朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価
「S_Takahashi_081201.doc」をダウンロード
※ 本論文に挿入した写真は、『甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社刊)よりスキャンしたものです
1986年から1987年にかけて、朝日新聞社が主催するオランダ国内各地に所蔵されている日本の幕末から明治にかけて撮影された多数の写真の展示会が全国各地で開催された。それらの写真を編集した写真集は最終的に1987年朝日新聞社版「写真集 甦る幕末」(1)に結実し、古写真の歴史資料としての価値を一般に知らしめる役割を担った。その展示会開催の経緯は巻末の解説と、その後に編集者によって刊行された二冊の本(2、3)に明らかにされている。この「写真集 甦る幕末」は、現在も古写真研究のバイブル的な資料となっているが、発表から20年以上が経過しており、出版当時の古写真に関する知識をこれまでの様々な研究成果を利用して更新する時期に来ているのではないかと考え、掲載写真に付されている説明の見直しを試みた。2007年秋に長崎大学はオランダのボードイン家から4冊の写真アルバムを購入し、2008年10月に長崎歴史文化博物館で「長崎大学所蔵ボードインコレクション展」を開催した。さらに、Web(4)上での公開を開始した。これを機会に「写真集 甦る幕末」のベースにもなっているオランダ・ライデン大学のボードイン・コレクションを始め、各種の写真の内容を一度整理し、理解し直すことは意義あることと考えたからである。
「写真集 甦る幕末」に3つの異なるバージョンがあり、上記の最終版以外に1986年朝日新聞社刊の「甦る幕末」(5)と、それをベースにした1987年のライデン大学版「甦る幕末」(6)がある。その他に、1996年にライデン大学・アムステルダム海事博物館・ハーグ国立公文書館などから、オランダ国内の古写真を集めたCD版の「Memories of Japan(日本の想い出)1859-1875」(7)が出されている。これには所蔵元や撮影者、撮影対象など毎にソートを掛ける機能があり、ほとんどの写真の所蔵元や撮影者などの情報を知ることができる。中でもボードイン・コレクションにはアルバム毎の分類分けがなされている。そのコレクションには3つの大きなアルバムがあり、ベアトの「Views of Japan」や「Views in Japan」アルバム(8)掲載の写真やボードイン兄弟たち自身や上野彦馬が撮影した写真が混ざっているB1、B2、B3アルバム。その他に小さいアルバムが数冊あり、和紙で作られた手製のBDアルバムや350枚余りの1870年以降、A.J.ボードイン(Albertus Johannes Bauduin)の帰国後に収集されたと思われるBAアルバムなどがある。今回長崎大学の購入したアルバムは、この内のB1、B2、B3とBAのアルバムであり、CD版「日本の想い出」にも既に収録されている。その他のボードイン・コレクションはライデン大学が所蔵している。
これらの資料を基に、オランダ貿易会社の日本駐在員であり、オランダ駐日領事だったA.J.ボードインの書簡集「オランダ領事の幕末維新」(9)やオランダ領事ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)の「ポルスブルック日本報告」(10)、長崎精得館オランダ人化学教師グラタマ(Koenraad Wolter Gratama)の「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(11)、そして2001年にオランダで出版されたボードイン写真集「Arts en koopman in japan(幕末のオランダ人兄弟 医師と商人)」(12)、ポルスブルック・コレクションを収蔵するアムステルダム海事博物館(13)のデータベースなどを参考にして、1987年朝日新聞版「写真集 甦る幕末」掲載の写真の所蔵元調査と説明文の再検討を行った。残念ながら、450件の写真の内、数件の身元は判明していない。表1に写真のタイトル・所蔵元コレクション名・撮影者を調べた結果をまとめた。1/3近くはボードイン兄弟以外、かなりポルスブルックの収集になることが分かる。Bは長崎大学所蔵のボードイン・コレクションを含むライデン大学のボードイン・コレクション全体。その内B1、B2、B3、BA、BDはCD版「日本の想い出」に使われているライデン大学のアルバムの分類記号である。先に述べたようにB1、B2、B3、BAのアルバムは現在長崎大学所蔵のものだが、ライデン大学の分類番号をそのまま使用した。Pはアムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクション。Gはオランダ民族学博物館のグラタマ・コレクション。Lはライデン大学のボードイン以外のコレクション。Hはハーグ国立公文書館のコレクションである。括弧付きで示した(B)はベアト(Felice Beato)の撮影。(H)は上野彦馬、(R)はロシエ(Pierre Joseph Rossier)、(AJ)はA.J.ボードイン、(U)は内田九一、(S)は下岡蓮杖、(Sa)はサンダース(William Saunders)、(Su)はサットン(F.W.Sutton)、(W)はウィルソン(John Wilson)、(I)は市田左右太の撮影である。撮影者の判定は、上記の参考資料や先輩諸氏の意見を参考に筆者の判断で行った。(AJ)とした写真については本文の中で根拠を説明する。その他のベアト以外の撮影者に関しての検討は進んでいない。かなりベアトのものが含まれているが、今後の課題である。また、ボードインとポルスブルックのコレクションの間で、かなりの所蔵の重複があることが分かる。ベアトの写真が相当数流布していたことを示している。
先ず、「写真集 甦る幕末」と上野彦馬との繋がりを見つけるために、2007年の「上野彦馬賞」展示会の際に尼崎総合文化センターが出版した「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(14)(以後、「江崎べっ甲店アルバム」と呼ぶ)と比較した。これは、長崎の江崎べっ甲店が所蔵するもので、元々上野彦馬写真館が作製した写真アルバムであり、文久2年開業当時から慶応2年暮れごろまでに撮影された写真が収められている。両者を比較すると、「写真集 甦る幕末」の写真No.125は「べっ甲店No.39」と同じ。No.160は「べっ甲店No.44」と同じときに撮影された別バージョンである。小舟の影が水面に
No.160
投影しているが、角度が変わっていることを堺屋修一氏からご指摘いただいた。No.148は「べっ甲店No.42」に釣り人を加えて撮った同じ場面の写真である。No.126は「べっ甲店No.38」と同じではないが、ほとんど場所が一致する。東京国立博物館所蔵の上野彦馬によるウィーン万博出品アルバム「長崎市郷之撮影」(15)中の明治5年までに撮影の写真「長崎港 第二」と位置・構図が同じだが、それより、後年のものと思われる。No.143は「べっ甲店No.36」と近い別の日に撮ったものと思われる。何れにしろ、これらは上野彦馬が撮った写真と考えてよい。その他にも上野彦馬撮影のものがあり、後述する。上野彦馬撮影の写真はボードイン・コレクションには少ないが、グラタマは上野彦馬写真館で写真を買っていたのではないかと考えられる。
写真No.241、242
ここからは、ライデン大学所蔵のボードイン・コレクション解明のために人物写真 の再検討を始める。これらのポルスブルック所蔵の写真の内、前者はボードイン・コ レクション中にオランダ医師A.F.ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin)撮影と されている。長崎出島の旧オランダ領事館の書斎で撮影された可能性があり、次の項 で論じる本質的な問題に係わるが、筆者はA.J.ボードインの撮影だと考える。後者は ポルスブルック・コレクション中にベアト撮影とされるものである。写真No.30 3の項で中原猶介に関連して、また触れるが、名刺判で江戸のオランダ領事館でベア トによって撮影されたと考える。
No.259
このステレオ写真のような写真について考える前に、書簡集「オランダ領事の幕末 維新」(16)を基にボードイン兄弟の来日後の行動について整理しておきたい。末弟の A.J.ボードインは1855~1859年までバタヴィアのオランダ貿易会社の東イン ド支社で働いた後、1859年4月3日にオランダ貿易会社の日本支社員として長崎 に到着し、出島に住む。同8月4日の家族に宛てた手紙で「ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)が写真に凝っているので、自分の写真を頼んだ」 と書いて、1860年3月の手紙ではその写真を本国に送っている。1862年10 月28日に次兄で医師のA.F.ボードインが長崎に到着、A.J.ボードインとは別に住居 を構える。この間にA.J. ボードインはポンペに感化されて写真術を覚えたと推測され、 撮った自分の写真を家族に送っている。1863年3月24日の手紙で、ステレオ写 真のようにして兄弟の写る2枚の写真を(A.J.ボードインが)撮って同封した。これが、 写真No.259である。A.J.ボードインは1863年8月にオランダ領事に任命さ れ、旧領事館に住むことになる。1864年にはA.F.ボードインもしょっちゅうこの 家で寝泊りしていたようである。1865年1月にA.J.ボードインはこの家を買い取 り、その6月に自分で自宅の写真を撮り、よく撮れたと本国に送った。つまり、この ころまでにA.J.ボードインは日常的に自前で写真を撮っていたと言えるのである。一 方、1865年10月のA.J.ボードインの手紙で「A.F.ボードインも時々写真を撮っ ている」と言っているので、A.F.ボードインが写真を撮るようになったのはこのころ と考える。全てがA.F.ボードイン撮影の写真であるという考えは修正されるべきであ ろう。現存する写真がどちらの撮影になるものかについては後に論じる。
さらに、写場は1864年以前とそれ以降で変化することに注意する必要がある。即ち、写真No.258、259、262、267、287、301、302、303、304は最初のA.J.ボードインの住居で、写真No.241、254、255、257、260、263、264、274、277、286,288、290、298、299は旧領事館で撮影されたと思われるが、今後の検討により変更しなければならなくなる場合もあり得る。特に中庭での撮影に関しては判定が困難である。尚、1987年に長崎市が編纂した「出島図:その景観と変遷」(17)の「研究篇 第3章」の中村 賢「開国後の出島」にある「1860-1870年の出島借地人表」によれば、A.J.ボードインは1865年に旧オランダ領事館を買い取った時点で、最初の住居は引き 払い、領事館の住居は大阪に移ってから、一時帰国・再来日した1870年の時点で も所有していたことが分かる。1874年に帰国する前に長崎へ行って処分したと考 えられる。
No.277
このポンペの写真は上野彦馬が撮ったと推定されているが、ポンペが在日していた 1862年の時点で、文久2年(1862年)秋に開業(18)した上野彦馬がこのよう な写真を撮れるはずはない。松本良順や緒方惟準ら養生所の医学生と撮ったポンペの 集合写真(19)(日本医事新報No.1739号「ポンペ先生とその弟子」)と比較すると、服 装が同じなので、同時期に同じ場所で撮影されたものと考えられる。
ポンペを囲む養生所の医学生たち(「日本医事新報No.1739 号」
A.J.ボードイン がポンペの自宅か、旧オランダ領事館で撮ったのであろう。A.F.ボードインでは有り 得ない。ポンペは1862年10月15日で全ての講義を終了し(「ポンペ日本滞在見 聞記」(20)、A.F.ボードインが来日した4日後の11月1日に離日している。仕事の引 継ぎで、それどころではなかった。おそらく、それより遥か以前にA.J.ボードインに よって撮られたものであろう。CD版「日本の想い出」(21)には全1188枚の内に7 16枚のボードイン・コレクションが納められているが、撮影者の名前にA.F.ボード インはあっても、A.J.ボードインの名前がないのは、甚だ疑問である。尚、ポンペが 離日した翌日、養生所(後の精得館)の伊東方成と林研海が、榎本武揚・赤松則良ら 7人と伴に第1回幕府派遣オランダ留学生として長崎から出発している(22)(「赤松則 良半世談:幕末オランダ留学の記録」及び村上一郎「蘭医佐藤泰然その生涯とその一 族門流」)(23)。これには9人の集合写真が載っている。一説にはポンペといっしょの 船で渡蘭したとされているが、明らかな間違いである。
No.256
CD版「日本の想い出」(24)によれば、この写真の裏面に漢字で「中川信輔、写真師、 長崎、北詰」と書いてあるので、大坂心斎橋北詰の中川信輔が撮影したものと思われ る。グラタマの「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(25)にも、1869年6月10 日の大阪医学校「舎密局」開校式のA.F.ボードインらとの集合写真が載っているが、 その時のA.F.ボードインの服装はこの写真No.256と同じなので、集合写真も中 川信輔によって大阪で撮影されたと考えてよい。中川信輔は長崎の上野彦馬に学んだ 横田朴斎の弟子である(26)。
No.257
ボードイン三兄弟となっているが、根拠は明らかではない。この写真の写場はA.J. ボードインが1865年1月に購入し(27)、1867年末まで住んでいた旧オランダ 領事館(1863年に横浜に移転した)内に作られたものである。「写真集 甦る幕末」 ではA.F.とA.J.ボードイン以外に四男のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)が写っているとなっている。また、「オランダ領事の幕末維新」(28)では翻訳 者によって甥のフランス・デ・ライテル(Frans de Ruiter)とされているが、これらに は疑問がある。ドミニクスについては写真No.266で論じる。アムステルダム海 事博物館のデータベースで見ると、この写真の台紙にはA.J.とA.F.ボードインのとこ ろに名前が入れられているが、三人目には名前がない。ポルスブルックも確認出来な い人物であり、親族ではなかったのだろう。ドミニクスやライテルは1869年に別々 に初めて日本にやって来る(29)。A.F.ボードインは1867年4月末に江戸へ行き、 以降帰国まで長崎には行っていない。A.J.ボードインも1868年始めには神戸に住 んでいる。関係者のみの当て嵌めの一種である。この写真は1868年までのもので ある。
No.258
このA.J.ボードインの写真と写真No.303の項で詳しく検討する中原猶介の写 真は同じ草木の背景の下で撮影されている。それぞれ別々のB2とB3のボードイン・ アルバムにあるものだが、同じ1863年の夏に同じ場所で撮られたと思われる。ま た、CD版「日本の想い出」(30)によれば、No.254のA.F.ボードインの写真も写 真No.258といっしょにB2アルバムの同じページに貼られているので、同じ頃に 撮影されたと結論できる。このように見て行けば、各アルバムの成立過程が解明でき るのではないかと思う。
No.266
この写真は1870年に大阪の大福寺でA.F.およびA.J.ボードインとドミニクスが 3人で再会して撮ったものと考えられる。「オランダ領事の幕末維新」(31)に三人の再 会について書かれている。写真中にはエリメリンス(C.J.Ermerins)と緒方惟準も写っ ている。エリメリンスは写真No.272で確認できる。石黒忠悳の「石黒忠悳 懐 旧九十年」(32)には三兄弟が同じ場所で写っている写真がある。三人目はエリメリンス だと書かれているが、間違いである。二つの写真の撮影者は大阪の写真家だと思われ る。確定できないが、存在するはずのA.F.とA.J.ボードインの両方のアルバムにある べき写真である。実際はA.J.ボードインが本国に送った写真を集めたと思われるBDア ルバムにのみ入っている。
ボードイン医師とドムスおよび緒方惟準(「石黒忠悳 懐旧九十年」)
No.268
上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードイン に3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20 日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月 にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏 10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影され た。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写 真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。
No.273
このグラタマの写真は上野彦馬の撮影ではなく、写真No.274と同じ1866 年来日当初から住んでいた、A.J.ボードインの写場で撮られたものである。グラタマ は帰国後は写真の撮影を覚えた(34)が、日本では専ら人に撮ってもらっている。
No.274
このA.F.ボードインとグラタマの写真は1866年4月16日にグラタマが来日し て旧オランダ領事館に住んでいたころのものと考えられる。その年の暮に江戸に招聘 され、翌年2月には長崎を離れた(35)。
No.275、276
これらは、1874年にA.J.ボードインによって撮影されたと考えるのが妥当であ る。撮影当時、A.F.ボードインは日本にいなかった。「オランダ領事の幕末維新」(36) に何回も出て来るが、この年の2月に結婚したバウケマ=ツワーテル(Tj.W.Beukema、 Mevr.I.C.Beukema-Toewater)夫妻は恋人同士のころからのA.J.ボードインの友人であ った。この写真が入っているBDアルバムはA.J.ボードインのアルバムと考えられる。 「写真集 甦る幕末」中には65枚以上のBDアルバム所載の写真が掲載されている。 しかし、アルバム中の写真の貼り方には疑問がある。CD版「日本の想い出」(37)によ れば、BDアルバムには260枚の写真が収められているが、その整理番号は何の脈絡 もなく振られているように見える。場所や撮影時期に無関係である。これは整理番号 がアルバム中の写真の順番に従って付けられたからである。二枚のバウケマ夫妻の写 真No.275と276は別の場所に貼られていた。恐らく、A.J.ボードインから家 族宛てに送られた写真を、彼らの遺族が内容を吟味できずに集めてアルバム化したと 考えられる。そのために、写真の前後関係が失われた。写真の内容は多岐に渡ってお り、BDアルバムの再構成を極めて困難にしている。
No.291
これは写真No.264から明らかにA.J.ボードインである。服装・帽子が同じで、 坊主頭が隠れている。彼の最初の家の中庭で撮られたものであろう。
No.292
この中国人召使いの写真の椅子は写真No.308の椅子に近く、上野彦馬の文久 年間に使われていた椅子とも違う。堺屋修一氏は坐るところの構造や横木の位置関係 を計算して、上野彦馬の写真館と判定されている。耳や唇の形、足のポーズの形が似 ているので、写真No.293と同じ男の子であり、ポルスブルック・コレクション にあったことから、彼の召使いだと判定する。
No.293
この写真はNo.176から179までの写真と同じ高輪・長応寺で撮影されてい る。ポルスブルックが宿舎にしていた。彼の召使いかもしれない。
No.296、297
これらの写真は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」(38)で解明されているよ うに、慶応3年3月27日に大阪でイギリス公使パークスが徳川慶喜に謁見した際に 同行のサーペント号の技師長F.W.サットンが撮影したものをベアトが複製・販売して 広まったものである。他に写真No.225と226のパークス襲撃事件の犯人三枝 と林田の写真や写真No.390と391のアイヌの写真もサットン撮影である。
No.298、299
これらの写真はポルスブルック・コレクションにあるものだが、後者はボードイン・ コレクションのBDアルバムにも入っている。A.J.ボードインの1862年11月15 日の手紙(39)に、「近々新任の長崎奉行大久保豊後守忠恕が病院(養生所)を見学に来 訪する」と書かれているので、その際の記念に撮ったものの可能性がある。夫々旧領 事館の中庭とテラスの写場で撮影されたと解釈できる。
No.301、302
これらの写真に写る人物が、松木弘安(寺島宗則)だと、1987年のライデン大
学版「甦る幕末」(40)と「Arts en koopman in Japan」(41)で説明され、「写真集 甦
る幕末」にも記載されているが、誤認である。1865年当時、彼は隠密行動を取て
おり、3月に英国密航を敢行する準備を長崎でしていた(42,43)。グラバーとは接触
したが、ボードインとは関係していない。彼が医者の出であることと、写真No.3
32の写真と似ているために当て嵌められたものであろう。松木弘安の家紋は丸に十
の字のはずだが、そのようには見えない。この人物と同じ人物が「出島の科学」(44)
に掲載された「ボードインと医学生の集合写真」の中央近くに写っている。こちらの
写真は同時に写っている人物から池田謙斎(45)が長崎・養生所に入学した1864年
初めの撮影と推測される。この写場は背景に写る建物の構造が写真No.259の立
体写真もどきを始めとする、一連のA.J.ボードイン撮影写真に使われた旧宅のテラス
の構造と同じであることは明らかである。また、CD版「日本の想い出」(46)によれば、
BDアルバムの、この写真No.302には、「長崎病院の二人の主任医師」という説明
が書かれているので、松木弘安であるはずはない。真の人物は当時の養生所頭取医師
戸塚文海(静珀)である。戸塚文海の写真は鈴木要吾「蘭学全盛時代と蘭畴の生涯」(4
7)に掲載されており、酷似している。
さらに、次の項で触れるが、写真No.303と304の中原猶介が写る写真の写
場は椅子や背景から、この写真No.301と302と同じである。中原猶介が長崎
に出張したのは下関事件や薩英戦争直前の1863年5月から9月ごろまで(「贈正五
位 中原猶介事蹟稿」(48)及び「鹿児島県史料 忠義公史料2」(49))と考えられる。
先の写真No.259の写場の推定から、「出島の科学」の写真が撮られたのが、上記
のように池田謙斎ら幕府派遣医学生8人が養生所に揃った後の1864年始めとする
と、松木弘安が長崎にいるチャンスはない。彼は1862年1月からの1年間、遣欧
使節で国外におり、帰国後の薩英戦争で捕虜になった後、1864年暮れまで江戸に
潜伏していた。「写真集 甦る幕末」では写真No.301と302の説明文に186
5年撮影とされている。これは、中原猶介の写真の撮影と矛盾する。
元治元年のボードインと医学生(「Arts en koopman in Japan」(12)掲載)
ところで、「出島の科学」の「集合写真」とは別のものが「Arts en koopman in Japan」 (50)に掲載されていて、下1/3くらいが焼かれて破損している。「出島の科学」に 載っている完全な写真はコレクションが異なることが分かる。脇道に逸れるが、ここ に写る人物の同定に関して、推測の現状を述べる。後列A.F.ボードインの右隣は竹内 玄庵(51)、その右は土生玄豊(「図説 日本医療文化史」(52))、後列右から二人目は 相良知安(53,54)、中列右から二番目は緒方惟準(55,56)、その左は半井澄(57)、そ の左の中央の人物は前述した戸塚文海、その左は吉雄圭斎(渋谷雅之「近世土佐の群 像(2)萩原三圭のことなど」(58))、前列吉雄の前は三崎嘯輔(59)、その右二人目は 岩佐純(60)、その右は松本銈太郎(61)、その右後方は池田謙斎(62)、その右隣りはそ の後の精得館頭取高橋正純(63)と考える。中列右端の人物は写真No.302の前列 左の人物と似ている。中央の人物が当時の養生所の頭取の戸塚文海ならば、前列右の 人物は副頭取の可能性がある。BDアルバムには、この人物の単独写真がある。その他 に1862年秋に松本良順の後を受けて頭取になった八木称平(64)や池田謙斎といっ しょに長崎入りした8人の残りの医学生、佐藤道碩・大槻玄俊(65)もいる可能性があ る。つまり、この写真は8人が長崎留学した記念に撮影されたのかもしれない。一方、 撮影時期を1864年始めとすると、橋本綱常(66)は当時長崎にいなかったので、写 っていない。実際、似た人物はいない。尚、1862年から3年にかけては養生所の 頭取は八木称平で、彼は慶応元年3月19日(鹿児島市篇「洋学者伝 郷土読本」(67)) に亡くなる以前に、鹿児島に帰って藩校の教授になっていて、1864年当時は戸塚 文海が養生所の頭取だった。その後、相良知安(68)が頭取を務める。そのように考え て来ると、写真No.301、302の写真は1864年か65年に旧オランダ領事 館の中庭で撮影された可能性がある。
No.303、304
この中原猶介の写真を考える前に、石黒敬七「写された幕末」(69)にある中原猶介 の写真について考えたい。
旧オランダ領事館書斎の中原猶介(「贈正五位中原猶介事蹟稿」)
石黒敬章氏(70)によると、石黒敬七氏がパリで見つけたベ アトの名刺判写真アルバムの中にあったものである。ベアトが複写した可能性も指摘 された。この写真の背景には書棚が写っているが、同じ写場で撮られた別の外国人の 写真がボードイン・コレクションのB2アルバムに含まれていて、「Arts en koopman in Japan」(71)には、それが「ベアトが1863年にA.F.ボードインの書斎で撮影した」 と説明されている。しかし、1863年にベアトが長崎に行った記録(72)はない。こ の写真の人物は特定されていないが、写真No.241と242の写真と比較してポ ルスブルックではないかと考えている。また、これらの写真に写る椅子は写真No. 254のA.F.ボードインが坐る椅子と同じであることを森重和雄氏から指摘された。
実は、「写された幕末」の方の中原猶介の写真を基にして画かれた日本人の肖像画が 1870年にフランスで出版されたA.アンベール(Aime Humbert)の「Le japon illustre」(73)、それの翻訳「幕末日本図絵」(74)(1969-70年出版)、「絵で見 る幕末日本」(75)(2006年新版)に載っており、「外国奉行付き通訳」と説明され ている。
この本に掲載されている何十枚にも及ぶ日本の版画絵は、スイスの参議院議
員のアンベールを全権とする遣日使節団が日本との修好通商条約締結のために、18
63年4月9日に長崎到着し、同27日に横浜上陸、以降1864年2月6日に江戸
のオランダ公使館(長応寺)で条約に調印して同17日に離日するまでに集めたスケ
ッチ、版画、写真を基にして構成されている。しかし、全てが日本滞在中に収集され
たり、図版が実際の現場を再現したものであるかどうかは検証が必要である。先の「贈
正五位 中原猶介事蹟稿」(76)によると、中原猶介は文久2年の暮れまで江戸の江川塾
にいたが、それ以降元治元年3月まで主に鹿児島、5月から8月まで長崎、京都にい
たことが分かっている。その間、元治元年1月9日(1864年2月16日)に船の
買い付けの英国との交渉のために一時横浜に出張している(「薩藩海軍史 中卷」(77))
が、彼が江戸でアンベールの通訳として働くチャンスはなかった。アンベールの都合
で取り上げられたに過ぎない。
それでも、アンベールがどのようにして、中原猶介の写真を手に入れたかを考える
のは意味がある。アンベールは来日間もないベアト(78)を雇って、いっしょに江戸市
中を歩き回りながら撮影をさせているので、彼の写真を基にした版画絵が多数ある。
しかし、アンベールが滞日中にベアトからどの写真を手に入れていたかは明らかでな
い。「写真集 甦る幕末」には写真No.2、3、4、5、7、8、9、10、11、
12、13、23、24、27、28、33、35、36、42、58、63、65、
No.65
116、118、123、143、151、164、172、179、183、18 4、199、204、310、357、364、366、368、370、374、
No.143
375、376、379、382、403、425、432、447、450と18 64年の下関や1865年の長崎の写真を始めとして1868年に発売されたベアト の各種の「Views of Japan」アルバムから転用されたと思しき対応する写真が50枚 に程に及ぶ。特に、次の2枚は「幕末日本図絵」のフランス語の原本「Le japon illustre」 (神奈川大学図書館所蔵)に掲載されているが、写真No.118のベアトが上野彦 馬邸を中島川の下流側から撮影した写真が、そのまま版画絵に起こされている。また、 もう一枚、長崎大学古写真データベース(79)のNo.1297はベアトのアルバムの写真だ が、上野彦馬邸の前から下流を写した川岸に釣り人が座る写真も使われているので、 1863年より後年の写真を手に入れたことは明らかである。一部はアンベールの日 本滞在中にベアトから手に入れたとも考えてよいが、大部分は帰国後に「Le japon illustre」出版の前に雑誌「Le Tour du Monde」に1866~1869年にかけて日 本旅行記(80)を連載するに当たって「Views of Japan」等から集めたのである。尚、 「幕末日本図絵」と古写真の関係については、沓沢宣賢氏の「アンベール『幕末日本 図絵』所収の絵画と古写真との関係について」(81)(「日蘭学会会誌1998年、第 22巻第2号」)に先駆的な研究がある。
今後はベアトと中原猶介の出会いを調べることが残されている。それについては写」真No.195の写真で再度述べる。まとめと、「写された幕末」(82)にある中原猶介の写真が撮影された場所は長崎の旧オランダ領事館の書斎だったと考えらる。撮影者はA.J.ボードインと結論する。さらに補足の情報は前述の「贈正五位 中原猶介事蹟稿」(83)及び「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」(84)の、「写された幕末」とは別バージョンの中原猶介の写真である。中原猶介はベアトに自分の写真を複写させ、焼いた写真を名刺代わりに親交のあった人たちに配っていたと考えられる。先の写真No.254の検討から写真No.303と304は、それとは別に、A.J.ボードインが旧オランダ領事館に引っ越す前の自宅の庭で撮影したと考える。撮影時期は1863年5~9月である。尚、この二つの写真の内前者はB3アル バム、後者はBDアルバムのものである。特に写真No.303は、アルバムの次のペ ージ以降にベアトから買ったいろいろな写真が貼ってあり、撮影時に日を置かずアル バムに貼られたと断定できない。1864年の鎌倉事件現場写真(No.215)や 1862年の生麦事件現場写真(No.188)が順序逆で貼られている。写真No. 303より前のページに1866年に撮ったA.F.ボードインとグラタマの写真(No. 274)がある。後年整理して貼ったと結論される。もう一つ付け加えると、この写 真No.303はグラタマ・コレクションにも入っている。彼はいつ・どこで手に入 れたのか。中原猶介は慶応2年(1866年)暮れにも長崎に出張しているので、そ の時にA.J.ボードインに紹介されたのかもしれない。
No.300、308、310、415
これらの写真は同じ写場で撮られているが、ボードインとは関係ない。ポルスブル
ック・コレクションとライデン大学のボードイン以外のコレクションの両方にあった
ものである。CD版「日本の想い出」(85)には1863年上野彦馬撮影となっているが、上野彦馬邸の白い飾り台とも違う。上野彦馬が文久3年にこのような写真を撮っていた形跡はない。これらの写真は前項の写真No.303、304と関連付けて考えることができる。「写真集 甦る幕末」とCD版「日本の想い出」(86)によると、写真No.310は長崎のオランダ通詞石橋兄弟の写真となっているので、それが正しいとすると、長崎での写真ということになる。それを裏付けるものとして、この写真No.310を版画絵にしたものが先のアンベールの「幕末日本図絵」(87)にある。つまり、写真No.308と310はアンベールら遣日使節団の通訳として彼らの世話をした人たちを撮ったものかもしれない。ボードイン・コレクションにはこれら4枚の写真は残っていないので、現状撮影者は特定できない。写真No.415はCD版「日本の想い出」(88)によると、「tea houseの娘」と説明されているので、出島に喫茶所があった可能性を示唆しているが、確証はない。長崎か横浜の領事館内での可能性も残されている。尚、これらの写真に写っている下部が四角で上部が丸い2種類の柱で構成される飾り台は伊藤博文や井上馨ら5人の長州藩士が密航したロンドンで1863年に撮った写真(89)にも写っており、一般的な飾り台だったようである。「下岡蓮杖写真集」(90)にもある。
ここで、ひとつの仮説を提示する。アンベールの「幕末日本図絵」の抄訳の一つ、
東都書房刊「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(91)(講談社版「絵で見る幕末日本」
(92))にも書かれているが、1861年7月4日の江戸高輪英国公使館(東禅寺)襲
撃事件の補償の一環で建設されていた御殿山の洋式建築の英国公使館が1863年1
月31日、外国人に反発する長州の一派、高杉晋作、伊藤博文、井上馨らにより放火
され、焼失した。この英国公使館焼き打ち事件(93)を受けて各国公使館は横浜に居を
移し始める。1862年9月8日来日したアーネスト・サトウ(Earnest Satow)は12
月3日に建設中の御殿山英国公使館を視察した。「すこし離れて眺めると、二棟に見え
る壮大なもので、部屋の高さや広さは雄大。床は漆が塗られ、壁と天井はきれいな壁
紙が張られている」と日記(「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」)(94)に書き、落成
間近だったことが知れる。焼き打ちの顛末は伊藤博文(95)や井上馨(96)の伝記に詳し
い。写真No.300などの写真は、この洋館において撮影されたのではないか。使
用されたのが、完成前後の極めて短期間だったことから、その後の写真がまったく存
在しないことになった。とすると、撮影者はベアトやウィルソン、ロシエでもなく、
ソンダースの可能性がある。上海の英国人写真家ソンダース(William Saunders)は1
862年8月から3ヶ月間日本に滞在(97)し、横浜・江戸で撮影、パノラマ写真など
を残した。時期的には附合するが、謎は依然として残る。
No.311
この写真に写っているのは洋学塾でなく、2003年にライデン大学に赴いた本馬 貞夫氏(前長崎県立長崎図書館副館長)らによって慶応年間の養生所(精得館)の病 棟と冠木門、そこで学ぶ医学生たちであることが判明した。A.J.ボードインの撮影の 可能性がある。病棟と冠木門は長与専斎の「松香遺稿」(98)に掲載されている写真で確 認できる。
No.312~354
これらの写真は、1862年にロシアとの樺太境界問題の交渉に臨む遣欧使節団が オランダを訪れた際の歓迎会で国王に寄贈した使節団員のアルバムで、ハーグのオラ ンダ国立公文書館が所蔵する写真である。CD版「日本の想い出」によれば、43枚の 内16枚がパリで、26枚がハーグで撮影されている。トータル85枚になる。その 内の30名近くの人物の写真は日本にも残されていて、明治38年8月号「写真画報」 臨時増刊第31号「樺太回復紀念帖」(99)に掲載されている。大正元年の「日本歴史写 真帖」(100)に転載された。しかし、ハーグで撮影された「松木弘安」以外はすべて違 う場所で撮られたものになっており、主にロンドンとサンクトペテルブルグで撮られ た。
No.356
この写真はポルスブルック・コレクションのものである。これのトリミングされて いない原版からのベタ焼き写真がW.ブルガー(Wilhelm Burger)の写真集「Wilhelm Burger Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera 1844-1920」(101)に掲載されている。ブルガーはポルスブルックの1869年2月離日後の9月に来日しているので、オランダ帰国後に収集された写真である。ブルガーはヨーロッパで写真展を開いたりして自分の写真を売っていたので、それを手に入れたのだろう。ボードイン・コレクションもそうだが、必ずしも滞日中に得た写真ばかりではないことに注意が必要である。
No.1~13、23、33~36
「写真集 甦る幕末」掲載の写真の成立に係わる写真についての検討を一通り終え たので、写真の先頭に戻って見直しを試みる。ここに写真番号を示したもの以外にも 写真No.303、304の項で示したように、アンベールに使われた写真のほとん どはベアトが撮影したと思われる写真であるが、ここで挙げた写真はアンベールが江 戸市中を探索しながら、ベアトに撮らせた写真と考えてよいのではないか。スイス使 節団が江戸の宿舎にした長応寺にベアトの仕事場を設けていた(102)。また、薩摩藩下 屋敷をベアトが撮った際の様子が書かれている。しかし、挿入されている版画絵の元 になった写真No.8は松本健氏の「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問」(港区立港郷土資料館研究紀要4)(103)によれば、三田綱坂を撮ったものとされている。「幕末日本図絵」の記述にある薩摩藩下屋敷の写真は使われなかったということだろうか。
No.14~22
これらの一連の「日光」の写真は内田九一の撮影と考えられるが、明治5年にウィ ーン万博出品用に撮影されたものかどうか確認できていない。分かっているのは、写 真No.14と16が「The Far East」(104)の1873.5.1号に掲載され、本文には編 集者のブラックが外国人の友人と連れ立って日光へ撮影旅行した時の様子が、友人の 日記と彼が撮った写真とともに紹介されていることである。旅行記の最後に内田九一 が撮影した写真も使ったと記されているが、旅行は1872年6月中旬に横浜からは 始まっているので、内田九一の随伴は有り得ない。彼はこの時西国巡幸に従って九州 に滞在中だった。恐らく、その後に日光へ出かけたと考えられる。撮影時期は明治5 年7月から6年3月の間で詰めていく必要がある。尚、CD版「日本の想い出」(105) には大量の日光周辺で撮影された写真があり、専らBDアルバムに集中している。
No.23~54
ほとんどがポルスブルック・コレクションのものだが、ベアトの「Views of Japan」 にある横浜の風景ものである。
No.52
このポルスブルックの横浜の住居の写真はオランダ海事博物館(106)のデータベー スによると、1869年2月13日の撮影となっている。領事を退任し、オランダへ 帰る直前に撮影されたものである。
No.53
写真の説明には「The Far East」(107)の1870.11.16号掲載の横浜の競馬場の二等 観客席だと記されているが、位置や構造が異なっている。ベネット(Terry Bennett)の 「Old Japan」(108)カタログNo.34中に掲載のNo.46にある1872年成立の「神戸 コレクション」には市田左右太か内田九一の撮影と思われる写真が入っている。「写真 集 甦る幕末」の写真No.101と102が対応している。その中に、この写真N o.53と同じスタンドが写っており、「神戸競馬場の大スタンド」と記されている。 横浜(1867年開設)と神戸(1869年開設)には同時期に競馬場があったので、 混同したのであろう。
No.72~82
ポルスブルックのコレクションにはベアトの写真が多数入っているが、それは、ベ アトの「Views of Japan」が1巻丸ごとあるためである。表1のリストでは、まだベ アトの作品の洗い出しを完全には終わっていない。1867年富士登山の途中で静岡 ・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルック が長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。
9年ぶりの再会である。ベアトが同行 した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブル ックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No. 78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。 彼らの子供もいっしょだったかもしれない。
No.83~92、101~105
これらの大阪・神戸の写真はベネットの「Old Japan」カタログNo.34(109)掲載の No.46の写真と比較して市田左右太の撮影と考えられる。
No.114~116、118
この4枚の写真はベアトの初期の長崎の写真で、1868年以降に販売されるよう になった「Views of Japan」には入っていないので、ポルスブルックのコレクション にはない。A.J.ボードインが横浜で購入し、B1アルバムに貼って持ち帰ったと考えら れる。撮影時期はNo.133と同じ1865年6月と考える。一説には、1864 年と66年にベアトが長崎に来ていたとされているが、根拠は明確ではない。ベアト は1864年10月に下関で写真を撮っているが、長崎へは行っていない。特に、「江 崎べっ甲店アルバム」(110)の「べっ甲店No.41」にある「皓台寺の墓地」が、長崎大 学古写真データベース(111)では1866年にベアトによって撮影されたとされてい るが、これはベアトの「Views of Japan」にある「春徳寺」(112)の写真と混同してい る。他の資料から、厳密な立証が必要だと考える。
No.117
この写真はNo.116のベアトの写真と同じ構図だが、後年のものである。撮影 時期を考えるヒントは長崎大学コレクション①「明治7年の古写真集」(113)の写真 No.14にある。これも同じ構図だが、中島川の高麗橋の左岸の袂に石油灯が立っている。 写真No.117の右岸にある石油灯は小屋に隠れて見えない。石油灯が中島川に設 置された時期を記録したものは見出せていないが、「上野彦馬歴史写真集成」(114)の 写真No.44から明治5年ごろと考えられる。こちらの写真は巨大サイズであり、上野 彦馬でなくスチルフリード(Raimund Von Stillfried-Ratenicz)が明治5年5月に撮影 したものと推定できる。日本カメラ博物館の「スティルフリードの見た日本」(115)の 彼の写真を集めたものに見られるからである。同時に撮影された別バージョンが放送 大学(116)のホームページにも掲載されている。これらの写真は彦馬邸の白い二階建 ての写場が明治5年前半までに建てられたことを証明している。この写真No.11 7の写真は明治5、6年撮影と結論される。撮影者は彦馬と考える。この写真はBDア ルバムのものなので、A.J.ボードインが1874年2月に彦馬の写真館で購入したと 考えられる。
No.119
この写真の所蔵元は掴めていない。CD版「日本の想い出」(117)には収録されていず、 その他のコレクションにも該当がない。恐らく彦馬の撮影だと考えられるが、白い二 階建ての写場が出来て以降としか言えない。しかし、「明治7年の古写真集 長崎・熊 本・鹿児島」(118)の写真No.15の「中島聖堂の正門と上野彦馬邸」は、中島川沿いの 「もやし屋の井戸」と呼ばれる湧き水付近から上流を撮影したものだが、構図だけで なく、写っているほとんどの被写体が対応する。季節はずれているようだが、写真N o.119は明治7年ごろまでに撮影されたと言ってよい。
No.122
この写真はB3アルバムにあるものだが、撮影時期、撮影者が不明である。上野彦馬 邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望 んだ写真である。手前左に彦馬邸、正面に高木邸とその倉庫の建物が写っている。上 野彦馬邸の東南の角の家屋は建て直される前のもの。写真No.130の写真と比べ ると、屋根の形が旧いものとなっている。しかし、塀沿いの西側の建物は撤去されて いるので、慶応年間の後半であろう。塀の様子が判然としないので、白壁の塀の築造 との関係は読み取れない。今後の課題である。明治以降に使われた広い写場について の考察は拙著「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究」第74号、 2007年12月号)(119)を参照されたい。
No.130
この長崎の風頭山からのパノラマ写真は、長崎監獄があり、舞鶴座がないことから、 明治15年から23年の間に上野彦馬によって撮影されたと考えられる。上野彦馬邸 の玄関の西側には白壁で窓付きの新しい塀が作られている。東南の角の家屋の北側に 大工小屋が建てられている。CD版「日本の想い出」(120)によれば、所蔵はアムステル ダム海事博物館だが、その写真データベース(121)のポルスブルック・コレクション には含まれていない。別系統からの収集であろう。「写真集 甦る幕末」中に多数のポ ルスブルック収集の写真が含まれているが、上野彦馬由来の写真はない。ポルスブル ックは彦馬の開業前の1859年に神奈川に移った。1863年6月に一度長崎に行 ったが、下関事件に遭遇して、写真どころではなかった。専らベアトから買っていた のであろう。
No.133
この大浦居留地を望む写真はB1アルバムの中で、ベアトの撮影とされているもので ある。慶応元年2月に落成した大浦天主堂の3本の尖塔が写っているので、1865 年6月にベアトが撮影したとしてよいと考える。
No.134
この大浦天主堂の写真はボードイン・コレクションでなく、オランダ民俗学博物館 グラタマ・コレクションの中にあったものである。グラタマは彦馬の写真館でいくつ か写真を買っていたようである。撮影も頼んでいたのではないか。彼は慶応2年の4 月から、その年の年末までしか長崎にいなかったので、その間に購入したのだろう。この写真は1866年末までに撮られたと考えてよい。「上野彦馬歴史写真集成」(122)には明治以降の写真とされているが、慶応年間だと思う。また、江崎べっ甲店アルバム(123)の「江崎べっ甲店No.25-3」は時期的に近い写真であり、1866~67年を想起させる。
No.142
この写真は裏面に書かれている記名(124)から1859年6月、ガワー(Abel A. Gower)の撮影とされて来たが、斎藤多喜夫氏は「幕末明治 横浜写真館物語」(125) で、1859年ごろ来日したロシエによる可能性を示唆している。写真の所蔵はオラ ンダ・アムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクションである。ポルスブ ルックは1857年7月24日に長崎に来日し、1859年7月4日に神奈川に移っ た(126)。ロシエは横浜でもステレオ写真を撮っているので、そのころ買ったのではな いか。ポルスブルックの帰国は1869年2月ごろである。ところで、1869年9 月に来日したブルガーの写真集(127)には、この写真のネガからのベタ焼きが掲載さ れている。また、大英図書館(前大英博物館)が1872年から所蔵している56枚 に及ぶブルガーが日本で撮影した写真にも含まれていて、台紙にはブルガー撮影と印 刷されている。そこで、本当に1869年にブルガーによって撮られた写真かどうか を検証してみる。ベネットの「Photography in Japan」(128)には、1860年10月 にロシエによって撮られた大浦居留地造成前の梅ヶ崎のパノラマ写真が紹介されてい るが、妙行寺の向うに見える入り江は埋め立て前であることが分かる。写真No.1 42もそれと近い頃、恐らく前年の風景であると考えられる。明治以降の大浦海岸が 完成した時期の写真ではない。ブルガーはロシエからネガを買ったのであろうか。因 みにオランダ海事博物館の写真は16×21cmで、横浜開港資料館所蔵の写真とサ イズは同じだが、大英図書館の写真は14.5×19cmで、サイズが一致しない。
No.153
この長崎・鼠島でのピクニック写真はボードイン・コレクションの大型のB1とB2 の両方のアルバムにある。B1アルバムにはベアト撮影と思しき写真がかなりあるが、B2アルバムにはボードイン兄弟、ポンペとポルスブルックの肖像以外に長崎の写真がないのに、この写真のみが入っているのは何か意味があると思われる。ベネットは「Early Japanese Images」(129)の中で1865年5月24日のビクトリア女王の誕生日を祝うピクニック・パーティをベアトが撮影したとしている。
No.152、154、158
これらの写真は上野彦馬がウィーン万博用に1872年に撮影したアルバム「長崎 市郷の撮影」の一部で、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録3」(130)で確 認できる。最後の所でも述べるが、A.J.ボードインは日本での最後の年1874年2 月に長崎へ出かけ、彦馬の写場で写真を撮ってもらう。これらは、その際に購入した と考えられる。A.J.ボードインのアルバムにあるべき写真である。BDアルバムに入っ ている。
No.161
出島を望む写真の内、この写真と対をなすものが、「長崎古写真集」(131)の写真No.34 と「幕末:写真の時代」(132)の写真No.134にある。何れもベアトの撮影と言われて いるが、撮影時期が不明である。1864年から1866年の間と見られる。出島の 築足と馬廻しが完成した慶応3年よりは前である。「長崎古写真集」(133)の写真No.29 の「1865年6月」とのベアト撮影の説明がある「出島」の町並みと比べても差異 が見出せない。1865年としていいと考える。写真No.128にも写真No.1 61とほぼ同じ場所からのパノラマ写真があるが、こちらは1866年ごろ、上野彦 馬によって撮影されたと考える。グラタマのコレクションにあるものである。上野彦 馬の写真館で購入したものであろう。大浦海岸や梅香崎海岸の建物が増えている。
No.163
これはボードイン・コレクションのB1アルバムとポルスブルック・コレクションの 両方にあるものである。写真No.161と近い風景となっている。
No.165~226、242~248
これらはポルスブルックの交友関係を示す写真である。
No.166
ヒュースケンの襲撃は1861年1月15日の夜、アメリカ公使館が置かれた善福 寺の近くで起こった。担ぎ込まれた彼の臨終には、プロシア使節団に随行したアメリ カ人写真家ウィルソンが立会った(東京大学史料編纂所研究紀要1996年3月号「ヒ ュースケン暗殺事件」(134))。その時、彼が撮影した写真だと考える。
No.169
この写真には「ヒュースケンの日本人妻」というキャプションが振られているが、 アムステルダム海事博物館(135、136)のポルスブルック・コレクションのものである。 ポルスブルックのアルバム中では「写真集 甦る幕末」の写真No.166の前のペ ージに1864年の鎌倉事件の写真といっしょに貼られているだけで、後から出て来 る写真No.166の写真と関連付ける根拠はない。アルバムは時系列的に貼られて いるわけではない。ポルスブルック自身の作製ではなく、キャプションも事情を知ら ないものが入れたのかもしれない。写真No.78の「富士宮登山口」に写る女性と 似ているので、ポルスブルックの恋人の可能性を考えるべきである。出島のA.J.ボー ドインの家か、旧オランダ領事館の中庭で撮影されたと考えられる。写真No.24 3のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)米国総領事が写る写真の背景と同じであ り、同じ場所で撮影されたと考えることが出来る。植え込みは出島の領事館の中庭に 生えているものと同じである。ポンペが撮影した可能性が高い。尚、写真No.24 3が写されたと思われる1859年4月のハリスの長崎行きにヒュースケンが同行し た記録はない。写真No.259の項で述べたように、写真No.169は1858 年4月にポルスブルックが江戸へ移る前に撮影されたと考える。
No.189
この1862年9月14日に殺害されたリチャードソンの写真は「Photography in Japan」(137)でベネットはソンダースが撮影したと推測している。
No.195
この写真はベアトの撮影とされている。長応寺のベアトの仕事場で撮られたもので あろうか。説明にあるように1862年8月に起こった生麦事件でのリチャードソン 殺害の補償交渉に際し、1863年9月~12月に横浜に臨んだ薩摩藩士と幕府立会 人らの集合写真と言われている。しかし、もしそうだとすると、前列中央が鹿児島黎 明館(138)所蔵の写真から岩下左次衛門(方平)と比定できるが、ムースハルトの「Arts en koopman in japan」(139)の写真No.B2-18Aの後列右に中原猶介が写るとする記述 は間違いとなる。なぜなら、この交渉時の参加者はアーネスト・サトウの日記「遠い 崖2」(140)の薩英戦争の項に記述されているが、中原猶介は含まれていないからであ る。薩摩藩の代表重野厚之丞と高崎(正風の甥)猪太郎らは佐土原藩の介添え人二人 と長崎経由で横浜に向かうが、その当時中原猶介は熱病で床に就いていて横浜には行 っていないのである。9月20日に藩元に手紙(「鹿児島県史料 忠義公史料2」(141)) を書いた後、数日で長崎から鹿児島に帰った。この写真は中原猶介が1864年2月 に横浜の英国公使館で船の購入交渉をした際のものである。江戸詰めの岩下方平が同 席したことは「薩藩海軍史中卷」(142)で確認できる。横浜開港資料館「F.ベアト幕 末日本写真集」(143)には、この中原猶介と岩下方平を除いた同じ4人が写る写真が載 っている。特にはっきり言えることは、「よこはま人物伝」(144)にある、介添え人の 一人佐土原藩士の樺山舎人の写真に該当する人物はいないということである。家紋も 明らかに違う。「幕末明治 横浜写真館物語」(145)でも間違った解釈がされている。 4人は江戸詰の薩摩藩士であろう。前年秋に鹿児島から出向いた重野厚之丞と高崎猪 太郎ではなく、南部弥八郎・堀平右衛門・関太郎・肥後七左衛門・新納嘉藤次ら(146) の誰かである。写真No.303、304の所で紹介した旧オランダ領事館の書斎で の撮影された中原猶介の写真は、この時ベアトによって複製が作られたと考えられる。 尚、昭和25年鹿児島市が編纂した「洋学者伝 郷土読本」(147)には中原猶介の伝記 とこれまでとは別の彼の肖像写真が掲載されている。さらに、この本には松木弘安や 八木称平のことも書かれ、1864年2月に江戸潜伏中の松木弘安と中原猶介が会っ ていると記されている。
No.197
この写真はキューパー提督の写真ではない。写真No.250の合成写真を参照す れば、レイホース艦長のボクサー提督であることが分かる。
No.203
1864年9月6日に、下関戦争で占領された長州の砲台をベアトが撮影したもの だが、同じ場面をワーグマン(Charles Wirgman)がスケッチした絵がIllustrated London News(148)の1864年12月24日号に掲載されている。写真No.303、 304の項で述べたようにベアトの下関の写真はこの時に撮影されたものである。ア ンベールは帰国後にそれらを収集して利用した。また、アンベールはIllustrated London Newsに載ったワーグマンのスケッチも改変して利用している。
No.243
1856年8月21日に通訳H.ヒュースケン(Henry Heusken)とともに下田に来航し たタウンゼント・ハリスが残した日記(149)は1858年6月9日までであり、その 間に長崎に出かけた記録はない。その他の記録(150)から1859年4月に長崎で病 気の療養をしたことが分かっている。この写真は、その時に撮影されたと推測される。 背景の木立ちは長崎・出島でのA.J.ボードインの写真によく登場する。しかし、この 段階ではA.J.ボードイン(151)は来日直後であり、写真を撮っていないので、ハリス の診療もしたであろうポンペが撮影したと考える。
その他の検討した事柄について述べる。先ず大事なことだが、見過ごされていることが
ある。A.F.ボードインは1867年6月13日に横浜から、緒方惟準、松本銈太郎、赤星
研造、武谷椋山ら4人を連れて一時帰国する(152)が、その直前の5月14日にアムステルダム行きのソリデ号にあらゆる私物と日本での美術収集品を23個もの木箱に入れて発送した。手配はA.J.ボードインがやった。しかし、貨物船はスペインのペスカドレス近海で沈没し、A.F.ボードインの財産は全て水泡に帰した。A.J.ボードインは家族への手紙(153)で悲嘆に暮れている。帰国後に知ったA.F.ボードインの衝撃は如何ばかりだっただろうか。つまり、1867年までにA.F.ボードインが撮影・収集した写真のほとんどは、この時失われたと考えられる。江崎べっ甲店アルバム(154)の「江崎べっ甲店No.3-1」にはA.F.ボードインが写る写真があり、同じものは「写真の開祖 上野彦馬」(155)の写真No.260にも掲載されているが、これは現在のライデン大学のコレクションには残っていない。これが意味することを結論付けるのは未だ早いかもしれないし、A.J.ボードインと共通の写真はA.J.ボードインのアルバムによって救われたかもしれないが、現在残っているA.F.ボードインのアルバムは1868年末に再来日して以降のものではないかと考えられる。ボードイン絡みの写真を論じる前に、この辺のことを明らかにしておくことが大前提ではないか。写真No.259で述べたようにA.J.ボードインが写真の撮影をしていたこと無視すべきではない。
今まで「写真集 甦る幕末」とそれには入っていない写真を含むCD版「日本の想い出」
を再検討して来たが、A.F.ボードインが撮った写真と思われるものを、はっきり見出せていない。長崎でも大阪でも、A.J.ボードインがそばにいたことが多い。明治以降は、A.F.ボードインは移動が多いし、1867年にカメラ類を他の私物といっしょに本国に送った船が沈んで以来、自分で写真を撮っていないのではないか。CD版には、「写真集 甦る幕末」には入っていないが、大福寺(法性寺?)の本堂前で緒方惟準ら医学生とA.F.ボードインが写る集合写真がある(156)。ライデン大学のボードイン・コレクションのBDアルバムに入っているが、その台紙には大阪・佐野の写真師 横田朴斎の朱印が押されている。他の大阪舎密局関係で撮られた写真の撮影者もライデン大学では特定されていないが、先に写真No.256で書いたように中川信輔である。また、ボードイン・コレクションに入っている神戸近郊の写真は内田九一か神戸の写真家市田左右太が撮影したと考えられる。写真No.101と102は「The Far East」(157)にも使われている。このころはボードイン兄弟とも、撮影はやっていなかったのかもしれない。
A.J.ボードインは1874年日本での最後の年の2月に、長崎で上野彦馬写真館で撮ってもらった肖像写真を家族に送っている(158)。A.J.ボードインは上野彦馬とは、伊勢津藩主藤堂高猷のために写真機材を販売して以来の付き合いだが、ボードイン・コレクションには上野彦馬由来の写真が少ない。彼らは自分の身の回りにしか興味がなかったのか。この1874年のA.J.ボードインの写真はライデン大学のボードイン・コレクションにはない。失われてしまったボードイン・コレクションが存在するのかもしれない。ボードイン・コレクションは兄弟が作製したアルバムのみではない。ボードインらは撮った写真を日本から家族に逐次送っている。ボードイン兄弟は生涯独身で、父母を早くに亡くしているので、専ら兄姉宛てに手紙を送った。送られて来た写真を家族がまとめたアルバムも含まれていると考えられる。「写真集 甦る幕末」にピックアップされた写真以外も精査して見なければならない。CD版「日本の想い出」をじっくり見直してみる必要がある。今回長崎大学の所蔵になったボードインコレクションの内、BAアルバムは1874年にA.J.ボードイ
ンが帰国後に収集されたと思しき写真が多い。中には、銀座通りの明治9年から16年に存在した「共同社」の看板が写る明治10年ごろの写真(159)などがあり、今後の厳密な調査が望まれる。
以上、いろいろと疑問を提示して来たが、筆者が把握している限り、ライデン大学におけるボードイン・コレクションについての見解は2000年10月に日本で開催された「日蘭交流400年記念シンポジウム」の報告が載っている洋学史学会「江戸時代の日本とオランダ」(160)中のムースハルト氏の「オランダにある初期の日本写真:ボードワン・コレクション」が最新のものである。国内の研究も個別のものはあっても、総合された研究結果は公表されて来なかった。多くの幕末・明治の歴史写真に関心のある方々が見直しに参加してくださることを希望する。今回の「写真集 甦る幕末」再評価に当たっては、堺屋修一氏、石黒敬章氏、姫野順一氏、森重和雄氏、倉持基氏を始め、多数の古写真に造形の深い方々のご意見・ご協力・ご指導をいただいた。浅学故の先走った間違いがあれば、著者の責任である。
参考資料
(1) 後藤和雄・松本逸也編、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションよ
り」、朝日新聞社、1987。
(2) 後藤和雄、「写真考古学:写された歴史と写した目と」、皓星社、1997。
(3) 松本逸也、「幕末漂流」、人間と歴史社、1993。
(4) 長崎大学がWeb上で公開している各種の画像情報「長崎大学電子化コレクショ
ン(http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/)」の中に「日本古写真ア
ルバム ボードイン・コレクション」として納められている。URLは
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/11.htmlである。
(5) 朝日新聞社編、「甦る幕末 オランダで保存されていた800枚の写真から」、
朝日新聞社、1986。
(6) University of Leiden, ed.,“Herinneringen ann Japan 1850-1870(甦る幕末)”,
University of Leiden, The Netherlands, 1987.
(7) I.Th.Leijerzapf and H.J.Moeshart,“Memories of Japan 1859-1875 Japanese
Photographs in Dutch Collections(日本の想い出、1859-1875 日本の写真・
在オランダ・コレクション)“, IDC Publishers, The Netherlands, 1996.
(8) ベアトの写真アルバムの「Views of Japan」の一つはポルスブルックのコレク
ションとして(13)に示すアムステルダムのオランダ海事博物館のデータベ
ースで見ることができる。それ以外のベアトのコレクションとしては横浜開港
資料館が多数所蔵しており、横浜開港資料館編、「F.ベアト写真集1-幕末日本
の風景と人々」及び「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」、
(2006)に集約されている。
(9) A.ボードウアン、フォス美弥子訳、「オランダ領事の幕末維新:長崎出島からの
手紙」、新人物往来社、1987。
(10) ポルスブルック、井熊 文訳、「ポルスブルック日本報告:1857-1870オランダ
領事の見た幕末事情」、雄松堂出版、1995。
(11) ハラタマ、芝哲夫、「オランダ人の見た幕末・明治 化学者ハラタマ書簡集」、
菜根出版、1993。三崎嘯輔、緒方惟準、松本銈太郎が写る集合写真がある。
(12) H.J.Moeshart, “Arts en koopman in Japan(医師と商人 幕末のオランダ人
兄弟)”, De Bataafsche Leeuw, Amsterdam, The Netherlands, 2001.
(13) アムステルダムのオランダ海事博物館のURL は
http://www.maritiemdigitaal.nl/である。
(14) 尼崎総合文化センター編、「長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局-開業初
期アルバム-』(「第7回上野彦馬賞フォトコンテスト」受賞作品展 特別企画
展目録)」、尼崎総合文化センター、2007。
(15) 東京国立博物館編、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録1-3」、国
書刊行会、1997-2002。
(16) 前掲(9)。
(17) 長崎市出島史跡審議会、「出島図:その景観と変遷」、長崎市、1987。
(18) 八幡政男、「評伝 上野彦馬 日本最初のプロカメラマン」、武蔵野書房、1993。
(19) 「日本医事新報 1739号」、医事新報社、1957。
(20) ポンペ、沼田次郎訳、「ポンペ日本滞在見聞記:日本における五年間」、雄松堂
書店、1968。
(21) 前掲(7)。
(22) 赤松則良、「赤松則良半生談:幕末オランダ留学の記録」、平凡社、1977。
(23) 村上一郎、「蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流」、房総郷土研究会、1931。
(24) 前掲(7)。
(25) 前掲(11)。
(26) 梅本貞雄編、「日本写真界の物故功労者顕彰録」、日本写真協会、1952。
(27) 前掲(9)。
(28) 前掲(9)。
(29) 前掲(9)。
(30) 前掲(7)。
(31) 前掲(9)。
(32) 石黒忠悳、「石黒忠悳懐旧九十年」、大空社、1994。
(33) 石井良助編、「太政官日誌 第1卷」、東京堂出版、1980。
(34) 前掲(11)。
(35) 前掲(11)。
(36) 前掲(9)。
(37) 前掲(7)。
(38) 石黒敬章、「幕末・明治のおもしろ写真」、平凡社、1996。
(39) 前掲(9)。
(40) 前掲(6)。
(41) 前掲(12)。
(42) 犬塚孝明、「密航留学生たちの明治維新:井上馨と幕末藩士」、日本放送協会、
2001。
(43) 犬塚孝明、「薩摩藩英国留学生」中央公論者、1974。
(44) 長崎大学「出島の科学刊行会」編、「出島の科学:長崎を舞台とした近代科学の
歴史ドラマ」、九州大学出版会、2002。
(45) 池田謙斎、「回顧録」(「医学のあゆみ」第30巻1~4号)、医歯薬出版、1959。
(46) 前掲(7)。
(47) 鈴木要吾、「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯:伝記松本順」、大空社、1993。
(48) 中原尚徳、中原尚臣、「贈正五位中原猶介事蹟稿」、中原尚徳、1929。
(49) 鹿児島県維新史料編纂所編、「鹿児島県史料 忠義公史料 第2巻」、鹿児島県、
1975。
(50) 前掲(12)。
(51) 岩崎克己、「柴田昌吉伝」、岩崎克己、1935。
(52) 日本眼科学会、「日本眼科を支えた明治の人々(日本眼科学会百周年記念誌 第
5巻)」、日本眼科学会、1997。
(53) 鍵山栄、「相良知安」、日本古医学資料センター、1973。
(54) 相良知安、「相良翁懐舊譚」(「医海時報」第499~541号)、医海時報社、
1900。この連載は知安からの直接の聞書きがまとめられており、今まで知られ
ていなかった隠された事実が知れる。
(55) 前掲(11)。
(56) 前掲(32)。
(57) 宗田一、「図説 日本医療文化史」、思文閣出版、1989。
(58) 渋谷雅之、「近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど」、私家版、2008。
(59) 前掲(11)。
(60) 前掲(47)。
(61) 前掲(11)。
(62) 池田文書研究会編、「東大医学部初代綜理池田謙斎 上」、思文閣出版、2006。
(63) 長崎大学医学部編、「長崎医学百年史」、長崎大学医学部、1961。
(64) 鹿児島市編、「洋学者伝 郷土読本」、鹿児島市、1950。
(65) 前掲(45)。
(66) 日本赤十字社病院編、「伝記・橋本綱常」、大空社、1994。
(67) 前掲(64)。
(68) 前掲(54)。
(69) 石黒敬七編、「写された幕末」、アソカ書房、1957。
(70) 石黒敬章氏私信。
(71) 前掲(12)。
(72) John Clark,“Japanese Exchanges in Art 1850s-1930s with Britain,
continental Europe, and the USA“, University of Sydney, Australia, 2006.
(73) Aime Humbert, “Le japon illustre”, Hachette & Cie, Paris, France, 1870.
アンベールはこの本の出版の前に1866年から1869年まで雑誌「Le Tour du
monde:nouveau journal des voyages(Hachette, Paris, France)」に絵入り紀
行記を発表し、それをまとめて、上記の二冊の本にした。すでに356枚の図版
が使われ、内43枚の版画の原写真が「写真集 甦る幕末」に入っている。
(74) エメェ・アンベール、茂森唯士訳、「絵で見る幕末日本」、講談社、2004。
この本は「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(東都書房、1966)を底本に
している。
(75) エメェ・アンベール、高橋邦太郎訳、「続・絵で見る幕末日本」、講談社、2006。
この本は「アンベール幕末日本図絵」(雄松堂出版、1969-1970)を底本にして
いる。
(76) 前掲(48)。
(77) 公爵島津家編纂所編、「薩藩海軍史 中卷」、原書房、1968。
(78) 前掲(73)。
(79) 「長崎大学古写真データベース」は「長崎大学電子化コレクション」(前掲(4))
からリンクされている。直接のURLはhttp://hikoma.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/。
(80) 前掲(73)。
(81) 沓澤宣賢、「アンベール『幕末日本図絵』所収の絵画と古写真との関係について
-『甦る幕末』所収のベアトの写真との対照を中心に-」(「日蘭学会会誌」第
22巻第2号)、日蘭学会、1998。
(82) 前掲(69)。
(83) 前掲(48)。
(84) 東京都港区教育委員会編、「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレ
クション」、東京都港区立港郷土資料館、1991。
(85) 前掲(7)。
(86) 前掲(7)。
(87) 前掲(75)。
(88) 前掲(7)。
(89) 犬塚孝明・石黒敬章、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」、平凡社、2006。
(90) 石黒敬章編、「下岡蓮杖写真集」、新潮社、1999。
(91) 前掲(74)。
(92) 前掲(74)。
(93) 宮永孝、「幕末異人殺傷録」、角川書店、1996。
(94) 萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄1 旅立ち」、朝日新聞社、
1998.
(95) 春畝公追頌会編、「伊藤博文伝 上巻」、原書房、1970。
(96) 井上馨侯伝記編纂会、「世外井上公伝 1」、原書房、1968。
(97) 前掲(72)。
(98) 長與専斎、松本良順、「松本順自伝・長與専斎自伝」、平凡社、1980。
(99) 樺太回復紀念帖(「写真画報」臨時増刊第31号)、博文館、1905。
(100)秋好善太郎編、「日本歴史写真帖」、東光園、1912。
(101)Gert Rosenbert,“Wilhelm Burger Ein Welt- und Forschungsreisender mit der
Kamera 1844-1920”, Wien: Christian Brandstaetter, 1984.
(102)前掲(74)。
(103)松本 健、「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問 -幕末写
真の撮影地点についての一考察-」(「東京都港区立港郷土資料館研究紀要4」)、
東京都港区立港郷土資料館、1997。
(104)John Reddie Black,“The Far East: an illustrated fortnightly newspapers”
(1870-1875)、雄松堂複製、1965。
(105)前掲(7)。
(106)前掲(13)。
(107)前掲(104)。
(108)Terry Bennett, “Old Japan”, Catalogue 34, Old Japan, Surrey, England,
2007.
(109)前掲(108)。
(110)前掲(14)。
(111)前掲(79)。
(112)H. von Claudia Gabriele Philipp ed., “Felice Beato in Japan: Photographien
zum Ende der Feudalzeit 1863-1873”, Edition Braus, Munchen, 1991。
(113)長崎大学附属図書館編、「長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集 長崎・
熊本・鹿児島」、長崎文献社、2007。
(114)馬場章編、「上野彦馬歴史写真集成」、渡辺出版、2006。
(115)井桜直美、「明治の古写真 スティルフリードが見た日本」、日本カメラ博物館、
2005。
(116)放送大学附属図書館所蔵コレクションから放送大学のホームページ、「日本の残
像 写真で見る幕末・明治」に取上げられた。
URLはhttp://lib.u-air.ac.jp/koshashin/koshashin.htmlである。
(117)前掲(7)。
(118)前掲(113)。
(119)高橋信一、「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究 第74号」、
民衆史研究会、2007。
(120)前掲(7)。
(121)前掲(13)。
(122)前掲(114)。
(123)前掲(14)。
(124)長崎市教育委員会編、「長崎古写真集 居留地篇」、長崎市教育委員会、1995。
(125)斎藤多喜夫、「幕末明治 横浜写真館物語」、吉川弘文館、2004。
(126)前掲(10)。
(127)前掲(101)。
(128)Terry Bennett, “Photography in Japan 1853-1912”, Tuttle Publishing,
Singapore, 2006。
(129)Terry Bennett, ”Early Japanese Images”, Charles E. Tuttle Company, Rutland,
Vermont & Tokyo, Japan, 1996。
(130)前掲(15)。
(131)前掲(124)。
(132)小沢健志編、「幕末:写真の時代」、筑摩書房, 1994。
(133)前掲(124)。
(134)レイニア H.ヘスリンク、「ヒュースケン暗殺事件」(「東京大学史料編纂所研究
紀要」)、1996。
(135)前掲(13)。
(136)宮永孝、「開国の使者-ハリスとヒュースケン-」、雄松堂出版、1986。
(137)前掲(128)。
(138)吉満庄司、「岩下方平関係資料目録」(「黎明館調査研究報告」第19集)、鹿児島
県歴史資料センター黎明館、2006。
(139)前掲(12)。
(140)萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄2 薩英戦争」、朝日新聞社、
1998。
(141)前掲(49)。
(142)前掲(76)。
(143)前掲(8)。
(144)横浜開港資料館編、「よこはま人物伝:歴史を彩った50人」、神奈川新聞社、1995。
(145)前掲(125)。
(146)前掲(140)。
(147)前掲(64)。
(148)The Illustrated London News, 1842-1880, Reprint Ed., Kashiwashobo Pub. Co.,
1997.
(149)T.ハリス、坂田精一訳、「ハリス日本滞在記」、岩波書店、1954。
(150)前掲(136)。
(151)前掲(9)。
(152)荒木康彦、「近代日独交渉史研究序説 最初のドイツ大学日本人学生馬島済治と
カール・レーマン」、雄松堂出版、2003。
(153)前掲(9)。
(154)前掲(14)。
(155)鈴木八郎・小沢健志・八幡政男・上野一郎監修、「写真の開祖 上野彦馬 写真
に見る幕末・明治」、産業能率短期大学出版部、1975。
(156)前掲(7)。
(157)前掲(104)。
(158)前掲(9)。
(159)石黒敬章、斎藤多喜夫、青木祐介、松信裕、「古写真でみる文明開化期の横浜・
東京」(「有鄰」第479号)、有隣堂、2007。
(160)J.ムースハルト、「オランダにある初期の日本写真」(「江戸時代の日本とオラン
ダ」日蘭交流400年記念シンポジウム報告集②、洋学史学会、2001。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント