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2007年6月

2007年6月30日 (土)

相伝のワシントン流の謝罪術と遁走曲

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が『財界にっぽん』に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新版です。ホームページ【宇宙巡礼】にも先ほどアップしました。

『財界にっぽん』2007年7月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第8回



相伝のワシントン流の謝罪術と遁走曲

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



 国内政治は問答無用の強権政治で押し切ったが、慰安婦問題についての発言で安倍は無責任さを露呈し、軽率な首相の恥が全世界に伝播した。3月10日号の『エコノミスト』は「安倍よ恥を知れ Shame on you」と書いたし、3月24日の『ワシントンポスト』の社説はタイトルに「アベシンゾウの二枚舌 Shinzo Abe’s Double Talk」と表現した。だが、国内メディアはこの件を触れなかったので、国民は日本の評価が大暴落した事実について、何も知らない状態で放置されたままだ。

  しかも、昔から「弱り目に崇り目」と言う言葉があって、第二回目に書いたようにネオコンとして安倍の保護者を任じていた、ポール・ウォルフォウィッツ世界銀行総裁のスキャンダルが、ワシントンで炎を燃え上がらせ始めた。3月28日の『ワシントンポスト」はカーメン記者の署名記事で、ポールが愛人のシャハ・リザに特別便宜を与えて、それまで13万ドル強の年俸を19万ドル強に増やし、給料は銀行持ちで国務省に出向させていた事実を取り上げ、これがお手盛りだったと問題にした。

  もっともポールとシャハの愛人関係については、スキャンダル好みの英国のタブロイド紙が取り上げて、ポールの世銀総裁就任が決まった直後から、『デーリー・メール』などが問題にして書き立てていた。リビアに生まれサウジで育ちトルコ人と結婚したシャハは・ロンドンのLSEを出てオックスフォード大で修士を取り、アラブ語、トルコ語、英語、仏語、伊語を操る才媛で、念の入ったことに英国国籍の持ち主だった。

  レオ・シュトラウスの学風を身につけたアシュケナジのポールが、米国のネオコンとして幾ら派手に動いたにしても、セファラダムの彼女に牛耳られるだけというのが、中東情報に詳しい英国風の筆致に感じ取れた。だから、英国でキナ臭い煙を出していたスキャンダルが、『ワシントンポスト」の記事で燃え上がった後で、英国の『フィナンシャル・タイムス(FT)』は取り上げて記事にしたのに、ネオコン系の『ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)』は暫く事件を黙殺してから、やっと世界銀行総裁を擁護する記事を書き始めた。

  国際世論の非難の的になっていた安倍首相には、ネオコンで庇護者のポールの不始末の重要性について、思い巡らす心の余裕も頭脳力もなかったし、四月には何かと慌ただしい日程がぎっしり詰まっていた。六年振りに訪日する中国の温家宝首相を始め、各地の首長が決まる地方選挙が控えていたし、月末に始まる連休を使った恒例の外遊では、米国や中東諸国を訪問する日程があり、特に米国で盛り上がっている慰安婦問題を前にして、ボロを出さないかが大きな懸案だった。憲法改訂のための国民投票法を成立させるには、中国の温家宝首相が国会演説をするドサクサ紛れに、委員会採決と衆議院の与党採決を強行することが、安倍にとっての最重要のスケジュールであり、それを予定通り実行したのである。だが、曲者の温家宝は役人が書いた演説草稿を読み上げ、阿倍仲麻呂や鑑真らの名前を列挙して、日本人の自尊心をくすぐっただけではなく、草稿の「中国入民は日本人民が平和発展の道を歩いていくことを支持する」という部分を省いた上に、事前の打診を抜き天皇に北京五輪の訪中を招請して、安倍内閣を軽視する姿勢を記録に残した。

  外交では無言の発言に重要な意味を潜ませるが、そういう「エクリチュールの意味論」に疎い鈍感な安倍首相は、国民投票法の衆議院通過に満悦していた。また、世界銀行のスキャンダルがワシントンで火を噴き、安倍の後見人のポール・ウォルフォウィッツが記者会見で謝罪して、強情を張る安倍に謝罪の手本を示したが、共に自発的に責任を取って辞任しないで居直った点では、「この師にしてこの弟子あり」の見本だった。

  だが、この段階では未だ真意が日本に伝わらず、安倍は那覇基地で行われた自衛隊員の葬式に出かけたが、輸送中のヘリコプターが墜落した程度の交通事故は、本省の輸送課長や儀典担当官の仕事なのに、わざわざ首相が参列したのだから呆れる。現に4月16日の『朝鮮日報』は東京特派員の記事として、「果たして韓国の大統領が、韓国軍の葬送式に参席したことがあるだろうか」と疑問を呈していたが、今後の交通事故などでの葬式のことまで考えれば、それなりの立場に居る者は行動を自重して、慎重に振舞うのがけじめだと知るべきであった。

  居座るために一応は謝ったポールのやり方を見て、同じ手口が使えると考えた外務省の役人が試みたのは、共にネオコンの砦として知られたメディアを使い、首相の訪米の時に世論の沈静化を図るという企画だった。質問事項を限定し『ニューズウイーク』と『ウォールストリート・ジャーナル』にインタビューさせ、それで批判の楯にするという広報活動の一環でもあった。だが、取材記者を高級すし屋で接待漬けにして、機嫌を取った裏話まですっぱ抜かれたのは、よほど慌てていたにしても脇が甘かった。

  首相官邸で安倍がインタビューを受けていた頃に、右翼に銃撃された伊藤長崎市長が死亡して、軍国主義への傾斜が急速に進む中で、日本ではテロの季節が本格化していた。国連の軍縮局のライデル上級政務官が謹んで、「立派な大儀を持った真のリーダーを失った」と述べたが、異論を問答無用で圧殺する政治的狂気が、「戦後レジームからの脱却」の名で蘇ろうとしている。

  しかも、戦争屋として田中真紀子が嫌悪したアーミテージが、安倍に即席の知恵を授ける目的で駆けつけ、言葉遣いやテーマの展開を教える師匠として、首相官邸で訪米直前の手ほどき工作をしたのである。安倍が余りに頼りないと判断したにしろ、一国の首相が外国の役人に指図されたのでは、とても独立国と呼ぶことが出来ないが、世界に通用しない隷属関係を目の前にして、日本のメディアは不感症を呈していた。

  更に、安倍の訪米に合わせて韓国系のグループが、『ニューヨーク・タイムス』などの主要新聞に広告を出し、慰安婦問題で安倍首相に謝罪を求めるとか、ワシントンで抗議デモを組織すると言われていた。だが、バージニア・テク大学での銃撃事件の犯人が韓国系だったので、強い衝撃のために盛り上がらなかった。その影響で安倍訪米へのメディアの関心も低調だったが、心配の余りに二日だけの短期滞在で済ませ、安倍は逃げるようにしてアメリカを立ち去り、次の予定地の中東諸国に向かったのである。

  奇妙奇天烈だったのは安倍がとった態度であり、一部の米国議員や大統領に謝罪の意思表示をしたのに対して、ブッシュは「私は首相の謝罪を受け入れる」と答えたが、朝日新聞が社説で指摘していたように、首相が謝罪すべきは元慰安婦に対してのはずだ。現に4月29日の『朝鮮日報』の社説はそこに噛み付いて、「頭がおかしい安倍首相、話にならないブッシュ大統領」という見出しで、「日本の首相はなぜ慰安婦の人々ではなく米国の大統領に謝罪し、米国大統領は何の資格があってその謝罪を受け入れるというのか」と非難していた。

  それにしても、慰安婦問題は戦争責任の一部に過ぎない。しかも、植民地人や戦争捕虜を使った強制労働を始めとして、戦地での住民殺教や略奪の問題が山積みであり、軍国主義が安倍内閣の手で復活することで、日本人への警戒心と非難は高まる一方だ。そうした課題を解決せずに先送りして、その上に大きなシコリを残したことにより、2007年4月は迷走と暴走によって彩られた、不吉な曲がり角を右折した「卯月ならぬ憂月」になったのである。

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2007年6月28日 (木)

フルベッキ写真検証 落合莞爾

070629newleader 経営誌『NEW LEADER』7月号に「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」という記事が載っています。この記事は落合莞爾氏の筆による連載物であり、同氏は『平成日本の幕末現象』(東興書院)や在米の国際ジャーナリスト藤原肇氏との共著『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)などを著しており、私は両書から色々な意味で啓発されたものです。そして、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」という落合氏のシリーズ物も、近代日本の裏の歴史を知る上で大変興味深い内容だと今まで読んできたのでした。しかし、今週届いた経営誌『NEW LEADER』7月号に目を通し、落合氏がフルベッキ写真を取り上げているのに気づき興味津々で読み進めてみたものの、同じ落合氏の筆によるものとは思えないほどお粗末な内容であったので落胆した次第です。その落合氏が記事の中でフルベッキ写真について言及している箇所を最後に転載しておきますので、読者にはじっくり目を通してもらうとして、落合氏の記事の何処が出鱈目なのか以下に列記しておきましょう。ちなみに、灰色の囲みは落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」から、茶色の囲みは慶應義塾大学准教授の高橋信一氏の論文やメールからです。

1.撮影場所

撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

以下の論文を落合氏は見落としているのが一目瞭然です。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

2.子供

次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

私は高橋先生とのメールのやり取りで、以下のような情報を頂いています。加治氏だけではなく、落合氏の意見も是非聞かせて欲しいところです。

所謂一般市民に、この写真を知らしめたのは石黒敬七さんで、島田氏よりはるかに早い、昭和32年の「写された幕末」で、娘と書いています。その写真が石黒敬章さんの「明治の若き群像」に転載されました。彼は、想像でキャプションを書いたはずですが、感性は正しかったと思います。また、村瀬寿代先生がブログの掲載の前から、娘だと私に言われていました。服飾の歴史の専門家に聞いて子供が着ているのは、女の子のドレスだそうです。

2007年5月27日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

3.大室寅之佑

さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

まさか、大室寅之佑(明治天皇)が写っているといった出鱈目を落合氏が信じているのでなければいいのですが…、万一そうだとすれば、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」の信憑性を根本から見直す必要が出てきそうです。

4.伊藤博文

私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

この下りを読んだ瞬間、自分の心の中では雲の上的存在であった落合莞爾像はガラガラと崩れ落ちました。同記事に目を通した高橋先生も呆れたようで、落合氏の記事についてサムライが何か書くことがあれば、以下のメッセージも載せて欲しいという依頼がありましたので、一部を割愛の上、転載させていただきます。

落合莞爾氏は佐賀藩士を平凡な人生と言ってますが、「フルベッキ写真」に写る彼らの半分は当時としては破格の海外留学経験をし、それを活かして明治の世の中を作っていった人たちです。それらの価値を掘り起こすのが、平凡な作家の使命のはずです。西郷や伊藤などだけが歴史を作ったのではないことを伝えてください。

2007年6月28日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

落合氏は高橋先生の以下の論文に未だ目を通していないようなので、ここは是非一読を勧める次第です。目を通した後でも落合氏の目が覚めないようであれば、「駿馬も老いては駄馬に劣る」という諺を落合氏に贈る他はなさそうです。

「フルベッキ写真」に関する調査結果
小説「幕末維新の暗号」の検討結果

「フルベッキ写真」検証
行方不明の坂本龍馬は…

 吉井友実が宣教師フルベッキに親炙したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい数力月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面化する兆しが生じた。

 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。折しも慶応二年一月には薩長秘密同盟が締結され、翌年には薩土秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。

 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

 吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラバーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。

 一八六四(元治元)年二月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、八月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、十一月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を立つ。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(二〇八頁)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年四月五日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。

 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。

 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くが、グラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。

 結局、明治維新の真相の一班にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。

『NEW LEADER』7月号

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2007年6月13日 (水)

「この道」 小錦八十吉

東京新聞の夕刊に元大関小錦の手記が連載されていますが、特に今日の記事(第111回目)には心を打たれました。最近取り上げている在米の国際コメンテーター・藤原肇氏の「愛国心」に相通じるものがありそうです。

070613_konishiki ボクが来日したのは一九八二年だった。人と車の多さに目を丸くしたのを今でも覚えている。それから二十五年。日本はずいぶん変わったね。変わったというより、悪くなった。若者の乱れは深刻だ。とくに若い女性が心配だよ。だって、平気で売春するんだもの。それを日本の社会は深く追及しない。見て見ぬふりをする。

ハワイでは売春をやっているとすぐに捕まるから、簡単にはできない。性風俗の乱れに加えて、麻薬が簡単に手に入るのも社会のひずみにつながっている。六本木や渋谷の盛り場に出かけて、一万円も出せば麻薬が買えてしまう。これは恐ろしいことだよ。

この前、ハワイで一番偉い米連邦捜査局(FBI)の捜査官と学校をまわった。行く先々でビデオをまわした。子どもたちに麻薬を乱用すると死に至ると啓蒙してきた。子どもは社会の宝でしょ。その子どもたちにたやすく麻薬が手に入る社会なんてボクには考えられないよ。

早く手を打たないと、本当に怖い社会になっていく。実際、東京は国際的な犯罪都市になりつつある。金のためなら平気で人を殺す風潮がまん延しつつある。精神的に荒廃した子どもたちが、そのまま大人になったら…、と考えただけでも恐ろしくなる。

今の日本人には愛国心がなくなったね。愛国心といっても戦前の軍国主義につながる愛国心じゃない。日本の社会と人を思う心だ。本当に国を愛する気持ちがあれば、ボクが嘆く問題を少しでもよくしようとするはずじゃないか。

例えとして適当かどうかは分からないが、尖閣諸島・魚釣島問題で、エスカレートした一部の中国人活動家がかつて、魚釣島に上陸した。領土問題の是非はともかく、あれくらいの勢いがないと駄目だと思うね。

日本人に愛国心が出てくるのはスポーツのときだけでしょ。「ニッポン、チャチャチャ…」というときしか、愛国心を発揮できないのは寂しく、悲しいね。

社会を変えるにはまず家庭を大切にすることだ。誰もが家族を思う気持ちがあれば社会だって自然と変わっていく。

「この道」 元大関 小錦八十吉

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日本の荒廃を世界に曝した阿倍政治の醜態

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が『財界にっぽん』に毎月掲載している、「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新号が出ましたので以下に転載いたします。

『財界にっぽん』2007年5月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第7回



日本の荒廃を世界に曝した阿倍政治の醜態

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



 世界に通じる教養に不足した日本の首相が、慰安婦問題について十分に熟慮しないで、「強制した事実を裏付ける証拠は無い」と断言して、政治責任(アカウンタビリティ)の欠如を明白に露呈したために、それが世界から反発の嵐を巻き起こした。幼稚で粗野な安倍晋三の思い込みに従い、その場逃れと嘘の上塗りを放置したので、安倍首相に向けた「恥知らず」という非難は、世界のメディアが書く責任論の洪水として、日本の悪名の形で世界を駆け巡っている。

 3月6日の『LAタイムス』のオピニオン欄には、ジョージ・ワシントン大学法学部のシェルトン教授が、「日本はこの恥知らずを隠蔽できない」と題して寄稿したし、同日の『ニューヨーク・タイムス」の社説は安倍発言について、「女性たちは強制徴用されたのに、日本は事実を捻じ曲げ恥を晒している」と書き、8日には一面を使った記事で「安倍は戦時中の過去を抑え込んで、成り上がった国家主義者だ」と糾弾した。

 韓国と中国の非難は定番通りで激しかったが、東南アジアで侵略された国ぐにも声を荒げて、『マニラ・タイムス』や香港の『明報』は「歴史の改窟だ」と日本政府の卑劣さを攻撃している。

 だが、問題は未だ「慰安婦」が中心になっており、戦時中の植民地人や捕虜の強制労働を始め、日本兵による戦場での残虐行為については、表立った形で取り上げられていない。だから、強制労働をした麻生炭鉱の御曹司が、靖国カルトの外務大臣である点は見過ごされており、内閣全体が火ダルマになるには至っていない。

 それにしても安倍首相は相変わらず居直り続け、鉄面皮で責任逃れの愚策を弄しているのに、言論界はこの破廉恥男の辞職さえ求めていない。しかも、刻々と日本の立場が損なわれて行くのに、こんな人物が首相である事実により、世界で生きる私でも日本人であることが恥ずかしくなる。

 日本人なら誰でも知っていることだが、安倍は閣僚になった経験がないだけでなく、政治家としての経験も至ってお粗末であり、世界に通用する常識や政治理念も持ち合わせていない。だから、3月13日に岡山で記者会見した小沢一郎は、「首相というのは政治理念 や哲学をきちんと勉強し、持っているのが普通の場合は要請されるが、そういう点が見られない。その時々に言葉を発しているだけだ」と安倍をけなしている。

 『小泉純一郎と日本の病理』に書いたように、留学と称してロスに滞在していた安倍青年は、取得した単位がゼロだっただけでなく、学歴詐称と同様に不透明な過去を持っている。そして、韓国の諜報機関や統一教会と密着した、政治フィクサーだった朴東宣に手なづけられ、「ぺーパークリップ作戦」で反共闘士の洗礼を施されたとか。

 しかも、北朝鮮に対しての強硬姿勢を前面に出し、祖父が首相の血筋と若さを売り物にして、ヤラセ同然だった総裁選挙に勝ち、自動的にトップに立ったのが安倍の経歴だ。だから、党内では「ぼくチャン首相」と呼ばれるし、安倍晋三の実態は「ふ金総裁」に過ぎないから、難局に直面すると簡単にボロを出してしまう。

 小沢が言う政治理念の無さに加えて、政治を語る自分言葉も持ち合わせていないので、発言の中身がないのを直ぐ見抜かれてしまう。そして、施政方針演説が「空虚な言葉の羅列」だったと、『フィナンシャル・タイムス』が世界に報道したように、実力の無さは見くびりの対象にと転化する。小泉劇場に見とれる程度の大衆が相手なら、奇兵隊員向けの田舎芝居でも済むが、世界に向けてメッセージを発信するためには、感情ではなく論理と知性の裏づけが必要である。

 「事実を裏付ける証拠は無い」と断言した安倍晋三は、この言葉で十分に説明を果たしたと思っただろうが、政治家としての彼の経験と頭脳程度では、役人に教えられた発想しか出来ないために、事実や証拠を物質的なものに限定して、公文書だけが証拠だと考えたに違いないと思う。公文書を抹殺すれば証拠が無いので、責任の追及から逃れられるというのが、役人の特徴的な発想だからである。

 昔から落城のときに証拠になる文書を燃やし、領主に責任追及が及ばなくするという仕事が、家老に与えられた最大の責務だった。また、現在でもライブドアー事件の時の手入れ直前において、シュレッダーで書類を徹夜で破壊したことは、活字になって衆知の事実として知られている。

 現に橋本内閣による省庁大合同によって、どれほど大量の書類が廃棄になったかは、当事者たちしか知らない事柄に属しており、国民の知る権利は闇に葬られている。特に大蔵省は竹下や橋本が牛耳った時代に、現在の金融崩壊と経済破綻があったので、合理化の口実に便乗した証拠隠滅が、試みられていた可能性は濃厚だ。自民党体制の崩壊を前にした1990年代は、責任追及を回避するために証拠を隠滅し、誰も責任を取らずに済むように考えて、敗戦の時の知恵を借りた者がいたはずだ。


敗戦の時の証拠隠滅工作のエピソードと責任の回避

 拙著の中に『情報戦争』と『インテリジェンス戦争の時代』があり、その中に次のような記述が記録としてあるが、敗戦に臨んだ外務省であった情景である。

 「この時期の外務省は大混乱に陥っており、外相は東郷茂徳から重光葵に代わって、引継ぎや閣議であわただしかったが、暗号解読の特別情報班はすべてが支離滅裂で、ロッカーの中から書類を全部庭に持ち出し、大急ぎで掘った穴の中で焼却処分した。暗号帳などはなかなか燃えにくかったから、石油をかけて二日がかりでやっと灰にしたが、最後にはマル秘のハンコまで火の中に放り込んだ…。」

 これは外務省のブラックチェンバーの統括責任者だった、早川聖さんが物語った体験談であり、当時カナダにいた私は彼に出会い、毎週のように彼を招いて夕食を共にしながら、八年を費やして全体験を聞き出し、数十本のテープに録音したものを書き起こして、歴史の証言として本にしたのである。

 この例を見ても明らかなように、書類を保存して資料として残すよりは、証拠を隠滅して責任追及を逃れることが、役人や政治家にとって優先事項であり、職員が総出になって書類を燃やす伝統が日本にはある。

 しかも、慰安婦問題を取り上げたNHKに対して、権力者として放映直前に圧力をかけ、安倍幹事長代理と中川経済産業相が番組改鼠を要求し、憲法や放送法違反を犯した事実がある。それだけではなく東京高等裁判所が、番組改竃だ違法だとの判決を下したのに、安倍は「介入はなかった」と開き直っており、嘘つき男としての悪名をテレビで広め、首相の名前を汚辱まみれにしている。

 こんな不塔な暴虐政治が行われているのに、安倍は現在も首相のままで中川昭一は政調会長であり、違法行為に対しての反省も無いまま、今度は世界に向かって嘘をつきまくっている。こんな日本のでたらめ政治と暴君に対して、世界が猛反発するのは至って当然であり、亡国路線を改めない限り日本に未来は無い。

 これを見ても日本がいかに狂った国に成り果て、自力ではとても正常な状態に戻れないので、世界からの外圧に期待するだけという、実に惨めで情けない状況に陥っていると分かる。だが、こうした破廉恥な政治家たちの放置を止め、狂気に満ちた火遊びを防ぐ努力をしない限りは、日本は世界から嘲笑され続けるだけで、亡国路線の中で悲惨な状態を目指して没落して、最後には天罰まで受けるのではないか。

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9条改憲の賛否を問う質問 回答まとめ

いよいよ参議院選挙が来月に迫ってきました。過日アップした「参院選候補者への質問発送」の結果が出ましたので、以下の名月さんの報告を一読願います。
9条改憲の賛否を問う質問 回答まとめ

先に取り上げた教育法改正も9条改憲に結びつくことは容易に想像できます。
我が子を戦場に送っても良いのか…

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2007年6月 7日 (木)

閉鎖された加治将一氏のブログ

過日、「『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント」というテーマの記事を投稿し、加治将一氏本人のブログから以下を引用したのを覚えておられると思います。

『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

ところが、その後上記のかじまさ.netが閉鎖されているというメールが道友から届きました。あれだけの“名文”が読めなくなるということは大変惜しいことなので、以下に加治氏本人が自著『幕末維新の暗号』について述べていた箇所を再録しておきましょう。後は読者の判断にお任せします。

『幕末維新の暗号』あとがき

 Kaji

『幕末維新の暗号』を出してから、有形無形の圧力を受けている。脅しさえも。
 日本には『幕末維新の暗号』という、一介のフィクション小説の出版さえ、許さない得体の知れない勢力がいる。

 言論弾圧、出版妨害。

 あるものは政府機関を名乗り、あるものは弁護士を名乗り、あるものは教育者を名乗り、あるものは学者を名乗り、いややはりその中には、まったく名乗らない闇の勢力もいる。  妨害には、さまざまな方法がある。 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

 『幕末維新の暗号』は、盗作で読む価値なしだという言いがかりもよく使われる。

 『幕末維新の暗号』は、駄作だと中傷する古典的な方法がある。
 いずれも、知識遺産を知りたいと思う情熱を抹殺する恥ずべき人間のやることだが、そうはいっても確信犯的な連中には通用するわけはないのだが・・・

 出版社や新聞社に、『幕末維新の暗号』の書評を載せるなと、圧力をかける方法もある。
 そして直接版元に、本の抹殺を狙って難癖をつける方法もとられるが、現代において、もやはそれは成功しないはずだ。
 情報が公開され、一定程度の言論の自由という意識が浸透している時代になってきているからだ。

 さらにまた、作家やその周辺を震えるほどに脅す方法がある。オーソドックスだが、効果的だ。


 正直、身の危険を感じている。
 しかし加治は、屈服する年齢ではない。
 もう充分、好きなように生きてきたし、この世に未練はあまりない。この先、長く生きてもせいぜいあと20年だろうか。それが仮に数年短くなったとしても、冷静に受け止められると思っている。
 正直に生きるためなら、あえて危険な領域に踏み込むことはいとわない。
 とは言え、セキュリティのために公表していた顔写真を引っ込め、暮らしを移させてもらった。これはすべきことだと思う。 


 過去における真実とはなにか?
 個人が決めることじゃない。多くの人が、さまざまなことを知り、考えることに参加すれば、より真実に近づけるはずだと信じている。
 それにはまず、知ること。
 加治は『幕末維新の暗号』という小説で、世に問題を提起した。この本は長い取材と調査。そして多くの人の協力があっての賜物だった。

 もう一度、見つめようではないか?
 考えようではないか? 
 我々、日本という国を・・・
 我々には、それが可能なはずである。

 『幕末維新の暗号』は、発売わずか3週間で、4度も刷り増しするという栄誉にあずかった。
 購入し、読んでいただいたみなさんには、深い感謝と尊敬の念を抱かざるをえず、さらにより多くの人が、『幕末維新の暗号』を自分なりに見つめていただきたい気持ちでいっぱいでだ。
 そこになにかを見出し、気付いていだだければ、作家としては本望なのだ。



 応援歌がたくさん聞こえる。 すべての人に、感謝と愛情をこめて・・・

加治将一
by kaji-masa | 2007-05-18 07:01

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2007年6月 4日 (月)

藤原さんとの出会い

在米の国際ジャーナリストである藤原肇氏が、『財界にっぽん』という経済誌に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]を本ブログでは過日転載しています。先ほど本ブログに載せた政治評論家の森田実氏の記事を目にした、藤原肇氏と交流のあった元朝日新聞の記者の斎藤義雄氏が、私が副管理人を務める「藤原肇の宇宙巡礼」に以下のような投稿をしてくれました。

名前:斉藤義雄 投稿日: 2007/06/04(月) 17:10:44
久しぶりですね。元気で活躍されている様子とホームページの存在をを知り、懐かしさと共に嬉しくなってお便りしました。三十年ほど前に取材して記事を書いた朝日の経済部の斉藤です。私が読んだ記事でみる昔変わらぬ鋭い発言は、今の日本にとって何よりも必要な言論の威力です。この記事は大切だと思うので再掲載しておきます。
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK35 > 772.html
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Re: 藤原肇氏の徹底的な安倍政治を批判した記事の威力
http://www.asyura2.com/07/senkyo35/msg/772.html
投稿者 ものぐさ太郎 日時 2007 年 6 月 04 日 15:36:17: .yeE2v5B/41rM

(回答先: 藤原肇氏(フリーランス・ジャーナリスト、在アメリカ、『小泉純一郎と日本の病理』の著者)からの手紙 (森田実の言わねばなら 投稿者 天木ファン 日時 2007 年 6 月 04 日 08:23:35)

森田実氏が紹介して絶賛している藤原肇というは米国在住のジャーナリストは、20年位前は『文芸春秋』や『エコノミスト』などによく執筆して、現役時代のわれわれ新聞記者は国際政治とか、石油についての国際情勢について多くのことを教えてくれた。最近は日本の主流の雑誌が迫力のある記事を掲載しないので、こういう真実を語る人の記事が雑誌から消えて久しいと思っていた。われわれオールド記者にとって懐かしい名前だから、検索して探したら『宇宙巡礼』というホームページがあるのが見つかった。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/
そうしたら『財界にっぽん』に連載していると分かったし、古い記事はかなりダウンロードして読めるようになっていた。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/abe04.htm
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/abe02.htm
その中でも上の二つの記事は安倍内閣の無能さについて徹底的に論じており、こういう記事が日本の総合誌から消えたことが、日本の言論界の衰退の原因だと痛感した。実際問題として藤原記者が書いた『小泉純一郎と日本の病理』は、小泉政治がいかに支離滅裂であったかを暴露していた点で、これに勝る本は未だに日本には登場していないのである。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334933688/250-5330185-1699445?v=glance&n=465392
そうであれば、『財界にっぽん』に連載されている記事は、次に予想される安倍晋三という暴君の狂った政治の病理について、本として出版されるものを予告しているのではないかと考えられた。そこでサイトでは読めない最近の記事が読みたくなり、書店を探したがなかなか見つからなかったが、ようやく日本橋の丸善で最新号を買うことが出来た。
七月号の記事は「相伝のワシントン流の謝罪術と遁走曲」という題で、この四月における安倍の支離滅裂な行動がみごとに総括されているだけでなく、ネオコンで安倍の保護者として君臨し、世界銀行の総裁のポール・ウォルフウィッツのスキャンダルについて、驚くべき詳細な分析がしてあったので驚いた。こんなすごい記事は世界の新聞を幾ら読んでも、誰も書いていないのではないかと思った。
民主党がこの記事のコピーを何百万枚か作り、参議院選挙の一週間前に駅の改札口とか、通行人に手渡せば選挙に圧勝できるかも知れない。それほど強烈で衝撃的な内容の記事だと思った。現在発売中なので記事の紹介は差し控えるが、日本の新聞記者仲間や評論家にぜひ読むことを勧めたい。念のために地方に住む場合には財界にっぽん社に連絡することで、手に入れることも可能かもしれないので電話番号を書く。Tel;03-3257-6701、

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森田実の言わねばならぬ[281]

B051030 以下の記事は『森田実の時代を斬る』に載った在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏の記事です。なお、文中の『NEW LEADER』2007年5月号の「《安倍首相に直言する》“意味論オンチ”が日本の評価を大暴落させた」は7月ころ、『財界日本』6月号の記事は数日の内にホームページ【宇宙巡礼】にアップ致します。

2007.6.2(その1)
森田実の言わねばならぬ[281]

平和・自立・調和の日本をつくるために【192】
藤原肇氏(フリーランス・ジャーナリスト、在アメリカ、『小泉純一郎と日本の病理』の著者)からの手紙

「賢を見ては斉(ひと)しからんことを思う」(孔子)[自分よりすぐれた人に接したら、その人のようになろうと心掛けることが大切である、という意]

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 著名な国際ジャーナリストであり、在アメリカのフリーランス・ジャーナリスト、藤原肇さんからご丁寧なお手紙をいただいた。
 藤原さんは、「NEW LEADER 2007.5」によると、「仏グルノーブル大学理学部博士課程修了。理学博士。多国籍石油会社で石油開発担当後、米国で石油会社経営。ビジネス引退後、ジャーナリストとして活躍。著書は『小泉純一郎と日本の病理』『賢く生きる』等多数」。
 藤原肇氏からのお手紙にはこう書かれている。

《私はアメリカに住む日本人で、40歳の頃にビジネスを引退し、日本には真の意味でのジャーナリストが不在なので、それ以来はフリーランスとして世界で仕事をしています。最近の日本のメディアは本当に腰抜けになってしまい情けないかぎりです。》

《最近の大兄の記事でウクライナのスカチコ氏との一問一答の読みました。国内に向けて何を言っても日本人の脳が動いていない以上は、このように外に向かって発言してそれを国内に逆流させるのが最良と思っていますので、こういうやり方を続けてください。
 私が日本で本を出しても、大事なところはバサッと削られてしまうので、言論の自由など存在しないと実感しています。そこでフランス派の私が苦労して英語で書いたりしていますが、アメリカの大新聞の編集長のレベルが低いために、ヨーロッパでしか記事にならなくて残念です。日本語では100年後の歴史の資料になるだろうと証言を残しています。》

 藤原氏のような才能豊かな強い精神の持ち主が、世界を舞台にしてジャーナリストとして活動していることは大変心強く、ありがたい。天に感謝したい気持ちである。 藤原氏は、最近、日本の雑誌に論文を書いておられる。

 一つは「NEW LEADER」2007年5月号の[《安倍首相に直言する》“意味論オンチ”が日本の評価を大暴落させた――「美しい国」どころか醜悪な暴政に陥る危険性――]。

 藤原氏はこのなかでこう述べている。
《日本の信用と国家の威信が損なわれ続け、日本が蔑視されている現実こそが問題だ。安倍首相が従軍慰安婦問題について「強制性を裏付ける証拠はない」と断言したことが、世界の世論の猛烈な反発を引き起こしたため、安倍晋三のせいで日本の評価は大暴落した。》

《今の日本には怨念と屈辱感に支配されて、「一つ覚え」のように憲法改正を叫びまくり、不可欠な理念や理想の議論が脱落したまま、強引に押し切る悪しき手口が蔓延している。》
 安倍政権への厳しい批判である。

 もう一つは『財界にっぽん』2007年6月号の[〔遠眼鏡で見た時代の曲がり角〕日本の荒廃を世界に曝した安倍政治の醜態]。
 このなかで藤原氏はこう述べている(pp.4-7)。
《世界に通じる教養に不足した日本の首相が、慰安婦問題について十分に熟慮しないで、「強制した事実を裏付ける証拠は無い」と断言して、政治責任(アカウンタビリティ)の欠如を明白に露呈したために、それが世界から反発の嵐を巻き起こした。幼稚で粗野な安倍晋三の思い込みに従い、その場逃れと嘘の上塗りを放置したので、安倍首相に向けた「恥知らず」という非難は、世界のメディアが書く責任論の洪水として、日本の悪名の形で世界を駆け巡っている。》

《それにしても安倍首相は相変わらず居直り続け、鉄面皮で責任逃れの愚策を弄しているのに、言綸界はこの破廉恥男の辞職さえ求めていない。しかも、刻々と日本の立場が損なわれて行くのに、こんな人物が首相である事実により、世界で生きる私でも日本人であることが恥ずかしくなる。》

《北朝鮮に対しての強硬姿勢を前面に出し、祖父が首相の血筋と若さを売り物にして、ヤラセ同然だった総裁選挙に勝ち、自動的にトップに立ったのが安倍の経歴だ。だから、党内では「ぼくチャン首相」と呼ばれるし、安倍晋三の実態は「ふ金総裁」に過ぎないから、難局に直面すると簡単にボロを出してしまう。》

《(安倍首相らは)世界に向かって嘘をつきまくっている。こんな日本のでたらめ政治と暴君に対して、世界が猛反発するのは至って当然であり、亡国路線を改めない限り日本に未来は無い。
 これを見ても日本がいかに狂った国に成り果て、自力ではとても正常な状態に戻れないので、世界からの外圧に期待するだけという、実に惨めで情けない状況に陥っていると分かる。だが、こうした破廉恥な政治家たちの放置を止め、狂気に満ちた火遊びを防ぐ努力をしない限りは、日本は世界から嘲笑され続けるだけで、亡国路線の中で悲惨な状態を目指して没落して、最後には天罰まで受けるのではないか。》

 在アメリカのフリーランス・ジャーナリスト、藤原肇さんの安倍政治と日本の未来を憂う論説に学ぶこと大である。藤原氏の訴えに真剣に耳を傾けたい。  
 藤原肇さんの憂国の情がひしひしと伝わってくる。われわれ日本国内で言論活動をしている者は、この藤原さんの憂国の情に応えなければならないと思う。

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2007年6月 3日 (日)

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶應義塾大学准教授 高橋信一

明治元年10月、岩倉具視の息子具定・具経兄弟が長崎の佐賀藩藩校致遠館に国内留学した際、フルベッキや致遠館関係者と撮影された集合写真、「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の中で初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されており、素性は明らかである。その後の偽説に利用された軌跡を辿ってみることにする。

先ず、明治33年米国で出版されたW.E.Guriffisの「Verbeck of Japan」では写真は掲載されていず、説明のみ書かれている。それには岩倉兄弟の他大隈重信と柳屋謙太郎が写るとしているが、後者二人については疑問がある。グリフィスが米国で指導した日下部太郎や横井兄弟の言及はない。私が先に説明したように、大隈はこの本を読んでいた。次に、明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」に掲載された。それ以前の存在については後で記す。写っている人物として、岩倉具定、石橋重朝、丹羽龍之介、中島永元、江副廉蔵、中野健明、香月経五郎、山中一郎、大庭権之助が挙げられており、江藤新平や大隈重信はいない。居もしない他の人物を当て嵌める以前に、先ず、これらの人物を同定する必要がある。昭和6年に出版された「明治百話」には晩年(明治31年死去)のフルベッキが篠田鉱造のインタビューに答えて、この致遠館の「フルベッキ写真」と長崎奉行所の学校済美館の後継広運館の関係者と写した集合写真を示しながら、上野彦馬が撮影したことなど、当時を気さくに語っている。秘密の写真ではなかった。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で、明治22年に暗殺された森有礼が残したアルバム中の名刺判が「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。この写真は平成18年に出版された石黒敬章「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にも載っている。明治の中ごろまでに、この写真の名刺判の複製が一般に流布していた証拠である。ここまでは、「フルベッキ写真」は特別な意味合いのあるものではなかったのである。

これに根拠もない汚名を着せたのは、自称肖像画家の島田隆資である。昭和47年5月10日の読売新聞に「オイどんの写真じゃと・・・」と題して「フルベッキ写真に西郷隆盛が写っている」と発表した。さらに、昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表し、撮影時期と20数名の人物の比定を行った。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の評価は未だ全くなされていない。そのことによって、いろいろな憶測が次々に加わっていった。島田氏はその後31人まで江副廉蔵が手に入れて家に残した名刺判からの複製である「フルベッキ写真」のコピーに名前を書き込んだ。それがいろいろな方面に流布し、波紋を広げた。尚、この論文と前後して昭和50年に出版された「写真の開祖 上野彦馬」の中で、上野一郎が上野彦馬の写場の変遷を多数の写真から推定し、「フルベッキ写真」を撮影した写場が明治以降のものであることを立証した。これを覆す証拠は未だ見つかっていない。上野氏は平成9年安田克廣編「幕末維新 写真が語る」の中でも繰り返し、慶応年間説を否定している。以降、昭和49年の「勝海舟」始め小沢健志氏の各種の著作には「フルベッキ写真」は「長崎の致遠館生徒らの集合写真」として取り上げられて来た。そのような写真界の常識に反抗するように偽説は燻り続けるのである。

昭和55年に秋田角館の青柳家から、この島田氏の書き込みが入った写真が発見され、昭和55年8月19日の佐賀新聞に当時の佐賀大学教授(現佐賀城本丸歴史館長)杉谷昭氏が記事を寄せ、島田論文を既に擁護している。この角館のものと同様のものが、昭和60年5月28日、当時の自民党二階堂進副総裁から国会に持ち込まれて話題になり、東京新聞が特集記事を掲載し、島田氏の論拠は否定された。にも拘らず、平成7年12月号(高橋佐知)及び平成11年7月号(中津文彦)の「歴史読本」に見られるように、西郷隆盛と関連付けて、上野氏の論考を無視した偽説の展開が続いて来た。それに対して正当な歴史家の研究として、平成15年「日本のフルベッキ」を翻訳出版した村瀬寿代氏は、翻訳の過程で知った「フルベッキ写真」の問題を歴史学的に解明し、平成12年「桃山学院大学キリスト教論集第36号」で明治元年撮影を結論付けている。この内容を基礎にした論証は「日本のフルベッキ」の注釈に載っており、私の調査のベースになっている。また、平成15年8月に大阪市立大学名誉教授毛利敏彦氏が佐賀で講演し、慶應元年説を否定した。ここで、問題を複雑にしている明治天皇との関連を見ておきたいが、明治天皇(大室寅之祐)が写っているという話は、この時点まではどこからも出ていなかったのである。

大室寅之祐の子孫を自称する大室近祐が明治天皇すり替え説を唱えていたことは、その支持者である歴史家の鹿島昇の著作「日本王朝興亡史(平成元年)」や「裏切られた三人の天皇(平成9年)」で知られていた。しかし、これらの著作には「フルベッキ写真」への言及はまったくなかった。平成13年4月24日に鹿島氏が亡くなった後、共同研究者の松重揚江氏が「日本史のタブーに挑んだ男(平成15年)」の中で、始めて「フルベッキ写真に明治天皇(大室寅之祐)が写っている」と唱えた。一方、国際ジャーナリスト中丸薫氏は「真実のともし火を消してはならない(平成14年)」の中で、自分が明治天皇の子孫であるとの主張とともに、「平成13年4月14日に大阪でフルベッキの孫の知り合いの人物から額に入った「フルベッキ写真」をもらった」と言っている。「フルベッキ写真」には全員の名前が入っており、明治天皇が写っていると主張している。明治天皇説が捏造されたのは、平成13年ごろである可能性がある。誰が始めて全員の名前を入れたか未だに不明であり、偽説によって登場人物に多少の変動が見られる。

また、こうした偽説の流布が発展する契機になったものとして、平成9年岩波書店が発行した「日本の写真家シリーズ1」の「上野彦馬と幕末の写真家たち」に、これまでで最も高精細で完全なオリジナルに近い「フルベッキ写真」が掲載されたことが挙げられる。これは近年になってからパリで競売に掛ったものが日本に持ち込まれ、産業能率大学の購入所蔵となったものである。台紙にフランス語のキャプションが入っているが、業者が入れたもので、意味はない。以降、インターネットや土産物屋、各種出版物で見られるほとんどの「フルベッキ写真」はこれから無断・同意で盗用・引用されたものと考えられる。ちなみに私がブログで使用しているのは、このブログ上に野田氏が掲載しているもので、「上野彦馬と幕末の写真家たち」からスキャンした画像である。中丸氏が手に入れたものも、これに類するものだろう。しかし、中丸氏からの反論はない。

陶板額の流布はおそらく、平成13年ごろに佐賀の陶業者金龍窯が最初に発売した。前掲昭和55年の佐賀新聞の記事に触発されたそうで、島田氏の論文のコピーを付けていたが、名前は入っていなかった。佐賀を中心に山口、高知、京都などの行楽地の土産物屋の店先に並び、インターネットでオークションにもかかった。全員の名前を入れたものは同じく彩生陶器によって平成16年ごろに売り出され、この年の暮れから翌年にかけて、全国紙朝日、毎日、産経、日経、そして読売の旅行雑誌に広告が掲載された。これが全国の幕末史愛好家に与えたインパクトは大きかったと思われる。「フルベッキの子孫が日本に実在した」という虚偽とともに、歴史家が解明していないことをいいことに、世の中の受けだけを狙った一種の詐欺行為が堂々と行われた訳である。添付の冊子には、歴史的な解明は全くされていず、名前が入った人物の紹介文のみが載っている。慶應元年当時の年齢が全員入っており、佐賀の相当熟達した研究者が、背後で「フルベッキ写真」を利用して自己の勝手な主張を公にしようと諮ったものである。

昭和55年の佐賀新聞の記事を書いた杉谷氏は平成19年4月に郷土史機関紙「葉隠研究」に歴史小説を発表して、慶應元年明治天皇長崎到来説を唱えているが、内容には歴史的事実に反することが何箇所も見受けられ、元々無理な主張である。同様な偽説を信奉する諸説は、本来真摯に歴史を探求しているはずの歴史愛好家のグループからも出て来ており、一例は平成17年2月の長崎県有家町史談会の会報「獄南風土記」第12号であり、偽説を無批判に取り上げ、流布させようとしている。今回の加治将一「幕末維新の暗号」は、これまでの偽説をトレースしただけで、新たな推測はワンパターンの「フリーメーソン」に留まっている。同定も不完全で、このようなアジテーゼに感激する読者がいる日本の風土に大きな疑問を感じる。自由な発想だと擁護する向きも多いが、事実の記録を尊重して、ちゃんと考えた上での判断でなければならない。他人に流される国民性の問題である。「幕末維新の暗号」の欺瞞については、先のブログを参照されたい。今後も繰り返して「フルベッキ写真」は蒸し返されるかもしれないが、近年は古写真を重要な歴史を記録した史料として正規に認め、学問的に研究する気運が盛り上がりつつある。世界的にも日本の古写真は注目されており、このようないい加減な議論がまかり通るのは恥ずかしいことである。これを機会に、一般の歴史研究者が古写真を見つめるノウハウを勉強してほしいと節に願う。今回の内容に訂正・情報がありましたら、寄せていただくとありがたく思います。                           

(平成19年6月3日)

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