« 西郷隆盛 | トップページ | 勝海舟 »

2007年2月20日 (火)

フルベッキ 終章

本ブログにアップするのを忘れていた『近代日本とフルベッキ』の最終章をアップ致します。

終章

1.はじめに

 1年間にわたってシリーズ『近代日本とフルベッキ』を連載してきた。フルベッキについては序章および一章で取り上げ、他の章ではフルベッキ写真に写っている(とされている)坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇を一人一人毎月取り上げるという形を取ってきた。そして、終章を迎えることになった今号では再びフルベッキにスポットライトを当ててみよう。

 人によってはフルベッキのことを近代日本の父であると主張する者もいるかと思えば、宣教師はフルベッキの仮の姿であって、本当はパックスブリタニカの世界戦略の一環として日本に送り込まれてきた謀報員(スパイ)であると主張する者もいるなど、人によってフルベッキ像はまさに千差万別である。尤も、フルベッキのことを謀報員と考える人がいるのも無理もないのであり、実際に当時の日本に送り込まれてきた宣教師のほとんどが一方では福音を説き、他方では帝国主義の尖兵として活躍していたからだ。筆者も本シリーズを開始した当時こそフルベッキ=謀報員説に関心を持っていたが、その後フルベッキの人物および時代背景を多少なりとも深く知るようになった現在、フルベッキが謀報員であったかどうかということには関心が薄れ、寧ろフルベッキが日本の近代化に果たした役割に強い関心を抱くようになったのである。よって、本号では最初にフルベッキが日本の近代化に果たした役割とは何だったのかについて改めて簡単な見直しを行い、その上でフルベッキの〝遺志〟をどう継ぐべきかについて私見を述べた後、本シリーズを終えることにしよう。

2.近代日本とフルベッキ

 幕末から明治にかけてのフルベッキの行動は、主に三つの時期に分けられる。

1. 長崎において、将来の日本の指導者に対して啓蒙を行っていた時代
2. 維新政府に協力し、近代日本の基礎造りに貢献していた時代
3. 在野にあって、主に宣教師として活躍していた時代

 安政6年(1859年)に日本に到着し、維新政府に招聘されて明治2年(1869年)に長崎を後にするまで、フルベッキにとって10年間におよんだ長崎時代は、後に日本の近代化に大きく貢献した人材の育成の時期であったともいえよう。大隈重信、副島種臣といった後に維新政府の中枢として活躍した人材を育て上げただけではなく、横井小楠、坂本龍馬といった当時一流の人材との交流を重ね、人脈を築いていった時期でもあり、フルベッキにとっての長崎時代は正に〝充電〟の時期であった。

 次に、長崎時代がフルベッキにとっての〝充電〟の時代であったとすれば、維新政府に招聘された明治2年から、政府との契約が終了して元老院顧問を辞して民間人に戻るまでの明治10年(1877年)という時期は、日本近代化に向けて数々の精力的な貢献を行ったことから明らかなように、フルベッキにとっては正に〝放電〟の時代であったといえよう。そして、見逃せないフルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立があり、これは意外と知られていないフルベッキの功績である。『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』(新人物往来社)という本を、静岡県弁護士会に所属する大橋昭夫弁護士が共著で著しており、フルベッキが日本の法律体制の父となった経緯および法律体制におけるフルベッキの業績を余すところなく伝えた良書であり、関心のある読者に一読をお薦めしたい。ご参考までに、フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があったことは案外知られていない。

 なお、この期間において特記すべきフルベッキの政治面における貢献の一つに岩倉使節団があり、これが後々の日本の近代化に大きな影響を及ぼしたのであるが、この岩倉使節団を提起したのもフルベッキであったことを知る人は少ない。それは岩倉具視がフルベッキに対して提案者であることを秘密にするよう厳重に求めたからであり、もし岩倉使節団が一人の宣教師の提案であると知られたら大騒ぎになったことであろう。岩倉使節団の起草者は自分であるという名誉を放棄した姿勢からも分かるように、フルベッキは日本に対して行った自身の業績について殆ど口外したことのない人物であった。1日でも早く日本の近代化が成り、宣教師としての布教が自由になることのみがフルベッキの唯一の願いだったのであり、そこにフルベッキの厚い信仰心が偲ばれるのである。

 最後に、明治10年頃という時期は日本の近代化路線も方向も定まりつつあった時期であった。すなわち、日本の近代化に向けて手探りの状態であった当初こそ百科全書派を彷彿させるフルベッキの頭脳が欠かせなかったが、近代化に向けた青写真がほぼ完成した明治10年頃は日本の軍事化が顕著になり、自由民権への弾圧が加わるようになった時代だったのであり、既に維新政府にとってフルベッキは〝危険人物〟となっていたのである。そうした自分の立場を悟ったのだろうか、フルベッキは在野に下ってキリスト教普及活動に専念するようになった。フルベッキは聖書の翻訳にも関与し、フルベッキが翻訳を担当した旧約聖書の詩編とイザヤ書は、後に日本文学に大きな影響をもたらしている。

 かように、日本の近代化に大きく貢献したフルベッキであったが、惜しくも明治31年(1898年)に心臓発作のため急逝している。

3.フルベッキの遺志を継ぐ

 明治2年から明治10年にかけて、フルベッキが貢献した分野は何も上述の法律制度だけではない。法律制度以上に貢献したのが教育制度ではなかったと思う。俗に日本の大学の源流は長崎にあると言われるようになった当時の長崎の致遠館などの私塾では自治の精神に溢れ、学問の自由を謳歌していたのであり、これが日本の近代化に大きく貢献したことは言を待たない。ただ、こうした自由な気風が後年の大学設立に生かされることなく、文部省という権力に屈したものに成り果てたのが現在の日本の教育制度であり、そのために日本社会の真の進歩が中途半端なものになってしまったのは返す返すも残念なことであった。現在の日本はバブル崩壊から久しく、かつ近い将来には嘗ての産業革命に匹敵する大きな社会的変革が日本はもとより世界を襲うのは確実であり、そうした新時代に相応しい人材育成に欠かせないのが自治の精神と学問の自由である。その意味で、人材育成という観点から教育のあり方を見直すことは、今日における緊急の課題であるといえよう。幸い、【宇宙巡礼】というホームページを管理している筆者の知人から、人材育成について深く考えさせてくれるという今や絶版となった『教育の原点を考える』(早川聖・他 亜紀書房)という本の筆者の了解を得て、同本を電子化して公開したという知らせが届いた。以下が『教育の原点を考える』のURLであるが、教育とは何も学校教育という問題だけではなく、広くは日本の将来をも左右しかねない大きな意味を持つものであるからして、一人でも多くの読者に目を通して頂き、教育の原点について考えるきっかけとなれば大変有り難く思う。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm

 とまれ、教育は正しく国の骨幹であり、微力ながら筆者も何らかの形で世の中に貢献できればと願っている。その意味で、近代日本の父・フルベッキの遺志を思い出し、明日の日本を背負う若者たちの踏み台になりたいと、心から願う今日ころ頃である。

|

« 西郷隆盛 | トップページ | 勝海舟 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/114689/13983832

この記事へのトラックバック一覧です: フルベッキ 終章:

« 西郷隆盛 | トップページ | 勝海舟 »