『西郷の貌』
高橋信一先生からメールが届き、加治将一氏が新著『西郷の貌』を祥伝社から出したという連絡を戴く。早速、小生も同書を斜め読みしてみたが、フルベッキ写真に明治天皇、岩倉具視親子、横井小楠らが写っていると相変わらず信じ込んでいることを知り、どうしようもない作家先生だと呆れる思いであった(『西郷の貌』p.76)。
また、同書に「天皇という虚構」(p.57)という一節もあるので目を通してみたが、一読して山崎行太郎氏の「マンガ右翼・小林よしのりへの退場勧告」に登場する、小林よしのり氏の天皇観を彷彿させるに十分だった。加治将一氏は1948年生まれ、小林よしのり氏は1953年生まれと、二人ともマルキシストの影響を強く受けた日教組の申し子だから、あのような天皇観を持つに至るのも無理もない。
ところで、加治氏は「万世一系は虚構である」と主張しているが(p.63)、このあたりは小生が喜んでセッティングするので、尊皇派の栗原茂氏と堂々と議論をして欲しいと切望する。それとも、『西郷の貌』はあくまでも小説だと逃げるのかな…(苦笑)しかし、掲示板でハンドル名をコロコロと変えるような連中と較べれば、まだ加治氏は潔いと思う。ハンドル名を変えても、分かる人には分かるものである。
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一人の人間がどんなに言葉を変えても独特の癖が出てしまうんです。人間一人の脳みそで何十人もの書き方は無理なんです。どうしてもパターン化します
http://maglog.jp/nabesho/Article1374632.html
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加治将一「西郷の貌」の問題点
高橋信一
前作「幕末維新の暗号」の妄想を正当化したいと、いろいろな写真を漁っていることは理解出来るが、歴史の事実の検証能力の不足は解消していないと思われる。不足分を空想で補う手法は変わらない。それが作家の役割と言ってしまえば、その通りである。様々な歴史の周辺状況を書き込んでもっともらしさを演出しているが、ここでは写真関連についてのみ問題点を指摘することにする。
70ページに掲載された写真は、元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。この「島津久治公一行」の写真は「フルベッキ写真」が撮影された明治元年より4年先立つ元治年間に作られた上野彦馬の初期のスタジオのひとつで撮影されたことを如実に表している。このスタジオは一部改造されながら使われ、慶應3年始めに坂本龍馬の有名な立ち姿の写真の撮影にも使用されたものである。本文の中で、作者は鹿児島の博物館の職員に「全員の名前は知られている」と言わせているのに、事実を真面目に検証しないまま勝手な当て嵌めを行っている。使用した写真は解像度が悪く、オリジナルのものではないと思われる。オリジナルはイギリスの古写真研究家テリー・ベネット氏の「Early Japanese Images」に取り上げられている。
島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。唯一、仁礼景範のみが当っていることには敬意を表したいが、他の既に知られた人名が間違いであると言える根拠を示すのが先決ではないか。解像度の悪い写真を用いたため、似てもいない右端の人物「床次正義」の顔を「フルベッキ写真」の「黒マント」の男と同一視している。ふたつの写真の撮影時期が近いというなら、両者は酷似していなければならない。「島津久治公一行」の写真に写っている「床次正義」の家紋は西郷家の「菊」ではない。
東郷平八郎の伝記を確認したが長崎に留学した記録はない。彼が慶應元年に留学した証拠として長崎県立歴史文化博物館所蔵の松田雅典が伝えた「英学生入門点名簿」を上げているが、これは長崎奉行所管轄の「済美館」教師柴田昌吉が運営していた私塾の学生名簿であり、柴田が慶應3年4月に幕府に徴用されて江戸に出た後を継いだ兄の松田雅典が残したものであることは名簿中の記載から明らかである。「済美館入門学生」の名簿ではない。名簿には慶應元年9月に入門した人物として曽我祐準の名前があるが、「曽我祐準翁自叙伝」にある「この年5月に長崎に出て柴田塾に入門した」という記述と符合する。その他の同時期の柴田塾入門学生として、曽我が親しくした十時信人、関沢孝三郎、江口栄治郎、柘植善吾が符合する。その名簿に記載されている「東郷平八」が東郷平八郎であるかどうかは別にしても、この人物が入門したのは、名簿の記載状況から慶應元年でなく、慶應3年4月以降であると言える。「名簿」をしっかりと隅々まで読み直すべきである。
その他の間違いは343ページの三条実美と岩倉具経が写る写真の解釈である。前作の発表の際にも私が「教育の原点を考える」ブログで指摘したことだが、無視している。こちらの写真は明治2年8月に来日したオーストリアの写真家ウィルヘルム・ブルガーが長崎の上野彦馬の「フルベッキ写真」のスタジオを借りて撮影したステレオ写真の片割れである。全体像を示せば、ステレオ写真のホルダー兼用の台紙にはブルガーの記名の印刷が見えていたはずだが、都合が悪いと見て掲載時にトリミングして隠してしまったのである。三条がこの時東京にいたのは自明である。
「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオは明治元年以降に本格的に使用されたものである。慶應元年前後には存在しなかったことは「島津久治公一行」の写真を例にして明白である。撮影時期を混乱させるのはいい加減にしてもらいたい。
(平成24年3月6日)
左の写真は『西郷の貌』(p.366)に載っているもの、高橋信一先生が訂正した写真は以下のpdfファイルで確認のこと。 「saigo01.pdf」をダウンロード
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コメント
床次正義の家紋について
床次正義と床次正精は同一人物とのこと。そこで、正精の息子である床次竹二郎 の家紋を調べてみると「切り竹井桁紋」でしたので、おそらく正精も同じ家紋だと思います。
13人撮りの床次正義の家紋は「違い鷹の羽」(西郷家の家紋)に見えます、
また正精の写真と13人撮りの床次正義なる人物はあまり似ていると感じません。
ここまで、13人撮りの右端の人物は床次正義 ではないとの方向に傾いておりますが、どうでしょうか?
投稿: ジンベエ | 2016年9月22日 (木) 午前 11時16分
本ブログを管理しているサムライと申します。
高橋先生のPCから投稿できないトラブルのため、小生が代行して投稿します。以下、高橋先生からの返信です。よろしくお願いします。
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「床次正義」も「床次正精」も同一人物です。当時武士はいくつか名前を持っている人が多かったので、通称は人によって呼び方は違って来ると思います。幕末慶応年間は「正義」だったが、画家としては「正精」を名乗ったということではないかと思います。
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投稿: サムライ | 2013年8月 7日 (水) 午後 06時24分
「西郷の貌」の中で西郷とされた床次正義は床次正「精」ではないのでしょうか?そう思う理由としてまず撮影時期にあたる慶応元年に長崎にいた(西郷さんの道より)もうひとつは島津久治に仕えていた(息子の床次竹二郎のウィキの記述より)さらに強いてあげるとすれば、名前が似ていると言った所から思っております。最も家紋が判れば判断出来たのですがさがしても見つかりませんでした。
投稿: kj | 2013年8月 7日 (水) 午前 09時46分
「床次正義」の家紋が「違い鷹の羽」だったとしたら、一つの可能性として、この人物が22歳の「西郷従道」と言える
かもしれません。しかし、彼の写真は年の離れた兄「西郷隆盛」とは違って、各年代の写真が沢山残っていますが、彼の顔の特徴であるはずの、こんなに眉毛の薄い人物ではありません。人物の顔は十二分に注意して見る必要があると思います。
投稿: 高橋信一 | 2012年8月25日 (土) 午前 10時09分
ジンベエさま
投稿ありがとうございました。高橋信一先生に確認したところ、以下のような返信を頂戴しています。ご参考まで
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この集合写真を何年も前に見た時から、書き込まれてい
る人物たちについて、写真の収集も含めて調べては来た
のですが、薩摩藩の武士たちの公の記録は余りなく、個
々の武士についての情報はほとんど集まっていません。
ですから、他の人物も含めて右端の人物が「床次正義」
であるかどうかの確認は出来ていません。文献に準拠し
たに過ぎません。ただ、言えることは、画像を拡大してみ
る限り菊の紋章ではないと言うことです。言われてみれば、
「違い鷹の羽」のようでもあります。「床次正義」の家紋が
何であるか、どなたか調査をされるといいと思います。
しかし、この写真は元治元年12月(1865年1月)に撮影
されているので、西郷隆盛は数えで38歳になっています。
写っている人物はずっと若く見えます。また、「フルベッキ
写真」が偽説のとおり、慶応元年2月(1865年3月)に撮
影されたとすれば、黒マントの男と完全に一致しなければ
なりませんが、拡大写真もブログに付けましたから、お分
かりでしょうが、絶対にそのようには見えません。耳やあ
ご、唇、その他もろもろの形が全て違います。写真の撮り
方で変わるものではない。それが見分けられないようでは、
古写真の人物同定は出来ません。これが現状、私の言え
ることです。
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投稿: サムライ | 2012年8月16日 (木) 午後 07時03分
島津一行の写真の右端の床次正義とされる家紋が西郷の菊ではない、と書かれていますが、西郷の菊の家紋は明治以降に明治天皇からいただいたものではないのですか?
とすればこの写真は元治元年ですから、まだ菊ではないと思うのですが。
そして西郷家はそもそも菊地氏族で「違い鷹の羽」です。この写真の床次正義とされる人物はまさに「違い鷹の羽」に見えるのですが、、。どうでしょうか?
投稿: ジンベエ | 2012年8月16日 (木) 午後 01時50分
一般の人たちにとって歴史とは所詮、小説からの情報でしかないのだと思います。書かれていることが読者にとって気持ちよく納得出来れば、歴史として受け入れてしまうものなのかもしれません。ただ、それを史実に則って否定されると、自分の人生観も否定されていると受け取って、冷静な検証もせずに反駁することになるのではないでしょうか。加治の前作について私は「何を言いたいのか分からない小説」としましたが、今回で「天皇制」否定が目的だったと分かりました。陶板額の山口一派も右翼から睨まれていますが、加治も自分の小説の人物のようになるのかしら。それなら、「フルベッキ写真」も持ち出さなくても主張は出来たはずです。一般の人たちはこの点についてどう思っているのでしょうかね。
投稿: 高橋信一 | 2012年4月 9日 (月) 午前 11時11分
高橋先生、過日は貴重な原稿をありがとうございました。
ネットで『西郷の貌』の嘘を見破っている書評を少し探してみましたが、我々の投稿以外には見当たりません。ただ、逆に『西郷の貌』をヨイショしている記事が多かったです。特に注目したのは。「船井幸雄.com」に載っていた「応接室のフルベッキ写真」と題した記事です。執筆しているのは息子の船井勝仁氏です。
http://www.funaiyukio.com/funaikatsuhito/index_1202_02.asp
面白いことに、ここのホームページでは加治将一氏の専用コラムもあり、このあたりに船井幸雄氏と加治将一氏の繋がりが分かります。まさに、類は友を呼ぶといったところでしょうか。
投稿: サムライ | 2012年4月 9日 (月) 午前 07時06分
「西郷の貌」の中で、「島津久治公一行」の写真が載っている本として「宮之城史」というのが上げられていますが、この本は存在しません。実際は、2000年刊行の「宮之城町史」です。惑わされてはいけません。また、「東郷平八郎」は「島津久治」より6歳も若いはずですが、そういう人物はここにはいません。
投稿: 高橋信一 | 2012年4月 9日 (月) 午前 12時06分