明治天皇(2)
4.暗殺の根拠 次に、孝明天皇が毒殺されたにせよ刺殺されたにせよ、何故孝明天皇は暗殺されたのかについての背景を追求しておこう。中村氏は「岩倉具視が孝明を殺すと利益があったというのは幻想にすぎないことなどが論じられています」と孝明天皇暗殺説を否定する原口氏の意見を引用しているだけであり、それだけでは具体的に「利益」とは何を指すのか不明である。さらに「岩倉具視が孝明を殺す利益」がなかったと簡単に言い切れるのものではないと思う。幸い、本稿の最後に挙げた前述の竹内氏が作成した即位前(睦仁親王時代) および即位後(明治天皇時代)の比較表に簡素に暗殺の根拠について述べているので以下に掲載しておこう。内容的には孝明天皇の息子である睦仁親王の思考を述べた形になっており、それは同時に父親の孝明天皇の思考でもあった。
以上の暗殺の背景についての真偽のほどは読者の判断に任せるとして、筆者自身の意見を述べるとすれば、孝明天皇が毒殺されたのか刺殺されたのかはさておき、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』に書かれている上述の孝明天皇暗殺説は概ね肯定できると思う。ただ、孝明天皇を暗殺しても、その子である睦仁親王が父親と思想を同じくするのであっては、幕府の後釜を狙った薩長の思うとおりにはならないはずである。その場合、仮に睦仁親王も父親同様に暗殺し、薩長の思想に合致する思想の持ち主を天皇にすり替えたとしたらどうだろうか。そうすれば確実に薩長の思い通りに政を行うことができるではないか。実は、孝明天皇の息子である睦仁親王も暗殺し、大室寅之祐という南朝系の末裔を替え玉として明治天皇の位置に付けたという驚愕すべき記述が『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』に述べられているのである。そのあたりについては、次の「5.明治天皇は替え玉?」で見ていこう。 なお、尾崎氏の「岩倉具視は(謀略好きの)公卿のなかでも抜群の(謀略家であり)政治的能力の持ち主だった。狂信的な攘夷論者だった孝明天皇はやっかいな存在だったにちがいないが、毒殺することでそれが除去されると単純にうけとめていたであろうか。もしそうなら政治的能力としてはいささか欠けるところがある」というくだりだが、尾崎氏は睦仁親王も暗殺された点に思い至らなかったため、そうした結論になったのだろう。したがって、睦仁親王暗殺が事実とすれば、岩倉具視は己れの思い通りになる天皇を替え玉にしたことになり、「(岩倉具視の)政治的能力としてはいささか欠けるところがある」どころの話ではなく、岩倉具視は大した陰謀者であったと云えよう。 5.明治天皇は替え玉? 前述の竹内氏が『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』をベースに即位前(睦仁親王時代) および即位後(明治天皇時代)の比較表を作成しているので以下に転載する。
筆者も鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を下敷きにした竹内氏の上表を見て、もし鹿島氏の著書に間違いが無いとすれば、即位前と即位後とも同一人物であると思えないという鹿島氏および竹内氏同様の意見に同意するものである。 加えて、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』ではさらに以下のように明治天皇は大室寅之祐であるとする根拠を挙げているので参考までに転載しておこう。
次に、松重氏の小冊『真事実の明治維新史』に掲載されている「“玉”とフルベッキ博士を囲む志士達の記念写真」と題したページを以下に転載しておいたので、とくと眺めていただきたい。 上記ページを含む24ページ程度をワープロ書きしたものをコピーし、それをレポートカバーに挟んだだけの松重正氏署名入りの『真事実の明治維新史』は、6千円程度でオンラインにて販売さている。しかし、筆者は素直に松重氏の明治天皇=大室寅之祐説に肯けないのである。それは松重氏のフルベッキ写真についての解説のためであり、見ればお分かりように松重氏のフルベッキ写真には「玉」として明治天皇が写っているとなっている。しかし、一年近く本シリーズ『近代日本とフルベッキ』を筆者は連載してきたが、フルベッキ写真は慶応元年ではなく明治元年に撮影されたものであり、フルベッキ写真に写っているフルベッキ親子、大隈重信、岩倉具定・具経兄弟(大村益次郎も本物であるとする意見を信頼おける識者から聞いている)は本物であるが、他の西郷隆盛、大久保利通、横井小楠、坂本龍馬、勝海舟などはすべて贋物と断定して差し支えないと筆者は書いてきた。従って、上記ページの松重氏の記述には苦笑を禁じ得ないのである。
フルベッキ写真と云えば、昨年の暮れに五大紙がフルベッキ写真の広告を出していたが、これはフルベッキ写真に対する関心の高まりを示したものと言えそうだ。ただ、以下の広告のコピーからもお分かりのように広告主は東京書芸館という会社だが、写真は本物であるとは云え、写真に勝海舟や坂本龍馬が写っているとして10万円以上もの値を付けて販売しているのは人をバカにした話であり、そのような広告を載せる新聞社も新聞社である。このように、モノの真贋を見分ける眼力すら最早失ってしまった大手マスコミの凋落ぶりは目を覆うばかりではないか。 最後に、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』の筆者・鹿島昇氏であるが、読者の中で運良く『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を入手したとしても、そのまま同書を鵜呑みにしない方が良い。何故なら、鹿島氏の独断と偏見が同書の中で多く見出せるからである。一例として以下の鹿島氏の記述を挙げておこう。
筆者が本シリーズの「第六章 大久保利通」で描いた利通像とは全く正反対であることがお分かりいただけよう。どちらが大久保利通像をより正確に描いているかは読者の判断に委ねるにせよ、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』および姉妹書である『明治維新の生贄 誰が孝明天皇を殺したか』(新国民社)に展開されている鹿島昇氏の記述には、首を傾げたくなるような個所が多々あったと報告しておこう。 | |||||||||||||||||||||||
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コメント
久邇宮朝彦さんのひ孫の紹介で 久邇伊勢神宮大宮司の時 皇太子もお忍びで訪れる神職に 明治天皇裏面史聞く様すすめられ聞くに 詳しくは ヤフーブログから 歴史 明治天皇 替え玉入れ検索し 2面の誰かのブログの昨日ーに 伊勢の仙で書き込みました 参考まで 仙
投稿: 伊勢の仙 | 2009年2月 4日 (水) 午前 12時14分
伊勢の久邇宮の末 京都の先代東伏見や筑波さんに聞くに また天皇家の歌の先生や伊勢の神宮家に聞くに ウチの伊勢神宮護良社家から 明治天皇がでているらしい 幕末の勧修寺伊勢慶光院の甥が岩倉で 明治天皇に伝わるウチの南朝神宝は今も内宮にありますよ 明治天皇は志摩は赤味噌で食べ 京の白味噌や九州や山口の麦みそは食べれないようです 仙
投稿: 伊勢の仙 | 2009年2月 3日 (火) 午後 11時40分
明治天皇(地家寅吉のちの大室寅之祐)のおいたちについて
(1868年1月15日以前の触れてはならない明治天皇の伝説時代)
◆山口県田布施町麻郷の大室さん
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)
についてお話します。
そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、
田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ
かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、
しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から
なかったが本質は、
A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から
麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか?
B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。
その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の大室家)は1800年頃から始まり、
文政時代に初代大室家当主が死去(系図には大室家初代某の父は麻郷某と
いうかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目大室文右衛門が家督を
継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、
大室家の家系図が整備された。文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。
子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の
息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1879年)が文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日)
と結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を
継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し
2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)
(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵(廻船業)が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。
地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭顥(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に
京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明~1887年4月24日)
と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)
と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは
長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に
戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。
この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。
(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。
1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)
>>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。
長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。
大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)
長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。
(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)1855年1月?頃
(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。
スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。
1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、
スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)
(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。
文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。
大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった)
そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。
1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は
三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常に
かわいがって日々をすごしたという。(1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。
1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。
1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに
行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。
この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を
麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し
松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)
この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。
麻郷村の人間が手分けして探した。
(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを
受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、
遂に行方を白状しなかったという。)
そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)は
このころ大室寅助と改名し一時、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため
俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は
田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が
上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、
麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが
岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、
二本松の島津屋敷に入った。
しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し
亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。
西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、
田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。
それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と
書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ)
1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し
兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの
五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。)
11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の
巨船にのって西宮に上陸。(1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、
山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に
分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した。
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。
大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の
進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて
「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)
(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。
このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという
のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。
1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が
京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の
某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。
旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。
この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。)
慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。
15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。
投稿: G氏=地家ヤスマサ(寅之祐の弟朝平の玄孫) | 2005年10月 5日 (水) 午後 05時44分