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2007年2月21日 (水)

勝海舟

2年前に執筆した「近代日本とフルベッキ」の全12章の中で、勝海舟編も未アップであることに気づきました。よって、ここに急遽アップします。サムライ拝

勝海舟

1.評価の分かれる勝海舟

 筆者が二十代前半に目を通した勝海舟に関する本には、『氷川清話』(勝海舟著 講談社文庫)、『海舟語録』(勝海舟著 講談社文庫)、『夢酔独言』(勝小吉著 角川文庫)等がある。筆者は十代後半に日本を〝脱藩〟し、3年間ほど世界放浪の旅を体験したことがあるせいだろうか、二十代前半の頃に坂口安吾・檀一雄・今東光・柴田錬三郎といった無頼派に惹かれていた一時期があり、それが勝海舟に惹かれた理由の一つであった。そうした無頼派の一人であった坂口安吾が、『青春論』の中で海舟の父親である小吉について述べているくだりがある。この親にしてこの子ありではないが、勝小吉を通じて勝海舟像が見事に炙り出されている文章なので、少々長文になるものの以下に引用しておこう。

 僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。もっとも夢酔は武芸者などともっともらしいことは言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまりくだらない生涯だから子々孫々のいましめのために自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」という珍重すべき一書を遺した。

 遊蕩三昧に一生を送った剣術使いだから夢酔先生ほとんど文章を知らぬ。どうして文字を覚えたかというと、二十一か二のとき、あんまり無頼な生活なので座敷牢へ閉じこめられてしまった。その晩さっそく格子を一本外してしまって、いつでも逃げだせるようになったが、その時ふと考えた。俺もいろいろと悪いことをして座敷牢へ入れられるようになったのだから、まァしばらくはいっていてみようという気になったのだ。そうして二年ほどはいっていた。そのとき文字を覚えたのである。

 それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字どおり言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃだめだぜ、と喋るように書いてある。

 僕は「勝海舟伝」の中へ引用されている「夢酔独言」を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として「夢酔独言」を読んだという人がいなかった。だが「勝海舟伝」に引用されている一部分を読んだだけでも、これはまことに驚くべき文献のひとつである。

 この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それはじつに「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく『勝海舟伝』がどこへ紛失したか見当たらないので残念であるが、実際一頁も引用すればただちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。

 子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪な見事さを構成しているのである。いつでも死ねる、と一口に言ってしまえば簡単だけれども、そんな覚悟というものは一世紀に何人という少数の人が持ちうるだけのきわめて希な現実である。

 つねに白刃の下に身を置くことを心がけて修行に励む武芸者などは、この心がけが当然であるようでいて、じつはけっしてそうではない。結局、直接白刃などとは関係がなく、人格のもっとも深く大きなスケールの上で構成されてくるもので、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この希有な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終ったという勝夢酔が例外的な不思議な先生だと言わねばならぬ。勝海舟という作品を創るだけの偉さ持った親父であった。

『日本文学全集 坂口安吾集』(集英社刊)p.371~372

 文面からお分かりのように、親父の勝小吉に対する坂口安吾の惚れ込みようといったら尋常ではない。ともあれ、安吾ほどではないにしても、勝海舟に対しては好意的に評価しているのが日本では一般的なのも確かである。しかし、そうした世間の勝海舟への評価に対して異議をとなえている少数派の人たちも居るのであり、その代表的な人物の一人が作家の早乙女貢氏である。早乙女氏は自著『隠された維新史』(廣済堂刊 絶版)の中で、勝海舟を以下のようにばっさりと斬り捨てている。

 幕府の役人といえば、ただ権威にしがみついた人間ばかりであったように、勝などは後年書いているが、巧妙におのれの保身と栄達のために、恩義を捨て、武士の誇りを捨ててまで薩長に寝返った勝海舟ごときには、こうした非凡の人物のことはわからない。小栗のことを、「彼は徳川氏一点張りにして大局の眼なし」などと誹っているのは、おのれの卑劣さを物語るものでしかない。

 政府の中枢にありながら、郡県制度を提唱し、会社を作って外国と経済取引で対等たらんと上申した者に大局を見る眼がなかったとは、どこを押せば出る言葉か。

『隠された明治維新史』(早乙女貢著 廣済堂)p.190

 それにしても、何故かくも勝海舟の評価が大きく分かれるのだろうか。そのあたりの謎を探りつつ、以下に勝海舟という人物像に迫ってみよう。

2.勝海舟の〝ライバル〟、小栗上野介

 上記の早乙女貢氏の『隠された明治維新史』にも登場する小栗とは、徳川幕府の外国・軍艦・勘定の各奉行を歴任した小栗上野介(忠順)のことである。実は、早乙女氏以外にも勝海舟を批判する著名な人物として、勝と同時代の空気を吸った福沢諭吉が居る。福沢諭吉は『丁丑公論 瘠我慢の説』(講談社学術文庫)という本を著しており、同本は西郷隆盛を高く評価している一方、時の明治政府を徹底的に批判した「丁丑公論」以外に、「瘠我慢の説」と題した記事も併せて収録しており、勝海舟と榎本武揚の挙措と出所進退を強く批判した内容となっている。また、「瘠我慢の説に対する評論について」と題して『時事新報』に掲載された碩果生(石河幹明)の記事も同書に収録されていて、小栗上野介と勝海舟を対比させて述べているので一読されると得るものが多い。世間では高い評価を受けている小栗上野介に対して、同記事の場合はやや厳しい評価を下している点は注目に値すると云ってよいだろう。ともあれ、小栗上野介と云えば勝海舟の〝ライバル〟だった人物であり、著者が十代から二十代にかけての頃に私淑していた無頼派の今東光和尚も小栗上野介を高く評価していた一人であった。なるほど小栗の成した諸事業は先見の明があったことは確かであり、貧乏旗本の倅として生まれ、幕臣から新政府へという転身を図った勝海舟と違い、幕臣の中にあって進歩派と謳われた小栗上野介は徳川家康以来の高名な家柄の出であり、「小栗は幕末に生まれたりといえども、その精神気魄純然たる当年の三河武士なり。徳川の在する限りは一日にてもその事うるところに忠ならんことを勉め、鞠躬尽瘁、終に身を以てこれに殉じたるものなり。外国の力を仮りて政府を保存せんと謀りたりとの評の如きは、決して甘受せざるところなからん」(「瘠我慢の説に対する評論について」)と評されるほどの人物であった。

 ここで、小栗上野介の生き様を現代に重ね合わせてみると面白い。つまり、今日においては今や風前の灯火とは云え、戦後の高度成長期を通じて企業に勤めた人たちの持つ〝愛社精神〟に相通じるものがあるだけに、生涯にわたって徳川に忠誠を尽くした小栗上野介に己れを重ねようとする人たちが多いと想像できる点である。また、そこにこそ小栗の限界もあったとも云えよう。さらには、小栗及び幕府側とされたフランス公使のロッシュが、当然のことながら最終的には自国フランスのことだけを考えていたということを、果たして何処まで小栗は見抜いていたであろうか。一例を挙げれば、フランスは織物の国であることから、日本の生糸を大量に輸入して徳川幕府の財政を潤すのに尽くしたいと云うロッシュからの幕府に対する申出にしても、小栗と徳川幕府が造船所の建設の計画段階にあり、そのための資金の捻出に徳川幕府が苦境に立たされていた時期であったことを見逃すべきではない。そして、徳川幕府は無論、小栗をしても恐らく見抜けなかったロッシュの隠された意図は、生糸を独占してフランスに運ぶことよって、徳川幕府の財政を潤してやったという恩を着せ、その裏で生糸による莫大な儲けをフランスにもたらそうとしたロッシュの策略であろう。しかし、その後フランス一国に生糸を独占させることに抗議したオランダの存在もあって、結局ロッシュの企みは実現に至っていない。ともあれ、こうした策略に長けた西洋人の思考・行動様式については、国際交渉の場数を踏んでおられる読者も多い『世界の海援隊』の読者であれば自ずと同意していただけると思う。

3. 江戸開城に見る勝の大義名分

 次に、福沢諭吉が「瘠我慢の説」で勝海舟を批判しているのは、江戸開城において薩長と一戦を構えることもなく、ひたすら戦禍を避けんがために和を講じ、哀を乞うといった勝海舟の挙措、維新後に江戸開城を手土産に敵側の新政府に出仕した勝海舟の出所進退が理由だと云う。果たして、福沢諭吉の主張は何処まで正しいのだろうか。そのあたりを見極めるためのヒントとして、小栗上野介の場合は徳川家を護るという大義名分があったように、福沢諭吉の批判する勝の場合は何が大義名分だったのかについて、江戸開城での出来事を中心に探ってみよう。

 当時、江戸中が火の海になるか否かという緊迫した状勢の中で、勝海舟と西郷隆盛が薩摩屋敷で談判したことにより、江戸城の無血明け渡しに結びついたことはよく知られている。人によっては江戸開城をして「幕末明治を代表する二人の巨人による腹芸の極致」とすら評価する人たち(例えば、『腹芸』(講談社)などを著した松本道弘氏)もいる。しかし、前々回の「第二章 坂本龍馬」でも述べたように、幕末維新にかけての日本には外国、殊に英国の影が見え隠れするのであり、江戸開城も例外ではない。ズバリ言えば、英国公使のパークス、さらには英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空が勝海舟であり西郷隆盛だったのである。そのパークスは死の商人であったグラバーと裏でつながり、そのグラバーを通じでパークスは薩長とつながっていた。ここに、薩長を軸とした新生日本の青写真を描いていた大英帝国の世界戦略の一環を窺い知ることが出来よう。その英国に対抗していたのがロシアを含めたヨーロッパ勢力、取り分けフランスだったのである。

 それにしても、江戸開城の交渉時は敵がうようよする中を、勝は伴を一人連れただけで単騎薩摩屋敷に乗り込んだという事実はどう解釈すべきなのだろうか。無論、勝には英国という楯があったにせよ、それでも罷り間違えば一命を落としかねない情勢下にあったのだから、改めて勝海舟は胆力の人と言わざるを得ない。さらに、勝海舟の実父の勝小吉を指して奴というヤクザのような武士の最下層の人たち束ねていた暴力団の組長のような人物と云い、息子も同じであるとして勝小吉・海舟親子を揶揄する者が時々居るが、そうしたヤクザのような侍たちを束ねるには胆力・剣術の腕だけではなく、一筋縄ではいかぬ奴たちを纏めていくだけの力量を必要とするのである。そうした親父の背中を見て育った海舟だからこそ、江戸開城という〝仕事〟を成し遂げることが出来たのであろう。ここで筆者は胆力と書いたが、坂口安吾が述べているように勝のそれは単なる胆力ではなく、親父の勝小吉譲りの鬼気迫る「いつでも死ねる」という類の胆力が、息子の海舟にも間違いなく引き継がれていたことに気づかされるのである。

 ともあれ、勝は己れ自身がお釈迦さまの掌の上の孫悟空であることを明白に自覚していたものと筆者は考えている。そして、己れ自身が大英帝国の世界戦略の一環に組み込まれているのを敢えて承知の上で、火中の栗を拾うが如く江戸開城の決行に及ぶことが出来たのも、勝海舟に「日本」という大義名分があったからではないだろうか。ここで「日本」という現代の人には日常耳慣れた言葉が出てきたが、当時の人たちにとって自分たちが住む藩こそが「国」であり、全てであった。そうした時代背景にあって藩・幕府を超越した上の次元の「日本」を曲がりなりにも意識できたのは、横井小楠を筆頭に、その横井小楠と交流のあった勝海舟、西郷隆盛くらいのものだったのではないか。その横井小楠の〝儒学的正義〟を哲学(バックボーン)にまで高めて初めて「日本」を実感できるのであり、そうした「日本」実現のための哲学こそが横井小楠の「儒学的正義」であると理解した勝海舟だからこそ、「当時この辺の活理を看取する眼識を有したるは、たゞ横井小楠あるのみで、この活理を決行するための胆識を有したるは、たゞ西郷南州あるのみで、おれがこの両人に推服して措かざりしは、これがためである」(『氷川清話』p.66 講談社文庫)という表現になって表れたのであろう。換言すれば、旧幕府の勢力を維持することでもなく、維新政府を樹立して新しい権力(エスタブリッシュメント)を樹立するのでもない、人々のための“日本”を創るのだと認識していた人物は、当時(あるいは現代においても)においてはほんの一握りしか存在していなかったはずであり、そうした一握りの人物の一人が勝海舟であることは、儒学的正義を樹立した横井小楠を理解し、その横井の哲学を行動に移せるのは西郷隆盛をおいて他には居ないと明言したことからしても疑いの余地はない。

4.戊辰戦争に見る東北人の恨み

 今から振り返るに、江戸開城という〝仕事〟を実現した勝海舟は、潔く身を引くべきであった。何となれば、江戸開城の段階で海舟の〝仕事〟は終わったからである。あの時に海舟が身を引いていれば、後々になって福沢諭吉に「瘠我慢の説」を書かれるようなこともなかったはずである。新政府に転身した勝海舟に対して批判的なのは何も福沢諭吉だけではない。『幕臣たちの誤算』(青春出版刊)を著した仙台市出身の星亮一氏もその一人なのである。ここで、会津出身の早乙女貢氏と云い、仙台市出身の星亮一氏と云い、同じ東北出身者が勝海舟に対して批判的なのは決して単なる偶然ではなく、その根は共通して戊辰戦争にある。

 ご存じのように、戊辰戦争は一八六八年(慶応四)戊辰の年に始まった、薩長両藩を中心とする維新政府軍と旧幕府側との間における一年半近くにわたった内戦を指している。 殊に、旧幕府側であった会津藩が維新政府軍を迎え撃った際、16~17歳の少年たちで編成した白虎隊を投入したことはよく知られ、今でも人々の胸を打つ史実である。実は、このときに維新政府軍は敵方の奥羽越列藩同盟だけではなく、一般の民衆に対しても相当酷いことをしていたことを指摘しておきたい。以下に『続 極道辻説法』にある今東光の文章を引用しておく。

 (西郷)隆盛の征韓論なんざ破れるのも当たり前だ。国際情勢をてんで知らないし、もう全然政治感覚がないよ。あんなものが勝って明治政府ができたら、日本はどんなものになっていたかわからん。また鹿児島県人に対する諸国の恨みというものを全く計算に入れてなかったのも敗因の一つだ。鹿児島の藩兵と一緒に北海道まで行ったろう。途中、会津でひどいことをし、山形でひどいことをし、新潟・長岡でひどいことをし、無茶苦茶しながら行ったろう。だから「西郷反す」と聞いた時、兵隊と巡査を募集したら、やられた連中の所から物凄く応募者が集まったんだ。そうして、「今度こそ鹿児島で仇討つ!」っていうんだから、鹿児島は惨憺たるもんだった。何しろ、自分たちの姉妹、妻やおふくろまで、女と名のつくのは、鹿児島の連中に前と後ろと両方やられていたんだから、その怒りたるや大変なものだった。この仇討ちをしようっていうんだから……。

『続 極道辻説法』(今東光著 集英社)p.190

 父方の遠祖が鹿児島出身という筆者としては上記の今東光和尚の文章を引用するのは些か気が引けることではあるが、事実は事実として冷静に受け止めなければならないと思う。ただし、西郷が征韓論をとなえていたと云う今東光和尚の話には大いに異議があり、また西郷には国際感覚がないという和尚の説も疑問に思う。このあたりは、次号の「第五章 西郷隆盛」で言及することとしたい。

 とまれ、戊辰戦争にはイギリス(維新政府側)対フランス(旧幕府側)の代理戦争という一面があった。それは、ベトナム戦争や朝鮮戦争が資本主義圏と共産主義圏との代理戦争であり、現在のイラク戦争がドル圏(アメリカ)対ユーロー圏(ヨーロッパ)の代理戦争と云えるのと同じなのである。そして、何の疑いももたずにアメリカに言われるままに振る舞うポチこと小泉純一郎首相を見れば分かるように、日本の政界は与党も野党も明らかに末期的症状を呈しており、やがては死を迎える日も近いであろう。それにしても、同じ混沌とした状況ではあっても江戸幕末の場合は西郷隆盛、横井小楠、勝海舟、福沢諭吉といった一流の人材が居たのに対し、そうした人材が周囲を見渡しても皆無という現実に、平成幕末に生まれ合わせた私たちは直面しているのである。

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コメント

勝海舟の評価が二分されことにこそ海舟の真骨頂がある
と思います。海舟は表面だけを擦っていては到底わからない腹の底の深い人物と思います。勝海舟こそ今後再評価されるべき人物でしょう。人物評価は評価者地震の心の投影でもあります。海舟、西郷、小楠ともに、「本物」は、評価する人物がそれ相当の深さを備えていなければわからないのではないでしょうか。

投稿: 井上 | 2013年1月21日 (月) 午後 12時49分

天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下なり。民に取るなき者は、民に取る者なり。民を取るなき者は、民これを利す。国を取るなき者は、国これを利す。天下を取るなき者は、天下これを利す。

-六韜-

投稿: サムライ | 2007年3月27日 (火) 午後 05時43分

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