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2005年8月25日 (木)

フルベッキ写真(7)

saigo03 本日のフルベッキ写真(7)は西郷隆盛を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“西郷隆盛”です。

 最初に、西郷隆盛の写真をクリックしていただきたい。最初に目に飛び込んでくるのが、東京の上野公園にある西郷隆盛の銅像(1)、イタリア人の画家キヨソネが描いたという西郷隆盛の肖像画(2)、フルベッキ写真から切り取った西郷隆盛(とされる)写真(3)である。

実は、今回改めて三葉の写真を並べてみてピンときたことがある。それは、三葉の写真に共通して見出せる太い眉毛と大きな目、ずんぐりとした体躯といった、南九州から沖縄にかけての南方系の日本人たちに多く見られる身体的特徴である。筆者の兄弟は沖縄の女性と結婚したが、彼女の兄弟を見ても明らかに顔立ちが本土の人間と異なることが分かるのである。フルベッキ写真の西郷隆盛(とされる)写真(3)にしても、太い眉毛や目許などの特徴が西郷隆盛(1)と(2)と共通しているので、もしかしたら本物かと一瞬思ったほどであるが、下唇と顎の間に大きな瘤のようなものがある他、顔の輪郭などから見ても明らかに西郷隆盛(1)と(2)とは“別人”であることが分かる。しかし、そもそも我々が“本物の西郷隆盛”と思っている銅像(1)と肖像画(2)にしても、本当に西郷隆盛にそっくりなのかどうかについて確かなことは言えないのである。何故なら、西郷隆盛の写真は、少なくとも現時点において、一枚も“発見”されていないからだ。

1899年、上野公園の銅像除幕式に列席した西郷隆盛の未亡人イトが亡夫の銅像を見た瞬間、「宿んしは、こげなお人じゃなかったこて」(うちの人は、このような人ではなかったのに」)と思わず声を出すと、隣席に腰かけていた西郷縦道がイトの足を踏んでたしなめたというエピソードが噂となって全国に広まり、それが元になって銅像の西郷隆盛の顔は本物と似ていないと信じる人が増えたということを物の本で読んだことあるが、このイト未亡人の言葉は「銅像の顔が記憶に残る亡夫の顔と似ていない」ことを意味するのではなく、「銅像のように、西郷が着物姿で人前に現れるはずがない」という意味であったと、新人物往来社編集の『西郷隆盛 七つの謎』に書いてあった。参考までに、『西郷隆盛 七つの謎』でも紹介されている財団法人西郷南洲顕彰会の『敬天愛人』誌第二号に載った、河野辰三の「南洲翁と博文約礼」と題する論文の一部を以下に引用しておこう。

これは筆者が少年時代に祖母から聞いた話である。

南洲翁の上野の銅像が竣工してその除幕式の時、翁の知己朋友であった維新の生き残りの元勲を始めとして、朝野の貴顕名士が『こりゃ、本当に西郷じゃ』と異口同音に讃歎する中に、独り南洲翁の未亡人のみは、『あんな不様な格好では、世間の皆様に対して、まことにお恥ずかしい次第でございます。西郷は、ふだんうちに居る時でも、服装などはやかましく、いつもきちんと端坐し、決してあぐらをかいたり、寝そべったりしたことはありませんし、あんな格好で、世間の皆様の前に立っていますことは、西郷もさぞ心苦しいことでしょう』と言われたそうである。

あの銅像は、誰が見ても、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり、この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり、と言われた翁の面目風貌をいかにもよく表している傑作である。又、未亡人のいわれる不様な格好であればこそ、永く一般民衆から、西郷さん西郷さんと、親近感を以て呼ばれるゆえんであるが、未亡人のいわれることも真実であった。

柴山海軍大将の言に『私が、南洲翁に親しく接して殊に感じたのは、翁は日本の大黒柱で、国家の為繁忙な人であるのに、私の如き小僧が会いに行っても、用さえなければ、何時でも快く会見し、礼儀厳かに一時間でも二時間でも正座して、ついぞ膝を崩されたことがない。我輩如き小僧に対するもなおこの通りであって、帰りには自ら見送り、チャンと畳に両手をつき、別れを告げるという風であるから、誠に恐縮した』とあるが、これは未亡人の言を裏書きするものである。

『敬天愛人』誌第二号「南洲翁と博文約礼」(河野辰三著)

しかし、上野公園の銅像こそが本物の西郷隆盛だと主張する『敬天愛人』は、西郷隆盛を敬う組織が発行する雑誌なので多少は割り引いて読む必要があるだろう。事実としては西郷隆盛の写真が未だに発見されていないことから、上野公園の銅像こそが本物の西郷隆盛だと言われても俄には同意できないというのが正直なところだ。ちなみに、肖像画はキヨソネが西郷の弟の従道などをモデルに描いたもので、その肖像画をモデルにして西郷隆盛の銅像を高村光雲が制作している。

 最後に、昨夏(2003年8月)新聞等で「西郷隆盛の肖像画発見」というニュースが一斉に報道された件に関連して一言述べておきたい。最初に、以下に新聞記事を引用する。

西郷隆盛の肖像画見つかる 僧侶・五岳が直接会い?描く

 明治維新に活躍した西郷隆盛(1827~77年)の肖像画が、大分県日田市で見つかった。幕末・明治期に日田で文人画家として活躍した僧侶の平野五岳が掛け軸に描いたもので、西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。西郷の写真は残されておらず、肖像画数点も伝聞をもとに描かれたとされる。掛け軸は五岳が直接会って描いたとみられ、鹿児島県立歴史資料センター「黎明館」(鹿児島市)は「貴重な史料」と評価している。

 掛け軸を保管していたのは五岳研究家として知られる日田市在住の川津信雄さん(73)。10年ほどまえに骨董(こっとう)品店で見つけて買い求めたという。河内昭圓・大谷大文学部教授が調査。肖像画に描かれた「丸に十字」の薩摩藩の紋付き羽織が、西郷南洲顕彰館(鹿児島市)で保存されている遺品の紋付き羽織と同じと見られると判断した。肖像画は上半身で、顔にはうっすらと彩色が施されている。

 漢詩は、五岳が西郷にあてた書簡。西郷が在野の身でありながら天下を思う気骨をたたえ、「お会いしたい」と申し入れている。

 書簡の日付は明治9(1876)年10月で、西南戦争の4カ月前。同月、鹿児島を訪問した五岳は、西郷の蜂起を思いとどまらせるよう明治政府の大久保利通から依頼を受けていたといわれる。これまでは五岳は西郷に会えなかったとされてきたが、川津さんは「五岳は書簡の原文を手元に残したうえで鹿児島で直接西郷に会い、後にまとめて掛け軸に残した」と推測している。

http://www.asahi.com/top/update/photonews/0827/OSK200308270008.html

実は、上記の肖像画と同一人物と思われる若いころの“西郷隆盛”の写真を発見した人がいる。ホームページ【カシオペア紀行】のオーナーである。以下が問題の写真であり、同写真と情報を快く提供してくれたホームページ【カシオペア紀行】のオーナーに、この場を借りて篤く御礼を申し上げる次第である。

 ホームページ【カシオペア紀行】のオーナーによれば、真ん中の立っている人物の目許が朝日新聞などに報道された西郷隆盛の肖像画と似ていると言う。なるほど、確かに目許が似ているかもしれない。しかし、キヨソネが描いたという肖像画とあまりにもかけ離れ過ぎており、どちらが本物の西郷隆盛なのだろうかと戸惑う読者も少なくないのではなかろうか。ちなみに、右側に腰を掛けている人物は、西郷隆盛の“影武者”と言われた永山弥一郎だが、一時は西郷隆盛本人と間違われていた人物であった。問題の掛け軸、上記の写真に写る“西郷隆盛”、永山弥一郎等についてさらに詳細を知りたいという読者は、ホームページ【【カシオペア紀行】】を訪問されたい。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(8)に続く

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コメント

ブログ【写真が紐解く幕末・明治】に「西郷隆盛の写真について」と題した記事が掲載されました。古写真に詳しい森重和雄氏の記事だけに、重みがあります。特に、「唯一可能性のある写真があります。それは明治五年に横浜の岩倉使節団をお見送りする留守政府の 首脳たちを撮影した写真」というあたりの発言に注目。http://morishige.omlog.net/archives/1068

投稿: サムライ | 2011年2月 6日 (日) 午後 04時09分

朝日だったか読売新聞で8年ほど前官軍の格好をした西郷隆盛が写真で公になっていますがこれはみとめられていないのでしょうか。

投稿: pianopianotrio | 2010年11月 2日 (火) 午後 11時03分

このブログで紹介いただいた「カシオペア紀行」はURLが変わっています。多くの方から指摘をいただきました。

http://www.geocities.jp/michinokumeet/kikou/kikou.html

上記URLです。

投稿: 愛輪塾@管理人 | 2007年4月21日 (土) 午後 07時46分

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