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2007年2月

2007年2月22日 (木)

耐震偽装

本日の東京新聞に一ページの三分の一を使った『耐震偽装』(藤田東吾著 イマイル)の広告が掲載されましたので、スキャンして先ほどアップしました。4月頃に本業が一段落した頃、同書の書評を本ブログにアップしたいと考えています。
http://www.nextftp.com/tamailab/etc/togo_fujita.htm

サムライ拝

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2007年2月21日 (水)

勝海舟

2年前に執筆した「近代日本とフルベッキ」の全12章の中で、勝海舟編も未アップであることに気づきました。よって、ここに急遽アップします。サムライ拝

勝海舟

1.評価の分かれる勝海舟

 筆者が二十代前半に目を通した勝海舟に関する本には、『氷川清話』(勝海舟著 講談社文庫)、『海舟語録』(勝海舟著 講談社文庫)、『夢酔独言』(勝小吉著 角川文庫)等がある。筆者は十代後半に日本を〝脱藩〟し、3年間ほど世界放浪の旅を体験したことがあるせいだろうか、二十代前半の頃に坂口安吾・檀一雄・今東光・柴田錬三郎といった無頼派に惹かれていた一時期があり、それが勝海舟に惹かれた理由の一つであった。そうした無頼派の一人であった坂口安吾が、『青春論』の中で海舟の父親である小吉について述べているくだりがある。この親にしてこの子ありではないが、勝小吉を通じて勝海舟像が見事に炙り出されている文章なので、少々長文になるものの以下に引用しておこう。

 僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。もっとも夢酔は武芸者などともっともらしいことは言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまりくだらない生涯だから子々孫々のいましめのために自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」という珍重すべき一書を遺した。

 遊蕩三昧に一生を送った剣術使いだから夢酔先生ほとんど文章を知らぬ。どうして文字を覚えたかというと、二十一か二のとき、あんまり無頼な生活なので座敷牢へ閉じこめられてしまった。その晩さっそく格子を一本外してしまって、いつでも逃げだせるようになったが、その時ふと考えた。俺もいろいろと悪いことをして座敷牢へ入れられるようになったのだから、まァしばらくはいっていてみようという気になったのだ。そうして二年ほどはいっていた。そのとき文字を覚えたのである。

 それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字どおり言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃだめだぜ、と喋るように書いてある。

 僕は「勝海舟伝」の中へ引用されている「夢酔独言」を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として「夢酔独言」を読んだという人がいなかった。だが「勝海舟伝」に引用されている一部分を読んだだけでも、これはまことに驚くべき文献のひとつである。

 この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それはじつに「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく『勝海舟伝』がどこへ紛失したか見当たらないので残念であるが、実際一頁も引用すればただちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。

 子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪な見事さを構成しているのである。いつでも死ねる、と一口に言ってしまえば簡単だけれども、そんな覚悟というものは一世紀に何人という少数の人が持ちうるだけのきわめて希な現実である。

 つねに白刃の下に身を置くことを心がけて修行に励む武芸者などは、この心がけが当然であるようでいて、じつはけっしてそうではない。結局、直接白刃などとは関係がなく、人格のもっとも深く大きなスケールの上で構成されてくるもので、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この希有な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終ったという勝夢酔が例外的な不思議な先生だと言わねばならぬ。勝海舟という作品を創るだけの偉さ持った親父であった。

『日本文学全集 坂口安吾集』(集英社刊)p.371~372

 文面からお分かりのように、親父の勝小吉に対する坂口安吾の惚れ込みようといったら尋常ではない。ともあれ、安吾ほどではないにしても、勝海舟に対しては好意的に評価しているのが日本では一般的なのも確かである。しかし、そうした世間の勝海舟への評価に対して異議をとなえている少数派の人たちも居るのであり、その代表的な人物の一人が作家の早乙女貢氏である。早乙女氏は自著『隠された維新史』(廣済堂刊 絶版)の中で、勝海舟を以下のようにばっさりと斬り捨てている。

 幕府の役人といえば、ただ権威にしがみついた人間ばかりであったように、勝などは後年書いているが、巧妙におのれの保身と栄達のために、恩義を捨て、武士の誇りを捨ててまで薩長に寝返った勝海舟ごときには、こうした非凡の人物のことはわからない。小栗のことを、「彼は徳川氏一点張りにして大局の眼なし」などと誹っているのは、おのれの卑劣さを物語るものでしかない。

 政府の中枢にありながら、郡県制度を提唱し、会社を作って外国と経済取引で対等たらんと上申した者に大局を見る眼がなかったとは、どこを押せば出る言葉か。

『隠された明治維新史』(早乙女貢著 廣済堂)p.190

 それにしても、何故かくも勝海舟の評価が大きく分かれるのだろうか。そのあたりの謎を探りつつ、以下に勝海舟という人物像に迫ってみよう。

2.勝海舟の〝ライバル〟、小栗上野介

 上記の早乙女貢氏の『隠された明治維新史』にも登場する小栗とは、徳川幕府の外国・軍艦・勘定の各奉行を歴任した小栗上野介(忠順)のことである。実は、早乙女氏以外にも勝海舟を批判する著名な人物として、勝と同時代の空気を吸った福沢諭吉が居る。福沢諭吉は『丁丑公論 瘠我慢の説』(講談社学術文庫)という本を著しており、同本は西郷隆盛を高く評価している一方、時の明治政府を徹底的に批判した「丁丑公論」以外に、「瘠我慢の説」と題した記事も併せて収録しており、勝海舟と榎本武揚の挙措と出所進退を強く批判した内容となっている。また、「瘠我慢の説に対する評論について」と題して『時事新報』に掲載された碩果生(石河幹明)の記事も同書に収録されていて、小栗上野介と勝海舟を対比させて述べているので一読されると得るものが多い。世間では高い評価を受けている小栗上野介に対して、同記事の場合はやや厳しい評価を下している点は注目に値すると云ってよいだろう。ともあれ、小栗上野介と云えば勝海舟の〝ライバル〟だった人物であり、著者が十代から二十代にかけての頃に私淑していた無頼派の今東光和尚も小栗上野介を高く評価していた一人であった。なるほど小栗の成した諸事業は先見の明があったことは確かであり、貧乏旗本の倅として生まれ、幕臣から新政府へという転身を図った勝海舟と違い、幕臣の中にあって進歩派と謳われた小栗上野介は徳川家康以来の高名な家柄の出であり、「小栗は幕末に生まれたりといえども、その精神気魄純然たる当年の三河武士なり。徳川の在する限りは一日にてもその事うるところに忠ならんことを勉め、鞠躬尽瘁、終に身を以てこれに殉じたるものなり。外国の力を仮りて政府を保存せんと謀りたりとの評の如きは、決して甘受せざるところなからん」(「瘠我慢の説に対する評論について」)と評されるほどの人物であった。

 ここで、小栗上野介の生き様を現代に重ね合わせてみると面白い。つまり、今日においては今や風前の灯火とは云え、戦後の高度成長期を通じて企業に勤めた人たちの持つ〝愛社精神〟に相通じるものがあるだけに、生涯にわたって徳川に忠誠を尽くした小栗上野介に己れを重ねようとする人たちが多いと想像できる点である。また、そこにこそ小栗の限界もあったとも云えよう。さらには、小栗及び幕府側とされたフランス公使のロッシュが、当然のことながら最終的には自国フランスのことだけを考えていたということを、果たして何処まで小栗は見抜いていたであろうか。一例を挙げれば、フランスは織物の国であることから、日本の生糸を大量に輸入して徳川幕府の財政を潤すのに尽くしたいと云うロッシュからの幕府に対する申出にしても、小栗と徳川幕府が造船所の建設の計画段階にあり、そのための資金の捻出に徳川幕府が苦境に立たされていた時期であったことを見逃すべきではない。そして、徳川幕府は無論、小栗をしても恐らく見抜けなかったロッシュの隠された意図は、生糸を独占してフランスに運ぶことよって、徳川幕府の財政を潤してやったという恩を着せ、その裏で生糸による莫大な儲けをフランスにもたらそうとしたロッシュの策略であろう。しかし、その後フランス一国に生糸を独占させることに抗議したオランダの存在もあって、結局ロッシュの企みは実現に至っていない。ともあれ、こうした策略に長けた西洋人の思考・行動様式については、国際交渉の場数を踏んでおられる読者も多い『世界の海援隊』の読者であれば自ずと同意していただけると思う。

3. 江戸開城に見る勝の大義名分

 次に、福沢諭吉が「瘠我慢の説」で勝海舟を批判しているのは、江戸開城において薩長と一戦を構えることもなく、ひたすら戦禍を避けんがために和を講じ、哀を乞うといった勝海舟の挙措、維新後に江戸開城を手土産に敵側の新政府に出仕した勝海舟の出所進退が理由だと云う。果たして、福沢諭吉の主張は何処まで正しいのだろうか。そのあたりを見極めるためのヒントとして、小栗上野介の場合は徳川家を護るという大義名分があったように、福沢諭吉の批判する勝の場合は何が大義名分だったのかについて、江戸開城での出来事を中心に探ってみよう。

 当時、江戸中が火の海になるか否かという緊迫した状勢の中で、勝海舟と西郷隆盛が薩摩屋敷で談判したことにより、江戸城の無血明け渡しに結びついたことはよく知られている。人によっては江戸開城をして「幕末明治を代表する二人の巨人による腹芸の極致」とすら評価する人たち(例えば、『腹芸』(講談社)などを著した松本道弘氏)もいる。しかし、前々回の「第二章 坂本龍馬」でも述べたように、幕末維新にかけての日本には外国、殊に英国の影が見え隠れするのであり、江戸開城も例外ではない。ズバリ言えば、英国公使のパークス、さらには英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空が勝海舟であり西郷隆盛だったのである。そのパークスは死の商人であったグラバーと裏でつながり、そのグラバーを通じでパークスは薩長とつながっていた。ここに、薩長を軸とした新生日本の青写真を描いていた大英帝国の世界戦略の一環を窺い知ることが出来よう。その英国に対抗していたのがロシアを含めたヨーロッパ勢力、取り分けフランスだったのである。

 それにしても、江戸開城の交渉時は敵がうようよする中を、勝は伴を一人連れただけで単騎薩摩屋敷に乗り込んだという事実はどう解釈すべきなのだろうか。無論、勝には英国という楯があったにせよ、それでも罷り間違えば一命を落としかねない情勢下にあったのだから、改めて勝海舟は胆力の人と言わざるを得ない。さらに、勝海舟の実父の勝小吉を指して奴というヤクザのような武士の最下層の人たち束ねていた暴力団の組長のような人物と云い、息子も同じであるとして勝小吉・海舟親子を揶揄する者が時々居るが、そうしたヤクザのような侍たちを束ねるには胆力・剣術の腕だけではなく、一筋縄ではいかぬ奴たちを纏めていくだけの力量を必要とするのである。そうした親父の背中を見て育った海舟だからこそ、江戸開城という〝仕事〟を成し遂げることが出来たのであろう。ここで筆者は胆力と書いたが、坂口安吾が述べているように勝のそれは単なる胆力ではなく、親父の勝小吉譲りの鬼気迫る「いつでも死ねる」という類の胆力が、息子の海舟にも間違いなく引き継がれていたことに気づかされるのである。

 ともあれ、勝は己れ自身がお釈迦さまの掌の上の孫悟空であることを明白に自覚していたものと筆者は考えている。そして、己れ自身が大英帝国の世界戦略の一環に組み込まれているのを敢えて承知の上で、火中の栗を拾うが如く江戸開城の決行に及ぶことが出来たのも、勝海舟に「日本」という大義名分があったからではないだろうか。ここで「日本」という現代の人には日常耳慣れた言葉が出てきたが、当時の人たちにとって自分たちが住む藩こそが「国」であり、全てであった。そうした時代背景にあって藩・幕府を超越した上の次元の「日本」を曲がりなりにも意識できたのは、横井小楠を筆頭に、その横井小楠と交流のあった勝海舟、西郷隆盛くらいのものだったのではないか。その横井小楠の〝儒学的正義〟を哲学(バックボーン)にまで高めて初めて「日本」を実感できるのであり、そうした「日本」実現のための哲学こそが横井小楠の「儒学的正義」であると理解した勝海舟だからこそ、「当時この辺の活理を看取する眼識を有したるは、たゞ横井小楠あるのみで、この活理を決行するための胆識を有したるは、たゞ西郷南州あるのみで、おれがこの両人に推服して措かざりしは、これがためである」(『氷川清話』p.66 講談社文庫)という表現になって表れたのであろう。換言すれば、旧幕府の勢力を維持することでもなく、維新政府を樹立して新しい権力(エスタブリッシュメント)を樹立するのでもない、人々のための“日本”を創るのだと認識していた人物は、当時(あるいは現代においても)においてはほんの一握りしか存在していなかったはずであり、そうした一握りの人物の一人が勝海舟であることは、儒学的正義を樹立した横井小楠を理解し、その横井の哲学を行動に移せるのは西郷隆盛をおいて他には居ないと明言したことからしても疑いの余地はない。

4.戊辰戦争に見る東北人の恨み

 今から振り返るに、江戸開城という〝仕事〟を実現した勝海舟は、潔く身を引くべきであった。何となれば、江戸開城の段階で海舟の〝仕事〟は終わったからである。あの時に海舟が身を引いていれば、後々になって福沢諭吉に「瘠我慢の説」を書かれるようなこともなかったはずである。新政府に転身した勝海舟に対して批判的なのは何も福沢諭吉だけではない。『幕臣たちの誤算』(青春出版刊)を著した仙台市出身の星亮一氏もその一人なのである。ここで、会津出身の早乙女貢氏と云い、仙台市出身の星亮一氏と云い、同じ東北出身者が勝海舟に対して批判的なのは決して単なる偶然ではなく、その根は共通して戊辰戦争にある。

 ご存じのように、戊辰戦争は一八六八年(慶応四)戊辰の年に始まった、薩長両藩を中心とする維新政府軍と旧幕府側との間における一年半近くにわたった内戦を指している。 殊に、旧幕府側であった会津藩が維新政府軍を迎え撃った際、16~17歳の少年たちで編成した白虎隊を投入したことはよく知られ、今でも人々の胸を打つ史実である。実は、このときに維新政府軍は敵方の奥羽越列藩同盟だけではなく、一般の民衆に対しても相当酷いことをしていたことを指摘しておきたい。以下に『続 極道辻説法』にある今東光の文章を引用しておく。

 (西郷)隆盛の征韓論なんざ破れるのも当たり前だ。国際情勢をてんで知らないし、もう全然政治感覚がないよ。あんなものが勝って明治政府ができたら、日本はどんなものになっていたかわからん。また鹿児島県人に対する諸国の恨みというものを全く計算に入れてなかったのも敗因の一つだ。鹿児島の藩兵と一緒に北海道まで行ったろう。途中、会津でひどいことをし、山形でひどいことをし、新潟・長岡でひどいことをし、無茶苦茶しながら行ったろう。だから「西郷反す」と聞いた時、兵隊と巡査を募集したら、やられた連中の所から物凄く応募者が集まったんだ。そうして、「今度こそ鹿児島で仇討つ!」っていうんだから、鹿児島は惨憺たるもんだった。何しろ、自分たちの姉妹、妻やおふくろまで、女と名のつくのは、鹿児島の連中に前と後ろと両方やられていたんだから、その怒りたるや大変なものだった。この仇討ちをしようっていうんだから……。

『続 極道辻説法』(今東光著 集英社)p.190

 父方の遠祖が鹿児島出身という筆者としては上記の今東光和尚の文章を引用するのは些か気が引けることではあるが、事実は事実として冷静に受け止めなければならないと思う。ただし、西郷が征韓論をとなえていたと云う今東光和尚の話には大いに異議があり、また西郷には国際感覚がないという和尚の説も疑問に思う。このあたりは、次号の「第五章 西郷隆盛」で言及することとしたい。

 とまれ、戊辰戦争にはイギリス(維新政府側)対フランス(旧幕府側)の代理戦争という一面があった。それは、ベトナム戦争や朝鮮戦争が資本主義圏と共産主義圏との代理戦争であり、現在のイラク戦争がドル圏(アメリカ)対ユーロー圏(ヨーロッパ)の代理戦争と云えるのと同じなのである。そして、何の疑いももたずにアメリカに言われるままに振る舞うポチこと小泉純一郎首相を見れば分かるように、日本の政界は与党も野党も明らかに末期的症状を呈しており、やがては死を迎える日も近いであろう。それにしても、同じ混沌とした状況ではあっても江戸幕末の場合は西郷隆盛、横井小楠、勝海舟、福沢諭吉といった一流の人材が居たのに対し、そうした人材が周囲を見渡しても皆無という現実に、平成幕末に生まれ合わせた私たちは直面しているのである。

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2007年2月20日 (火)

フルベッキ 終章

本ブログにアップするのを忘れていた『近代日本とフルベッキ』の最終章をアップ致します。

終章

1.はじめに

 1年間にわたってシリーズ『近代日本とフルベッキ』を連載してきた。フルベッキについては序章および一章で取り上げ、他の章ではフルベッキ写真に写っている(とされている)坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇を一人一人毎月取り上げるという形を取ってきた。そして、終章を迎えることになった今号では再びフルベッキにスポットライトを当ててみよう。

 人によってはフルベッキのことを近代日本の父であると主張する者もいるかと思えば、宣教師はフルベッキの仮の姿であって、本当はパックスブリタニカの世界戦略の一環として日本に送り込まれてきた謀報員(スパイ)であると主張する者もいるなど、人によってフルベッキ像はまさに千差万別である。尤も、フルベッキのことを謀報員と考える人がいるのも無理もないのであり、実際に当時の日本に送り込まれてきた宣教師のほとんどが一方では福音を説き、他方では帝国主義の尖兵として活躍していたからだ。筆者も本シリーズを開始した当時こそフルベッキ=謀報員説に関心を持っていたが、その後フルベッキの人物および時代背景を多少なりとも深く知るようになった現在、フルベッキが謀報員であったかどうかということには関心が薄れ、寧ろフルベッキが日本の近代化に果たした役割に強い関心を抱くようになったのである。よって、本号では最初にフルベッキが日本の近代化に果たした役割とは何だったのかについて改めて簡単な見直しを行い、その上でフルベッキの〝遺志〟をどう継ぐべきかについて私見を述べた後、本シリーズを終えることにしよう。

2.近代日本とフルベッキ

 幕末から明治にかけてのフルベッキの行動は、主に三つの時期に分けられる。

1. 長崎において、将来の日本の指導者に対して啓蒙を行っていた時代
2. 維新政府に協力し、近代日本の基礎造りに貢献していた時代
3. 在野にあって、主に宣教師として活躍していた時代

 安政6年(1859年)に日本に到着し、維新政府に招聘されて明治2年(1869年)に長崎を後にするまで、フルベッキにとって10年間におよんだ長崎時代は、後に日本の近代化に大きく貢献した人材の育成の時期であったともいえよう。大隈重信、副島種臣といった後に維新政府の中枢として活躍した人材を育て上げただけではなく、横井小楠、坂本龍馬といった当時一流の人材との交流を重ね、人脈を築いていった時期でもあり、フルベッキにとっての長崎時代は正に〝充電〟の時期であった。

 次に、長崎時代がフルベッキにとっての〝充電〟の時代であったとすれば、維新政府に招聘された明治2年から、政府との契約が終了して元老院顧問を辞して民間人に戻るまでの明治10年(1877年)という時期は、日本近代化に向けて数々の精力的な貢献を行ったことから明らかなように、フルベッキにとっては正に〝放電〟の時代であったといえよう。そして、見逃せないフルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立があり、これは意外と知られていないフルベッキの功績である。『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』(新人物往来社)という本を、静岡県弁護士会に所属する大橋昭夫弁護士が共著で著しており、フルベッキが日本の法律体制の父となった経緯および法律体制におけるフルベッキの業績を余すところなく伝えた良書であり、関心のある読者に一読をお薦めしたい。ご参考までに、フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があったことは案外知られていない。

 なお、この期間において特記すべきフルベッキの政治面における貢献の一つに岩倉使節団があり、これが後々の日本の近代化に大きな影響を及ぼしたのであるが、この岩倉使節団を提起したのもフルベッキであったことを知る人は少ない。それは岩倉具視がフルベッキに対して提案者であることを秘密にするよう厳重に求めたからであり、もし岩倉使節団が一人の宣教師の提案であると知られたら大騒ぎになったことであろう。岩倉使節団の起草者は自分であるという名誉を放棄した姿勢からも分かるように、フルベッキは日本に対して行った自身の業績について殆ど口外したことのない人物であった。1日でも早く日本の近代化が成り、宣教師としての布教が自由になることのみがフルベッキの唯一の願いだったのであり、そこにフルベッキの厚い信仰心が偲ばれるのである。

 最後に、明治10年頃という時期は日本の近代化路線も方向も定まりつつあった時期であった。すなわち、日本の近代化に向けて手探りの状態であった当初こそ百科全書派を彷彿させるフルベッキの頭脳が欠かせなかったが、近代化に向けた青写真がほぼ完成した明治10年頃は日本の軍事化が顕著になり、自由民権への弾圧が加わるようになった時代だったのであり、既に維新政府にとってフルベッキは〝危険人物〟となっていたのである。そうした自分の立場を悟ったのだろうか、フルベッキは在野に下ってキリスト教普及活動に専念するようになった。フルベッキは聖書の翻訳にも関与し、フルベッキが翻訳を担当した旧約聖書の詩編とイザヤ書は、後に日本文学に大きな影響をもたらしている。

 かように、日本の近代化に大きく貢献したフルベッキであったが、惜しくも明治31年(1898年)に心臓発作のため急逝している。

3.フルベッキの遺志を継ぐ

 明治2年から明治10年にかけて、フルベッキが貢献した分野は何も上述の法律制度だけではない。法律制度以上に貢献したのが教育制度ではなかったと思う。俗に日本の大学の源流は長崎にあると言われるようになった当時の長崎の致遠館などの私塾では自治の精神に溢れ、学問の自由を謳歌していたのであり、これが日本の近代化に大きく貢献したことは言を待たない。ただ、こうした自由な気風が後年の大学設立に生かされることなく、文部省という権力に屈したものに成り果てたのが現在の日本の教育制度であり、そのために日本社会の真の進歩が中途半端なものになってしまったのは返す返すも残念なことであった。現在の日本はバブル崩壊から久しく、かつ近い将来には嘗ての産業革命に匹敵する大きな社会的変革が日本はもとより世界を襲うのは確実であり、そうした新時代に相応しい人材育成に欠かせないのが自治の精神と学問の自由である。その意味で、人材育成という観点から教育のあり方を見直すことは、今日における緊急の課題であるといえよう。幸い、【宇宙巡礼】というホームページを管理している筆者の知人から、人材育成について深く考えさせてくれるという今や絶版となった『教育の原点を考える』(早川聖・他 亜紀書房)という本の筆者の了解を得て、同本を電子化して公開したという知らせが届いた。以下が『教育の原点を考える』のURLであるが、教育とは何も学校教育という問題だけではなく、広くは日本の将来をも左右しかねない大きな意味を持つものであるからして、一人でも多くの読者に目を通して頂き、教育の原点について考えるきっかけとなれば大変有り難く思う。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm

 とまれ、教育は正しく国の骨幹であり、微力ながら筆者も何らかの形で世の中に貢献できればと願っている。その意味で、近代日本の父・フルベッキの遺志を思い出し、明日の日本を背負う若者たちの踏み台になりたいと、心から願う今日ころ頃である。

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2007年2月18日 (日)

西郷隆盛

現在、本業(翻訳)のスケジュールに追われている毎日のため、なかなか投稿する余裕がなく、本ブログの読者に申し訳なく思います。

ところで、毎日仕事の缶詰状態になっていると、つい息抜きにネットサーフィンをやりたくなるのが私の悪い癖であり、先ほども息抜きに幾つかのサイトを訪問してみたところ、副島隆彦が自分の掲示板に西郷隆盛について言及していたのを読みました。それで自分も数年前に西郷隆盛について取り上げたことを思い出し、それを本ブログに書いているはずと思ったところ、アップしていないことに気づいたという次第です。アップしていなかったのは、二年前に12回にわたって執筆した『近代日本とフルベッキ』のうち、西郷隆盛の章と最終回の章でした。よって急遽西郷隆盛の章をアップしておくことにしました。最終章もいずれアップしたいと思います。

なお、仕事が一段落したら、『月に響く笛 耐震偽装』(藤田藤吾著 imairu)の書評を書きたいと思っています。お楽しみに。

西郷隆盛

1.はじめに

 2004年の師走、本シリーズの「近代日本とフルベッキ」に毎月目を通しているという某識者と語り合う機会を持った。その識者を仮にAさんとしておこう。前号の「第四章 勝海舟」の中で、「前々回の第二章 坂本龍馬でも述べたように、幕末維新にかけての日本には外国、殊に英国の影が見え隠れするのであり、江戸開城も例外ではない。ズバリ言えば、英国公使のパークス、さらには英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空が勝海舟であり西郷隆盛だったのである」と筆者が書いたことに対して、「確かに、イギリスやフランスが幕末明治期の日本に及ぼした影響は大きかったと思うが、だからといって西郷や勝がイギリスというお釈迦様の掌の上の孫悟空だったと言い切るのは如何なものか」とAさんは反論してきたのであった。

そこで、「2.老獪な国・イギリス」でイギリスを知り、続いて「3.西郷は征韓論に非ず」で西郷隆盛を知り、その上で「4.イギリスと西郷隆盛」に目を通していただければ、江戸開城時の勝海舟と西郷隆盛は英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空だったのか否かという点について、ある程度明確になるかもしれないと思った。

2.老獪な国・イギリス

 イギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考について述べた最良の日本語の書と云えば、今から20年ほど前に刊行された永井陽之助著『現代と戦略』(文藝春秋)を筆頭に挙げることができよう。同書は20世紀の政治および戦略をテーマにした日本語の本の中では名著中の名著と言われている本であり、中でも第Ⅸ章「情報とタイミング……殺すより、騙すがよい」という章は、イギリスのチャーチル元首相の戦慄すべき戦略的思考について述べたもので、チャーチルを通じてイギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考を余すところなく伝えてくれる章である。以下に第Ⅸ章の一部を引用しておく。

コベントリーの悲劇

 きたるべき大空襲による災厄を確実に予知しつつ、故意に、それを国民に知らせず、その市民を犠牲に供して、いささかも動じなかった人物がいた。

 その名はイギリス首相ウィンストン・チャーチル、都市の名はコベントリーである。ただし、この情報秘匿の目的は、「ウルトラ」という最高機密を守るためであった。いまでは、ひとつの「神話」にさえなっている戦時エピソードのひとつである。これは、第二次世界大戦中の一般市民にたいする大規模、無差別爆撃のはしりとして、「コベントリー化」という新語ができたほど、当時としては未曾有の被害がでたドイツ空軍の夜間大空襲であった。この空襲で、50,749戸の家屋が破壊され、554名の死者、865名の重傷者、4,000人におよぶ市民の火傷、怪我人をだした。空襲後、「ニューヨーク・タイムズ」のロンドン特派員は、コベントリー市を訪れ、「まるで大地震におそわれた都市のようだ」と報じている。「ザ・タイムズ」は、コベントリーを「殉教都市」と呼んだ。実は、当時だれも知らせなかったが、コベントリーこそ、文字どおり、最高機密「ウルトラ」を守るため、犠牲に供せられた「殉教都市」だったのである。

『現代と戦略』(永井陽之助著 文藝春秋)p.243

 単刀直入に言えば、戦争に勝利するという究極の目標のため、五百名以上に及ぶ自国民をチャーチルは見殺しにしたということである。同時に、「ウルトラの機密保持かコベントリー市か」という選択を迫られた時は躊躇なくウルトラの機密保持を選んだチャーチルが、その後再び「ウルトラの機密保持かモントゴメリー将軍か」という選択を迫られた時は、迷うことなく一個人であるモントゴメリー将軍を助けたという史実を指摘しておきたい。チャーチルがモントゴメリー将軍を助けるという決断を下したのは、エル・アラメーンにおけるモントゴメリー将軍の勝利にチャーチルはすべてを賭けていたからに他ならない。そして、チャーチルの下した判断は吉と出たのであり、モントゴメリー将軍を助けたことによってイギリスはエル・アラメーンにおいて勝利を収め、それにより第二次世界大戦の流れを逆転させたのである。このように、勝利という究極の目標を実現するためには自国民の犠牲も辞さないというところに、チャーチルさらにはイギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考を垣間見る思いをした読者が多かったのではないだろうか。

 一般に、「正直こそ最善の政策である」、「長い目で見れば真実が勝つ」、「妥協こそ美徳なり」等を外交・戦略の根底に置いているのがイギリス人紳士であるというイメージが強い。これはイギリスの政治家・外交官に限らず、「信用」をビジネスで最も大切なものと考えるイギリスの実業家らも共通して持っている気質なので確かに一面ではその通りなのだが、実はイギリス人紳士はもう一つの顔を持っていることを忘れてはならない。それはズバリ「狡猾さ」であり、狡猾さこそがイギリス外交・戦略の基本的な性行を表す言葉なのである。こうした深謀に長けた外交的な駆け引き、インテリジェンスの駆使と云う一面が、イギリスのエスタブリッシュメントにあることを忘れるべきではない。

 ここで、戦略とは非常に重みを持った概念であり、戦略の持つ真の意味を知るには情報とインテリジェンスとは明らかに異なる概念であるということを最初に理解する必要がある。さらに、来る情報化社会の覇者として日本が生き残っていくためには、かつての戦艦大和、零戦で代表されるハード指向(現在も相変わらず日本はハード指向である)から、チャーチルのように長期的な視座に立脚し、外交・政治・心理・経済・文化といった各分野を有機的に統合しつつ、収集した情報を分析、判断、行動に移していくというソフト指向、すなわちインテリジェンス能力を備えた指導集団を日本に構築していくべきであろう。ご参考までに、来る情報化社会においてインテリジェンスを身につけた個人・集団こそが覇者になるといった内容を、前シリーズ『日本脱藩のすすめ』の第三回 意味論のすすめ(英語編)で筆者は述べているので、心ある読者に一度目を通していただければ有り難い。また、筆者は龍馬暗殺について拙稿「第二回・坂本龍馬」で簡単に触れたが、その折りに龍馬暗殺にイギリスの影が見えるという点について簡単に述べたことがある。未だ「第二回・坂本龍馬」に目を通していないという読者、特にIBD会員以外の読者の方は、「第二回・坂本龍馬」の一部を掲載しているブログを以下に紹介しておくので一度訪問していただければと思う。

・「近代日本とフルベッキ」第ニ章 坂本龍馬
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200410280000/

3.西郷は征韓論に非ず

 ここで一端イギリスというテーマから離れ、西郷が唱えたという征韓論を見直しておこう。

征韓論

一八七三年(明治六)、西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した論。同年洋行から戻った岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えてこれを退けた。以後征韓派は下野し、士族反乱や自由民権運動を展開する。

 上記は三省堂の『大辞林』からの引用であるが、こうした一般辞書にも載っている征韓論に関する世間の“常識”は何処まで本当なのだろうか。

最初に、西郷隆盛が征韓論を主張したという点について否定しているのは、西郷隆盛と共に江戸開城という偉業を成し遂げた勝海舟その人である。そのあたりの詳細については『明治の海舟とアジア』(松浦玲著 岩波書店)の「第五章 征韓論否認」に目を通していただくとして、ここでは勝海舟が明白に「西郷は征韓論に非ず」と記録に残しているという事実だけを示しておくだけで充分であろう。

さらに、征韓論は西郷隆盛の主張であるとする世間の“常識”を否定するもう一人の人物に福沢諭吉が居る。前号の「第四章 勝海舟」でも紹介した福沢諭吉の『丁丑公論 瘠我慢の説』(講談社学術文庫)を再度ここで取り上げるが、同書の「丁丑公論」は西南の役の首魁であった西郷隆盛その人を高く評価し、返す刀で時の政府を徹底的に批判した内容となっている。しかし、福沢が「丁丑公論」を執筆したのは明治10年と西南の役鎮定直後であったのにも拘わらず、実際に『丁丑公論』が時事新報紙上に発表という形で公にされたのは、福沢諭吉が死ぬ直前の20年以上も後の明治34年であったことからして、「丁丑公論」は福沢の身に危険が及ぶほどの激しい政府批判書であったことが容易に想像できよう。以下は「丁丑公論」からの抜粋である。

 世上の説に、西郷は数年以前、鹿児島へ退身の後も意を内国の事に留めず、もっぱら外征の論を主張して少年を籠絡し、その我将さに、我将さにといえるは、将さに朝鮮を伐ち、支那を蹂躙し、露西亜を征し、土耳古を取らんとするがごとき、漠然たる思想にして、為に、ますます少年好武の血気を煽動して却てその動揺を制御する能わざるのみならず、己れもまた血気中の一部分にしてかつて定りたる目的もなく、ついに今回の軽挙暴動に及びたりと。

 この説果して然らば、西郷もまたただ私学校党の一狂夫のみなれども、余輩はにわかにこれを信ずること能わず、西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり。学識に乏しといえども老練の術あり、武人なりといえども風彩あり、訥朴なりといえども粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、いかなる大事変に際するもその挙動綽々然として余裕あるは、人の普く知るところならずや。然るに今回の一挙に限りて切歯扼腕の少年と雁行して得々たる者と見做すは、西郷の平生を知らずして憶測のもっとも当らざるものというべし。故に余輩は、あえて彼に左袒してその不学の罪をも許さんとするには非ざれども、またこの世説を軽信して直にこれを狂夫視するの理由は未だこれを見出すこと能わざるなり。

『丁丑公論 瘠我慢の説』(福沢諭吉著 講談社学術文庫)p.39

 この短い福沢の文章からもお分かりの通り、征韓論=西郷隆盛という世の中の“常識”に惑わされることなく、堂々と西郷を弁護する福沢の姿が目に浮かぶような文章であり、同時に西郷隆盛その人について評した優れた西郷隆盛評であると云えよう。

西郷隆盛=征韓論という“常識”に対して異論を唱えるのは何も勝海舟、福沢諭吉といった昔の偉人ばかりではない。【阿修羅】と云う掲示板を主体としたホームページがあるが、以下は同ホームページに載った“個性溢れる”西郷隆盛と征韓論に関する投稿である。西郷が武力でもって征韓論を主唱していたというのは真っ赤な嘘であることを如実に示した投稿なので、興味ある読者は以下のURLを一度訪問されると良い。

・「西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠」
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html

 特に、投稿者が想像力を働かせて描いてみせた西郷と他の閣僚との征韓論を巡るやり取りが実にリアルであった。参考までに、以下にその個所を収録しておこう。

閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」と説明しました。

その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。

しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。

「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」

西郷の主張することは、正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。

西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ります。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす。」

この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。

その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」と大隈に言いました。

こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来ません。そして、その後、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、相当の自信もあったのでしょう。

しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。

また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったのです。

西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はありません。

そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。

 以上、世間の“常識”である「西郷隆盛は征韓論を主唱していた」というのが事実ではないということが、上記の諸証拠を示すだけで充分に納得していただけたものと思うので、急ぎイギリスと西郷隆盛について筆を進めることにしよう。

4.イギリスと西郷隆盛

江戸開城にイギリスの影がつきまとっているというのは大勢の人たちが認めるところである。ここでの問題は、果たして江戸開城にどの程度イギリスが関与していたかという点であるが、以下に二つの意見を示そう。最初の意見は上述の掲示板式ホームページ【阿修羅】に載っていた投稿であり、イギリスの狡獪さについて述べている“個性豊かな”投稿である。

・「被統治者に真実の像を結ばせないこと」

薩摩と長州の手を握らせておこした戊辰戦争は、今でもCIAがアフリカ・中南米でよくやっているような軍事クーデターと類似した構図があったことをまず前提におきます。

鳥羽伏見の戦いが起きる1年まえぐらから、西郷とアーネストサトウの接触ははげしくなっていますが、サトウが西郷に早く軍事行動を起こす様にけしかけたり、西郷がのらりくらりと交わしたり、といったような駆け引きがあったようです。

勿論西郷はサトウ(イギリス)の魂胆を見抜いていたのでしょう。前回も述べましたとおり、西郷は、表面はあくまでイギリスの言う事を聞くフリをして戦いを起こしながら、勝と打ち合わせて最終的には国内が長い間の内乱状態となることを回避し、イギリスの「日本人同士を憎ませ・戦わせることによって利益をえる」というイギリス人得意のDivide and Rule戦法の裏をかきました。

私は、このときの当時のイギリス人関係者達の気持ちを感じることができます。

「我々が遠隔操作で新しく作った日本という国を今後コントロールして行くにあたって、西郷という人間は邪魔だ。いつか彼は処分されなければならない。」~と。

新しく日本が出来て間もなく、明治政府はヨーロッパに使節団を派遣する事となります。ここでもDivide and Ruleの原理に基づき、革命政府の主要な人物を二つに分けることとなりますが、このような判断を明治政府にさせる際にも、イギリスはかげながら関与していたと思います。

このようにグループを二つに割る事により一種の派閥が生まれ、将来その派閥を戦わせることによって、イギリスが事態の推移をコントロールしやすくなる余地が生まれる(革命家集団が一致団結してイギリスに反抗されることは避けなければならない)とともに、同時に派閥同士が仲たがいする際に、イギリスにとって邪魔な人間を処分することもやりやすくなるからです。(西郷はそうやって、イギリスが自然な形で自分達を追いこもうとしている事も、岸壁から使節団を見送りながら十分わかっていたでしょう。)

 文面から明らかなように、ホームページ【阿修羅】の投稿者は内乱を起こさせて日本を統治していこうとイギリスが考えていたことを前提に述べていることが分かる。換言すれば、江戸開城時に日本が内乱状態になるのを願っていたイギリスに対して、イギリスの裏をかいて内乱になるのを避けたのが勝と西郷であるいう主張の投稿である。

 その一方で、全く別の見方をする意見も確実に存在する。そうした意見の一つが本シリーズの「第二章 坂本龍馬」において筆者が読者に紹介した『石の扉』(新潮社)を著した加治将一氏の意見であり、参考までに加治将一氏の意見を一部以下に引用しておこう。一読して戴ければお分かりのように、どうやら加治氏は死の商人・グラバーを血の通った人間と見ているようだ。

歴史家は、あたかも勝海舟と西郷隆盛の二人の度量が、無血開城を成功させたような描き方をしていますが、私の見方は違います。

勝も西郷も、グラバーから釘を刺されていたと考えているのです。実際勝は、英国領事館の通訳、アーネスト・サトウを介して、パークスと連絡を取っていたし、西郷は、五代を通じてグラバーから英国の空気を読んでいました。英国は強硬措置に対しては断固として反対していたのです。

ですから,出来レースとまで言わないけど、下級武士の動きを封じるために「命をかけた会談」という演出がなされたのだと思います。

いや、それはおかしい。なぜなら、グラバーは平和を望まなかったはずだ。なぜなら、武器弾薬を売って利益を得ているのだから、戦争が起こったほうがいいと考えていただろうと主張する歴史学者がいます。

 しかしそれは、商売を知らない人間のいうことです。

戦火を交えて、互いに疲弊し、双方瓦解するようなことになれば、金銭は枯渇し商売は成り立ちません。だからこの時が潮時だったのです。

 一刻も早く新政府を作り、一致団結して富国強兵の名のもと、武器を買って軍備を増強してもらう。グラバーは、勝と西郷に因果を含めたのです。

 「無血開城以外に結論はない」

進退窮まっている幕府には願ってもないことです。また西郷もグラバー=英国なくして薩長の武力補強は望めず、これまた異論はないはずです。というのも幕府が崩壊したとき、グラバーが薩長側につくのとつかないのとでは、新政府の勢力図ががらりと変わってくるからです。

政権が倒れた場合、武力を持っている藩が新政府の要職を占めてしまうのは自明の理ですから、グラバーの言葉には重みがあります。

見えない糸で織り上げた、フリーメーソンによる包囲網です。

明治元年。

グラバーはこのとき、興味深い行動にでます。徳川慶喜を弁護し、助命嘆願の文書を肥 後藩に提出しているのです。

なぜグラバーは、縁遠い徳川慶喜の命ごいをわざわざしたのかはもう、察しがつくはずですが、一つは慶喜を処刑すれば、武士道精神に火がつき、すさまじい佐幕側の反撃が、予想されるからです。そして、もう一つは、西周を通して大政奉還を呑めば命の保証はするという密約が、あったのだと思います。

『石の扉』(加治将一著 新潮社)p.147

 まとめよう。筆者は当時のイギリスは「内乱を願っていた」のではなく、「内乱に反対していた」と考える一人である。ただ、そう思う理由は何もグラバー、アーネスト・サトウ、パークスらが血の通った人間だからという性善説に立つからではなく、あくまでもイギリスにとって内乱に反対するのが最良の選択肢だったからである。換言すれば、加治将一氏の上記の言葉にもあるように、イギリスをして最も儲けさせてくれるケースが「無血開城」だったのである。よって、無血開城に持っていくように勝海舟と西郷隆盛にイギリスはプレッシャーをかけたのであり、それだけの力をイギリスは持っていたといえよう。それが「江戸開城時の勝海舟と西郷隆盛は英国というお釈迦さまの掌の上の孫悟空だった」という筆者の表現になった。

 その後の西郷は、征韓論を巡って親友の大久保利通と袂を分かち、最後は1877年(明治10年)9月24日、「晋どん、もうよかろう」の一言を遺し、別府晋助に介錯を命じて城山の露と果てた。直接的には西郷を死に追いやったのは大久保利通であるが、その背後にイギリスの影があったのかどうかについて次号あたり考察してみたいと思う。

5.至誠

本号のまとめとなるが、西郷隆盛という人物を最も的確に評したのは、勝海舟の『氷川清話』(講談社文庫)であったと筆者は思う。以下に当該個所を引用し、今号の筆を擱く。

 坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやつたが、その後、坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たつた一人で、江戸城に乗込む。おれだつて事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた。この時に際して、小籌浅略を事とするのはかへつてこの人のために、腹を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもつてこれに応じたから、江戸城受渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ。

『氷川清話』(勝海舟著 講談社文庫)p.60

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