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2007年2月18日 (日)

西郷隆盛

現在、本業(翻訳)のスケジュールに追われている毎日のため、なかなか投稿する余裕がなく、本ブログの読者に申し訳なく思います。

ところで、毎日仕事の缶詰状態になっていると、つい息抜きにネットサーフィンをやりたくなるのが私の悪い癖であり、先ほども息抜きに幾つかのサイトを訪問してみたところ、副島隆彦が自分の掲示板に西郷隆盛について言及していたのを読みました。それで自分も数年前に西郷隆盛について取り上げたことを思い出し、それを本ブログに書いているはずと思ったところ、アップしていないことに気づいたという次第です。アップしていなかったのは、二年前に12回にわたって執筆した『近代日本とフルベッキ』のうち、西郷隆盛の章と最終回の章でした。よって急遽西郷隆盛の章をアップしておくことにしました。最終章もいずれアップしたいと思います。

なお、仕事が一段落したら、『月に響く笛 耐震偽装』(藤田藤吾著 imairu)の書評を書きたいと思っています。お楽しみに。

西郷隆盛

1.はじめに

 2004年の師走、本シリーズの「近代日本とフルベッキ」に毎月目を通しているという某識者と語り合う機会を持った。その識者を仮にAさんとしておこう。前号の「第四章 勝海舟」の中で、「前々回の第二章 坂本龍馬でも述べたように、幕末維新にかけての日本には外国、殊に英国の影が見え隠れするのであり、江戸開城も例外ではない。ズバリ言えば、英国公使のパークス、さらには英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空が勝海舟であり西郷隆盛だったのである」と筆者が書いたことに対して、「確かに、イギリスやフランスが幕末明治期の日本に及ぼした影響は大きかったと思うが、だからといって西郷や勝がイギリスというお釈迦様の掌の上の孫悟空だったと言い切るのは如何なものか」とAさんは反論してきたのであった。

そこで、「2.老獪な国・イギリス」でイギリスを知り、続いて「3.西郷は征韓論に非ず」で西郷隆盛を知り、その上で「4.イギリスと西郷隆盛」に目を通していただければ、江戸開城時の勝海舟と西郷隆盛は英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空だったのか否かという点について、ある程度明確になるかもしれないと思った。

2.老獪な国・イギリス

 イギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考について述べた最良の日本語の書と云えば、今から20年ほど前に刊行された永井陽之助著『現代と戦略』(文藝春秋)を筆頭に挙げることができよう。同書は20世紀の政治および戦略をテーマにした日本語の本の中では名著中の名著と言われている本であり、中でも第Ⅸ章「情報とタイミング……殺すより、騙すがよい」という章は、イギリスのチャーチル元首相の戦慄すべき戦略的思考について述べたもので、チャーチルを通じてイギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考を余すところなく伝えてくれる章である。以下に第Ⅸ章の一部を引用しておく。

コベントリーの悲劇

 きたるべき大空襲による災厄を確実に予知しつつ、故意に、それを国民に知らせず、その市民を犠牲に供して、いささかも動じなかった人物がいた。

 その名はイギリス首相ウィンストン・チャーチル、都市の名はコベントリーである。ただし、この情報秘匿の目的は、「ウルトラ」という最高機密を守るためであった。いまでは、ひとつの「神話」にさえなっている戦時エピソードのひとつである。これは、第二次世界大戦中の一般市民にたいする大規模、無差別爆撃のはしりとして、「コベントリー化」という新語ができたほど、当時としては未曾有の被害がでたドイツ空軍の夜間大空襲であった。この空襲で、50,749戸の家屋が破壊され、554名の死者、865名の重傷者、4,000人におよぶ市民の火傷、怪我人をだした。空襲後、「ニューヨーク・タイムズ」のロンドン特派員は、コベントリー市を訪れ、「まるで大地震におそわれた都市のようだ」と報じている。「ザ・タイムズ」は、コベントリーを「殉教都市」と呼んだ。実は、当時だれも知らせなかったが、コベントリーこそ、文字どおり、最高機密「ウルトラ」を守るため、犠牲に供せられた「殉教都市」だったのである。

『現代と戦略』(永井陽之助著 文藝春秋)p.243

 単刀直入に言えば、戦争に勝利するという究極の目標のため、五百名以上に及ぶ自国民をチャーチルは見殺しにしたということである。同時に、「ウルトラの機密保持かコベントリー市か」という選択を迫られた時は躊躇なくウルトラの機密保持を選んだチャーチルが、その後再び「ウルトラの機密保持かモントゴメリー将軍か」という選択を迫られた時は、迷うことなく一個人であるモントゴメリー将軍を助けたという史実を指摘しておきたい。チャーチルがモントゴメリー将軍を助けるという決断を下したのは、エル・アラメーンにおけるモントゴメリー将軍の勝利にチャーチルはすべてを賭けていたからに他ならない。そして、チャーチルの下した判断は吉と出たのであり、モントゴメリー将軍を助けたことによってイギリスはエル・アラメーンにおいて勝利を収め、それにより第二次世界大戦の流れを逆転させたのである。このように、勝利という究極の目標を実現するためには自国民の犠牲も辞さないというところに、チャーチルさらにはイギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考を垣間見る思いをした読者が多かったのではないだろうか。

 一般に、「正直こそ最善の政策である」、「長い目で見れば真実が勝つ」、「妥協こそ美徳なり」等を外交・戦略の根底に置いているのがイギリス人紳士であるというイメージが強い。これはイギリスの政治家・外交官に限らず、「信用」をビジネスで最も大切なものと考えるイギリスの実業家らも共通して持っている気質なので確かに一面ではその通りなのだが、実はイギリス人紳士はもう一つの顔を持っていることを忘れてはならない。それはズバリ「狡猾さ」であり、狡猾さこそがイギリス外交・戦略の基本的な性行を表す言葉なのである。こうした深謀に長けた外交的な駆け引き、インテリジェンスの駆使と云う一面が、イギリスのエスタブリッシュメントにあることを忘れるべきではない。

 ここで、戦略とは非常に重みを持った概念であり、戦略の持つ真の意味を知るには情報とインテリジェンスとは明らかに異なる概念であるということを最初に理解する必要がある。さらに、来る情報化社会の覇者として日本が生き残っていくためには、かつての戦艦大和、零戦で代表されるハード指向(現在も相変わらず日本はハード指向である)から、チャーチルのように長期的な視座に立脚し、外交・政治・心理・経済・文化といった各分野を有機的に統合しつつ、収集した情報を分析、判断、行動に移していくというソフト指向、すなわちインテリジェンス能力を備えた指導集団を日本に構築していくべきであろう。ご参考までに、来る情報化社会においてインテリジェンスを身につけた個人・集団こそが覇者になるといった内容を、前シリーズ『日本脱藩のすすめ』の第三回 意味論のすすめ(英語編)で筆者は述べているので、心ある読者に一度目を通していただければ有り難い。また、筆者は龍馬暗殺について拙稿「第二回・坂本龍馬」で簡単に触れたが、その折りに龍馬暗殺にイギリスの影が見えるという点について簡単に述べたことがある。未だ「第二回・坂本龍馬」に目を通していないという読者、特にIBD会員以外の読者の方は、「第二回・坂本龍馬」の一部を掲載しているブログを以下に紹介しておくので一度訪問していただければと思う。

・「近代日本とフルベッキ」第ニ章 坂本龍馬
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200410280000/

3.西郷は征韓論に非ず

 ここで一端イギリスというテーマから離れ、西郷が唱えたという征韓論を見直しておこう。

征韓論

一八七三年(明治六)、西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した論。同年洋行から戻った岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えてこれを退けた。以後征韓派は下野し、士族反乱や自由民権運動を展開する。

 上記は三省堂の『大辞林』からの引用であるが、こうした一般辞書にも載っている征韓論に関する世間の“常識”は何処まで本当なのだろうか。

最初に、西郷隆盛が征韓論を主張したという点について否定しているのは、西郷隆盛と共に江戸開城という偉業を成し遂げた勝海舟その人である。そのあたりの詳細については『明治の海舟とアジア』(松浦玲著 岩波書店)の「第五章 征韓論否認」に目を通していただくとして、ここでは勝海舟が明白に「西郷は征韓論に非ず」と記録に残しているという事実だけを示しておくだけで充分であろう。

さらに、征韓論は西郷隆盛の主張であるとする世間の“常識”を否定するもう一人の人物に福沢諭吉が居る。前号の「第四章 勝海舟」でも紹介した福沢諭吉の『丁丑公論 瘠我慢の説』(講談社学術文庫)を再度ここで取り上げるが、同書の「丁丑公論」は西南の役の首魁であった西郷隆盛その人を高く評価し、返す刀で時の政府を徹底的に批判した内容となっている。しかし、福沢が「丁丑公論」を執筆したのは明治10年と西南の役鎮定直後であったのにも拘わらず、実際に『丁丑公論』が時事新報紙上に発表という形で公にされたのは、福沢諭吉が死ぬ直前の20年以上も後の明治34年であったことからして、「丁丑公論」は福沢の身に危険が及ぶほどの激しい政府批判書であったことが容易に想像できよう。以下は「丁丑公論」からの抜粋である。

 世上の説に、西郷は数年以前、鹿児島へ退身の後も意を内国の事に留めず、もっぱら外征の論を主張して少年を籠絡し、その我将さに、我将さにといえるは、将さに朝鮮を伐ち、支那を蹂躙し、露西亜を征し、土耳古を取らんとするがごとき、漠然たる思想にして、為に、ますます少年好武の血気を煽動して却てその動揺を制御する能わざるのみならず、己れもまた血気中の一部分にしてかつて定りたる目的もなく、ついに今回の軽挙暴動に及びたりと。

 この説果して然らば、西郷もまたただ私学校党の一狂夫のみなれども、余輩はにわかにこれを信ずること能わず、西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり。学識に乏しといえども老練の術あり、武人なりといえども風彩あり、訥朴なりといえども粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、いかなる大事変に際するもその挙動綽々然として余裕あるは、人の普く知るところならずや。然るに今回の一挙に限りて切歯扼腕の少年と雁行して得々たる者と見做すは、西郷の平生を知らずして憶測のもっとも当らざるものというべし。故に余輩は、あえて彼に左袒してその不学の罪をも許さんとするには非ざれども、またこの世説を軽信して直にこれを狂夫視するの理由は未だこれを見出すこと能わざるなり。

『丁丑公論 瘠我慢の説』(福沢諭吉著 講談社学術文庫)p.39

 この短い福沢の文章からもお分かりの通り、征韓論=西郷隆盛という世の中の“常識”に惑わされることなく、堂々と西郷を弁護する福沢の姿が目に浮かぶような文章であり、同時に西郷隆盛その人について評した優れた西郷隆盛評であると云えよう。

西郷隆盛=征韓論という“常識”に対して異論を唱えるのは何も勝海舟、福沢諭吉といった昔の偉人ばかりではない。【阿修羅】と云う掲示板を主体としたホームページがあるが、以下は同ホームページに載った“個性溢れる”西郷隆盛と征韓論に関する投稿である。西郷が武力でもって征韓論を主唱していたというのは真っ赤な嘘であることを如実に示した投稿なので、興味ある読者は以下のURLを一度訪問されると良い。

・「西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠」
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html

 特に、投稿者が想像力を働かせて描いてみせた西郷と他の閣僚との征韓論を巡るやり取りが実にリアルであった。参考までに、以下にその個所を収録しておこう。

閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」と説明しました。

その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。

しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。

「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」

西郷の主張することは、正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。

西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ります。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす。」

この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。

その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」と大隈に言いました。

こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来ません。そして、その後、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、相当の自信もあったのでしょう。

しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。

また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったのです。

西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はありません。

そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。

 以上、世間の“常識”である「西郷隆盛は征韓論を主唱していた」というのが事実ではないということが、上記の諸証拠を示すだけで充分に納得していただけたものと思うので、急ぎイギリスと西郷隆盛について筆を進めることにしよう。

4.イギリスと西郷隆盛

江戸開城にイギリスの影がつきまとっているというのは大勢の人たちが認めるところである。ここでの問題は、果たして江戸開城にどの程度イギリスが関与していたかという点であるが、以下に二つの意見を示そう。最初の意見は上述の掲示板式ホームページ【阿修羅】に載っていた投稿であり、イギリスの狡獪さについて述べている“個性豊かな”投稿である。

・「被統治者に真実の像を結ばせないこと」

薩摩と長州の手を握らせておこした戊辰戦争は、今でもCIAがアフリカ・中南米でよくやっているような軍事クーデターと類似した構図があったことをまず前提におきます。

鳥羽伏見の戦いが起きる1年まえぐらから、西郷とアーネストサトウの接触ははげしくなっていますが、サトウが西郷に早く軍事行動を起こす様にけしかけたり、西郷がのらりくらりと交わしたり、といったような駆け引きがあったようです。

勿論西郷はサトウ(イギリス)の魂胆を見抜いていたのでしょう。前回も述べましたとおり、西郷は、表面はあくまでイギリスの言う事を聞くフリをして戦いを起こしながら、勝と打ち合わせて最終的には国内が長い間の内乱状態となることを回避し、イギリスの「日本人同士を憎ませ・戦わせることによって利益をえる」というイギリス人得意のDivide and Rule戦法の裏をかきました。

私は、このときの当時のイギリス人関係者達の気持ちを感じることができます。

「我々が遠隔操作で新しく作った日本という国を今後コントロールして行くにあたって、西郷という人間は邪魔だ。いつか彼は処分されなければならない。」~と。

新しく日本が出来て間もなく、明治政府はヨーロッパに使節団を派遣する事となります。ここでもDivide and Ruleの原理に基づき、革命政府の主要な人物を二つに分けることとなりますが、このような判断を明治政府にさせる際にも、イギリスはかげながら関与していたと思います。

このようにグループを二つに割る事により一種の派閥が生まれ、将来その派閥を戦わせることによって、イギリスが事態の推移をコントロールしやすくなる余地が生まれる(革命家集団が一致団結してイギリスに反抗されることは避けなければならない)とともに、同時に派閥同士が仲たがいする際に、イギリスにとって邪魔な人間を処分することもやりやすくなるからです。(西郷はそうやって、イギリスが自然な形で自分達を追いこもうとしている事も、岸壁から使節団を見送りながら十分わかっていたでしょう。)

 文面から明らかなように、ホームページ【阿修羅】の投稿者は内乱を起こさせて日本を統治していこうとイギリスが考えていたことを前提に述べていることが分かる。換言すれば、江戸開城時に日本が内乱状態になるのを願っていたイギリスに対して、イギリスの裏をかいて内乱になるのを避けたのが勝と西郷であるいう主張の投稿である。

 その一方で、全く別の見方をする意見も確実に存在する。そうした意見の一つが本シリーズの「第二章 坂本龍馬」において筆者が読者に紹介した『石の扉』(新潮社)を著した加治将一氏の意見であり、参考までに加治将一氏の意見を一部以下に引用しておこう。一読して戴ければお分かりのように、どうやら加治氏は死の商人・グラバーを血の通った人間と見ているようだ。

歴史家は、あたかも勝海舟と西郷隆盛の二人の度量が、無血開城を成功させたような描き方をしていますが、私の見方は違います。

勝も西郷も、グラバーから釘を刺されていたと考えているのです。実際勝は、英国領事館の通訳、アーネスト・サトウを介して、パークスと連絡を取っていたし、西郷は、五代を通じてグラバーから英国の空気を読んでいました。英国は強硬措置に対しては断固として反対していたのです。

ですから,出来レースとまで言わないけど、下級武士の動きを封じるために「命をかけた会談」という演出がなされたのだと思います。

いや、それはおかしい。なぜなら、グラバーは平和を望まなかったはずだ。なぜなら、武器弾薬を売って利益を得ているのだから、戦争が起こったほうがいいと考えていただろうと主張する歴史学者がいます。

 しかしそれは、商売を知らない人間のいうことです。

戦火を交えて、互いに疲弊し、双方瓦解するようなことになれば、金銭は枯渇し商売は成り立ちません。だからこの時が潮時だったのです。

 一刻も早く新政府を作り、一致団結して富国強兵の名のもと、武器を買って軍備を増強してもらう。グラバーは、勝と西郷に因果を含めたのです。

 「無血開城以外に結論はない」

進退窮まっている幕府には願ってもないことです。また西郷もグラバー=英国なくして薩長の武力補強は望めず、これまた異論はないはずです。というのも幕府が崩壊したとき、グラバーが薩長側につくのとつかないのとでは、新政府の勢力図ががらりと変わってくるからです。

政権が倒れた場合、武力を持っている藩が新政府の要職を占めてしまうのは自明の理ですから、グラバーの言葉には重みがあります。

見えない糸で織り上げた、フリーメーソンによる包囲網です。

明治元年。

グラバーはこのとき、興味深い行動にでます。徳川慶喜を弁護し、助命嘆願の文書を肥 後藩に提出しているのです。

なぜグラバーは、縁遠い徳川慶喜の命ごいをわざわざしたのかはもう、察しがつくはずですが、一つは慶喜を処刑すれば、武士道精神に火がつき、すさまじい佐幕側の反撃が、予想されるからです。そして、もう一つは、西周を通して大政奉還を呑めば命の保証はするという密約が、あったのだと思います。

『石の扉』(加治将一著 新潮社)p.147

 まとめよう。筆者は当時のイギリスは「内乱を願っていた」のではなく、「内乱に反対していた」と考える一人である。ただ、そう思う理由は何もグラバー、アーネスト・サトウ、パークスらが血の通った人間だからという性善説に立つからではなく、あくまでもイギリスにとって内乱に反対するのが最良の選択肢だったからである。換言すれば、加治将一氏の上記の言葉にもあるように、イギリスをして最も儲けさせてくれるケースが「無血開城」だったのである。よって、無血開城に持っていくように勝海舟と西郷隆盛にイギリスはプレッシャーをかけたのであり、それだけの力をイギリスは持っていたといえよう。それが「江戸開城時の勝海舟と西郷隆盛は英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空だった」という筆者の表現になった。

 その後の西郷は、征韓論を巡って親友の大久保利通と袂を分かち、最後は1877年(明治10年)9月24日、「晋どん、もうよかろう」の一言を遺し、別府晋助に介錯を命じて城山の露と果てた。直接的には西郷を死に追いやったのは大久保利通であるが、その背後にイギリスの影があったのかどうかについて次号あたり考察してみたいと思う。

5.至誠

本号のまとめとなるが、西郷隆盛という人物を最も的確に評したのは、勝海舟の『氷川清話』(講談社文庫)であったと筆者は思う。以下に当該個所を引用し、今号の筆を擱く。

 坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやつたが、その後、坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たつた一人で、江戸城に乗込む。おれだつて事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた。この時に際して、小籌浅略を事とするのはかへつてこの人のために、腹を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもつてこれに応じたから、江戸城受渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ。

『氷川清話』(勝海舟著 講談社文庫)p.60

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コメント

「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

投稿: 石垣眞人 | 2008年11月 3日 (月) 午後 02時45分

「西郷は征韓論」を削除・鹿児島知事要請で教科書出版社

 西郷隆盛らの征韓論を記述した日本史教科書に、西郷が朝鮮との平和的交渉を目指したとする「遣韓論」も併記するよう鹿児島県の伊藤祐一郎知事から要請を受けた教科書出版社の一つが、「西郷は征韓論を唱えた」との記述を削除していたことが1日、分かった。伊藤知事が県議会で自民党県議の質問に答え、明らかにした。

 記述を変更したのは、第一学習社(広島市)発行の高校向け日本史教科書。「明治初期の外交政策」の項で、「西郷隆盛らは(中略)武力を用いてでも開国させようとする征韓論を唱えた」との従来の記述を削除した。

 新たに「政府は(中略)朝鮮に開国を要求したが、拒否されたため、朝鮮への非難が高まった(征韓論)」と記述。さらに「西郷隆盛らは、1873(明治6)年、西郷を使節として朝鮮に派遣することを決定した」との内容を加えた。

 「遣韓論」併記にまで踏み込んではいないが、伊藤知事は記述変更を歓迎、「今後も郷土の偉人が正しく理解されるよう努めたい」と話した。〔共同〕 2007/03/01

投稿: サムライ | 2007年3月 2日 (金) 午前 04時07分

掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】に、本稿の「西郷隆盛」に関連して以下のような投稿を行いましたので転載しておきたいと思います。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2491/1118949881/

56 名前:サムライ 投稿日: 2007/02/19(月) 04:33:45
サムライです。

昨日、息抜きにネットサーフィンを楽しんでいたところ、副島隆彦が自身の掲示板に西郷隆盛について言及している箇所に目がとまりました。

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「27」 西郷隆盛は、征韓論(せいかんろん)など唱えていなかった。どうやら西郷つぶしの謀略があったようだ。やっぱりそうだったのか。副島隆彦

副島隆彦です。今日は、2007年2月16日です。
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かつて、副島は幕末明治を描いた『属国日本史 幕末編』(早月堂書房)という漫画本を出しており、その中で副島らしきヤクザ風の男が、司馬遼太郎や勝海舟らをヤクザ顔負けの罵り言葉や暴力で吊し上げる箇所が多く出てきます。しかし、松浦玲氏が著した『明治の海舟とアジア』(岩波書店)の「第五章 征韓論否認」を読めば明らかなように、世の中の常識となっている「西郷隆盛=征韓論」を、副島が罵倒した勝海舟が否定しているのであり、この事実を知ったら副島がどのような顔をするのかと思った次第です。

そこで、西郷隆盛に関して拙ブログにアップしました。関心のある方は一読願います。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/02/post_fb1e.html

サムライ拝

投稿: サムライ | 2007年2月19日 (月) 午前 04時58分

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