« ダウジングのすすめ | トップページ | 秋の有間ダム »

2005年9月23日 (金)

中島敦

nakajima 日本文学に関心のある者なら、中島敦の作品を幾つか目にしているとことでしょう。過日紹介した『志に生きる!』(江口敏著 清流出版)でも、「軍国日本に彗星のごとく現れた早世の作家」と題して、以下のように中島敦が紹介されているのが印象に残ります。

中島敦

 中島敦の『弟子』『李陵』といった作品は、その質の高さからいって、普通なら作家が二、三十年の歳月をかけて辿り着く水準の作品です。しかもそれを彼は短期間のうちに、ほとんど一気呵成に書き上げている。これらの作品に描かれている清澄高雅な人間観や世界観、そして格調高く美しい文章を、呻吟しながら書いたのではなく、渾々と湧き出るように書いたところに、彼の天才作家としての真骨頂があるように思います。彼の作品の大きな特徴の一つは、中国の歴史に題材をとっていることですが、それは、彼が漢学者の家に生まれたというだけではありません。中国の歴史には、最近の天安門事件にも見られるように、実存的人間の極限状態がしばしば現れています。したがって、中島にとって中国の歴史は、人間・社会・自然のシビアーな緊張関係を描く上で、一つの宝庫だったに違いない。中国の歴史に題材をとることによって、現代の人間が直面する問題をより明確鮮明に描き出せたのだと思います。また、中島敦には〝引用の思想〟とでも言うべき考え方があります。近代文学は作家主体の〝我〟という問題に悩んできましたが、彼は〝我〟を捨てて、古典の中に描くべき世界をみつけた。『李陵』の中に『述而不作』(述べて作らず)という言葉がありますが、まさに彼の到達した作家としての姿勢がそうでした。これは、夏目漱石の〝則天去私〟にも通じる態度だと思います…

『志に生きる!』p326

b050923 私は二十代の頃は坂口安吾、檀一雄、今東光、柴田錬三郎などの無頼派の作家の作品を好んで読んでいた一時期がありました。今東光の本か柴田錬三郎の本か忘れましたが、漢文が得意なシバレン(柴田錬三郎)が中島敦にだけは漢文では敵わなかったと正直に告白しているのを読み、あれだけ漢文の素養のあるシバレンにして敵わないと言わしめた中島敦という人物を改めて見直したことでした。その中島敦の『弟子』『李陵』には25年前に接しているはずですが、その後再読した記憶はありません。数ヶ月前に時間があったので仕事部屋の本棚を整理していた時、中島敦の一連の作品を目にした記憶があったので、今でも仕事部屋の何処かに眠っているはずだと思って、時間の取れた一昨日、仕事部屋の大掃除をやりながら探してみたところ、角川文庫版の『李陵・弟子・名人伝』がありました。昔を思い出すようであり、近いうちに再読してみたいと思います。

ともあれ、中島敦の影響もあり、二十代の頃の私は中国古典を原典で読んでみたいと思い、中国語に挑戦したのですが、残念ながら結局中国語をモノにすることは出来ませんでした。しかし、その当時のカセットテープやテキストを今でも手許に残していますので、子どもたちが関心を持つようになれば譲ろうと思っています。また、私は【中国古典】というホームページを作成しています。ただ、7年も前に作り始めたホームページであるのにも拘わらず、未だに完成していないホームページでお恥ずかし限りです。

『志に生きる!』の中島敦編「軍国日本に彗星のごとく現れた早世の作家」を読んだ私は、手許にある『管子』、『十八史略』、『唐詩選』など、久しぶりに沢山の中国古典を紐解いてみたいという思いに駆られたことを此処に告白しておきます。

|

« ダウジングのすすめ | トップページ | 秋の有間ダム »

コメント

藹々亭さん


かつてはメルマガで大変お世話になりました。あれから10年近くの歳月が流れているとは信じられない思いです。


>藤原博士が『間脳幻想』であった
>か、日本語は饅頭のような言語で
>意味が伝わりくい一方、漢文は
>骨格がしっかりしていて伝わり
>やすい、といったことをコメントし
>ていたことを思い出しました(私の
>誤読でなければですが)。

確か、『宇宙巡礼』の中国語版が出来た時の感想だったと記憶しています。日本語を饅頭、中国語を骨格とは面白い比喩だと思いました。日本は狭い国だからなるべく摩擦を少なくする意味で「饅頭」ならぬ「曖昧」な言葉になったのだという俗説もありますが、そうした俗説はカタカムナの存在を見落としていますね。

また、年末にでも麹町でお会いしましょう。


サムライ拝

投稿: サムライ | 2005年10月 3日 (月) 午前 04時49分

こんにちは。サムライさん。
ご無沙汰しております。私の
名前はハンドルネームを分解
していただくとお判りになるか
と存じます(笑)

中島敦の作品は私も中学生
位のころ、父から薦められ
ひもといたとことがあります。
以来、気が向くと再読する
感じです。短編でありますが、
やはり中島敦の自己投影
とも言われる『山月記』が好きです。

作品を評論するほどの器量は
ないので、話は変わりますが
最近、ブームの「早聴」(数倍の
スピードで作品の朗読等を聴く)
で幾つかの作品のさわりを聞いて
いたところ、文語調の山月記が
より頭にストレートに伝わってきた
のに驚きました。

藤原博士が『間脳幻想』であった
か、日本語は饅頭のような言語で
意味が伝わりくい一方、漢文は
骨格がしっかりしていて伝わり
やすい、といったことをコメントし
ていたことを思い出しました(私の
誤読でなければですが)。

一般に合理性が求められるビジネス
においてもこうした日本語の特性
を理解しておくことは重要だなと
日頃仕事に追われるサラリーマンと
して思った次第です(笑)。

投稿: 藹々亭 | 2005年10月 2日 (日) 午後 02時00分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/114689/6072909

この記事へのトラックバック一覧です: 中島敦:

« ダウジングのすすめ | トップページ | 秋の有間ダム »