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2007年4月

2007年4月11日 (水)

『役小角』

B070411 今回取り上げる『役小角』も『覇王不比等』同様に黒須紀一郎氏の作品です(ちなみに、役小角は「えんのおづぬ」と読む)。前回、『覇王不比等』の最後の方で取り上げた「くずもん」を代表する人物こそが役小角ですが、役小角が『日本書紀』に登場することは一切なく、『日本書紀』の編者は役小角をはじめとする「ぐすもん」の存在を故意に隠そうとしたことが分かります。しかし……。

『日本書紀』は、巻第二十八のすべてを費やして、壬申の乱を事細やかに記している。そして、その狙いは、大海人の決起が決して反乱などではないことを強調することにあった。それともう一つ、小角の率いる賀茂の民参戦の隠蔽である。『日本書紀』に記載された壬申の乱のどの箇所にも、役小角もしくはそれを思わせる一族の名はない。しかし、僅かに痕跡を留めた箇所は、幾つかある。いくら『日本書紀』の編者が隠そうとしても、これだけの大乱を詳述してしまえば、どこかに綻びは出てしまうものである。

『役小角』第二部 p.243

役小角やその一団が壬申の乱に参戦した痕跡が『日本書紀』の何処に記してあるかは、拙ブログを訪問してくれた皆さんが『役小角』第二部を読む際の楽しみに残しておくとして、当時10人中9人までが渡来人という日本にあって、当然ながら「くずもん」である土着系住民は10人中1人程度でした。しかし、役小角を代表とする「くずもん」は渡来人にはない、理解の及ばない世界の住人だったのです。そうした役小角らの教えを伝承した代表的な人物の一人が後に登場する空海でした。その空海が修験道の開祖とされている役小角から引き継いだものの一つが錬金術であったことは明白であり、そのあたりの詳細は 佐藤任氏の著した『空海のミステリー―真言密教のヴェールを剥ぐ』 (出帆新社) を一読すると良いでしょう。また、佐藤任氏の著作に関して意見交換を行ったスレッドがありますので、ご参考までに以下に紹介しておきます。
空海の夢

さて、役小角ら「くずもん」は何も太古の昔の人たちではなく、現代も「サンカ」と名を変えて生き続けています。尤も、サンカというと河原乞食を連想する読者も多いかもしれませんが、それは違います。藤原肇氏の著した『朝日と読売の火ダルマ時代』の中で役小角を引き合いに出した以下のような対談がありました。

 歴史的にサンカを生態人類学的に調べたら、海系統と山系統の2つの流れがあって、海系統の海人(あま)は海や川で漁をする海部で、山系統の山人は山岳地帯に住む山部であり、海部と山部の総支配人をアヤタチと呼び、これがサンカの大統領に相当します。そして、アヤタチの住む所が丹波のアヤベであり、出口王仁三郎はサンカ出身だから、その後に政府の大弾圧で徹底的に破壊されたが、大本教の本部を京都府の綾部に置いたのだし、丹波はサンカ文化にとって本拠地のようです。

 出口王仁三郎は本名が鬼三郎だった通り、確かにサンカ出身だったのは明らかだが、それで綾部に本部をつくったというのはどうかな。
丹波は古くから全体としてサンカの聖地で、大統領はしばしばアヤタチ丹波であるし、丹波、丹後、但馬はサンカ王国の中心だった。だが、出口王仁三郎や大本の話は明治のことだし、歴史的にみれば割に最近の出来事であり、中世に起源を持つサンカの歴史にとっては、それほど決め手になるとはいえないな。

 その意味で一気に古代に溯って考えると、奈良時代の役小角に関係しているようだし、深山で修行した山伏の生活にも結びつき、起源的には随分と古い時代になるようです。だから、エリアーデが論じる宗教史のような、きわめて文明の問題との関連で、学問的に文化人類学の側面からもアプローチして、きちんと整理しなければならない。また、どうしても関連領域が拡大してしまい、漂泊民と定住民という生活様式に基づく、部落問題と農民との関係という古い枠組を越え、新しいパラダイムの捉え方が必要になりました。そして、サンカの問題を社会的に理解するには、漂泊民の問題として山人と谷人の問題があり、仙と俗の間の情報理論が明らかになりました。

『朝日と読売の火ダルマ時代』 p.91~93

以上の箇所だけを紹介すると、いかにもサンカあるいはくずもんは過去の話として考える読者が出てくる恐れがあります。しかし、現実はそうではなく、今日においてもサンカは実存するのであり、しかも日本社会にかなりの影響力を持っています。そのあたりを述べた下りを『朝日と読売の火ダルマ時代』から差し障りのない範囲で引用しておきましょう。

 それは昭和史だけではなく明治史にも共通で、鉄道と電力会社の経営に関しては、山岳地帯や河川領域を握っていたから、サンカ系統が支配する傾向が濃厚でした。

 地方の鉄道は森林や鉱山の開発が関係して、山岳地帯の土地の買収や工事のせいで、山を支配していたグループが強かったし、水力発電所も同じ理由によるわけですが、それに、明治時代の電力事業はすべてが民間でやり、地方のブルジョワが式心を出し合ったし、鉄道の建設も民間会社がやっていて、国営化はずっと後になってからでしたね。

 明治政府を動かした薩長の武士のほとんどは、足軽などの下級武士が中心だったから、資金的には行商や両替を営む商人や、換金商品の生糸や鉱産物を扱う豪農に、産業を育てる資金を仰いだわけです。それが工場や発電所の建設になったり、鉱山開発や鉄道の付設に結びついたし、明治の後半になると化学工場も生まれ、ナントカ電工という工場が育ちます。それが揖斐川電工、昭和電工、日窒コンツェルンにと育ち、化学工業のほとんどが川筋者との関係で、サンカ系統の企業家に活動の場を提供した。

 それは川の利権と結びついていたわけですね。

 鉄道が敷かれるまでの運輸の主体は船であり、木曾川や淀川は筏の輸送でも賑わい、河川の利権と結びついた形で産業が発達し、明治となって石炭が使われた時には、筑豊地帯は遠賀川の川船が大繁盛して、川筋者がこの世の春を謳歌したものです。それを扱ったのが火野葦平や五木寛之の小説で、筑豊炭田地帯の川筋者のあらくれ物語であり、別の意味では都市化の中でのサンカの立志伝です。また、漂泊者が居着いたのがイツキであり、それを浪民のロマンとして描いたのが『風の王国』で、五木寛之はサンカからのメッセージを託しました。

『朝日と読売の火ダルマ時代』 p.97~98

以下も『朝日と読売の火ダルマ時代』で述べられているサンカに関する重要な内容ですので引用しておきましょう。

 漂泊生活のパターンを持って移動するサンカは、定住する農民や耕作人に較べて自由奔放で、行動力に富んでいる人間に属します。だから、戦国時代や社会が不安定な変革期には、古い秩序からはみ出して生きているだけに、新しい勢力として台頭する力を持っていた。しかも、戦国時代の終わりに野武士や商人となったり、幕末に商人や産業人として進出して、新しい時代の覇者になることが出来たのです。
私は地質学を専門にして生きてきたお陰で、大学時代にはダム工事の関連の仕事をしたし、ヨーロッパでは石炭開発の仕事をしており、アフリカでは鉱山の開発に関係しました。私自身がある意味で山師として生きたことは、ある意味でサンカや山伏の生活に共通だし、徳川時代や明治時代は鉱山開発が重要で、明治の日本の産業発展史と一致します。

 これまで日本人はサンカと部落民を混同して、一種のタブーのように扱って来たが、これはとんでもない間違いであり、そのために多くの誤解と悲劇の種となった。部落や同和というのは行政上の概念で、特定な歴史的な事情によって、文化的、経済的な改善が著しく立ち遅れた地域に住む者を指し、地域の住民の認定であっても身分ではなく、失業者や身体障害者と同じ扱いなのです。ところが、日本人のほとんどはこの区別が分からずに、サンカを同和問題とごちゃ混ぜにして、差別と誤解してタブーにして来ました。

『朝日と読売の火ダルマ時代』 p.93~94

朧気ながら、サンカの特徴を掴んで頂けたのではないでしょうか。時代は正に情報大革命という大転換期に突入しようとしており、そうした時代にあっては「自由奔放で、行動力に富んでいる人間」であるサンカあるいはサンカ的気質を持った人たちが活躍する時代であると思います。私自身も、「自由奔放で行動力に富む」サンカ的な生き方をしたいと思う今日この頃です。

以上、『日本書紀』にまつわる日本のタブーの一部について言及してみました。今後も機会があれば『日本書紀』関連のテーマを取り上げてみたいと思います。

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2007年4月10日 (火)

『覇王不比等』

B070410 最初に、黒須紀一郎氏の『覇王不比等』(作品社)を一読してみたいと思うに至ったのは、アマゾンに載っていた以下の書評がきっかけであったことを告白しておかなければなりません。

われわれは日本史で壬申の乱について教わったが、その実態が何だったかについて先生は説明しなかった。また、「万葉集」で天智天皇の歌について教わったが、この天皇が誰であるかについての説明は無く、天皇は天皇としてそれ以上は教えようとしない。だが、大学の授業の時に天智天皇は天武天皇によって殺され、それが壬申の乱だったと教えられて仰天した。しかし、それ以上の秘密が日本史には隠されていて、天智天皇は百済系の支配者として君臨したのであり、天武天皇は新羅系の支配者だった事実について、この本は藤原不比等の生涯を軸にして描き、日本最大のタブーに挑んでいる点で、非常に衝撃的な内容によって貫かれている。人はこれを小説だと思いたいだろう。だが、タブーとされている歴史の真実を語るためには、小説の形をとらなければならないことが多いし、そういった仕事は売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多いということを本書は証明していると痛感させられた。特に第二部が圧巻である。

この書評にある「売文を商売にする作家よりも、テレビや映画のディレクターやシナリオライターに、本当に有能な人が多い」という主張は、笠原和夫の『昭和の劇』などを読んだことのある私にとって大いに肯ける事実でした。

さて、黒須紀一郎氏の『覇王不比等』は三部からなる小説ですが、第一部の「鎌足の謎」のあとがきを読み、目を見張った箇所があります。

埴原和郎のシミュレーションによれば、
「7世紀の日本の総人口539万9800人の内、渡来人と土着系住民との比率は8.6対1となる」
という。
つまり、10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たちということになる。7世紀までの日本には、様々な民族が共存していたのである。古代史を考える上で、これは重要である。そして不比等の活動も、この問題を抜きにして語ることはできない。

『覇王不比等』第一部p.294

上記の下りを読むまでは、10人の内1人程度が大陸や朝鮮半島からの渡来人と記憶していたし、埴原和郎氏の本も所有しているだけに慌てました。早速書架から20年前に購入した埴原和郎氏の『日本人の起源』(朝日選書)を見つけ出し、パラパラと捲ってみたものの、「10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たち」という記述は見つからず、今度機会があれば同書を再度じっくりと紐解いてみたいと思います。科学的人類学の描く日本人成立のシナリオというサイトでも埴原説を紹介しており、「10人の内9人までが、大陸または朝鮮半島から渡って来た人たち」について明瞭に述べてはいませんでしたが、埴原説の骨格を述べた文章だと思うので参照願います。

次回取り上げる『役小角』と関連することですが、日本の峻険な山々に住む人々の主流が縄文時代から日本に住んでいた原住民らであり、平地に定住していた人々が渡来人が中心だったと私は思います。そして平地に住んでいた人々の頂点にいたのが上記のアマゾンの書評にもある「天智天皇は百済系の支配者として君臨したのであり、天武天皇は新羅系の支配者」の天皇だったということで、正に日本のタブーに属する事柄だったと言えます。だからこそ、黒須氏は小説の形を取ったのでしょう。

藤原不比等に話を戻すとして、不比等の父、藤原鎌足の出自については『覇王不比等』に目を通していただくとして、第一部を読み進めながら、第七章「乙巳の変」に入ろうとするあたりから、当時は10人中9人が渡来人であったことを考えれば多分藤原鎌足も渡来人だろうという推測が働いたのであり、鎌足の正体が明かされた下りを読むに及んで、やはりという思いでした。しかし、その後に衝撃が待っていました。渡来人は渡来人でも鎌足が単なる渡来人ではなかったのです。鎌足が日本に来た目的を説明した同書の下りを読みながら、いくら“小説”とはいえ真に迫っていたので背筋が寒くなりました。それだけ、第一部の第七章「乙巳の変」は私にとって迫力ある章でした。

その他、斉明天皇・中大兄皇子(後の天智天皇)らは何故勝ち目のない白村江の戦に兵を送ったのかという疑問も、アマゾンドットコムの「天智天皇は百済系の支配者として君臨した」というコメントが不気味に脳裏に浮かぶのだし、さらには佐々克明氏の「天武天皇は、新羅の王子金多遂である」という説も説得力をもって迫ってきます。このあたりは天智と天武の関係を取り上げた「天智と天武の関係について」というサイトや、藤村由加氏の『額田王の暗号』(新潮社)を参照にするとよいかもしれません。そして、そうした天智天皇・天武天皇兄弟を中心テーマとして追求したのが『覇王不比等』の第二部と言えるでしょう。

最後の第三部は稀代の大政治家であった不比等の総仕上げの仕事を追った部ですが、まさに「日本」を生んだのは不比等であったと納得させられるような内容でした。その最終部の後、作者・黒須紀一郎氏はあとがきで以下のように述べています。

「夫れ葬は蔵すなり。人の見ることを得ざらむことを欲す」
不比等は死を目前にしても尚、必死にこの言葉を呟いている。これこそが、彼の生きざまであった。
生前の不比等は左大臣になることも、また大政大臣になることも望まなかった。彼の欲したのは地位や名誉ではなく、自分の理想を完遂できる実権であった。
「秘すれば花なり」という言葉があるが、不比等は自分の業績を秘することによって、逆に藤原氏という巨大な花を咲かせた。しかもその花は、1300年後の今日でも枯れることなく咲き続けている。

『覇王不比等』第三部 p.268

ところで、『覇王不比等』の第三部が終わろうとするあたりで、以下のような暗示的なシーンが登場します。

「刀根、お前は自分の顔をよく見たことがあるか。お前やわしの顔は、この大和に住む大方の“渡りもん”とはだいぶ違っておるじゃろう。わしらこそがこの大和を最初に開いた“くずもん”の子孫じゃ。この国はわしらの国じゃった。それを、海を渡ってやってきた“渡りもん”たちが奪ったんじゃ。刀根、心配するな。たとえ都の軍勢を全部相手にしてもわしは決して退きはせぬ。追われたらこの山に逃げ込め。他の皆にもそう伝えるがよいぞ」

『覇王不比等』第三部 p.121~122

刀根という男に向かって語っているのは、やはり黒須紀一郎氏が著した『役小角』の主人公、役小角です。では“くずもん”とはどのような人々だったのでしょうか。次回、同じ黒須紀一郎氏の『役小角』を取り上げつつ、“くずもん”の正体に迫ってみたいと思います。

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2007年4月 9日 (月)

『聖徳太子と日本人』

B070409_1 私は大分前から聖徳太子は架空の人物であると主張している大山誠一氏に関心を持ち続けていました。そして、いずれは同氏の書籍を手にしてみたいと思っていたのですが、最近になって『日本書紀』が編纂された背景に関心を持つようになり、そのため『日本書紀』を取り上げた色々な著者の書籍を手にする機会が訪れ、初めて大山氏の本を手にした次第です。私は書籍に赤や青の下線を引いたり、コメントを書き込んだりする癖があるのですが、大山氏の『聖徳太子と日本人』は久し振りに赤線や青線だらけの本になりました。

同書は、聖徳太子が実在していなかったことを証明してみせた上で、では何故「聖徳太子」という架空の人物が誕生したのか、あるいは誕生させる必要があったのかという点について、史料の検証を慎重に進めつつ、大山氏の鋭いインテリジェンスで以て炙り出した本と言えるでしょう。ここで、聖徳太子が架空の人物であるとするテーマは『聖徳太子と日本人』の中心テーマなのですが、今回は『日本書紀』を中心に据えて書評シリーズの一環として筆を進める形を取っていることもあり、ここでは聖徳太子は実存していなかったという視点を持つことが、日本の古代史の真相に迫る意味で如何に大切かということを指摘した大山氏の言葉のみを転載しておくだけに留めたいと思います。なお、聖徳太子が実存していなかったという大山説の詳細については、『聖徳太子と日本人』に直接あたっていただければ幸いです。

720年に編纂された『日本書紀』の中で、聖徳太子という人物が出現し、彼の名において憲法十七条がだされたのである。くどいようであるが、それは、推古朝の出来事ではない。すべて、『日本書紀』が完成した養老4年(720年)当時の出来事である。日本の古代史を正しく理解できるか否かは、そこの所を正確に認識できるかどうかにかかっている。
『聖徳太子と日本人』p.121

さて、今回の書評シリーズの中心テーマである『日本書紀』という本題に入ります。流れとしては、大山誠一氏が『聖徳太子と日本人』の中で『日本書紀』と藤原不比等の関係を鮮やか浮かび上がらせている箇所を簡単に紹介した後、私が同書で最も感銘を受けた天皇制についての大山氏の私見を取り上げるという形を取りたいと思います。

最初に、大山氏が『日本書紀』と藤原不比等との関係について述べている箇所を以下に転載しておきましょう。

彼(藤原不比等)の権謀術数により持統11年(697年)、15歳になった孫の軽皇子(文武)に位が譲られたのである。直ちに、不比等の娘の宮子が文武の夫人となり、やがて701年に首皇子(のちの聖武天皇)が生まれ、ここに持統と不比等の血を引く王統が出現する。恐らく、文武即位に際して成立した高天原・天孫降臨・万世一系の論理は、この首皇子の誕生まで見通したものであったと考えてよいであろう。とすれば、この記紀の論理を構築した人物として、藤原不比等以外の人物を考えることはできないのである。
『聖徳太子と日本人』p.227

「記紀の論理を構築した人物として、藤原不比等以外の人物を考えることはできない」とする大山氏の説に初めて接した読者は驚かれたかと思います。その藤原不比等についての詳細は次回の『覇王不比等』全三巻(黒須紀一郎著 作品社)で詳しく取り上げることにして、急ぎ『日本書紀』と天皇制というテーマに入りましょう。何故なら、天皇制を考えることの意味は、取りも直さず『日本書紀』誕生の真相に迫ることを意味するからです。

712年に成立した『古事記』は、その高天原を基点として構想された一種の歴史書であった。しかし、その完成前から、このような疑念が生じていたのである。やはり、高天原ではなく、中国思想を踏まえた天皇の理念が必要であった。その結果、『古事記』とは別に『日本書紀』が編纂され、そこで、天皇のあり得べきモデル、いわば模範のようなものとして、中国皇帝の理念を体現した人物像が創造されることになる。もちろん、それが、<聖徳太子>である。
『聖徳太子と日本人』p.70~71

『古事記』のような素朴な歴史書ではなく、中国思想の評価に堪えられるものでなければならない。就中、国家秩序の頂点にあるべき天皇が、実態はともかく、理念として中国の皇帝と対比しうる存在として位置づけられたものでなければならない。それが実現すれば、日本も、真に中国的な国家に生まれ変わったと言える。為政者たち、不比等も、長屋王もそう考えていたのである。
そのためには、単に、中国の古典に通じているというだけではなく、現実の中国の皇帝の姿を目にし、皇帝を取り巻く官僚や社会の動き、また、文化・思想状況に精通している人材が必要である。そうでなければ『日本書紀』は完成しないのである。
不比等や長屋王が、そう考えていた時、適任者が帰国した。道慈である。
『聖徳太子と日本人』p.87~88

『聖徳太子と日本人』の各章で私が白眉と思った章は第八章の「聖徳太子と天皇制」であり、殊に私が目を見張ったのは、P.211の「図6 日本列島の壁」でした。この図を目にして、初めて大和朝廷のできた奈良盆地という地勢の意味を私は正確に理解できたのです。以下は大山氏の天皇制についての見方を示した文章です。

天皇制とは、どのようなものか。誤解を恐れず、私見を述べれば、日本という島国に生まれた唯一の価値観であり、宿命でもあると思う。決して、多様な価値観の一つではない。他に代わるものはない、唯一のもの、そういう価値観である。しかし、それを生み出した島国は、人類史的にみても、決して小さくも、均一でもない。とてつもなく、巨大で、複雑で、多様な世界である。だからこそ、天皇制が成立し、<聖徳太子>も誕生する必要と必然性があったのである。
『聖徳太子と日本人』p.227

ここで、大山氏は「それを生み出した島国は、人類史的にみても、決して小さくも、均一でもない。とてつもなく、巨大で、複雑で、多様な世界である」と述べていますが、その大山氏の主張を正確に理解することが、大山氏の言う「天皇制」を真に理解するためにも必要となります。よく、日本は糸魚川静岡構造線を境にして東日本と西日本とに別れ、それぞれ社会が異なるといった主張を耳にしたり本で目にしたりします。しかし、糸魚川静岡構造線ではない大山氏の「図6 日本列島の壁」を目にして、私は思わず息を呑んだのでした。詳細は『聖徳太子と日本人』に譲るとして、以下に重要と思われるポイントを転載しておきましょう。 (下の図はクリックすると拡大されます)

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上の図6には、日本列島を南北に貫く太い線がある。北は、親不知から始まり、飛騨山脈・立山・白山の山地を経て伊吹山へ。さらに鈴鹿山地を経て、伊賀を取り巻く山脈が続き、そのまま深い紀伊山地にいたっている。長く高い山並みが続いていることが理解されると思う。私は、これを日本列島を東西に分かつ壁と称したい。もちろん絶対的なものではないが、この壁が、東西の人々の日常的な交流をさまたげてきたことは、関ヶ原を境とする東西の違いを考えれば理解できるであろう。その際、注意すべきは、太線が部分的に途切れていることで、これは若干の谷間や峠を示している。つまり、この巨大な東西を分かつ壁にも若干の切れ目があり、それが関ヶ原付近と、伊賀・伊勢と大和を結ぶ初瀬川やいくつかの峠の存在である。前者は、近江と伊勢湾を結びつけており、後に不破関が置かれる交通の要衝である。当時は、主に伊勢湾沿岸から近江・若狭を経て山陰へ達する交通を保証していた。後者は、伊勢湾沿岸と大和盆地を結んでいるが、重要なことは、初瀬川にしろいくつかの峠にしろ、どれも、三輪山の麓、纏向に達していることである。

ということは、纏向の地が、大和盆地から伊勢湾沿岸への出口ということになる。伊勢湾沿岸から来れば、ここが大和盆地への入り口となる。つまり、この地は、壁を境にした場合、西日本と東日本とを結ぶ接点に位置していることになる。まず、このことを確認しておこう。

次に、弥生後期の東日本の情勢であるが、伊勢湾北部の尾張を中心とする東海系の土器が、北陸・東山・東海O東日本全体に広がっているという。このことは、壁の東側にありながら、西日本とも密接な交流を持つ伊勢湾北部の勢力が、東日本全体の交流の中心となったことを意味する。

『聖徳太子と日本人』p.211~213

以上の考察をベースに大山氏は天皇制に関する独自の持論を展開しています。その中で目が釘付けになったのは「権力とは情報なり」という言葉であり、その情報が集まる場所こそが奈良盆地だったという点でした。地勢的条件を含めた諸々の要素が複雑に絡み合い、世界に例のない「天皇制」が誕生したという大山説は面白く、まだまだ検討の余地はあるとは思うものの、今後は私も自分なりに追っていきたいテーマだと思った次第です。そうした史料の検証を重ねた後、大山氏は「天皇制」とは以下のようなものであると結論付けています。

天皇とは、結局、都の情報の象徴だったのである。吉田氏が、いみじくも「天皇を核とし、摂政・関白・院(上皇)、征夷大将軍などがその権力を代行する」と称したように、生々しい権力はむしろ、他の存在に代行される。それは、究極の調停者としての宿命であったと思う。調停者に求められるのは、権力ではなく、権威だからである。天皇制は、生の権力としては、最初から存在してはいなかったのである。究極の調停者であること、常にバランスの上にあり直接大地に接しないこと、これが天皇制の宿命である。その限りにおいて、天皇制は永続すると思う。その意味で、天皇制は日本そのものだからである。
『聖徳太子と日本人』p.219~220

吉田氏の「天皇を核とし、摂政・関白・院(上皇)、征夷大将軍などがその権力を代行する」という天皇観は、今までに多くの書籍などで目にしてきた天皇観であり、基本的に大山氏の天皇観と私の天皇観はほとんど重なっていると言えるでしょう。私は世界を3年間にわたって放浪してきた人間ですが、旅立つ前に父と色々と語り合った日が幾日かあり、ある日「日本人にとっての天皇制とは何なのだろう」と父に尋ねたことがありました。その時の父は「天皇がいなければ、日本はまとまらない」といった旨のこと述べていたことが記憶に残ります。そして、大山氏の以下の言葉も父か言わんとしていたことと重なっていることに改めて気づかされたのでした。

天皇制こそ、日本そのものであり、日本を理解する最大の鍵だと思っている。簡単に言えば、もって生まれた日本人の身体のようなものである。好むと好まざるとに関わりなく、自分自身なのである。過度に肯定するのも、否定的になるのもよくない。冷静に観察し、より高度に超越すべきであろう。
『聖徳太子と日本人』(大山誠一著 角川ソフィア文庫)p.399~401

最後に、蛇足ながら天皇制と『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏について言及しておきましょう。「二一世紀の今日、高天原と天孫降臨は、もう誰も信じていないのだから、残った万世一系に関しても、そろそろ、不比等の呪縛を解き放つ時期がきたのではなかろうか」(『聖徳太子と日本人』p.247)という大山氏の忠告にも拘わらず、天皇制を「過度に肯定」しているのが『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏です。関岡氏の『否定できない日本』を読んだ当時の私は「久々に日本に本物の憂国の士が登場した」と喜んだものでした。ただ、直後に購読して読んだ同氏の『なんじ自身のために泣け』は、アマゾンで高く評価されていたので取り寄せてみたものの、三年間の放浪生活を体験した私の目から見れば高評価に値するような本ではなく、単なる旅行記だったので一読後はゴミとして捨ています。その後、講談社から『奪われる日本』という本を出したというので取り寄せて読み進めたところ、出だしはなかなか良い本だったのですが、同書の第三部「皇室の伝統を守れ!」まて読み進めた私は唖然としたのでした。以下は同書からの引用です。

記紀の記述に基づく初代神武天皇から数えて二千年以上、歴史上の実存としても少なくとも千五百年有余も、単一の家系・血統を維持してきたという王室は世界に比類がない。万世一系というのは比喩でも誇張でもなんでもなく、まさに文字通り古今無双、唯一無二のかけがえのない存在なのである」
『奪われる日本』(関岡英之著 講談社現代新書)p.169~170

依然として万世一系という神話を信じている人たちが多いということは知っていますが、『否定できない日本』(文春新書)を著した関岡英之氏のような人までが万世一系を信じているのかと最初目にした時は驚きました。しかし、よくよく考えてみれば、『否定できない日本』にせよ『奪われる日本』にせよ、インフォメーションレベルに留まっている本にすぎないのであり、決してインテリジェンスのレベルの本でではないという当たり前の事実に改めて気づいたのです。関岡氏は、「万世一系という論理は、697年に、自分たちの子孫を天皇にしたい持統と藤原不比等が作ったものである。それ以前はなかったのである」(『聖徳太子と日本人』p.245)という大山氏の言葉を噛みしめる必要があります。

次回は『日本書紀』の編纂の中枢にいった藤原不比等という人物について筆を進めていきたいと思います。

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2007年4月 8日 (日)

『日本書紀』

B070408 『日本書紀』は、日本人なら誰もが知っている古典ですが、そのわりには全巻に目を通した人の話は余り耳にしませんし、私もそんな一人でした。ところが最近、その『日本書紀』で確認したい箇所が次々に出てきたので、そろそろ手許に置いても良い時期だと思い、アマゾンで同書を探してみたことがあります。幾つかあった『日本書紀』の中で、宇治谷孟が口語訳した『日本書紀』(講談社学術文庫)が良さそうに見えたので、早速アマゾンのショッピングカートに入れ、続いて[注文ボタン]をクリックしようとした時、ふと思って日本の古典を並べた書架に目を向けると、『日本書紀 上・下巻』(宇治谷孟訳 講談社学術文庫) が目に飛び込んできたのでした。5年前ほどに購入していたのをすっかり忘れていたのです。現在、同書を寝室のベッドの横に積み、就寝前に他の古典や数多くの書籍と並行して少しずつ読み進めているところです。ちなみに、並行して読み進めている他の古典は、『六韜』(林富士馬訳 中公文庫)、『三略』(真鍋呉夫訳 中公文庫)、『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』(葛洪他訳、平凡社)です。その他古典以外の書籍も並行して読み進めていて、いずれ書評に取り上げたい本が多いのですが、今回は『日本書紀』と関連して読み進めた書籍のみに絞り、シリーズの形で数冊取り上げていきたいと思います。

ここで『日本書紀』の話題に戻りますが、ここ半月ほどにかけての私の読書傾向は正に『日本書紀』を軸にしたものであり、『日本書紀』に関連したさまざまな書籍を漁りながら思ったことは、『日本書紀』は一種の“踏み絵”だということでした。つまり、『日本書紀』をどのように捉えているかによって、その人の思想が浮き彫りになるということです。何故なら、『日本書紀』の行間には日本のタブーが至る所に隠されているからであり、その日本のタブーを何処まで炙り出せるか、炙り出したら何処までそのタブーを受け容れることができるかは、その人の持つ思想なり人生体験によって異なってくるのではないでしょうか。

以上の点を踏まえ、『日本書紀』とは何か、『日本書紀』に隠された日本のタブーとは何かといった点を中心に、支障のない範囲で筆を進めていきたいと思います。ご参考までに、今後予定している『日本書紀』関連のテーマは以下のとおりです。

第一回・『聖徳太子と日本人』(大山誠一著 角川ソフィア文庫)
天皇制とは何か、架空の人物・聖徳太子を創った『日本書紀』、『日本書紀』編纂の中心人物であった藤原不比等など

第二回・『覇王 不比等』全三巻(黒須紀一郎著 作品社)
『日本書紀』編纂を行った藤原不比等の正体、『六韜』、『三略』など

第三回・『役小角』全三巻(黒須紀一郎著 作品社)
里と山と、空海、『抱朴子』、その他

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2007年4月 2日 (月)

『月に響く笛 耐震偽装』

B070402 『月に響く笛 耐震偽装』は、発売後直ちにイマイルに発注して取り寄せた本でした。仕事が忙しかったこともあり、また他の本と並行して読み進めていたため、読了するまでに大分時間がかかりました。そして漸く読み終えてつくづく思ったことは、藤田氏が中国古代の兵法書である『孫子』か『六韜』に多少でも精通していたら、今回の耐震偽装事件は違った展開を見せたかもしれないということでした。同書を読む限り、藤田氏が直接相手にしたのは官僚や大手マスコミだったのですが、実はその背後に目に見えぬ本当の敵がいたのです。

本当の敵については後述するとして、最初に耐震偽装とはどのような性格の事件だったのかについて述べてた箇所を同書から引用しておきましょう。

問題の根源は、構造計算プログラムの評価と認定そのものにあったのだ。認定をした国土交通省と、事前の評定を行った日本建築センター、この両者が偽装問題をもたらした原因を作っていた

『月に響く笛 耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)p.174

私も最初はそうでしたが、上記の簡単な引用だけでは、何故全ての悪の根源が国土交通省と日本建築センターにあったと藤田氏が主張するのかピンと来ないと思います。よって、ここは是非同書に目を通すことをお薦めします。ともあれ、さらに同書を読み進めていくうちに藤田氏の以下の言葉に出会い、深い共鳴を覚えたのでした。

日本が真の意味で「法治国家」になる為にも、この耐震偽装事件の真実は白日の下に晒されて、誰が悪いのかを明らかにし、遺族と被害者の前に謝罪をさせ、償いの機会を与えなければならない。それが、日本国民としての一人一人の義務なのだ。

『月に響く笛 耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)p.344

上述のような藤田氏の姿勢は、官僚や大手マスコミについて言及している箇所にも如実に現れています。

 僕は、この次官発表を聞き唖然とした。親御子供の首を絞めて殺した。子供が素直に悪い人の行いを見つけて報告したら、親はその人たちを咎めるのではなく、発見したお前が悪いと言って、自分の子供の首を後ろから突然諦め殺した。薄まる意識の中で光が闇に変化する中でも、子供は親を信じて愛する気持ちは失われないことを、手に力を加える親は感じようともしなかった。僕は正直、国土交通省に対してそう思った。

 今となっては憎しみも消えたが、当時の建設指導課、いや国土交通省の北側一雄大臣、佐藤信秋事務次官、山本繁太郎住宅課長、小川富吉課長、他課長は、公務員としての原罪を背負ったと思う。自覚する繊細さも既に失われているかもしれないが、罪は歴史に刻まれた。国民への奉仕の精神を捨てて、利権構造を死守することに自分達の魂を葬った。必ず罪を贖わなければいけない時が来る。

『月に響く笛 耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)p.82~83

 僕は、この事件を経験するまでは、自分に利害関係が生じないような、記事や報道は鵜呑みにしていたと思う。今、それは間違っていたと実感している。全てに穿った眼差しを注げというのではない。正しく見ようとし、考えようとする姿勢を、取り戻しただけだ。この事件の体験に従えば、渡辺恒雄も、読売新聞の記者も、リアルタイムの笛吹雅子も、河上和雄も、そしてテリー伊藤も、報道番組に出る者の資格があるかどうか。たとえ彼らが他の局面では評価を得ている人達だとしても、耐震偽装に関しては、羊頭狗肉であったと思わざるを得ない。

『月に響く笛 耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)p.377~378

このような藤田氏ですから、小泉首相(当時)にメールを発信したという下りを読んだ時も驚きはしませんでした。しかし、余りにも小泉純一郎という人間の正体を知らなすぎる人の言葉です。ご参考までに、藤田氏が小泉に送信したというメールは以下のような内容でした。

2006・3・15 12:02
差出人:
宛先:
内閣総理大臣 小泉純一郎様


私はイーホームズという会社を経営する藤田東吾と申します。
今般、大きな社会問題となった耐震偽装事件を世に公表した者です。
この事件が建築業界を揺るがし、住民や日本国民が建築や建築行政に対する信頼を低下させてしまったことを建築行政に携わる民間機関の代表者として深く反省しております。小泉首相にもご面倒をおかけしていること深くお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
私は、この事件をなぜ公表したのかを小泉首相にお伝えしたくてメール致しました。
私は、民間開放によって、この業界の先駆者として業務を続けてきた誇りと使命感を持ってこの事件を世に公表しました。この事件が民間開放以前から、建築業界の闇の部分として一部の者達によって行われてきた事実。確一認検査制度や大臣認定プログラム制度の不備や盲点を突いた犯罪が繰り返されてきたことを見過ごすわけにはいかなっかのです。私は、民間の指定機関だからこそ公表できたと考えています。この公表によって耐震偽装事件が二度と生じない法改正が行われるなら大きな民間開放の成果です。
次のようなことを言う人もいます。公表したのは青すぎたのではないか?行政などなら発覚しても表に出さなかったのではないか?確かに旧態依然の社会であるならそうした通念がまかり通っていたかも知れません。私は、二十一世紀の日本はそんな時代であってはいけないと思います。間違ったものを間違ったものと指摘し情報公開できる社会でなければなりません。耐震偽装のような人の命や財産を無視した不法行為を世に問うことができなければ、プロ集団としての民間指定機関の意義と誇りを失うことになります。私は社会正義を持って公表したことに一切の迷いはありません。耐震偽装事件を世に公表してから五ヶ月近い時が経過しました。現在、会社には技術職を中心とする一三〇名の社員が誇りを持って仕事をしています。私どもは第一公表者でありながら一部の報道等によって傷ついた信頼と業績を一刻も早く回復し、この社会的意義のある事業を日本の為に続けていかねばなりません。私はそう信じております。
小泉首相、私はこの事件を世に問い、正すことができたのは行政改革、民間開放の大きな成果だと信じでいます。この思いをお伝えしたくメール致しました。公務ご多忙の中お時間をとらせてしまうことお許しください。深く感謝申し上げます。

イーホームズ株式会社 eHomes Inc. 代表取締役 藤田東吾
東京都新宿区南元町八番地多士ビル

『月に響く笛 耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)p.399~401

藤原肇氏の『小泉純一郎と日本の病理』(光文社)および同書の英語版『Japan's Zombie Politics』(Creation Culture Co., Ltd. Publishing)、松田賢弥氏の『無情の宰相 小泉純一郎』(講談社+α文庫)などに目を通してきた人たちであれば、小泉前首相に上記のようなメールを送信した藤田氏に対して唖然とする他はないであろうし、孫子の「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という教えが咄嗟に脳裏に浮かんだ人たちも多かったのではないでしょうか。「僕は、マスコミとは真実を伝えるのが仕事だと思っていた」(『月に響く笛 耐震偽装』p.366)という藤田氏は余りにもナイーブすぎました。

さらに付言するとすれば、藤田氏は最近注目されている関岡英之氏の一連の著書に目を通すべきでした。特に『拒否できない日本』(初版が平成16年(2004年)4月20日であり、耐震偽装事件前に発行された本)は、日本人に「年次改革要望書」の存在を広く世に知らしめただけではなく、1998年6月に建築基準法が全面的に改正された背景も具体的に教えてくれる好著です。今回の耐震偽装事件に直接的にも間接的にも関与してくる、建築基準法の全面的改正についての詳細は同書に譲るとして、今回の耐震偽装事件を引き起こした真の黒幕は、第一にアメリカ政府、さらには小泉前首相および竹中平蔵といった取り巻き連中なのです。アメリカに言われるままに官から民へという名の規制緩和を推し進めてきた小泉純一郎の責任は非常に重いと言わざるを得ません。それ以上に、日本人としての誇りに傷をつけたことは永遠に消すことのできぬ汚点として歴史に残るのです。ここで、小泉純一郎という人間の正体を知りたい読者は、『Japan's Zombie Politics』(Creation Culture Co., Ltd. Publishing)をお薦めします。同書は『小泉純一郎と日本の病理』(光文社)の翻訳版という形を取りますが、著者の藤原氏に言わせれば「内容的には日本語版に較べて、少なくとも百倍は良くなったと確信しており、自分の言葉と思想を取り戻せたと思います」という内容なので是非一読ください。
 英語版Japan's Zombie Politicsの出版について

なお、同書の前書き、目次、後書きも以下のURLに転載してあるので、一度目を通すと良いでしょう。
Japan's Zombie Politics

追伸】規制緩和と耐震偽装の関係については、SENKIというウェブ新聞を一読ください。
 小泉「改革」のツケが回ってきた コスト優先が招いた耐震偽装事件

【追伸2】上記のテーマから外れますが、以下の灰色の囲みは『月に響く笛 耐震偽装』の中でも深く共鳴した箇所の一つだったので転記しておきます。

 新宿支店の立入検査に立ち会っている際中に、24日の朝から行方不明になっていた森田氏の乗り捨てた車が茅ヶ崎市で発見されたとニュースが流れた。森田氏は翌26日土曜日に遺体となって稲村ガ崎の海岸で発見される。偽装事件を取り巻く奥行きは深く広がるばかりだった。
 発見と同時に警察は即座に自殺と断定した。「何故簡単に決めてしまうのか」と不思議に思ったが、年が明けて1月に沖縄でHS証券の野口氏が遺体となって発見され自殺と警察が断定した時には、もっと「何故」という気持ちが強かった。僕は一回しか会ったことのない森田氏より、数回の対面とフランクな会話をした野口氏の方をよく知っていたからだ。
 野口氏はイーホームズの株式公開に関しては、幹事証券に参加しようと来社していた。また、異業種交流会でもお会いしたともあり、自殺を簡単にするような人ではなかった。というよりできない人だ。独り身ならまだしも、小さな子供がいる父親が、たとえ厭世の気持ちがあったとしても、いざとなったら自殺なぞ実行できるものではない。子供の父親が自殺したと生涯烙印をさせてよいと思う親であるわけがない。僕自身深く深く実感するところだ。森田氏にもお嬢さんがいると聞く。僕は「耐震偽装」によって、この時点では命の被害は住民の誰においても生じていないのだから、森田氏が自殺する理由が考えられなかった。勝手に、自殺の理由を考えたのは警察とマスコミだ。堕落しきった日本のマスメディアは、一体、何を目的に存在しているのだと憤りを感じるばかりだった。
『月に響く笛 耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)p.330

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