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2007年5月25日 (金)

批判精神の健在が一国の活力を生む

以下の記事は日本の大手マスコミの現状を痛烈に批判した記事です。昨日の「ProZ」という投稿記事で紹介した色川大吉氏の、「日本人の大半が溺愛しているあの甘いメロディとお涙ちょうだいの精神風土」の住人の代表が、日本大手マスコミのサラリーマン記者であることを如実に示した記事だと言えそうです。しかし、「みんなで渡れば怖くない」という日本の大手マスコミが陥っている精神構造から脱している、大西哲光氏や中本三千代氏のような人物もいるのだと知って嬉しくなりました。

『財界にっぽん』2007年5月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第6回



批判精神の健在が一国の活力を生む

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米

 犬が人間を噛んでも大したニュースではないが、人間が犬に食いつけばそのニュースに人は注目する。政治のルールを無視した小泉政治のやり方は、余りにも軌道を逸した慣例無視が強烈だったために、人間が犬に食いついたのに似た印象が強く、小泉劇場はサプライズが売り物の異常性に満ちたものだった。

 だから、『小泉純一郎と日本の病理』という本を書いた時に、私は心理学的な歪みと異常性についての分析を試みたのだが、その記述部分は出版に際して削られたので、日本語版は診断のないカルテみたいになった。そこで英語版の「Japan’s Zombie Politics」では診断部を復活させたが、ロカビリー狂の小泉が訪米に便乗して、大統領専用機に乗りメンフィスのプレスリーの家を訪れ、税金を使った漫遊旅行と出版時が重なっていた。

 小泉がグレースランドで演じた狂態については、『ワシントン・ポスト」のピーター・ベーカー記者や『ニューヨークタイムス』のモーリン・ドウド記者が筆をそろえて、2006年6月1日付けで嘲笑の記事を書いている。だが、辛辣だったのはロンドンの『タイムス』であり、リチャード・ロイドペリー東京支局長が「メンフィスでの狂態の意味」と題して、日本の首相の恥晒しについて全世界に報道した。

 1995年以来リチャードは東京に駐在しているが、アジア事情に精通した彼は一年前にインドネシアの政治に関し、『In the Time of Madness』という本を出したので、小泉の狂態をマットネスという言葉で形容したのだろう。日本の新聞記者をいくら見渡しても、小泉政治のインチキさと異常性について、これだけズバリ指摘したものは見当たらない。

 日本人記者に迫力がないのは自己規制のせいだが、それに較べて興味深いのは東京駐在の特派員を始め、外国のメディアで働く日系記者の活躍である。おそらく世界に通用するレベルでの仕事をするために、日本的な「タコツボ」発想に支配されないで、近代社会が要請する「是々非々」を明白にして、はっきり記事を書く記者が多いせいである。

 もっとも中には日本病に感染して骨抜きになり、ぷら下かり記事を東京発で得意に書きまくる、『フィナンシャル・タイムス(FT)」のグウタラ特派員もいるし、昔の『ロサンゼルス・タイムス」の東京支局長のように、日本の政治家の御用記者を務めた人物もいる。だから、有楽町の「日本外国特派員協会FCCJ」に行けば、一流から五流までの報道関係者だけでなく、諜報関係者や奇妙なブローカーに至るまで、世界各地から来た興味深い顔ぶれが並んでいて、今の東京は戦前の上海租界を彷佛とさせる。

 そんな昨今の東京で活躍している記者の中で、ズバリと歯切れのいい記事を書く日系記者として、世界の側から二人のジャーナリストが注目されている。最初の一人は『ニューヨークタイムス』のオオニシ・ノリミツ(大西哲光)支局長であり、リベラリズムと民主主義を信条にしてペンを執り、日本の右翼や国家主義について遠慮なく論評するので、国粋主義者たちから目の敵のように扱われている。

 幼時にモントリオールに移住したのでカナダ入の彼は、プリンストン大学時代に学生新聞の編集長として活躍し、アフリカやモスレム圏での取材体験を誇っている。だから、北朝鮮問題で異常な興奮に支配される日本人に対し、「右翼が北朝鮮の拉致問題で憎悪を煽っている」と指摘して、2006年12月17日号に強烈な記事を書いた。また、オオニシ記者は黒幕的存在の「日本会議」まで取り上げたので、突き放した筆致を誇る彼に反発する国粋主義者たちは、安倍晋三と同じ幼稚で露骨な敵対感情を剥き出しにする。

 「拉致問題にこだわり六カ国協議に参加する資格がない」と言われ、北朝鮮にバカにされている安倍内閣の外交感覚の醜態は、感情論しかないと世界に丸見えである。だが、オオニシ記者のようにそれをズバリ指摘すると、反日論者として右翼から総攻撃されるので、日本のメディアは口をつぐみ何も書かないでいる。

 それにしても、統一教会の合同結婚式の罠にはまって妻になり、韓国に移住した数千人の日本人女性の実態が、ソフトな形の拉致の一種かも知れないのに、安倍晋三は統一教会に祝電を送ったのだし、安倍内閣は統一教会に牛耳られたままだ。こういう狂った現実をはっきり指摘すれば、オオニシ記者のように反日だと非難するが、右翼のいう愛国の愛は一体どこの国に向けたものかと、「木を見て森を見ない」偏狭さが情けなくなる。

 祖国を愛するがゆえに問題を改革するために、ジャーナリストは勇気を持って悪を告発するのであり、その典型が『日経新聞」の大塚将司記者だったが、鶴田社長の公器の私物化と独善を告発したので、懲戒解雇されるという報復をうけている。詳細は『日経新聞の黒い霧」(講談社)の記述にゆずるが、日本の新聞記者にも骨のある人が存在し、彼を側面から支援したのが元同僚の阿部重夫記者で、『選択」の編集長として鋭い論陣を展開した。

 それにしても、日本語の記事だけでは「コップの中の嵐」だが、『フィナンシャル・タイムス』の2003年4月10日号の全面を使って、それを世界に向けた改革の火の手に転化したのは、記者魂に溢れたFT東京支局の中本記者だった。この日の私は有楽町の「特派員クラブFCCJ」に出向いており、『日経」の元幹部とランチを一緒にしたので、この記事の内容について食卓の話題にしたのだが、この元日経記者も記事の鋭さを賞賛していた。

批判精神を持て
 最近の東京発のFT記事には駄作も目立つが、時どき執筆する中本三千代副編集長の記事は鋭く、安倍首相の凡庸な施政方針演説に対して、今年の1月27日付けの紙面で「失敗演説」と決め付けていた。彼女が注目される二人目の記者だが、権力に遠慮するだけでなく迫従してしまい、まともな批判をしなくなった日本のメディアの中で、「唇の寒さ」を感じさせない中本発言は爽快であった。

 大衆相手に商売をするテレビは仕方がないが、小泉政治が得意にしたタブラカシ路線に丸め込まれて、日本のメディアは全く骨抜き状態になってしまい、社会の木鐸として権力の横暴の監視を放棄して、新聞までがサブカルチャーの場に成り果てている。それは新聞社がテレビ局を系列支配しているので、金儲けで大衆に迎合する衆愚主義に毒されたために、「読者の知る権利」が雲散霧消して久しいのだ。

 長く続く不況で経済活動が低迷する中で、国民が自由の感覚を喪失して閉塞感に包まれると、幻想の中に一時的な陶酔感を求める形で、ロマン主義が台頭すると歴史は教えているが、今こそ批判精神を湛えたリアリズムが重要だ。サラリーマン記者でなくジャーナリストとして生きるなら、権力や組織に左顧右眄しないでペンを執ると共に、言論活動を天職にする人間にとっての批判精神は、何ごとにも代えられない最大の資産である。

 病人を病気だと診断しない医者はヤブ医者であり、政治の歪みや狂いを指摘するには批判精神が要るし、それをジャーナリストが持ち合わせなくなれば、医者のいないハコモノ病院の乱立と同じことになる。自分の言葉を語れない政治家でも首相になる時代でも、ジャーナリストには自分の言葉を背くことが求められており、社会に活力を与える言論が衰退するならば、「言論死して国ついに滅ぶ」に繋がってしまう。

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