で取り上げました点に絞って、「フルベッキ写真」に「ニセの付加価値」が付けられた経緯をもう一度整理しておきたいと思います。
昭和49年と51年に雑誌『日本歴史』に論文を出した島田隆資氏は数年後に亡くなりますが、それまでに同定者を33人までに増やしました。それを佐賀藩士江副廉蔵の子孫が所蔵するオリジナルからの再コピー写真を、さらに複写させてもらって人名を書き込んだものを各方面に配って回っていました。古写真研究の権威小沢健志氏の所にも出入りしていたようです。名前入りのコピーは昭和55年秋田は角館・青柳家の開かずの蔵や昭和60年の二階堂副総裁が国会に持ち込んだものとかを始めとして、全国各地で「発見」されています。全てベースは江副家の写真であることが確認出来ています。ここで注目しておくべきことは、昭和55年8月19日の『佐賀新聞』に当時の佐賀大学教授の杉谷昭氏が一文を寄稿して、島田論文を支持する発言をしていることです。第一線の佐賀学の研究者が偽説を支持したことが、その後に問題を拗らせる元凶になったと考えます。杉谷氏は近年になってもその姿勢を変えていないようです。
平成10年9月1日の『体力健康新聞』に載ったのも同じ類のものです。それを見た松重正氏が『周南新報』(平成11年となっていますが、掲載日を明らかにしてほしい)に「大室寅之祐」を加えて掲載しました。「頭山満」は信憑性を上げるための方策に過ぎません。しかし、この時彼が同定した人物は現在我々が「岩倉具経」と認識している人物でした。これが、平成15年の『日本史のタブーに挑んだ男』で、現在の明治天皇に似た「不明の人物」に変更されています。この間に何があったのか? 誰が松重氏に入れ智恵したのかが問題です。
平成13年に佐賀の「金龍窯」が人名無しの「フルベッキ写真」の陶板額を造り、島田論文のコピーを添えて売り出しました。論文は誰からもらったのか? ここから山口一派が動き出したのです。平成13年4月14日に長崎のミニコミ誌の社長柳原政史氏が、この陶板額と全員の人名を書き込んだ資料を中丸薫氏に贈ります。斎藤さんは山口貴生氏だとしていますが、「フルベッキの子孫の友人」は柳原氏だと思います。全員の人名の資料は誰がでっち上げたのでしょうか? 山口氏が作った陶板額とは人名に若干違いがあります。検討途上にあったということでしょうか。その中に「正岡隼人」という名前があります。ニセ情報には尾ひれが付き易く佐賀藩士の一人だと言った人がいますが、現在の佐賀県は全国一「正岡」姓の少ない県です。そこの出身の佐賀藩士なら簡単に判明するはずです。案の定、人名入り陶板額では外されました。私は全員の人名を捻り出した幕末・維新史に相当詳しい人物が遊び心で自分の変名を加えたのだと思います。中丸氏は自己の宣伝『真実のともし火を消してはならない』に、これらを利用しました。この時点で松重氏と繋がったのでしょうか。それが、平成15年の松重氏の本に反映されたと考えるべきでしょうか。
また、中村保志孝氏をフルベッキの子孫として担ぎ出す画策は平成13年には完成していたことになります。それを謳い文句に人名入り「フルベッキ写真」の陶板額が同じく佐賀の山口氏の「彩生陶器」から平成16年に発売されます。なぜか「金龍窯」は使われませんでした。時間がかかったのも引っ掛かる点です。この時小冊子が付けられましたが、人物の経歴が書かれていただけです。陶板額には人名と同時に慶応元年当時の年齢が入っていました。その基礎資料程度のものだったと思いますが、全員の生年月日を調べるのは素人には出来ません。「慶応元年2月成立」の理由も書いてありませんでした。山口氏は平成21年に相当加筆した「日本の夜明け」を出版しますが、正常な歴史の事実を無視した間違いだらけの本であることは私がブログの「反証・山口貴生著『日本の夜明け』」で詳細に指摘しました。柳原氏の思索を無視した山口氏の単独行動だったようですね。以降、次々に販売される「変種」の「フルベッキ写真」は問題の本質に関係ないので、加治将一氏の著作も含めて無視していいと思います。
その外で、気になった所をいくつか上げます。111ページに私の「舎人学校」掲載の文章を引用して下さっていますが、大事な所に誤植が散見されるのは残念です。122ページの写真の説明が「済美館の生徒たち」となっていますが、正しくは「明治2年2月撮影の明治政府の洋学校広運館の教員たち」の写真です。155ページに上野彦馬の開業が慶応3年から明治元年とあるのは、広いスタジオの完成時期との混同があります。正式な開業は文久2年秋とされています。また、156ページの坂本龍馬そして伊藤博文と高杉晋作の写真について、撮影時期は背景に置かれた小道具についての分析から、現在私はそれぞれ前者は慶応3年春、後者は慶応2年春と考えています。
中村保志孝氏とお会いした際にご両親の写真を拝見し、複写も撮らせていただきました。フルベッキはフランス人系の顔立ちですが、ホーツワード氏はドイツ人系でまったくフルベッキの子供には見えませんでした。最後に「あとがき」に触れられていたことと関連しますが、『英傑たちの肖像写真』でも触れられていなかった明治天皇の死亡診断書や病歴、若い頃からの健康記録(身長・体重など)は現存するのでしょうか。その辺から調査を始めるべきかと思います。
正直言って、今回の斎藤さんのレポートは未完成だと思います。問題点は以下の3点に集約されます。
1.松重一派と山口一派の間に繋がりがあったのか、なかったのか? あったとしたら、両者を結びつけたのは誰か? 次の2.との関連で平成11年から13年までのギャップを埋める必要があります。この間、何が行われたのか?
2.全員の人名を入れたのは誰か? 中丸氏の本にあった「正岡隼人」は現代に実在する人物の変名であり、全員の人名を入れた張本人だと考えます。
私は平成19年7月佐賀の地方史研究の雑誌『葉隠研究62号』にブログの内容を整理した「フルベッキ写真の解明」を掲載しました。それは、その前号『61号』に杉谷氏が小早川景澄の変名で「幕末・動座物語」というフィクションを載せ、その号を頼まれもしないのに私に送り付けて来たからです。内容には慶応元年2月に明治天皇の幼少時の祐宮の長崎動座(天皇の居所の移動)が起こったという、正に「フルベッキ写真」の偽説のシナリオが書かれていました。私は佐賀の人たちが大きな疑念を持つと感じたので、真相を知ってもらおうと原稿を書きました。杉谷氏とはかなり以前に会って、私のブログの原稿を渡し見解を伝えてありましたが、まったく聞く耳を持たず、新たな人物名を欄外に書き込んだ島田論文のコピーを送り付けて来たり、このような暴挙を平気でやって来ます。松重氏の「天皇すり替え」説に繋がるものと思います。
3.今回は上野彦馬のスタジオの変遷について、まったく裏付けを取ってもらえませんでした。この点は現状、私のブログの論考「上野彦馬の写真館と写場の変遷」を丹念に読んでいただくしかないと思います。加治将一氏の『西郷の貌』に載った薩摩藩士11人の集合写真の狭いスタジオと「フルベッキ写真」の広いスタジオが慶応元年当時、同時に存在したということはありえません。このことを理解するだけで、「フルベッキ写真」問題がフィクションであることの証明は必要かつ十分です。
島田隆資氏は西郷隆盛への思いが高じて33人まで同定を進めましたが、「天皇すり替え」説のような不純なものはまったくなく、西郷の国家への気持ちを慮った純粋な気持ちで取り組んでいたと思います。しかし、全員の人名を入れた人物には腹黒い意図があったに違いありません。売名か、金儲けか、本当に「天皇制」を覆そうと思っていたのか、未だ掴みきれませんが、新しい「付加価値」を創造したことは認めねばなりません。有名人の写真を真面目に集めて来て集合写真の上に貼り付けるフェイクをやったのなら、アイデアとしては面白いと評価出来ますが、関係のない生写真にニセ情報を付加するという横着な行為は、その影響を考えれば犯罪と言っていいと思います。この「ニセの付加価値」を生んだ真犯人は、影でこの事態を楽しんでいるのでしょうね。鬼籍に入る前に、いい加減に自首して出て来てもらいたいものです。
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コメント
「歴史読本」7月号は日本から取り寄せてください。
「フルベッキ写真」と同じスタジオの写真の例は本ブログに載せてあります。カテゴリー「フルベッキ」の中に2009.4.4の記事があります。そこに掲載しました。
その他の「肯定説」云々については、私は関心がありませんので、お答えしません。
投稿: 高橋信一 | 2013年9月25日 (水) 午後 06時43分
本を買ったり図書館へ行かなければ、わからないことがあるようですね。私は海外に住んでいますが、そうでなくても、それらの証拠をネット上で紹介して頂けるなら、間違った説にだまされる人が少なくなると思うのですが、それほどの重要性は感じられないということですか?こちらは否定説を主張される代表的なサイトなわけですから。
>慶応年間はどういうスタジオだったかをきちんと認識すべきです。
私は上野スタジオの年代でなく、フルベッキ写真が上野彦馬のスタジオで撮ったかどうか、証拠となる写真が欲しいのですが、上野スタジオの背景(フルベッキ写真と同じ背景)の写真が本に載っていますか?
肯定説をばらまいてるのは、全てユダヤ陰謀論者(反ユダヤ主義者)です。そして明治維新自体に批判的な点が共通しています。私はこのユダヤ陰謀論者の正体を調べている側ですが、南朝にすりかえられたことを悔しがる北朝側がからんでいるのではないかと思っています。北朝のルーツを辿ると、倭国をのっとった高句麗からの侵入者ではないかと思います。物部氏(のちの藤原氏?)などです。高句麗はツングース族で、スキタイ、ヒッタイトにつながり、古代イスラエルと敵対していたヘテ人になります。旧約聖書でユダヤの神が滅ぼせと命じたカナン民俗です。Y染色体で言えば、C,D,Eが関係してくるのではないかと思っています。D系統は日本とチベットだけですが、ヒットラーはチベットやアイヌを、同じアーリア人種だとしていました。ちなみにヒットラーの子孫はE系統になります。
(高橋さんは、肯定説の背景、目的は何だと思われますか?ただの金儲けや天皇制否定だと思われているのですか?)
ところが、こちらのブログでもユダヤ陰謀説を紹介されているようで驚きました。否定説も北朝側なのでしょうか。つまり、世間がフルベッキ写真を信じても信じなくても、北朝側に都合よく洗脳できるようになっているのでしょうか。
それから、こちらの他に代表的な否定説は、たまらぼ出版(日蓮・創価学会系?)のサイトで紹介されていますね。
ちなみにユダヤ陰謀論を出している徳間書店が創設した「ジブリ」映画が物部・高句麗崇拝で、ジブリ社長が創価大学卒です。日蓮が生まれた安房は高句麗移民が開拓したという説があります。宮崎駿は白山信仰のある文京区出身ですが、白山神社の祭神は菊理(こうくり)姫で、白山信仰をする曹洞宗を開いた泰澄の父親も高句麗からの帰化人とする説があります。
私はフルベッキ写真に有名志士が載っていてもいなくても、フルベッキの助けにより南朝すりかえがあったのではないかと思っています。フルベッキがユダヤ人という説もあります。そうすると南朝側のルーツが逆にユダヤという可能性が出てきますが。ですがこれまた、「日ユ同祖論」も物部・北朝側が書いたインチキばかりで、自分で調べるしかないのです。委奴国王家の姫氏(紀氏)←中国の呉←周←アケメネス朝ペルシャ←バビロン捕囚のユダヤ人などの関係を調べています。
>偏った偽説だけでなく、自分でいろいろな資料を読み込んで、理解する努力をしてください。
「南朝すりかえ」も「日ユ同祖」も工作員ばかり。本当に自分で調べないと何も真実が分かりません。高橋さんの説に関しては本を買ったりまではしていませんので、ネット上で教えて頂けることがあれば助かると思ったのですが。
>ぜひ「歴史読本」7月号を読んでください。「伊東次兵衛」の自画像も載っています。彼の「日記」には彼が自分の写真を撮ったことが書かれています。その写真を持っていた子孫が、写真の劣化を心配して、画家に自画像を描かせたのが残ったのです。ですから、間違いありません。
つまり、その自画像と、フルベッキの隣にうつる人物がとても似ているということですね?それを確かめるには「歴史読本」7月号を読むしか方法がないということですね?
>私が指摘した島田氏への疑念の一つは納得されましたか。
>>島田隆資氏の論文には相当の疑念があります・・・大隈は佐賀では廉蔵の10年先輩で、廉蔵を大変可愛がっていたそうです。伊藤家と江副家は姻戚関係だった。なぜに彼らを呼び捨てにしたのか?
呼び捨てにしたことを疑念の根拠の一つにされるのはあまり納得いきません。
投稿: 奈々 | 2013年9月22日 (日) 午後 10時22分
私が指摘した島田氏への疑念の一つは納得されましたか。島田氏は「上野彦馬のスタジオで撮った」と言っていますが、何時頃のスタジオかについて何も研究していません。「折田彦市」の耳が流れている写真とそうでない写真があります。それはいろいろ調べてみてください。折田の周辺では、この写真についての言及は見つかっていません。飽く迄も、明治元年当時岩倉兄弟と長崎にいたという事実を前提に、最も近い人物を当てたということです。それ以外の人物についても可能性の問題です。ですから、実は違うということは起こりうることです。人の顔をどう見るかは、みんな違います。解釈は自由ですが、スタジオは明治元年以降のものです。そのことは「写真の開祖上野彦馬」の本の巻末で既に解明されています。それを信じなければ、何も言うことはありません。「上野彦馬歴史写真集成」もご覧下さい。慶応年間はどういうスタジオだったかをきちんと認識すべきです。偏った偽説だけでなく、自分でいろいろな資料を読み込んで、理解する努力をしてください。
ぜひ「歴史読本」7月号を読んでください。「伊東次兵衛」の自画像も載っています。彼の「日記」には彼が自分の写真を撮ったことが書かれています。その写真を持っていた子孫が、写真の劣化を心配して、画家に自画像を描かせたのが残ったのです。ですから、間違いありません。
ブログでアナウンスしましたが、私は今年「古写真研究こぼれ話」という本を自費出版しました。国会図書館に行かれれば、読むことが出来ます。
ブログに書いた「フルベッキ写真」のことや「上野彦馬写真館スタジオの変遷」についてなどをまとめています。
投稿: 高橋信一 | 2013年9月22日 (日) 午後 06時12分
>竜馬と折田彦市では明らかに耳が違う
すみません竜馬ではなくて、竜馬と名前がふられた人物と本物の折田彦市とでは耳が違う、の間違いです。高橋さんは、この人物が折田彦市とお考えですか?
>スタジオの大きさや背景から坂本龍馬が暗殺された後に作られたスタジオで行われた
この場所が上野彦馬の写真館であるという証拠写真はありますか?(背景などが分かるもの)
>次兵衛の自画像は佐賀在住の子孫の方がお持ちで
その自画像と似ていたので伊東次兵衛だと特定したという事ですか?その自画像はネット上で見ることができますか?
これらの証拠写真は紹介されるべきだと思います。どこかに載っていたらすみません。
フルベッキ写真に有名志士が写っているとなると、10代や20代前半ぐらいに見えるので、1850年代になるのではないかと思います。
また肯定派にしても、明らかに別人の名前を当てはめている部分があります。
長州藩有名志士の数人は野見宿禰の子孫です。坂本竜馬と西郷隆盛は紀氏です。(筑紫紀氏の系図にスサノオが祖神とあります)。「南朝すりかえ」があったとして、南朝のルーツは大和朝廷以前の倭国(委奴国)や出雲の王朝ではないでしょうか。
投稿: 奈々 | 2013年9月21日 (土) 午後 10時51分
納得されるかどうか分かりませんが、お答えします。
「フルベッキ写真」の撮影は、スタジオの大きさや背景から坂本龍馬が暗殺された後に作られたスタジオで行われたので、龍馬と折田を比較する意味はないと考えます。
島田隆資氏の論文には相当の疑念があります。江副暢子女史の実際の手紙は掲載されていません。島田氏が勝手に改変した可能性は否定出来ません。「木戸さんか、岩倉さん、西郷さん・・・・伊藤博文も大隈重信も石橋重朝も居る」との文章は明治生まれの女性のものでしょうか。大隈は佐賀では廉蔵の10年先輩で、廉蔵を大変可愛がっていたそうです。伊藤家と江副家は姻戚関係だった。なぜに彼らを呼び捨てにしたのか?
伊東次兵衛の日記は5年前に佐賀県立図書館から出版され、読んでいましたので、フルベッキらとの集合写真の存在は予想していました。また、次兵衛の自画像は佐賀在住の子孫の方がお持ちで、県立図書館に寄託されたものを見ています。
以上申し上げたことは、「歴史読本」の本年7月号に大方書いてあります。お読み下さい。
投稿: 高橋信一 | 2013年9月20日 (金) 午後 08時08分
また、竜馬と折田彦市では明らかに耳が違う点はどうですか?
投稿: 奈々 | 2013年9月20日 (金) 午前 04時04分
江副廉蔵の息子の奥さんが、「義父から木戸さんや西郷さんが写ってると聞いた」とおっしゃっている件はどうなのですか?
また、伊東次兵衛とフルベッキが一緒に写る写真のことが読売新聞にありましたが、伊東次兵衛の日記を読む前にそうと分かったのはなぜですか?高橋さんは伊東次兵衛の写真をお持ちだったのですか?
投稿: 奈々 | 2013年9月19日 (木) 午後 07時49分
万世一系の天皇家ならDNA鑑定で白黒付くハズ。
其れをヤラナイところに天皇スリカエ説が信憑性を持つ結果となります。
投稿: 沈高曼考 | 2013年7月17日 (水) 午後 10時18分