フルベッキ写真(3)
5W1H そこで写真の真贋について調査していくにあたり、本シリーズでは原点に立ち返り、5W1Hの観点から写真の真贋について慎重に筆を進めていこう。
★写真を撮影したのは何時か(When)…撮影時期を元治二年とする根拠として佐宗氏は、(1) 刀と丁髷、(2) ウィリアムの年齢の2点を挙げている。刀と丁髷に関して佐宗氏は、明治二年になっているのにも拘わらず全員が刀を差している上、丁髷を結っているのはおかしいと言う。しかし、断髪令が発令されたのは2年後の1871(明治4年)8月9日であり、廃刀令に至っては7年後の1876年(明治9年)3月28日であった。だから、明治2年の段階であれば刀を差し丁髷を結った侍で占められた集合写真であってもおかしくはないと筆者は思うのだが、当時について詳しい読者にご教示いただければ有り難い。 次にウィリアム・フルベッキはフルベッキの長男であり、1861年1月18日に誕生している。佐宗氏の説が正しいとして逆算すると、写真撮影時のウィリアムは4歳になったばかりということになる。逆に松浦・村瀬説が正しいとすると、ウィリアムは7歳から8歳にかけての年齢である。果たして、読者の目にはウィリアムは何歳に見えるだろうか。 ★写真を撮ったのは誰か(Who)・写真を何処で撮ったか(Where)…長崎・上野彦馬写真スタジオで上野彦馬が撮影したということで両者とも一致している。誰が写真を撮ったかということはあまり重要ではないが、何処で写真を撮ったかという点になると慎重な検証が必要であろう。本シリーズにおいては長崎・上野彦馬写真スタジオ説が正しいと想定して筆を進めていくが、途中で新事実が発見されて思わぬ展開になるかもしれないことを予めお断りしておく。 ★写真に写っているのは何(誰)か(What)…インターネットの様々なサイトで問題の写真を取り上げているが、写真に写っている侍は致遠館の生徒であるとするサイトが大半を占めており、勤王の志士とするサイトは少数派といったところだろうか。ともあれ、これから本シリーズにおいて写真に写っている志士を一人一人検証していくこととしたい。 ★写真を撮った目的は何か(Why)…フルベッキ上京前の記念撮影という松浦・村瀬説は頷けるものがあり、実際にそのように説くサイトも多い。一方で佐宗氏の場合、「各藩の勤王党志士が一堂に会した記念」の集合写真であるとしている。本稿ではどちらが正しいかといった結論を急いで出すのではなく、慎重に筆を進めていくつもりである。 ★写真はどのようにして存在が知られたのか(How)…明治28年に雑誌『太陽』に発表されてから存在を知られるようになったと主張するサイトが大半である。松浦・村瀬説および佐宗説もその例に漏れない。なお、『新訳考証 日本のフルベッキ』にも口絵に問題の写真が紹介されているが、その説明文は「長崎の上野彦馬写真館で撮られたと思われる写真。フランスで発見した」となっていた点が興味深い。 ・フルベッキ写真(4)に続く | ||||||||||||||||||||||||
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