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2005年9月16日 (金)

『高島易断を創った男』

b050916 数日前に『陰陽道』(長原芳郎著 雄鶏社)について紹介しましたが、数ヶ月前に伊藤博文について調べていた折り、『高島易断を創った男』について掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】に投稿したのを思い出しました。投稿したのはスレッド「★近代日本とフルベッキ」であり、新島茂という人に『高島易断を創った男』を紹介してもらっています。私は直ちに同書を取り寄せ、スレッド「★近代日本とフルベッキ」に以下のような感想をアップしたのでした。

オンラインで発注した『高島易断を創った男』が本日宅急便で届きましたので、新島さんに教わった同書の最終章である第六章「国家の運命を占う」に早速目を通してみたところ、同書(p.181)の以下の記述目が止まりました。

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伊藤(博文)と会ってしばらく話した後、(高島)嘉右衛門は今度の満州行きを何とか中止できないかと持ちかけた。勘のいい伊藤はすぐに自分の満州行きに関して嘉右衛門の立てた易の結果が好ましいものではなかったことを察した。死を覚悟して旅立とうとしている伊藤は自分に易の結果を告げるように嘉右衛門を促した。
…中略…
今日に至るも伊藤の真の暗殺者が誰であったかは謎に包まれてたままであるが、嘉右衛門の易は見事に的中し。
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伊藤を暗殺した黒幕について、多少は推測が書いてあるかと思いましたが、結局同書には暗殺の背景については何も書いてはなかったものの、改めて易の神秘性を再認識した次第です。また、伊藤暗殺の占いに関するテーマ以外で、同書の中でも思わず息を呑んだのは、p.175の以下の下りでした。

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三十八年五月、バルチック艦隊がフランス領安南に停泊しているとき、嘉右衛門はウラジオストックに向かうバルチック艦隊の航路に日本海軍のこれに対する勝敗の機を占い、水沢節の初爻を得た。この卦を得た嘉右衛門は、日本海軍は本拠を動かず敵の艦隊の航路を知ることが出来ると解している。
…中略…
明治三十八年五月二十七日午後一時三十九分、日本海軍の連合艦隊は沖ノ島付近でバルチック艦隊を発見、東郷平八郎司令長官の考案した「丁字戦法」が功を奏して日本海軍が圧勝、バルチック艦隊は壊滅した。
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今まで、日本海軍がバルチック艦隊の航路をズバリ予測し、それを破ることが出来たのは、偏に東郷平八郎あるいは平八郎の側近(知謀)の優れた〝インテリジェンス〟とばかり思っていただけに、それが易であったとはあまりにも意外でした。同時に、ちょうど一年前に「人間の知識などは九牛の一毛」と語っておられた藤原博士、そして故今泉久雄さんが著した『易経の謎』(光文社)を思い出したことでした。今の私の気持ちは、同書のあとがきに書いてあった以下の記述で言い表せると思います。

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今日の日本を代表する数学者の一人、丹羽敏雄氏は、「世界は数値と物質だけで説明することは不可能で、宇宙の眼に見えない『霊』的な側面を認めなければならない」ということをはっきり断言されている。(『数学は世界を解明できるか』)
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易経を迷信と見るか真理と見るかで、その人の人間性なり器の大きさが窺い知れるというものです。

上記の私の投稿に対して、新島茂氏から以下のような返答が届いています。

36 名前: 新島茂 投稿日: 2005/04/16(土) 13:25:18
昭和32年に出ている紀藤元之助著「易聖高島嘉右衛門」という本にはこんな風に書かれています。長い引用文になって恐縮ですが、今この本は入手しにくいので、ご参考までに。紀藤さんは故人ですが、「実占研究」という雑誌を40年間大阪で発行していた易占家の方で、この本のもとになったのは易学研究という研究誌に昭和20年代より連載されていたのが纏められたものです。


…博文は春畝と号し書を良くし、嘉右衛門には易、繋辞伝の辞を特に書いてくれたりした。…いくたびか出た「高島易断」のうち伊藤は諸所に顔を出すが、その身上の占をしたことはあまり書かれていない。
伊藤が満州視察に赴いた頃の嘉右衛門は既に脚が悪く、その出発も挨拶に来た伊藤を寝床の上で見送ったくらいだし、三十九年以後は「高島易断」も増補や改訂を行っていないから、凶刃にたおれる伊藤の安否を占したことは掲載されていない。
「ぢゃァ行ってくる」そう云って立った博文に「気をつけてお出なせえ、易は艮為山の九三でしたよ」と嘉右衛門は云った。前に見ておいたのだが、あまり良い卦ではないので黙っているつもりだったが、やっぱり気に掛るので得卦の名だけ告げた。「ありがとう。其の背に艮まりて其の身を獲ず、其の庭に行きて其の人を見ずか」伊藤はこの運命的な彖辞を軽く口誦んで、嘉右衛門の病床を去った。卦というものは嘉右衛門のいう通り神の語学だ。繋辞伝に、「其の命を受くるや響の如く、遠近幽深有ること无く、遂に来物を知る」とある。嘉右衛門は自身の判断を告げなかったが、伊藤も遂にきかずに出かけた。
伊藤がいざ出発という夜急に停電した。ローソクよランプよと騒いだら、一番先に灯を点して来たのは岐阜提灯だった。凶事のあと「あれが予兆だったらしい」などと側近の間で語り合われたが、伊藤は出発の二、三週間前に嘉右衛門から得卦をきいてい、その夜は池上本門寺のお会式で熱狂的な法華太鼓が響いてくるのをきき、「法華の太鼓に送られて出かけるか」と呟いたという。彼は或いは死を予感していたのかもしれない。
「高島易断」の中の艮の九三は、「止塞開き難し。自ら事を設け意の如くならず、心痛の余り背筋凝結して卒倒するの象あり、門前にて怪我する象あり、屈伸を得ずして上下隔絶し、心安からざるの甚だしき意あり。此の爻変じて剥となる、将に落ちんとするの象、助けなきなり。党類の首長、其心堅固にして手段を尽くし、半途にして腰折るる象あり。」とある。
嘉右衛門及び博文が、この卦を見て果たしてこのままの占断をしたかどうかは不明だが、兇漢の名が安重根と云い、(根は艮と同音、同義即ち重根は艮為山である)
凶器を振るって刺殺したのだから、卦辞・爻辞そのままの状況だっと云える。

未だに伊藤暗殺事件には謎が多いのですが、それについて同じくIBDのウェブ機関誌『世界の海援隊』に伊藤暗殺について寄稿していますので、近日中に再掲したいと思います。

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