古代史研究のすすめ
昨日、偶然にも空海を取り上げましたが、松岡正鋼氏の著した『空海の夢』の表紙を眺めながら、いつしか古代に思いを馳せていた自分がいました。それで2年前に古代をテーマにIBDに投稿したのを思い出したので、本ブログに再掲することにより、訪問者の皆さんにも古代に思いを馳せてもらえればと願う次第です。
2001年12月23日、68歳の誕生日を迎えた明仁天皇が特別記者会見を開き、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であることが、続日本紀に記録されていることについて語り、日本の皇室と百済との血縁関係について、初めて公的に認めたことは記憶に新しい。その中で、中央日報をはじめとする韓国のマスコミが、天皇の発言を大きく取り上げたのに対し、日本のマスコミの取り扱いが極端に小さかったのが対照的であった。それにしても、天皇家の遠祖が朝鮮人であることを天皇自ら認めた発言の持つ意味は大きく、歴史のベールの一枚が剥がれたと思った読者も多かったのではないだろうか。 天皇家と歴史との関連で思い出したことは、日本人のルーツを古代シュメールに求める研究が、戦前の日本において盛んに行われていたと物の本に書かれていたことだ。シュメールと日本が結びつけられたのも、バビロンのイシュタル門に皇室の正紋である十六菊花紋と瓜二つの模様が刻まれていること、天皇を意味するスメラミコトがスメラ(シュメール)尊(ミコト)と解釈できるといった類似点によるものだろう。しかし、優秀なシュメール族の末裔である日本民族は、世界を支配する資格を持つといったプロパガンダとして、戦前のシュメール研究が日本の軍部に利用されたという一面も見逃すわけにはいかない。そうした戦前の反省もあり、戦後はスメラというラテン語読みを止め、シュメールという英語読みに切り替えたのである。以上のような経緯があるにせよ、シュメールがさまざまな形で日本に影響を及ぼしてきた可能性は高い。 そのシュメールを指して、「歴史はシュメールに始まる」と語ったのは歴史家のS・N・クレーマーであった。紀元前3500年頃のメソポタミア南部に、ウルク期の都市国家を建てたシュメール人が、楔形文字・法典などを作ったことはよく知られている。さらに、シュメール人は高度な数学を操り、天文・灌漑・精錬・造船などの技術を身につけていたという。また、シュメール人の遺したギルガメシュ叙事詩は有名であるが、そのギルガメシュ叙事詩によれば二院制議会が存在していたとある。法に基づく裁判も行なわれたようであり、それは出土した法律文書や数々の判例を記した粘土板からも明らかである。学校と思える遺跡も発掘されており、そこからは教科書や生徒が宿題を筆記した粘土板ノートも多数発見されている。このように、古代文明といえば新石器時代に少々毛が生えた程度のものといった、従来のイメージから大分かけ離れているのがシュメールなのである。それにしても何故、荒涼としたメソポタミア南部という地をシュメール人は選んだのか、そもそもシュメール人とは何者であり、何処から来たのかといった点は今もって不明とされている。 その後、さしもの高度な文化を誇っていたシュメールもついにその終焉を迎えるときが来た。時は紀元前2004年、山岳騎馬部族のエラム人やセム系のアモリ人との戦いに敗れ、ついにシュメール最後の王・イビシンがエラム人の捕虜になって連れ去られたことにより、ウル第三王朝は滅亡した。イビシン王同様に捕らえられた多くの文官・農民・職人といったシュメールの人々は、そのままメソポタミアの地に残って新国王の元で生活を続けたのだろう。そのように考える根拠は、シュメールの地がエラム人やアモリ人などに支配された後も、行政・農業・工業などにシュメール方式が引き継がれているからだ。しかし、シュメール人全員がメソポタミアの地に残ったわけではない。ここで、シュメール人が航海術に長けていた海人であったことを思い出す必要があろうし、新国王の支配下に入るのを逃れたシュメール人の中には、船を使ってメソポタミアの地を後にした者もいたことであろう。彼らの最初の逃亡先がインドであり、シュメール人がインダス文明の担い手になった。その後、インドを始点に長い歳月をかけて広い太平洋各地に散らばっていったシュメール人は、それぞれの土地の先住民族と融合していったのである。その一部が日本にも流れ着き、日本の建国に大なり小なりの影響をもたらしたのではないだろうか。 ここで、黄河文明が誕生したころの古代中国に目を転じてみよう。結論から先に言えば、古代中国もオリエント文明と深い関わりを持っていたのである。民間の歴史研究家である鹿島昇氏は、自著『秦始皇帝とユダヤ人』(新国民社)の冒頭で以下のように述べている。
殷人を例に挙げるとすれば、鹿島氏は様々な角度から検証を重ねた上で、「殷人は初期がヒクソスで、終期がカルデア人を中心とするアラビア海の海人である」という結論を出している。 鹿島氏同様に、岩田明氏という民間の歴史研究家が『十六菊花紋の謎 日本民族の源流を探る』(潮文社)という本を著しており、岩田氏の場合は殷について以下のように述べている。
鹿島氏と岩田氏の古代中国史の捉え方にズレがあるものの、オリエント文明からの影響を大きく受けたのが古代中国であると主張している点で一致している。蛇足ながら、世の中に出回っている古代中国・朝鮮・日本の通史は基本的に間違いであると、鹿島氏は一連の自著の中で述べていので、その例を古代中国に絞って以下に示そう。
以上の例からだけでも、鹿島氏はかなりユニークな史観の持ち主であることがお分かりいただけると思う。その鹿島昇氏は多数の本を執筆しており、筆者も鹿島氏の本を10冊近く入手している。鹿島氏の本はどれも世の中の“常識”と大きくかけ離れているため、にわかには信じがたいという読者が多いはずである。また、必ずしも具体的な証拠を挙げている訳ではなく、かなりの部分において推測を頼りに結論を導き出すのが鹿島氏のやり方である。だからこそ鹿島氏の著書はユニークで面白いのだが、同時に批判的に読み進めることを忘れないようにしたいものだ。無論、中学・高校の歴史教科書に書かれている内容を鵜呑みにすることも良くなく、あくまでも己れの頭で考えに考え抜いた史観を構築することが大切であると思うし、それこそがインテリジェンスを身につける第一歩となるのである。 始皇帝の焚書坑儒の例に見るように、権力者によって握り潰されたり改竄されたりしてきたのが歴史という記録であり、そうした歴史の“嘘”を見抜く眼こそインテリジェンス能力に他ならず、ここにインテリジェンス能力を身につけるすすめを説く所以である。本シリーズで幾度か繰り返していることだが、インテリジェンスは来る情報化社会において不可欠なものである。その日に備えて今からインテリジェンス能力を磨く意味でも、折にふれて歴史の森を散策したいものである。 | ||||
写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
秋の到来を告げるツルボ
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コメント
島根県の安来は古事記では根之堅洲国というところでスサノオの活躍地ですね。正確には十神島根之堅洲国となりますが長いので古事記では省略されています。この省略された、十神島というのは出雲国風土記では砥神島という陸繋島であったであろう現在の安来市の十神山です。この島は安来市のシンボルと見いわれ、きれいな円錐形をした小山ですが、古代の人たちにの崇敬した島だったらしいです。この十神というのはイザナギ・イザナミ以前の神々を指し、両神を含めその後の神代の時代と分けて神世と表現されます。この神世七代の十柱の神々が宿る神聖な島だったのだと言われています。ここは、中海という湾岸にあり、例えば淡島と古事記に見える島と認識しうる粟島が対岸の鳥取県米子市にもあり、ここがオノゴロ(淤能碁呂)島と考えると、近くに国生みの神、イザナミの神陵地もあることから合理的なのではと思われます。
投稿: 語部 | 2013年2月10日 (日) 午前 03時13分