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2011年4月26日 (火)

後藤組の仁侠

B1110425 筆者は4月6日にををしさという記事をアップし、「後藤組の仁侠が、身体を張って被災者のために動いた」と書いた。すると、4月22日に発売された『月刊日本』5月号に、筆者の話の正しさを証明する記事が載ったので以下に紹介する。

被災地救援ルポ

北北東に進路をとれ! いち速く被災地に乗り込んだ「G-RISE日本 憚りながら支援者後援」

01  3月11日午後2時46分、三陸沖を震源地とするマグニチュード9の巨大地震が発生した。直後の津波、さらに福島原発事故と、予測だにしなかった大惨事により、我が国は肇国以来の試練に直面している。この大惨事で死者行方不明者は3万人を超え、避難住民はピーク時で30万人にも及んだ。

 巨大地震と津波によって引き起こされた福島原発の放射性物質の拡散は事態をより深刻なものにしている。

 地震と津波の直後、福島第一原発の2つの原子炉でメルトダウン(炉心溶融)が始まり、翌12日午前、菅首相は半径10キロ圏内の住民に対し避難命令を発令した。その直後に1号機で水素爆発が発生、避難指示の範囲は半径20キロ圏内に、現在はさらに半径30キロに拡大されている。

 4月12日には福島原発の事故評価がチェルノブイリ原発事故と並ぶレベル7に引き上げられた。管首相は内閣参与に「原発周辺には20年は住めない」と漏らした。

 我が国にとって実に重大なる危機であり、「国難」と言うべき事態である。

 いま我々、国民一人ひとりが、この非常事態にどう臨み、どう行動すべきかを問われている。

 地震発生からーヵ月余、東日本は危機的状況の中で呻吟しているが、地震直後の3月12日、福島原発事故の避難民に救援物資を届け、被災者を激励しようと即刻行動に移した人たちがいる。震災救援隊「G-RISE日本」だ。

B1110426_2  リーダーは夏井辰徳、故野村秋介の門下生で、現在は野村の親友だった後藤忠政に薫陶を得て活動している。後藤は昨年、自著『揮りながら』を上梓してベストセラーになった。また袴田巌死刑囚の冤罪事件をテーマにした映画『BOX袴田事件-命とは』をプロデュースし、モントリオール映画祭に出品されるなど話題を呼んだ。夏井はこの映画『BOX』の脚本家だ。

 今回の地震発生直後、後藤は夏井らと早急に被災地の救援しなければならないと決意、即座に実行に移し、「日本の魂、精神の復興」を目指す震災救援隊「G-RISE日本」を結成した。

 夏井と副代表の徐裕行の2人は12日午後、先発隊としてワゴン車一杯に水と食糧、缶入りのガソリンを詰め込んで出発した。通行止めになった高速道路を避け、国道4号線を一路北上し、翌13日午前3時、福島県須賀川市内に入った。

 須賀川市内の道路には亀裂が走り、陥没箇所もあった。全戸で断水、ガソリンスタンドも全店休業状態だった。この時、すでに福島原発3号炉で水素爆発があり、半径20キロ圏内に避難指示が出されていた。

 夏井は現地の福島で確認した被害状況や東京の救援本部との協議の結果、地震、津波被害だけでなく、放射能被害の危機に晒されている南相馬市に救援物資を持って行くことになった。

 南相馬市は地震、津波によって、海岸付近はほぼ壊滅状態となり、300人余の住民が死亡、l000人余が行方不明となり、5700人以上が避難生活を余儀なくされていた。

 14日早朝、南相馬市に入った夏井は避難所の小学校の校庭にワゴン車を止め、仮眠をとっていた。14日午後10時過ぎ、突然ジープに乗ってやってきた自衛隊員が体育館に避難していたl000人余の住民に、こう告げた。

「上からの命令で我々に退避命令が出ました! 皆さんを置いていくのは大変心苦しいが、命令である以上、従わなけれぱなりません。私見ですが、ここは安全ではありません。逃げられる方は今すぐ逃げて下さい!」

 自衛隊員はこう告げ、ジープに乗って走り去った。

 館内は騒然となった。避難住民パニックに陥り、住民は悲鳴を上げて出口に殺到、大半の人はマイカーに分乗して福島萬方面に逃げ出した。避難住民には屋内避難の指示が出ているにもかかわらず、自衛隊には危険だから退避せよとの命令が下されたのだ。半数以上の人が体育館から逃げ出したが、逃げる車も、体力のない高齢者だけが体育館に取り残された。

02  14日深夜、東京の「G-RISE日本」本部から、2台のトラックが南相馬市を目指して出発した。トラックには、老若男女用下着、Tシャツ、手袋、ペットボトルの水が満載されている。

 2台のトラックは北関東道、東北道を抜け、15日正午過ぎに夏井の待つ南相馬市立石神小学校に到着した。水や毛布、下着やトイレットペーパーなどを降ろした後、1000人余が避難している石神中学校に移動、4tトラックー台分の救援物資を提供するなど、避難所数個所を半日がかりで回った。

 ここ南相馬市には屋内退避指示が出されため救援物資が届かず、「陸の孤島」と化していたのだ。

 救援物資を配り終え、トラック部隊が東京に戻ろうとしていた15日夕方、市職員が夏井のもとに駆け寄ってきた。「救援物資は有り難いのですが、それ以上に避難住民が望んでいるのは、ここからの脱出なのです。

 ここに残されている人は津波で全て流されてしまい、着の身着のままで辿り着いた人、高齢や体の不自由な人など、逃げたくても逃げられない人ばかりです。この窮状を私たちに代わって福島県に伝えてもらえませんか」

 夏井は福島県知事と直談判すべく、16日深夜、県庁に向った。翌17日早朝、県庁に着いた夏井は知事との面会を申し入れたが会えず、災空且刈策室長に南相馬の窮状を訴えた。

「県庁からバスを出し、避難所に残された住民たちを救い出して欲しい」

03  夏井は災害対策本部に詰めていた地元テレビ各局記者のインタビューに応えて南相馬の実情を伝え、対策本部を出ようとした。その時、複数のテレビ局記者が駆け寄り、夏井にこう言った。「このハンディカメラをお貸ししますから、南相馬の様子を撮影して欲しい」

 彼らテレビの記者は、自らは安全地帯にいて、放射能汚染で危険地域とされた場所の撮影は他人に任そうというわけだ。夏井は「それはあなた方の仕事じゃないですか」と、即座に断った。

 夏井らの要請を受けた福島県庁は直ちに、南相馬市の避難住民救出のためバスを出発させた。バスは17日夕方、「陸の孤島」と化した南相馬市の避難所に到着した。

 福島県いわき市も南相馬と同様、屋内避難の風評被害の影響で支援物資が届かず、住民はいらだっていた。

「G-RISE日本」は、いわき市へのトラック部隊派遣を決めた。

 トラックには、バナナ、ミカンといった果物、タオルやトイレットペーパーなどの生活必需品に加え、被災地で極度に不足していた灯油などの燃料が一杯に詰め込まれた。

 避難所になっている中学校に到着したトラックから灯油が下ろされた。その瞬間、避難住民から歓声が上がった。

 トラック部隊は20日にも、いわき市に入った。10tトラックー台には水、4tトラック2台には米、インスタントラーメンなどを積み込み、いわき市内の避難所となっている体育館や中学校に運び込んだ。

04  いわき市の避難所を回って救援物資を配ったが、残った物資は北茨城市の市役所に搬入した。

 救援活動に当った「G-RISE日本」のメンバー10名余は疲労困憊気味だった。しかし、一連の活動を終え、晴れ晴れとした表情で現地を後にした。

 3月15日から20日にかけて、後藤が組織した「G-RISE日本」が被災地に届けた救援物資は驚くべき量だ。

 水が約20トン、米や乾麺、果物など食糧12トン、毛布4000枚、下着など衣類4トン、タオルやトイレットペーパーなどの生活必需品約2トン、加えて灯油ドラム缶4本分(800リットル)にも及んだ。

 東日本大震災は我が国に未曾有の惨事をもたらし、いま日本国は存亡の渕に立たされている。

 我々日本人の一人ひとりが、危急存亡の時に、「自分は祖国のため、同胞のために、何ができるのか」を、問われている。

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コメント

室生端人様

室生様に仁侠のことをご理解頂き有り難く思います。

仁侠のルーツは墨子にあり、松本州弘氏が著した『侠 墨子』(イプシロン出版企画)を、機会があれば一読下さい。

今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: サムライ | 2011年5月 5日 (木) 午前 05時01分

 知らなかった。こんな任侠が残っていたとは。知らせていただきありがとうございます。

投稿: 室生端人 | 2011年5月 3日 (火) 午前 10時10分

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