『覇王不比等』
最初に、黒須紀一郎氏の『覇王不比等』(作品社)を一読してみたいと思うに至ったのは、アマゾンに載っていた以下の書評がきっかけであったことを告白しておかなければなりません。
われわれは日本史で壬申の乱について教わったが、その実態が何だったかについて先生は説明しなかった。また、「万葉集」で天智天皇の歌について教わったが、この天皇が誰であるかについての説明は無く、天皇は天皇としてそれ以上は教えようとしない。だが、大学の授業の時に天智天皇は天武天皇によって殺され、それが壬申の乱だったと教えられて仰天した。しかし、それ以上の秘密が日本史には隠されていて、天智天皇は百済系の支配者として君臨したのであり、天武天皇は新羅系の支配者だった事実について、この本は藤原不比等の生涯を軸にして描き、日本最大のタブーに挑んでいる点で、非常に衝撃的な内容によって貫かれている。人はこれを小説だと思いたいだろう。だが、タブーとされている歴史の真実を語るためには、小説の形をとらなければならないことが多いし、そういった仕事は売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多いということを本書は証明していると痛感させられた。特に第二部が圧巻である。 |
この書評にある「売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多い」という主張は、笠原和夫の『昭和の劇』などを読んだことのある私にとって大いに肯ける事実でした。
さて、黒須紀一郎氏の『覇王不比等』は三部からなる小説ですが、第一部の「鎌足の謎」のあとがきを読み、目を見張った箇所があります。
埴原和郎のシミュレーションによれば、 「7世紀の日本の総人口539万9800人の内、渡来人と土着系住民との比率は8.6対1となる」 という。 つまり、10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たちということになる。7世紀までの日本には、様々な民族が共存していたのである。古代史を考える上で、これは重要である。そして不比等の活動も、この問題を抜きにして語ることはできない。 『覇王不比等』第一部p.294 |
上記の下りを読むまでは、10人の内1人程度が大陸や朝鮮半島からの渡来人と記憶していたし、埴原和郎氏の本も所有しているだけに慌てました。早速書架から20年前に購入した埴原和郎氏の『日本人の起源』(朝日選書)を見つけ出し、パラパラと捲ってみたものの、「10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たち」という記述は見つからず、今度機会があれば同書を再度じっくりと紐解いてみたいと思います。科学的人類学の描く日本人成立のシナリオというサイトでも埴原説を紹介しており、「10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たち」について明瞭に述べてはいませんでしたが、埴原説の骨格を述べた文章だと思うので参照願います。
次回取り上げる『役小角』と関連することですが、日本の峻険な山々に住む人々の主流が縄文時代から日本に住んでいた原住民らであり、平地に定住していた人々が渡来人が中心だったと私は思います。そして平地に住んでいた人々の頂点にいたのが上記のアマゾンの書評にもある「天智天皇は百済系の支配者として君臨したのであり、天武天皇は新羅系の支配者」の天皇だったということで、正に日本のタブーに属する事柄だったと言えます。だからこそ、黒須氏は小説の形を取ったのでしょう。
藤原不比等に話を戻すとして、不比等の父、藤原鎌足の出自については『覇王不比等』に目を通していただくとして、第一部を読み進めながら、第七章「乙巳の変」に入ろうとするあたりから、当時は10人中9人が渡来人であったことを考えれば多分藤原鎌足も渡来人だろうという推測が働いたのであり、鎌足の正体が明かされた下りを読むに及んで、やはりという思いでした。しかし、その後に衝撃が待っていました。渡来人は渡来人でも鎌足が単なる渡来人ではなかったのです。鎌足が日本に来た目的を説明した同書の下りを読みながら、いくら“小説”とはいえ真に迫っていたので背筋が寒くなりました。それだけ、第一部の第七章「乙巳の変」は私にとって迫力ある章でした。
その他、斉明天皇・中大兄皇子(後の天智天皇)らは何故勝ち目のない白村江の戦に兵を送ったのかという疑問も、アマゾンドットコムの「天智天皇は百済系の支配者として君臨した」というコメントが不気味に脳裏に浮かぶのだし、さらには佐々克明氏の「天武天皇は、新羅の王子金多遂である」という説も説得力をもって迫ってきます。このあたりは天智と天武の関係を取り上げた「天智と天武の関係について」というサイトや、藤村由加氏の『額田王の暗号』(新潮社)を参照にするとよいかもしれません。そして、そうした天智天皇・天武天皇兄弟を中心テーマとして追求したのが『覇王不比等』の第二部と言えるでしょう。
最後の第三部は稀代の大政治家であった不比等の総仕上げの仕事を追った部ですが、まさに「日本」を生んだのは不比等であったと納得させられるような内容でした。その最終部の後、作者・黒須紀一郎氏はあとがきで以下のように述べています。
「夫れ葬は蔵すなり。人の見ることを得ざらむことを欲す」 不比等は死を目前にしても尚、必死にこの言葉を呟いている。これこそが、彼の生きざまであった。 生前の不比等は左大臣になることも、また大政大臣になることも望まなかった。彼の欲したのは地位や名誉ではなく、自分の理想を完遂できる実権であった。 「秘すれば花なり」という言葉があるが、不比等は自分の業績を秘することによって、逆に藤原氏という巨大な花を咲かせた。しかもその花は、1300年後の今日でも枯れることなく咲き続けている。 『覇王不比等』第三部 p.268 |
ところで、『覇王不比等』の第三部が終わろうとするあたりで、以下のような暗示的なシーンが登場します。
「刀根、お前は自分の顔をよく見たことがあるか。お前やわしの顔は、この大和に住む大方の“渡りもん”とはだいぶ違っておるじゃろう。わしらこそがこの大和を最初に開いた“くずもん”の子孫じゃ。この国はわしらの国じゃった。それを、海を渡ってやってきた“渡りもん”たちが奪ったんじゃ。刀根、心配するな。たとえ都の軍勢を全部相手にしてもわしは決して退きはせぬ。追われたらこの山に逃げ込め。他の皆にもそう伝えるがよいぞ」
『覇王不比等』第三部 p.121~122 |
刀根という男に向かって語っているのは、やはり黒須紀一郎氏が著した『役小角』の主人公、役小角です。では“くずもん”とはどのような人々だったのでしょうか。次回、同じ黒須紀一郎氏の『役小角』を取り上げつつ、“くずもん”の正体に迫ってみたいと思います。
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コメント
完全な“孤立言語”というのが存在するとは思えませんよね。人類のルーツ同様、辿っていけば必ずある言語グループに突き当たるはずです。
投稿: サムライ | 2009年5月24日 (日) 午後 01時51分
日本語が孤立言語だという人がいますが、そうですかね。ウラル・アルタイ系ですよ。
朝鮮語ともよく似てます、言語的には兄弟みたいなものです。
投稿: マヨ | 2009年5月24日 (日) 午後 01時34分
埴原和郎のシミュレーション。
これ自体が当てにはならないw
そもそも、20年前と現代とでは
考古学上のサンプルが大いに変わっている。
20年前までは、日本の農耕の開始時期は約2300年前とされていた。
しかし、現在では、日本の農耕開始時期は、遅くとも、陸稲は約6000年前、水稲は約3000年とされている。
これでは、まったくシュミレーションの結果も変わってくる。
そもそも、なぜ、日本語が比較言語上、孤立言語とされているのか? もし、塚原氏のシュミレーションが事実なら、この比較言語上のことが全く説明がつかない。
投稿: q | 2009年4月27日 (月) 午後 02時35分