フルベッキの子孫を巡る噂
中村保志孝氏という、フルベッキ博士の子孫とされる人物がいるという噂は、前々から耳にしていました。これが真実とすればビッグニュースです。このあたりの真偽を確認するため、先々月の5月連休、慶応大学の高橋信一准教授とノンフィクション・ライターの斎藤充功氏が東京都八王子市の中村保志孝氏の自宅を訪問し、詳細なインタビューを行っています。その時の様子を高橋信一准教授にまとめていただきましたので、以下にご報告いたします。なお、斎藤充功氏も『怖しい噂 Vol.2』(ミリオン出版)から「フルベッキ写真に幕末の英傑たちは写っていなかった」と題する記事を発表されています。同誌はコンビニで入手可能ですので、一度手にとって戴ければ幸いです。
中村保志孝氏の略歴
中村保志孝氏との単独および斎藤充功氏といっしょのインタビュー、参考資料、さらに木下孝氏からの情報を総合して分かったことをまとめる。
中村氏の父ペーター・グーズワード(Pieter Goudswaard)氏は通称ピー・ホーツワードといい、1868年10月20日にオランダのドイツとの国境近くの町ヒルゲースベルゲ(Hillegersberg)で生まれ、フルベッキとの直接の繋がりはない。横浜に1900年に設立されたライジング・サン石油会社(後のシェル石油)の長崎支社長として長崎に来日した。その後2回の結婚をしたようだ。一度目は1905年10月18日に赤井フジ(1874年5月23日生、結婚時31歳)とで婚姻届けが残っている。二度目は恐らく1920年代の後半、フジとは子供が出来なかったので中村氏の母キミエと内縁で結婚し、生まれた中村氏は母方の籍に入っている。現在も長崎の中村家とは親交があり(キミエの妹中村フジ子も長崎在住だった)、寺町の長照寺に今でも中村家の墓があり、墓参りもされている。中村氏の誕生は1928年2月3日であるが、4歳の1932年2月12日に父は64歳で突然亡くなった。死亡記事が長崎新聞に載った。父の住まいは大浦東山手であり、西山の家から葬式に連れて行かれたことを覚えている。新坂本国際墓地(No.68)にあるお墓の墓碑には日本人妻赤井フジの銘がある。こちらにも墓参りしている。母の若い写真と父の来日当時の若い写真を夫々枠に入れて持っている。中村氏の生まれた年の7月1日に撮られた父の署名入りの晩年の集合写真が残っている。長崎新聞に載った写真はない。父の若いころの他の写真は散逸して残っていない。赤井家にあるのではないか。赤井家の血筋の長崎大学の教授がオランダに行って、グーズワード氏の家系を調べたが、フルベッキ家との繋がりは見出せなかった。
フルベッキは1859年にアメリカで結婚して来日し、長男ウィリアムは1861年に日本で生まれている。1868年7月16日に日本で生まれた四男ギドーは1884年に米国で亡くなった。グーズワード氏はフルベッキの子供でも孫でも曾孫でも有り得ない。フルベッキの子供たちは、生まれてすぐ長崎で亡くなった長女エマ、一年足らずで亡くなった四女メアリを除いて、最終的にアメリカで(正確にはもう一人6男バーナードが日本に向かう船中で)亡くなっている。長女エマは長崎悟真寺のオランダ人墓地に眠り、メアリとバーナードの墓は横浜外国人墓地にある。次女のエマが東京で結婚したのは1899年。1912年夫と米国へ引き上げた。フルベッキを除く全員はアメリカ籍であり、オランダ人ではない。
母キミエと一時東京に出たが、昭和12年小学校4年の時、母が大陸大連へ商売をしに出かけることになり、長崎に戻り片淵の住まいで中村家の祖母に育てられた。赤井家は中村家を金銭的に援助していたようだ。現赤井家のキヌコは子供のころ中村家へお金を持って行かされたことを記憶していると語っている。昭和13年伊良林小学校5年の夏、祖母が亡くなった。昭和14年自分も満州に渡り、小学校は昭和15年大連で卒業し、大連の中学校に入学した。母は昭和15年4月9日に35歳(生年は1905年ごろであろう)で大連で亡くなった。母とは1年ほどの生活だった。終戦の時(17歳)、新京第二中学校を卒業し、旅順工科大学にいたが、翌年博多に帰国、昭和22年金沢の第四高等学校に編入、次いで東大へ入った。長崎の家は売り払った。昭和29年東大を卒業、東大大学院でインド哲学を学んだ。そのころアルバイトで電気のことを勉強した。昭和31年に会社を起こし、幾多の発明・特許・事業化を手がけて来た。いろいろな発明で表彰も受けた。
フルベッキの子孫ということは、両親からは聞かされておらず、戦後まで意識していなくて、長崎の人たちとの付き合いの中で、柳原氏から言われた(平成元年前後か?)が、時期は曖昧である。オランダへ調査に行った長崎大学の教授も関係者の一人かもしれない。中村氏は長崎の関係者の集まりに招かれてフルベッキの話しを聞かされたと証言している。「フルベッキ写真」は自宅に最初からあったものではなく、戦後昭和30年代に人からもらった。島田氏の論文や名前を書き込んだ写真の流布は昭和50年以降のものなので、違う系統ということになる。鶏卵紙のオリジナル写真ではなく、完全な白黒写真で大判。後年のコピー。人型のトレースとその中に名前が書き込まれたものが付いていた。当時は写真の内容についてまったく関心がなかったので、書き込まれた名前についての記憶はない。書き込みの様式から、戦前から長崎県立図書館(現長崎歴史文化博物館蔵)に存在していた広運館の写真のコピーと図面の可能性があるが、現在中村氏の手元に取り出せる状態になく、確認出来ていない。「フルベッキ写真」に昭和30年代に名前を入れた事実は他に確認されていない。陶板額の基になった資料は柳原氏が持って来た。中村家に最初からあったものではない。フルベッキの子孫というのも全員の名前も柳原氏らの創作の疑いが濃厚である。
参考資料
1.「時の流れを超えて -長崎国際墓地に眠る人々-」
レイン・R・アーンズ、ブライアン・バークガフニ著 長崎文献社 1991。
2.「長崎に眠る西洋人 長崎国際墓地墓碑巡り」
木下孝著、ブライアン・バークガフニ/西堀昭監修 長崎文献社 2009。
3.褒章クラブ編「国家褒章に輝く人びと 第四巻」
※ お知らせ
高橋信一先生が、フルベッキ写真をテーマに講演を行います。
日時 : 2009年8月22日(土) 15:00より
場所 : 春廼舎(新宿区荒木町8 根本ビル1F)
詳細は以下を参照願います。なお、会場は40名程度しか入場できないとのことですので、お早めにお申し込みください。
江戸史談会
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