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2007年8月

2007年8月23日 (木)

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真に関して新たな発見があったということで全く新しい考察論文が届きました。ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

 「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。

 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。

 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。

 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。

(平成19年8月22日)

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2007年8月 8日 (水)

温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が、『財界にっぽん』に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新版です。依然として首相の座に居座り続ける安倍晋三と、中国の温家宝首相との器の違いを浮き彫りにした記事です。

『財界にっぽん』2007年8月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第9回



温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



温家宝首相の国会演説の草稿

 国際感覚と理性的な判断力に欠けた小泉首相は、個人感情のおもむくまま靖国神社の参拝を繰り返し、近隣諸国を刺激する頑迷な姿勢を取った。そのために長期間にわたり中国と険悪な外交関係が続いたが、小泉首相の退場を機会に日中が歩み寄り、2007年4月に中国の首相が六年半ぶりに訪日した。

 しかも、慰安婦問題で安倍首相が軽率な発言をして、国際世論から手厳しい批判を受けていたので、出来るだけ穏便に計らう意図に基づき、日本政府は中国の首相を国会演説の主賓として遇した。温家宝の演説日程は4月12日だったので、外務省は中国側に「草稿を訪日前に見たい」と申し入れたが、「首脳会見の結果次第で内容を改める可能性がある」と言って、事前に草稿を見せるのを中国側は拒絶している。

 だが、11日にあった日中首脳会談において、安倍首相の口から「日本は台湾の独立を支持しない」という発言を得たので、会談後に中国側は佐々江アジア太平洋局長に演説草稿を渡した。やっと草を手に入れた外務省は草稿を検討して、「拉致問題について触れて欲しい」と申し入れたが、「日本側の希望は受け入れられなかったし、靖国神社問題に触れていないのに満足した」と外電は報じている。

 時事通信が配信した「検証・温家宝訪日」という記事は、「演説は温首相自らが執筆した。温首相は一文字も欠かさず、精魂を傾けて書き、日本国民に伝えたいメッセージだと語った」と見え透いた嘘を並べている。だが、外交官なら誰でも知っていることだが、首相や閣僚が外国に行って行う挨拶文を始め、演説の原稿は何人もの役人が草稿をまとめるし、欧米諸国ではスピーチライターが担当して書くものだ。

 時事の記事は伝聞調で信用度は低いが、演説草稿を首相が精魂を傾けて書いたと信じ、記者がそれに感激したのならお粗末の極みで、政治の実態についての認識が甘すぎる。補佐官や秘書が準備した草稿に手を入れて、講演者が自分の言葉にして喋るのがトップのやり方なのに、この新聞記者はそんなことも知らないのだろうか。


文献判断と解析作業の必要性

 日本人はインテリジェンスの訓練が不足していて、大部分の場合は文字面を読んで納得してしまう。だが、書かれたものの意味を読みぬくだけでなく、行間を読み取る能力が更に問われているヒに、何が書いてないかを判読する洞察力が必要だ。各国の外交機関やシンクタンクなどにおいては、その解析作業が行われているのであり、最も優れた人材がその仕事を担当しているが、日本の政治機構にはそれが欠落している。

 こうした作業プロセスを文献批判と呼んでおり、江戸時代までは仏教原典や本草学などで、厳しい訓練をする伝統が日本にもあった。だが、最近の外交官や幹部官僚には鍛えられた者が少ないし、ジャーナリストや政治家もその訓練が不足している。

 日本のこうした特殊事情を承知した上だろうが、温家宝は役人が書いた演説草稿を読み上げ、阿倍仲麻呂や鑑真の名前を列挙して、日本人の自尊心をくすぐったのである。だが、少し歴史の裏面に詳しい人なら気づくが、阿倍仲麻呂は日本から頭脳流出した人材だし、鑑真はミッションの使命を帯びて訪日した唐の僧であり、ベクトルの流れの方向に真意が秘められているのだ。

 日中関係で日本が誇る歴史的な人物を扱う時には、当時の世界の中心だった唐で密教の神髄をマスターして、法灯を日本に伝えた真言開祖の弘法大師とか、シナ学の巨人としてアジアの至宝の内藤虎次郎が聳え立つ。空海や湖南を引用したのなら胸を張ってもいいが、阿倍仲麻呂や鑑真の名前に感激してしまい、「歴史人物を列挙して友好を強調した」と喜ぶのでは、余りにも単純でお人よしだと笑われてしまう。

 現に温家宝の演説の全文を読んで感じるのは、中国が侵略された歴史をソフトに表現しており、残留孤児や日本人の引き上げの美談物語に続いて、「中国は昔から徳を重んじ武力を重んぜず、信を講じ、睦を修めるという優れた伝統がある」という、文飾の国にふさわしい自己宣伝までやっている。しかも、草稿にあった「中国人民は日本人民が平和発展の道を歩いていくことを支持する」という部分を省き、事前の打診を抜いて天皇に北京五輪の訪中を招請したことで、安倍内閣を軽視した記録まで残ったのである。


軍国主義と反動路線で萎縮する未来の日本

 こんな指摘をしても私は反中国の人間ではなく、世界で仕事をして身につけたノウハウの中に、無言の発言に重要な意味を潜ませる技法があるので、相手の意図としてそれを読み取っただけのことだ。したたかな中国外交を構造主義の立場から、その伝統的な政治感覚を分析したのであり、外交辞令の裏の意味を読み取ったに過ぎない。

 議会政治の基本と伝統に無知な安倍首相は、国会での慎重な議論の手続きを省いて強行突破する、独裁者が好む「始めに結論あり」のやり方で、「教育基本法抹殺」、「防衛省への昇格」、「国民投票法のごり押し」という具合に、問答無用の強行採決の手法を繰り返して来た。強行した安倍内閣は世襲議員集団で、日本の「七光り族」は中国の特権族の「太子党」に等しいが、北京の政権中枢には太子党などいないのだ。

 戦略なしで執念だけで盲進する安倍政治は、自滅に向かう「義和団」の日本版であり、幼稚なトップに率いられた日本の進路決定が、時間の関数であることは温家宝首相に丸見えだ。温家宝流の長期的な国家戦略に基づけば、日本は孫子が『軍争篇』で論じた「逸を以って労を持つ」の対象で、彼の訪日は日本の運命の転換点に重なった。

 戦前レジームに回帰して軍国主義化する日本は、消耗して疲労する路線を遭進することで、美辞で粉飾した虚妄の国家はファシズム体制になり、その運命は没落への一方通行へ突入して行くだけである。それに対して、ブリックス(Brazil, Russia, India, China)に属す中国の未来にはより希望が持ち得て、独裁的な共産党支配が破綻してもその後には内乱を経て、民主的な社会の登場を期待できる。だから、日中の独裁政権が共に行き詰まりに直面するに際して、似たように破綻しても受ける打撃が異なることは、歴史の教訓が示唆する通りなのである。

 ブリックスという言葉を最初に提示したのは、ゴールドマン・サックスが出した『ブリックスと見る夢2050年への道、Dreaming with BRICs: Path to 2050)』と題した2003年秋のレポートである。この報告書にある具体的な内容としては、2050年におけるGDPは1位の中国が44・5兆ドルであり、2位の米国の35・2兆ドルにインドが27.8兆ドルで続き、日本は6・6兆ドルで6兆ドルのブラジルに肉薄され、追い抜かれるという構図として予想されている。

 安倍が美しいと妄想している日本の未来は、軍国主義と反動路線に熱を上げた愚行により、中国や米国の二割の経済力に萎縮してしまい、国民は軍国憲法と教育勅語で威圧され、「自由」という言葉に憧れる奴隷国家になる。それがどんな意味を持っているかについては、歴史意識に乏しい安倍晋三に分からなくても、地質学を専攻し時間と空間の問題に詳しい温家宝にとって、「自明の理」だと類推せざるを得ないのである。

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2007年8月 4日 (土)

上野彦馬の写真館と写場の変遷

 慶応大学の高橋信一准教授から「上野彦馬の写真館と写場の変遷」と題する論文が届きましたので、本ブログ上で以下に一般公開致します。

上野彦馬の写真館と写場の変遷

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

「フルベッキ写真」が幕末・維新の英傑が多数写っていると喧伝され、それが多数の支持を得ていることの原因は、歴史のロマンの対象になりやすい素材であることと相俟って、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の巻末で上野一郎氏によって解明された撮影場所と時期についての結論の一般大衆への流布と理解が不十分であることも挙げられる。上野一郎氏は幕末維新当時の長崎に到来し写真を撮った志士たちの事蹟や彦馬の家族の生没年、写場の構造や写し込まれた小道具といった手懸かりを駆使して写場と小道具の変遷を解明した。細部には昭和50年当時、十分な情報がなかったことに起因する間違いも見受けられるが、概ね正しく、根本的な誤謬は認められない。「フルベッキ写真」の撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置された石畳、戸板、出入り口、敷物の模様などによって特定出来る。この写場にはロクロ細工の欄干飾りを施した置物が全体に渡って置かれていることが、同じ写場で撮影された別の写真から知られている。「フルベッキ写真」では集合者が写場いっぱいに広がっているため、置物は隠されてしまっている。それまで使われていたのは横幅が半分以下で、慶應元年3月ごろ伊藤博文と高杉晋作(伊藤博文公伝)が従者と撮った写真や、福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影された佐賀藩士たち9名の写真が撮影された狭い写場である。こちらの写場で使われていた小道具も上野一郎氏によって明らかになっている。

ここでは、上野一郎氏の研究結果を参考にするとともに、その後の知見を交えて、彦馬の写場の変遷を明らかにする。先ず、上野撮影局開設以前に、長崎は中島川(銭屋川)の辺、その後に新大工町と呼ばれる町外れに彦馬の父、俊之丞が天保年間に開いた硝石精錬所があった。この場所の家屋の配置は俊之丞自筆の絵巻「長崎製硝図絵」(化学古典叢書:紀伊国屋書店)に見ることが出来る。その敷地内の建物の名残は、ライデン大学が所蔵するベアトらによる長崎などの写真を集めた「写真集 甦る幕末」中のNo.120の写真にも残っており、敷地の東南の角の建屋が完全に同じである。また、慶應年間には中島川沿いの境界が石を積み重ねたなまこ塀となるところは、それまで生垣があったことが分かる。この場所は盛り土がされており、中島川の氾濫に対処する堤防になっていたようである。東側は木の板塀が家屋と家屋の間に作られ、北東側に出入り口があったことが分かる。中庭で鶏やひよこと遊ぶ子供たちの一人は彦馬かもしれない。No.120の写真は慶應元年から2年にかけての冬場に撮影されたことが、阿弥陀橋近くに立つ反り屋根の小屋と並屋根の水車小屋の存在、彦馬邸の前の川縁には、まだ石灯篭がないことから分かる。慶應2年に初代の石灯篭が出来るが、慶應3年ごろに水車小屋とともに洪水で流され、石灯籠は2代目が置かれた。それ以前の様子を知ることが出来るのは同じ「写真集 甦る幕末」中のNo.118にあるベアトによって慶應元年6月ごろ撮影された川中に牛が立っている写真である。これには、東南角から川沿いの建屋となまこ塀、彦馬邸の玄関の様子がよく写っている。中島川を中心とした彦馬邸周辺を写した写真は多数残っており、彦馬邸並びに写場の変遷解明の貴重な資料である。

上野撮影局が開設されたころの写場は、邸内の空き地に青天井の下で設営されていて、江崎べっ甲店が所有する上野写真館のアルバム「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(尼崎総合文化センター)に多数見られる。このアルバムには慶應2年ごろまでの写真が貼られており、「フルベッキ写真」に使われた広い写場の痕跡はない。「写真集 甦る幕末」中のNo.122には中島川を挟んだ伊良林の奥、若宮神社辺りからの眺望が写っている。この写真は慶應3年ごろのものと思われ、東南角から2棟目の建屋は壊されて空き地が出来ている。さらに彦馬邸の景観が変わるのは、恐らく慶應3年から慶應4年に掛けて行われた大規模な改築によるが、改築中の写真は、今のところ見出されていない。唯一変化を証明出来る写真が「Felice Beato in Japan」に掲載されている。これは1991年にヨーロッパで開催されたベアトが日本で撮影したと考えられる写真の巡回展示に使われたものであるが、全てがベアトの撮影という訳ではない。その中に、明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中の写真が4枚含まれており、その一つが、彦馬邸を含む長崎市内を風頭山から一望するパノラマ写真で、明治5年秋の撮影である。これは「東京国立博物館所蔵 幕末明治期古写真資料目録3」にも「長崎全景」として掲載されている。これを最大限に拡大すると、既になまこ塀は白壁の塀に変わっており、東南角の建屋も形を変えている。内部には川縁と東側の塀近くに大きな空き地が2箇所あることが分かる。「写真集 甦る幕末」のNo.130にある長崎のパノラマ写真は片淵の長崎監獄が写り、明治20年以降に撮影されたものであるが、それと比較すると後者には川縁の塀際の空き地には、「ビードロの家」と言われる素となった2階建てが見え、東側の空き地には「大工小屋」と言われる小さい建屋が完成している。

ここで、2箇所の空き地のどちらを広い写場に比定するかを考えるために、「フルベッキ写真」と「長崎全景」の拡大写真を見比べてみる。「フルベッキ写真」では3方が高い壁に取り囲まれており、2方には可動式と思われる格子状の大きな板戸が嵌められている。このような状況に当て嵌まるのは、東側の空き地ではないかと思われる。永見徳太郎は昭和9年1月「アサヒカメラ」や「カメラ」、「長崎談叢」などで「白壁の塀際に幕を垂れ、ロクロ細工の欄干飾りを置いて、その前で青天井で撮影した」と言っている。彼は、広い写場の時代には生まれていなかったので、伝聞に過ぎないが、証言は矛盾しない。この写場で撮影された写真で、時期が特定出来るものは慶應4年以降にしかない。慶應4年2月ごろに沢宣嘉が長崎鎮撫総督として来た際に撮った写真(「長崎図説」)、4月ごろに松方正義が日田県知事を拝命した際に撮った写真(「松田正義」)、彦馬の家族を撮影した写真(「写真の開祖 上野彦馬」)などである。明治2年以降になれば、明治7年まで時期を確定出来るものが多数ある。フルベッキが写っている写真としては、明治2年2月ごろ、長崎奉行所管轄の済美館の後継、広運館の教員らと撮影されたもの(「日本のフルベッキ」原本)があり、致遠館の「フルベッキ写真」と対をなしている。こちらには集合者たちの背後に欄干飾りの置物がはっきり写っている。続いて、明治2年6月に山県有朋や西郷従道らが洋行前に撮った写真(「決定版 昭和史1」)がある。11月に彦馬が家族や弟幸馬と写真(「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.25)を撮っている。さらに、明治3年4月26日に毛利元徳ら一行が木戸孝允と撮った写真(「写真の開祖 上野彦馬」)があり、これは「木戸孝允日記」に記載されている。

さらに、撮影日が判明した写真として、大正11年2月に大隈重信が亡くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出たが、その口絵に掲載された「大隈夫妻を囲んだ外国人たち」の写真を挙げることが出来る。この写真は明治5年10月29日に灯台及び電信視察のため大隈等が巡視船テーボル号で大阪・神戸・長崎に向け出航した「灯台巡回」の際に撮られたものである。乗り込んだのは大隈重信、山尾庸三、佐野常民、石丸安世の他に杉浦譲、石井忠亮、佐藤興三、フレッシャー、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。これらのことは、「図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」、「灯台巡回日誌(大隈文書)」、さらに「杉浦譲全集 第5巻」の「燈台電信巡視日記」で知れる。また、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」には大隈と山尾が夫人同伴で行ったと書かれている。つまり、大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎に滞在していたのだ。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事なし」と書いてあり、巡視船への石炭積み込みのため仕事は休みとなったので、上野写真館に行って写真を撮った。「サトウの日記」には、その日の夕方に明治天皇がこの年の6月に巡幸の途中で泊まった料亭で会食したと書かれている。と云うわけで、この写真は明治5年11月14日に上野彦馬の写場で撮影されたものである。この写真では明治4年の後半に手前にあった石畳を剥ぎ取った跡が写っている。

その他に、明治3年と4年にフランス語教師のレオン・ジュリーが広運館生徒らと集合写真を撮っており、「日本の開国」に載っている。このように、「フルベッキ写真」の広い写場は紛れもなく、上野彦馬の写場であり、慶應3年の後半から慶應4年にかけて作られたことが分かるが、その場所には「大工小屋」が建てられて消滅し、名残を後年に留めることはなかった。広い写場で撮影された写真で最も新しいものは、「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.20に紹介されており、台紙の裏の記述から明治7年9月である。この頃までは青天井の広い写場が使われていたと結論出来る。その後、明治6年ごろ邸内の北東の端に屋根にガラスを張った写場が出来、屋内での撮影に移っていった。2階建ての写場の完成は明治14、5年とされているが、これも確定的なことは分かっていない。撮影日のはっきりした写真の発見が望まれる。最後に明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中のパノラマ写真「長崎全景」の一部を東京国立博物館所蔵の写真より複写拡大してお目にかける。右隅の家屋が彦馬邸の東南の角に当たる。広い写場を置く余地は、この角の棟の西側か北側の白壁の塀際のどちらかである。西側の塀際は「長崎製硝図絵」の通り、盛り土の堤防があったとすると写場を作るのは無理だったと思われる。以上から、広い写場には東側の塀際の空き地が使われたと結論する。     

(平成19年8月3日)

* 以下の写真をクリックしてください
Part_of_nagasakis_panorama_photo__2 Part of Nagasaki’s panorama Photo by Ueno Hikoma
Image:TNM Image Archives, Source:http://TnmArchives.jp
提供:東京国立博物館

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