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2005年8月30日 (火)

フルベッキ写真の考察

慶応大学の高橋信一助教授と、ここ一ヶ月ほど「フルベッキ写真」を巡ってメールのやり取りを行いました。8月26日のフルベッキ写真(8)で取り上げた大隈重信の章でも既述したように、フルベッキ写真に写る“岩倉具経”は、実は江副廉蔵であったことを高橋助教授に指摘していただき、大変有り難く思った次第です。その高橋助教授の承諾を得た上で、「フルベッキ写真の考察」と題する同助教授の論文を以下に転載します。なお、「フルベッキ写真の真偽」と題して、昨日まで公開していた「謎のフルベッキ写真」とともに以下のURLにアップしましたのでお知らせ致します。

■謎のフルベッキ写真
■フルベッキ写真の真偽

「フルベッキ写真の真偽」の一番下側の江副廉蔵、中野健明らの氏名が入った写真は、高橋助教授が作成したものです。
高橋助教授の論文中の付表1は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
chronology01.xls

「フルベッキ写真」に関する調査結果

慶應義塾大学 高橋信一

 最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月雑誌「太陽」に戸川残花によって初めて一般に紹介され、大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載された。戦後肖像画家の島田隆資が昭和48年と50年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の人物の比定を試みている。しかし、比定の方法や時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館の関係者と写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。

 島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っているというものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。

 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい野外写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。この研究は40年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。

 万が一、慶應元年の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に英国に送り込んだ事実がある。慶應2年6月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島を送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(大塚孝明の「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だった藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影された際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士が5名写っていることになっている。

 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英語塾、致遠館係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のために、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っていて間違いないところである。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」によって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭の「鍋島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武の「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大橋昭夫・平野日出雄の「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」と村瀬寿代訳「日本のフルベッキ」を参考にした。

 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具実、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具実公傳」などで調べた。相良知安は鍋島閑叟の侍医として、京での行動を共にしている。この表から推測すると、明治元年の10月に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟の面倒を命じられた久米邦武はフルベッキに預けることにして、相良知安に長崎まで送らせたのではないか。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎商業百年史」に掲載されている。フルベッキは11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新しい大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。

 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。

相良知安  左端の立ち居の人物(鍵山栄の「相良知安」他)
中野健明  知安の右隣り(福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
丹羽龍之助  大隈重信の左隣り(「江藤南白」)
江副廉蔵  大隈重信の前(「佐賀 幕末明治500人」)
岩倉具経  大隈重信の右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)
山中一郎  後列右から6人目(「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」)
香月経五郎  山中一郎の右隣り(「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人
副島要作  香月経五郎の右隣り(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
中島永元  後列右から2人目(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
石橋重朝  副島要作の前(「佐賀 幕末明治500人」
岩倉具定  フルベッキの右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」。尚、岩倉具綱・具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、弘道館に入ったので、長崎に来ていない)

 その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時副島は40歳に近く、月代を剃っていた。似ているというだけで、人物を振り当てるのは学問的でない。伊藤博文は兵庫県知事としてどのような仕事をしていたか、フルベッキとの繋がりなど明らかになっていない。致遠館に学んだものとして、日下部太郎、横井大平、横井左平太は当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。当時、薩摩・長州・土佐から何人か長崎に遊学するものがいたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も付表2に見るように東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀は京にいた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光は面長であったことが各種肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。

 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に詳しく記載されているが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本のフルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、堤喜六、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎などを特定出来ていない。

 佐賀藩の多数の出身者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なものだったが、明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるが、佐賀出身者は20名余りと薩摩・長州の数分の一である。各種の明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎が断罪された佐賀の乱を引き金とする明治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの傾倒を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、明治の後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。

(平成17年8月23日)

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コメント

”佐賀の乱”は、明治7or
8年だったなもしかして?

投稿: 或る時代者ファン | 2010年4月21日 (水) 午後 04時35分

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