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2011年8月

2011年8月23日 (火)

落合莞爾氏への反論

『ニューリーダー』(八月号)の落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」(56)を一読した高橋信一氏より、同記事に対して反論がありましたので、御本人の承諾を得た上で以下に掲載いたします。

拝見しました。幕末維新の志士たちの写真でないことは認めたようですね。私の書いたものを相当引用しています。

しかし、「撮影者上野彦馬、撮影場所長崎に争いはなく、同じ写真を基に被写体の人定だけを争う」というのは、問題に対する認識不足です。

私は、撮影は明治元年であって、慶応元年ではないと説明しているのであって、似た人物の当て嵌めを主張している訳ではありません。似ている人物の候補はいくらでもあることを言っているに過ぎません。なぜ、写真の歴史を真面目に研究しないのか。写真の史料的価値を文献的史料より低くみているのではないでしょうか。

「明治天皇すり替え説」に関しては反論しません。「フルベッキ写真」を介して、論じて欲しくないだけです。興味ありません。

「二人を長崎に送った」といいますが、具視は二人の教育を佐賀藩に託したのであって、大阪に移籍してキリスト教の布教活動に専念することになっていたフルベッキに召喚された訳ではないです。当時のフルベッキの書簡をちゃんと読むべきです。東京に出ることになるのは、明治2年の始めです。ワンワールドか何か知りませんが、本国とのやり取りは手紙でしか出来なかった時代には、フルベッキの書簡が情報の全てだと思います。

ラトガース大学に二人を留学させることになったのは、「岩倉具定公傳」によれば、明治2年暮の大久保利通の助言によるものです。年明けに、兄弟から政府に嘆願書が出されます。

大隈が写っていないと認めているようですね。でも何を根拠にしているのか説明すべきです。私の検証を是とするということか。

「11月21日に佐賀を訪問した兄弟にはフルベッキも同行」は元々、兄弟が佐賀に到着し、それから長崎に送られたことと混同しています。10月21日の兄弟の佐賀到着と、11月21日のフルベッキの兄弟なしの佐賀訪問を混同しています。

最後に、人物が似ているかどうかを基準にものを考える習慣から抜けていない証拠は、「明治4年のラトガース日本留学生の集合写真には、具定の姿はないが原保太郎と岩倉具経が写っている」という文章に現われています。この写真は留学生が何人も持って帰っているので、全員の名前が昔から知られています。諸説がある訳ではない。ラトガース大学のグリフィスコレクションにはグリフィスが帰国後に服部一三からこの写真を借りて複製を作り、裏面に全員の名前を記入したものが現存します。「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」などにも全員の名前が入れられています。勉強不足では。岩倉具定は写っています。「明治の若き群像」に比較出来る写真があります。それと、ここに写っている人たちは「ニューブランズウィックに集合した米国留学生」であり、実際にラトガース大学に学んだ学生は多くはありません。大学の予備校や地元の中学校で学んだ人もいて、ラトガースを正式に卒業したのは、服部一三くらいでした。杜撰な研究をしておいて「明治天皇すり替え説」批判に対して学問的でないと批判する資格があるのでしょうか。

6年間古写真に絡んで歴史の勉強をして来て、失望したのはほとんどの研究者(素人も含めて)が歴史の事実をどう認識するかでなく、歴史の状況をどう解釈するかに腐心していることです。いつまでも、水掛け論になっている原因だと思います。

落合氏の言動はどの程度、世の中に影響力があるのでしょうか。

「明治天皇すり替え説」と「フルベッキ写真」が無関係であることが確定するのに貢献するならよしとします。


《補足》
私が「天皇すり替え説に関して報知新聞の立場をはっきりさせろ」といったのは、報知新聞を挑発し、何らかの対応を求めるための言質であり、私自身は「天皇すり替え」説が学問的検討の価値があるものと認めていません。歴史の事実の記録として、「すり替え」と考えられる証拠は存在せず、勝手な妄想だけが先走っていると私は考えています。この件に関して、これ以上申し上げることはありません。

留学する薩摩藩の青年たちに向って、「とにかくどんな面白いことや可笑しいことや慰むことがあっても決して決して日本魂を失ってはいけません」とこんこんと諭したと言われているフルベッキをワンワールドの手先呼ばわりして彼の人格を汚すような人間に学問する資格などないと思います。

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