『聖徳太子と日本人』
私は大分前から聖徳太子は架空の人物であると主張している大山誠一氏に関心を持ち続けていました。そして、いずれは同氏の書籍を手にしてみたいと思っていたのですが、最近になって『日本書紀』が編纂された背景に関心を持つようになり、そのため『日本書紀』を取り上げた色々な著者の書籍を手にする機会が訪れ、初めて大山氏の本を手にした次第です。私は書籍に赤や青の下線を引いたり、コメントを書き込んだりする癖があるのですが、大山氏の『聖徳太子と日本人』は久し振りに赤線や青線だらけの本になりました。
同書は、聖徳太子が実在していなかったことを証明してみせた上で、では何故「聖徳太子」という架空の人物が誕生したのか、あるいは誕生させる必要があったのかという点について、史料の検証を慎重に進めつつ、大山氏の鋭いインテリジェンスで以て炙り出した本と言えるでしょう。ここで、聖徳太子が架空の人物であるとするテーマは『聖徳太子と日本人』の中心テーマなのですが、今回は『日本書紀』を中心に据えて書評シリーズの一環として筆を進める形を取っていることもあり、ここでは聖徳太子は実存していなかったという視点を持つことが、日本の古代史の真相に迫る意味で如何に大切かということを指摘した大山氏の言葉のみを転載しておくだけに留めたいと思います。なお、聖徳太子が実存していなかったという大山説の詳細については、『聖徳太子と日本人』に直接あたっていただければ幸いです。
720年に編纂された『日本書紀』の中で、聖徳太子という人物が出現し、彼の名において憲法十七条がだされたのである。くどいようであるが、それは、推古朝の出来事ではない。すべて、『日本書紀』が完成した養老4年(720年)当時の出来事である。日本の古代史を正しく理解できるか否かは、そこの所を正確に認識できるかどうかにかかっている。 『聖徳太子と日本人』p.121 |
さて、今回の書評シリーズの中心テーマである『日本書紀』という本題に入ります。流れとしては、大山誠一氏が『聖徳太子と日本人』の中で『日本書紀』と藤原不比等の関係を鮮やか浮かび上がらせている箇所を簡単に紹介した後、私が同書で最も感銘を受けた天皇制についての大山氏の私見を取り上げるという形を取りたいと思います。
最初に、大山氏が『日本書紀』と藤原不比等との関係について述べている箇所を以下に転載しておきましょう。
彼(藤原不比等)の権謀術数により持統11年(697年)、15歳になった孫の軽皇子(文武)に位が譲られたのである。直ちに、不比等の娘の宮子が文武の夫人となり、やがて701年に首皇子(のちの聖武天皇)が生まれ、ここに持統と不比等の血を引く王統が出現する。恐らく、文武即位に際して成立した高天原・天孫降臨・万世一系の論理は、この首皇子の誕生まで見通したものであったと考えてよいであろう。とすれば、この記紀の論理を構築した人物として、藤原不比等以外の人物を考えることはできないのである。 『聖徳太子と日本人』p.227 |
「記紀の論理を構築した人物として、藤原不比等以外の人物を考えることはできない」とする大山氏の説に初めて接した読者は驚かれたかと思います。その藤原不比等についての詳細は次回の『覇王不比等』全三巻(黒須紀一郎著 作品社)で詳しく取り上げることにして、急ぎ『日本書紀』と天皇制というテーマに入りましょう。何故なら、天皇制を考えることの意味は、取りも直さず『日本書紀』誕生の真相に迫ることを意味するからです。
712年に成立した『古事記』は、その高天原を基点として構想された一種の歴史書であった。しかし、その完成前から、このような疑念が生じていたのである。やはり、高天原ではなく、中国思想を踏まえた天皇の理念が必要であった。その結果、『古事記』とは別に『日本書紀』が編纂され、そこで、天皇のあり得べきモデル、いわば模範のようなものとして、中国皇帝の理念を体現した人物像が創造されることになる。もちろん、それが、<聖徳太子>である。 『聖徳太子と日本人』p.70~71 |
『古事記』のような素朴な歴史書ではなく、中国思想の評価に堪えられるものでなければならない。就中、国家秩序の頂点にあるべき天皇が、実態はともかく、理念として中国の皇帝と対比しうる存在として位置づけられたものでなければならない。それが実現すれば、日本も、真に中国的な国家に生まれ変わったと言える。為政者たち、不比等も、長屋王もそう考えていたのである。 そのためには、単に、中国の古典に通じているというだけではなく、現実の中国の皇帝の姿を目にし、皇帝を取り巻く官僚や社会の動き、また、文化・思想状況に精通している人材が必要である。そうでなければ『日本書紀』は完成しないのである。 不比等や長屋王が、そう考えていた時、適任者が帰国した。道慈である。 『聖徳太子と日本人』p.87~88 |
『聖徳太子と日本人』の各章で私が白眉と思った章は第八章の「聖徳太子と天皇制」であり、殊に私が目を見張ったのは、P.211の「図6 日本列島の壁」でした。この図を目にして、初めて大和朝廷のできた奈良盆地という地勢の意味を私は正確に理解できたのです。以下は大山氏の天皇制についての見方を示した文章です。
天皇制とは、どのようなものか。誤解を恐れず、私見を述べれば、日本という島国に生まれた唯一の価値観であり、宿命でもあると思う。決して、多様な価値観の一つではない。他に代わるものはない、唯一のもの、そういう価値観である。しかし、それを生み出した島国は、人類史的にみても、決して小さくも、均一でもない。とてつもなく、巨大で、複雑で、多様な世界である。だからこそ、天皇制が成立し、<聖徳太子>も誕生する必要と必然性があったのである。 『聖徳太子と日本人』p.227 |
ここで、大山氏は「それを生み出した島国は、人類史的にみても、決して小さくも、均一でもない。とてつもなく、巨大で、複雑で、多様な世界である」と述べていますが、その大山氏の主張を正確に理解することが、大山氏の言う「天皇制」を真に理解するためにも必要となります。よく、日本は糸魚川静岡構造線を境にして東日本と西日本とに別れ、それぞれ社会が異なるといった主張を耳にしたり本で目にしたりします。しかし、糸魚川静岡構造線ではない大山氏の「図6 日本列島の壁」を目にして、私は思わず息を呑んだのでした。詳細は『聖徳太子と日本人』に譲るとして、以下に重要と思われるポイントを転載しておきましょう。 (下の図はクリックすると拡大されます)
上の図6には、日本列島を南北に貫く太い線がある。北は、親不知から始まり、飛騨山脈・立山・白山の山地を経て伊吹山へ。さらに鈴鹿山地を経て、伊賀を取り巻く山脈が続き、そのまま深い紀伊山地にいたっている。長く高い山並みが続いていることが理解されると思う。私は、これを日本列島を東西に分かつ壁と称したい。もちろん絶対的なものではないが、この壁が、東西の人々の日常的な交流をさまたげてきたことは、関ヶ原を境とする東西の違いを考えれば理解できるであろう。その際、注意すべきは、太線が部分的に途切れていることで、これは若干の谷間や峠を示している。つまり、この巨大な東西を分かつ壁にも若干の切れ目があり、それが関ヶ原付近と、伊賀・伊勢と大和を結ぶ初瀬川やいくつかの峠の存在である。前者は、近江と伊勢湾を結びつけており、後に不破関が置かれる交通の要衝である。当時は、主に伊勢湾沿岸から近江・若狭を経て山陰へ達する交通を保証していた。後者は、伊勢湾沿岸と大和盆地を結んでいるが、重要なことは、初瀬川にしろいくつかの峠にしろ、どれも、三輪山の麓、纏向に達していることである。 ということは、纏向の地が、大和盆地から伊勢湾沿岸への出口ということになる。伊勢湾沿岸から来れば、ここが大和盆地への入り口となる。つまり、この地は、壁を境にした場合、西日本と東日本とを結ぶ接点に位置していることになる。まず、このことを確認しておこう。 次に、弥生後期の東日本の情勢であるが、伊勢湾北部の尾張を中心とする東海系の土器が、北陸・東山・東海O東日本全体に広がっているという。このことは、壁の東側にありながら、西日本とも密接な交流を持つ伊勢湾北部の勢力が、東日本全体の交流の中心となったことを意味する。 『聖徳太子と日本人』p.211~213 |
以上の考察をベースに大山氏は天皇制に関する独自の持論を展開しています。その中で目が釘付けになったのは「権力とは情報なり」という言葉であり、その情報が集まる場所こそが奈良盆地だったという点でした。地勢的条件を含めた諸々の要素が複雑に絡み合い、世界に例のない「天皇制」が誕生したという大山説は面白く、まだまだ検討の余地はあるとは思うものの、今後は私も自分なりに追っていきたいテーマだと思った次第です。そうした史料の検証を重ねた後、大山氏は「天皇制」とは以下のようなものであると結論付けています。
天皇とは、結局、都の情報の象徴だったのである。吉田氏が、いみじくも「天皇を核とし、摂政・関白・院(上皇)、征夷大将軍などがその権力を代行する」と称したように、生々しい権力はむしろ、他の存在に代行される。それは、究極の調停者としての宿命であったと思う。調停者に求められるのは、権力ではなく、権威だからである。天皇制は、生の権力としては、最初から存在してはいなかったのである。究極の調停者であること、常にバランスの上にあり直接大地に接しないこと、これが天皇制の宿命である。その限りにおいて、天皇制は永続すると思う。その意味で、天皇制は日本そのものだからである。 『聖徳太子と日本人』p.219~220 |
吉田氏の「天皇を核とし、摂政・関白・院(上皇)、征夷大将軍などがその権力を代行する」という天皇観は、今までに多くの書籍などで目にしてきた天皇観であり、基本的に大山氏の天皇観と私の天皇観はほとんど重なっていると言えるでしょう。私は世界を3年間にわたって放浪してきた人間ですが、旅立つ前に父と色々と語り合った日が幾日かあり、ある日「日本人にとっての天皇制とは何なのだろう」と父に尋ねたことがありました。その時の父は「天皇がいなければ、日本はまとまらない」といった旨のこと述べていたことが記憶に残ります。そして、大山氏の以下の言葉も父か言わんとしていたことと重なっていることに改めて気づかされたのでした。
天皇制こそ、日本そのものであり、日本を理解する最大の鍵だと思っている。簡単に言えば、もって生まれた日本人の身体のようなものである。好むと好まざるとに関わりなく、自分自身なのである。過度に肯定するのも、否定的になるのもよくない。冷静に観察し、より高度に超越すべきであろう。 『聖徳太子と日本人』(大山誠一著 角川ソフィア文庫)p.399~401 |
最後に、蛇足ながら天皇制と『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏について言及しておきましょう。「二一世紀の今日、高天原と天孫降臨は、もう誰も信じていないのだから、残った万世一系に関しても、そろそろ、不比等の呪縛を解き放つ時期がきたのではなかろうか」(『聖徳太子と日本人』p.247)という大山氏の忠告にも拘わらず、天皇制を「過度に肯定」しているのが『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏です。関岡氏の『否定できない日本』を読んだ当時の私は「久々に日本に本物の憂国の士が登場した」と喜んだものでした。ただ、直後に購読して読んだ同氏の『なんじ自身のために泣け』は、アマゾンで高く評価されていたので取り寄せてみたものの、三年間の放浪生活を体験した私の目から見れば高評価に値するような本ではなく、単なる旅行記だったので一読後はゴミとして捨ています。その後、講談社から『奪われる日本』という本を出したというので取り寄せて読み進めたところ、出だしはなかなか良い本だったのですが、同書の第三部「皇室の伝統を守れ!」まて読み進めた私は唖然としたのでした。以下は同書からの引用です。
記紀の記述に基づく初代神武天皇から数えて二千年以上、歴史上の実存としても少なくとも千五百年有余も、単一の家系・血統を維持してきたという王室は世界に比類がない。万世一系というのは比喩でも誇張でもなんでもなく、まさに文字通り古今無双、唯一無二のかけがえのない存在なのである」 『奪われる日本』(関岡英之著 講談社現代新書)p.169~170 |
依然として万世一系という神話を信じている人たちが多いということは知っていますが、『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏のような人までが万世一系を信じているのかと最初目にした時は驚きました。しかし、よくよく考えてみれば、『否定できない日本』にせよ『奪われる日本』にせよ、インフォメーションレベルに留まっている本にすぎないのであり、決してインテリジェンスのレベルの本でではないという当たり前の事実に改めて気づいたのです。関岡氏は、「万世一系という論理は、697年に、自分たちの子孫を天皇にしたい持統と藤原不比等が作ったものである。それ以前はなかったのである」(『聖徳太子と日本人』p.245)という大山氏の言葉を噛みしめる必要があります。
次回は『日本書紀』の編纂の中枢にいった藤原不比等という人物について筆を進めていきたいと思います。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
光明など藤原氏によって謀殺された長屋親王が、聖徳太子のモデルとして最も適切と思います。唐招提寺の鑑真が、ヤマトに来た理由は、長屋親王がいるからとい言っていますから、聖徳に良く合っています。持統は光明がモデルとして作られ、それらの小説は光明と藤原仲麻呂の盛期に作られたものと思います。暦法の点からも時代として合うのではと考えます。
投稿: isiyama | 2013年4月14日 (日) 午前 01時17分
なるほど、法隆寺は当初は九州にあり、その後斑鳩の里に移築されたという説は幾度か耳にしたことがあります。その説の震源地が邪馬台国九州説を採る古田武彦氏でしたか。『法隆寺は移築された』に目を通してみないことには何とも言えませんが、昭和が産んだ最高の宮大工・西岡常一氏の著書を数冊読んでいるだけに、機会があれば宮大工の眼で同書を読んでみたいと思います。
聖徳太子の存在という謎以外に、夢殿といった建物一つ取っても、西洋の黄金比vs.大和比(白銀比)という摩訶不思議さを漂わせていますね。
ともあれ、マヨさんの「その当時の大宰府は新羅の出先機関、任那だった」という説も含め、今後も古代史に関心のある人たちと共に、真実追究への旅を続けていかなければなりませんね。宜しくお願いいたします。
投稿: サムライ | 2008年11月 7日 (金) 午後 12時21分
こんにちは、聖徳太子を論じる前に、「法隆寺は移築された」と言う本があります。古田史学の根幹になるのですが、法隆寺が移築されたことを歴史学会は絶対に認めません。仮に九州に法隆寺があったとなれば当然、聖徳太子もセットで考える必要があります。その本を読んだのですが、残念ながら建築の専門でない私には十分理解できませんでした。まったく架空の聖徳太子を捏造するにはそれなりの合理的な理由が必要です。それらしき立場の人がいたとは思うのですが、私の考えではその当時の大宰府は新羅の出先機関、任那だったと思うのですが、まだちょっと確信はありません。
投稿: mayo | 2008年11月 7日 (金) 午前 11時47分