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2007年8月 4日 (土)

上野彦馬の写真館と写場の変遷

 慶応大学の高橋信一准教授から「上野彦馬の写真館と写場の変遷」と題する論文が届きましたので、本ブログ上で以下に一般公開致します。

上野彦馬の写真館と写場の変遷

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

「フルベッキ写真」が幕末・維新の英傑が多数写っていると喧伝され、それが多数の支持を得ていることの原因は、歴史のロマンの対象になりやすい素材であることと相俟って、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の巻末で上野一郎氏によって解明された撮影場所と時期についての結論の一般大衆への流布と理解が不十分であることも挙げられる。上野一郎氏は幕末維新当時の長崎に到来し写真を撮った志士たちの事蹟や彦馬の家族の生没年、写場の構造や写し込まれた小道具といった手懸かりを駆使して写場と小道具の変遷を解明した。細部には昭和50年当時、十分な情報がなかったことに起因する間違いも見受けられるが、概ね正しく、根本的な誤謬は認められない。「フルベッキ写真」の撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置された石畳、戸板、出入り口、敷物の模様などによって特定出来る。この写場にはロクロ細工の欄干飾りを施した置物が全体に渡って置かれていることが、同じ写場で撮影された別の写真から知られている。「フルベッキ写真」では集合者が写場いっぱいに広がっているため、置物は隠されてしまっている。それまで使われていたのは横幅が半分以下で、慶應元年3月ごろ伊藤博文と高杉晋作(伊藤博文公伝)が従者と撮った写真や、福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影された佐賀藩士たち9名の写真が撮影された狭い写場である。こちらの写場で使われていた小道具も上野一郎氏によって明らかになっている。

ここでは、上野一郎氏の研究結果を参考にするとともに、その後の知見を交えて、彦馬の写場の変遷を明らかにする。先ず、上野撮影局開設以前に、長崎は中島川(銭屋川)の辺、その後に新大工町と呼ばれる町外れに彦馬の父、俊之丞が天保年間に開いた硝石精錬所があった。この場所の家屋の配置は俊之丞自筆の絵巻「長崎製硝図絵」(化学古典叢書:紀伊国屋書店)に見ることが出来る。その敷地内の建物の名残は、ライデン大学が所蔵するベアトらによる長崎などの写真を集めた「写真集 甦る幕末」中のNo.120の写真にも残っており、敷地の東南の角の建屋が完全に同じである。また、慶應年間には中島川沿いの境界が石を積み重ねたなまこ塀となるところは、それまで生垣があったことが分かる。この場所は盛り土がされており、中島川の氾濫に対処する堤防になっていたようである。東側は木の板塀が家屋と家屋の間に作られ、北東側に出入り口があったことが分かる。中庭で鶏やひよこと遊ぶ子供たちの一人は彦馬かもしれない。No.120の写真は慶應元年から2年にかけての冬場に撮影されたことが、阿弥陀橋近くに立つ反り屋根の小屋と並屋根の水車小屋の存在、彦馬邸の前の川縁には、まだ石灯篭がないことから分かる。慶應2年に初代の石灯篭が出来るが、慶應3年ごろに水車小屋とともに洪水で流され、石灯籠は2代目が置かれた。それ以前の様子を知ることが出来るのは同じ「写真集 甦る幕末」中のNo.118にあるベアトによって慶應元年6月ごろ撮影された川中に牛が立っている写真である。これには、東南角から川沿いの建屋となまこ塀、彦馬邸の玄関の様子がよく写っている。中島川を中心とした彦馬邸周辺を写した写真は多数残っており、彦馬邸並びに写場の変遷解明の貴重な資料である。

上野撮影局が開設されたころの写場は、邸内の空き地に青天井の下で設営されていて、江崎べっ甲店が所有する上野写真館のアルバム「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(尼崎総合文化センター)に多数見られる。このアルバムには慶應2年ごろまでの写真が貼られており、「フルベッキ写真」に使われた広い写場の痕跡はない。「写真集 甦る幕末」中のNo.122には中島川を挟んだ伊良林の奥、若宮神社辺りからの眺望が写っている。この写真は慶應3年ごろのものと思われ、東南角から2棟目の建屋は壊されて空き地が出来ている。さらに彦馬邸の景観が変わるのは、恐らく慶應3年から慶應4年に掛けて行われた大規模な改築によるが、改築中の写真は、今のところ見出されていない。唯一変化を証明出来る写真が「Felice Beato in Japan」に掲載されている。これは1991年にヨーロッパで開催されたベアトが日本で撮影したと考えられる写真の巡回展示に使われたものであるが、全てがベアトの撮影という訳ではない。その中に、明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中の写真が4枚含まれており、その一つが、彦馬邸を含む長崎市内を風頭山から一望するパノラマ写真で、明治5年秋の撮影である。これは「東京国立博物館所蔵 幕末明治期古写真資料目録3」にも「長崎全景」として掲載されている。これを最大限に拡大すると、既になまこ塀は白壁の塀に変わっており、東南角の建屋も形を変えている。内部には川縁と東側の塀近くに大きな空き地が2箇所あることが分かる。「写真集 甦る幕末」のNo.130にある長崎のパノラマ写真は片淵の長崎監獄が写り、明治20年以降に撮影されたものであるが、それと比較すると後者には川縁の塀際の空き地には、「ビードロの家」と言われる素となった2階建てが見え、東側の空き地には「大工小屋」と言われる小さい建屋が完成している。

ここで、2箇所の空き地のどちらを広い写場に比定するかを考えるために、「フルベッキ写真」と「長崎全景」の拡大写真を見比べてみる。「フルベッキ写真」では3方が高い壁に取り囲まれており、2方には可動式と思われる格子状の大きな板戸が嵌められている。このような状況に当て嵌まるのは、東側の空き地ではないかと思われる。永見徳太郎は昭和9年1月「アサヒカメラ」や「カメラ」、「長崎談叢」などで「白壁の塀際に幕を垂れ、ロクロ細工の欄干飾りを置いて、その前で青天井で撮影した」と言っている。彼は、広い写場の時代には生まれていなかったので、伝聞に過ぎないが、証言は矛盾しない。この写場で撮影された写真で、時期が特定出来るものは慶應4年以降にしかない。慶應4年2月ごろに沢宣嘉が長崎鎮撫総督として来た際に撮った写真(「長崎図説」)、4月ごろに松方正義が日田県知事を拝命した際に撮った写真(「松田正義」)、彦馬の家族を撮影した写真(「写真の開祖 上野彦馬」)などである。明治2年以降になれば、明治7年まで時期を確定出来るものが多数ある。フルベッキが写っている写真としては、明治2年2月ごろ、長崎奉行所管轄の済美館の後継、広運館の教員らと撮影されたもの(「日本のフルベッキ」原本)があり、致遠館の「フルベッキ写真」と対をなしている。こちらには集合者たちの背後に欄干飾りの置物がはっきり写っている。続いて、明治2年6月に山県有朋や西郷従道らが洋行前に撮った写真(「決定版 昭和史1」)がある。11月に彦馬が家族や弟幸馬と写真(「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.25)を撮っている。さらに、明治3年4月26日に毛利元徳ら一行が木戸孝允と撮った写真(「写真の開祖 上野彦馬」)があり、これは「木戸孝允日記」に記載されている。

さらに、撮影日が判明した写真として、大正11年2月に大隈重信が亡くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出たが、その口絵に掲載された「大隈夫妻を囲んだ外国人たち」の写真を挙げることが出来る。この写真は明治5年10月29日に灯台及び電信視察のため大隈等が巡視船テーボル号で大阪・神戸・長崎に向け出航した「灯台巡回」の際に撮られたものである。乗り込んだのは大隈重信、山尾庸三、佐野常民、石丸安世の他に杉浦譲、石井忠亮、佐藤興三、フレッシャー、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。これらのことは、「図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」、「灯台巡回日誌(大隈文書)」、さらに「杉浦譲全集 第5巻」の「燈台電信巡視日記」で知れる。また、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」には大隈と山尾が夫人同伴で行ったと書かれている。つまり、大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎に滞在していたのだ。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事なし」と書いてあり、巡視船への石炭積み込みのため仕事は休みとなったので、上野写真館に行って写真を撮った。「サトウの日記」には、その日の夕方に明治天皇がこの年の6月に巡幸の途中で泊まった料亭で会食したと書かれている。と云うわけで、この写真は明治5年11月14日に上野彦馬の写場で撮影されたものである。この写真では明治4年の後半に手前にあった石畳を剥ぎ取った跡が写っている。

その他に、明治3年と4年にフランス語教師のレオン・ジュリーが広運館生徒らと集合写真を撮っており、「日本の開国」に載っている。このように、「フルベッキ写真」の広い写場は紛れもなく、上野彦馬の写場であり、慶應3年の後半から慶應4年にかけて作られたことが分かるが、その場所には「大工小屋」が建てられて消滅し、名残を後年に留めることはなかった。広い写場で撮影された写真で最も新しいものは、「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.20に紹介されており、台紙の裏の記述から明治7年9月である。この頃までは青天井の広い写場が使われていたと結論出来る。その後、明治6年ごろ邸内の北東の端に屋根にガラスを張った写場が出来、屋内での撮影に移っていった。2階建ての写場の完成は明治14、5年とされているが、これも確定的なことは分かっていない。撮影日のはっきりした写真の発見が望まれる。最後に明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中のパノラマ写真「長崎全景」の一部を東京国立博物館所蔵の写真より複写拡大してお目にかける。右隅の家屋が彦馬邸の東南の角に当たる。広い写場を置く余地は、この角の棟の西側か北側の白壁の塀際のどちらかである。西側の塀際は「長崎製硝図絵」の通り、盛り土の堤防があったとすると写場を作るのは無理だったと思われる。以上から、広い写場には東側の塀際の空き地が使われたと結論する。     

(平成19年8月3日)

* 以下の写真をクリックしてください
Part_of_nagasakis_panorama_photo__2 Part of Nagasaki’s panorama Photo by Ueno Hikoma
Image:TNM Image Archives, Source:http://TnmArchives.jp
提供:東京国立博物館

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