フルベッキ写真(5)
本日のフルベッキ写真(5)は、坂本龍馬を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“坂本龍馬”です。
最初に、写真真に写っている(とされている)龍馬を見て頂きたい。 次に、一般に出回っている龍馬の写真6枚が【坂本龍馬の写真】に公開されているので、上記のフルベッキ写真に写っている(とされる)龍馬と見比べていただきたい。ちなみに、【坂本龍馬の写真】はホームページ[龍馬写真館]のオーナーに直接メールを送って承諾を得たものであり、この場をかりて篤く御礼を申し上げる次第である。ホームページ[龍馬写真館]では、龍馬の写真以外にも貴重な幕末明治の写真を数多く展示しており、一度訪問する価値はあると思う。 それにしても、フルベッキ写真に写っているとされる龍馬は、唇や鼻などが何処となく似ている気がするが、目許から受ける印象が大分違う上、同時期に撮影した割には全体的に受ける印象としては若すぎるような気がする。しかし、同一人物をほぼ同時期に撮影した場合でも、まるで他人のように見えたりするケースも多いことからして、何とも判断しかねるところである。果たして、読者の判断は如何だろうか。 一歩譲ってフルベッキ写真の龍馬が本物の龍馬だとしたら、果たしてフルベッキ写真が撮影されたとしている時期におかしな点がないかどうか見ておこう。 最初に、撮影日を1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間という松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、龍馬が暗殺されたのは慶応三年(1867年)の12月10日であるので、写真の〝龍馬〟は偽物ということになる。一方、撮影日を元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日の間とする佐宗邦皇説が正しいとすれば、龍馬が暗殺される前であり、時期的に長崎で海援隊の活動を開始した頃に重なるので、写真に写っているとされる龍馬が本物という可能性も出てくる。佐宗邦皇説の元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日以外の時期に撮影されたものだとすれば、文久二年(1862)の3月に土佐藩を脱藩し、同年10月に勝海舟を訪ねて思想転換した時以降から、暗殺される慶応三年(1867年)の12月10日までのおよそ5年の間のいずれかの日ということになろう。 ところで、その期間中において、1864年10月頃から翌1965年の4月にわたって龍馬の行動が空白になっているのが大変気になっている。『石の扉』によれば、その期間に龍馬がイギリスに渡った可能性があるという。なかなか面白い話ではあるものの、俄には信じ難いというのが正直なところだが、好奇心旺盛の龍馬のこと、当時であれば半年でイギリスを行き来することができたことからして、その間にイギリスに行っていたとしてもおかしくはない。何故なら、確証があるわけではないものの、ヨーロッパで体験した者だけが持つある種独特のものの見方・考え方が龍馬に備わっているように見えるからであり、もしかしたら本当にイギリスに行ったのかもしれないと、ふと思ったりもする。 本シリーズの主人公であるフルベッキと龍馬は、実際に会ったことがあるのだろうか。好奇心が旺盛だった龍馬のことを考えれば、間違いなく幾度かフルベッキと会っているはずだと筆者は思いたい。そのフルベッキから西洋事情に関する多岐にわたる情報を収集しながら、西洋思想を龍馬流に自家薬籠中の物にし、当時の日本人にはないヨーロッパ風の合理性精神を知らず知らずのうちに龍馬は身に付けたのではと筆者は思う。以下のように、『賢者のネジ』でもフルベッキと竜馬とが会っていると想定しているようだ。
・フルベッキ写真(6)に続く | |
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