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2005年9月28日 (水)

明治天皇(1)

私が過去執筆した明治天皇についての原稿をアップ致します。 長文ですので、本日と明日に分けてアップ致します。

はじめに

 前号の「第八章 伊藤博文」において、岩倉具視が孝明天皇暗殺を企て、伊藤博文が天皇を刺殺したという〝孝明天皇暗殺説〟を紹介したが、驚かれた読者も多かったのではないだろうか。前号でも紹介した『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』(新国民社)の著者である故鹿島昇氏は、そうした孝明天皇暗殺説を主張する一人であったが、実を言えば筆者は鹿島氏が亡くなる1年ほど前にメールのやり取りを行っていたのであり、一度お会いする約束をしていた。しかし、約束を果たせぬまま鹿島氏は帰らぬ人となり、結局出会いが実現しなかったのは残念であった。本号では、その鹿島氏の『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』および姉妹書である『明治維新の生贄 誰が孝明天皇を殺したか』(新国民社)を下敷きに、枚数の許す限り孝明天皇暗殺の真相について筆を進めてみたいと思う。

2.情報独占という名の弊害

 本号の執筆にあたり、数年ぶりに『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を再読した後、検索エンジンGoogle(グーグル)で”孝明天皇暗殺”をキーワードに調べたところ、4,280件ヒットした。そうした孝明天皇暗殺を取り上げたサイトすべてに目を通した訳ではないものの、一部を拾い読みしていく中で気づいたのは、孝明天皇暗殺説を否定するグループには文部科学省を頂点とする大学教授などの教育関係者、あるいは天皇の暗殺などあるわけがないとする〝常識派〟の人たちのサイトに多く、一方で孝明天皇暗殺説を肯定するグループには、上述の〝常識派〟の人たちから見れば胡散臭く映るであろうサイトに多いということである。そこで、筆の進め方として両グループの代表を選んで比較していくことにするが、その前に「情報独占による弊害」について一言述べておく必要がありそうだ。最初に、以下の図を眺めていただきたい。
情報の流れを見ると、日本はまだ封建制のレベル

 この図は1992年7月25日号の『週刊ダイヤモンド』に掲載された「蜃気楼の情報大国・日本の行方 経済の基盤支える情報システムに致命的な障害」という題名の記事に掲載されていた図である。日本で情報と云うと新聞記事等を切り抜いてノートに貼り付けるという作業を頭に思い浮かべるのが普通であると思うが、実は情報はインフォメーション(information)とインテリジェンス(intelligence)の二つの異なった概念に分けられるのであり、〝情報〟を制する者は21世紀を制すると云っても過言ではないのである。そして、その国の情報の流れを見ることにより、その国の将来、民度、体制といった諸々が一目で分かってしまうのであるが、日本という土壌で誕生した企業が21世紀を生き延びていくのに欠かせないヒントを与えてくれる記事なので一読の価値はある。
蜃気楼の情報大国・日本の行方

 鹿島氏も『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』の中で孝明天皇暗殺と絡めて情報独占が日本にもたらした弊害について貴重な発言をしているが、残念ながら同書は既に絶版となってから久しく、入手も困難であることから、少々長くなるものの後世のため記録に残す意味で以下に引用しておこう。

>

  日本の官僚はいまだ情報独占という魔法の杖、維新政府が開発した手法にしがみついているのである。

 北沢義博は平成8年4月24日行政改革委員会の行政情報公開部会が発表した「情報解放要綱案」の中間報告について次のように述べている。

【不開示情報の範囲、すなわち公開請求があっても公開しなくてよい情報は不明確かつ広範囲であって、すでに機能している地方自治体の制度より公開の範囲を狭めているといえる……このままでは、行政秘密保護法といっても過言ではなく、各界からの厳しい批判は必至である。
薬害エイズ事件における厚生省の資料隠蔽策動、敦賀原発における「もんじゅ」のナトリウムもれ事故における動燃事業団のビデオ隠蔽など、行政の情報隠しが国民の権利を脅かす例は限りない。
情報公開法の制度は行政だけがその保有する情報によって国民をコントロールするという状況に終止符を打つものであるはずである。ところが、中間報告の内容は現状に追随するものである。
鬼追会長は直ちに、中間報告を批判する声明を発表し、「知る権利」を実質的に保障する情報公開法の制定を求めることを改めて訴えた。
今秋には、同部会の最終報告が提出される予定であるが、中間報告の内容を踏まえ、真の情報公開を求める日弁連の運動は緊急かつ重大である】

 江戸時代の中頃、大阪の富永仲基という商人学者が「ものを隠すのがこの国の癖」だといったが、このような、官僚と政治家の情報独占が、天皇すりかえという破天荒の事件を可能にしたことはすでに論じた。
勤皇を唱える人々によって暗殺された孝明天皇と睦仁はまず側近の岩倉たちに裏切られたのであったが、しかし、南朝再興を目的とした大室寅之祐の明治天皇も仮面の人生にたえられずして、革命の真実をようやく明治42年、元老や元勲たちの多くが死んでから、国民には何が何だかわからないという不完全きわまる形で南朝正統を主張することで、自分が革命の主役だったことにようやく言及したのみであったが、それは、元老や元勲たちが情報を独占して南朝革命をかくすことで結束して、自ら擁立した明治天皇を裏切ったからである。
 私はすべて歴史の事件は、人間の動きが中心であり、人間の行動の正邪すべてが合理的に説明できる、というごく常識的な考えにもとづいて取り組んできたし、そのことはいまだに正しいと思っている。そして歴史を合理的に説明するためには、情報の公開が不可欠なのである。
本書はこうした私の考えの帰結である。

『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.34

 薬害エイズ事件における厚生省の資料隠蔽策動、敦賀原発における「もんじゅ」のナトリウムもれ事故における動燃事業団のビデオ隠蔽を例に挙げるだけでも、如何に日本は情報後進国であるかが分かろうというものである。情報隠蔽については日本の大手マスコミも同罪であることは、前シリーズの『日本脱藩のすすめ』の「第三回 意味論のすすめ(英語編)」で堕落した日本の大手マスコミについて書いておいたので、関心のある読者は再読していただければ有り難い。

3.病死vs.暗殺

 大分寄り道をしたが、この辺りで情報隠蔽により知らされていなかった孝明天皇暗殺という本題に入るとしよう。検索エンジンGoogle(グーグル)で”孝明天皇暗殺”をキーワードに調べたところ、孝明天皇暗殺説を否定するグループとして最初にヒットしたのが「日本史もっと知りた~い」というブログであった。そのブログのオーナーが孝明天皇暗殺について取り上げた際、中村武生氏という京都を主なフィールドとするフリーの歴史地理研究者が以下のような投稿を行っていたので紹介する。

こんにちは。
 孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたものかと存じます。
 孝明が亡くなった慶応2年12月の段階ではまだ「倒幕」は現実の政治課題になっておりませんので、「倒幕派」なるものが孝明を殺すことは何らの現実性はないようです。
 くわしくは以下の論文をご覧下さい。
(1) 原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」(『日本近代史の虚像と実像』1巻、大月書店、1990年)
(2) 原口清「孝明天皇と岩倉具視」(『名城商学』39巻別冊、名城大学商学会、1990年)
 (1)では医学的考察により、これまで「不自然」といわれてきた死の様相について、それこそが天然痘の特徴と結論づけられています。
 (2)では孝明の死の前後の政治史を詳細に論じられ、上記のように「倒幕派」なるものが当時まだ存在しないこと、岩倉具視が孝明を殺すと「利益」があったというのは幻想にすぎないことなどが論じられています。
名前: 中村武生 | March 29, 2005 12:30 AM

 それに対して、孝明天皇暗殺説を肯定するグループとして最初にヒットしたのが「帝國電網省」というサイトであった。この「帝國電網省」というサイトの開設者は竹下義朗氏と云い、ホームページにある自己紹介のページを見ると歴史研究家とあり、日本史に関する著書も数冊出版しているようだ。

世に「孝明天皇暗殺」と呼ばれる「疑惑」が語られてきました。幕末の激動の中、倒幕・佐幕両派の抗争の中で、岩倉具視と長州志士等によって、刺殺されたとも毒殺されたとも言われています。殺害方法がいずれの方法だったとしても、孝明天皇が暗殺された事は、紛れもない「事実」と考えていいのではないでしょうか? その根拠として、

1.孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
2.孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
3.薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。
……以下略……

 竹内氏の上記のページを読み進めながら、鹿島氏の『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』そのものだなと思っていたら、案の定ページの最後で同書を主要文献として取り上げていた。ここで参考までに、インターネットの世界で孝明天皇暗殺について取り上げているサイトのほとんどが『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を下敷きにしていることを指摘しておきたい。さらに付言すると、上記の竹内氏は自身のホームページに「大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について」と題したページにおいて、「G氏」という人物から大室寅之祐の出自についての情報が寄せられたとして、G氏の情報を公開しているので注目していただきたい。
大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について

 実は筆者(サムライ)も竹内氏と同様の情報をG氏から電子メールで受け取っており、内容的に胡散臭いものだったのでそのまま放置してあるが、その後竹内氏や阿修羅という掲示板など至る所でG氏の情報が公開されているのを確認している。このG氏なる人物だが、竹内氏の「明治天皇は暗殺されていた!!」というページに掲載されている「3.追補 幕末維新期の関連年表」にG氏が作成したという表が掲載されており、この表は『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』にも解説を寄せている松重正氏が『真事実の明治維新史』(松重正監修 情報ネットワークINFACT発行)に14ページにわたって掲載している「真説の幕末・明治維新年表」と瓜二つである。このことから推測して、このG氏なる人物は松重正氏本人か松重氏の関係者であると思ってほぼ間違いないであろう。なお、松浦正氏については後述するので参照して欲しい。
「明治天皇」は暗殺されていた!!

 さて、中村・竹内の両者の意見を較べるにあたって最初に中村氏の説を見てみよう。中村氏は上記の投稿の冒頭で「孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたものかと存じます」と書いているが、ここで中村氏の云う「学問の世界」とは何を意味しているのかは、上述の「2.情報独占という名の弊害」に目を通した読者には既に察しがつくものと思う。すなわち、日本では概してお上(本稿のケースで云えば、文部科学省や国史学会)の言うことを何の疑いも持たずに盲目的に信じる傾向が強いが、これは危険な傾向ではないだろうか。某識者が「(少なくとも)別々の3人から同一意見を聞かない限り、一つの説なり情報を信じない」と筆者に語ったくれたことがあるが、筆者もそれに倣って一つの説を単純に鵜呑みにするのではなく幾人かの異なった人たちあるいはグループから同様の意見を耳にした時点で初めて信じることにしている。ともあれ、もし鹿島氏が生存しておられたら中村氏に対して以下のように反論するはずだ。

 およそ歴史家は時の政府の政治的な意見を超越して、永遠の理想を校正に追求しなければならない。政治家は明日を考え歴史家は未来を考えるべきである。天皇であろうと、元老であろうと、歴史家の前に聖域があってはいけない。この国の歴史家は情報を独占する人びとから、あらゆる手段をもって情報を奪い返さなければならない。
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.129

 その意味で、中村氏が原口清氏という一人だけの説を取り上げて、「孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたもの」と断定するのは如何なものかと筆者は思う。殊に「医学的考察により、これまで不自然といわれてきた死の様相について、それこそが天然痘の特徴と結論づけられています」と述べているという原口清氏の『孝明天皇は毒殺されたのか』に筆者は目を通していないので何とも言えないのであるが、原口氏の経歴を紹介する以下のページを見る限り果たして原口氏に「医学的考察」ができたのかどうか疑問に思う。(あるいは他の医学関係者の発言を原口氏は単に引用しただけかもしれない)
原口清先生略歴及び業績目録

 参考までに、尾崎秀樹氏が1963年1月号の『歴史と旅』で「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」を著しており、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』に一部が引用されているが、内容的に示唆に富むと思うので、かなりの長文になるものの以下に掲載しておこう。一読の後、天然痘に詳しい読者がおられたら御意見をいただければ有り難い。なお、天然痘に関するホームページを掲載の後に紹介してあるので参照していただきたい。

 孝明天皇がその生涯を終えたのは、慶応2年(1866年)12月25日のことだ。死因は痘瘡とされた。国内外の緊張がたかまっている時だけに、崩御のことはしばらく伏せられ、29日になって公けにされた。
御陵は洛東にあたる泉涌寺(せんにゅうじ)だった。江戸初期以来、陵墓の簡略化が慣例であったが、孝明帝崩御に際してその慣例が改められ、壮大な山陵が営まれる。これは幕府の朝廷に対する配慮であり、その裏には、開国策の大きな障害であった孝明帝を手厚く葬ることによって、朝幕間のしこりを解消したい願いが秘められていた。
孝明帝の次子にあたる新帝(明治帝)が践祚(せんそ)したのが、慶応3年1月9日、正式に{孝明天皇」の諡号(しごう)が贈られたのは、2月16日になってからだ。
宮内省の編纂した公式記録である『孝明天皇紀』や、明治帝の外祖父にあたる中山忠能(ただよし)が残した『中山忠能日記』などによって、天皇の死に至るまでの経過をある程度たどることができる。
それによると、発病は12月12日だ。天皇はその前日、風邪気味だったのをおして、内侍所(ないしどころ)で催された臨時の御神楽を見るために出御した。寒さはそれほどきびしくはなく、10日は快晴で春のように暖かく感じられたので、油断したのかもしれない。11日は暁方に雨が降ったが寒くはなかった。しかし夜の7時から11時頃まで内侍所で過ごされ、その前に沐浴されたのがさわりになったのか、翌12日になるとひどい発熱で、典薬の一人高階(たかしな)典薬少允が診断にあたり、風邪だろうからと発汗剤などを献じている。
『孝明天皇紀』では、この12日から15日までなぜか欠落しており、16日に飛んで、いきなり「天然痘を患い給ふ」となるのだ。この欠落部分を『中山忠能日記』で補いながら先へ進もう。
13日、熱は下がらず、汗もない。食欲はまったくなく、高熱でうわ言がつづいた。
14日、山本典薬少允が診察、この時はじめて痘瘡(天然痘)と診断が下された。
15日、高熱がつづき、痘瘡の特徴である吹出物も手に少しあらわれはじめた。
16日、朝から吹出物があり、典医たちはそろって痘瘡と診断、ここではじめて病状が公表された。
17日、典医ら15名が連名で「12日より熱を発せられ、一昨朝より吹出物あり今日痘瘡と診断した。総体に御順よろしく、御相応の容体である」といった報告を武家伝奏に提出している。
18日、吹出物はますます多くなる。京都上京区にある護浄院の湛海僧正が宮中に招かれて祈祷を行った。また誓願寺の上乗坊も参内し、七社七寺へも祈祷が命じられた。
19日ごろから丘疹期、21日ごろから水痘期、23日ごろから膿庖期に進みカサブタが乾きはじめ、食欲も次第に回復。その間の報告は、「昨夜から痘の色が紫色になり、薬をぬり毒を抜く薬を調献した。夜中も安眠され通じも小便もあり、さらに食欲もすすみ、お粥を召し上り、吹出物も多くなり御順正であり、ますます御機嫌よくなられた」というものだった。
天皇の妃、中山慶子が父に宛てた手紙にも「まず御順当に御日立あそばされ」とか「天機御不都合もなく万事御するの御事、めでたく祈入承はり……」とあって、天皇の病状回復が順調に経過していることを裏づけている。
23日、この日からウミも止まって吹出物が乾きはじめた。湛海の日記に「御静謐(せいひつ)」とある。
24日、湛海は「咋日から御召し上り物も相当あり、御通じもよろしい、しかし少々お疲れの様子」だと書いており、祈祷は24日で満期になるのだが、慶子からなおつづけるように命じられたという。
ところが、その夜半から病状が急変する。発熱し、叶き気がひどく、下痢が3回あった。典医は体内に残っていた毒の作用だと診立てたが、それだけではなかったことはその後の経過が物語る。
25日、容体急変、親王が訪問、危篤状態に陥った。しかしなぜか『孝明天皇紀』には典医の報告が記載されていない。『中山忠能日記』には側近の者が暗澹として、ひたすら天に祈るありさまが読まれる。野宮定功(ののみやさだいさ)の日記では、この日も叶き気ひどく食欲なく、典医の手当ても湛海僧正の祈祷もむなしく、ついに大事に及んだという。
その臨終の模様を、『中山忠能日記』は「25日は御九穴より御出血、実もって恐れ入り候」とあり、その後紛失したとされている上乗坊の日記にも、「天皇の顔に紫色の斑点があらわれて血を叶き脱血した」と書いてあったらしい。
痘瘡には真痘、仮痘、出血性のものがあり、真痘の致死率は20及至30パーセントだといわれる。潜伏期が10日から11日ほどで、発現期に入ると、まず寒けとふるえが来て40度前後の高熱が出る。
そして腰痛や頭痛があり、その翌日ぐらいから、ハシカに似た赤い発疹が上胸部の外側から全身におよび、まもなく消滅し、さらに4日目ぐらいになると、小さな赤いもり上がった発疹が出はじめる。
痘瘡の吹出物は普通、腕の外側に出はじめるものらしいが、孝明天皇の場合も、まず吹出物が手に少し現われ、16日になるとかなり顔に出てきた。そこで典医たちが合議の上、全員一致で痘瘡と診断を下している。
その後の経過は順調で、食欲も出はじめ、17日から普通に便通もあり、熱も下り出し、水痘が脹れ、膿をもち、つづいて膿が出はじめる。これは病状が膿疱期に入った証拠だ。やがてカサブタができる。このカサブタは褐色になり、乾き固まってゆく。護浄院の湛海は宮中の命令で祈祷に従事した一人だが、この時の祈祷は効果があったとみなされ、「叡感ななめならず」、とりあえず金30両をたまわっている。
22日にはかなり食が進み、朝の8時に葛湯一椀と唐きび団子3つ。その後すぐに団子を5つ追加、11時ごろに粥一椀、午後2時ごろに団子7つほど、5時には粥一椀、8時には糒(ほしいい)、午前1時前には粥半椀と大根おろしとすべて順調で、周囲の者も安堵の思いだった。湛海の22,23日の日記が「御順症、御静謐」となっているのは、その現れだ。
24日はすでにのべたように加持祈祷満願の日に当っていた。
孝明天皇はアレルギー性の体質だったことが推測される。アレルギー性だと、天然痘に罹った場合、その症状が普通より強く出ることがある。ここまでくればもう安心というような時でも、アレルギー性体質だと、死への転機となるような出血性、紫斑性の病状をみせることがある。しかしそれまで順調に経過していた孝明天皇の病状が、たとえアレルギー性の体質だったとはいえ、1日で急変し死につながるというのはどうも納得ゆかない。
ジェンナーの牛痘種痘法の発表は1798年、わが国では嘉永2年(1849年)に、長崎の楢林宗建が蘭館の医師モーニッケに頼んでバタビアから種痘痂を輸入している。またシーボルトはすでに1826年に江戸参府のおり、道中で子どもたちに種痘を施しているし、蘭館医リシュールも1839年に接種したことがある。
しかしいずれもうまくゆかず、その2年後に、大槻俊斎が高島秋帆から牛種痘を得て江戸でこころみ、成功した記録がある。安政3年(1856)に、伊東玄朴が江戸で蘭方医と協力して種痘所を創設した。ロシアに拉致されたエトロフの番人小頭中川五郎治が伝来した種痘書もあった。
日本では、中国伝来の人痘種痘が一部でこころみられていたが、一般化するまでにはいたらなかった。それにしても、いろいろ牛痘種痘が模索されていた時期に、孝明天皇が
痘瘡で崩御されたのは不幸というほかはない。朝廷では、蘭方医はしりぞけられ、専ら典薬は漢方に限られていた。その他は加持祈祷に従う人たちである。吉田常吉の「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」によると、側近の稚児のなかに痘瘡にかかっていたものがおり、そこから感染したのではないかという推測がなされた。
宮廷とか大奥にいると流行性の病などに感染する率は低いけれど、一度罹患すると、免疫性も弱く病状も軽くないことが考えられる。ましてや天然痘は庶民ならば子どもの頃に罹る病気だ。孝明天皇はすでに36歳で、致死率もそれだけ高くなったということになる。しかし突然の病変はいろいろな疑惑を生んだ。五代将軍綱吉も痘瘡で突然の死を迎えたが、それについて後世いろいろな噂が立った。夫人に刺殺されたというのまであった。
孝明天皇と同じ年に大阪城で急死した将軍家茂についても、遺体が江戸へ運ばれたおり、和宮との対面を老中が許さなかったのは、家茂に毒殺特有の症状が見えたからだ、などという噂さえ立った……。
戦前は孝明天皇の死の謎にふれるのはタブーであった。サトウの『一外交官の見た明治維新』の訳本も、戦前版では削除されている。
昭和15年7月に、大阪で開催された日本医史学会関西支部大会で、佐伯理一郎博士が孝明天皇の典医だった伊良子家に伝わる口記にもとづいて、「12月22,23日までの経過は詳細に記されているのに、それ以後はプツリと絶えており、『孝明天皇紀』にある公表された報告さえのせていないのは、天皇が毒殺されたことを知って、意識的に記載をひかえたのではないか」と論じ、しかもその犯人については、「岩倉具視の姪で女官となっていた人物であり、洛東の寺で尼となった当の女性からそのことを直接聞いた」と述べたことがある。
この時は(帝国憲法の下だったから)佐伯博士の発言は採り上げられず、そのまますぎたが、戦後、昭和50年になって第19回日本医学会総会で、子孫に当る伊良子光孝医師から再度公表され、その日記の筆者は陸奥守光順で、直接「毒殺」の文字は見当らないが、その可能性をうかがわせる内容だとされた。
また昭和17年春、京都大学教授赤松俊秀が京都府の史跡名勝天然記念物調査委員として、京都の寺宝調査に当っていたとき、その調査に同行した奈良本辰也氏は真言宗の誓願寺で、『上乗坊の日記』を発見した。その日記の12月25日の個所には、「天皇の顔に紫の斑点が現われ、虫の息で血を吐き……」とあったので仰天したという。
しかし、史学界の元老だった西田直二郎博士からその記録の公表をさしとめられ、やむなくやり過ごしたところ、間もなく寺は廃絶となり、日記もなくなったという……。
岩倉には、天皇暗殺未遂の噂がそれ以前に流されたこともある。和宮降嫁問題について天皇が頑固に反対するので、その毒殺を企て、筆先をなめる癖を利用して筆の先に鴆(ちん)毒を塗ったというのだが、その噂が流れたため、尊攘派の浪士たちから脅迫状を送られたこともあるらしい。
岩倉具視とともに、反幕派の恨みを買ったのは異母妹の堀河紀子(もとこ)だ。紀子は孝明帝の寵をうけて二女をもうけている。岩倉と堀河紀子は文久2年に宮廷を追放され、慶応2年12月の段階では、洛北の岩倉村、洛西の大原野村にそれぞれ蟄居していたはずだ。
それが毒殺の下手人に擬せられるのは、和官降嫁の際に疑惑をかけられたことの持続というより、いろいろの状況証拠によるものだろう。もしそうだとすれば、岩倉は洛北の一角から何者かをして遠隔操縦し、一服盛ることに成功したことになる。
『朝彦親王日記』には、岩倉のいきのかかった女官が宮中に入りこんでいたと書いてあるが、そういう推測はやりだすときりがない。
岩倉具視は(謀略好きの)公卿のなかでも抜群の(謀略家であり)政治的能力の持ち主だった。狂信的な攘夷論者だった孝明天皇はやっかいな存在だったにちがいないが、毒殺することでそれが除去されると単純にうけとめていたであろうか。もしそうなら政治的能力としてはいささか欠けるところがある。
明治新帝の践祚は慶応3年1月、満14歳の若さだったが、その前後、新帝の枕許に孝明帝の亡霊があらわれるという噂も、また不慮死説の根拠とされた。】
※ 下線および(カッコ)内の記述は鹿島昇氏
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.60~68

 ディスインフォメーションにさえ気をつければ、インターネットはデータや情報の宝庫であり、そうしたデータや情報を参考にすることで尾崎秀樹氏の説がどの程度正しいかがある程度は推測できると筆者は思う。例えば、以下のサイトは長崎大学の熱帯医学研究所のものであり、天然痘について分かりやすく解説している。
誰でも出来る天然痘の診断  

 以上、孝明天皇が天然痘によって崩御したのか、あるいは天然痘にかかった後の回復期に毒殺あるいは刺殺されたのかについては、尾崎氏の「それまで順調に経過していた孝明天皇の病状が、たとえアレルギー性の体質だったとはいえ、1日で急変し死につながるというのはどうも納得ゆかない」という記述にもあるように、孝明天皇の崩御は天然痘によるものでないことはないと筆者は思っているが、そのあたりは読者の判断に委ねるとしたい。

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コメント

孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位すると孝明天皇時代の関白がそのまま横滑りで摂政となります。摂政となった二条斉敬は「佐幕派」です。関白が「天皇への助言者」である一方、摂政は「天皇の職務代行者」です。

ここで、王政復古の大号令においてなぜ「摂関の廃止」が行われたのかという問題になります。「摂関の廃止」という条文はとりもなおさず、佐幕派公卿であり天皇の職務代行者である二条斉敬の排除が目的です。

つまり、孝明天皇が崩御したことで倒幕派は宮廷内の政治的影響力を低下させてしまっているのです。「そもそも誰が得したか」という観点からも倒幕派が孝明天皇暗殺を行ったなど考え得るべくもないのです。

学術的な考察もないインターネット上のデマが拡散され、検索すればみんなが同じデマに言及しているため、それが“さも真実かのように見える”―孝明天皇暗殺説、明治天皇すり替え説(龍馬暗殺陰謀説、911陰謀説もその類)の流布から見えてくるそうした安易な受け取り方は非常に恐ろしいものだと思います。

投稿: そもそも誰が得したか | 2011年6月29日 (水) 午前 04時33分

投稿有り難う御座いました。

この明治天皇について書いた記事は、6年以上前のものであり、その後皇室関係者と直に接する境遇に恵まれたこともあり、小生の皇室観は大きく変貌を遂げています。

幸い、大室についての真偽のほどは、今週の『ニューリーダー』7月号に落合莞爾氏が非常に興味深い記事、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」を載せています。内容的には六年前の小生の明治天皇に関する記事を根本的に覆すものであり、小生も落合氏の記事内容に基本的に同意しております。同記事を読んだ上で、再度投稿戴ければ幸いです。

投稿: サムライ | 2011年6月27日 (月) 午後 08時54分

経過が順調であるという記述が嘘という指摘は、不自然さが残ります。天皇の妃、中山慶子が父に宛てた、病状が良くなってきている内容の経過報告の手紙の内容も、意図して書かれた嘘だったことを何らかの形で立証する必要が出てきます。病状を隠蔽するつもりなら、嘘手紙を書くのではなく手紙を出さない判断が働く可能性のほうがはるかに高いことを考えると、希望的内容の嘘情報が書かれているとする説の信ぴょう性は、かなり低いと考えるしかないようです。

投稿: 大室天皇の即位前の写真が意味するもの | 2011年6月27日 (月) 午前 02時11分

突然ぶしつけな投稿をお許し下さい。
それこそ、鹿島氏の文章のみに基づいた一方的な判断ではないでしょうか。
「それまで順調に経過していた孝明天皇の病状が、たとえアレルギー性の体質だったとはいえ、1日で急変し死につながるというのはどうも納得ゆかない」という見方は原口氏以前主流だったようですが、原口氏の論文では19日以降急に回復していることがそもそもおかしいのではないか。病の山場を迎えて、事実に反する希望的な内容を書かざるを得なかったのではないか、という指摘がなされています。経過が順調であるという記述が嘘であるため自然死が妥当であるとの見方です。
私個人としましては原口氏の肯定するとも言いきれず、どちらも決定打に欠けると考えていますが、原口氏の指摘には一定の説得力があると思います。

投稿: 一抹 | 2009年6月24日 (水) 午後 01時46分

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