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2007年5月21日 (月)

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体

M024 昨日(5月20日)は埼玉県飯能市で開催されたツーデーマーチの2日目であり、私も小学校6年生の息子のサッカーチームの父兄として18キロの山道コースに挑みました(左側の写真が完走の証です)。普段は自宅でパソコンに向かって翻訳の仕事をしている私にとって久し振りの運動であり、流石に疲れましたが心地よい疲れでした。今後も機会を見て山歩きなどで健康を維持していかねばと痛切に思った次第です。ところで、昨日はヤマモト・ジョージという俳優だか歌手だかが参加したというので、帰宅後インターネットで調べてみたら歌手の山本譲二でした。
第5回 新緑飯能ツーデーマーチ

この山本譲二に関して以下のような投稿が地元飯能市の掲示板にありました。

263 名前: まちこさん 投稿日: 2007/05/20(日) 20:44:39 ID:t/EUdtEA [ ntsitm221116.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp ]

ゲストのジョージ山本は5kmコースに参加。
5kmの出発式で一緒に歩きましょう!と言ってた割には
スタートしてスグの中山陸橋から車に乗っていた。そりゃないぜ。

山本譲二に関する投稿は上記の一件だけでしたので事の真偽のほどは私には分からないものの、もし、この話が本当であれば、山本譲二が車に乗り込むのを目撃した大人は兎も角、子供たちの目にどのように映ったのかと心配になった次第です。目を日本の芸能界に転じてみれば「やらせ」のやり放題という感じであり、そのあたりの実情は「きっこの日記」に目を通すとよいと思います。
テレビを信じるナンミョー予備軍たち

さて、全員の子供たちか完走した後、市役所でコーチの訓辞があった際、一人の子がサッカー部を退団するということで、その子からお別れの言葉がありました。聞く話では中学校受験のためとのことです。受験と言えば、私の上の息子は現在中学校二年生であり、最近行われた中間試験の数日前から相当悩んでいる様子が傍目から分かりました。彼は県内でも有数の県立の進学校(高校)を目指すため、私の知人の塾で頑張ってきた甲斐があって、学年で10番目程度に入りました。しかし、塾の先生は二学年が勝負だということで5番目以内に入るようにと厳しく指導しているようであり、そのあたりが息子に負担になったようです。そこで、試験の前日、私は以下のような言葉を息子に投げたのです。

受験のための丸暗記の勉強だけに没頭していては駄目だ。たとえば、「大化の改新は645年に起こり、中大兄皇子と藤原鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革」と教わっただけで、後は丸暗記するだけで終わりだろう。そんな無駄なことを記憶するのに精を出すより、今の中学生という時期は大勢の友達と付き合い、部活(サッカー)を楽しみ、学校で最も優れた図書館という先生のところに行って様々な本、殊に和漢洋の古典と言われている本を、内容は深く理解できなくても良いから、沢山読破して欲しいな。そうした体験を通じて、自分が一生を賭けたい分野を探し出すように努め、その分野で最高の先生がいる大学を目指せば良いではないか。東大だ京大だといったハコモノで大学を選ぶのは間違っている。日本では最高学府とされている東大にしても、世界レベルで見れば200番台目に辛うじて入る大学に過ぎない。実際に東大を出ているお父さんの叔父さんたちを見れば分かるだろう。ともあれ、世界を見渡せば一流の教授が集う大学が沢山ある。自分が一生を賭けたい分野を見つけ、その分野で最高とされる教授の所へ行くべきだな。

このように諭すように語り聞かせたところ、様子も大分落ち着いたようであり、高校受験という下らないプレッシャーから解放された様子が手に取るように分かり、親父としても安堵した次第です。それにしても、一流中学・高校・大学に進学すれば、卒業後は官公庁や一流企業に就職でき、生涯安定した生活ができると勘違いしている親が未だに多いのには驚かされます。そうした親に受験とは何かを考えてもらう意味で、私が管理しているホームページ【宇宙巡礼】から、受験に関連した言葉を最後に羅列しておきましょう。

 考え方を学ぶよりも結果を覚えこむという、後進国型の技術主義にガンジガラメになっていることが、自由な個人に育つべき若者たちの精神を窒息させているのだが、日本という枠組の中から見ている限り、突破口はおそらくみつからないだろう。閉された世界で絶対的な威力を持って君臨する価値観に対して叛逆するのは、なみ大低のことではないのだ。だが、その枠を乗りこえて一歩外の世界に踏み出したとたん、このロジカルな価値の基準はその意味を全く失ってしまうことが多い。そのいい例が受験地獄である。日本全体を狂気に追いやり、著者の青春を灰色に塗りこめている画一的な受験競争は、実体の核心に気づくやいなや、たちどころにその意味を失ってしまう。受験地獄の実体は大学に入れないことではなく、志望する有名校に入るのが難しいだけであり、狂躁曲に踊る姿が哀れだというだけにすぎないのだ。その有名校が自分の人生にとって、果してどれだけ本質的であり、生きざまの充実にどこまで意味を持つかを考えたことが無いか、あるいは、その無関係さに気づいていないだけのことである。

 そうであれば、有名校や大会社という評判は、世界のレベルでは単に日本国内というローカルな名声にすぎず、そこに気づくことで人生は一転してしまう。しかも、問題は所属する組織の名前や肩書きではない。世界に通用する普遍的な価値基準は、個人としての今のパーフォーマソスと将来に向けてのポテソシアルであり、すべてが人間としての生きざまと魅力にかかわっているのだ。その上、世界の次元では、まったく新しい文明時代が始まろうとしているのであり、新時代にふさわしい人材に成長することが、最優先の人生の課題になるのである。

だから僕は日本の若い人に、日本を脱藩する勇気を持ちなさいと呼びかけるのです。日本の大学受験熱にうかされたり、塾なんかに行ったところで、手に入れるものはタカが知れています。せいぜい有名商社や大銀行に入杜するくらいであり、そういうところの優れた人間は、現在ではいかにそこから脱出するかを悩んでいるのです。前田百万石の旗本になって二人扶になるか、一匹狼をしばらくやってみるかの選択が待ち構えているなら、僕は一人の自由人としての体験をもとに、一匹狼をやるようにと自信を持ってすすめたいと思いますね。

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体

動態幾何学(Curvilinear geometry)には厳めしい響きがあり、何かとてつもなく難しそうな感じで、これは頭が痛いと思う人がいるかもしれない。言葉の持つイメージは確かに難解に見えて、非常に大変だという印象を与えてしまうが、第一印象の強さに驚いてしまう必要はない。それは最近の中学生の数学に[集合]があるのを見て、何だかさっぱり分からない記号が多いが、自分が時代遅れになったのかと驚くのに似ている。新しい概念に初めて出会った場合には、常にそんな印象を持つのが人間であり、最初に外国語を習った日の当惑と同じである。

[This is a book.]という文章を黒板に書いた先生が、最初のジスは主語でコレという意味を持ち、次のイズは三人称のビー動詞だが、不完全自動詞だから補語のブックを持ち、これが単文という基本文型だと説明したら、誰だって目を白黒するに決まっている。

だが、アメリカやイギリスに行けば英語は共通語で、幼稚園児でも英語を喋っており、文法などを知らなくても不自由はしないし、慣れるだけで誰とでも意思疎通ができる。

数学も似たようなもので一種の言葉だから、慣れてしまえば無意識で言葉が使え、方程式は一七文字の俳句や五言絶句と同じで、考えを濃縮するルールの種に過ぎない。最初に俳句を作った時は難しく考えるが、言葉のリズムが分かれば簡単であり、季語の約束が面倒くさいと思えば、俳句にしないで川柳にしたらいい。

それと同じことで、方程式の代わりに図を描くのが幾何学で、三角形や円は子供の時から描いたはずだし、子供の学習はまず塗り絵から始まるのだから、図形で表現する幾何は川柳の身近さを持つ。それを難しいものと思い込んでいるのは、今の学校教育のやり方が悪いからであり、図形が表現するのは文字のない太古の昔から、人間にとって身近な思考の表現手段だった。歌えば楽しい音楽という表現の形式が、中学校の授業では短三度とかフーガだといって、知識として教えこもうとするために、音を楽しむ音楽が苦痛になることが多い。

それと同じで本来は楽しくて仕方がない図形発想が、入試のための幾何学の解法の複雑さのために、楽しみが苦痛になってしまっただけで、問題は日本の受験地獄の現状にあるのだ。

知識は力の源泉として必要なものだが、知識はそれ自体が静態的なもので、発想や判断という動態的なものに比べ、次元において遥かに劣っている。

ところが、日本の教育制度は知識に偏重し過ぎており、これは近代の始まりの頃には有効だったが、二一世紀には余り重要度がないものである。

しかも、これは知識の多さや記憶量で人間を計る、受験制度の悪い習慣が支配するためであり、一流校に入るために聳える受験地獄の関門が、どれだけ若者を苦しめていることだろうか。

このような知識万能が日本を支配したのは、技術至上主義の路線を適進するために、産業社会としての経済的な理由のせいである。大量生産の設備を能率的に動かす、巨大組織の部品(パーツ)として役立つ人間教育は、マニュアル(教科書)に忠実で知識の量を誇るから、人材が日本のような規格型にならざるを得ない。

こうしてパブロフの犬のように国民を育て、人間が規格品外にならないように、偏差値を使って選別しているのだし、荘園の領民に似た奴隷的な人間になる儀式が、受験地獄の隠れた正体(実態の意味の全体)に他ならない。

しかも、国内では最高と思われている東大が、米国の大学を除くと67番目に過ぎず、アメリカを含む全世界で200位以下なのに、国内に向けて輝いた虚像に幻惑され、青年たちは世界の三流校に憧れている。教育制度が経済的な理由に基づいて、人間疎外のシステムとして機能しているのなら、即刻この迷路から抜け出す必要がある。

日本の大学入試は教育制度ではなく、若い世代のエネルギーを無限に摩耗させ、ブラックホールに等しい存在として機能するなら、この虚妄の構造の放置は悲惨ではないだろうか。

『経世済民の新時代』(藤原肇著 東明社)p.58~60

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中学生25%が「うつ状態」 厚労省調査

中学生の25%が「うつ状態」。厚生労働省の研究班が約600人を調査すると、こんな結果が出た。うつ状態は、自殺につながりかねない危険性を指摘されている。専門家は、いじめの有無ばかりに注目せず、子供の心の状態に教師や親が関心を高める必要性を指摘している。

調査は、研究班主任研究者の保坂隆・東海大医学部教授(精神医学)らが2006年8月、静岡県内のある公立中学1校の1~3年生を対象に行った。「生きていても仕方ないと思う」「独りぼっちの気がする」など18項目を質問した。回答は「いつもそうだ」「ときどきそうだ」「そんなことはない」の中から選ぶ方式だった。

高い数字だが、現状を表している
18の質問すべてに答えた男女557人のうち、24.6%の137人がうつ状態と判断された。残りはうつ状態ではなかった。保坂教授によると、うつ状態と言っても、治療が必要なうつ病に近い状態なのか、悩みを人に聞いてもらえばすぐに直る程度の状態なのか、はこの調査からは分からない。

しかし、過去に行われた北海道や九州での中学生たちを巡る調査と比較しても似た数値を示している。保坂教授は「(25%は)高い数字と驚くかもしれないが、現状を表している」と考えている。

保坂教授は、子供の自殺対策を議論するときに、いじめ問題にばかり焦点が当たることに警戒感を持っている。子供たちの悩みはいじめだけでなく、進学や異性関係、親子・友人関係など様々だ。悩みをかかえうつ状態になった子供がいじめのターゲットになってしまうこともある。早い段階で子供の悩みに気付き、必要なら専門医に連れて行くなどの対処が必要だ。大人たちはどうすればよいのか。

――学校では、担任教師たちが、生徒ひとりひとりとじっくり話し合う時間をつくることが大切だ。導入が進むスクールカウンセラーやいじめの有無の調査ではなく、身近な存在として生徒の心配事に耳を傾けるだけでも気付くことがあるはずだ。親は、自分の子に限ってうつ状態などとは無縁だ、という思い込みを捨てる必要がある。だれでも陥ってしまう可能性があると知り、やはり会話を重ねるべきだ。国へは、中学生対策としてだけでなく「こころの安全週間」を創設し、自殺防止や周囲のうつ状態の人に気付くよう啓発することを求めている。全国で毎年行われている交通安全週間並みに一時期に集中的に関心を高めようとするものだ。

警察庁の調べでは、2005年の中学生の自殺は66人、04年は70人だった。

http://www.j-cast.com/2007/05/20007613.html
ジェイ・キャスト

投稿: サムライ | 2007年5月21日 (月) 午後 03時42分

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