「フルベッキ写真」に関する調査結果
慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真の考察論文の最新版が久し振りに届きましたので、ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。
※「フルベッキ写真の真偽」の一番下側の江副廉蔵、中野健明らの氏名が入った写真は、高橋助教授が作成したものです。
※高橋助教授の論文中の付表1は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
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慶應義塾大学 高橋信一
最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」によって初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されている。明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載された。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。本格的に世に知られるようになったのは自称肖像画家の島田隆資が昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の人物の比定を試み、「西郷隆盛が写っている」としてからである。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が、学界で議論が進んでいないにもかかわらず、勝手に「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館(広運館)の関係者と写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っているというものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。それ以前にはこの「フルベッキ写真」を撮影出来るほど広い場所はなかった。それまで使われていた写場は横幅が半分以下で、例えば福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている長崎の佐賀藩士たち9名の写真が撮影された。この大隈重信や副島種臣が写っている写真は慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影されたものであることがわかっている。小出は慶應4年6月に帰国したが、そのころ長崎には大隈も副島もいなかった。小出は大隈が長崎に来る前の9月の始めに落馬により亡くなった。この写真は上野彦馬の写場の識別の重要な基準である。上野一郎氏の研究は30年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。すべての議論はここから始めるべきである。「フルベッキ写真」が撮影された広い写場は、慶應4年の始めから明治7年ごろまで使われたと考えられるが、上野写真館の敷地内のどこにあったかは不明である。中島川に沿う彦馬邸の外からの写真は元治年間から大正年間まで、何度となく撮影されて来た。それらを集めて推測すると以下のようになる。19世紀の写真家F.ベアトの写真集「Felice Beato in Japan, 1863-1877」には風頭山から長崎市中を一望するパノラマ写真が掲載されている。この明治5年ごろに撮影されたと思しき写真を拡大すると、彦馬邸を鳥瞰することが出来る。これには白壁の塀沿いにそれまで建てられていた古い平屋の家屋が取り払われた更地が写っている。この場所には明治7年ごろ、ガラス窓を持つ二階建ての屋内写場が建設され、以後屋外での撮影は行われていない。つまり、この空き地に北向きの青天井の写場が作られたのではないかと想像される。それまでの、狭い写場は別の場所で明治2年ごろまで使われていたことが、W.ブルガーの写真集「Wilhelm Burger: Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera, 1844-1920」から確認出来る。 また、島田氏が用いた人物同定の手法は根本的に間違っている。画像工学の立場からきちんと再評価する必要がある。人間だけでなく、生物の体の各部分は所謂黄金分割のような比率で構成されており、顔の長い人物も丸い人物も各部の比率はほほ同じようなものである。島田氏のやり方では誰が見ても違うと思われる写真同士をかなりの確率で同一人物のものと断定してしまう惧れが高い。このような場合はむしろ、警察が用いているモンタージュの手法が必要である。目・鼻・口・耳・あご・眉毛・ひげ・頭髪などの個々の部分がどのような形をしているか、どのような配置になっているかを慎重に検討した上で、全体のバランスを検証して始めて同定が可能である。島田氏は西郷隆盛以外の人物に自分の手法を適用した証拠を示していない。これも大きな問題で、個々の人物に対する同定の確からしさを定量的に確証すべきだった。現状で島田氏の手法を歴史上の人物の同定に用いるのは極めて危険である。これらの点について言及した歴史研究家はいない。140年前の人物に誰もあったことはないのに、個人の主観に基づいた人物の同定や、根拠もない当て嵌めが行われ、それがなんの反証もなしに受け入れられる風土も問題視されなければならない。 明治4年8月9日に「散髪脱刀勝手令」が太政官布告されたのを始め、文明の刷新を目指した明治政府の奨励・強制にも係わらず、「断髪」の実行は容易に進まなかったのが実情である(坂口茂樹「日本の理髪風俗」)。明治6年3月20日に明治天皇が断髪し、この年内田九一撮影の洋髪・洋装の天皇の写真が全国に流布したのを契機として普及したと見るべきである。「フルベッキ写真」には月代を剃っていない惣(総)髪の武士がたくさん写っているが、鎌倉時代以後普及した丁髷と月代の風習はおいそれと捨てることが出来なかった。前に紹介した慶應3年初めまでに撮影された佐賀藩士9人の写真では大隈重信を始めとして、まだ月代を剃った丁髷姿が大部分であった。慶應元年当時、惣髪にした何十人もの集団が長崎の市中を歩き回ったとすると、民衆は何が起こったかと目を見張ったであろう。「~惣髪頭をたたいて見れば、王政復古の音がする」の唄の文句にあるように、一般武士が惣髪になったのは、大政奉還・王政復古を体験した後の意識改革の表われだったのではないか。以下に偽説に登場する人物の写真の所在を調べた結果を示すが、慶應元年当時の写真が現存する人物は極めて少なく、後年の写真でもって若い時代を推測して当て嵌めを行うことにかなりの無理があり、似てもいない人物がほとんどである。
万が一、慶應元年(正しくは元治2年)の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に英国に送り込んだ事実がある。慶應2年4月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚や石河確太郎(大久保利謙「幕末維新の洋学」)の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島から送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(「森有礼全集」及び大塚孝明「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だった藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影された際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、この時上野彦馬の写場で撮影された彼らの写真が残っている(春畝公追頌会「伊藤博文伝」)が、新しい写場ではない。島田・山口説に従えば「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士、寺島宗則、中村宗見、鮫島誠蔵、五代友厚、森有礼の5名が写っていることになる。その内、五代友厚と見なされる人物は「江藤南白」によれば明らかに山中一郎であり、他の全ても単なる当て嵌めと考えられる。 その他の関連人物の内、勝海舟は慶應元年の1年間は、前年軍艦奉行を罷免され、江戸赤坂永川邸に蟄居させられていた。福井藩士の日下部太郎は9月に藩命を受け長崎に赴き(福井市立郷土歴史博物館「よみがえる心のかけ橋 日下部太郎/W・E・グリフィス」)、済美館に入った。横井小南の甥たち、横井大平・左平太兄弟は当時神戸の海軍操練所にいたが、3月18日に廃止になってから陸奥宗光・中島信行らと長崎に出てフルベッキの教えを受けることになる。横井小南は4月になって岩男内蔵充の手紙で、兄弟が語学所(済美館)に入ったことを知る。小南は文久3年福井藩で失脚し、熊本の自宅で謹慎しており、8月に持病の治療のためと願い出て、長崎の兄弟に会いに行く。この時、フルベッキには会っていない。留学の仲介を荘村助右衛門に頼んだ(福本武久「呑剣奔る 小説横井小南」)。陸奥宗光は何礼之の私塾でフルベッキに学んだ記録が残っている。大隈重信らが後に致遠館となる佐賀藩校で英学の教育を始めるのは、これより後である(久米邦武「鍋島直正公傳」)。岩倉具視の息子たちが長崎に出向いたのは参戦した戊辰戦争が終わった明治元年秋以降で、大隈重信や副島種臣の活躍に感銘を受けた岩倉具視が佐賀藩の教育を受けさせたいと希望するようになったのは慶應4年5~6月である(同じ文献)。その岩倉具視自身は皇女和宮降嫁の強行で反感を買い、文久2年9月から慶應3年11月まで京都から追放になって、京都北東の岩倉村に身辺危険を感じながら蟄居していた。各藩の藩士が来訪するようになるのは慶應元年春以降である(大久保利謙「岩倉具視」)。江藤新平は脱藩の咎により文久2年に小城に永蟄居させられ、禁が解かれたのは大政奉還後の慶應3年12月である。慶應元年12月7日に太宰府に潜行して三条実美に面会しているが。大村益次郎は下関にいて、慶應元年(元治2年)2月7日に但馬に潜伏中の木戸孝允に手紙で下関および藩内の戦況を報告し、2月9日に銃器購入の目的で壬戊丸を処分しに上海に出かけた。12日に高杉晋作から木戸孝允の居所を尋ねられた(大村益次郎先生伝記刊行会「大村益次郎」)。このころ木戸孝允は行方が秘された存在だったのである。大久保利通は当時、吉井友実と共に薩摩から博多経由で京都に出かけており、2月2日に博多出帆に当たって、2月24日に京都から夫々西郷隆盛に宛てた手紙を出している(「大久保利通文書」)。2月9日に小松帯刀と大久保利通が参内し、参勤交代停止の朝命を請うた。中岡慎太郎と坂本龍馬は2月5日と12日に夫々京都と大阪で土方楠左衛門と会合を持っている。さらに中岡慎太郎と大久保利通は22日に京都で会っている。全体を見ると、陶業者山口氏が写っていると主張する人物の内、20名以上が、慶應元年2月に長崎に滞在出来る理由付けが困難なのである。 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英学塾、致遠館関係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のために、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っており、それを参考にした。しかし、大隈に関しては後に述べるように、極めて議論がある。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」によって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭「鍋島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大橋昭夫・平野日出雄「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」とグリフィスの「Verbeck of Japan」、村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」を参考にした。彼の事績については尾形裕康「近代日本建設の父フルベッキ博士」が詳しい。尚、尾形氏のこれを含むいくつかの著作中に「長崎時代のフルベッキの門下から、大隈重信・副島種臣・大木喬任・伊藤博文・加藤弘之・辻新次・杉亨次・何礼之・岩倉具定・岩倉具経・江藤新平・中野健明・細川潤次郎・大久保利通・横井小南・・・」とあり、これを引用する文献が多数あるが、これは、戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の文章中の「氏の交際せし人、或は其門下の学生には・・・」の文章の解釈ミスによるまったくの混同であることに十分注意しておく必要がある。全員が長崎時代の弟子という訳ではない。また、戸川が参考にしたワイコフの「フルベッキ小伝」は現存しておらず、その草稿の決定稿は1909年に出版された「Biographical Sketches read at tde Council of Missions」中の明治学院の教授M.N.ワイコフによるフルベッキの紹介文である。それを読むと、戸川は明治4年「米欧回覧」の実現に対するフルベッキの貢献について知らなかったことがわかる。 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具視、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具視公傳」などで調べた。「大隈侯八十五年史」、「日本のフルベッキ」、久米邦武「鍋島直正公傳」等を総合すると、慶應元年夏ごろ、大隈重信は長崎海軍伝習所や弘道館の佐賀藩士に呼びかけ、長崎の佐賀藩校で副島種臣を学頭として英学の教授を始め、フルベッキは非公式に長崎奉行所の済美館と掛け持ちの授業を引き受けた。この時から相良知安は慶應3年暮れに娘が生まれたのを機会に佐賀に帰るまで、致遠館で学んだ。慶應4年、年明けに鍋島閑叟の正式な侍医となり、以降京都での行動を共にしている。「岩倉具定公伝」によると、岩倉具視は上の息子二人には漢学を、下の二人には洋学を学ばせたいと考えていたので、この表から推測すると久米邦武は明治元年の10月に折田彦市・宇田栗園の二人の従者(「久米博士九十年回顧録」)と伴に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟をフルベッキに預けることにして、石丸安世・相良知安らに長崎まで送らせたのではないか。フルベッキはこの時点で大阪に移籍する(東京に行くことになるのは、これより後である)ことが決まっていたが、致遠館は存続することになっていた。致遠館が廃止になったのは、版籍奉還があり、佐賀藩の内情が変化、生徒の大部分が大学南校に留学する許可を得て東上し、教員が佐賀に戻って新しく学校が作られた明治2年8月以降である。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。 同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎歴史文化博物館に所蔵、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎商業百年史」に掲載されている。尚、これを産能大学の「写真の開祖 上野彦馬」や石黒敬章の「幕末・明治のおもしろ写真」中の上野彦馬が写っている写真と比較すると、後列右から4人目の不明となっている人物は彦馬自身と思われる。前者の写真の左端には草履を置いた石囲いをした植え込みと木の枝が写っているが後者にはない。またフルベッキのネクタイの形の違い、敷物の位置のずれなどから、二つの写真には撮影時期に多少の差異があると推定される。尚、東京富士美術館にはこの済美館の方の写真の同時に撮られた別バージョンが所蔵されている(「開かれた窓 写真誕生の170年」)。産能大所蔵の致遠館の「フルベッキ写真」と同様、ヨーロッパで競売に掛かったものが、国内に持ち込まれた。何故、二種類が世に出、どのように海外流出したか、今後の解明が必要である。彦馬らしき人物の位置のみが異なっているのは興味深い。 フルベッキを囲む済美館生徒の集合写真には上記とはまったく別の時期に撮影されたものがあることは知られている(松本逸也「読者所蔵 「古い写真館」」及び「幕末漂流」)。こちらはフルベッキが済美館で教え始めた元治年間のもので、上野彦馬がきちんとした囲いを設けた写場を作る前に、庭に屏風のようなものを立て撮影した。中列の右端に英語教師の岡田好樹、左から二人目に同じく柴田昌吉(岩崎克己「柴田昌吉傳」)がいるが、柴田は慶應3年3月、江戸の海軍伝習所の通詞として、柳谷謙太郎と出仕したので、明治以降の撮影は考えられない。 フルベッキは11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。致遠館の今後について話し合ったと思われるが、「鍋島直正公傳」や「フルベッキ書簡集」には記述がない。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新しい大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。大隈は明治元年の9月から11月23日ごろまで、英国水夫暗殺事件の取調べのため長崎にいたと考えられる(「大隈侯八十五年史」、東京大学編と早稲田大学編の「大隈重信関係文書」)。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。同定の方法は、間違って写っていると見なされる人物も含めて、関係者の写真を各種の文献から調査し、顔の各部を慎重に比較することで行い、付表1でまとめた人物の当時の行動と照らし合わせて推定した。今後は画像解析による顔認証の技術を利用した検証が必要である。人物説明中に同定に用いた写真が掲載されている文献を示した。
香月経五郎、丹羽龍之助、江副廉蔵は慶應3年12月に、山中一郎は慶應4年9月に致遠館に入学している(岩松要輔「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学))。その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時副島は40歳に近く、月代を剃っていた。また、明治元年当時あご髭を生やしていた(「蒼海遺稿」)。若い時の写真が似ているというだけで、人物を振り当てるのは学問的でない。伊藤博文は当事、兵庫県知事の職にあり、9月3日に起こった神戸での米国水夫暴行事件の処理に10月16日まであたっていた。また、11月の初めに版籍奉還の建言を政府にしている(「伊藤博文傳」)。長崎に出向いた形跡はない。慶應元年、福井藩の命令で長崎遊学した日下部太郎、熊本藩の横井大平、横井左平太は済美館で学び、当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。慶應年間、薩摩・長州・土佐から何人もが長崎に遊学し、済美館や何礼之の私塾に通っっていたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。「佐賀県教育五十年史(上)」および勝田銀次郎「服部一三翁景伝」によれば、薩摩の松方正義と長州の服部一三が致遠館に出入りしていた形跡がある。付表1に見るように大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀は京都におり、上京の準備をしていた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光(「陸奥宗光」は数冊出されている)は面長であったことが各種肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は上記の岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に40名余りが詳しく記載されている。また、明治2年2月19日付けで佐賀藩より出された「請御意」(佐賀県立図書館 佐賀鍋島文庫蔵)には、東京等への留学が許可された致遠館の教師および生徒27名の名前が挙げられている。両文献にある人物の大部分が「フルベッキ写真」に写っていると考えられるが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本のフルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎(若すぎる)などを特定出来ていない。サンフランシスコ赴任前に税関長を務めた柳谷謙太郎の写真は横浜税関に所蔵されているが、岩崎克己「柴田昌吉傳」掲載の写真とも参照して比較しても該当者は認められない。グリフィスは「Verbeck of Japan」編纂時には致遠館の「フルベッキ写真」が手元になく、済美館の方の写真を掲載した。よって、不確かな情報で記述した大隈重信と同様に彼の勘違いの可能性が高い。ただし、岩松要輔氏のリストにある辻小伝太や大塚綏次郎の他、鶴田揆一、副島要作の名は創立当初の佐賀県立中学校(分離前の佐賀高等学校)の教員記録(「佐賀県教育五十年史」)にあり、郷土の教育に尽力し、佐賀の地に骨を埋めたことから、彼らの子孫が現存する可能性はある。 その他の「フルベッキ写真」解明の手懸かりとして、人物像中の家紋が考えられ、島田氏や一説には北海道テレビのプロデューサが写真を大幅に拡大して家紋の判読を行って、人物を特定したと伝えられている。しかし、例えば「フルベッキ写真」の最も右端と左端の人物の家紋は正面から写っているにも拘らず、露光オーバーで細部が完全に潰れており、写真の解像度の問題でなく、拡大しても判読は不可能である。その他の極限られた可能性についてみると、以下のようになる。最もよく判定出来ているのはフルベッキの右隣りの人物で、極めてめずらしい「二重輪」の紋であり、別府晋介の「三つ扇」ではない。フルベッキの後ろの西郷隆盛と誤解された人物の左隣りの人物は大久保利通の「三つ藤巴」の紋ではない。さらに、その左隣りの人物は「鍋島杏葉」の紋の鍋島直彬であり、小松帯刀の「抱き梶の葉」ではない。井上馨は当時長崎奉行所の「済美館」の後を引き継いだ英学校「広運館」を監督していたのでフルベッキとの繋がりはあった。しかし「丸に三つ星」の井上家の次男として生まれ、安政2年志道家の養子(家紋は「蛇の目」)となって一女をもうけていたが、文久3年洋行前に離別し、井上姓に戻った。元治元年以降の写真には新しく創作した「桜菱」の紋が写っており、井上馨の墓石でも確認出来る。江副廉蔵は家紋から特定することは出来ない。その他の人物には家紋は写っていない。 「フルベッキ写真」には相当数の人物が写っているので、鶏卵紙に焼き増しされたものが多数配布されたと考えられるにも係わらず、実際は極少数しか残っていない。確実に分かっているのは、産業能率大学にあるパリでの競売に掛かったものと江副廉蔵の子孫の家に伝わるものだけである。前者はオリジナルに極めて近いもので、フルベッキから米国のオランダ改革派教会本部に早期に送られたものと考えられる。グリフィスの「Verbeck of Japan」執筆時にはアメリカにはなかった。挿入した写真は遺族から借りた「済美館」のものである。後者は島田氏が同定に用いたものだが、前者と違い鶏卵紙に焼き付けられたものではなく、後年小沢健志氏が取得し、「勝海舟」などに掲載された名刺判の元になった写真を明治年間に複写したものであることが、表面に直接付けられたものでない、写し込まれた皺やキズ等で判明した。同じ元写真からの複写が東京大学史料編纂所に「中野健明氏関係史料」として保管されている。元写真の所在であるが、長崎大学の武藤文庫にも同様に複写された写真が残されており、その由来は上野彦馬写真館が顧客の見本用に作った写真アルバムだと考えられる。この写真アルバムの内1冊は現在長崎の「江崎べっ甲店」が所蔵している。明治40年エマより提供されて「開国五十年史」に掲載されたものの所在は不明である。大正3年「江藤南白」掲載の写真とも同一かどうか確認出来ない。 前述したように「Verbeck of Japan」の原本には致遠館の「フルベッキ写真」は掲載されていない。使われたのは、フルベッキの家族から借りたと思われる「済美館」のものである。グリフィスはこの写真の人物に言及せず、「致遠館」の写真についてのみ述べているが、大隈重信と柳谷謙太郎が写っているとする記述には疑問がある。グリフィスは明治3年の暮れに日本に来ているが、おそらく、それ以前にフルベッキが米国の改革派教会本部に送った「フルベッキ写真」を見ており、うろ覚えで彼らとは来日後ほとんど(大隈も含めて)面識がないのに、30年後に集めた知識を基にそのように書いたのであろう。偽説にある日下部太郎、横井大平・左平太兄弟はラトガース大学でグリフィスが常に世話をした生徒であるから、一目で識別出来たはずだが、他のページには3人の記述があるにも係わらず、ここでは名前が挙がっていない。特に日下部太郎は極めて優秀な成績で卒業を前にして肺結核で死亡し、特別に贈られた記念の金の鍵はグリフィスが明治4年来日の際に持参し、福井の実家に届けている。そのような人物を見逃すはずがない。このことからも、偽説の信頼性は既に崩壊していることが分かる。明治3年に米国留学し、ラトガース大学に入った岩倉兄弟たちはちゃんと識別出来ている。なお、グリフィスが日本で集めた各種資料はラトガース大学に「グリフィス・コレクション」として保存されており、「Verbeck of Japan」掲載の他の写真は残っている。村瀬寿代氏の訳編「日本のフルベッキ」にはそれらの写真は使われていない。尚、写真以外のほとんどの「グリフィス・コレクション」に関してはマイクロフィルム化されたものが東京大学アメリカ太平洋地域文化研究センター等にあり、閲覧可能である。 近年陶板額等、フルベッキの子孫に伝わるものと云うのが流布しているが、真偽は不明である。フルベッキの子孫が戦後まで、日本に在籍した証拠はない。朝日新聞等に掲載された彩生陶器の陶板額の広告には、フルベッキのひ孫として中村保志孝氏の名前が紹介されているが、彼の父ピーター・グーズワード氏は1863年オランダに生まれている(レイン・アーンズ及びブライアン・バークガニフ「時の流れを超えて 長崎国際墓地に眠る人々」)。フルベッキの長男ウィリアムは1861年1月に日本で生まれており、まったく年代が合わない。中村氏の持っていた「フルベッキ写真」は戦後、人からもらった完全な白黒コピーで、鶏卵紙のオリジナルではない。フルベッキの子供たちの消息については村瀬寿代「日本のフルベッキ」に詳しいが、早世した最初の子供長女のエマ・ジャポニカや日本に向かう船中で亡くなった六男バーナードを除く全員がアメリカに渡り、彼の地で生を終えた。最も長く日本に在住した次女のエマは夫の東京大学英国法教師ヘンリー・テリー(和田啓子ICCLP Annual Report 2004「明治お雇い外国人から、2004年夏法科大学院サマースクールへ」)が停年退職した明治45年にアメリカに渡った(宮内庁書陵部所蔵「明治大正年間雇外国人教師人名録」)。彼女は明治32年フルベッキの死後に結婚しており、家族がいたとしても日本に残せる年齢ではない。 こうした「フルベッキ写真」自体に関する情報が極めて少ない状況に至ったのは撮影の目的が岩倉兄弟の歓迎のためだったことにより、極少数の関係者にのみ配布されたものだからと推察される。全員に配布されたら莫大な費用が掛かったはずである。今回の調査で、岩倉家には「フルベッキ写真」のオリジナルが残されていたことを昭和の始めまでは確認出来た。岩倉家から昭和初年に贈られた「フルベッキ写真」の複製を大久保利通の子孫、大久保利泰氏が所蔵している。岩倉家にはオリジナルは現存しておらず、戦災で焼失したものと思われる。「岩倉公旧蹟保存会 対岳文庫」には大久保家所蔵と同じく京都の森田写真館で作られた複製が現存している。致遠館の生徒・教師とフルベッキとの送別のためではなかった。また、佐賀藩の多数の出身者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なものだったとされているが、記録が曖昧なままである。おそらく在籍者は数十名に留まるだろう。それらの子孫が記念のために、いつのころか名刺判に複写したものを所持している可能性は十分考えられる。その内の一枚は最初に述べたように石黒敬七「写された幕末」にかって掲載されたが、森有礼所蔵のアルバム中にあったもので、キャプションは「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘を囲む44人の各藩生徒」となっていた。もちろん森の記入ではなく、石黒敬七氏の記入である。「森有礼全集」には明治2年7月に森が長崎から名和道一宛てに出した手紙が残っており、その中で岩倉兄弟の長崎での勉学の様子を伝えているが、その森がこの「フルベッキ写真」を見てこのように記述するはずはない。他にも江副廉蔵の子孫や古写真収集家の小沢健志氏の手元にある古本屋から購入した複製などが現存しているが、入手の経緯は不明である。 明治31年フルベッキが亡くなった年に墓碑を建立するための募金活動が行われた。その報告書「故フルベッキ先生紀念金募集顛末報告」(早稲田大学所蔵「大隈重信関係文書」)には216名の賛同者の名前が記されているが、致遠館関係者は大隈重信を含めても10名に満たない。明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。明治初期の各種官員録に「フルベッキ写真」に写っている可能性のある人物として鍋島直彬、中山信彬、中野健明、鶴田揆一、江副廉蔵、石橋重朝、堤 董信、中島永元、大塚綏次郎などを見つけることが出来る(川副 博「明治維新政府の佐賀閥」(昭和42年4、6月「佐賀人」))。しかし、維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるにも拘らず、佐賀出身者は20名余りと薩摩・長州の数分の一である。各種の明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎等が断罪された佐賀の乱を引き金とする明治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの薫陶を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、明治後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。 偽説を主張する人たちには、常識的なものの見方が欠落していると言わざるを得ない。根拠もなく当て嵌められた人物の内、刑死・戦死・暗殺など異常な死に方をした人物は森有礼、香月経五郎、別府晋介、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、江藤新平、大村益次郎、中岡晋太郎、広沢真臣、坂本龍馬、横井小南と1/4に及ぶ。岩倉具視や大隈重信もテロに遭って死ぬところだった。本当は写っているはずの山中一郎は佐賀の乱で処刑された。あの時代は和気藹々で未来を語る希望に満ちた時代と云うよりは、命懸けで生き方を模索した時代だった。慶應元年にこれだけの大規模な秘密の会合をするだけの意思の疎通が出来ていれば、薩長同盟は愚か大政奉還も版籍奉還ももっと早く行われ、戊辰戦争・西南戦争そして佐賀の人たちにとって諸悪の根源であった大久保・伊藤路線による佐賀出身の人材排除の切っ掛けを作った佐賀の乱も不要だったのではないか。そういう歴史認識が根本的に欠如している。佐賀県の地元にそのような認識を明確に表明する意識がないのは極めて残念である。香月経五郎、そして五代友厚ではなく山中一郎は留学から帰ったばかりで乱に巻き込まれて命を落とした。優秀な生徒を亡くしたフルベッキの無念さを痛切に感じる。フルベッキが晩年大隈たちと疎遠になり、布教活動に専念した一因だったかもしれない。 「フルベッキ写真」ではフルベッキをカメラの中心に置いて数人が椅子に坐っているが、その両隣に坐る岩倉具定と具経がこの写真の中で最も重要な、位の高い人物である。岩倉具経の前に岩倉具視あるいは具慶がいるとの主張があるが、何処の世界に親を跪かせて写真を撮る人間がいるのか。この写真はお公家の子息である岩倉兄弟が一介の藩校に入学したことを記念するため撮影された、彼らを迎えた致遠館の教師と生徒による集合写真である。何処かへ消えて行った致遠館の生徒たちの消息を解明するために、おそらくは佐賀を中心とした何処かにいるであろうその子孫たちの記憶を掘り起こして行くのが、今後に残された課題である。 (平成19年1月7日) |
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コメント
加地将一氏の「幕末維新の暗号」を読んで、フルベッキ写真に興味を持ちました。フルベッキ写真の撮影場所が特定できていないことから、石畳を手掛かりに、長崎の古写真を調べました。その結果、長崎のBelle Vue Hotelの前ではないかと確信しました。石畳の数と大きさが一致しています。Belle Vue Hotel は、文久3年に建設され、一時
イギリス大使館を兼ねていたようなので、なにか幕末のイギリスとのつながりもありそうです。また、石畳が、奥に向かって伸びており、その延長線上にホテル入口の階段が
あるのも、一致していると思います。
ぜひ、検討をお願いします。
投稿: 榎本 光孝 | 2021年2月24日 (水) 午後 02時16分
「歴史読本」の7月号はお読みいただけたかと思いますが、伊東次兵衛が写る集合写真の人物と「フルベッキ写真」の人物との照合は完全には終わっていません。名前の当て嵌めもそうです。ですから、今回の発見でも新しい人物の特定は進展していません。「大隈重信」と目された人物については、似た写真を別の所で見つけていますが、名前を指定出来る所まで行っていません。私は致遠館の関係者に絞るべきではないと考えています。例えば、相良知安のように長崎で医学修行をしている佐賀藩士とか。
投稿: 高橋信一 | 2013年8月 9日 (金) 午前 09時52分
どうもkjです。先日はどうもありがとうどざいました。
所で以前から気になっていますが4月にフルベッキ写真の撮影時期に近い原版が見つかりましたが
そのことによって新たに人物の特定(大隈重信?が誰かなど)などは出来たでしょうか。ぜひ教えてください。
投稿: kj | 2013年8月 8日 (木) 午後 08時33分
そういうことだったのですね。
先日見せていただきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/touwasangyou55/MYBLOG/write.html?fid=1147697&pid=61710122&.done=http://blogs.yahoo.co.jp/touwasangyou55/61710122.html
投稿: おつた | 2012年3月 2日 (金) 午後 04時19分