« 『丸山真男 音楽の対話』 | トップページ | 明治天皇(1) »

2005年9月27日 (火)

大久保利通

以下は、国際契約のコンサルティング会社・IBDに寄稿した明治の元勲・大久保利通についての記事です。

1. はじめに

 幕末明治という歴史の大きな転換期を思う時、筆者の脳裏に浮かぶ人物の一人に横井小楠がいる。本シリーズの第二章・横井小楠でも述べたように、筆者は横井小楠の説く儒学的正義の実現を今日の日本に願うも、明治維新以降未だに横井小楠の理想は実現に至っていないという現実が目の前にあって、暗澹とした気持ちになる。『横井小楠』を著した松浦玲氏の言う、「小楠を失った明治政府からは、自分のところでまず正義を確立し、それを世界に及ぼすという理想の存在は、まったく感じとれない。世界の大勢にいかにうまく乗っていくかということばかりが前面に出ており、国内体制も、その目的に沿ってつくりかえられていく」という道を明治維新以降の日本は突き進んだのだった。しかし、世界の大勢に乗ることに成功するだけでも相当の難事業だったことが、幕末明治史を調べるほどに分かってくることも確かである。そこで、元勲の一人である大久保利通の素顔と実績を知ることにより、近代日本がどのようにして“西洋”を取り入れていったかについて改めて見直してみたいと思うに至った。

2.大久保利通の素顔

 俗に、倒幕という難事業を成し遂げた人物が西郷隆盛であるとすれば、近代日本の礎を築いた人物が大久保であったとされるように、維新後の日本の礎を築いた功労者を一人だけ挙げよと言われれば、筆者であれば躊躇なく大久保利通を挙げるであろう。それなのに、「西郷には人を包み込むような暖かさがあったが、大久保には人を突き放すような冷たさがあった」という評価で代表されるように、世間一般の大久保に対する評価は低い。なかでも、大久保を徹底的に悪く書いているのが作家の早乙女貢氏である。

かつて大久保利通が欧米から帰国したとき、西郷、江藤新平らの征韓論が決定しかけていた。大久保は桂小五郎の木戸孝允らと共同戦線をはって猛反対した。
そのために、西郷の運命が一転するのだが、このことだけで、大久保を平和論者とする者が多い。
とんでもないことだ。大久保が反対したのは、ただ留守中にでき上った権力機構の中に自分の席を見出せなかったからにすぎない。
事実、大久保が平和論者であったならば、翌七年の台湾出兵になぜ、賛成したのだろうか。朝鮮も台湾も、同じ立場だったはずだ。大久保がほしかったのは、大日本帝国を牛耳る権力だ。かつての盟友西郷は邪魔だった。西郷が政界にあるかぎり、自分がトップには立てない。
その憎しみから反論をぶったにすぎない。
もしも、本当に平和論者であり、権力志向ではなく、また人間的な血の通う人物だったら、下野した西郷とその私学校の連中が熱くなっているという噂を耳にしたとき、鹿児島にとんでいって、なぜ、なだめなかったか。
『明治維新の偉人たち その虚像と実像』(早乙女貢著 山手書房新社)

 大久保利通の名誉のためにも、ここは早乙女氏の記述に対して論駁しておこう。最初に、早乙女氏の大久保に対する第一の誤解は、大久保が大日本帝国を牛耳る権力を求めていたとする点であるが、これは余りにも大久保利通という人物を知らな過ぎる人の言う言葉ではないだろうか。現代日本のリーダーは無論のこと、同時代の他のリーダーと較べても、大久保利通は遙かに抜きん出たリーダーだったのである。そのあたりを分かりやすく説明するとすれば、現首相の小泉純一郎を例に取り上げるだけで事足りよう。例えば、小泉純一郎を現すキーワードの一つに「丸投げ」というのがある。「丸投げ」というのは、一つの難局を成し遂げるにあたって最良の方法を見出し、それが遂行可能という大凡の見通しを立てることが出来たら、後は全て部下に任せるという事であり、万一部下が失敗しても自分が全責任を負うという心構えでいることが本来の丸投げの原義であろう。小泉の場合そうではないのは一目瞭然で、あれは単なる責任放棄型の丸投げに過ぎない。現役の国会議員の某秘書を務める人が語るところによれば、「秘書の私が首相をやる代議士に向かって、こんなことを言うのは僭越かもしれませんが、小泉流のやり方は責任放棄の丸投げだから、突っ込まれて聞かれると質問の意味が分からないし、見通しが立たないから答えも見つからない。そこですり替えと断定で論点をはぐらかすだけになり、国会の議論がふざけた応酬になるのです」(『財界にっぽん』2005年2月号)とのことであり、いかに小泉の丸投げは無責任なものかが分かろうというものである。

 その点、大久保の場合も確かに「丸投げ」を多用したが、小泉の丸投げとは全く異なるものであったことは上述から大凡は推測出来ると思うが、要は大久保の場合は部下を全面的に信頼した上で遂行を任せ、万一の場合は大久保自身が全責任を負うという丸投げだったのであり、大久保の丸投げと小泉のそれとは決してイコールではない。さらに、部下には手に負えない難局については率先して自ら取り組んだのが大久保であった。岩倉遣外使節に同行した林董は、そうした大久保のことを以下のように評している。

維新直後に功臣は多く、無論大久保一人功績があった訳ではないが、しかしあの難局に当たって、一切の責任を自分で引き受けて、難きは自ら任じ、易きは人にさせるという、あの態度は外の人の真似のできぬところである。あの頃はほとんど難しいことだらけであったのに、公はその責めを一切自分一人で背負った。由来難局はこれを人になすりつけ、易きを自ら行うて独り功を修めるというのが政治家の通弊であって、随分偉い人でもこの弊には陥りやすいが、大久保は独りで難きを背負って立った。あの人は優に日本の大黒柱となり得る人だった。
『大久保利通』(佐々木克監修 講談社学術文庫)

 「あの頃はほとんど難しいことだらけであったのに、その責めを一切自分一人で背負った」大久保であったが故に、早乙女氏のように「大日本帝国を牛耳る権力を求めていた」と傍目には見えるのも無理もない。

 早乙女氏の大久保に対する第二の誤解は、大久保は西郷の征韓論に反対しながら台湾出兵に反対しなかったのだから、大久保も平和論者ではないとする点である。このあたりについては、大久保は平和論者であったのか否かを問題にする前に、日本という国家のために何を為すことが最善なのかという観点で、“政事家”としての大久保は常に考え行動していたことを知るべきである。前号の第五章・西郷隆盛で、「究極の目標を実現するためには自国民の犠牲も辞さないというところに、チャーチルさらにはイギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考を垣間見る思いをした読者が多かったのではないだろうか」と筆者が書いたように、日本の将来を大局的に見通しつつ、事を進めていくのが戦略家という名の“政事家”なのであり、時には戦争も選択肢の一つとして捉えるのが政事家なのである。なお、台湾出兵の件であるが、世間とは異なった見方がある。

こうして、1874年1月18日に台湾問題の閣議が開かれ、26日に大久保と大隈が担当者となった。大久保・大隈は2月6日に「台湾蕃地処分要略」を閣議に提出して決定される。それは、琉球人殺害報復のための出兵に限定したものであり、出兵前に台湾地理の調査を行い、清国から抗議があった場合は平和的交渉に徹する、というものである。清国との紛糾が予想される台湾植民地化を否定し、清国との軍事衝突の回避を主眼とする、事前工作も含む慎重な計画であった。
『政事家 大久保利通 近代日本の設計者』(勝田政治著 講談社)

 以上で大久保の台湾出兵に関する考えは朧気ながらもお分かりいただけたと思う。なお、上記方針の決定後、佐賀の乱鎮圧のため大久保が東京を留守にしていた間、大隈重信と西郷従道が上記方針を台湾植民地化論に変えてしまったという事実をここに付言しておく。

 早乙女氏の大久保に対する第三の誤解は、西郷隆盛と大久保利通の関係に関する点である。早乙女氏は、「かつての盟友西郷は邪魔だった。西郷が政界にあるかぎり、自分がトップには立てない」とか、「下野した西郷とその私学校の連中が熱くなっているという噂を耳にしたとき、鹿児島にとんでいって、なぜ、なだめなかったか」等と書いているが、他人には窺い知ることのできない西郷と大久保の関係があったことを知るべきである。『大久保利通』(佐々木克監修 講談社学術文庫)の中で高橋新吉が、「西南戦争が始まった頃、公は決して西郷の乱に加わっているのを信じられなかった。人が何と言っても、あの男はそんな男じゃないと言って聞かなかったが、いよいよ出たに違いないという確報も証拠も来たときに、初めて“そうであったか”と言って、ハラリと涙を流されたそうです。大久保公の涙は、この時が、子供の時を除けば、生涯にただ一度であったということです」と述べたくだりを紹介すれば、西郷と大久保の関係についての説明は充分かと思う。また、日本の大黒柱であった大久保が鹿児島に行こうとするのを他の閣僚が止めた事実も指摘しておこう。なお、高橋新吉(1843~1918)は薩摩藩士で幕末に長崎で英学を学び、アメリカに留学した。帰国後は長崎税関長等を歴任した後、日本勧業銀行総裁に就任している。

3.イギリスをモデル国家にした大久保利通

 幾度か本シリーズで述べたことだが、筆者は十代後半の頃に3年間ほど世界放浪の旅を体験しており、その時の体験は後の筆者の思考・行動様式の土台となった。大久保も明治4年(1871)に岩倉遣外使節の副使として横浜港を発ち、明治6年(1873)に帰国するまでの一年半ほど海外を体験したことで、人生の転機となったことは間違いない。尤も、大久保の場合は既に己れの思想を確立した42歳の時に日本を後にしたのであり、筆者の場合は自己形成途上であった十代後半の時に日本を後にしたという違いがある。そのあたりの考察については第二章・横井小楠で既に述べているので本号では割愛したい。なお、蛇足ながら上記の岩倉遣外使節に同行した留学生の一人に『三酔人経綸問答』を著した中江兆民がおり、大久保利通を高く評価しているのを目にしたので以下に引用しておこう。

 大久保は凡派の豪傑である。日本の法律・経済・道徳に今日の方針を与えたのが大久保である。大久保でなくとも日本の「欧化事業」は可能であったろうが、彼がいたためにこの事業は「堅固」に成就され、「障碍」にあわずに今日の如く成就されたのである。
 士族反乱とくに西南戦争に際し、大久保のような「剛毅」なる態度をとらなかったならば、「欧化事業」は大頓挫をきたし、文明の潮流は一時かき乱されたであろう。大久保の「屹然」たる態度は激流のなかでも動じない柱のようである。
『中江兆民全集』一三

 ところで、世間では大久保はドイツを手本に日本の近代化を図ったというのが一般的な見方である。『大久保利通』を著した毛利敏彦氏も以下のように述べている。

大久保は「みずからビスマルクたらんとし、プロシア王とビスマルクとの関係を、明治天皇と自分との関係における理想とした……日本の模範と考えたのは、アメリカやイギリス、フランスではなかった……ヨーロッパの後進国ドイツ、ロシアにつよい関心を寄せた……万国対峙のもと日本の独立を確保する唯一の道は、ドイツを手本に、強力な政府のもとで富国強兵、殖産興業をやりぬくことだと、かたく心に期したにちがいない」
『大久保利通』(毛利敏彦著 中央公論新社)

 これに対して、以下のように別の大久保利通像が提示されている。

 欧米視察中、イギリスの富強の源泉が工業力であることを発見するとともに、その落差にショックを受けて一時は引退までほのめかしていた。そして、ヨーロッパの後発国であるドイツとロシアに「標準」とすべきことが多くあるのではないか、と考えたこともあった。しかし、大久保は帰国後、真の開化の実現、国家の隆盛、国威の海外宣揚、こうした課題を達成するための政治形態として、ドイツではなくイギリスをモデルにする、「君民共治」という立憲君主制を構想するにいたったのである。
 国権の回復とともに理想の政治形態を実現するためにも、民力養成は大久保にとって不可欠かつ急務となった。大久保は、その課題を内務省という新しい官庁を設けて達成しようとする。
『政事家 大久保利通 近代日本の設計者』(勝田政治著 講談社)

 筆者は勝田氏同様に大久保が日本の将来像としてイギリスを目指していたと考える一人であるが、それは本号の冒頭で登場した横井小楠の儒教的正義と一部重なるところがある。思うに、イギリス滞在中の大久保は同国の工業力に圧倒されつつも、何故かくもイギリスがパクス・ブリタニカの中枢となり得ることが出来たのかと深く思索したことであろう。それは、イギリスの人々はイギリスを己れの“国”として捉え、愛国意識を持つと同時に国に対して良政を求めるという市民意識を確立していたからである。本シリーズの第二章・ 横井小楠でも筆者は松浦玲氏の著書を以下のような形で紹介し、日本の近代化への第一歩としての良政の重要性を提示した。

 朱子学の目標を一口で言えば、為政者が聖人となって理想政治を行なうことである。学問をするのは聖人になるためで、聖人は到達可能である。そうして、為政者が朱子学的な意味で聖人となれば、それで完全無欠の政治が保証される。為政者は聖人でなければならず、そのことはとりわけトップの座にいるものつまり天子に対して最も強く要求される。これを日本の幕藩体制に移せば、将軍および各藩藩主が聖人でなければならない。肥後実学党とりわけ小楠は、それを要求した。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』(松浦玲著 朝日選書)

 また、やはり第二章・横井小楠で筆者は「実は、松浦氏がいう世襲武士支配体制は明治になっても根本的に改められておらず、寧ろ徳川政府の編み出した鵺的正学をそのまま引き継いだのが明治政府なのであり、それが今日に至っても日本および日本政府に影を落としているといえよう」と書いたが、今日に至っても日本においては市民意識が確立されていないと再認識せざるを得ず、今後の日本の課題である。

4.意志の人・大久保利通

  大久保利通その人を最も的確に評価しているのは、大久保の事実上の後継者であった大隈重信の以下の言葉である。

彼(大久保)は内治外交の困難を一人で引き受けて、よく維新の大猷(おおきなはかりごと)を定めて、功臣となったのである……彼は意思の人であって、感情の人ではなかった。その冷やかなることは、鉄の如くであって、亳も温味のない人のように見えた……熟考し再考し三考するという風で、沈黙熟考の結果、善いと確信したならば、彼は猛然進んで亳も余力を残さないというやり方であったから、彼の進行の前路に立ち塞がり得る者は、殆ど無かった……当時もし彼の如き人材なかりせば、かくの如く紛糾錯雑したる内治外交の整理も、或いはむずかしかったかも知れない。
『甲東逸話』(勝田孫弥著 マツノ書店)

 最後に、大久保は冷徹な政治家であるという批評に対して、それは日本の近代化を推し進めるのだという大久保の不退転の決意から生じた冷徹さであるということを付言しておこう

|

« 『丸山真男 音楽の対話』 | トップページ | 明治天皇(1) »

コメント

はじめまして。カミタクこと神山卓也と申します。
鹿児島の魅力を紹介する拙HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「大久保利通銅像訪問記
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKAN81.HTM
から貴記事にリンクを張りましたので、その旨報告申し上げます。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

投稿: カミタク(リンク先は「大久保利通銅像訪問記」) | 2008年7月13日 (日) 午後 02時23分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大久保利通:

« 『丸山真男 音楽の対話』 | トップページ | 明治天皇(1) »