『シルクロードの経済人類学』
最近、栗本慎一郎氏の新著『シルクロードの経済人類学』(東京農大出版会、2007年8月1日刊)を手にしました。きっかけは、昨年の暮れにお会いした某ジャーナリストが同書を高く評価していたからであり、日頃から注目していたジャーナリストの言葉だけに、帰宅後私は早速オンラインで申し込んだのでした。その後、数日して届いた同書を一読していくうちに、私の北ユーラシア史観が音を立てて崩れていくのが分かりました。2ヶ月前、山形明郷氏の『邪馬台国論争 終結宣言』(星雲社)を読んで、自分の東アジア史観を根底から覆されたという体験をしたばかりであり、まさか同様の体験を2ヶ月もしないうちに再び体験するようになろうとは、夢にも思いませんでした。
同書から得た最大の収穫は、日本文化の土台(基礎)は「北のシルクロード(草原の道)」の遊牧民族が持ち込んだ文化であるという“史実”を知ったことであり、そのおかげで中国や韓国経由で今日の日本文化の土台(基礎)が構築されたという、従来の固定概念に囚われていた自分に気づいたことでした。さらに、ユーラシア大陸に存在していた遊牧民族の思考行動様式を同書で学んだことにより、長年にわたって中華思想や西洋思想の観点から捉えていた北ユーラシア史観から解放されたことにも繋がりました。
ここで、「草原の道」について簡単に触れておきましょう。私たち(40代以降)がシルクロードという言葉を耳にして最初に思い浮かべるのは、1980年代前半にNHKが中国領土内のシルクロードに足を踏み入れ、世界で初めて特集として放送したシルクロードではないでしょうか。NHKが放送したシルクロードは、タクラマカン砂漠からパミール高原を越えて長安に至る道であり、私たちにとって書籍や雑誌などを通じて馴染みのシルクロードです。しかし、実際には長安に至る道は他にもあり、それが「海のシルクロード」と上述の「北のシルクロード」です。以下の地図をクリックしてください。
北のシルクロードが日本に及ぼした影響は、縄文中期から晩期かけての三内丸山遺跡(冬至夏至ネットワーク)、さらには古墳時代以降の大和三山を中心とする日本各地(聖方位)にも及んでいるのですが、このあたりは栗本氏が著した『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版)に目を通していただくとして、本稿では北のシルクロードについてさらに詳しく追求してみたいと思います。
北のシルクロードが日本に及ぼしたものの中で最も重要なものとして、栗本氏は「七世以降の律令制の整備と官僚制度および法概念の整備であって、これらはまさしく天皇制の基盤確立に繋がるものだ。またそこに宗教観までもが加わるとすれば、“関わった”と言うより“基本要素を引き継いだ”とさえ言いうるのではないか(p.11)」と述べており、さらに栗本氏は以下のように言葉を続けています。
これら多くの基礎となるものをこれまでの歴史学では「中国から」あるいは「中国から朝鮮を経て」来たと言ってきたが、間違いである。技術的なもの(たとえば漢字)は確かに多数、中国朝鮮からやってきている。中国朝鮮の影響を日本が受けなかったということは絶対にない。しかし、主要な要素は「中国朝鮮を通らずに北から」日本へやってきていると考えるべきだ。
たとえば法概念のように、確かに一見中国から日本へ持ち込まれたように見えるのでもそうだ。法は慣習の原点をよく調べると元は北方の遊牧民の世界において育まれたものが中国へ持ち込まれて、それが日本へ来たと考えるべきものが多い。そもそも中国は、隋や唐の大帝国が成立するまで紀元前からずっと北方世界の影響下にあったからである。そして隋も唐も鮮卑族の影響下に建国された帝国であったことが、(いささか政治的な判断に基づいて)不当に無視されていることも問題だ。要するに、これまでもとはすべて中国のものだと言われてきた「風水」や道教的な諸要素も、いずれも元来は北のシルクロードのものであったと考えることが出来る。確かにそこに漢民族文化の味付けがあったことも間違いない。だが、日本人はそれらの基となる北の文化とはなじみの深い民族であったから、必ずしも中国経由でそれを採り入れる必要はなかったのである」(p.11~12) (注:栗本氏の本にも書いてあることですが、皇帝が遊牧民出身だったのは何も隋や唐だけではなく、その前の北魏も遊牧民鮮卑の築いた王朝だったという史実があります) |
ここで、栗本氏の言う「いささか政治的な判断に基づいて」という下りを以下に補足しておきましょう。
私は四書五経をはじめとする、中国の主な古典は一通り揃えて目を通してきたし、特に唐詩といった漢詩が好きで、何処かへ旅に出るときは必ず旅行鞄に詰めていくのを専らとしています。その反面、中国の歴代の史書は嘘が多い事実も知っており、また現在の中国共産党の非情さといった面は、現在読み進めている『中国はチベットからパンダを盗んだ』(有本香著 講談社+α新書)を例に取り上げるまでもなく知っていたつもりだったし、人類の智恵が鏤められた中国古典の延長線で一方的に中国に畏敬心を抱いたことはないつもりでした。それでもなお、栗本氏の本を読み進めながら、まだまだ自分の中国に対する認識が甘かったと反省した次第です。中国の史書の正体は嘘偽りのオンパレードであり、鮮卑だの卑弥呼だのといった相手を侮辱するような漢字を多用しているという点に大きな特徴があります。
それはともかく、北のシルクロードの遊牧民族はどのような思考・行動様式を持っていたのでしょうか。この点は栗本氏の他、余裕があれば杉山正明氏、川田順造氏、岡田英弘氏らの書籍、殊に遊牧民族に関する書籍も、栗本氏の本と比較検討の意味で目を通すのも一考かと思いますし、さらには栗本氏の思想の根底を成すカール・ポランニーの一連の書籍(たとえば、ちくま学芸文庫で発行している『経済の文明史』)などにも目を通すといいかもしれません。本稿では、北のシルクロードの遊牧民族を理解するには、北のシルクロードとはどのような場所だったのかについて栗本氏の書籍を引用する形で述べた上で、遊牧民族の思考・行動様式に絞って筆を進めてみたいと思います。
最初に草原の道、すなわち北のシルクロードとは、どのようなルートだったのか確認してみましょう。以下の地図をクリックしてください。
真ん中の点線の道が通常知られているシルクロードですが、このように天山北路でもなく南路でもない、その北を通っている草原の道(北のシルクロード)、すなわち太い一本の矢印で引いた道こそが本物のシルクロードでした。そのあたりについて栗本氏は以下のように説明しています。
真のシルクロードは、歴史において、あるいは歴史が書かれるようになるもっと前から遊牧民たちが支配し動かすルートにあった。地理学や歴史学からではなく、交易や移動に対する人類学や経済史や社会学の研究がなかったことがこの真実から目がそらされた原因のひとつである。
シルクロードの根源的背景、すなわちユーラシア大陸の歴史における大きな流れを考えるなら、真に絹や民族や貴重財が移動したのは草原の道であったことは間違いない。そここそ、蘇我氏や天皇制の成立に大きな影響を持っていたユーラシアにおける本当の「文明の高速道路」(西突厥研究者内藤みどり氏)であった。その道なら、重たい鉄も比較的簡単に運搬できた。車輪が使えるからである。前三〇〇〇年前から南シベリア・エニセイ川上流域で栄えたミヌシンスク文化末期のタガール文化(前三〇〇〇~前一〇〇〇)では、各種の車輪が発明されていたことが知られている。それはいわばこの草原の道のためである。(p.63~64) |
北のシルクロードとは、実際はどのような道だったのか、上記の引用でお分かりいただけたのではないでしょうか。次に、遊牧民族とはどのような思考・行動様式の持ち主だったのかを見ていきましょう。突厥を例に同じく栗本氏の書籍から引用してみ ます。
簡単にだけ述べておくと、一見混乱のように見えるものはすべて遊牧民の国家が本質的に連合国家だったから起きたことにすぎない。逆に他国民から見るとまったく統一されているように見えても、内部ではカガン(皇帝)と副カガンは相互にかなりの独立性を保ちつつ協調していたし、指導部にずれが生じ混乱が起きたかに見えてもわずかな時間でシステムを復元させる力を持っていた。治下にあった諸王国に対しても、相当以上の自治権が与えているのが普通だが、軍事や税についてのように厳しく管理が徹底されているものもあった。これはまさしく、かのパルティアなどにも見られた遊牧民の帝国の特徴なのである。これを農耕民族中心の帝国観から見ては間違える。
だから、五八三年東西突厥に分裂したといっても、二国が永続的に分立して完全に対立抗争するといった様相ではまったくなかった。その後、七世紀初頭でも東西突厥皇家は対立とともに協力も行っていて、なんと立場の相互交代をも繰り返した。東突厥系のアシナ氏が西突厥の皇帝になったり、また西突厥を追われた皇帝(タルドゥ)が東突厥の皇位を占める(バガ・カガンとして五九九年即位)ということも起きた。また東の第二可汗国は西突厥アシナ皇家滅亡後もモンゴル高原に勢力を残していた。有名なオルホン川流域の突厥オルホン碑文は、この第二可汗国のビルゲ可汗(~七三四)のころのものである。これは西側や中国側の歴史家には理解の外に出るものであったろうが、遊牧民の帝国では決して異常なことではない。パルティア帝国がそうであったように、争いは争いでありながら、帝国の政治的宗教的統一性はそれなり以上に保たれていたのである。(p.70~71) |
この栗本氏の突厥に関する記述を読むだけでも、朧気ながらも今までに抱いていた遊牧民族に対するイメージとは異なるものを感じていただけたことでしょう。ともあれ、必要なのは遊牧民族の本来の姿を知ることであり、その意味で栗本慎一郎氏をはじめ、杉山正明氏、川田順造氏、岡田英弘氏らの書籍に目を通すと良いのではないでしょうか。以上の作業を行うことで、今まで遊牧民族に対して抱いていた間違ったイメージを払拭し、改めて己れのユーラシア史観を再構築していただければ幸いです。
最後に、同書では草の道の遊牧民族といったテーマ以外にも興味深いテーマがありますので、以下に列記しておきましょう。なお、聖方位に関しては、読者からの要望があれば『シリウスの都 飛鳥』(栗本慎一郎著 たちばな出版)を取り上げてみたいと思います。
★ 蘇我氏
かくして3世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。最新の諸研究が示すように、聖徳太子はおそらく実存の人物ではなく、実存したのはただ蘇我氏の一団だった可能性が高いが、個人としての聖徳太子が実際にいてもいなくても彼らが律令制、大化の改新以降の天皇制の基礎を築き、弥勒仏教を導入し、日の本やスメラミコトの名称を導入し、漢字やそれを用いた日本史の編纂を行ったのである。
その日本史『天皇記』(スメラミコトノフミ)はおそらく北シルクロード自出の日本王権の正当性を述べていたものだから、六四五年の乙巳の変のクーデター後、最緊急の課題として蘇我邸が急襲され焼却されたと考える。そのことのほうが蘇我入鹿の殺害より重要であった可能性が高い。そして聖徳太子や蘇我氏が書いた歴史に対抗して反蘇我勢力側が作らねばならなかったのが『日本書紀』と『古事記』である。要するに、今日に繋がる日本文化の基礎は彼ら(蘇我氏とそれに主導される一団)が築いたものだ。そして、聖方位について以外はどれも日本文化の基礎的要因だったと誰もが公式に認知しているものである。間違いなく蘇我氏こそ日本を日本にした帝王だったのだ。蘇我氏は北日本を土台にし、九州の王・物部氏を倒し、継体天皇に代表される北陸系の勢力(これも渡来勢力?)も抑え、全日本を統一した現実の帝王だったのだ。確かに蘇我一族宗家は乙巳の変(六四五年)で一掃された。しかし、その影響(そこまでの仕事)が日本を築き、その後の日本を大きく決定づけたことは間違いない。(p.20~21) |
★ 聖方位
聖方位とは、日本の著名な研究家で古代史家の渡辺豊和教授(京都造形芸術大学)が最初にペルセポリスと日本の巨大前方後円墳および主要神社、仏閣に共通する不思議な方位として発見し研究されたもので、真北から20度西に振った特別な北を持つ方位のことだ。言うなれば、北が20度西に振れている角度である。これを私は「聖方位」と名づけ、日本を中心にペルセポリス、バビロンなど多くの実例とその関係を研究したのが『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版 二〇〇五年)だ。
-------中略--------- 聖方位は実は、冬至の深夜の太陽シリウスの位置に関係する。冬至の深夜12時が新年の始まりならば特に関係がある。シリウスは大体南南東の夜空に輝く。基本的には真南から20度ほど東に振れた角度の空にである。そのシリウスを遙拝したとすると、その背中に当たる真後ろの方角は真北から20度西に向くことになる。これが聖方位だ。日本ではあるものの真後ろに当たる角度を「後ろの正面」と言って特別視するが、それはここから来ているというのが私の説である。(p.178) |
★ 日本語
日本語はアルタイ語系と言われても一応、孤立語の性質のほうが強いということになっている。日常的ないくつかが似ているということから相互の共通性を一方的に仮定する議論はもうたくさんであろう。誤報や単語は「本質的な」ものについてだけの検討をなすべきだろう。その場合、何が本質的なのかという点についてはこれまでいかにも無勝手流の推測がなされてきた。だから、今のところここから決定的なものは引き出せないと考えるべきだ。けれども、すでに述べたとおり、王権や宗教および聖性などに関するものは別だ。これらは特別に重要なものであり、そこにおいて日本語と北ユーラシア諸語との共通性が大きいことは逆にあまりにも無視されてきた。スメラ、アスカ、ナラ、テン、ヤマト、マホロバなどの決定的に重要な語はいずれも北ユーラシアとの繋がりを示すものではないか。そして何よりも、蘇我およびサカであろう。(p.15~16) |
★ 古墳
日本に突如生まれた巨大古墳の文化は、北のシルクロードどころかユーラシア草原の特定の地域に紀元前から広がっていたクルガン(巨大盛り土墓)と繋がるものであることは疑いない。(p.17) |
★ ユダヤ
ところで、六五七年、東部分のアシナ家は権力を失ったが、それはイステミ系ながらトンヤブグの子の兄シェグイの系統の家系であった。西にはトンヤブグの子(名前不詳、王名はイルビス Irbis)を始祖とするアシナ朝カザール王国が残った。そこから今日のハンガリー、ブルガリアが生まれ、ロシア人諸王国(公国)が大きな影響を受け、そこから今日のユダヤ人の主流・アシュケナージ・ユダヤ人の主軸が生まれた。(p.155) |
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