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2005年9月

2005年9月30日 (金)

本ブログの今後について

m022 6月12日にブログをスタートしてから、早いもので今日で3ヶ月半が経ちました。その間の体験により、ブログとはどういうものか良く分かりましたので、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】を将来“改装”してブログ化する際に、今回の体験を十分に生かしたいと考えてます。なお、『教育の原点を考える』の電子化も、電子化プロジェクトメンバーの一人、相良さんが最終章のチェックを行っている最中であり、まもなくアップできると思いますので暫くお待ち願います。ともあれ、以前から再三お伝えしてきましたように、3ヵ月半にわたって教育を主テーマに毎日書き続けてきた本ブログの更新は、明日の10月1日以降からは不定期となるものの、今すぐに閉鎖するというわけではなく、当面は不定期更新を続けながら残しておきたいと思いますが、将来においてブログ版「藤原肇宇宙巡礼」が開設された場合、本ブログの閉鎖を視野に入れています。

3ヶ月半にわたってブログを毎日書き続けることが可能だったは、過去において書き連ねてきた私自身の原稿、地質学者の藤原肇氏をはじめとする大勢の先達の原稿の一部を編集し、それに一言二言個人のコメントを付け加えた形ものを数多く投稿してきたことにより、毎日の更新が可能だったと云えると思います。しかし、そうした過去の“原稿”、特に私自身の“原稿”がそろそろ無くなりかけたのが、更新が不定期になる大きな理由の一つです。また、8月の下旬に久しぶりの映画の台本の翻訳が入り、ブログに向かう時間がほとんど取れないという時期がありましたが、その時は苦し紛れに過去の“原稿”を引っ張り出してきて、10回シリーズにわたる「フルベッキ写真」を流したのですが、今から振り返るに怪我の功名だったと思います。何故なら、フルベッキ写真シリーズを通じ、高橋さんをはじめとする多くの人たちと知り合うことができたからです。

ともあれ、この3ヵ月半で過去の原稿を中心に大分“放電”(ブログへの投稿)してきましたので、ここ暫くは仕事と教育を中心に、残りの時間を“充電”(読書、セミナー参加等)にあてていく予定です。それでも気が向けばブログに書くことがあろうかと思いますので、忘れかけたころにご訪問ください。その意味で、ブログ【教育の原点を考える】を今後も宜しくお願い申し上げます。ご参考までに、本ブログの各カタログについては、今後は以下のように取り扱う予定です。

【教育】…既に 「暗黒日記」にて定義した教育について、今後も書き続けていきたいと思います。何となれば、教育こそ国の根幹だからです。
【エネルギー】…毎月、某組織のエネルギー関連の記事の翻訳を担当していることもあり、20世紀を動かしてきた石油文明から、21世紀を動かしていくであろう情報文明にスムーズに移行するための道標になればと願いつつ、筆を進めていく所存です。
【フルベッキ】…その後、高橋先生が精力的にフルベッキ写真についての調査を根気よく続けておられ、その後も時折戴く報告メールに書かれた新しい発見に目を見張ることがしばしばです。高橋さんに頼んで、フルベッキ写真について調査のまとめをお願いしている最中です。
【書籍・雑誌】…過日、某官庁に勤める弟と本のことで話し合った際、「忙しいので月に一冊がせいぜい」と言っていました。私の場合はフリーランスであることからまとまった時間も取れることもあり、同年代と較べて割と書籍を良く読む方だと思いますので、今後もこれはと思う書籍を順次皆様に紹介していくつもりです。
【経済・政治・国際 】…今後もブログに書いても支障の出ない範囲で書き続けます。過日の9・11選挙の正体のように、タイムリーな話題を取り上げていくかと思えば、大久保利通などのように過去の政治家や財界人を取り上げることもあります。
【翻訳】一人の翻訳者として、翻訳の仕事そのもの以外に、翻訳ビジネスあるいは翻訳の将来についても関心がありますので、今後も時々翻訳についての情報を流していくつもりです。

最後に、今後は不定期になるのにもかかわらず、上記のカテゴリー以外に新たなカテゴリー【フリーメーソン】を設けることにしました。本ブログでも時折フリーメーソンについて書き連ねてきましたが、このテーマは非常に重要なテーマであるだけでなく、現在の私たちの生活は無論のこと、21世紀を生きる人たちの行動・思考様式に大なり小なりの影響をもたらすであろうことは必定であることから、新たにカテゴリーとして独立させることにしたものです。今月は20日あたりまでバタバタしていますが、それ以降にでもフリーメーソンについての第一弾を書く予定です。

今度もブログ【教育の原点を考える】を宜しくお願い申し上げます。

1998年9月30日にサラリーマンを辞め、今日でちょうど7年目のサムライ拝

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
 散歩コースの里山では手入れが行き届かなくなり、ミドリヒョウモンを見かけることが少なくなりました。それではと、手入れがされている里山に足を伸ばしたところ、いました、いました。(むうじんさん)

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2005年9月29日 (木)

明治天皇(2)

4.暗殺の根拠

 次に、孝明天皇が毒殺されたにせよ刺殺されたにせよ、何故孝明天皇は暗殺されたのかについての背景を追求しておこう。中村氏は「岩倉具視が孝明を殺すと利益があったというのは幻想にすぎないことなどが論じられています」と孝明天皇暗殺説を否定する原口氏の意見を引用しているだけであり、それだけでは具体的に「利益」とは何を指すのか不明である。さらに「岩倉具視が孝明を殺す利益」がなかったと簡単に言い切れるのものではないと思う。幸い、本稿の最後に挙げた前述の竹内氏が作成した即位前(睦仁親王時代) および即位後(明治天皇時代)の比較表に簡素に暗殺の根拠について述べているので以下に掲載しておこう。内容的には孝明天皇の息子である睦仁親王の思考を述べた形になっており、それは同時に父親の孝明天皇の思考でもあった。

基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。
この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

 以上の暗殺の背景についての真偽のほどは読者の判断に任せるとして、筆者自身の意見を述べるとすれば、孝明天皇が毒殺されたのか刺殺されたのかはさておき、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』に書かれている上述の孝明天皇暗殺説は概ね肯定できると思う。ただ、孝明天皇を暗殺しても、その子である睦仁親王が父親と思想を同じくするのであっては、幕府の後釜を狙った薩長の思うとおりにはならないはずである。その場合、仮に睦仁親王も父親同様に暗殺し、薩長の思想に合致する思想の持ち主を天皇にすり替えたとしたらどうだろうか。そうすれば確実に薩長の思い通りに政を行うことができるではないか。実は、孝明天皇の息子である睦仁親王も暗殺し、大室寅之祐という南朝系の末裔を替え玉として明治天皇の位置に付けたという驚愕すべき記述が『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』に述べられているのである。そのあたりについては、次の「5.明治天皇は替え玉?」で見ていこう。

 なお、尾崎氏の「岩倉具視は(謀略好きの)公卿のなかでも抜群の(謀略家であり)政治的能力の持ち主だった。狂信的な攘夷論者だった孝明天皇はやっかいな存在だったにちがいないが、毒殺することでそれが除去されると単純にうけとめていたであろうか。もしそうなら政治的能力としてはいささか欠けるところがある」というくだりだが、尾崎氏は睦仁親王も暗殺された点に思い至らなかったため、そうした結論になったのだろう。したがって、睦仁親王暗殺が事実とすれば、岩倉具視は己れの思い通りになる天皇を替え玉にしたことになり、「(岩倉具視の)政治的能力としてはいささか欠けるところがある」どころの話ではなく、岩倉具視は大した陰謀者であったと云えよう。

5.明治天皇は替え玉?

 前述の竹内氏が『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』をベースに即位前(睦仁親王時代) および即位後(明治天皇時代)の比較表を作成しているので以下に転載する。

即位および即位後の比較表
即位前(睦仁親王時代)即位後(明治天皇時代)
睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。 明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。 明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。
睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。 明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。 基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。

 筆者も鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を下敷きにした竹内氏の上表を見て、もし鹿島氏の著書に間違いが無いとすれば、即位前と即位後とも同一人物であると思えないという鹿島氏および竹内氏同様の意見に同意するものである。

 加えて、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』ではさらに以下のように明治天皇は大室寅之祐であるとする根拠を挙げているので参考までに転載しておこう。

 明治42年には伊藤博文が暗殺されたが、その翌年には南北朝いずれが正系かという史論が生じたときに、明治天皇は自ら乗り出して南朝正系論を正しいとした。しからば、孝明天皇までの北朝は偽朝であったということになる。
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.21

昭和4年2月に、かつて宮内大臣として権勢を振った田中光顕が、「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。後醍醐天皇の第11番目の皇子ミツナガ親王の子孫で、長州萩で毛利氏が守護してきた。薩長連合には、この南朝の末孫を天皇にするといとう密約があった」と述べている。
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.22

 次に、松重氏の小冊『真事実の明治維新史』に掲載されている「“玉”とフルベッキ博士を囲む志士達の記念写真」と題したページを以下に転載しておいたので、とくと眺めていただきたい。
“玉”とフルベッキ博士を囲む志士達の記念写真

 上記ページを含む24ページ程度をワープロ書きしたものをコピーし、それをレポートカバーに挟んだだけの松重正氏署名入りの『真事実の明治維新史』は、6千円程度でオンラインにて販売さている。しかし、筆者は素直に松重氏の明治天皇=大室寅之祐説に肯けないのである。それは松重氏のフルベッキ写真についての解説のためであり、見ればお分かりように松重氏のフルベッキ写真には「玉」として明治天皇が写っているとなっている。しかし、一年近く本シリーズ『近代日本とフルベッキ』を筆者は連載してきたが、フルベッキ写真は慶応元年ではなく明治元年に撮影されたものであり、フルベッキ写真に写っているフルベッキ親子、大隈重信、岩倉具定・具経兄弟(大村益次郎も本物であるとする意見を信頼おける識者から聞いている)は本物であるが、他の西郷隆盛、大久保利通、横井小楠、坂本龍馬、勝海舟などはすべて贋物と断定して差し支えないと筆者は書いてきた。従って、上記ページの松重氏の記述には苦笑を禁じ得ないのである。

※ この時期にこれだけの志士が集まることが不自然だという理由で、この写真に対する評価は正しくないという説もあるが、それは、明治維新の実態(真実)を知らない者か、伏せたい者等の言い訳や言い分であろう。

 フルベッキ写真と云えば、昨年の暮れに五大紙がフルベッキ写真の広告を出していたが、これはフルベッキ写真に対する関心の高まりを示したものと言えそうだ。ただ、以下の広告のコピーからもお分かりのように広告主は東京書芸館という会社だが、写真は本物であるとは云え、写真に勝海舟や坂本龍馬が写っているとして10万円以上もの値を付けて販売しているのは人をバカにした話であり、そのような広告を載せる新聞社も新聞社である。このように、モノの真贋を見分ける眼力すら最早失ってしまった大手マスコミの凋落ぶりは目を覆うばかりではないか。
2004年12月28日付けの朝日新聞に掲載された広告

 最後に、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』の筆者・鹿島昇氏であるが、読者の中で運良く『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を入手したとしても、そのまま同書を鵜呑みにしない方が良い。何故なら、鹿島氏の独断と偏見が同書の中で多く見出せるからである。一例として以下の鹿島氏の記述を挙げておこう。

 江藤の日露同盟論が岩倉使節団の英米追従策と正面から衝突したことが、実は大久保の江藤抹殺の真の理由であろう。
 大久保という殺人狂の奴隷頭的な政治家には、江藤にしろ西郷にしろ、反対意見を説得しようという発想がなく、反対者は殺す、それもきわめて卑劣な手段で殺す、というまさにオウム的な発想しかなかった。
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.338

 筆者が本シリーズの「第六章 大久保利通」で描いた利通像とは全く正反対であることがお分かりいただけよう。どちらが大久保利通像をより正確に描いているかは読者の判断に委ねるにせよ、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』および姉妹書である『明治維新の生贄 誰が孝明天皇を殺したか』(新国民社)に展開されている鹿島昇氏の記述には、首を傾げたくなるような個所が多々あったと報告しておこう。

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2005年9月28日 (水)

明治天皇(1)

私が過去執筆した明治天皇についての原稿をアップ致します。 長文ですので、本日と明日に分けてアップ致します。

はじめに

 前号の「第八章 伊藤博文」において、岩倉具視が孝明天皇暗殺を企て、伊藤博文が天皇を刺殺したという〝孝明天皇暗殺説〟を紹介したが、驚かれた読者も多かったのではないだろうか。前号でも紹介した『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』(新国民社)の著者である故鹿島昇氏は、そうした孝明天皇暗殺説を主張する一人であったが、実を言えば筆者は鹿島氏が亡くなる1年ほど前にメールのやり取りを行っていたのであり、一度お会いする約束をしていた。しかし、約束を果たせぬまま鹿島氏は帰らぬ人となり、結局出会いが実現しなかったのは残念であった。本号では、その鹿島氏の『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』および姉妹書である『明治維新の生贄 誰が孝明天皇を殺したか』(新国民社)を下敷きに、枚数の許す限り孝明天皇暗殺の真相について筆を進めてみたいと思う。

2.情報独占という名の弊害

 本号の執筆にあたり、数年ぶりに『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を再読した後、検索エンジンGoogle(グーグル)で”孝明天皇暗殺”をキーワードに調べたところ、4,280件ヒットした。そうした孝明天皇暗殺を取り上げたサイトすべてに目を通した訳ではないものの、一部を拾い読みしていく中で気づいたのは、孝明天皇暗殺説を否定するグループには文部科学省を頂点とする大学教授などの教育関係者、あるいは天皇の暗殺などあるわけがないとする〝常識派〟の人たちのサイトに多く、一方で孝明天皇暗殺説を肯定するグループには、上述の〝常識派〟の人たちから見れば胡散臭く映るであろうサイトに多いということである。そこで、筆の進め方として両グループの代表を選んで比較していくことにするが、その前に「情報独占による弊害」について一言述べておく必要がありそうだ。最初に、以下の図を眺めていただきたい。
情報の流れを見ると、日本はまだ封建制のレベル

 この図は1992年7月25日号の『週刊ダイヤモンド』に掲載された「蜃気楼の情報大国・日本の行方 経済の基盤支える情報システムに致命的な障害」という題名の記事に掲載されていた図である。日本で情報と云うと新聞記事等を切り抜いてノートに貼り付けるという作業を頭に思い浮かべるのが普通であると思うが、実は情報はインフォメーション(information)とインテリジェンス(intelligence)の二つの異なった概念に分けられるのであり、〝情報〟を制する者は21世紀を制すると云っても過言ではないのである。そして、その国の情報の流れを見ることにより、その国の将来、民度、体制といった諸々が一目で分かってしまうのであるが、日本という土壌で誕生した企業が21世紀を生き延びていくのに欠かせないヒントを与えてくれる記事なので一読の価値はある。
蜃気楼の情報大国・日本の行方

 鹿島氏も『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』の中で孝明天皇暗殺と絡めて情報独占が日本にもたらした弊害について貴重な発言をしているが、残念ながら同書は既に絶版となってから久しく、入手も困難であることから、少々長くなるものの後世のため記録に残す意味で以下に引用しておこう。

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  日本の官僚はいまだ情報独占という魔法の杖、維新政府が開発した手法にしがみついているのである。

 北沢義博は平成8年4月24日行政改革委員会の行政情報公開部会が発表した「情報解放要綱案」の中間報告について次のように述べている。

【不開示情報の範囲、すなわち公開請求があっても公開しなくてよい情報は不明確かつ広範囲であって、すでに機能している地方自治体の制度より公開の範囲を狭めているといえる……このままでは、行政秘密保護法といっても過言ではなく、各界からの厳しい批判は必至である。
薬害エイズ事件における厚生省の資料隠蔽策動、敦賀原発における「もんじゅ」のナトリウムもれ事故における動燃事業団のビデオ隠蔽など、行政の情報隠しが国民の権利を脅かす例は限りない。
情報公開法の制度は行政だけがその保有する情報によって国民をコントロールするという状況に終止符を打つものであるはずである。ところが、中間報告の内容は現状に追随するものである。
鬼追会長は直ちに、中間報告を批判する声明を発表し、「知る権利」を実質的に保障する情報公開法の制定を求めることを改めて訴えた。
今秋には、同部会の最終報告が提出される予定であるが、中間報告の内容を踏まえ、真の情報公開を求める日弁連の運動は緊急かつ重大である】

 江戸時代の中頃、大阪の富永仲基という商人学者が「ものを隠すのがこの国の癖」だといったが、このような、官僚と政治家の情報独占が、天皇すりかえという破天荒の事件を可能にしたことはすでに論じた。
勤皇を唱える人々によって暗殺された孝明天皇と睦仁はまず側近の岩倉たちに裏切られたのであったが、しかし、南朝再興を目的とした大室寅之祐の明治天皇も仮面の人生にたえられずして、革命の真実をようやく明治42年、元老や元勲たちの多くが死んでから、国民には何が何だかわからないという不完全きわまる形で南朝正統を主張することで、自分が革命の主役だったことにようやく言及したのみであったが、それは、元老や元勲たちが情報を独占して南朝革命をかくすことで結束して、自ら擁立した明治天皇を裏切ったからである。
 私はすべて歴史の事件は、人間の動きが中心であり、人間の行動の正邪すべてが合理的に説明できる、というごく常識的な考えにもとづいて取り組んできたし、そのことはいまだに正しいと思っている。そして歴史を合理的に説明するためには、情報の公開が不可欠なのである。
本書はこうした私の考えの帰結である。

『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.34

 薬害エイズ事件における厚生省の資料隠蔽策動、敦賀原発における「もんじゅ」のナトリウムもれ事故における動燃事業団のビデオ隠蔽を例に挙げるだけでも、如何に日本は情報後進国であるかが分かろうというものである。情報隠蔽については日本の大手マスコミも同罪であることは、前シリーズの『日本脱藩のすすめ』の「第三回 意味論のすすめ(英語編)」で堕落した日本の大手マスコミについて書いておいたので、関心のある読者は再読していただければ有り難い。

3.病死vs.暗殺

 大分寄り道をしたが、この辺りで情報隠蔽により知らされていなかった孝明天皇暗殺という本題に入るとしよう。検索エンジンGoogle(グーグル)で”孝明天皇暗殺”をキーワードに調べたところ、孝明天皇暗殺説を否定するグループとして最初にヒットしたのが「日本史もっと知りた~い」というブログであった。そのブログのオーナーが孝明天皇暗殺について取り上げた際、中村武生氏という京都を主なフィールドとするフリーの歴史地理研究者が以下のような投稿を行っていたので紹介する。

こんにちは。
 孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたものかと存じます。
 孝明が亡くなった慶応2年12月の段階ではまだ「倒幕」は現実の政治課題になっておりませんので、「倒幕派」なるものが孝明を殺すことは何らの現実性はないようです。
 くわしくは以下の論文をご覧下さい。
(1) 原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」(『日本近代史の虚像と実像』1巻、大月書店、1990年)
(2) 原口清「孝明天皇と岩倉具視」(『名城商学』39巻別冊、名城大学商学会、1990年)
 (1)では医学的考察により、これまで「不自然」といわれてきた死の様相について、それこそが天然痘の特徴と結論づけられています。
 (2)では孝明の死の前後の政治史を詳細に論じられ、上記のように「倒幕派」なるものが当時まだ存在しないこと、岩倉具視が孝明を殺すと「利益」があったというのは幻想にすぎないことなどが論じられています。
名前: 中村武生 | March 29, 2005 12:30 AM

 それに対して、孝明天皇暗殺説を肯定するグループとして最初にヒットしたのが「帝國電網省」というサイトであった。この「帝國電網省」というサイトの開設者は竹下義朗氏と云い、ホームページにある自己紹介のページを見ると歴史研究家とあり、日本史に関する著書も数冊出版しているようだ。

世に「孝明天皇暗殺」と呼ばれる「疑惑」が語られてきました。幕末の激動の中、倒幕・佐幕両派の抗争の中で、岩倉具視と長州志士等によって、刺殺されたとも毒殺されたとも言われています。殺害方法がいずれの方法だったとしても、孝明天皇が暗殺された事は、紛れもない「事実」と考えていいのではないでしょうか? その根拠として、

1.孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
2.孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
3.薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。
……以下略……

 竹内氏の上記のページを読み進めながら、鹿島氏の『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』そのものだなと思っていたら、案の定ページの最後で同書を主要文献として取り上げていた。ここで参考までに、インターネットの世界で孝明天皇暗殺について取り上げているサイトのほとんどが『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』を下敷きにしていることを指摘しておきたい。さらに付言すると、上記の竹内氏は自身のホームページに「大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について」と題したページにおいて、「G氏」という人物から大室寅之祐の出自についての情報が寄せられたとして、G氏の情報を公開しているので注目していただきたい。
大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について

 実は筆者(サムライ)も竹内氏と同様の情報をG氏から電子メールで受け取っており、内容的に胡散臭いものだったのでそのまま放置してあるが、その後竹内氏や阿修羅という掲示板など至る所でG氏の情報が公開されているのを確認している。このG氏なる人物だが、竹内氏の「明治天皇は暗殺されていた!!」というページに掲載されている「3.追補 幕末維新期の関連年表」にG氏が作成したという表が掲載されており、この表は『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』にも解説を寄せている松重正氏が『真事実の明治維新史』(松重正監修 情報ネットワークINFACT発行)に14ページにわたって掲載している「真説の幕末・明治維新年表」と瓜二つである。このことから推測して、このG氏なる人物は松重正氏本人か松重氏の関係者であると思ってほぼ間違いないであろう。なお、松浦正氏については後述するので参照して欲しい。
「明治天皇」は暗殺されていた!!

 さて、中村・竹内の両者の意見を較べるにあたって最初に中村氏の説を見てみよう。中村氏は上記の投稿の冒頭で「孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたものかと存じます」と書いているが、ここで中村氏の云う「学問の世界」とは何を意味しているのかは、上述の「2.情報独占という名の弊害」に目を通した読者には既に察しがつくものと思う。すなわち、日本では概してお上(本稿のケースで云えば、文部科学省や国史学会)の言うことを何の疑いも持たずに盲目的に信じる傾向が強いが、これは危険な傾向ではないだろうか。某識者が「(少なくとも)別々の3人から同一意見を聞かない限り、一つの説なり情報を信じない」と筆者に語ったくれたことがあるが、筆者もそれに倣って一つの説を単純に鵜呑みにするのではなく幾人かの異なった人たちあるいはグループから同様の意見を耳にした時点で初めて信じることにしている。ともあれ、もし鹿島氏が生存しておられたら中村氏に対して以下のように反論するはずだ。

 およそ歴史家は時の政府の政治的な意見を超越して、永遠の理想を校正に追求しなければならない。政治家は明日を考え歴史家は未来を考えるべきである。天皇であろうと、元老であろうと、歴史家の前に聖域があってはいけない。この国の歴史家は情報を独占する人びとから、あらゆる手段をもって情報を奪い返さなければならない。
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.129

 その意味で、中村氏が原口清氏という一人だけの説を取り上げて、「孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたもの」と断定するのは如何なものかと筆者は思う。殊に「医学的考察により、これまで不自然といわれてきた死の様相について、それこそが天然痘の特徴と結論づけられています」と述べているという原口清氏の『孝明天皇は毒殺されたのか』に筆者は目を通していないので何とも言えないのであるが、原口氏の経歴を紹介する以下のページを見る限り果たして原口氏に「医学的考察」ができたのかどうか疑問に思う。(あるいは他の医学関係者の発言を原口氏は単に引用しただけかもしれない)
原口清先生略歴及び業績目録

 参考までに、尾崎秀樹氏が1963年1月号の『歴史と旅』で「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」を著しており、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』に一部が引用されているが、内容的に示唆に富むと思うので、かなりの長文になるものの以下に掲載しておこう。一読の後、天然痘に詳しい読者がおられたら御意見をいただければ有り難い。なお、天然痘に関するホームページを掲載の後に紹介してあるので参照していただきたい。

 孝明天皇がその生涯を終えたのは、慶応2年(1866年)12月25日のことだ。死因は痘瘡とされた。国内外の緊張がたかまっている時だけに、崩御のことはしばらく伏せられ、29日になって公けにされた。
御陵は洛東にあたる泉涌寺(せんにゅうじ)だった。江戸初期以来、陵墓の簡略化が慣例であったが、孝明帝崩御に際してその慣例が改められ、壮大な山陵が営まれる。これは幕府の朝廷に対する配慮であり、その裏には、開国策の大きな障害であった孝明帝を手厚く葬ることによって、朝幕間のしこりを解消したい願いが秘められていた。
孝明帝の次子にあたる新帝(明治帝)が践祚(せんそ)したのが、慶応3年1月9日、正式に{孝明天皇」の諡号(しごう)が贈られたのは、2月16日になってからだ。
宮内省の編纂した公式記録である『孝明天皇紀』や、明治帝の外祖父にあたる中山忠能(ただよし)が残した『中山忠能日記』などによって、天皇の死に至るまでの経過をある程度たどることができる。
それによると、発病は12月12日だ。天皇はその前日、風邪気味だったのをおして、内侍所(ないしどころ)で催された臨時の御神楽を見るために出御した。寒さはそれほどきびしくはなく、10日は快晴で春のように暖かく感じられたので、油断したのかもしれない。11日は暁方に雨が降ったが寒くはなかった。しかし夜の7時から11時頃まで内侍所で過ごされ、その前に沐浴されたのがさわりになったのか、翌12日になるとひどい発熱で、典薬の一人高階(たかしな)典薬少允が診断にあたり、風邪だろうからと発汗剤などを献じている。
『孝明天皇紀』では、この12日から15日までなぜか欠落しており、16日に飛んで、いきなり「天然痘を患い給ふ」となるのだ。この欠落部分を『中山忠能日記』で補いながら先へ進もう。
13日、熱は下がらず、汗もない。食欲はまったくなく、高熱でうわ言がつづいた。
14日、山本典薬少允が診察、この時はじめて痘瘡(天然痘)と診断が下された。
15日、高熱がつづき、痘瘡の特徴である吹出物も手に少しあらわれはじめた。
16日、朝から吹出物があり、典医たちはそろって痘瘡と診断、ここではじめて病状が公表された。
17日、典医ら15名が連名で「12日より熱を発せられ、一昨朝より吹出物あり今日痘瘡と診断した。総体に御順よろしく、御相応の容体である」といった報告を武家伝奏に提出している。
18日、吹出物はますます多くなる。京都上京区にある護浄院の湛海僧正が宮中に招かれて祈祷を行った。また誓願寺の上乗坊も参内し、七社七寺へも祈祷が命じられた。
19日ごろから丘疹期、21日ごろから水痘期、23日ごろから膿庖期に進みカサブタが乾きはじめ、食欲も次第に回復。その間の報告は、「昨夜から痘の色が紫色になり、薬をぬり毒を抜く薬を調献した。夜中も安眠され通じも小便もあり、さらに食欲もすすみ、お粥を召し上り、吹出物も多くなり御順正であり、ますます御機嫌よくなられた」というものだった。
天皇の妃、中山慶子が父に宛てた手紙にも「まず御順当に御日立あそばされ」とか「天機御不都合もなく万事御するの御事、めでたく祈入承はり……」とあって、天皇の病状回復が順調に経過していることを裏づけている。
23日、この日からウミも止まって吹出物が乾きはじめた。湛海の日記に「御静謐(せいひつ)」とある。
24日、湛海は「咋日から御召し上り物も相当あり、御通じもよろしい、しかし少々お疲れの様子」だと書いており、祈祷は24日で満期になるのだが、慶子からなおつづけるように命じられたという。
ところが、その夜半から病状が急変する。発熱し、叶き気がひどく、下痢が3回あった。典医は体内に残っていた毒の作用だと診立てたが、それだけではなかったことはその後の経過が物語る。
25日、容体急変、親王が訪問、危篤状態に陥った。しかしなぜか『孝明天皇紀』には典医の報告が記載されていない。『中山忠能日記』には側近の者が暗澹として、ひたすら天に祈るありさまが読まれる。野宮定功(ののみやさだいさ)の日記では、この日も叶き気ひどく食欲なく、典医の手当ても湛海僧正の祈祷もむなしく、ついに大事に及んだという。
その臨終の模様を、『中山忠能日記』は「25日は御九穴より御出血、実もって恐れ入り候」とあり、その後紛失したとされている上乗坊の日記にも、「天皇の顔に紫色の斑点があらわれて血を叶き脱血した」と書いてあったらしい。
痘瘡には真痘、仮痘、出血性のものがあり、真痘の致死率は20及至30パーセントだといわれる。潜伏期が10日から11日ほどで、発現期に入ると、まず寒けとふるえが来て40度前後の高熱が出る。
そして腰痛や頭痛があり、その翌日ぐらいから、ハシカに似た赤い発疹が上胸部の外側から全身におよび、まもなく消滅し、さらに4日目ぐらいになると、小さな赤いもり上がった発疹が出はじめる。
痘瘡の吹出物は普通、腕の外側に出はじめるものらしいが、孝明天皇の場合も、まず吹出物が手に少し現われ、16日になるとかなり顔に出てきた。そこで典医たちが合議の上、全員一致で痘瘡と診断を下している。
その後の経過は順調で、食欲も出はじめ、17日から普通に便通もあり、熱も下り出し、水痘が脹れ、膿をもち、つづいて膿が出はじめる。これは病状が膿疱期に入った証拠だ。やがてカサブタができる。このカサブタは褐色になり、乾き固まってゆく。護浄院の湛海は宮中の命令で祈祷に従事した一人だが、この時の祈祷は効果があったとみなされ、「叡感ななめならず」、とりあえず金30両をたまわっている。
22日にはかなり食が進み、朝の8時に葛湯一椀と唐きび団子3つ。その後すぐに団子を5つ追加、11時ごろに粥一椀、午後2時ごろに団子7つほど、5時には粥一椀、8時には糒(ほしいい)、午前1時前には粥半椀と大根おろしとすべて順調で、周囲の者も安堵の思いだった。湛海の22,23日の日記が「御順症、御静謐」となっているのは、その現れだ。
24日はすでにのべたように加持祈祷満願の日に当っていた。
孝明天皇はアレルギー性の体質だったことが推測される。アレルギー性だと、天然痘に罹った場合、その症状が普通より強く出ることがある。ここまでくればもう安心というような時でも、アレルギー性体質だと、死への転機となるような出血性、紫斑性の病状をみせることがある。しかしそれまで順調に経過していた孝明天皇の病状が、たとえアレルギー性の体質だったとはいえ、1日で急変し死につながるというのはどうも納得ゆかない。
ジェンナーの牛痘種痘法の発表は1798年、わが国では嘉永2年(1849年)に、長崎の楢林宗建が蘭館の医師モーニッケに頼んでバタビアから種痘痂を輸入している。またシーボルトはすでに1826年に江戸参府のおり、道中で子どもたちに種痘を施しているし、蘭館医リシュールも1839年に接種したことがある。
しかしいずれもうまくゆかず、その2年後に、大槻俊斎が高島秋帆から牛種痘を得て江戸でこころみ、成功した記録がある。安政3年(1856)に、伊東玄朴が江戸で蘭方医と協力して種痘所を創設した。ロシアに拉致されたエトロフの番人小頭中川五郎治が伝来した種痘書もあった。
日本では、中国伝来の人痘種痘が一部でこころみられていたが、一般化するまでにはいたらなかった。それにしても、いろいろ牛痘種痘が模索されていた時期に、孝明天皇が
痘瘡で崩御されたのは不幸というほかはない。朝廷では、蘭方医はしりぞけられ、専ら典薬は漢方に限られていた。その他は加持祈祷に従う人たちである。吉田常吉の「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」によると、側近の稚児のなかに痘瘡にかかっていたものがおり、そこから感染したのではないかという推測がなされた。
宮廷とか大奥にいると流行性の病などに感染する率は低いけれど、一度罹患すると、免疫性も弱く病状も軽くないことが考えられる。ましてや天然痘は庶民ならば子どもの頃に罹る病気だ。孝明天皇はすでに36歳で、致死率もそれだけ高くなったということになる。しかし突然の病変はいろいろな疑惑を生んだ。五代将軍綱吉も痘瘡で突然の死を迎えたが、それについて後世いろいろな噂が立った。夫人に刺殺されたというのまであった。
孝明天皇と同じ年に大阪城で急死した将軍家茂についても、遺体が江戸へ運ばれたおり、和宮との対面を老中が許さなかったのは、家茂に毒殺特有の症状が見えたからだ、などという噂さえ立った……。
戦前は孝明天皇の死の謎にふれるのはタブーであった。サトウの『一外交官の見た明治維新』の訳本も、戦前版では削除されている。
昭和15年7月に、大阪で開催された日本医史学会関西支部大会で、佐伯理一郎博士が孝明天皇の典医だった伊良子家に伝わる口記にもとづいて、「12月22,23日までの経過は詳細に記されているのに、それ以後はプツリと絶えており、『孝明天皇紀』にある公表された報告さえのせていないのは、天皇が毒殺されたことを知って、意識的に記載をひかえたのではないか」と論じ、しかもその犯人については、「岩倉具視の姪で女官となっていた人物であり、洛東の寺で尼となった当の女性からそのことを直接聞いた」と述べたことがある。
この時は(帝国憲法の下だったから)佐伯博士の発言は採り上げられず、そのまますぎたが、戦後、昭和50年になって第19回日本医学会総会で、子孫に当る伊良子光孝医師から再度公表され、その日記の筆者は陸奥守光順で、直接「毒殺」の文字は見当らないが、その可能性をうかがわせる内容だとされた。
また昭和17年春、京都大学教授赤松俊秀が京都府の史跡名勝天然記念物調査委員として、京都の寺宝調査に当っていたとき、その調査に同行した奈良本辰也氏は真言宗の誓願寺で、『上乗坊の日記』を発見した。その日記の12月25日の個所には、「天皇の顔に紫の斑点が現われ、虫の息で血を吐き……」とあったので仰天したという。
しかし、史学界の元老だった西田直二郎博士からその記録の公表をさしとめられ、やむなくやり過ごしたところ、間もなく寺は廃絶となり、日記もなくなったという……。
岩倉には、天皇暗殺未遂の噂がそれ以前に流されたこともある。和宮降嫁問題について天皇が頑固に反対するので、その毒殺を企て、筆先をなめる癖を利用して筆の先に鴆(ちん)毒を塗ったというのだが、その噂が流れたため、尊攘派の浪士たちから脅迫状を送られたこともあるらしい。
岩倉具視とともに、反幕派の恨みを買ったのは異母妹の堀河紀子(もとこ)だ。紀子は孝明帝の寵をうけて二女をもうけている。岩倉と堀河紀子は文久2年に宮廷を追放され、慶応2年12月の段階では、洛北の岩倉村、洛西の大原野村にそれぞれ蟄居していたはずだ。
それが毒殺の下手人に擬せられるのは、和官降嫁の際に疑惑をかけられたことの持続というより、いろいろの状況証拠によるものだろう。もしそうだとすれば、岩倉は洛北の一角から何者かをして遠隔操縦し、一服盛ることに成功したことになる。
『朝彦親王日記』には、岩倉のいきのかかった女官が宮中に入りこんでいたと書いてあるが、そういう推測はやりだすときりがない。
岩倉具視は(謀略好きの)公卿のなかでも抜群の(謀略家であり)政治的能力の持ち主だった。狂信的な攘夷論者だった孝明天皇はやっかいな存在だったにちがいないが、毒殺することでそれが除去されると単純にうけとめていたであろうか。もしそうなら政治的能力としてはいささか欠けるところがある。
明治新帝の践祚は慶応3年1月、満14歳の若さだったが、その前後、新帝の枕許に孝明帝の亡霊があらわれるという噂も、また不慮死説の根拠とされた。】
※ 下線および(カッコ)内の記述は鹿島昇氏
『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』p.60~68

 ディスインフォメーションにさえ気をつければ、インターネットはデータや情報の宝庫であり、そうしたデータや情報を参考にすることで尾崎秀樹氏の説がどの程度正しいかがある程度は推測できると筆者は思う。例えば、以下のサイトは長崎大学の熱帯医学研究所のものであり、天然痘について分かりやすく解説している。
誰でも出来る天然痘の診断  

 以上、孝明天皇が天然痘によって崩御したのか、あるいは天然痘にかかった後の回復期に毒殺あるいは刺殺されたのかについては、尾崎氏の「それまで順調に経過していた孝明天皇の病状が、たとえアレルギー性の体質だったとはいえ、1日で急変し死につながるというのはどうも納得ゆかない」という記述にもあるように、孝明天皇の崩御は天然痘によるものでないことはないと筆者は思っているが、そのあたりは読者の判断に委ねるとしたい。

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2005年9月27日 (火)

大久保利通

以下は、国際契約のコンサルティング会社・IBDに寄稿した明治の元勲・大久保利通についての記事です。

1. はじめに

 幕末明治という歴史の大きな転換期を思う時、筆者の脳裏に浮かぶ人物の一人に横井小楠がいる。本シリーズの第二章・横井小楠でも述べたように、筆者は横井小楠の説く儒学的正義の実現を今日の日本に願うも、明治維新以降未だに横井小楠の理想は実現に至っていないという現実が目の前にあって、暗澹とした気持ちになる。『横井小楠』を著した松浦玲氏の言う、「小楠を失った明治政府からは、自分のところでまず正義を確立し、それを世界に及ぼすという理想の存在は、まったく感じとれない。世界の大勢にいかにうまく乗っていくかということばかりが前面に出ており、国内体制も、その目的に沿ってつくりかえられていく」という道を明治維新以降の日本は突き進んだのだった。しかし、世界の大勢に乗ることに成功するだけでも相当の難事業だったことが、幕末明治史を調べるほどに分かってくることも確かである。そこで、元勲の一人である大久保利通の素顔と実績を知ることにより、近代日本がどのようにして“西洋”を取り入れていったかについて改めて見直してみたいと思うに至った。

2.大久保利通の素顔

 俗に、倒幕という難事業を成し遂げた人物が西郷隆盛であるとすれば、近代日本の礎を築いた人物が大久保であったとされるように、維新後の日本の礎を築いた功労者を一人だけ挙げよと言われれば、筆者であれば躊躇なく大久保利通を挙げるであろう。それなのに、「西郷には人を包み込むような暖かさがあったが、大久保には人を突き放すような冷たさがあった」という評価で代表されるように、世間一般の大久保に対する評価は低い。なかでも、大久保を徹底的に悪く書いているのが作家の早乙女貢氏である。

かつて大久保利通が欧米から帰国したとき、西郷、江藤新平らの征韓論が決定しかけていた。大久保は桂小五郎の木戸孝允らと共同戦線をはって猛反対した。
そのために、西郷の運命が一転するのだが、このことだけで、大久保を平和論者とする者が多い。
とんでもないことだ。大久保が反対したのは、ただ留守中にでき上った権力機構の中に自分の席を見出せなかったからにすぎない。
事実、大久保が平和論者であったならば、翌七年の台湾出兵になぜ、賛成したのだろうか。朝鮮も台湾も、同じ立場だったはずだ。大久保がほしかったのは、大日本帝国を牛耳る権力だ。かつての盟友西郷は邪魔だった。西郷が政界にあるかぎり、自分がトップには立てない。
その憎しみから反論をぶったにすぎない。
もしも、本当に平和論者であり、権力志向ではなく、また人間的な血の通う人物だったら、下野した西郷とその私学校の連中が熱くなっているという噂を耳にしたとき、鹿児島にとんでいって、なぜ、なだめなかったか。
『明治維新の偉人たち その虚像と実像』(早乙女貢著 山手書房新社)

 大久保利通の名誉のためにも、ここは早乙女氏の記述に対して論駁しておこう。最初に、早乙女氏の大久保に対する第一の誤解は、大久保が大日本帝国を牛耳る権力を求めていたとする点であるが、これは余りにも大久保利通という人物を知らな過ぎる人の言う言葉ではないだろうか。現代日本のリーダーは無論のこと、同時代の他のリーダーと較べても、大久保利通は遙かに抜きん出たリーダーだったのである。そのあたりを分かりやすく説明するとすれば、現首相の小泉純一郎を例に取り上げるだけで事足りよう。例えば、小泉純一郎を現すキーワードの一つに「丸投げ」というのがある。「丸投げ」というのは、一つの難局を成し遂げるにあたって最良の方法を見出し、それが遂行可能という大凡の見通しを立てることが出来たら、後は全て部下に任せるという事であり、万一部下が失敗しても自分が全責任を負うという心構えでいることが本来の丸投げの原義であろう。小泉の場合そうではないのは一目瞭然で、あれは単なる責任放棄型の丸投げに過ぎない。現役の国会議員の某秘書を務める人が語るところによれば、「秘書の私が首相をやる代議士に向かって、こんなことを言うのは僭越かもしれませんが、小泉流のやり方は責任放棄の丸投げだから、突っ込まれて聞かれると質問の意味が分からないし、見通しが立たないから答えも見つからない。そこですり替えと断定で論点をはぐらかすだけになり、国会の議論がふざけた応酬になるのです」(『財界にっぽん』2005年2月号)とのことであり、いかに小泉の丸投げは無責任なものかが分かろうというものである。

 その点、大久保の場合も確かに「丸投げ」を多用したが、小泉の丸投げとは全く異なるものであったことは上述から大凡は推測出来ると思うが、要は大久保の場合は部下を全面的に信頼した上で遂行を任せ、万一の場合は大久保自身が全責任を負うという丸投げだったのであり、大久保の丸投げと小泉のそれとは決してイコールではない。さらに、部下には手に負えない難局については率先して自ら取り組んだのが大久保であった。岩倉遣外使節に同行した林董は、そうした大久保のことを以下のように評している。

維新直後に功臣は多く、無論大久保一人功績があった訳ではないが、しかしあの難局に当たって、一切の責任を自分で引き受けて、難きは自ら任じ、易きは人にさせるという、あの態度は外の人の真似のできぬところである。あの頃はほとんど難しいことだらけであったのに、公はその責めを一切自分一人で背負った。由来難局はこれを人になすりつけ、易きを自ら行うて独り功を修めるというのが政治家の通弊であって、随分偉い人でもこの弊には陥りやすいが、大久保は独りで難きを背負って立った。あの人は優に日本の大黒柱となり得る人だった。
『大久保利通』(佐々木克監修 講談社学術文庫)

 「あの頃はほとんど難しいことだらけであったのに、その責めを一切自分一人で背負った」大久保であったが故に、早乙女氏のように「大日本帝国を牛耳る権力を求めていた」と傍目には見えるのも無理もない。

 早乙女氏の大久保に対する第二の誤解は、大久保は西郷の征韓論に反対しながら台湾出兵に反対しなかったのだから、大久保も平和論者ではないとする点である。このあたりについては、大久保は平和論者であったのか否かを問題にする前に、日本という国家のために何を為すことが最善なのかという観点で、“政事家”としての大久保は常に考え行動していたことを知るべきである。前号の第五章・西郷隆盛で、「究極の目標を実現するためには自国民の犠牲も辞さないというところに、チャーチルさらにはイギリスのエスタブリッシュメントの戦略的思考を垣間見る思いをした読者が多かったのではないだろうか」と筆者が書いたように、日本の将来を大局的に見通しつつ、事を進めていくのが戦略家という名の“政事家”なのであり、時には戦争も選択肢の一つとして捉えるのが政事家なのである。なお、台湾出兵の件であるが、世間とは異なった見方がある。

こうして、1874年1月18日に台湾問題の閣議が開かれ、26日に大久保と大隈が担当者となった。大久保・大隈は2月6日に「台湾蕃地処分要略」を閣議に提出して決定される。それは、琉球人殺害報復のための出兵に限定したものであり、出兵前に台湾地理の調査を行い、清国から抗議があった場合は平和的交渉に徹する、というものである。清国との紛糾が予想される台湾植民地化を否定し、清国との軍事衝突の回避を主眼とする、事前工作も含む慎重な計画であった。
『政事家 大久保利通 近代日本の設計者』(勝田政治著 講談社)

 以上で大久保の台湾出兵に関する考えは朧気ながらもお分かりいただけたと思う。なお、上記方針の決定後、佐賀の乱鎮圧のため大久保が東京を留守にしていた間、大隈重信と西郷従道が上記方針を台湾植民地化論に変えてしまったという事実をここに付言しておく。

 早乙女氏の大久保に対する第三の誤解は、西郷隆盛と大久保利通の関係に関する点である。早乙女氏は、「かつての盟友西郷は邪魔だった。西郷が政界にあるかぎり、自分がトップには立てない」とか、「下野した西郷とその私学校の連中が熱くなっているという噂を耳にしたとき、鹿児島にとんでいって、なぜ、なだめなかったか」等と書いているが、他人には窺い知ることのできない西郷と大久保の関係があったことを知るべきである。『大久保利通』(佐々木克監修 講談社学術文庫)の中で高橋新吉が、「西南戦争が始まった頃、公は決して西郷の乱に加わっているのを信じられなかった。人が何と言っても、あの男はそんな男じゃないと言って聞かなかったが、いよいよ出たに違いないという確報も証拠も来たときに、初めて“そうであったか”と言って、ハラリと涙を流されたそうです。大久保公の涙は、この時が、子供の時を除けば、生涯にただ一度であったということです」と述べたくだりを紹介すれば、西郷と大久保の関係についての説明は充分かと思う。また、日本の大黒柱であった大久保が鹿児島に行こうとするのを他の閣僚が止めた事実も指摘しておこう。なお、高橋新吉(1843~1918)は薩摩藩士で幕末に長崎で英学を学び、アメリカに留学した。帰国後は長崎税関長等を歴任した後、日本勧業銀行総裁に就任している。

3.イギリスをモデル国家にした大久保利通

 幾度か本シリーズで述べたことだが、筆者は十代後半の頃に3年間ほど世界放浪の旅を体験しており、その時の体験は後の筆者の思考・行動様式の土台となった。大久保も明治4年(1871)に岩倉遣外使節の副使として横浜港を発ち、明治6年(1873)に帰国するまでの一年半ほど海外を体験したことで、人生の転機となったことは間違いない。尤も、大久保の場合は既に己れの思想を確立した42歳の時に日本を後にしたのであり、筆者の場合は自己形成途上であった十代後半の時に日本を後にしたという違いがある。そのあたりの考察については第二章・横井小楠で既に述べているので本号では割愛したい。なお、蛇足ながら上記の岩倉遣外使節に同行した留学生の一人に『三酔人経綸問答』を著した中江兆民がおり、大久保利通を高く評価しているのを目にしたので以下に引用しておこう。

 大久保は凡派の豪傑である。日本の法律・経済・道徳に今日の方針を与えたのが大久保である。大久保でなくとも日本の「欧化事業」は可能であったろうが、彼がいたためにこの事業は「堅固」に成就され、「障碍」にあわずに今日の如く成就されたのである。
 士族反乱とくに西南戦争に際し、大久保のような「剛毅」なる態度をとらなかったならば、「欧化事業」は大頓挫をきたし、文明の潮流は一時かき乱されたであろう。大久保の「屹然」たる態度は激流のなかでも動じない柱のようである。
『中江兆民全集』一三

 ところで、世間では大久保はドイツを手本に日本の近代化を図ったというのが一般的な見方である。『大久保利通』を著した毛利敏彦氏も以下のように述べている。

大久保は「みずからビスマルクたらんとし、プロシア王とビスマルクとの関係を、明治天皇と自分との関係における理想とした……日本の模範と考えたのは、アメリカやイギリス、フランスではなかった……ヨーロッパの後進国ドイツ、ロシアにつよい関心を寄せた……万国対峙のもと日本の独立を確保する唯一の道は、ドイツを手本に、強力な政府のもとで富国強兵、殖産興業をやりぬくことだと、かたく心に期したにちがいない」
『大久保利通』(毛利敏彦著 中央公論新社)

 これに対して、以下のように別の大久保利通像が提示されている。

 欧米視察中、イギリスの富強の源泉が工業力であることを発見するとともに、その落差にショックを受けて一時は引退までほのめかしていた。そして、ヨーロッパの後発国であるドイツとロシアに「標準」とすべきことが多くあるのではないか、と考えたこともあった。しかし、大久保は帰国後、真の開化の実現、国家の隆盛、国威の海外宣揚、こうした課題を達成するための政治形態として、ドイツではなくイギリスをモデルにする、「君民共治」という立憲君主制を構想するにいたったのである。
 国権の回復とともに理想の政治形態を実現するためにも、民力養成は大久保にとって不可欠かつ急務となった。大久保は、その課題を内務省という新しい官庁を設けて達成しようとする。
『政事家 大久保利通 近代日本の設計者』(勝田政治著 講談社)

 筆者は勝田氏同様に大久保が日本の将来像としてイギリスを目指していたと考える一人であるが、それは本号の冒頭で登場した横井小楠の儒教的正義と一部重なるところがある。思うに、イギリス滞在中の大久保は同国の工業力に圧倒されつつも、何故かくもイギリスがパクス・ブリタニカの中枢となり得ることが出来たのかと深く思索したことであろう。それは、イギリスの人々はイギリスを己れの“国”として捉え、愛国意識を持つと同時に国に対して良政を求めるという市民意識を確立していたからである。本シリーズの第二章・ 横井小楠でも筆者は松浦玲氏の著書を以下のような形で紹介し、日本の近代化への第一歩としての良政の重要性を提示した。

 朱子学の目標を一口で言えば、為政者が聖人となって理想政治を行なうことである。学問をするのは聖人になるためで、聖人は到達可能である。そうして、為政者が朱子学的な意味で聖人となれば、それで完全無欠の政治が保証される。為政者は聖人でなければならず、そのことはとりわけトップの座にいるものつまり天子に対して最も強く要求される。これを日本の幕藩体制に移せば、将軍および各藩藩主が聖人でなければならない。肥後実学党とりわけ小楠は、それを要求した。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』(松浦玲著 朝日選書)

 また、やはり第二章・横井小楠で筆者は「実は、松浦氏がいう世襲武士支配体制は明治になっても根本的に改められておらず、寧ろ徳川政府の編み出した鵺的正学をそのまま引き継いだのが明治政府なのであり、それが今日に至っても日本および日本政府に影を落としているといえよう」と書いたが、今日に至っても日本においては市民意識が確立されていないと再認識せざるを得ず、今後の日本の課題である。

4.意志の人・大久保利通

  大久保利通その人を最も的確に評価しているのは、大久保の事実上の後継者であった大隈重信の以下の言葉である。

彼(大久保)は内治外交の困難を一人で引き受けて、よく維新の大猷(おおきなはかりごと)を定めて、功臣となったのである……彼は意思の人であって、感情の人ではなかった。その冷やかなることは、鉄の如くであって、亳も温味のない人のように見えた……熟考し再考し三考するという風で、沈黙熟考の結果、善いと確信したならば、彼は猛然進んで亳も余力を残さないというやり方であったから、彼の進行の前路に立ち塞がり得る者は、殆ど無かった……当時もし彼の如き人材なかりせば、かくの如く紛糾錯雑したる内治外交の整理も、或いはむずかしかったかも知れない。
『甲東逸話』(勝田孫弥著 マツノ書店)

 最後に、大久保は冷徹な政治家であるという批評に対して、それは日本の近代化を推し進めるのだという大久保の不退転の決意から生じた冷徹さであるということを付言しておこう

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2005年9月26日 (月)

『丸山真男 音楽の対話』

b050926 昨日に引き続き、アマゾンドットコムに『丸山真男 音楽の対話』の書評を書いたことを思い出したので、この機会に転載しておきたいと思います。

生まれながらにして名著の地位を約束された本

 『丸山真男 音楽の対話』は、下手な音楽のプロも足元に及ばぬほど音楽に造詣が深かった丸山眞男と音楽との関わりについて述べたものであり、丸山眞男の息遣いが伝わってくるような本である。特に以下の丸山の発言は強く筆者の印象に残る。

 「音楽という芸術のなかに『意志の力』を持ち込んだのはベートーヴェンです。『理想』と言ってもいい。人間全体、つまり人類の目標、理想を頭に描いて、〈響き〉=〈音響感覚〉でそれを追求し、表現する。凄まじい情熱ですね。これを『ロマンティック』と言わずして、他に何がありますか。『ロマン』は単なる情熱やセンチメンタリズムではない。人間の理想の追求が『ロマン』なのですから……。

『丸山真男 音楽の対話』(p.75)

 「音楽のなかに『意志の力』を持ち込んだベートーヴェン」という丸山の発言を目にした読者は、今までとは違った角度からベートーヴェンを聴くようになるのではないだろうか。まさに、「人間全体、つまり人類の目標、理想」という丸山の発言にあるように、ベートーヴェンは18世紀という時代精神の申し子であり、紛う方なきフリーメーソンであった。

 なお、今までに丸山眞男の一連の著書に目を通したことのある読者は既にお気づきの通り、丸山の著書群には執拗低音(バッソ・オスティナート)という音楽用語がたびたび登場する。この執拗低音は、丸山思想を真に理解するためのキーワードとされており、執拗低音とは何かということについて教えてくれるのが本書だと思う。したがって、本書は丸山の音楽に対する熱い思い、丸山の息遣い、人となりが伝わってくる本というだけではなく、真摯に丸山眞男の思想を追求したいという人にとっては欠かせぬ本なのである。その意味で、本書は生まれながらにして名著の地位を約束されたといっても過言ではない

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2005年9月25日 (日)

『ミトコンドリア・ミステリー』

b050925 2年ほど前に、アマゾン・ドットコムに『ミトコンドリア・ミステリー』(林純一著 講談社)についての書評を載せたことがあり、過日紹介した『究極の免疫力』と併せて読むと面白いだろうと考え、以下に当時の書評を再掲します。

ミトコンドリアについての一般知識を身につけたいというの入門者に対しては、『ミトコンドリアと生きる』(瀬名秀明・太田成男共著 角川書店)、あるいは『ミトコンドリアはどこからきたか 生命40億年を遡る』(黒岩常祥著 NHKブックス)などを紹介した方が本当は親切なのかもしれない。それでも敢えて本書をミトコンドリアに関心のある読者に推薦するのは、『ミトコンドリア・ミステリー』を通じて、筆者である林純一氏の研究者としての姿勢に、野武士的なものを読者に嗅ぎ取って欲しかったからである。ちなみに、筆者は『内臓が生みだす心』を著した西原克成博士のように、我が道を行く野武士的な生き方を貫く科学者に共感を覚える人間であることを告白しておく。

無論、『ミトコンドリア・ミステリー』から伝わってくるのは、林氏という一研究者の持つ清々しい生き様だけではない。林氏の研究が今後のミトコンドリアの研究に大きな影響を及ぼすことが予想されることから、そうした林氏の研究内容を知るだけでも一読の価値はあると思うのである。すなわち、ミトコンドリアDNAの突然変異のために癌になるというのが、従来のミトコンドリア研究者の説の主流を成していた。そうした従来説を林氏が完膚なまでに打ち砕き、ミトコンドリアDNAが癌の原因ではないことを実証してみせたのである。また、老化が起こるのはミトコンドリアのためと専ら信じられているが、この老化説も林氏は実験によって完全に否定しただけでなく、同時に「ミトコン ドリア連携説」という独特の林説を提唱されたのである。

ともあれ、科学の分野に限らず、日本という環境下では主流となっている説に異論を持ち出すのは非常に勇気の要ることであり、そのために干されることも少なくない。それでも敢えて自説を曲げず、従来の主流であった説を覆した林氏に心からの拍手を送りたい。

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2005年9月24日 (土)

九州で体験した奇妙な地上巡礼(下)

先週に引き続き、「九州で体験した奇妙な地上巡礼(下)」をアップしましたのでお知らせ致します。質問・意見などがあれば、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】でお願い致します。

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2005年9月23日 (金)

秋の有間ダム

050922_Arima_dam昨日の22日は先週の土曜日に行われた学校の運動会の振替休日ということで、家族で車で30分ほどの所にあるダム周辺の散策を楽しんだり、近くにある市営の温泉でノンビリしてきました。紅葉には少々早かったものの、雨上がりの肌寒い天候の中、雲海が目線の高さにあるのに気付いた子どもたちから歓声があがっていました。しかし、のんびりできたのも束の間であり、家に戻ってメールをチェックしてみたところ仕事(翻訳)の山…、思わずため息をつきました 。(写真は昨日の有間ダム。写真をクリックしてみてください)

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中島敦

nakajima 日本文学に関心のある者なら、中島敦の作品を幾つか目にしているとことでしょう。過日紹介した『志に生きる!』(江口敏著 清流出版)でも、「軍国日本に彗星のごとく現れた早世の作家」と題して、以下のように中島敦が紹介されているのが印象に残ります。

中島敦

 中島敦の『弟子』『李陵』といった作品は、その質の高さからいって、普通なら作家が二、三十年の歳月をかけて辿り着く水準の作品です。しかもそれを彼は短期間のうちに、ほとんど一気呵成に書き上げている。これらの作品に描かれている清澄高雅な人間観や世界観、そして格調高く美しい文章を、呻吟しながら書いたのではなく、渾々と湧き出るように書いたところに、彼の天才作家としての真骨頂があるように思います。彼の作品の大きな特徴の一つは、中国の歴史に題材をとっていることですが、それは、彼が漢学者の家に生まれたというだけではありません。中国の歴史には、最近の天安門事件にも見られるように、実存的人間の極限状態がしばしば現れています。したがって、中島にとって中国の歴史は、人間・社会・自然のシビアーな緊張関係を描く上で、一つの宝庫だったに違いない。中国の歴史に題材をとることによって、現代の人間が直面する問題をより明確鮮明に描き出せたのだと思います。また、中島敦には〝引用の思想〟とでも言うべき考え方があります。近代文学は作家主体の〝我〟という問題に悩んできましたが、彼は〝我〟を捨てて、古典の中に描くべき世界をみつけた。『李陵』の中に『述而不作』(述べて作らず)という言葉がありますが、まさに彼の到達した作家としての姿勢がそうでした。これは、夏目漱石の〝則天去私〟にも通じる態度だと思います…

『志に生きる!』p326

b050923 私は二十代の頃は坂口安吾、檀一雄、今東光、柴田錬三郎などの無頼派の作家の作品を好んで読んでいた一時期がありました。今東光の本か柴田錬三郎の本か忘れましたが、漢文が得意なシバレン(柴田錬三郎)が中島敦にだけは漢文では敵わなかったと正直に告白しているのを読み、あれだけ漢文の素養のあるシバレンにして敵わないと言わしめた中島敦という人物を改めて見直したことでした。その中島敦の『弟子』『李陵』には25年前に接しているはずですが、その後再読した記憶はありません。数ヶ月前に時間があったので仕事部屋の本棚を整理していた時、中島敦の一連の作品を目にした記憶があったので、今でも仕事部屋の何処かに眠っているはずだと思って、時間の取れた一昨日、仕事部屋の大掃除をやりながら探してみたところ、角川文庫版の『李陵・弟子・名人伝』がありました。昔を思い出すようであり、近いうちに再読してみたいと思います。

ともあれ、中島敦の影響もあり、二十代の頃の私は中国古典を原典で読んでみたいと思い、中国語に挑戦したのですが、残念ながら結局中国語をモノにすることは出来ませんでした。しかし、その当時のカセットテープやテキストを今でも手許に残していますので、子どもたちが関心を持つようになれば譲ろうと思っています。また、私は【中国古典】というホームページを作成しています。ただ、7年も前に作り始めたホームページであるのにも拘わらず、未だに完成していないホームページでお恥ずかし限りです。

『志に生きる!』の中島敦編「軍国日本に彗星のごとく現れた早世の作家」を読んだ私は、手許にある『管子』、『十八史略』、『唐詩選』など、久しぶりに沢山の中国古典を紐解いてみたいという思いに駆られたことを此処に告白しておきます。

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2005年9月22日 (木)

ダウジングのすすめ

m021 訪問者の皆さんは、ダウジングについて一度や二度は耳にしたことがあると思います。ダウジングについて分かりやすい定義を行っているのは、[超常現象研究最前線]というホームページにあるダウジングの謎のページでしょう。以下にダウジングの謎に書かれているダウジングの定義を引用しておきます。

ダウジング:振り子やいろいろな形の棒を使って、地下の水脈などを探し当てる技術のことである。4000年以上の歴史があるといわれ、現在でも、水道管の位置を探し当てたり、地雷を発見するために利用されている。伝説によれば、真言宗の開祖・空海もまた、旅の途中、各地でダウジング・ロッドを操り、井戸を探し当てたとされる。実際、それらは空海井戸と名付けられ、現在まで残っている。

数年前、私は東明社という出版会社の吉田寅二社長のお供をして、横浜の宍戸幸輔宅を訪れたことがあります。宍戸氏はダウジングの大家であったことから、色々とダウジングに纏わるお話をしていただき、いつしか私もダウジングに興味を持つようになったのでした。その後宍戸氏の自宅には幾度か訪問し、宍戸氏のためにホームページを作成したことを思い出したので、久しぶりにアップしてみました。
http://www.nextftp.com/tamailab/sisido/j/

私は宍戸氏からダウジング用の振り子をプレゼントしてもらい、実際にやってみたところ確かに振り子が威勢良く回るのであり、狐につままれたような気分になったものでした。果たして、振り子を回しているモノの正体は何なのだろうか…、と当時から追求して今日に至っています。

ここで、ダウジングにはダウジング・ロッドを使う方法以外に、振り子を使う方法もあり、以下のURLには親指と人差し指とで振り子の紐を持っている状態の写真が載っていますのでご覧ください。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/2-6.htm

さて、ここで再びダウジングの謎に目を通していくと、振り子を動かしているものの正体は不覚筋動であると書いてあります。

ダウジングは、ロッド自体がまるで意思があるかのように動く。もちろん、ロッドはあくまでもロッドであり、意思を持った生命ではない。ダウジングの特徴として、1.ダウザーは意識的に力を加えていない。2.金属であれ、プラスチックであれ、あるいは木製であれ、いかなる素材のロッドでも反応する。3.ロッドは人間が持たないと反応しない、が挙げられる。もし、ロッド自体が勝手に動くのであれば、人間が手で直接持っていなくとも反応するはずである。ロッドを動かしているのは決して未知なる力ではなく、いろいろな情報に無意識に反応するダウザー自身、もっといえば誰にでも備わっている不覚筋動なのだ!

普通であれば、「なるほど、振り子を回していた正体は不覚筋動だったのか」、と納得できたのでしょうが、宍戸翁が伝授してくれた振り子のやり方は従来とは全く異なるのです。実際に宍戸翁が振り子を回している写真をアップしましたので確認してみてください。
http://www.nextftp.com/tamailab/sisido/j/fig/pic02.htm

以上、二つの写真を較べてみればお分かりのように、普通の振り子は直に振り子を結んだ紐を指に挟んで持ちますが、私が宍戸幸輔氏に伝授してもらった振り子の場合、振り子の紐を直接手で持っているわけではないのに、それでも振り子は威勢良く回るのが不思議なのです。ともあれ、振り子を回しているモノの正体について性急に結論を出す前に、「若き日の修験者・空海のコスモロジーと錬金術(上)」といった記事や手許にある佐藤任著『空海と錬金術』を再読してみるつもりです。もしかしたら、そうした記事や書籍に、振り子を動かしているモノの正体を知る手がかりが書いてあるかもしれません。

最後に、今日の投稿を読まれてダウジングに関心を持った訪問者のために、ダウジングに関する優れた記事を以下に紹介しておきましょう。
ダウンジングを巡る科学と擬似科学の谷間

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
私は、むうじんさんが写真にいつも添えている言葉が好きです。

2-3年前に雑木林の伐採が行われた場所で思いもかけない花に出会いました。この前に見かけたのが5年前・・・そう言えばその時も雑木林の伐採後でした。咲いたのは2年間だけで、林が藪になってからは見かけません。この場所も藪になりつつありますので来年は期待薄でしょうね。

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2005年9月21日 (水)

TRADOS

つい最近までTRADOS(トラドスと発音する。翻訳支援ツール、すなわち一種の翻訳ソフトのこと。パソコンのOSはマイクロソフトのウィンドウズが主流であるように、翻訳業界の主流翻訳ソフトがTRADOSなのである)とは縁のなかった私ですが、それがここに来てTRADOSを導入することになりました。きっかけは、最近契約を交わした某翻訳会社のコーディネーターさんから「サムライ様はTRADOSを導入するご予定はありますか」と尋ねられたのがそもそもの始まりでした。実は、長い付き合いのある他の翻訳会社数社からも、「サムライさんがTRADOSを導入してくれれば、幾らでも仕事を出せるのですが…」と言われ続けてきました。そうした電話やメールがあるたびに、「いずれTRADOSに取り組みたいと思います…」と曖昧な回答を繰り返し続けて数年の月日が流れています。

前々からTRADOSをインストールしているのが仕事を回す条件になっている翻訳会社が多かったのですが、最近はとみにTRADOSを所有しているか否かが採用の条件となる翻訳会社が増えてきたような気がします。また、最近TRADOSを買収したSDLに知人が勤務しており、そこから色々とTRADOSに関する情報が入手できることが期待できる上、数日前に翻訳者として契約を交わした上記の某翻訳会社のコーディネーターさんからも、「(TRADOSを修得していく過程で)ご遠慮なく操作についてお尋ねください。分かる範囲でお答えします」という有り難いメールを頂戴していることもあり、これだけ恵まれた環境にあるのなら、TRADOSに挑戦しないというのは勿体ないと思った次第です。

ともあれ、TRADOSに本格的に取り組むことになりましたので、ここしばらくは「Wordfast」を習得するのは延期にしたいと思います。TRADOSに関しては、すでに大勢の翻訳者が使っていることでもあり、インターネットの世界でもTRADOSに関する情報は山のようにあることから、本ブログにおいて敢えてTRADOS云々について書くつもりはありません。ただ、私の場合TRADOS以外に色々と他の翻訳支援ツール(富士通アトラス、Transit、CT、Wordfast)を体験してきましたので、TRADOSとの比較という観点から何か面白いものが書けるのではと思いますので、一定のテーマがまとまった場合は皆さんに報告したいと思います。

早速クロネコヤマトのブックサービスを通じて『TRADOS6 Freelance』(中山洋一著 九天社)を昨日入手し、パラパラとページを捲ってみましたが、画面のイラストが多く、解説も分かりやすいという印象を持ちました。アマゾンドットコムの書評などを読んでも「かゆいところに手が届く」といった記述があるので、CT同様に今後の自分の翻訳人生の強力な武器になることを期待したいと思います。

ところで、今回契約した上記の翻訳会社は某電子メーカーの子会社です。すなわち、普通は【クライアント(メーカー)】←→【翻訳会社】←→【翻訳者】という流れなのですが、今回の場合は【クライアント(メーカー)】←→【クライアントの子会社】←→【翻訳者】という流れになります。つまり、翻訳会社の代わりにクライアントの子会社である翻訳会社が間に入る形になりますが、クライアントと翻訳者の間に翻訳会社が入るという一般的なケースと異なり、間にクライアントの子会社(翻訳会社)が入ることで、ビジネス戦術の観点から優れていると思った次第です。以下は、間に翻訳会社が入るかクライアントの子会社が入るかによるメリット・デメリットの比較表です。

翻訳会社か子会社か…
内容翻訳会社子会社
料金
×
品質
×
管理
×

最初に、一翻訳者の立場から言えば、[料金面]では【クライアント】←→【クライアントの子会社】←→【翻訳者】のケースの方が、【クライアント】←→【翻訳会社】←→【翻訳者】のケースよりも、高い翻訳料金なので有り難く思うのが普通でしょう。一般に、翻訳会社は営業担当者を置いて翻訳の仕事を獲得したり、広告宣伝費等が必要ですが、クライアントの子会社の場合は一切必要ありません。何故なら、翻訳の仕事は常に親会社から回ってくるのですから営業活動は必要ないのです。したがって、それだけ余分に翻訳者に翻訳料金を支払うことが可能になるのです。また、品質面でも、一般に翻訳者がクライアントに直接翻訳上の問い合わせをすることは原則としてタブーとなっており、翻訳会社を介して問い合わせするのが普通です。【クライアント】←→【クライアントの子会社】←→【翻訳者】のケースであれば、親会社と子会社というツーカーの間柄ですので、かなりのレベルの質問にも答えてもらえるというわけであり、必然的にそれが翻訳品質に反映されることは言うまでもありません。無論、良いことずくめではなく、本来は翻訳会社に丸投げしておけば、翻訳料金・翻訳品質を問わなければ、後は黙っても期限内に訳文が仕上がってくるので楽なのですが、自社あるいは子会社を使って翻訳業務をやらせるとなると、翻訳関連の業務以外にも人材雇用の面・管理費・その他をこなさなければならないという煩わしさが生じてきます。

ここまで書けば推測できるかと思いますが、クライアントが一部上場といったある程度の規模の会社でないと、子会社に翻訳業務をやらせるのには無理があり、中小企業であれば懇意の翻訳会社に翻訳の依頼を丸投げにした方が、遙かに能率的ということは言うまでもありません。翻訳料金だけを考えれば、定年を迎えて子どもたちも巣立ち、後は小遣いぎ程度の翻訳料金をもらえれば良いということで、タダ同然の翻訳料で仕事を引き受ける一部の日本人の翻訳者、あるいは中国人やインド人の翻訳者に依頼すれば翻訳料金が遙かに安くて済みますが、品質について問題になることが多くなるはずであり、料金の安さに惹かれて海外の翻訳会社に翻訳を依頼した体験のある企業であれば、翻訳品質に問題があることについては身に染みて分かっているはずです。かといって従来通り日本の翻訳会社に依頼すれば、高い翻訳料金を請求されるというジレンマに日本の企業は立たされているのです。それならいっそのこと、自社製品に対して技術的な背景知識のある、優れた翻訳者だけを自社にプールしておけば、翻訳品質の面で全く問題が無い上、翻訳者にも十分に満足してもらえる翻訳料金を支払えるというわけであり、双方万々歳ということになるのです。

それでも、上次元から眺めれば、将来的に見た翻訳の仕事は、確かな翻訳力を持つ一部の日本人の翻訳者→翻訳技術が向上した外国人の翻訳者→翻訳精度が向上した機械へとシフトしていくであろうし、それにつれて段々と翻訳料金も下がっていくのは避けられない状勢でしょう。そうした風潮の中、翻訳者として今後も生き延びていくには、外国の翻訳者や機械にはできないレベルの翻訳の「質」で勝負することだと私は思います。と同時に、それだけでは生活していくには苦しい場合は、妥協案としてTRADOSなどの翻訳支援ツールを使った翻訳の「量」の仕事も並行して手をつける必要があります。ともあれ、どの仕事もそうでしょうが、のほほんとしていては遠からず翻訳業界から“弾き出される”ことは目に見えています。

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2005年9月20日 (火)

ホームページ【フルベッキ写真】

新たに【フルベッキ写真】というホームページを立ち上げましたのでお知らせ致します。

また、フルベッキ写真から数少ない“本物”の一人と判明した中野健明の子孫にあたる方から、ブログ【フルベッキ】を紹介していただきましたので併せてお知らせ致します。
フルベッキ、西郷隆盛、中野健明
http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/cult/cultd8.htm

その後も高橋信一助教授がフルベッキ写真の真相について追求しておられますので、いずれ纏めて皆様にも御報告させていただく予定です。今後も日本の近代化に大きく貢献した外国人(正確には、オランダ国籍を喪失した晩年のフルベッキは無国籍人)の一人、フルベッキを取り上げている本ブログにご注目ください。

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地上最大の産業

私の手許に『虚妄からの脱出』(東明社)という本があり、1985年6月25日の刊行と印字されているので、今からちょうど20年前に上梓された本と云うことが分かります。そして、同書の第一章が「石油開発の弁証法」となっており、その中に「石油が現時点で持つポテンシャルと、近い将来に惹起するであろうインパクトについて大雑把に取り出してみると、次のような興味深いものが顔を並べる。これらについて記憶しておくことは、明日のビジネスや生活を計画し、その基本戦略を考えていく上で、決して無駄になることはないと思われる」と書かれた個所が目を引くのであり、当時はワープロも無かった時代だったので、私は川喜田二郎氏の開発したKJ法よろしくカードに以下の内容を書き写し、折に触れて目を通したものです。余談ながら、その川喜多氏には本田技研で行われた講演会で一度だけですがお会いしており、当時の私は本田技研の社員でした。本田技研については色々と思い出があるので、ここで言及したのを幸いに機会があればいずれ一つのエピソードとして書くとして、「地上最大の産業」という主テーマに戻り、私が過去20年間にわたり人生の指針の一つとしてきた文章を以下に転記しておきましょう。

 地上における全ビジネスの30%余りが、ほとんど直接的に石油と関係を持つ。また間接的なものをいれると50%を超すこと。

 世界貿易の過半数に相当するものが、金額的にも輸送量の上からも石油によって占められており、わが国の輸入の3分の1も石油であること。

 全世界のエネルギー消費量の約60%、また、わが国のエネルギー源の75%が石油に基づいている。日本の場合、石油の99.7%が海外からの供給に依存しており、日本系の企業が開発した石油の比率は非常に僅かであること。

 1973年の石油パニック以来、石油の値段はそれ以前に比べて4倍になり、世界経済は非常に大きな影響を蒙り、慢性的なスタグフレーションが定着している。社会の後遺症は深刻であり、人びとは石油暴騰の実感を肌で感じているとはいえ、(1970年代は未だ安い石油の最後の時期に属し)80年代とともに石油高価格時代が本格化する。しかも、金を出しても石油が手に入らない時代の訪れとともに、高い石油時代が本格化する1980年代半ば頃までには、さらに5倍か6倍の価格に高騰すると予想しうること。(1979年6月に石油の国際価格は再び倍増し、79年から80年にかけての期間に、石油の値段は執筆時点の3倍になっている)

 1980年代に精製プラントの過剰時代が始まり、ヨーロッパとアジアで多くの精油所とペトロケミカル設備が遊休化し、操業不能に陥る。こういった事態によって幾つかの国が経済破綻に見まわれるが、日本もその中の一国になりうること。

 石油の埋蔵量は地球上に偏在しており、そのほとんとが中東を中心にしたアフリコーユーラシアの3日月地帯にある。また、中東石油の埋蔵量と生産能力の7割余りを握るサウジアラビアとイランの政治情勢は安定している訳ではない。共に中世的な封建的専制体制をとり、1980年代に革命あるいはクーデターが起こるのは確実視されている。(注、その後イランに革命が起こりイスラム共和国が誕生したが、これは革命の始まりであって終りではない)。しかも、伝統的にアラブ人とペルシア人の敵対関係は熾烈であり、たとえ幸運にも混乱が短期間のうちに終息するにしろ、中東に全面依存する世界の石油供給体制は大混乱に陥ること。(注、イラン革命を通じたイラン石油の輸出能力低下は、石油供給量の減少を招いてスポット価格高騰と結びつき、投機的なパニック買いやドルの減価を派生することによって供給不安を強めている)。

 文明におけるエネルギーの歴史からすると、石油は石炭から水素への橋渡しを担当しており、その役割は次第に軽減する。とはいえ、現在の産業社会は完全に活力を石油に依存しており、この状態は21世紀が始まっても暫くは続くことになる。今後の30年間は石油が相変らず産業社会のエネルギー源として主役の位置を保ち、石油を確保できないことは、社会にとって死の宣告を意味し、石油飢餓が慢性化すること。

 石油産業は開発、生産、輪送、精製、販売の5つの基本部門が垂直に統合されて出来ている。しかし、わが国にはダウンストリームと呼ばれる精製と販売の部門があるだけで、アップストリームを構成する開発と生産の部門が、ほとんど発育不全である。アップストリームはソフトウェア指向であるが、この部門の整備と育成は、日本の生存にとって最も重要であり、国家の安全保障を考える上で根幹をなす政策課題であること。

 1973年秋のエンバルゴ以来、石油の取り扱いについての産油諸国の発言権と決定権は大いに強まった。しかし、石油開発技術と人材面での米国の優位はゆるぎなく、自由経済体制圏内で、この面でのポテンシァルは80%以上が米国系で、アメリカ資本の石油会社とアメリカ人が独占支配をしている。また社会主義圏を含む全世界の場合では、米ソ両国がこの面で95%以上を支配しており、石油資源の分野は国際政治と軌を一にしていて、米ソ二大スーパー・パワーの優位は圧倒的であること。

 一般に石油ないし石油資源ということばを使う場合には、その中に天然カスを含めており、現在では天然ガスが石油ビジネスの4分の1を占めている。今後は天然ガスの重要性と価値が飛躍的に高まり、1980年代には天然ガスが全石油ビジネスの半分以上を占めるようになる。石油から天然ガスヘの推移は炭化水素が水素に向かって収斂していく運動に対応しており、テクノロジーの発展に伴って水素エネルギー時代に移行すること。

 エコノミストの多くは、ウォール・ストリートや兜町の株式市況や商い高をもとにして、近い将来における経済の動きや産業活動の趨勢を判断する悪い伝統に支配されている。しかし、株式市況などは病入の体温と同じで、病状の単なる指標にすぎず、疾病の内容そのものを意味するものではない。20世紀における発達した産業社会の健康を根底から支配しているのは石油エネルギーであり、石油の動きが経済の流れと方向を決定づけ、経済市況や景気の動向を左右する原動力となっている。この点で、石油問題に目をつむったままの政策論や経済論は、そのほとんどが机上の空論であり、政治を考える上でエネルギー史観に基づいた政策論が今後いよいよ重要になり、その鍵を握るのが石油開発の弁証法であること。

細かい点、例えば「米ソ二大スーパー・パワー」の時代から「米一大スーパー・パワー」という時代に移行した点などがありますが、大枠では大きく変わっておらず、強いて云えば20年前は石油に代表される産業社会が黄昏を迎えていた時期でしたが、現在は東の空が仄かに青みがかかっていることから、間もなく情報化社会の夜明けを迎えようとしている時期という点で大きな違いであると云えるでしょう。ともあれ、上記の抜き書きが私という一個人の指針の一つとなり得たのは、『虚妄からの脱出』のまえがきにヒントが隠されていますので、関心のある方はクリックしてみてください。そのまえがきにもあるように、問題解決に行き詰まったら、次元を一つあげて改めて問題を眺め回すと、意外と早く解決策が見つかることが多いということが分かるのです。たとえば、「国民国家の問題を世界の次元で眺め、文化の問題を文明の視角から観察する」といったことなどです。これが習性になれば、今までとは違った「物の見方・考え方」視点を手に入れたのに等しく、そうした視点を得るだけでも同書を一読する価値はあると思います。 石油に纏わるエネルギーに関する考察は今後も続きますが、今回久しぶりに20年前にカードに書き写した文章を目にして思ったことは、「もし、20年前に、『虚妄からの脱出』の第一章「石油開発の弁証法」を熟読玩味した政治家あるいは財界人が一人でもいたら、今日不況に喘ぐような日本にはなっていなかった、ということです。今さら気付いても手遅れでしょうが、せめて此処で『虚妄からの脱出』を読むことにより、「虚妄からの脱出法」として書かれている内容を悟った政治家なり財界人が、一人でもいいから出てこないものかと、密かに願う次第です。

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2005年9月19日 (月)

伊藤博文・暗殺の謎(2)

朝鮮の排日団体説
 この説が一般に受け容れやすい説だろう。何故なら、伊藤を〝暗殺した〟後に投獄された安重根が獄中で認めた『伊藤博文の罪悪』にもあるように、韓国の独立運動家であった安重根、その安の行動を陰で支援したであろう排日団体にとって、韓国統監府の初代統監でもあった伊藤博文は祖国を日本と併合しようとする憎い〝輩〟に映っていたに違いないからである。しかし、伊藤は寧ろ日韓併合には消極的だったのであり、そのあたりを現在の北朝鮮は理解していると【ウィキペディア】というインターネット版の百科事典で述べている。それによると、北朝鮮の安重根評は、「救国の意志は尊重しているものの、暗殺という手段、さらには併合に対して消極的であった伊藤博文を暗殺の対象に選んだ事により評価はそれほど高くない。教科書では金日成の反面教師のように扱われている」とあるのだが、果たして本当かどうか怪しいものである。寧ろ、同ページで述べている韓国の安重根評、「現在の韓国では〝反日闘争の英雄〟として評価され、〝義士〟と呼ばれている」が、安重根に対する北朝鮮の民衆の正直な気持ちではないだろうか。
【ウィキペディア】

 ともあれ、狙撃犯は安だけではなかった可能性は高いにせよ、日本による祖国の併合を防止せんとする安および安を支えた祖国排日団体が、伊藤博文暗殺の黒幕であるとする線が一番しっくりすると筆者は思う。なお、その後の朝鮮だが、1909年10月26日に日韓併合に消極的だった伊藤博文という邪魔者が消えたことにより、翌年1910年8月22日には早くも日韓併合条約が成立し、朝鮮半島の併合へと至ったのであった。

日本の政治結社説
 日本の政治結社説についてであるが、たとえば、上垣外憲一氏の『暗殺・伊藤博文』(ちくま新書)や大野芳氏の『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』(新潮社)などは、真犯人として日本の政治結社の面々、就中杉山茂丸を挙げている。筆者もページを捲りながら杉山黒幕説に傾きつつあったが、一読した後に念のためインターネットを検索したところ、【夢野久作をめぐる人々】というホームページの主宰者が以下のような書評を公開しているのを運良く見つけたのである。その主宰者の以下の書評を読んだ後、実際に主宰者とメールを交わした中で知ったことは、上垣外憲一氏および大野芳氏の両氏とも杉山茂丸の人物を十全に把握しないまま本を著したということであった。その意味で、以下に紹介したホームページ【夢野久作をめぐる人々】は一度訪れる価値はあると思う。そして、なにより杉山茂丸=黒幕説を鵜呑みにせずに済んだのは有り難かった。

【夢野久作をめぐる人々】
其日庵資料館(杉山茂丸著作集)
「暗殺・伊藤博文」批評
噴飯!

 蛇足ながら、ホームページ【夢野久作をめぐる人々】の上記のページを読みながら感服したのは、上垣外憲一氏および大野芳氏の両氏に対する舌鋒の鋭さ以上に、己れ自身を厳しく律して生きる主宰者の姿勢であった。そうした【夢野久作をめぐる人々】の主宰者の生き様に清々しさを感じるのは筆者だけではあるまい。

 ご参考までに、【夢野久作をめぐる人々】の主宰者が上垣外憲一氏を批評している文章の中で、とくに筆者の印象に残った個所を以下に引用させていただく。

 そもそも本書の著者は、杉山茂丸や玄洋社について、どれほど研究をされたのであろうか。巻末の参考文献には、茂丸の著作から「山縣元帥」と「桂大将伝」が挙げられている。どちらも茂丸の著作としては入手し難いものであり、これらの著作を参照されている点はさすがにプロの研究者であると敬意を表する次第であるが、比較的入手し易く、かつ代表的著作というべき「俗戦国策」や「百魔」は読まれておられないのであろうか。玄洋社の存在が重要であると言及しながら、「玄洋社社史」を参照されていないのはいかなる理由によるものであろうか。

 本書には軽率な事実誤認が散見されることも、著者の論述に疑念を起こさせる所以となっている。
----中略----

 総じて本書は、著者の推論を正当化する可能性のある文献については都合よく深読みをし、それを否定する可能性に対する考究が疎かにされているように感じられる。そのような態度はマスコミのセンセーショナリズムに任せるべきであって、研究者の採るべき態度ではなかろう。

 また、大野芳氏についても以下のように批評していた。

故人の名誉や、その子孫の名誉を踏みつけにしようというのなら、少しは真剣に杉山茂丸を研究してはどうだ。いい加減な参照をしていては、主論がどれほど立派でも、すべてが無価値にしかならないということぐらい、ノンフィクション・ライターなら判っていよう。そして茂丸を研究するなら、一又正雄の「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」と室井廣一の「杉山茂丸論ノート」は必読ではないか。また、茂丸の著作では「俗戦国策」はどうしても外すわけにはいかない筈だ。そんなことすら知らないで書いたものを、金を取って売ろうなぞ、厚顏無恥も甚だしい。そしてそれは、著者だけではない、杜撰な作品を上梓した新潮社も同罪だ。

ロシア帝国説
 1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問中であったロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で警備の巡査・津田三蔵に突然斬りつけられるという事件があった。幸い顔に二個所傷をつけただけで命には別状はなかったものの、その後ニコライ皇太子を待っていた運命は過酷なものであった。事件の3年の後にニコライ二世に即位したが、1904年に日露戦争に突入し日本に破れている。そして、まだ敗戦の記憶も未だ覚めやまぬうちの1909年の伊藤暗殺だったのだから、その黒幕=ニコライ二世説が流布するのも分かるような気がするが、それだけでニコライ二世すなわちロシア帝国=伊藤暗殺犯とするのは性急すぎるというものだ。なお、その後のニコライ二世は1917年のロシア2月革命が起きて退位させられ、翌年レーニン率いる革命政府によって処刑されたのであるが、それと関連させて伊藤暗殺をロスチャイルドと絡める説もあり、それが以下の「ロスチャイルド説」である。

ロスチャイルド説
 ロスチャイルドが「裏切り者の伊藤博文」を暗殺したという説が、インターネット掲示板「阿修羅」などで真しやかに流れている。しかし、どうもこの類の陰謀説には胡散臭さを感じる筆者であり、真面目に陰謀説を追求する必要性を感じない。無論、ホームページ【萬晩報】で「ビッグ・リンカー達の宴2-最新日本政財界地」という、ロスチャイルドなどをテーマにしたシリーズを精力的に執筆している園田義明氏のような優れた作品もあるので一概に否定はできないし、1863年(文久3年5月)の伊藤博文のイギリス密航は長崎のグラバーの後押しで実現しているが、グラバーの背後にはジャーディン・マセソン商会、さらにはイギリス(ロスチャイルド)の影がちらつくのであり、ここに伊藤とロスチャイルドとの関係を認めることはできよう。しかし、日英同盟を結んでロシアに対抗しようとする桂太郎に反対して日露協商を結ぶべきだとするなど、ロスチャイルドの意に反するような行動を取った伊藤博文を裏切り者と見なし、ロスチャイルドが伊藤を暗殺したとは到底思えないのである。もし、そうなら、日露協商を結ぼうとした時点で伊藤を暗殺するのが筋ではないだろうか。

  以上、おおよその伊藤博文暗殺事件に絡む〝黒幕〟について筆を進めてみたが、それでも依然として伊藤博文の暗殺には謎が残っているような気がするのは何故だろうか。それは、伊藤暗殺事件がジョン・F・ケネディ暗殺事件を連想させるからであり、暗殺がオズワルドの単独犯行ではなく、複数の射撃者による可能性が高く、未だに物議を醸している点でも共通しているからだ。さらには、そうした狙撃者の背後に黒幕がいたのではという憶測が伊藤博文およびケネディ大統領暗殺に共通して流れているのだ。しかし、黒幕について調べようとしてもなかなか真相は掴めないであろうし、両事件に深く首を突っ込むことはタブーなのかもしれないという気がする。その意味では、伊藤博文の暗殺事件も今のところ排日団体説で一応満足している筆者ではあるが、もしかしたら底の知れない謎が横たわっているような気がしないでもない。それに関連して、実は一つだけ気になる点が残った。それは、安重根自ら遺したという『伊藤博文の罪悪』の以下の一節である。

  「1867年、大日本明治天皇陛下父親太皇帝殿下弑殺の大逆不道の事」

 安重根に上記の件を伝え、『伊藤博文の罪悪』に認めた、あるいは認めさせたのは誰(組織)だったのだろうか? 

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2005年9月18日 (日)

伊藤博文・暗殺の謎(1)

半年ほど前、IBDに載った伊藤博文の暗殺に関する拙稿です。今日と明日に分けてお届けします。

はじめに
 伊藤博文の名前を耳にすると、旧千円札(本稿の「追跡:フルベッキ写真」参照)を思い出す読者がいるかと思えば、近代日本の土台造りに貢献した明治の元勲としての伊藤博文、あるいはハルビン駅で安重根の凶弾に斃れた伊藤博文を思う読者がいるかもしれない。ここで、伊藤の遺した業績を思い出す意味で、最新版の電子版百科事典『マイペディア』に当たっておこう。

伊藤博文(1841‐1909):明治の政治家。名は俊輔。号は春畝。長州萩藩の足軽出身。吉田松陰に学び,京都の志士と交わる。1863年藩留学生として井上馨とともに渡英。帰国後,下関砲撃の四国艦隊と和議を交渉,幕府の長州征伐には高杉晋作らと挙兵して藩の主導権を握る。維新後は外国事務掛などを歴任,開明派官僚として頭角を現し,1871年岩倉使節団には副使として随行。1878年大久保利通死後の内務卿となり,1882年憲法調査のため渡欧。プロイセン憲法学説を学び,帰国後憲法立案の中心となる。1885年内閣制度を創設し,初代総理になり明治政府の実権を握る。1890年国会が開設されると貴族院議長。4度組閣。3度枢密院議長。初代統監となって日韓併合に尽力するが,ハルビン駅頭で朝鮮民族主義者安重根の弾丸に倒れた。
2004年度CD版百科事典『マイペディア』

 元勲としての伊藤博文に関する書籍・文献は汗牛充棟という有様であることから、本稿では伊藤が遺した数多くの業績について言及するのを割愛し、寧ろ今までに余り世間で取り上げることのなかった伊藤博文像について本号ではスポットライトを当ててみたいと思う。最初に、謎とされている伊藤の前半生を簡単に取り上げた後、もう一つの謎である伊藤暗殺事件に迫ってみることにする。

テロリスト・伊藤博文
 筆者が伊藤博文の前半生について一言で表現するとすれば、「テロリストとして暗躍した伊藤博文」とでもなろうか。どのような理由で伊藤をテロリストと呼ぶのかと云うと、伊藤は幕府の学問所の国学者だった塙次郎を暗殺しているだけではなく、孝明天皇の暗殺に一枚加わっていた可能性があるからだ。ここで、孝明天皇について改めて『マイペディア』を紐解いてみると、「病気回復中の急死であったため,当時倒幕派による毒殺説が流れた」という記述が目に入るのであり、一応は毒殺を否定しているものの、それでも毒殺の噂が流れていたことを認めた記述になっており、「孝明天皇=毒殺」説がかなり広まった噂であったことが窺い知れよう。

 しかし、一部では孝明天皇の死は病死でもなく、毒殺でもない、刀(あるいは竹槍)で刺し殺されたと主張するグループが存在する。筆者も「孝明天皇=暗殺説」を説く人たちの書籍を通じ、この驚愕すべき「孝明天皇=暗殺説」が果たして事実なのかあるいは途方もない大嘘なのかと関心を抱く1人であり、このあたりについては次号において「第九章 明治天皇」を取り上げる予定なので、その時に「孝明天皇=暗殺説」および伊藤博文による孝明天皇暗殺説を追ってみることにしよう。

 ご参考までに、孝明天皇暗殺説を取り上げた代表的な書籍に、『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』(鹿島昇著 新国民社)という題名の本がある。同書は孝明天皇および〝2人の明治天皇〟について取り上げたものであり、筆者は初めて同書(姉妹本に『明治維新の生贄 誰が孝明天皇を殺したか』がある)を手にした時、天地がひっくり返るような衝撃を受けたのを昨日のことのように覚えている。ここで同書の内容を述べるとすれば、孝明天皇の死は通説になっている病死でもなく、一部の人たちが考える毒殺でもなく、刀あるいは竹槍で刺し殺されたというのが同書の主張なのである。そして、同書によれば孝明天皇暗殺を企てたのは岩倉具視であり、暗殺実行部隊として孝明天皇を刺殺したのが伊藤博文その人だったというのだから驚く他はない。また、同書は孝明天皇暗殺以外にも驚くべきことを書いているのだが、それらについての詳しい内容の紹介および筆者の意見は次号で述べることにして、本号では急ぎもう一つの伊藤博文に纏わる謎、「伊藤博文暗殺事件」について以下に筆を進めたい。

伊藤博文暗殺は、安重根の単独犯行か?
 『マイペディア』の記述にもあるように、伊藤博文は「ハルビン駅頭で朝鮮民族主義者安重根の弾丸に倒れた」というのが世間の定説になっている。しかし、安重根単独説を疑問視する意見も一部にあり、さらには安の背後に黒幕がいたという意見も幾つか出ているのである。ここで、伊藤暗殺について以下に整理しておこう。

 最初に、伊藤博文暗殺は安重根による単独犯という世間の〝通説〟に対して、安重根による単独説を疑問視する人が多いという点であるが、それは当時伊藤に随行していた貴族院議員の室田義文の証言に基づくところが大きい。室田の証言によれば、右肩から斜め下にかけて伊藤の体を弾が貫いているのだから、そのように弾道になるにはハルビン駅の2階から伊藤を射撃する必要があり、伊藤を真っ正面から撃った安重根の位置からではあり得ない弾道であると云うのである。この室田の証言から、筆者も複数の狙撃者によって伊藤は暗殺されたのであると思うに至っている。さらに、安重根の単独説であれ、複複数の狙撃者による犯行であれ、その背後には黒幕がいたはずである。そこで、一応以下のように黒幕の候補者(?)を挙げてみた。

(1)朝鮮の排日団体説
(2)日本の政治結社説
(3)ロシア帝国説
(4)ロスチャイルド説

   以下、順を追って解説していこう。

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2005年9月17日 (土)

九州で体験した奇妙な地上巡礼(中)

先週に引き続き、「九州で体験した奇妙な地上巡礼(中)」をアップしましたのでお知らせ致します。質問・意見などがあれば、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】でお願い致します。

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2005年9月16日 (金)

『高島易断を創った男』

b050916 数日前に『陰陽道』(長原芳郎著 雄鶏社)について紹介しましたが、数ヶ月前に伊藤博文について調べていた折り、『高島易断を創った男』について掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】に投稿したのを思い出しました。投稿したのはスレッド「★近代日本とフルベッキ」であり、新島茂という人に『高島易断を創った男』を紹介してもらっています。私は直ちに同書を取り寄せ、スレッド「★近代日本とフルベッキ」に以下のような感想をアップしたのでした。

オンラインで発注した『高島易断を創った男』が本日宅急便で届きましたので、新島さんに教わった同書の最終章である第六章「国家の運命を占う」に早速目を通してみたところ、同書(p.181)の以下の記述目が止まりました。

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伊藤(博文)と会ってしばらく話した後、(高島)嘉右衛門は今度の満州行きを何とか中止できないかと持ちかけた。勘のいい伊藤はすぐに自分の満州行きに関して嘉右衛門の立てた易の結果が好ましいものではなかったことを察した。死を覚悟して旅立とうとしている伊藤は自分に易の結果を告げるように嘉右衛門を促した。
…中略…
今日に至るも伊藤の真の暗殺者が誰であったかは謎に包まれてたままであるが、嘉右衛門の易は見事に的中し。
****************************************************

伊藤を暗殺した黒幕について、多少は推測が書いてあるかと思いましたが、結局同書には暗殺の背景については何も書いてはなかったものの、改めて易の神秘性を再認識した次第です。また、伊藤暗殺の占いに関するテーマ以外で、同書の中でも思わず息を呑んだのは、p.175の以下の下りでした。

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三十八年五月、バルチック艦隊がフランス領安南に停泊しているとき、嘉右衛門はウラジオストックに向かうバルチック艦隊の航路に日本海軍のこれに対する勝敗の機を占い、水沢節の初爻を得た。この卦を得た嘉右衛門は、日本海軍は本拠を動かず敵の艦隊の航路を知ることが出来ると解している。
…中略…
明治三十八年五月二十七日午後一時三十九分、日本海軍の連合艦隊は沖ノ島付近でバルチック艦隊を発見、東郷平八郎司令長官の考案した「丁字戦法」が功を奏して日本海軍が圧勝、バルチック艦隊は壊滅した。
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今まで、日本海軍がバルチック艦隊の航路をズバリ予測し、それを破ることが出来たのは、偏に東郷平八郎あるいは平八郎の側近(知謀)の優れた〝インテリジェンス〟とばかり思っていただけに、それが易であったとはあまりにも意外でした。同時に、ちょうど一年前に「人間の知識などは九牛の一毛」と語っておられた藤原博士、そして故今泉久雄さんが著した『易経の謎』(光文社)を思い出したことでした。今の私の気持ちは、同書のあとがきに書いてあった以下の記述で言い表せると思います。

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今日の日本を代表する数学者の一人、丹羽敏雄氏は、「世界は数値と物質だけで説明することは不可能で、宇宙の眼に見えない『霊』的な側面を認めなければならない」ということをはっきり断言されている。(『数学は世界を解明できるか』)
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易経を迷信と見るか真理と見るかで、その人の人間性なり器の大きさが窺い知れるというものです。

上記の私の投稿に対して、新島茂氏から以下のような返答が届いています。

36 名前: 新島茂 投稿日: 2005/04/16(土) 13:25:18
昭和32年に出ている紀藤元之助著「易聖高島嘉右衛門」という本にはこんな風に書かれています。長い引用文になって恐縮ですが、今この本は入手しにくいので、ご参考までに。紀藤さんは故人ですが、「実占研究」という雑誌を40年間大阪で発行していた易占家の方で、この本のもとになったのは易学研究という研究誌に昭和20年代より連載されていたのが纏められたものです。


…博文は春畝と号し書を良くし、嘉右衛門には易、繋辞伝の辞を特に書いてくれたりした。…いくたびか出た「高島易断」のうち伊藤は諸所に顔を出すが、その身上の占をしたことはあまり書かれていない。
伊藤が満州視察に赴いた頃の嘉右衛門は既に脚が悪く、その出発も挨拶に来た伊藤を寝床の上で見送ったくらいだし、三十九年以後は「高島易断」も増補や改訂を行っていないから、凶刃にたおれる伊藤の安否を占したことは掲載されていない。
「ぢゃァ行ってくる」そう云って立った博文に「気をつけてお出なせえ、易は艮為山の九三でしたよ」と嘉右衛門は云った。前に見ておいたのだが、あまり良い卦ではないので黙っているつもりだったが、やっぱり気に掛るので得卦の名だけ告げた。「ありがとう。其の背に艮まりて其の身を獲ず、其の庭に行きて其の人を見ずか」伊藤はこの運命的な彖辞を軽く口誦んで、嘉右衛門の病床を去った。卦というものは嘉右衛門のいう通り神の語学だ。繋辞伝に、「其の命を受くるや響の如く、遠近幽深有ること无く、遂に来物を知る」とある。嘉右衛門は自身の判断を告げなかったが、伊藤も遂にきかずに出かけた。
伊藤がいざ出発という夜急に停電した。ローソクよランプよと騒いだら、一番先に灯を点して来たのは岐阜提灯だった。凶事のあと「あれが予兆だったらしい」などと側近の間で語り合われたが、伊藤は出発の二、三週間前に嘉右衛門から得卦をきいてい、その夜は池上本門寺のお会式で熱狂的な法華太鼓が響いてくるのをきき、「法華の太鼓に送られて出かけるか」と呟いたという。彼は或いは死を予感していたのかもしれない。
「高島易断」の中の艮の九三は、「止塞開き難し。自ら事を設け意の如くならず、心痛の余り背筋凝結して卒倒するの象あり、門前にて怪我する象あり、屈伸を得ずして上下隔絶し、心安からざるの甚だしき意あり。此の爻変じて剥となる、将に落ちんとするの象、助けなきなり。党類の首長、其心堅固にして手段を尽くし、半途にして腰折るる象あり。」とある。
嘉右衛門及び博文が、この卦を見て果たしてこのままの占断をしたかどうかは不明だが、兇漢の名が安重根と云い、(根は艮と同音、同義即ち重根は艮為山である)
凶器を振るって刺殺したのだから、卦辞・爻辞そのままの状況だっと云える。

未だに伊藤暗殺事件には謎が多いのですが、それについて同じくIBDのウェブ機関誌『世界の海援隊』に伊藤暗殺について寄稿していますので、近日中に再掲したいと思います。

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2005年9月15日 (木)

経済学のすすめ

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2年ほど前に、IBDの機関誌『世界の海援隊』に「経済学のすすめ」と題する拙文を投稿したことがあります。経済に関心のある人たちに以下を一読してもらえれば嬉しく思います。

経済学のすすめ

 メタサイエンスという21世紀科学の潮流について世界で初めて本(『宇宙巡礼』 東明社刊)の形にして世界に発表したのは、本シリーズでもたびたび登場する在米の藤原肇博士であった。筆者はその藤原博士の著作を通じて、あるいは博士から直にメタサイエンスについて教えを受けた一人であり、本シリーズでも第二回「メタサイエンスのすすめ」の他、ほぼ毎回のようにメタサイエンスについて様々な角度から取り上げてきたので、読者の頭の片隅にメタサイエンスという言葉がインプットされたのではと思う。ともあれ、今回は経済が主テーマであることから、経済をメタサイエンスの観点から捉えるために重要となるツールの一部を以下に列記しておきたい。

  ■MTKダイアグラム
 MTKダイアグラムというのはエネルギー史観に基づく経済理論を表したもので、今からちょうど30年前の1974年、カナダの国際会議の講演において藤原肇博士が英文の論文で発表した“ORGANIZATIONAL STRUCTURE OF THE OIL INDUSTRY”であり、MTKに関する様々な図表を挿入してあるので一度目を通していただければと思う。

  MTKダイアグラムについての解説は“ORGANIZATIONAL STRUCTURE OF THE OIL INDUSTRY”に譲るが、いずれにせよ経済という人間の営みを真に理解するためには、今までの経済学の知識を一端捨て、改めて文明次元の視座から社会の変遷を眺めつつ、エネルギーがどのような現れ方をしているのかを観察することにより、ダイナミックな相の変化を捉えていくことが必要なのである。

  ■太陽黒点に基づく景気の循環理論
 上記の“ORGANIZATIONAL STRUCTURE OF THE OIL INDUSTRY”に目を通した読者は、MTKダイアグラム以外に太陽黒点とゴンドラチェフの波についても言及しているのに気づかれたと思う。筆者がゴンドラチェフ波動理論の存在を知ったのは、今から20年前の1984年に目にした『無謀な挑戦』(藤原肇著 サイマル出版会)が最初であった。

  太陽黒点とゴンドラチェフの波からお分かりのように、ゴンドラチェフの波は景気の変動に及ぼす太陽黒点と密接に関係した波であり、人為的な操作でどうなるものでもないことが一目瞭然である。黒点の経年変化と景気変動との関係が明らかにされた経緯について、藤原博士が以下のように述べているので一読されたい。

 つまり、太陽の黒点の変化が気候に影響を与えて、農産物の価格に周期性を発生させるせいで、それが食糧や商品の卸売り物価指数に現れます。そして、不況が襲来して規模が大きければ、大不況から恐慌現象を招いてしまう。
 具体的な相関関係がどんな形で現れるかというと、黒点の多い年は暖かい気候が支配し、小麦など穀物が豊作になって値段が下がり、経済環境が不況の色を濃くするわけです。
 これを言い出したのは天文学者のハーシェルだが、このアイディアを経済問題と結びつけて、太陽黒点と景気循環を正面から論じたのは、エコノミストとしては英国のジェボンズでした。
 彼が大学生だった時に休学してオーストラリアに渡り、学資稼ぎのために造幣局の役人になったが、シドニーに着くまでの船旅を気象観測で過ごし、雲の形の研究や天文観測を楽しんだそうです。
 それがハーシェルと親しくつき合った背景になり、太陽黒点の周期性と農作物の収穫の関係を通じて、景気の循環理論の体系化になっていくのです。
『超経済学 波動理論で新世紀の扉を開く』p.173~174

 ジェボンズの景気循環論を高く評価したのはシュンペーターであった。日本では景気循環説が経済学者やエコノミストの間で引用されていることが多いものの、藤原肇博士をはじめとするごく僅かな人間しか景気の循環理論の有効性に気づいていないのは残念である。

■ガウス座標
 最近の日本は国民同士がバラバラであり、政界・財界・官界の腐敗ぶりには凄まじいものがあるが、これも社会全体にわたって信用が損なわれているためである。それほど重要な信用であるが、目に見えないインタンジブルなものであるためか、今までに日本の経済学者やエコノミストの間で信用を取り上げた者はほとんどいなかったように思う。そのインタンジブルな信用を複素数として、ガウス平面に表示する構想を打ち出したのが藤原博士である。

 ガウスの予備段階としてφ座標を藤原博士は用意されている。このφはフィボナッチ数列のことであり、自然の摂理を探求するにあたって物凄い威力を発揮する数列だが、第二回「メタサイエンスのすすめ」で既にそのあたりを述べているのでここでは繰り返さないこととする。それはさておき、次のガウス座標について藤原博士は以下のように述べている。

ガウス平面(複素数平面)のX軸(横軸)に実物経済の指標をプロットすると共に、Y軸(縦軸)に「信用度」を複素数で表示するものです。
X軸方向の長さは実数でY軸方向の長さは虚数i(√-1)という単位で計れば、どんな複素数z=a+biもガウス平面上の一点P(a、b)で表せるし、f(z)=0というすべての多項式は、少なくとも実数か虚数の解を持ちます。
もっとも、この複素数面で表したガウス座標の実用化は、21世紀の半ばにならないと無理であり、現在のサイエンスはまだその段階に達していません。
『超経済学 波動理論で新世紀の扉を開く』p.182

 ガウス座標は現在のサイエンスのレベルでは普及にほど遠く、実用化は50年先になるということもあり本稿ではガウス座標の説明は省略するが、それでも関心のある読者は『超経済学 波動理論で新世紀の扉を開く』のp.215から読み進めるとよい。尤も、残念ながら本書は絶版であって入手不可能であるが、神田の古本屋街を精力的に回れば運良く入手できるかもしれない。あるいは地元の図書館で借りるのも一手であろう。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
巾着田のヒガンバナ。

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2005年9月14日 (水)

『曼陀羅の人』

b050914 数日前、松岡正鋼の著した『空海の夢』をアップしましたが、藤原肇氏(地質学者・元オイル・ジオロジスト)が空海関連の書籍について比較していたのを覚えているでしょうか。

「空海の間脳幻想について」今年は空海が渡唐して1200年目だということもあり、空海について池口和尚との三回にわたる対談をまとめ終えた段階で、「性霊集」を読み直したいという気持ちになった。私は似たテーマの本を数冊ほど同時に読むという癖があり、今回は久しぶりにA「空海の夢」,B「空海の風景」,C「曼荼羅の人」を並列方式で読み、いわゆる直列方式から離れて読書を試みた。結論だけ書くとこれまでの評価はABCの順だったが、今回の並列方式の読書の結果はCABになったのであり、十数年前は「空海の夢」に強い印象を受けたので、「アメリカから日本の本を読む」にも書評したのだった。今回の再読を通じてCにはインテリジェンスの面白さを感じ、Bはあくまでもインフォメーションの本だと思い、Aはその中間だという印象を強くしたことが興味深かった。(このヒントを叩き台に議論が賑わって欲しい)

残念ながら、私は司馬遼太郎の『空海の風景』を読んだことはありませんが、陳舜臣の『曼陀羅の人』であれば10年ほど前に目を通しており、当時はワクワクしながら一気に読了したのを覚えています。その『曼陀羅の人』を最近再読した藤原氏は高く評価していますが、その理由として『曼陀羅の人』にはインテリジェンスの面白さがあり、『空海の風景』はインフォメーションだけの本である、と藤原氏は述べています。

私の場合、十代の頃から日本を飛び出し、今日に至るまで修業を積み重ねてきましたが、それは偏に「己れのインテリジェンスを高める」ための修業であったと云っても過言ではありません。このインテリジェンスは、言葉としては日本語の書籍などにも良く見受けられますが、インテリジェンスという概念を正しく伝えている書籍は皆無に近いのが実状です。そこで、5年ほど前のメールマガジン【日本脱藩のすすめ】で、インフォメーションとインテリジェンスの違いについて書かれた個所を、『インテリジェンス戦争の時代』から引用しているのを思い出したので参考までに以下に再掲しておきましょう。

 最初に知能。知能とは、寄せ集められ整理された情報、すなわちインフォメーションをそれぞれ関連づけながら、グループ化する能力を指します。言わば、インフォメーションの分析と統合です。これによって一次情報というインフォメーションの段階では隠れて見えなかったものが見えてくるようになり、全く新しい価値体系を得ることになるのです。この情報力を身につけるのが最初の目標です。
 次に知慧。これは、高度な専門的訓練を通して、初めて身につく情報力です。つまり、知慧とは、全体と部分の関係で分析と統合化を行なうと同時に評価を下すことによってプライオリティを決める能力、すなわち、総合したものを判断して評価出来る能力を指します。このレベルに達すると、実務経験を通して身につけた高度な判断力を駆使して、未知の要因を予測する推察力ないしは想像力が生まれてきます。
 最後に智慧。インテリジェンスの最高のレベルに相当するものです。このレベルに達している日本人はほとんどいないようです。それほど困難な智慧というレベルに達している日本人の一人である藤原さんの言葉を借り、智慧とはどのようなレベルなのか覗いてみましょう。
 「インテリジェンスの最上位において問われるのは、決断と指令における卓越した能力と、それを複雑な状況の中で使いこなす才能であり、豊かな経験と鋭い直観力に恵まれた人材が、天の時と地の利という状況を正しく判断して、決定を勇敢に実践することである。この段階ではわずか数人のトップの人材が、孤独の中で決断に関与することになるし、最終的な連帯責任を取ることになる。また、組織は常に階層構造で成り立っており、企業や政治機構の最高責任は一人のトップに集中し、その人間の人格の高潔さと品位が、インテリジェンスの真の価値を決定付ける。なぜならば、組織を統括する最高責任者の人間的な信用は、その人の理想や人生哲学の質に関わっており、その品格が説得力として機能するお蔭で、組織体の自己安定に貢献することになるし、仮に相対的に優位に立とうとする動機があっても、卑劣な取引や背信行為を相手に感じさせないのである。」(『インテリジェンス戦争の時代』p.9)

インテリジェンスを正しく理解するには、藤原肇氏の『インテリジェンス戦争の時代』の一読を皆さんにお勧めしたいのですが、残念ながら絶版ですので古本屋で探してもらうより他はありません。幸い、毎年春と秋に脱藩道場総会を都内で開催しており、藤原肇氏も参加者の一人として顔を出していますので、インテリジェンスとは何かと知るためにも実際に参加してみて、藤原肇氏からインテリジェンスについて直に吸収すると良いかもしれません。今秋は11月前後に開催を予定しており、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】で案内を出しますので、参加希望者は案内を見落とさないようにしてください。大勢の皆様の参加を期待しています。

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2005年9月13日 (火)

『暗黒日記』

b050913 先日、本ブログで紹介した『志に生きる!』で、『暗黒日記』を著した清沢洌を取り上げています。その中で最も印象に残ったのは以下のくだりでした。

清沢洌 戦争への道に反対し続けた外交評論家

『暗黒日記』は国家最優先の統制主義、官僚主義に対する批判など、当時の日本社会の病理現象を見事に衝いているが、清沢が最も力説したかったことは教育問題だった。昭和20年2月16日の日記で清沢は、「教育の失敗だ。理想と教養がなく、ただ「技術」だけを取得した結果だ」と記し、日本が破局を迎えようとしている原因を教育に求めている。

『志に生きる!』p.115

今回紹介した岩波書店の『暗黒日記』は、本来の『暗黒日記』の全分量の三分の一のみを収録したものなので、残念ながら昭和20年2月16日付けの日記は割愛されています。それでも、“清沢思想”のエキスは満遍なく岩波書店の『暗黒日記』にも行き渡っていると思います。以下は例によって私が同書に赤線や青線を引いた個所の一部です。(『暗黒日記』の表紙の写真をクリックしてみてください。表紙に書かれた文章を読むことが出来ます)

この戦争において現れた最も大きな事実は、日本の教育の欠陥だ。信じ得ざるまでの観念主義、形式主義そのものである。
『暗黒日記』p.155

私のコメント:本ブログを開設した際、本ブログの方向付けとして「広い意味での教育」について取り上げる旨、6月12日の本ブログに述べました。そして、『暗黒日記』の中で清沢が繰り返して述べるところの「教育」こそが、本ブログで伝えたかった「広い意味での教育」なのです。しかし、清沢が指摘する「日本の教育の欠陥」が、戦後において改善されたわけではなかったということは、9・11選挙の結果を見れば明らかです。清沢が『暗黒日記』の中で繰りかえして述べている、「どうしようもない(日本の)国民」は、今日に至っても全く変わるところがなかったのです。

日本の指導者は「学問」などというものの価値を全く解しない。無学の指導者と、局部しか見えない官僚とのコンビから何が生まれる!
『暗黒日記』p.183

私のコメント:まさしく、今の日本です。

国際関係は最も広汎なる総合的知識を必要とする。宗教と、思想と、政治と、経済とは素より状勢判断に必須のものだ。この判断は国内において最も無知なる軍人がやるのだから駄目なはずだ。
『暗黒日記』p.186

私のコメント:清沢の謂う「国際関係は最も広汎なる総合的知識」を身につけさせる…、それこそ今の子どもたちに必要な教育なのですが、今の日本の教育では望むべくもありません。

それにしても、この言論圧迫時代を、弧城を守り通して来たのは石橋湛山氏の『東洋経済』だけである。
『暗黒日記』p.215

私のコメント:『暗黒日記』を通じて伝わってくるのは、当時は如何に言論の自由が圧迫されていたかという事実です。そして、今日の日本も、真綿で首を絞めるように徐々に言論の自由が失われつつあります。 鹿砦社社長・松岡利康氏の逮捕が、日本で失われつつある言論の自由を物語っています。

頭山満が死んだそうだ。愛国心の名の下に、最も多く罪悪行なった男だ。同時にまた最もよく日本人の弱点を代表している男でもあった。
『暗黒日記』p.234

この世界から戦争をなくすために、僕の一生が捧げられなくてはならぬ。
『暗黒日記』p.245

僕は淋しくなった。小泉(信三)の如くは最も強靱なるリベラリストだと思った。しかるに今、それがまったく反対であることを発見した。
『暗黒日記』p.251

日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国になることはできぬ。すべての問題はここから出発しなけくてはならぬ。
『暗黒日記』p.262

私のコメント:ここでも再び「教育」が顔を覗かせています。清沢洌の謂う「教育」は、本ブログの「教育」と基底で相通じるものがあるのであり、『暗黒日記』は単に戦中という昔のことを書いた日記というだけではなく、日本の近未来も描いているのではと錯覚しそうです。“今”の日本を理解する意味で、『暗黒日記』は貴重な本であると謂えるのではないでしょうか。

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2005年9月12日 (月)

『陰陽道』

b050912 『陰陽道』(長原芳郎著 雄鶏社)の存在を知ったのは掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】を通じてであり、同掲示板の中で同書を紹介している一文を目にしてピンと来るものがあったので、即座にオンラインの古本を扱うサイトから取り寄せたのでした。同書には一度目を通しただけに過ぎませんが、現代科学しか信じない人たちの目からみれば、『陰陽道』は誠に摩訶不思議な本であり、トンデモ本として斬り捨てられる可能性が高い本かもしれません。一例として、同書の「太宰治と森鴎外」という項を以下に引用してみましょう。

太宰治と森鴎外の墓

 三鷹の禅林寺に、愛人と玉川上水に投身心中をした太宰治と、明治文壇の巨匠森鴎外の墓が向い合ってある。妙なことに、太宰治の墓へは、ブームのように参詣者が多い。それにひきかえ森鴎外の墓は、ひっそり閑としている。共に文壇の寵児であったのに不思議なことである。「墓相」ということもあるかも知れんから、ぜひ陰陽道の立場から観てこいと友人にすすめられた。
 両者の墓は、まことに質素で悪い墓相(悪いものは三角、丸にしたり華美に流れたりしたものはいけない、質素でなければならない)の墓ではない。ただ、太宰の墓は東を向き、森の墓は西を向いている。前に説明した如く、東は発展、繁栄を示し、西は隠れる、引退する意味がある。
 墓の向きにも方位があって、東から南までの向きが吉相ときれる。家庭の神棚や仏壇も同じで、神も仏もお墓もみな日当りのよいところが好きなのである。
 八卦の分類を練習する意味で、墓の向きの吉凶を説明する。

東向き=三碧、十二支は卯=発展する。名声がでる。
東南向き=四録=二支辰巳(巽)商売繁盛。
南向き=九紫、午=尊敬される。
西南向き=二黒未申(坤)ぞくにいう裏鬼門で、後家になる。妻を失う。妻が病気。
西向き=七赤・酉=色情の悩み。娘の悩み。借金。
西北向き=六白・戌亥(乾)=主人不在。精神病がでる。
北向きH一白、子=一家が流転する。常に病に悩む。
東北向き=八白、丑寅(艮)=ぞくに表鬼門のことで相続人が欠ける。

墓の華やかなけばけばしいのを凶相とする。質素を旨とし、生垣で囲む程度がよいとされている。地の気で説明したが、土の生気は循環するのがよいので、墓の敷地をコンクリートで堅めるのは良くないことになっている。太宰治の墓は、東を向いているから参詣ムードが起きたといえばそれまでだが、現代人には納得できない。私がこれを予言すれば、彼の文学が、権力に対する反逆、弱い人の味方、愛と真実を求める精神に貫かれていて、第二次大戦時、またその直後の青年に大きな影響をあたえた如く、昭和四十七年を頂上として再びその亡霊が現世に活躍する教示である。

『陰陽道』p.144

皆さんの家の墓はどの方角を向いているでしょうか、また、上記のくだりに思い当たる節があるでしょうか…。「これは迷信だ、そんなものがあるわけない」と謂われればそれまでですが、この広大な宇宙の芥子粒のような地球で、長生きしてもせいぜい百年という人間の知識なぞ、九牛の一毛にしか過ぎないのです。人間の智慧を超えた世界が存在していることを、直感的に悟ることができる人は幸せ者と謂えるでしょう。『陰陽道』は入門書的な性格を持つ書籍であり、人智を超えた世界の存在を感じ取れる人たちにお勧めします。同書は既に絶版ですが、幸いなことに、オンラインで古本を扱うサイトに多少の在庫があるようです。

今回、何故急に『陰陽道』を引っ張り出してきたかというと、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】でも時折投稿されていた風水師のK師が先週の金曜日(9月9日)の夕方に上京という滅多にない機会が生じたので、毎年の春と秋に一時帰国される藤原肇博士も参加される脱藩道場総会、あるいは同じく藤原銀次郎さんが世話人として藤原肇博士を囲む会として開催しておられる脱藩会に、毎回のように出席しているメンバーに声をかけてみたところ、なんと当日全員の6名の方が集ったのです。これには流石に私も正直びっくりしたものです。また、K師夫妻と私の3名以外に、6名が集まったのですから、奇しくも9月9日に9名が一堂に会したことも不思議な気がします。ともあれ、『陰陽道』の「太宰治と森鴎外の墓」の項にもある方角の神秘性も、無論K師の口から出ました。また、動物には未来を予知する不思議な力があり、半年後に台風が上陸することも動物の力を借りることによって予測可能であるという点もK師から学びました。そしてつくづく思うは、自然を観察することの重要性であり、時にはパソコンから離れ、折角自然に恵まれた環境に住んでいるのですから、これからは健康のためにも野山を歩いていこうと、K師と逢った日の帰り道の車中でつくづく思ったことでした。

動物たちの持つ不思議な力と謂えば、私は掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】のスレッド「相似象」に、以下のような東京新聞の記事を転載したことがあり、今回もK師が東京新聞の記事について話題にしておられました。

タイ南部でゾウが命救う
津波察知?旅行客乗せ丘へ走る

 【バンコク2日共同】ゾウが津波を事前察知、観光客の命救う─。スマトラ沖地震の津波が起きた昨年12月26日、被災地になったタイ南部の海岸にいた観光用のゾウが、津波の来襲する前に近くの丘に向け“疾走”、背中に乗せていた外国人観光客約10人の命を救っていたことが2日、分かった。

 ロイター通信によると、甚大な被害を受けたタイ南部カオラックで飼われていたゾウ8頭は、スマトラ沖で地震が起きたころ、突然鳴き始めた。すぐ静かになったが約1時間後、再び鳴き、客を乗せていた複数のゾウが突然丘に向かってダッシュ。客なしのゾウもつながれていた鎖を引きちぎって後に続いた。

 当時、ビーチには外国人観光客ら少なくとも3800人がいたが、逃げ遅れ、津波にのみ込まれたという。

東京新聞 2005/01/03

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2005年9月11日 (日)

9・11選挙の正体

現在、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】のスレッド[日本不沈の条件を考える]で活発な意見交換が交わされていますが、その中で本日の選挙に関わる発言が続いています。その一部については、既に本ブログ「日本不沈の条件を考える」でも紹介しました。

さて、本日の選挙の位置づけという観点から見るに、私が同スレッドの中で特に注目した発言が二つありました。最初に、同スレッドを立ち上げた藤原肇氏は、今回の選挙の位置づけを「電通をバックにした小泉首相のクーデター」としていますが、他所では全く見られなかった観点であっただけに、そうした藤原氏の観点に対して違和感を覚えた人たちが多かったはずであり、以下はそうした代表的な意見の一つでしょう。

15 名前: 相沢敏夫 投稿日: 2005/09/07(水) 20:30:20
藤原さんは小泉選挙をして、ファシズム-クーデターとのお見立てですが、私はアメリカのお寒さが津波となって日本列島を覆ってきている感冒ー風邪なのであって、日本本体(臓器)の病気ーファシズム現象-などではないと思われますが、いかがでしょうか。
アメリカのお寒さー財政貧困を金融に振り替えて次から次へと繰り出してくるインフルエンザを、これまた失政を隠したい無謬人士の大蔵族ー小泉さんたち、お寒い人たちが郵政に振り替えて日米一緒におお風邪になっているのに、何故か元気いっぱいと勘違いしている様に見えますが。

相沢敏夫氏の意見は、副島隆彦が唱える「属国論」、あるいはホームページ[株式日記]のオーナーが唱える「小泉ポチ論」の流れを汲むものと云えるでしょう。つまり、吉田繁治のメールマガジン「ビジネス知識源」にあるように、「外資系ファンドが買収し、[郵貯+簡保]の330兆円のジャパンマネーの運用を支配」したいという外圧(外資系ファンド→米国系多国籍企業)が今回の選挙のきっかけであるというのが、インターネットでも今回の選挙に対する一般的な見方と謂っても過言ではありません。なお、そのあたりについてはホームページ[よく分かる郵政民営化論]に詳しいので参照するといいでしょう。

その一方で、私が注目したもう一つの投稿が独逸朗氏の投稿であり、今回の選挙について独逸朗氏は藤原氏の小泉首相クーデター説に賛同しており、ドイツを例に持ち出して以下のように述べてます。

25 名前: 独 逸朗 投稿日: 2005/09/09(金) 04:23:03
#10ではドイツの“今”に焦点をあてたが、今度はドイツの過去から、今後の日本の針路を類推してみたい。

1933年1月30日 ヒトラー、ナチス党と右翼勢力の連合政府において首相になる。ナチス党からは無任所相兼プロイセン内務国家委員へルマン・ゲーリング、内相フリックの2名が入閣
1933年2月1日 ヒトラー国会を解散する。
1933年2月27日 夜  国会議事堂 炎上。
1933年3月5日 選挙。ナチス党は43.9%で第一党になる。
1933年3月23日 全権委任法 成立。

ごく大雑把な記述にすぎないが、賢明な本掲示板の読者諸氏には、この歴史的推移の意味するところは一目瞭然であろうと思う。国会議事堂の炎上。これは勿論、強度な地震でも、“テロ攻撃”でも良い。要は、“非常事態”になればよいのである。

インターネットの世界では米国の多国籍企業黒幕説(外圧説)が主流であり、藤原肇氏の説く電通黒幕説(内圧説)は皆無に近いことから、世間一般から見て電通黒幕説はなかなか受け容れ難い説かもしれません。さらに付言すれば、独逸朗氏の謂うところの“非常事態”が(少なくとも選挙当日の9月11日午前6時の時点において)起こっていないだけに、このままでは今回の選挙は米国の多国籍企業の黒幕説に押し切られそうです。しかし、果たしてそうでしょうか。ここで8月15日に本ブログで書評に取り上げた『阿片王 満州の夜と霧』、『朝日と読売の火ダルマ時代』(藤原肇著)などを一読すると分かりますが、電通黒幕説も意外と侮り難いことということが分かるのです。その意味で、私は藤原肇氏の電通黒幕説(内圧説)を支持しており、本ブログを訪れる皆さんにも『阿片王 満州の夜と霧』および『朝日と読売の火ダルマ時代』(藤原肇著)の一読を勧める所以です。

追伸: 本日の原稿をアップした後、ホームページ[よく分かる郵政民営化論]を訪れてみたところ、「<HP休止のお知らせ>」と題するお知らせがHP冒頭にありました。そこには、「明日、選挙が公示されます。選挙期間中はどのような表現が公職選挙法142条違反に該当すると判断されるか未知数ですので、HPを休止することとします」と書かれていたのであり、個人が管理しているホームページ[よく分かる郵政民営化論]にすら、今までの選挙になかった流れを同HPの「お知らせ」から読み取った読者も多かったのではないでしょうか。また、同HPの「お知らせ」の中に「※ふじすえ健三議員のblogのコメントに詳しく載っています」という追記がありましたが、電通=黒幕説を念頭にふじすえ健三議員のblogのコメントで交わされている一連の意見を再読すれば、今までに見えなかったものが見えてくるのです。 (2005/09/11)

追伸: 以下は、9月11日の選挙結果を踏まえて行われた、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】のスレッド[日本不沈の条件を考える]への尾崎清之輔氏の投稿です。 (2005/09/12)

電通が吉田秀雄社長(第四代目)の頃に旧満洲系や旧上海系の様々な人材を多く招き入れ、その流れが電通の伝統となることで、今に至る政財界人や大手メディアの親族縁者の溜り場と化しフィクサー集団が形成されている。この電通という場の源泉を担うインナーサークルである利権集団においては経済的合理性の徹底的な追求による現世的数量的利潤の獲得のみが彼らの存在理由そのものであるから、メディアを通じた強力なプロパガンダによる国民の賤民資本主義化は、60年前の敗戦から今日に至るまでを省みて、自らの頭を使って考え、自らの力のみで裁ききれなかったということで、その責任は重大であると言わざるを得ないところまできてしまったようだ。

先に紹介したブログ「灼熱」では「電通の正体」として、前回の内容に引き続いて簡単に触れているが、そこでは2003年度の広告宣伝費のトップがトヨタ自動車ということで、949億円の金額が一企業の宣伝費として上げられていることから、参考までにURLを貼り付けておきます。

http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200503030000/

追伸: その後、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】のスレッド[日本不沈の条件を考える]を読み返してみて、9月8日に丹沢良一氏という人が以下のような発言をしているのを見落としているのに気付きました。インターネットの世界ではユダヤ金融資本が小泉の背後にある(外圧説)とする説が主流となっていますが、それだけではなく電通も小泉の背後にいる(内圧説)と考えるべきで、それによりく9・11選挙の正体が立体的に見えてくるはずです。 (2005/09/12)

22 名前:丹沢良一 投稿日: 2005/09/08(木) 16:25:38

いよいよ電通とユダヤ金融資本の姿が小泉の背後にあることが、はっきりし始めたような感じです。アメリカの広告業界が選挙宣伝を請け負ったり、湾岸やイラク戦争のプロパガンダをして、メディアで洗脳工作をしたことについて、調べたいと思っているのです。そういうテーマでアメリカの宣伝会社の手口を書いた、著者と子本の題名と出版社を知っていたら教えてくれますか。アメリカ人かヨーロッパの人間が書いたものを希望します。

勉強しておけば今後の電通の手口を読めると思うからです。

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2005年9月10日 (土)

九州で体験した奇妙な地上巡礼(上)

本日のホームページ【宇宙巡礼】にアップしたのは、「九州で体験した奇妙な地上巡礼(上)」という記事であり、来週・再来週にわたる3回シリーズでお届けします。私の下手な言葉で同記事を紹介するよりは、同記事の冒頭を紹介する方が良いでしょう。メタサイエンスに関心のある訪問者は、時間があれば記事に目を通してみてください。また、質問・意見などがあれば掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]でお願い致します。

九州で体験した奇妙な地上巡礼(上)

構造地質学を修め、長年国際石油ビジネスをてがけてきた藤原肇氏は、自らを称して「地球のストレスの専門家であり、地球が患者だという特殊な医学部門のプロ」と呼ぶ。型にはまらない根っからの自由人である氏は、科学から政治・経済、はては文明論に至るまで、その奥に潜む問題をかたっぱしから俎上にのせて論駁し、独自の見解を提示してゆく日本人にはめずらしいタイプである。とりわけこれまでの近代科学の限界を越えた、新世紀の学問原理としての〝メタサイエンス〟を提唱している点などはまさにユニークの一語につきる。

「日本には真のサイエンスがない」と嘆く藤原氏。そうした意昧深長な言葉を軽妙な語り口で論じる〝特殊な医学部門のプロ〟が、この春、奇妙な連鎖反応に導かれて旅をした。

本稿は、その藤原氏が体験した日本漫遊記である。

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2005年9月 9日 (金)

古代史研究のすすめ

m019 昨日、偶然にも空海を取り上げましたが、松岡正鋼氏の著した『空海の夢』の表紙を眺めながら、いつしか古代に思いを馳せていた自分がいました。それで2年前に古代をテーマにIBDに投稿したのを思い出したので、本ブログに再掲することにより、訪問者の皆さんにも古代に思いを馳せてもらえればと願う次第です。

古代史研究のすすめ

 2001年12月23日、68歳の誕生日を迎えた明仁天皇が特別記者会見を開き、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であることが、続日本紀に記録されていることについて語り、日本の皇室と百済との血縁関係について、初めて公的に認めたことは記憶に新しい。その中で、中央日報をはじめとする韓国のマスコミが、天皇の発言を大きく取り上げたのに対し、日本のマスコミの取り扱いが極端に小さかったのが対照的であった。それにしても、天皇家の遠祖が朝鮮人であることを天皇自ら認めた発言の持つ意味は大きく、歴史のベールの一枚が剥がれたと思った読者も多かったのではないだろうか。

 天皇家と歴史との関連で思い出したことは、日本人のルーツを古代シュメールに求める研究が、戦前の日本において盛んに行われていたと物の本に書かれていたことだ。シュメールと日本が結びつけられたのも、バビロンのイシュタル門に皇室の正紋である十六菊花紋と瓜二つの模様が刻まれていること、天皇を意味するスメラミコトがスメラ(シュメール)尊(ミコト)と解釈できるといった類似点によるものだろう。しかし、優秀なシュメール族の末裔である日本民族は、世界を支配する資格を持つといったプロパガンダとして、戦前のシュメール研究が日本の軍部に利用されたという一面も見逃すわけにはいかない。そうした戦前の反省もあり、戦後はスメラというラテン語読みを止め、シュメールという英語読みに切り替えたのである。以上のような経緯があるにせよ、シュメールがさまざまな形で日本に影響を及ぼしてきた可能性は高い。

 そのシュメールを指して、「歴史はシュメールに始まる」と語ったのは歴史家のS・N・クレーマーであった。紀元前3500年頃のメソポタミア南部に、ウルク期の都市国家を建てたシュメール人が、楔形文字・法典などを作ったことはよく知られている。さらに、シュメール人は高度な数学を操り、天文・灌漑・精錬・造船などの技術を身につけていたという。また、シュメール人の遺したギルガメシュ叙事詩は有名であるが、そのギルガメシュ叙事詩によれば二院制議会が存在していたとある。法に基づく裁判も行なわれたようであり、それは出土した法律文書や数々の判例を記した粘土板からも明らかである。学校と思える遺跡も発掘されており、そこからは教科書や生徒が宿題を筆記した粘土板ノートも多数発見されている。このように、古代文明といえば新石器時代に少々毛が生えた程度のものといった、従来のイメージから大分かけ離れているのがシュメールなのである。それにしても何故、荒涼としたメソポタミア南部という地をシュメール人は選んだのか、そもそもシュメール人とは何者であり、何処から来たのかといった点は今もって不明とされている。

 その後、さしもの高度な文化を誇っていたシュメールもついにその終焉を迎えるときが来た。時は紀元前2004年、山岳騎馬部族のエラム人やセム系のアモリ人との戦いに敗れ、ついにシュメール最後の王・イビシンがエラム人の捕虜になって連れ去られたことにより、ウル第三王朝は滅亡した。イビシン王同様に捕らえられた多くの文官・農民・職人といったシュメールの人々は、そのままメソポタミアの地に残って新国王の元で生活を続けたのだろう。そのように考える根拠は、シュメールの地がエラム人やアモリ人などに支配された後も、行政・農業・工業などにシュメール方式が引き継がれているからだ。しかし、シュメール人全員がメソポタミアの地に残ったわけではない。ここで、シュメール人が航海術に長けていた海人であったことを思い出す必要があろうし、新国王の支配下に入るのを逃れたシュメール人の中には、船を使ってメソポタミアの地を後にした者もいたことであろう。彼らの最初の逃亡先がインドであり、シュメール人がインダス文明の担い手になった。その後、インドを始点に長い歳月をかけて広い太平洋各地に散らばっていったシュメール人は、それぞれの土地の先住民族と融合していったのである。その一部が日本にも流れ着き、日本の建国に大なり小なりの影響をもたらしたのではないだろうか。

 ここで、黄河文明が誕生したころの古代中国に目を転じてみよう。結論から先に言えば、古代中国もオリエント文明と深い関わりを持っていたのである。民間の歴史研究家である鹿島昇氏は、自著『秦始皇帝とユダヤ人』(新国民社)の冒頭で以下のように述べている。


考古学上の所見によれば、中国の古代は、
(1) 前四〇〇〇年ころから、黄河中流域に農耕文化を基盤とする彩陶系の仰韶(ヤンシャオ)文化が発達した。この文化は陸のシルクロードによって、トルクメニアのナマヅガからもちこまれたものらしい。
(2) これより先、山東半島は前五三〇〇年ころから北辛文化が、前四五〇〇年ころから大紋口文化がおこり、前二四〇〇年ころから、さらに農耕文化が発達して、黒陶系の良渚文化が山東半島から侵入し仰韶文化より広い範囲に広がった。この文化は龍山文化といわれ、海洋文化らしい。
(3) 前一六〇〇年ころから黄河下流に青銅系の殷文化が発展した。前一〇〇〇年ころ別の殷人が侵入して先住者と争った。これらの殷人は明らかにマレー海域または東南アジアの海人であるということができよう。
これら三段階の文化の担い手を(1) 彩陶人、(2) 黒陶人、(3) 殷人と称すれば、その人々はどこから来て、どこへ行ったのであろうか。東洋史において、実はこんなことがわかっていないのである。
『秦始皇帝とユダヤ人』p.16

 殷人を例に挙げるとすれば、鹿島氏は様々な角度から検証を重ねた上で、「殷人は初期がヒクソスで、終期がカルデア人を中心とするアラビア海の海人である」という結論を出している。

 鹿島氏同様に、岩田明氏という民間の歴史研究家が『十六菊花紋の謎 日本民族の源流を探る』(潮文社)という本を著しており、岩田氏の場合は殷について以下のように述べている。

イン族の源流は、印度アーリアと同部族の、バラモン一族だったのではないか、というのが私の推論である。イラン高原から東西に分れ、東に進んだアーリア族の一部族が、インダスを経て印度パンジャブ地方に侵攻し、印度アーリアを形成した。また別の一部族が、中国平原に進出して東に向かい、イン王国を建設した。
『十六菊花紋の謎 日本民族の源流を探る』
(岩田明著 潮文社)P.204

 鹿島氏と岩田氏の古代中国史の捉え方にズレがあるものの、オリエント文明からの影響を大きく受けたのが古代中国であると主張している点で一致している。蛇足ながら、世の中に出回っている古代中国・朝鮮・日本の通史は基本的に間違いであると、鹿島氏は一連の自著の中で述べていので、その例を古代中国に絞って以下に示そう。

中国政府は始皇帝陵の調査を妨害しているのである。中国政府は真実が明らかになれば中国史の根本が否定されてしまうことをおそれているからではないか。真実とは、秦国はグレコバクトリアの植民市であり、始皇帝がバクトリア王ディオドトスその人であったという歴史である。
『秦始皇帝とユダヤ人』(鹿島昇著 新国民社)p.209

儒者とはジュウ民族のことであり、孔子がユダヤ人の予言者エリアであり、中国における儒教と道教が古代ユダヤ教の翻案であったという、この問題に対する本書の結論は余りにも常識的でないといえるかもしれないが、見方を変えれば、「コロンブスの卵」のように、実に常識的なものであった。
『孔子と失われた十支族』(鹿島昇著 新国民社)p.12

 以上の例からだけでも、鹿島氏はかなりユニークな史観の持ち主であることがお分かりいただけると思う。その鹿島昇氏は多数の本を執筆しており、筆者も鹿島氏の本を10冊近く入手している。鹿島氏の本はどれも世の中の“常識”と大きくかけ離れているため、にわかには信じがたいという読者が多いはずである。また、必ずしも具体的な証拠を挙げている訳ではなく、かなりの部分において推測を頼りに結論を導き出すのが鹿島氏のやり方である。だからこそ鹿島氏の著書はユニークで面白いのだが、同時に批判的に読み進めることを忘れないようにしたいものだ。無論、中学・高校の歴史教科書に書かれている内容を鵜呑みにすることも良くなく、あくまでも己れの頭で考えに考え抜いた史観を構築することが大切であると思うし、それこそがインテリジェンスを身につける第一歩となるのである。

 始皇帝の焚書坑儒の例に見るように、権力者によって握り潰されたり改竄されたりしてきたのが歴史という記録であり、そうした歴史の“嘘”を見抜く眼こそインテリジェンス能力に他ならず、ここにインテリジェンス能力を身につけるすすめを説く所以である。本シリーズで幾度か繰り返していることだが、インテリジェンスは来る情報化社会において不可欠なものである。その日に備えて今からインテリジェンス能力を磨く意味でも、折にふれて歴史の森を散策したいものである。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
秋の到来を告げるツルボ

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2005年9月 8日 (木)

『空海の夢』

b050907 『空海の夢』(松岡正鋼著 春秋社)は二度ほど目を通した記憶があり、そのたびに同書から刺激を受けていました。以下は『アメリカから日本の本を読む』から引用した『空海の夢』の書評です。

空海の夢

 一回目を読み終ったあと、カバーの図柄をぼんやりと一五分以上も眺め続けた本である。頭の中が白く乾いて、無闇矢鱈にすがすがしかった。空海という人問の存在を知り、場面としての生命の海が眼前に彷彿と拡がった。

 それだけでなく、現役のエディトリアル・ディレクターとして活躍する著者が、私と同時代に生きるより若い世代であると知ったことが嬉しかった。文明の変革期であり時代の転換点に位置する現代は、本物の知識人が種として絶滅に瀕している時代だからである。

 『もくじ』に続いて本文に入る間の黒いページに白抜き文字で、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」とあるのが、強烈なショックをもたらせた。

 解説は本文中にあって、著者も肺腑をえぐられる印象を持ったようだが、『秘蔵宝鑰』の序にあるこの章句には、空海の決定的な生命観が籠っている。

 彼の名の空が私の用語のドライウェアを示し、海が生命と結びついてウェットウェアを意味するとしたら、日本が生んだ不世出の哲人は、宇宙生命そのものを体現していることになる。

 「空海は全存在学の思想系譜にこそ位置づけされるべき」と確信し、「空海ほどElan vitalを日本において主唱した思想家はいなかった」と著者は言い切る。そして、空海には《意識の進化》と《言語の進化》という二つの大きな視座があることにより、「生命の普遍性や言語の普遍性に対する信じられないほどの今日的考察がある」事実を確認した著者は、その背後にあるコトダマの底流にふれるために、エディトリアル・オーケストレーションの妙を最大限に発揮してみせる。

 「生命が意識を持ったということは、ほぼ同時に言語あるいは記号系をもったということだ」に始まる、人類史と生命史の語り口は絶妙である。情報系の視点で捉えた生命史のパースペクティブは、実に広く深くダイナミックである。地質学を専攻にした私が大学四年を費して学んだことのエッセンスに相当するものが、僅か十数ページに抽出整理してあったので、私は感嘆の吐息をもらしたほどだ。

 知識量を誇る単なる博識やIQの高さくらいなら、たやすく心を動かす私ではないが、そのレベルを超えて情報系の文珠を見た思いがしたので、私は目を見張ってしまった。

 「思想は時代を横なぐりにする。しかし、空海は時代をタテになぐった」とか、「空海は人物そのものではなく、その奥にゆらぐキ一フメキにのみ感応できた」といった表現は、修辞を超えて物事の本質に喰いいる発想であり、誰にでも書ける文章ではない。

 これだけ核心に迫る表現力を操る日本の文士に、これまで出会ったことがないが、『仮名乞児の反逆』と題した空海の青春譜は、まさに大河小説のエッセンスであり、甘露を含む澄んだ水質と豪快な水量を、緻密な構成の中で描きあげている。

 また、インドから中国に伝来した密教の物語りは、それ自体プラネタリー・ドラマの一部を構成するだけでなく、コスミック・シンフォニーの響きを持つ。

 日本史もアジア史も思想史も、著者にとっては生命史の一部になっている。全体の明晰性を反映して細部まで透き通った水になり、読む者を目がけてノアの洪水のように襲いかかってくる水勢のダイナミズム。『空海のアルス・マグナ』と題して、『絶対の神秘』に始まって、『象徴の提示』、『儀礼の充実』、『総合と包摂』、『活動の飛躍』と並んだ表題を眺めているだけで、頭の中をコスミック・シンフォニーが鳴り響く思いが拡がっていく。

 呼吸の芸術であるシンフォニーは宇宙生命の流れの韻律である。《ジュピター》として名高い第四一番の壮大な響きからすると、ニックネームのない交響曲四〇番は、私にとって《クウカイ》の名でもいいと思えてきた。第二楽章のアンダンテと第三楽章のメヌエットには、たゆたいのモチーフをたたえた《イロハ歌》が感じられる。モーツァルトの明るさが空海の冥さと、妙に整合していくのが面白い。

 私はこれまで本書を二度読んだに過ぎないが、読むたびにより深い味わいを体験できたことからして、真言密教の開祖空海に対して、松岡さんが今後どのようなアプローチをし、どんな形で無言の対話を行間に埋めこんでいるかを探る楽しみがありそうだという予感がする。

 奥行きの深いテーマ故に、私はこれまで著者と空海の世界の一部をかい間見ただけにすぎないかもしれない。それに、死ぬまでの問に更に何度となく読みかえし、そのたびに異った味わい方が出来るタイプの本だ、との印象も強い。しかも、一度と言わず何度でも、本書を読んでみたらいかが、と若い世代の人にアドバイスするのが心楽しく思えるのだから、素晴らしいではないか。

『アメリカから日本の本を読む』p.189

上記の書評を『アメリカから日本の本を読む』に書いた藤原肇氏は、その後掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]に以下のような投稿をしておられます。

「空海の間脳幻想について」今年は空海が渡唐して1200年目だということもあり、空海について池口和尚との三回にわたる対談をまとめ終えた段階で、「性霊集」を読み直したいという気持ちになった。私は似たテーマの本を数冊ほど同時に読むという癖があり、今回は久しぶりにA「空海の夢」,B「空海の風景」,C「曼荼羅の人」を並列方式で読み、いわゆる直列方式から離れて読書を試みた。結論だけ書くとこれまでの評価はABCの順だったが、今回の並列方式の読書の結果はCABになったのであり、十数年前は「空海の夢」に強い印象を受けたので、「アメリカから日本の本を読む」にも書評したのだった。今回の再読を通じてCにはインテリジェンスの面白さを感じ、Bはあくまでもインフォメーションの本だと思い、Aはその中間だという印象を強くしたことが興味深かった。(このヒントを叩き台に議論が賑わって欲しい)

上記のスレッド[空海の夢]にも書きましたが、同スレッドの中で私は「空海二度渡唐説」をはじめとする、興味深いサイトの数々を紹介しました。関心のある方は是非スレッド[空海の夢]を一度訪問してみてください。

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2005年9月 7日 (水)

フルベッキ写真の懲りない面々

フルベッキ写真に関する記事を本ブログに公開しましたが、これから徐々に大勢の人たちが検索エンジン等を通じて本ブログに訪問してくることが予想されます。そうした訪問者の中には、フルベッキ写真に西郷隆盛や明治天皇などが写っていると主張しているHPオーナー達もいることでしょう。彼らが今までのフルベッキ写真についての主張を訂正するのか、あるいはあくまでも西郷隆盛や明治天皇などが写っていると、今後も主張を貫き通すのかは分かりませんが、ここは記録に残す意味で、明治の元勲がフルベッキ写真に写っていると主張する主なサイト(阿修羅などの掲示板や2チャンネル除く)を以下に羅列しておきます。

■異業種交流会BIN
ここでは西郷隆盛や明治天皇らが写っているとして、フルベッキ写真を80,000万円で販売しています。
http://www.binnet.co.jp/shop/details/054.html

■某市会議員
HPのオーナーは某市の市会議員さんです。その某市会議員さんのサイトでフルベッキ写真をアップしているページに、「……中丸薫さん(国際政治評論家)が『真実のともし火を消してはならない』(サンマーク出版)と言う本を出版され、同じ写真が紹介された……」と書いてあるのが目に止まりました。明治天皇の孫と称する中丸薫氏が、フルベッキ写真に祖父が写っていると信じ込んでいることが明白です。
http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

■幕末維新新選組
これは新撰組を中心テーマにしたサイトであり、『幕末維新新選組』(新選社)という単行本も出版しているようです。このサイトも西郷隆盛や明治天皇らが写っていると主張しているサイトです。
http://www.bakusin.com/toubaku.html

■有限会社アデプト
冒頭で、「衝撃の事実!」と仰々しくフルベッキ写真を紹介しており、明治天皇らが写っているとして19,800円で販売しています。
http://www.store-mix.com/ko-bai/product.php?afid=4176694&pid=138559&oid=116&hid=30050

■情報ネットワーク『INFAC』
『真事実の明治維新史』と題したコピーしたものを綴じただけのファイルやCDなどを併せて6,500円で販売しています。(1年ほど前は3,500円高の10,000円で販売していました)『真事実の明治維新史』には堂々と「“玉”とフルベッキ博士を囲む志士達の記念写真」と明記しています。
http://www.infact-j.com/matsushige/mc1bm2.htm

※『真事実の明治維新史』
http://www.nextftp.com/tamailab/photo/pic/verbeck03.jpg

■ゆめたいWeb
楽天にも出店しています。
http://www.yumetai.co.jp/data/45848.php

■(株)東京書芸館
極めつけは東京書芸館でしょう。昨年(2004年12月暮れ)、大胆にも全国主要紙に坂本龍馬や西郷隆盛らが写っているとして広告を出した会社です。以下の[風のまにまに]というブログにも書かれているように、各方面から批判のメールがあったことが容易に推測できるのであり、今では問題のページは削除されていますが、朝日新聞などの主要紙にフルベッキ写真の広告を掲載した事実は、永遠に消し去ることはできません。

(株)東京書芸館
http://www.rakuten.co.jp/shogeikan/

ブログ[風のまにまに]
http://d.hatena.ne.jp/ironsand/20041228#p1

なお、以下は副島隆彦氏のフルベッキ写真に関する発言です。出典は副島氏自身の掲示板[気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板]からです。

[3995]安易で根拠の薄弱な陰謀論(コンスピラシー・セオリー)に流れる人々に警告します。 投稿者:副島隆彦投稿日:2005/03/10(Thu) 10:38:52

それから、その変な写真の件ですが、それは、幕末のフルベッキ英語塾(フルベッキは、オランダ人で、20歳で渡米、そのあと40歳ぐらいで長崎に来ていた。)に通っていた、上級武士の良家の息子たちの集合写真であって、これを、「幕末の元勲の勢ぞろい」などと、馬鹿な見出しをつけて、ネット上を出回っているものです。 年齢から考えてごらんなさい。維新の元勲の勢ぞろいなどあるわけがないでしょう。余計な、馬鹿な陰謀論をご自分で払拭してください。それ以上は私はつきあいません。勝手にやっていなさい。  副島隆彦拝

フルベッキ写真に明治天皇、坂本龍馬、横井小楠らが写っているとする一部のサイトと較べ、フルベッキ親子以外は贋物とする常識派に副島氏は属していますが、そうした常識派である他のサイト同様、フルベッキ親子以外に大隈重信や岩倉兄弟が写っているとは、副島氏も夢にも思わなかったことでしょう。さらに付言すれば、「フルベッキ英語塾」だとか、「40歳くらいで長崎に来ていた」だとか、「オランダ人」などと副島氏は書いていますが、明らかな間違いです。評論家というプロの物書きなら、出鱈目を書くのではなく、もう少し慎重に筆を進めるべきでした。

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2005年9月 6日 (火)

「日本不沈の条件を考える」

本日、掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]で、地質学博士の藤原肇氏が自ら「日本不沈の条件を考える」というスレッドを立ち上げています。

以下が藤原氏の本日の投稿内容です。

1 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 02:45:48
二十数年ぶりにこの本を読んだことにより、当時の危機感を思い出すと共に、現在の日本がもっと危険な状態に直面しているのに、日本人はそれに気づいていないと先ず指摘したいと思います。
「世界週報」に1977年の11月に出た記事は、日本人記者クラブと石油連盟での講演の草稿で、このときの帰国には防弾チョッキを身につけ、成田ではなく羽田空港を使うために、わざわざ中華航空を使ったことを思い出しました。

上記のスレッドを立ち上げた理由は以下のスレッド・ブログ[教育の原点を考える]にあります。

27 名前:藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 02:36:29
事情が分かりました。私の手元に「世界週報」の記事があるので、早速コピーして亀山さんに送ります。また、今回の討論に啓発されて「世界週報」の記事を20数年ぶりに読み返し、報告しておきたいことに思い当たったので、「日本不沈の条件を考える」というスレッドを起こし、そこで議論を進めようと考えました。
実は「日本不沈の条件」を書いた頃が、私のジャーナリスティックな仕事の絶頂期であり、皆さんにきっと参考になるだろうと考えます。

以下は再びスレッド・「日本不沈の条件を考える」です。

2 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 07:59:15

1973年の石油危機の到来についての予告記事は、1971年の春の『文芸春秋』に掲載されたが、石油危機でパニックに陥っていた時期に、『石油飢餓』の出版がサイマル出版会で決まった。だが、この時点での私の危機感は別のものに移り、それはこの本の「前書き」に次のように記録されている。
「・・・戦後長らく続いた保守政治がついにファッショ化して、独裁者のまわりに翼賛政治家が結集し、すでに財閥化した財界と結託して、一億の国民を再び悲劇の中に巻き込もうとしている。・・・現在進行していることを正しく評価するためには、時間を置いて歴史的事件として過去において見るか、空間的に距離をおき日本列島から一歩遠ざかって、しかも、日本に焦点を合わせてみるかの二つの方法しかない。私は地球を相手にした歴史学者として、自分の生きている時代がどのようなものであったかを後になって気づいて、後悔するのは嫌だから、太平洋を間において日本を観察しているが、このファシズムの不吉な胎動は気がかりでならない。国民が力を合わせてこの狂気時代の亡霊の復活を粉砕し、日本人が一致団結して石油危機の克服に向かって、集中できるような条件を作っておくように期待してやまない。・・・」
そして、この本の中のどこかに、田中首相と中曽根通産相の辞任を要請して書き。それが理由でこの本は市場から消え去ったし、私は多くの人の忠告に従って1977年までは、日本に近づくのを回避したし防弾チョッキを着て帰った。それにしても「光陰矢のごとし」で、この記事が31年前に書かれたとは思えないほどで、今日執筆しても新鮮だと感じるほどである。
なぜならば、小泉がやっている一連の政治的な布陣は、情報時代のソフトなクーデタであり、それに気づいているのは私ぐらいだろうが、それを将来の歴史のために「靖国維新」と名づけて、私はその動きを太平洋のた対岸から観察している。そして、維新は権力支配を目指すクーデタであり、支配者の間の権力争奪だという点で、911選挙で使う非公認や刺客の手配が、ソフトな粛清だと気づく日本人がいないのが寂しい。

5 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 17:09:22

脱藩道場の総会に出席したことのある人は覚えているはずだが、ここはモデルを緒方洪庵の適塾にとっていて、表札には私の顔写真が出ているけれど、皆さんが自主運営をして切磋琢磨し、私は必要な時にしか発言を控える姿勢です。それは自らの頭で考えることが重要で、説明や答えを聞く場所ではないからです。ただ、今回の場合は私が言いだしっぺだから、維新の意味論だけは書いておきます。日本では明治維新が歴史の節目で、維新という言葉はなじみ深いものですが、維新をカタカナにすればクーデタであり、これは権力内部における覇権争いであり、下から体制を変革する革命と違うことは、「ジャパン・レボリューション」で論じたことです。
クーデタは1630年代にイタリアのリベルタンが取り上げ、君主が取る特別な措置という意味で使われ、権力サイドが自分の都合のいいように、改革と称して試みる支配権の確立に期限を持ちます。国家が公を体現し「朕は国家なり」という時代は、権力者による反対派の弾圧はクーデタであり、だから、ブリュメールの18日もクーデタでした。だから、首相として権力を握っていても、絶対的な支配が出来ていないと考えれば、首相自らがクーデタを試みるわけで、それが小泉の「靖国維新」の歴史学的正体です。19世紀までのクーデタは軍事力が中心だったが、情報化が進んだ20世紀はソフトになり、ハードなクーデタは中南米やアフリカにあったが、先進国はソフトな権力交代が中心でした。明治維新はハードだったから戦争が絡んだし、昭和の日本は形だけは工業国だったが、文明度の実態は後進国だったから515事件や226事件は軍事力と結び、昭和維新としてのクーデタになりました。だが、軍隊は権力サイドの組織だから、日本の右翼は時代遅れのせいで三無事件や三島事件のように、自衛隊を使って維新をしようとしたわけです。小泉の場合は背後に電通がいるので、同じクーデタをソフトにやっており、メディアの関心を集めるために殊更に靖国問題を使い、大衆の感情をそこに集める心理作戦を駆使するので、テレビなどのマスコミを使った情報戦術だから、私は「靖国維新」と名づけたのです。

8 名前:藤原肇 投稿日: 2005/09/07(水) 00:27:54
日本の言論界の批判精神が衰えたために、目の前で進行している事態に対して、正確な把握が出来なくなっているような感じで、それが現在の日本を閉塞感から救えない、最大の理由になっていると思います。たとえば、参院での郵政法案否決にたいして行った、小泉の政治的慣例を無視した解散に対して、どうも感情的なネーミングをしており、理性的かつ分析的な発想で位置づけした形で、概念化をしていないように思われます。新聞で見かけたものだから特殊かも知れないが、例えば次のようなものがそれです。
・自暴自棄解散・亀井静香
・自爆テロ解散・森永卓郎
・自己愛解散・香山りか
・八つ当たり解散・又市征治
・江戸の敵を長崎で討つ解散・高村正彦
これらは表に現れた現象的なものとか、心理的な面を強調したネーミングで、より深い歴史性や深層心理に肉薄しておらず、何となく現代風のコピーライト形であり、キャッチフレーズとして分かりやすいとはいえ、歴史に残るかどうか疑問に感じます。
私の「靖国維新」という捉え方に基づいて考え、そこから「靖国解散」とすれば混乱してしまい、訴える力がなくなるのは次元が違うからです。
だから、『911選挙』を「靖国選挙」といえないわけで、これは「大権委任の国民投票」と理解すれば、ヒトラーが「大権委任法」を根拠に独裁を確立して、合法的に独裁者になったプロセスと同じ、ソフトな形のクーデタに対応すると分かります。
独裁を狙うものは国民投票を好みますから、ペロンやフセインは常に国民投票を求めたし、それでポピュリズムの熱狂を盛り上げました。このメカニズムが理解できれば、なぜ中曽根康弘、石原慎太郎、小泉純一郎などが、首相公選を主張していたかという理由が、明白になるのではないかと考えます。
ほとんどの日本人は選挙だと考えているでしょうが、いま直面しているのは国民投票なのであり、その背後には「全権委任」という独裁者の狙いがあり、こうした理解が歴史の教訓の成果です。これで私の問題提起は一段落したので、後は皆さんの活発な討論を期待しています。

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エネルギー事始

本日、新たに「エネルギー」というカテゴリーを追加しました。新カテゴリーを追加した理由は2つあります。1つは、今月から1年間の予定で世界エネルギー事情を主テーマとする、記事の翻訳(英文和訳)を担当することになったため、2つは、世界のエネルギー事情の記事翻訳を担当するようになった機会を生かし、もともと関心のあったエネルギーを、改めて文明の次元から眺めてみたいと思ったからです。

エネルギー(石炭・石油・天然ガス)が主テーマになるため、ジオロジストである藤原肇博士の石油をテーマとする一連の著作を揃えていることもあり、『石油と金の魔術』をはじめとする藤原博士の著作・記事などを中心に引用していきます。内容的には文明の次元から眺めたエネルギー事情から、日常生活レベルのエネルギー事情に至るまで、様々な次元・視点から筆を進めてみたいと思います。そして、現在IBDのウェブ機関誌『世界の海援隊』に執筆している「世界放浪の旅」が来年の6月で終わることから、来年の7月以降の新シリーズとしてエネルギーに関連する記事の連載を考えているので、新シリーズに備えた資料作りという意味合いもあります。

追伸:最近、石油が高騰しています。以下はイギリスの新聞『ガーディアン・ウィークリー』の記事であり、石油の高騰についての分析内容になっています。。特に、同記事に使われているイラストは、第二次世界大戦後から今日に至るまでの石油の値動きを分かりやすく示しているので、戦後の石油の値動きについての鳥瞰図を得る意味で役に立つでしょう。

"Oil trade hints at $100 a barrel"

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2005年9月 5日 (月)

『志に生きる!』

b050905 『志に生きる! 昭和傑物伝』(江口敏著 清流出版)は、文字通り昭和の代表的な傑物を描いた本であり、同書に一貫して流れているのは、“反骨精神”あるいは“野心(のごころ)”であると言えるでしょう。そうした傑物には到底及ばないものの、私も自分なりに志に生きてきたつもりであり、それ故に二人の息子の名前にも「志」の字をあてているほどです。今という時代は志を貫き通すのが大変困難な時代であるだけでなく、志そのものを何処かに置き忘れたかような人たちが増えてきているだけに、志に生きる大切さを改めて思い出してもらうためにも、一人でも大勢の人たちに同書に目を通して欲しいと願う次第です。徳富蘇峰のような人物も傑物(ずばぬけてすぐれた人物)の一人に数えている点については異論がありますが、それでも同書はその人の持つ反骨精神の度合いを測る恰好なリトマス紙の役割を果たすように思います。いつものように、以下は『志を生きる! 昭和傑物伝』に目を通した中で印象に残った個所をコメント付きで引用したものです。

河合栄治郎

 明治41年、栄治郎は念願の第一高等学校に入学した。当時の校長はキリスト教徒であり、高い西洋的教養を身につけた理想主義者の新渡戸稲造博士だった。当時の一高はバンカラ主義が幅を利かせ、新渡戸校長の個人主義、理想主義は一高の鋼健尚武の気風と相容れない軟弱思想だという反発が強かった。論争を挑まれた新渡戸は大勢の寮生を前に、「自分はあながち一高の伝統的校風を破壊しようとするものではない。本意はただ、人生の目的に単なる立身出世ではなく金を儲けることでもなく、個々人の人格、すなわち個性の尊厳を認識して、そのすこやかな成長をうながそうとするにある。諸君よ、果たしてこれが一高の校風と矛盾撞着するだろうか。鋼健もよい、尚武もよい、しかし私の教育の究極のねらいは人格の向上にこそある」と説いた。会場は水を打ったように静まり、泣いている生徒もいた。栄治郎もその一人だった。日本古来の国粋主義であり立身出世主義者であった栄治郎が、人格至上の理想主義に回心した一瞬だった。

『志に生きる!』p.184

私のコメント:上記の新渡戸稲造の言葉に出逢えただけでも、同書を購入した価値はありました。新渡戸博士の説く「教育の究極のねらい」に深い共鳴を覚えます。

井上成美

 いつの時代でも、リーダーの立場にある人には見識が求められると思います。国際的な視野に立って、国をどう導いていくかを判断する能力が必要なことはもちろんですが、自分が正しいと信じたことについては、筋を曲げないで、どこまでも貫いていく逞しさも一つの見識ではないでしょうか。自分の信じる道を貫き、敗れれば潔く退く。そのためには決して栄達を望まない。井上(成美)さんにはそういう見識が見事に備わっていたと思います。常に辞表を懐にして任に当たるという覚悟がありました。この井上さんの見識、覚悟は現代の企業社会にももとめられるものだと思いますが、井上さんほどの覚悟をしているリーダーは果たして何人いるでしょうか。

『志に生きる!』p.29

私のコメント:信念を貫かねばならないのは何もリーダーに限りません。私たち一般人にとっても、人間として人生を生きていく上での必要な心構えであると思います。

最後に、やはり同書に登場する出口王仁三郎の項で、以下のようなに「出口王仁三郎は有栖川宮熾人(たるひと)の落胤である」という記述がありました。

出口王仁三郎

 しかし、喜三郎(出口王仁三郎)には他の弟妹にはない、もう一つの出生の秘密があった。それは、のちに第二次大本事件の裁判でも審理された、有栖川宮熾人親王の落胤という秘密である。喜三郎の母・世弥は娘時代、叔父の経営する伏見の料理屋へ奉公に出、熾人親王の子を宿した。前後して、親王は東京遷都のため東上。妊娠を知った世弥は逃げるようにして故郷へ帰り、母と謀って、近所の奉公人を養子婿に迎え、七ヶ月後、早産の子として喜三郎を生んだ……

『志に生きる!』p.343

私のコメント:『ニューリーダー』という優れた経営誌があります。私が『ニューリーダー』を定期購読しているのは、在米の地質学博士・藤原肇氏の対談記事が時折掲載されているというのが主な理由なのですが、実はそれ以外にも落合莞爾氏の「佐伯祐三・真贋論争の核心に迫る 陸軍特務吉薗周蔵の手記」というテーマの連載記事にも注目しているからなのです。尤も、『ニューリーダー』は大分前から定期購読していましたが、落合氏の記事にじっくりと目を通したことはありませんでした。それが1年ほど前、藤原氏に落合莞爾氏の記事の凄さを教えていただき、帰宅後改めてじっくりと落合莞爾氏の一連の記事に目を通してみたところ、そこに書かれている内容の凄さに戦慄を覚えたのでした。一般の目に触れる本ブログに落合氏の記事の内容について詳述する訳にはいきませんので、関心のある方は一度『ニューリーダー』を手にしてみてくださいとだけ此処では述べるにとどめておきます。ちなみに、出口王仁三郎も「佐伯祐三・真贋論争の核心に迫る 陸軍特務吉薗周蔵の手記」に時折登場します。

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2005年9月 4日 (日)

新分野への挑戦

先月の下旬、久しぶりに映画の台本の翻訳(英文和訳)に取り組みました。もともとは一般の産業翻訳者として出発した私であり、6年が経った今日では一応はベテランの部類に入ると思いますが、知人の紹介で今年に入ってから承るようになった映像翻訳に関しては、まだまだ“新人”翻訳者に過ぎません。その映画の台本の仕事を終えた数日前、翻訳会社・サングローバル社から、同社主催で今月の10日に開催される「翻訳者の集い2005(翻訳者・翻訳会社交流イベント)」に出席しませんかというお誘いのメールが届いたのです。

上記の同社のホームページを訪問していただくと分かりますが、映像翻訳では大先輩にあたる戸田奈津子氏、最近私が体験したCT方式の生みの親・水野麻子氏が尊敬しているという医学分野の翻訳の大ベテラン・辻谷真一郎氏らが参加すると書いてありました(辻谷氏とは数回お会いしています)。また、現在の私は特許翻訳の通信講座を受講中のこともあり、大島特許事務所所長による「特許翻訳の特徴と展望」というテーマの講演にも大いに関心があります。その他、ニフティの翻訳フォーラムで有名な井口耕二氏(大分前ですが、日本翻訳連盟の翻訳環境研究会でお会いし、名刺交換を行っています)、私にとっては日英翻訳の師匠であるニコラス・ズンドルフ氏など、大勢の旧知の翻訳者に会えると思うと是非参加したいのは山々なのですが、生憎子どもたちがお世話になっているサッカーチームの試合が予定されており、9月10日は子どもたちの通う学校が会場校になっていることから、その日は早朝からグラウンド整備を行ったり、来校する他の小学生のチームを接待したりしなければなりません。したがって、残念ながら今年も欠席です。ただ、当日参加が可能な方は、この機会に大勢の翻訳者と知己になり、翻訳会社に自分を売り込む意味で参加されるといいのではないでしょうか。

ところで、今年はじめから承るようになった映像翻訳に続いて、どうやら医学分野の翻訳の仕事も本格的にスタートしそうです。長年お付き合いをしていただいている某翻訳会社から、ブログ【教育の原点を考える】に『 究極の免疫力』や『内臓が生みだす心』を書いたサムライなら、医学分野の翻訳が一応は出来るだろうと思われたらしく、他に医学が分かる翻訳者がいないという事情も手伝い、急遽私に御鉢が回ったという経緯がありました。これから当分シリーズで続く仕事とのことですので、仕事のジャンルを広げる折角のチャンスであると捉え、無謀ながらも前向きに同社の仕事を引き受けました。これで現在受講中の特許翻訳講座が修了すれば、前々からリストアップしていた特許関連の翻訳会社にトライアルを申し込むつもりなので、さらに仕事のジャンルが広がりそうです。そうなると、機械・自動車、電気・電子、土木・建築といった一般産業翻訳に加えて、映像・医学・特許を“専門分野”に加えることになりますが、事の成り行きとは云え、こんなに一度に大丈夫かなぁ…と我ながら心配になります。飽きっぽい性格の私ですので、結局は虻蜂取らずに終わってしまうのかもしれません…。

さらに、国際契約に関しては日本でも五指に入るIBDとお付き合いがあることから、前々から国際契約の英語に挑戦しようと検討していました。昔は貿易の仕事に計5年ほど従事していましたので、国際ビジネスについて多少は分かっているつもりですが、無論それだけの体験で国際契約の翻訳ができるほど甘くはありません。今年になって蒔いた、「映像」、「特許」、「医学」という種のうち、どれか一つだけでも芽が出るように頑張り、その芽が勢いよく生長する様子を見届けてから、はじめて国際契約という種を蒔こうと思っています。

最近届いた『通訳翻訳ジャーナル』10月号(イカロス出版)で「収入アップ! 5つの秘訣」という特集が載っていますが、今回お話したのは5つの秘訣の一つ、「仕事のジャンルを広げる」に相当します。ちなみに、同誌に書かれている5つの秘訣とは以下の通りです。

秘訣1: ツールを使いこなす
秘訣2: 仕事のジャンルを広げる
秘訣3: 営業で自己アピール
秘訣4: クオリティを維持・向上させる
秘訣5: 社会人としての営業を身につける

詳細は『通訳翻訳ジャーナル』10月号を参照してください。また、本ブログの翻訳編でも以下のように秘訣1~5に相当することを書いていますので、関心のある方は一読願います。

ブログ【教育の原点を考える】翻訳編

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2005年9月 3日 (土)

1980年・日本の破局(下)

本日、ホームページ【宇宙巡礼】にアップしたのは、先週に引き続き堺屋太一氏の対談記事の第二弾です。例によって、この記事について述べたいことがある方は、掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]に積極的に投稿してください。お待ちしております。

1980年・日本の破局(下)

次回は、在米の藤原肇博士(地質学)が体験された不思議な旅の談話を3回にわたってお届けします。メタサイエンスに関心のある方には必読の記事です。
■九州で体験した奇妙な地上巡礼(上)…9月10日アップ予定
■九州で体験した奇妙な地上巡礼(中)…9月17日アップ予定
■九州で体験した奇妙な地上巡礼(下)…9月24日アップ予定

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2005年9月 2日 (金)

子どもたちとの夏休み

m018 子どもたちにとっての今年の夏休みは、親の目から見ても有意義なものだったのではという気がします。

■夏休み最後の日に行った八景島シーパラダイズ

8月31日、横浜市にある八景島シーパラダイズに子どもたちを急遽連れて行きました。その日のハイライトは、何と言っても上の子(小学校6年生・男)が一般向けのサーフコスター(ジェットコスター)に初挑戦したことに尽きます。上の子はサーフコスターの面白さにすっかり病みつきになり、怖がる弟(小学校4年生)の手を無理矢理引っ張って一緒に乗せたところ、弟もサーフコスターが大のお気に入りになったようで、日暮れ近くまで二人でサーフコスターで遊んでいました。お陰様で、清沢洌の『暗黒日記』など、ノンビリと日陰で読書することができました。ところで、翌日は二学期の始業式といとうのに、何故わざわざ夏休み最後の日にシーパラダイズに連れて行ったのかというと、「夏休みの宿題をすべて終わらせたらシーパラダイズに連れて行く」と約束を前々からしていたからなのです。

今年の夏は子どもたちにとって大変忙しいながらも、充実した夏休みだったのではという気がします。サッカーの合宿・練習・試合や学習塾の夏期集中講習、学校のプール、そして友達付き合いにと、思う存分夏休みを楽しんでくれた二人でした。ところが、あと数日で二学期も始まるという時になって、二人とも漸く慌てて夏休みの宿題に着手、夏休みも残すところ後1日という8月30日になって、辛うじて宿題を終わらせることができたのでした。特に上の子の場合、自由研究、読書感想文、卒業記念用の表紙(イラスト)、計算ドリルを仕上げなければならなかったのですから大変でした。

二人とも父が頑固なのは百も承知であり、「夏休みの宿題が終わらない限り、シーパラダイズには連れて行かん」と突っぱねる父を、さぞかし非情な人間だと思ったことでしょう。それでも数日間二人が頑張る様子を仕事の傍ら眺めていたので、自由研究と読書感想文をアドバイスしてやったりした効果が出て、ギリギリの8月30日の夜に漸く夏休みの宿題すべて終了したのでした。

8月30日ですが、私は上の子の進捗状況を横目で睨みつつ、9月1日締め切りの医学関係の日英翻訳に必死で取り組んでいました。私は睡眠もそこそこにシーパラダイズに行くという当日の8月31日の朝、午後3時ころに起きて辛うじて推敲を終えていない和文英訳をプリントアウトし、バックに詰め込んで出発したのです。そして、埼玉の片田舎から横浜の八景島シーパラダイズに着くまで電車で3時間以上(往復ではありません、片道で3時間以上です)かかるのを幸いに、車中でプリントアウトしたものを赤ボールペンを片手に念入りに推敲を行ったという次第です。お陰様で面倒な推敲もシーパラダイズに到着する前に終わったので、シーパラダイズに着いてからは子どもたちが水族館を見学したり、乗り物に乗っていたりしている間に、ノンビリと昼寝をし(8月31日、シーパラダイズの橋の下で大の字になって昼寝をしていた、流浪の民である“サンカ”みたいな怪しい人物を見かけた人がいたとしたら、それは間違いなく私です…^^;)、本を読むことができました。

今年初めてバイキングとサーフコスターのスリルを面白さ味わった上の子は、「この勢いでブルーフォールにも挑戦してくる」と言って、勇んでブルーフォールに向かって行きましたが、半時間後すごすごと戻ってきて言うには、「お父さん、やはり怖いから(ブルーフォールに挑戦するのを)止めた。来年になったら挑戦したい」と言ったものです。この正直さに、思わず誉めてやりたくなりました。

■その他
サッカーの合宿、試合、練習の他、学習塾での夏期特別講習、西武球場での観戦(奮発してボックス席で観戦。日本ハム戦で松坂投手が投げた8月24日の試合)、街の花火大会、お祭り、学校のプールと、子どもたちにとっては充実した夏休みだったのではないでしょうか。しかし、それ以上に二人の子の記憶に残るのは、夏休みも終わる数日前に宿題を駆け込みで何とか終わらせたことと、その“ご褒美”として丸1日シーパラダイズで思い切り遊ぶことができたということになるかもしれません。

ともあれ、夏休みの宿題に関しては私も子どもたちに対して大きなことは言えず、自分の小学生・中学生の時を振り返ると、毎年夏休みの宿題は二学期が始まる一週間前に大慌てで取り組んでいたのが恒例であったことを思い出します…。

http://www.seaparadise.co.jp/
八景島シーパラダイズ

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
埼玉県では絶滅危惧Ⅱ類となっている、カワラナデシコ

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2005年9月 1日 (木)

『教育の原点を考える』 第IV章

b050615今月アップする『教育の原点を考える』は、第IV章の「戦後教育の問題点」です。例によって、私にとって印象に残った下りをピックアップしておきましょう。

藤原肇 民主的というのは、その中に競争という人間的な属性を内包しているのです。なぜなら、自分を他人と区別するところに民主主義の始まりがあるのだし、それを意識して自分の生き方を通じて証明することにより、生の充足を確認するからです。

私のコメント:変な平等主義が蔓延した今日の日本では、藤原氏の「自分を他人と区別するところに民主主義の始まりがある」という意見を理解できる人がどれだけいるでしょうか。視点は異なりますが、私のお気に入りブログ「先生に一言!」でも以下のように述べています。
【先生に一言!】やっぱり違う 男と女の脳

早川聖 要するに、サラリーマンや役人向きの人間がやけに増えている、ということです。学歴はやけに高いが教養が丸でなく、しかも、器量が狭い上に忍耐力に欠けた若者が多いのは、戦後の日本の教育界の生んだ最大の欠陥ですな。しかし、私にいわせるなら、これは自由競争の不足と過保護による甘やかしのせいであり、国家主義者が悪のりするような民主主義の欠陥ではないのです。

私のコメント:周囲を見渡すと、意外と早川氏の発言にある人物が多いのではないでしょうか。

早川聖 戦国時代と同じで、実力があるとなると国籍や出身校に関係なく、どこにでも仕事がある。これからの人材は、そういったタイプの普遍的な価値を持つ、実力で勝負のできる人間のことでしょう。

私のコメント:私も早川氏と全く同意見であり、時折周囲の友人・知人にも説いて聞かせますが、大概は「お説はごもっともですが…」で終わってしまうのが常です。

ともあれ、本日アップした第IV章の「戦後教育の問題点」を、一人でも多くの教育関係者に目を通して頂ければ大変有り難く思います。

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