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2005年8月24日 (水)

フルベッキ写真(6)

yokoi02 本日のフルベッキ写真(6)は横井小楠を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“横井小楠”です。

 世に出回っている横井小楠の写真(1)と、フルベッキ写真に写っている(とされる)横井小楠(2)の写真を以下のURLに並べてみた。

横井一族の写真

 フルベッキと交流のあった横井小楠だったのでフルベッキ写真に写っていたとしても決して不思議ではないのだが、上記横井一族の写真のよう実際に二枚の写真を並べてみると頬のあたりの特徴などが似ているものの、フルベッキ写真に写っている横井小楠の方が年齢的に一段と若く見えることからして同一人物である可能性は低い。

 次に、横井小楠とされる人物の下に座っている(とされる)甥の横井左太平と横井太平の二人についても見ておこう。横井左太平(2)と横井太平(2)と思われるセピア色の写真は共にフルベッキ写真から切り取ったものであり、白黒写真の横井左太平(1)および横井太平(1)はホームページ【維新の散歩道】に掲載されている本物の写真である。写真を比べて見る限りでは同一人物の可能性があるような気もするが(特に横井左太平)、二葉ずつの写真だけでは明確な断定が困難であるので、現時点における断定は差し控えたいと思う。なお、白黒写真の横井左太平(1)および横井太平(1)については、ホームページ【維新の散歩道】のオーナーの承諾を得たものであり、この場を借りて御礼を申し上げる次第である。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/

 写真の比較だけでは何とも言えないので、次に撮影日を確認してみよう。最初に、撮影日を1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間という松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、新政府の参与として出仕した小楠が京都で暗殺されたのは1869年2月15日(明治2年1月5日)だったので、松浦玲・村瀬寿代説のフルベッキ写真撮影日から幾許もなくして暗殺されたことになる。さらに、暗殺数ヶ月前の小楠は病床に伏せていたのであり、そのような病身で長崎に行けたとは到底思えない。

 一方、撮影日を元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日の間とする佐宗邦皇説はどうか。当時の小楠は熊本に居た上に、フルベッキと交流を重ねていた小楠だったので、元治2年という撮影日が本当であれば、写真に写っている人物が小楠本人である可能性は高いと思う。

 しかし、佐宗邦皇氏がフルベッキ写真の撮影日を慶応元年としているのは、『日本歴史』三三二号に「維新史上解明されていない群像写真について 其の二」という題の論文を発表した島田隆資氏の説に基づいていることは明白である。その島田氏の論文については松浦氏が以下のように第一印象を述べている。

本文のこの部分を書き終えたあとで、島田隆資の「維新史上解明されていない群像写真について 其の二」(『日本歴史』三三二号)に接した。慶応元年長崎で写したフルベッキを囲む群像写真中に、西郷隆盛・西郷縦道・大久保利通・大隈重信・中岡慎太郎・副島種臣・伊藤博文・江藤新平・小松帯刀等々に加えて横井小楠もいると断定し、また、推定人物中には、坂本龍馬・陸奥宗光等々の他に横井左平太・太平兄弟の顔も見えるという驚くべきものである。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.292

 以上のように島田氏の論文を紹介した上で、フルベッキ写真に小楠は写っていないと松浦玲氏は断言しているのである。

評伝選(『横井小楠 儒学的正義とは何か』)刊行後に少し検討して、これだけの人物が一堂に会する時間的可能性は皆無だと断定した。慶応元年の撮影という島田(隆資)氏の判断も誤りである。横井小楠と甥の左平太・太平は写っていない。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.292

 松浦氏が横井小楠は写っていないと断言できたのは、撮影日が明治元年の暮れであると確信していたからである。筆者が既述したように、明治元年暮れの小楠は病床にあったのだから長崎に居るはずがないと筆者同様に松浦氏も考えたのであろう。

 なお、ここで読者に改めて思い出していただきたいのは、「フルベッキ写真はフルベッキが明治政府に招聘されて上京する前の記念撮影であり、従って撮影日はフルベッキが長崎を発つ明治2年(1869年)3月23日の直前である」というのが世間一般に信じられているフルベッキ写真を巡る説であるということだ。それを裏づけるかのように、問題のフルベッキ写真を撮影した日本の写真の父・上野彦馬と縁のある某人物も、フルベッキ写真を撮影した場所は明治2年に完成した上野撮影局のスタジオであることは間違いないと証言しているのである。では、どうして松浦氏はフルベッキ写真の撮影が上野撮影局のスタジオが完成する前の明治元年であると断言しているのか、さらには何故(島田隆資)佐宗邦皇説の撮影日が間違いであると断定できるのかという点については、近い将来に大隈重信について取り上げる機会があれば言及するつもりである。何故なら、フルベッキ写真に写っている(とされる)大隈重信は、本物と断定しても差し支えないだけの確かな証拠があるからであり、その大隈の存在によってフルベッキ写真の撮影時期、すなわち大隈が長崎に滞在していた時期が特定できるからに他ならないからである。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(7)に続く

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