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2005年8月 8日 (月)

クラシックのすすめ

m016 数日前に『丸山真男 音楽の対話』を取り上げていますので、クラシック音楽に関して2年前にIBDのウェブ機関誌に寄稿したものを以下に再掲しておきます。

クラシックのすすめ(音楽編)

 筆者の場合、原稿を執筆する時は自宅の仕事部屋に籠もり、クラシック音楽(CD)をBGMにパソコンに向かってキーボードを叩いていることが多い。尤も、筆者の場合はクラシック音楽に関しては素人の域を出ず、楽器演奏にしても二十代前半に通信教育でクラシックギターを数ヶ月練習したに過ぎない。拙稿の第一回目「日本脱藩のすすめ」の中で、三年間の海外放浪の途中にニューヨークの日系レストランでアルバイトをしていたことを書いたが、その同じレストランでやはりアルバイトをしていた三浦さんという先輩がいた。三浦さんはニューヨークに来る前はスペインに滞在しており、当地でクラシックギターの師匠に従事して練習に励んだという変わり種だった。その三浦さんが仕事を終えた後にアパートで「禁じられた遊び」を弾いてくれたことがあり、筆者は非常に感動したことがある。その時の三浦さんの演奏がよほど印象に残ったのだろう、帰国後の筆者は早速クラシックギターを購入し、ギターの通信教育を申し込んだのだった。そして、いつの日か大勢の友人・知人の前で「禁じられた遊び」を弾いてやろうという夢を見ていたのだが、結局果たせずに数ヶ月で挫折している。

 さて、クラシック音楽がテーマである本稿では、丸山眞男(1914~1997)を最初に取り上げたい。丸山がクラシック音楽に造詣が深かったことは有名な話であり、そのあたりを如実に物語っているのが『フルトヴェングラー』(脇圭平・芦津丈夫著 岩波新書 絶版)である。最初に、丸山がフルトヴェングラーについて語っているくだりを以下に紹介しよう。

丸山眞男:若い批評家などがフルトヴェングラーのジャケットに解説を書いて、芸術は宗教じゃないんだから盲目的な傾倒はこまる、とか、冷静に聴け、なんて説教しているのを見ると、「しゃらくせえ」(笑)といいたくなる。こういう小賢しい言い草をする輩に限って、宗教的体験に無縁などころか、本当に内面的な音楽的感覚からも遠い、ただちょっと「耳のいい」才子が多い(笑)。

『フルトヴェングラー』(p.122)

 丸山のフルトヴェングラーへの傾倒ぶりが一目瞭然に分かる文章ではないか。それにしても、あの碩学の丸山が「しゃらくせえ」などと言うあたり、微笑ましく感じるのは筆者だけではあるまい。

 上述の『フルトヴェングラー』、さらに本稿の書評で紹介している『丸山真男 音楽の対話』(中野雄著)等に目を通してからというもの、筆者は折りあるごとにフルトヴェングラーの数々のCDに耳を傾けてきた。手許に『クラシックCDの名鑑』(宇野功芳・中野雄・福島章恭共著 文春新書)という本があるので、同著の中からフルトヴェングラーの演奏に対する評価の一部を引用してみよう。

■シューマン《交響曲第4番》ベルリン・フィル 1953年

・「シューマンの《四番》だけは他のどこのレコードを持って来ても、1953年のフルトヴェングラーのスタジオ録音には敵わない。(宇野功芳)

■シューベルト《グレイト》ベルリン・フィル 1942年

・おそらく彼(フルトヴェングラー)の数多いレコードの中で最も、燃え切り、自己の内面を赤裸々にさらけ出したのは、ベートーヴェンの《第五》とこのシューベルトの《グレイト》であろう。(宇野功芳)

・(第二次大戦という状況下における)指揮者(フルトヴェングラー)と楽団員の明日なき思いが聴く者の胸を抉る。(中野雄)

■ベートーヴェン《交響曲第9番》バイロイト祝祭管 1951年

・フルトヴェングラー《バイロイトの第九》は、戦禍で中断していたバイロイト音楽祭の復活記念コンサート(1951年7月29日)のライブである。平和到来の喜びの背後には、ナチズムとワーグナー思想(反ユダヤ主義)の関わり、フルトヴェングラー自身のナチ協力疑惑(裁判の結果無罪)など、複雑にして微妙な問題が潜んでいた。音楽が再現芸術である以上、「空前」であっても「絶後」の名演はありえないはずであろうが、背景にあるこうした事情を考えてみると、この演奏から得られる以上の感動がこの地球上で再現される可能性は、限りなくゼロに近い。(中野雄) 

 筆者の場合、ベートーヴェンの交響曲に関しては、フルトヴェングラーの他にトスカニーニ、ワルター、イッセルシュテットらの演奏も聴いてきた。その中で、フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの交響曲の場合、魂が強く揺すぶられるような、何か強烈なパワーが出ているのを感じるのである。それは、フルトヴェングラーの融通無礙な演奏の姿勢から来ているのかもしれない。換言すれば、楽譜から滲み出る作曲者(ベートーヴェン)の魂を掴みとり、フルトヴェングラー自身の「思想」なり「哲学」で以て語りかけているからこそ、フルトヴェングラーの演奏が心に響いたのだろう。単に楽譜を忠実に演奏するだけであったならば、筆者の心をかくも強く動かすまでには至らなかったはずだ。

 次に、『フルトヴェングラー』の以下の箇所に注目してみよう。

彼(フルトヴェングラー)の有機的音楽観には、まぎれもなくゲーテの思想が流れ込んでいる。自然研究家としても知られるゲーテは、つねに有機体をプラスとマイナス、拡大と収縮、弛緩と緊張、呼気と吸気などの極性作用を通して生成発展する生命として把握していたのである。

『フルトヴェングラー』(p.85)

 ゲーテの自然研究は、『植物のメタモルフォーゼ』(1790年)という自然科学論文として結実しているのはご存じの通りである。そして、このゲーテの自然科学観は、拙稿第二回・「メタサイエンスのすすめ」で述べた黄金比がその根底にある。さらに、ゲーテの自然観は中国の陰陽原理を連想させるものであり、それが老子の『道徳経』および『道徳経』をビジュアライズ化した『易経』へと繋がっていくのである。

 また、ゲーテはヨーロッパ中世に興ったルネッサンス精神の継承者の一人であり、百科全書派を彷彿させる幅広い教養を身につけた巨星であった。そして、ゲーテはフリーメーソンの一員として、ドイツさらにはヨーロッパに大きな影響をもたらしたのは言うまでもない。無論、かのモーツァルトもフリーメーソンのメンバーであったことは周知の事実であり、論より証拠、モーツァルトの歌劇『魔笛』にフリーメーソンの儀式か色濃く出ていることからして明らかである。なお、日本でフリーメーソンというと、未だに得体の知れないもの、秘密結社のような扱いをされるが、日本でのロータリークラブのように、欧米では何も珍しい存在ではなく、隣の家がフリーメーソンだったということがざらにある。そのフリーメーソンが門外不出の「智慧」として、代々メンバーに伝えられてきたものの一つに黄金比がある。そして、J・S・バッハの作品群に黄金比が見え隠れしているのはよく知られている事実だ。

 バッハと言えば音楽の父として知られているが、ここでヨーロッパのクラシック音楽の歴史を顧みるに、クラシック音楽が初めて記譜されたのは中世キリスト教の典礼音楽が最初であったことが思い出される。そして典礼音楽の最高傑作と言えば、バッハの《マタイ受難曲》をおいて他になく、まさに人類の至宝、最高の宗教音楽と言えよう。かかるクラシック音楽が誕生した近代とは、思想と芸術の多くが宗教から離れ、人間へと関心が移ってゆくという時代であった。そうした時代の中にあって、人間を超えた存在である神というものを己れの音楽で表現したのがバッハだったのではないだろうか。しかし、バッハは信仰のみに生きた人間ではなかった。同時に、狭い意味での宗教を超えていたのがバッハだったのである。齢を重ねていくにつれ、筆者もいずれバッハに帰っていくのだろうか。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
サワガニ

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コメント

Bachさん、コメント有り難うございました。


>フルトヴェングラーとくれば音楽通ですよ。

私の場合は音楽通と云えるのかどうかは分かりませんが、確かにフルトヴェングラーの音楽に集まってくる人たちには、ある種の共通した雰囲気なり臭いがありますね。


>昔は、真空管アンプを自作し、30\x{339d}ウーファーがうなり、
>針ですり切れるほど聞きました。今のCDでは何となく物足りな
>さを感じるのはどうしてでしょうかね?

実は、機会があれば『「CD音痴論」を考える』(冨田覚著 鹿砦社)の書評を近々書こうと思っていました。しかし、今回Bachさんにコメントを寄せてもらったので、簡単に此処で書いておきましょう。

その『「CD音痴論」を考える』ですが、同書の主旨は「CDに録音されたのは欠陥音楽である」というものです。だから、同書を読み進めれば、確かにCDは「何となく物足りない」という話本当なのだという錯覚に陥ってしまうかもしれません。しかし、川又利明氏というオーディオのプロが『「CD音痴論」を考える』に対して反論しています。以下のページを読めばCDでも一応は問題はない、ということが分かってもらえるのではないでしょうか。
http://www.dynamicaudio.co.jp/audio/5555/7f/oto/oto13.html

>J.S.Bachも随分挑戦しました。自分の指先からバッハの旋律が
>空間に流れ出ることだけで、鳥肌が立つほどに興奮します。

それは羨ましい限りです。学校を二つ経営されただけのことはありますね。


ギター中退のサムライ拝

投稿: サムライ | 2005年8月12日 (金) 午後 06時32分

サムライさんへ
フルトヴェングラーとくれば音楽通ですよ。バイロイト祝祭管の第九など、エンディングのスピードの速さにシンバルが追いつかない!
それでも音楽の命の燃焼を表現するために、あえてバラバラにしてしまう彼の音楽は、何度聞いても飽きません!ただ、願わくばデジタル技術で音をよくして欲しいなあと思いますね。
昔は、真空管アンプを自作し、30㎝ウーファーがうなり、針ですり切れるほど聞きました。今のCDでは何となく物足りなさを感じるのはどうしてでしょうかね?
挫折されたギターの話し、愉快、愉快!
私も独学でマスターし、結局2つの教室で教えるほどになりましたよ。教師になる前ですがね。
話題にされたフリーメンソンのW.A.Mozartの曲を、ソルが「魔笛の主題による変奏曲」として残していますね。J.S.Bachも随分挑戦しました。自分の指先からバッハの旋律が空間に流れ出ることだけで、鳥肌が立つほどに興奮します。でも「シャコンヌ」は未完成で、ステージ演奏はできませんでしたが。
音楽はバッハに始まり、バッハに終わると言いますね。
昭和天皇が崩御されたとき、近くの小さなレコード店のおかみさんが、一日中無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータを店内に流していました。ヴァイオリン一本であれだけ表現できるって凄い曲ですよね。私が死んだときにもかけて欲しいなあって思うくらい!Beethovenのエロイカの葬送行進曲ではちょっと重すぎてあの世に行けない!
確かこの曲はケネディーの葬式の時にかかってましたね。

投稿: Bach | 2005年8月12日 (金) 午後 01時53分

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