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2009年7月

2009年7月21日 (火)

フルベッキの子孫を巡る噂

中村保志孝氏という、フルベッキ博士の子孫とされる人物がいるという噂は、前々から耳にしていました。これが真実とすればビッグニュースです。このあたりの真偽を確認するため、先々月の5月連休、慶応大学の高橋信一准教授とノンフィクション・ライターの斎藤充功氏が東京都八王子市の中村保志孝氏の自宅を訪問し、詳細なインタビューを行っています。その時の様子を高橋信一准教授にまとめていただきましたので、以下にご報告いたします。なお、斎藤充功氏も『怖しい噂 Vol.2』(ミリオン出版)から「フルベッキ写真に幕末の英傑たちは写っていなかった」と題する記事を発表されています。同誌はコンビニで入手可能ですので、一度手にとって戴ければ幸いです。

 

 

中村保志孝氏の略歴

 

中村保志孝氏との単独および斎藤充功氏といっしょのインタビュー、参考資料、さらに木下孝氏からの情報を総合して分かったことをまとめる。

中村氏の父ペーター・グーズワード(Pieter Goudswaard)氏は通称ピー・ホーツワードといい、1868年10月20日にオランダのドイツとの国境近くの町ヒルゲースベルゲ(Hillegersberg)で生まれ、フルベッキとの直接の繋がりはない。横浜に1900年に設立されたライジング・サン石油会社(後のシェル石油)の長崎支社長として長崎に来日した。その後2回の結婚をしたようだ。一度目は1905年10月18日に赤井フジ(1874年5月23日生、結婚時31歳)とで婚姻届けが残っている。二度目は恐らく1920年代の後半、フジとは子供が出来なかったので中村氏のキミエ内縁で結婚し、生まれた中村氏は母方の籍に入っている。現在も長崎の中村家とは親交があり(キミエの妹中村フジ子も長崎在住だった)、寺町の長照寺に今でも中村家の墓があり、墓参りもされている。中村氏の誕生は1928年2月3日であるが、4歳の1932年2月12日に父は64歳で突然亡くなった。死亡記事が長崎新聞に載った。父の住まいは大浦東山手であり、西山の家から葬式に連れて行かれたことを覚えている。新坂本国際墓地(No.68)にあるお墓の墓碑には日本人妻赤井フジの銘がある。こちらにも墓参りしている。母の若い写真と父の来日当時の若い写真を夫々枠に入れて持っている。中村氏の生まれた年の7月1日に撮られた父の署名入りの晩年の集合写真が残っている。長崎新聞に載った写真はない。父の若いころの他の写真は散逸して残っていない。赤井家にあるのではないか。赤井家の血筋の長崎大学の教授がオランダに行って、グーズワード氏の家系を調べたが、フルベッキ家との繋がりは見出せなかった。

フルベッキは1859年にアメリカで結婚して来日し、長男ウィリアムは1861年に日本で生まれている。1868年7月16日に日本で生まれた四男ギドーは1884年に米国で亡くなった。グーズワード氏はフルベッキの子供でも孫でも曾孫でも有り得ない。フルベッキの子供たちは、生まれてすぐ長崎で亡くなった長女エマ、一年足らずで亡くなった四女メアリを除いて、最終的にアメリカで(正確にはもう一人6男バーナードが日本に向かう船中で)亡くなっている。長女エマは長崎悟真寺のオランダ人墓地に眠り、メアリとバーナードの墓は横浜外国人墓地にある。次女のエマが東京で結婚したのは1899年。1912年夫と米国へ引き上げた。フルベッキを除く全員はアメリカ籍であり、オランダ人ではない。

母キミエと一時東京に出たが、昭和12年小学校4年の時、母が大陸大連へ商売をしに出かけることになり、長崎に戻り片淵の住まいで中村家の祖母に育てられた。赤井家は中村家を金銭的に援助していたようだ。現赤井家のキヌコは子供のころ中村家へお金を持って行かされたことを記憶していると語っている。昭和13年伊良林小学校5年の夏、祖母が亡くなった。昭和14年自分も満州に渡り、小学校は昭和15年大連で卒業し、大連の中学校に入学した。母は昭和15年4月9日に35歳(生年は1905年ごろであろう)で大連で亡くなった。母とは1年ほどの生活だった。終戦の時(17歳)、新京第二中学校を卒業し、旅順工科大学にいたが、翌年博多に帰国、昭和22年金沢の第四高等学校に編入、次いで東大へ入った。長崎の家は売り払った。昭和29年東大を卒業、東大大学院でインド哲学を学んだ。そのころアルバイトで電気のことを勉強した。昭和31年に会社を起こし、幾多の発明・特許・事業化を手がけて来た。いろいろな発明で表彰も受けた。

フルベッキの子孫ということは、両親からは聞かされておらず、戦後まで意識していなくて、長崎の人たちとの付き合いの中で、柳原氏から言われた(平成元年前後か?)が、時期は曖昧である。オランダへ調査に行った長崎大学の教授も関係者の一人かもしれない。中村氏は長崎の関係者の集まりに招かれてフルベッキの話しを聞かされたと証言している。「フルベッキ写真」は自宅に最初からあったものではなく、戦後昭和30年代に人からもらった。島田氏の論文や名前を書き込んだ写真の流布は昭和50年以降のものなので、違う系統ということになる。鶏卵紙のオリジナル写真ではなく、完全な白黒写真で大判。後年のコピー。人型のトレースとその中に名前が書き込まれたものが付いていた。当時は写真の内容についてまったく関心がなかったので、書き込まれた名前についての記憶はない。書き込みの様式から、戦前から長崎県立図書館(現長崎歴史文化博物館蔵)に存在していた広運館の写真のコピーと図面の可能性があるが、現在中村氏の手元に取り出せる状態になく、確認出来ていない。「フルベッキ写真」に昭和30年代に名前を入れた事実は他に確認されていない。陶板額の基になった資料は柳原氏が持って来た。中村家に最初からあったものではない。フルベッキの子孫というのも全員の名前も柳原氏らの創作の疑いが濃厚である。

 

参考資料

1.「時の流れを超えて -長崎国際墓地に眠る人々-」 

レイン・R・アーンズ、ブライアン・バークガフニ著 長崎文献社 1991。

2.「長崎に眠る西洋人 長崎国際墓地墓碑巡り」

  木下孝著、ブライアン・バークガフニ/西堀昭監修 長崎文献社 2009。

3.褒章クラブ編「国家褒章に輝く人びと 第四巻」

Nakamura01

Nakamura02
「長崎に眠る西洋人 長崎国際墓地墓碑巡り」より

お知らせ
高橋信一先生が、フルベッキ写真をテーマに講演を行います。
日時 : 2009年8月22日(土) 15:00より   
場所 : 春廼舎(新宿区荒木町8 根本ビル1F)

詳細は以下を参照願います。なお、会場は40名程度しか入場できないとのことですので、お早めにお申し込みください。
江戸史談会

 

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2009年7月 3日 (金)

幾何学のすすめ

以下は、5年半前の2004年1月に国際契約関連の某コンサルティング会社のウェブに寄稿した、幾何学に関する原稿です。

 『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』(ダイヤモンド社刊 絶版)という名著を著した小室直樹博士が、世界を舞台に活躍する国際ビジネスマンにとって、数学が不可欠であると自著に書いているのを読者はご存じだろうか。例として、以下の『超常識の方法』(小室直樹著 祥伝社 絶版)のまえがきに目を通していただきたい。

 多民族の融合によって成る欧米社会にとって、民族的、個人的感情を超越した明確なる基準、つまり社会的規範の存在は不可欠であり、しかも、その成立過程に西洋近代精神も育成されたのである。では、その規範は何に準拠するのか。実は「数学の論理」こそ、その根底にあると言える。たとえば、欧米が契約社会であるはご存じのとおりだが、この「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また、「必要条件と十分条件」の基本がわかならければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」は理解しがたい。要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい。
小室直樹著『超常識の方法』P.3~4

 ここで、「契約の精神」という言葉が登場したので一言。国際契約コンサルティング会社であるIBDが発行する『海援隊』の読者は、国際契約に関わる仕事に従事されている方々が多いことだろう。契約書と言えば、拙稿「第三回・意味論のすすめ」でセマンティックスを意識して言葉をきちんと使うことが、国際契約書の作成において重要である旨筆者は書いたが、総合経営誌『ニューリーダー』1994年10月号に載った対談記事の中でも、小室博士がセマンティックスを無視した契約書を以下のようにバッサリと切り捨てている。

小室直樹:つまり、責任に対しての自覚もセマンティックスの意識もないのは言葉がきちんと使えないからであって、この点で日本は中国や欧米の支配層と全く違う。言葉がないことで典型的なのは、日本の契約書を見れば歴然としている。十数年前からアメリカとの障害が日常茶飯事になってから、契約書の形式も大分変わってきたとはいえ、昔の日本の契約書なんていうのは「もし争いが生じた場合には双方が誠意を持って談合する」なんてバカなことが書かれていた。
藤原肇:それに契約の概念だって無きに等しかったのは、数学がわからなかったからだと思う。数学つまり理の世界はレシオで比率が重要であり、契約とは比率の問題を明確にすることだから、責任の取り方の比例配分を決める。
小室直樹:契約の概念はないが約束という概念はあるというが、これはとんでもないことであり、セマンティックスのない約束なんてお笑いだ。欧米でもとくにアメリカにおける約束というのは、実に細かなところまで規定しており、契約書も大事なことは注にまた注をつけて、厳密で詳しければ詳しいほど良い約束である。日本での約束は「俺の目を見ろ、何も言うな」であり、言葉のない約束が最高のものということになる。この場合にはこうしてあの場合はこうしろと言っていたら、「俺のことを信用しないのか」と言って怒り出すんだから始末に困る(笑)。

出典:『ニューリーダー』1994年10月号-意味論音痴が日本を亡ぼす

 以上、小室博士が「数学は国際ビジネスマンに不可欠」と主張されている理由がよくおわかりいただけたと思う。国際ビジネスマンに不可欠な数学思考は興味の尽きないテーマではあるが、紙幅も限られていることもあり、急いで本稿の主テーマである幾何学に筆を進めよう。

最初に、数学の一分野である幾何学の英語は”geometry”だが、これは「土地測量」を意味するギリシア語の” geometria”から派生している。何故、幾何学の原義が「土地測量」なのか、ここで簡単に幾何学の歴史を振り返っておこう。

今から4000年前、チグリス・ユーフラテス河畔に古代バビロニア文明が発生。その遺跡から粘土板が発掘され、その粘土板に書かれていた楔型文字から、土地の測量などに必要な高等数学が発達していたことが明らかになった。それは古代エジプトでも同様であり、たとえばギザのピラミッドが高等数学を駆使して造られたのは周知の事実である。そうした古代の諸高等数学を『原論(Element)』という大著に集大成したのが、2500年ほど前のギリシアの数学者ユークリッドであった。ユークリッドの著した『原論』は、2000年以上の長きにわたって科学的思考の基底を成していた基本文献だったのであり、聖書に次いで多くの人びとに読まれた本でもあった。何故それだけ多くの人びとに読まれたのかと言えば、ユークリッド幾何学の持つ普遍性、すなわち国籍・人種・信仰・学歴・性別・年齢・身分の違いを超越した人類共通の「言葉」である数学が『原論』に書かれていたからであった。その後19世紀に入り、N・IロバチェフスキーやJ・ボイヤらによってユークリッド幾何学から一歩進んだ非ユークリッド幾何学が誕生している。

幾何学という言葉を目にして、プラトンが創設した学園「アカデメイア」の入り口に、「幾何学を知らざる者は、この門を入るべからず」と書いた額が飾ってあったという逸話を思い出した読者が多かったのではないだろうか。それにしても何故、かくもプラトンは幾何学を重要視していたのだろうか。実は、その答えを解く鍵がピタゴラスに隠されていた。

ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、紀元前570年ころにギリシア東南部のサモス島で生まれている。成長したピタゴラスはエジプトを訪れ、黄金比の中に宇宙の秩序が隠されているという古代エジプト人の秘密に触れ、彼らの秘密を自家薬籠中の物にした人物であった。そうした“エジプト派”のピタゴラスが創立したピタゴラス教団では、ペンタグラム(五芒星、pentagram))およびペンタゴン(五角形、pentagon)を同教団の符牒としていたのである。

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図1:ペンタゴンとペンタグラムがもたらす神秘的な2つの三角形
(ピュタゴラスの定理の原型と黄金の三角形)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.241

図1を見ていただきたい。上図のペンタゴンの中に、ピタゴラスの定理のモデルである底辺が三・高さが四・斜辺が五の直角三角形が描かれているのに、目を見張った読者が多かったのではないだろうか。さらに下図に目を移せば、ペンタゴンがペンタグラムの外縁であると共に内核を作っているのがお分かりいただけるはずだ。そのあたりに、ピタゴラス教団が五芒星の持つ神秘的な魔力を感じ、五芒星を守護用のシンボルにした理由があるのだろう。軍人たちも喜んで五芒星を魔除けに使ったようであり、その典型的な例がペンタゴンの形をしたアメリカの国防総省である。皮肉にも、9・11事件で一部を破壊されたが…。

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図2:ペンタグラムと黄金の三角形(H. Huntley原図)
(ΔABC:ΔABD:ΔDBC = Φ2:Φ:1)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.243

ペンタグラムは幾何学的に素晴らしい魅力を秘めており、図形全体が黄金比で満たされているのを示しているのが図2である。ちなみに、ペンタグラムの星を構成するトンガリ帽子の二等辺三角形が、黄金の三角形と呼ばれているものである。何故なら、斜辺を1と考えると底辺は0.618の長さになり、これをギリシア文字のファイの小文字φで表わせるからである。さらに、底辺を1だと考えると斜辺は1.618になり、これは大文字のファイでΦと表すわけだし、底辺の長さをΦと考えると斜辺の長さは2.618になり、1プラスΦか2プラスφになるのがお分かりいただけるだろうか。ともあれ、2枚の図から様々なインスピレーションが閃くかもしれないので、頭の体操のつもりで暫し眺めていただければと思う。

このように、黄金の三角形が秘めている神秘的な力に魅せられたが故に、エジプト人は黄金分割を秘伝中の秘伝扱いにしたのだろうし、それを受けついだピタゴラス教団の人びとも、秘伝を外部にもらさないように秘密結社の形で秘伝を大事に守ってきたのであり、その伝統が今日のフリーメーソンにも引き継がれているのだと筆者は思う。かように、数学や芸術哲学は無論のこと、鉱物学、金属学、医学、心理学など、幅広い知の全領域に思考が及ぶ百科全書派の人間だけが真に習得することの出来る、人類至高の智慧こそが黄金比に他ならないのである。ここに、古代エジプト人の「黄金比の中に宇宙の秩序が有る」という信仰にも似た確信に、筆者も同意する所以である。

アカデメイアの入り口に「何学を知らざる者は、この門を入るべからず」という額を飾ったプラトンは、神秘主義を貫き通したピタゴラス教団を深く研究し、ペンタグラムにまつわる黄金の三角形の秘密を掴んでいたであろうことは、最早疑う余地がない。

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2009年7月 2日 (木)

野ごころ

昨夕、学校(埼玉県の某私立高校)から戻った上の息子(高一)が、開口一番「このままでは学校の成績が下がって、特待生の資格を失うかもしれない…」と打ち明けてきました。その言葉を耳にして、この春先に藤原(肇)さんに会わせただけの甲斐があったと、親父として非常に嬉しく思ったことでした。

このあたりの背景を少し説明しておきましょう。現在息子が通っている高校は最寄りの駅から出ているスクールバスで30分ほどのところにある、自然に囲まれた隣の市にあります。この高校では2年ほど前から特待生制度を設けており、中学生だった去年の暮れに校長面談を受けた息子は、無事に特待生として合格しています。無論、学校側が特待生に期待していることは、名の通った大学に進学して貰うことで学校の実績とし、より多くの新入生を募るところにあり、所謂広告塔という役目を息子は仰せつかったことになります。当然ながら、二年半後の大学入試を突破するための暗記型の授業が中心となるのですが、これが息子には苦痛のようです。そのため、学校の授業の全部とは言わないまでも、暗記中心の授業やマルバツ式の問題集を解く訓練が中心の授業などに、息子は嫌気がさしているようであり、このまま行けばそうした科目の成績が落ちることは目に見えているのですが、親父としてはそれはそれで良いと思います。

寧ろ、そのような暗記型、マルバツ式問題集型の学習に精を出すよりは、和漢洋の古典の大海を泳ぎ、部活で身体を鍛え、リーダーシップを養い、宮崎県知事の東国原英夫や大阪府知事の橋下徹のような、四流五流以下の人物ではなく、藤原さんといった一流の人物に引き合わせていくことで人物を観る眼を養って貰い、大勢の学友と時には夜を徹して語り合うといった、充実した高校生活を送ることの方が遙かに大切です。そのため、特待生の資格を失うことがあったとしても、それはそれで仕方のないことであり、寧ろ春先に会った藤原さんからの話を真に理解してくれたことを親として喜ぶべきなのです。こうした真の学問については本ブログでも幾度か書いてきましたので、以下に数例を挙げておくことで繰り返しを避けたいと思います。関心のある方は一読ください。

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体
21世紀を生きる子どもたちへの最良の指南書
一流教授の下で学べ

なお、2時間にわたった藤原さんとの話の中で、息子は色々と本人なりに学んだようであり、その現れが文系から理工系の道を進む決心をしたという、息子からの後日の報告でした。また、藤原さんが息子に諭すように語っていた、「数学、特に幾何学に打ち込むと良い」というアドバイス、今後も時折思い出して欲しいものです。そこで、「幾何学のすすめ」と題して明日アップしようと思います。お楽しみに。

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『間脳幻想』に書いて戴いた息子へのメッセージ

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2009年7月 1日 (水)

ブックオフは本のゴミ屋さん

今年の春先、二人の息子を連れて在米の藤原肇さんとお会いした時、ブックオフのことが話題になったことがあります。その時、藤原さんがブックオフのことを「ブックオフは本のゴミ屋さんだからね…」と喝破したとき、本好きな長男(高一)が呆気にとられた顔をしていたのを思い出します。

私の住んでいる街も御多分に漏れず、ブックオフが公害…、ではなくて郊外にあります。私は時々仕事中の息抜きに、子ども達を連れて車で件のブックオフに行くことがあり、オンラインの古本屋さんでも手に入らない本や、手に入るにしても高い値が付いている本などを探し出して入手するのが狙いですが、それ以外にも初めて接した本でなかなかの良書が定価の半額、時には105円で売っていることもあり、そうした場合は必ず購入することにしています。子ども達にもマンガ本以外は買ってやるから、好きなだけ選んでも構わないと言っているので、結構彼らなりに気に入った本をたくさん探し出してきます。その意味で、ブックオフにとって我々親子は良いお得意様かもしれません。藤原さんもロスにあるブックオフという本のゴミ捨て場に時々寄り、掘り出し物に当たることが時々あるとのことでした。

そのブックオフですが、ご存知のように集英社、講談社、小学館という日本を代表する大手出版社、そして大日本印刷がブックオフの株を取得したニュースは記憶に新しいところです。このあたりのニュースは6月27日付の東京新聞が詳しいので、記事のコピーを載せておきましょう。以下の記事をクリックして下さい。特に注目すべきは最後のページ右下のイラスト「ブックオフをめぐる出資の流れ」であり、この図を眺めることによって現在の出版業界の潮流が読み取れると思います。
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ところで、上記の記事の中で、『だれが「本」を殺すのか』を著した佐野眞一氏は、今回の動きについて以下のように述べています。

すでに書店の淘汰は進んでおり、今回の動きで廃業が増えるとも思えない。出版三社の狙いはまだよく分からず、あまり大げさに考える必要はないのかもしれない

この佐野氏の発言を目にして、筆者は物足りなさを感じました。何故なら、筆者にとって本は単なる物ではないからであり、本を物扱いにしてバナナの叩き売りよろしく売りまくっているブックオフに対して、佐野氏は本と物の違いについて何か発言しなかったのでしょうか…。

藤原さんは本を非常に大事にする人であり、たとえば7年ほど前、東明社という出版社が自社の書庫を売却するため、藤原さんの本をはじめとして多くの本を裁断するということになった時、藤原さんは自著を含め、東明社から刊行された貴重な図書を買い取ったのでした。現在、その時の本は拙宅に大量に保管してあり、希望者には有償で頒布しています。以下は頒布本の案内のページですが、本に対する藤原さんの言葉の数々をページの最後の方にまとめてありますので、関心のある方は一読下さい。

「宇宙巡礼」書店のご案内

なお、近日中に藤原さんの新著が出る予定であり、詳細は以下の掲示板(投稿No.156~)を参照願います。

藤原肇の最新刊発売

ともあれ、上記の大手出版社の台所は火の車であるという情報を筆者は掴んでおり、その辺りから今回のブックオフ株の取得の裏を読み取っていく必要がありそうです。

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