彦馬が売っていた「フルベッキ写真」
慶應義塾大学 准教授 高橋信一
「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。 (平成19年8月22日) |
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