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2007年6月28日 (木)

フルベッキ写真検証 落合莞爾

070629newleader 経営誌『NEW LEADER』7月号に「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」という記事が載っています。この記事は落合莞爾氏の筆による連載物であり、同氏は『平成日本の幕末現象』(東興書院)や在米の国際ジャーナリスト藤原肇氏との共著『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)などを著しており、私は両書から色々な意味で啓発されたものです。そして、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」という落合氏のシリーズ物も、近代日本の裏の歴史を知る上で大変興味深い内容だと今まで読んできたのでした。しかし、今週届いた経営誌『NEW LEADER』7月号に目を通し、落合氏がフルベッキ写真を取り上げているのに気づき興味津々で読み進めてみたものの、同じ落合氏の筆によるものとは思えないほどお粗末な内容であったので落胆した次第です。その落合氏が記事の中でフルベッキ写真について言及している箇所を最後に転載しておきますので、読者にはじっくり目を通してもらうとして、落合氏の記事の何処が出鱈目なのか以下に列記しておきましょう。ちなみに、灰色の囲みは落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」から、茶色の囲みは慶應義塾大学准教授の高橋信一氏の論文やメールからです。

1.撮影場所

撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

以下の論文を落合氏は見落としているのが一目瞭然です。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

2.子供

次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

私は高橋先生とのメールのやり取りで、以下のような情報を頂いています。加治氏だけではなく、落合氏の意見も是非聞かせて欲しいところです。

所謂一般市民に、この写真を知らしめたのは石黒敬七さんで、島田氏よりはるかに早い、昭和32年の「写された幕末」で、娘と書いています。その写真が石黒敬章さんの「明治の若き群像」に転載されました。彼は、想像でキャプションを書いたはずですが、感性は正しかったと思います。また、村瀬寿代先生がブログの掲載の前から、娘だと私に言われていました。服飾の歴史の専門家に聞いて子供が着ているのは、女の子のドレスだそうです。

2007年5月27日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

3.大室寅之佑

さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

まさか、大室寅之佑(明治天皇)が写っているといった出鱈目を落合氏が信じているのでなければいいのですが…、万一そうだとすれば、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」の信憑性を根本から見直す必要が出てきそうです。

4.伊藤博文

私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

この下りを読んだ瞬間、自分の心の中では雲の上的存在であった落合莞爾像はガラガラと崩れ落ちました。同記事に目を通した高橋先生も呆れたようで、落合氏の記事についてサムライが何か書くことがあれば、以下のメッセージも載せて欲しいという依頼がありましたので、一部を割愛の上、転載させていただきます。

落合莞爾氏は佐賀藩士を平凡な人生と言ってますが、「フルベッキ写真」に写る彼らの半分は当時としては破格の海外留学経験をし、それを活かして明治の世の中を作っていった人たちです。それらの価値を掘り起こすのが、平凡な作家の使命のはずです。西郷や伊藤などだけが歴史を作ったのではないことを伝えてください。

2007年6月28日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

落合氏は高橋先生の以下の論文に未だ目を通していないようなので、ここは是非一読を勧める次第です。目を通した後でも落合氏の目が覚めないようであれば、「駿馬も老いては駄馬に劣る」という諺を落合氏に贈る他はなさそうです。

「フルベッキ写真」に関する調査結果
小説「幕末維新の暗号」の検討結果

「フルベッキ写真」検証
行方不明の坂本龍馬は…

 吉井友実が宣教師フルベッキに親炙したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい数力月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面化する兆しが生じた。

 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。折しも慶応二年一月には薩長秘密同盟が締結され、翌年には薩土秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。

 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

 吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラバーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。

 一八六四(元治元)年二月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、八月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、十一月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を立つ。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(二〇八頁)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年四月五日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。

 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。

 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くが、グラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。

 結局、明治維新の真相の一班にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。

『NEW LEADER』7月号

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