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2005年8月19日 (金)

フルベッキ写真(2)

 写っている人物の服装などから、幕末から明治にかけての写真だという見当が直ちにつく。しかし、この写真は単に幕末あるいは明治初期の写真だから珍しいというのではなく、近代日本史に関心のある人たちの間では今でも話題にのぼることの多い謎の写真なのであり、その謎を色々と回り道をしながら解き明かしていこうとするのが本シリーズの狙いである。

 最初に、写真の真ん中で椅子に座っている西洋人を紹介しよう。この西洋人はギドー・ヘルマン・フリドリン・フルベッキ(Guido Hermann Fridolin Verbeck, 1830~1898)といい、本シリーズの主人公となる人物だ。小さな子供はウィリアムで、フルベッキの長男である。そのフルベッキ親子を取り囲む侍の一団であるが、佐賀藩が長崎に開いた致遠館の生徒たち、すなわちフルベッキの教え子というのが通説となっている。ところが、フルベッキを取り囲む侍の一団は致遠館の生徒たちではなく、写真には日本の近代化に貢献した明治維新の元勲が写っているという驚くような説もある。すなわち、勝海舟・西郷隆盛・横井小楠・大村益次郎・大隈重信…と、日本人なら誰もが知っている志士が一堂に会した写真だという説なのである。しかし、突然そのようなことを言われても、初めてこの写真に接した読者であれば俄には信じられないであろう。参考までに、写真に写っているといわれている志士の氏名を以下に掲げておくので、人物に番号を振り当てたイラストを参照にしつつ、再度写真を眺めて頂きたい。

フルベッキ写真
1.勝海舟 2.中野健明 3.中島信行 4.後藤象二郎
5.江藤新平 6.大木喬任 7.井上肇 8.品川弥二郎
9.伊藤博文 10.村田新八 11.小松帯刀 12.大久保利通
13.西郷隆盛 14.西郷従道 15.別府晋介 16.中村宗見
17.川路利良 18.黒田清隆 19.鮫島誠蔵 20.五代友厚
21.寺島宗則 22.吉井友実 23.森有禮 24.正岡隼人
25.陸奥宗光 26.中岡慎太郎 27.大隈重信 28.岩倉具綱
29.ウィリアム 30.フルベッキ 31.岩倉具定 32.高杉晋作
33.横井小楠 34.大村益次郎 35.桂小五郎 36.江副廉蔵
37.岩倉具経 38.岩倉具慶 39.広沢真臣 40.明治天皇
41.岡本健三郎 42.副島種臣 43.坂本龍馬 44.日下部太郎
45.横井左太平 46.横井太平

写真の真贋について
 ここで、写真の真贋について世間はどう捉えているのだろうか。最初に、写真は贋物であると主張する人たちの代表として松浦玲氏を挙げておこう。松浦玲氏は幕末から明治にかけての日本史研究家として多くの著作を世に送り出しており、中央公論社刊『日本の名著 第30巻 佐久間象山・横井小楠』の責任編集・解説を担当している。同書の付録「変革期の政治と思想」は松浦玲氏本人と作家の小田実氏との珍しい対談であり、松浦玲氏の人となりを知る上で格好の資料となっている。その松浦玲氏が、『新訳考証 日本のフルベッキ』(W・E・グリフィス著 松浦玲監修 村瀬寿代訳編 洋学堂書店)の「序」で問題の写真について言及しているので少々長くなるが以下に引用しておこう。

村瀬さんが修士論文で取り上げたフルベッキについて、私には小さな因縁があった。一九七六年に朝日評伝選で『横井小楠』を出したとき、校正も終わろうという時点で雑誌『日本歴史』二三二号に「維新史上解明されていない群像写真について其二」が載った。長崎のフルベッキを囲んで西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・大隈重信・副島種臣・中岡慎太郎・伊藤博文等々、そして横井小楠が写るという刺激的な説が披露されていた。私は子細に検討する余裕を持たなかったので、このような論文が出たということだけを巻末に注記し判断を保留した。次いで拙著刊行後になったが、挙げられた人物群が一堂に会する可能性の皆無であることを確認してこれはニセモノだと判定し、それきり写真のことを忘れた。

 関心が甦ったのは、修士論文準備期の村瀬さんが精力的にフルベッキ関連の資料を集めては報告してくれる中に、この写真のことが出て来たからである。考えてみれば西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀……横井小楠と、写っていない人物を列挙するからニセモノになるのであって、写真そのものは紛れもなくフルベッキを囲む群像だった。合成写真の類ではない。

 論文準備中の村瀬さんの報告を聞くのは楽しかった。佐賀藩の中牟田倉之助など以前から私の守備範囲に居る人物が、フルベッキとの関連で意外な側面を見せてくれる。それが手掛かりになって初耳の佐賀クリスチャン武士のことにも焦点を合せやすく、既知の事実と未知の話が頭の中で絡まりあって脳細胞に新しい襞が刻まれるという感触を何度も味わった。教師である私にとって非常に勉強になった。 問題の写真は、そういう勉強の過程で再浮上した。フルベッキを囲むのは佐賀藩が長崎に開いた致遠館の生徒らしいということまでは既につきとめられていた。村瀬さんは写っている人物について他ならぬグリフィスの証言があることを押え、それにより撮影時期を明治元年末と絞りこんだ。

 これは村瀬さんが修士号を獲得し、私は桃山学院大学を退職した後のことになるのだが、前記『横井小楠』の増補版を二〇〇〇年の二月に朝日選書で出したとき、原著の注に追記するだけでは足りないと感じたので「補論」中に問題の写真を掲げ、村瀬さんの修士論文にも言及した。この拙著増補版での紹介は、村瀬さんのフルベッキ探索の網が広がることに聊かは貢献したようだ。写真については、そのたどりついた結果が本書の口絵と注記に示されている。(口絵写真3)

『新訳考証 日本のフルベッキ』W.E.グリフィス著 松浦玲監修 村瀬寿代訳編 p.i

 ここで取り上げた『新訳考証 日本のフルベッキ』は、佐賀県の洋学堂という書店が〝直販のみ限定500部再版予定なし〟という触れ込みで2003年2月1日に刊行したものである。洋学堂のホームページでも高らかに謳っているように、グリフィスの原著『Verbeck of Japan』にある誤謬を克明に論考・校正した良書であり、フルベッキが近代日本に及ぼした影響の大きさを思えば、同書はフルベッキの研究さらには近代日本史の研究に不可欠な資料の一つといえよう。

 次に、写真を真物とする人たちの中で注目すべき発言を行っているのは、ワールドフォーラム代表幹事の佐宗邦皇氏である。問題の写真の真贋について佐宗氏は、「科学と歴史の掲示板」という掲示板の2002年度版に投稿している。本稿で全部を取り上げたいところだが佐宗氏の投稿は長文であるため、筆者の独断で重要かつ問題の写真と関連があると思われる箇所のみの抜粋にとどめた。(誤字脱字などは、一カ所(*1)を除き、未訂正のまま転載)佐宗氏の投稿を全文で読んでみたいという読者は、以下のURLを参照されたい。
http://www32.ocn.ne.jp/~yoshihito/notes/board5.html

この写真は、勝海舟の親戚の戸川残花が明治28年に雑誌「太陽」にフルベッキ博士から借りて、「佐賀鍋島藩の致遠館での英語の生徒達との長崎での送別会」の記念集合写真だということで発表されたものです。明治2年その塾生であった岩倉一家や伊藤博文や大隈重信らの明治新政府によって顧問就任のために赴任するべく、行われた送別会だったというのだが、「ご一新後」の明治2年にもなって全員が「刀と丁髷」というのもおかしなことであり、フルベッキ博士の長男ウィリアムは、この写真では5ー6歳の幼稚園児ぐらいであって、もし明治2年なら9ー10歳になっていたはずであり、この写真と符号しません。従ってこの写真は元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日までの間と推定され、実質的な西南雄藩の討幕派志士達の結成大会でありますから、実質的な薩長同盟であり歴史では同盟成立は翌慶応2年1月のことですからはるかにその約1年も前のことでした。しかし、いかなる歴史書にもこの会合の記録もこうした歴史的事件の意義も説かれてはおりません。何故か?第1には、そこのフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」の存在があるからです。しかし「刀と丁髷」の孝明天皇の皇太子「裕宮(さちのみや)」が朝廷のある京を離れて長崎にこうして討幕派志士達と共にいること自体が奇妙なことです。孝明天皇は極めて保守的な考えの持ち主であり、その外国人嫌いによるその「攘夷」の気持ちが皇室の過激派を育て、「尊王攘夷」運動を引き起こした一方、その京都守護職松平容保に対する深い信頼や親近感や妹和宮を降嫁させたことからも討幕派には同調してはいません。そこで孝明天皇の皇太子「裕宮」が、追放され長州藩に匿われてていた三条実美ら尊攘過激派公家らと同調する討幕派の結成大会に参加している筈がないのです。すなわち、このフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」は、孝明天皇の皇太子「裕宮」ではないのではないか?となると、翌年12月25日の孝明天皇暗殺の際に、同時に皇太子裕宮も父親と共に暗殺されていて、ここに写っていた14歳の少年とすり換えられて明治天皇として新たに擁立された可能性が強い。それで翌年1月7日の明治天皇即位までの2週間の空白も、すり替えに要した時間と解されます。更に、江戸への遷都の際にも、殆ど女官や公家らこれまでの朝廷の人々は連れて行かなかったということや、そもそも遷都しなければならなかったというのも、京都近辺の皇太子裕宮を知る人々の目を恐れてと読み取れます。事実明治末期に、北朝と南朝の正統性について質問された明治天皇は本来は自分が北朝出身である筈なのに、「南朝」の方が正統だと思わず口を滑らしてしまいました。長州藩の防府に代々住み続けてきた「大浦*1」という南朝の末裔が、岩倉具視らにかつがれて皇太子裕宮に成りすまして明治天皇になったとも推定されます。

第2には、実質的な薩長同盟成立の主人公は、勝海舟であったことが翌判り、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」以来歴史では同盟成立は坂本龍馬がやったとなっているが、この写真1枚で勝が西郷を使って倒幕派志士の集合をかけさせて、実質的な薩長同盟を行ない、実務は坂本龍馬が、薩摩藩預かりとなって長崎駐在となり、師匠の勝海舟に代わって仲立ちをするために、亀山社中や海援隊を作って薩長間の橋渡しをしていたことが判る。

こうした事実が表面化しては困る、孝明天皇の暗殺の下手人達(岩倉、大久保、伊藤博文ら)の生き残りの伊藤博文が、この写真と事実の公表に圧力を掛け続けて、遂にはこの事実そのものが抹殺されたのでありましょう。こうして歴史は、時の権力者に都合の良いようにいつも修正、捏造、抹消されてきたのであり、このように歴史には、間違った歴史が定説となって通用しております。

2002年度版 「科学と歴史の掲示板」過去ログ

筆者注:*1「大浦」ではなく、「大室(寅之祐)」の間違い

以下も同様で、佐宗氏が2002年4月17日付の「科学と歴史の掲示板」過去ログに書き込みをした投稿の抜粋である。

この写真の真贋についてはNHKのあるプロジューサーが番組作製の目的で注目して徹底的に調べ上げて、100倍近く拡大してその着ている着物の家紋からその人物を特定した結果、後の明治の元勲達が勢揃いした「本物」であることが判明しましたが、問題の人物が後の明治天皇であることも100%間違いないことをつきとめましたところ、いずこよりかの圧力により番組作製を断念せざるを得なかったという曰く付きのものです。この写真の中央奥に立つ西郷隆盛こそ本物の西郷三で、キヨソネの絵以来騙されて信じ込まされている西郷イメージは、上半分が西郷従道下半分が大山巌の合成モンタージュ画です。晩年象皮病という皮膚病にかかりドイツ人医師から薦められれて飲んだ薬の影響で禿げ上がり、誠に醜くなってしまったのに加えて、西南戦争の賊軍の首魁となり反乱軍として特定されるのを嫌い偽の肖像画を行き渡らせたのと郷土の英雄がこんなに醜くてはとの郷里薩摩の人々の願望からあのような似ても似つかないデブの西郷イメージが流布してしまい、西郷の真実暴露を嫌う勢力もまた、この写真の偽物説を言い立てるのです。

2002年度版 「科学と歴史の掲示板」過去ログ

 以上、写真を贋物とする松浦玲氏に対して、写真は真物と主張する佐宗邦皇氏の間には意見の大きな隔たりがある。ともあれ、写真の贋物を巡る諸意見があれども真実は一つしかないのであり、松浦氏あるいは佐宗氏のいずれか(場合によっては両者)が間違っているのは確かである。さらに穿った見方をすれば、両氏のいずれかが偽情報(ディスインフォメーション)に踊らされているか、逆に両氏のいずれかが故意に偽情報を流しているのかもしれないといった、様々な可能性も念頭に置くべきかもしれない。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(3)に続く

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