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2005年8月

2005年8月31日 (水)

「フルベッキ写真」の連載を終えて

フルベッキ写真(1)でも述べましたように、1年半前に国際ビジネスのコンサルティング会社のIBDのウェブ機関誌に1年間にわたって寄稿した「近代日本とフルベッキ」では、フルベッキ写真について様々な角度から調べていますが、その「近代日本とフルベッキ」の最終章で私は以下のように書いたことがあります。

 1年ほど前、フルベッキを囲む志士たちの集合写真に初めて接した時の驚きは、まるで昨日のことのように覚えている。フルベッキ写真に写っているのが日本人なら誰でも知っているはずの明治天皇、西郷隆盛、横井小楠、勝海舟だと言われても信じられない思いだったが、写っている人物が本物か偽物かについて明白に断言できるだけの自信もなかった当時の筆者であった。しかし、1年間にわたって連載を続けていくうちに、フルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟を除き、あとはほぼ間違いなく〝贋物〟であると確信が持てるようになった。ともあれ、1年間続いた本シリーズに最後まで付き合っていただいた読者に対し、この場を借りて御礼を申し上げるとともに、いつの日か再び『世界の海援隊』誌上でお目にかかれるのを祈念しつつ筆を擱く。

昨日アップした「フルベッキ写真の考察」を著した慶応大学の高橋助教授に指摘されて、フルベッキ写真に写っているとされる岩倉具経は、実は岩倉具経ではなく江副廉蔵であることを教えていただいたのは、今から思うに大変有り難い指摘でした。所有している『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』に、フルベッキ写真に写る本物の岩倉具経とそっくりな岩倉具経が掲載されていたのですから、もう少し同書の岩倉兄弟の写真に注意を払うべきだったと思います。ともあれ、この一点のミスを除き、「フルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟」以外(さらには中野健明も含む)は別人であるという点で高橋助教授と意見の一致を見ました。今度とも高橋助教授と意見や情報交換を交わしていきたいと思うし、新しい発見があれば拙ブログを訪問した皆さんにも報告するつもりですので、フルベッキに関心のある方は折りにふれて本ブログを訪問して戴ければ有り難く思います。また、何らかの情報なり意見をお持ちの方は、是非本ブログまでお願いします。

1年ほど前に、『賢者のネジ』の出版のお手伝いをした際、アメリカの藤原肇地質学博士から拙宅に電話があり、フルベッキ写真についても話題になったことがありました。その時に藤原博士が、「まともにフルベッキ写真を調べた者はいない」と語っておられたのを今でも覚えています。確かに、当時の世間におけるフルベッキ写真を巡る論争は、(1)フルベッキ写真に映る武士の一団は、佐賀藩が長崎に開校した致遠館の生徒であるという説、および(2)後に明治政府の元勲となる西郷隆盛、大久保利通ら明治政府の元勲であるという説の二つの説が主なものだったと思います。結論から言えば、西郷隆盛や大久保利通、さらには明治天皇までもが写っているとする(2)明治政府の元勲であるという説は明らかな間違いでしたが、(1)致遠館の生徒であるという説にしても、フルベッキ親子以外は贋物と主張する説が専らであり、これは厳密な意味では正しくありませんでした。そうした(1)致遠館の生徒であるという説の主張に対して、「フルベッキ親子以外にも、大隈重信、岩倉兄弟も本物である」と主張した先覚者が、私の知る限り『日本のフルベッキ』(洋学堂書店)を著した村瀬寿代氏だったと思います。村瀬氏に続き、そうした村瀬氏の意見に賛意を示したのが慶応大学の高橋助教授であり、私サムライであったということになります。尤も、写真に大隈重信、岩倉兄弟らが写っているという事実は、ウィリアム・エリオット・グリフィスが自著『Verbeck Of Japan』(Reprint Services Corp)の中で百年以上も前に既に述べていることであり、格別新しい発見というほどのものではなく、単にグリフィスの著した『Verbeck Of Japan』を原典で読んだ日本人がほとんどいなかったため、今日まで見過ごされてきたに過ぎなかったと言えそうです。

最後に、教育と関連させて心に留めておくべきなのは、世の中の風説に惑わされることなく、自分自身の目と足とで確かめ、関係者とのインタビューを積み重ねたり資料に当たったりすることの大切さであり、さらにはそれらを基に自分の頭で考え、真実を地道に発掘していくというプロセスがいかに大切かという点でしょう。もしかしたら、IBDのウェブ誌『世界の海援隊』に1年間にわたって「近代日本とフルベッキ」を連載して得た最大の成果は、「自分の目と足で確かめる」ということの重要性を再認識したことだったような気がする今日この頃です。

■謎のフルベッキ写真
■フルベッキ写真の真偽

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2005年8月30日 (火)

フルベッキ写真の考察

慶応大学の高橋信一助教授と、ここ一ヶ月ほど「フルベッキ写真」を巡ってメールのやり取りを行いました。8月26日のフルベッキ写真(8)で取り上げた大隈重信の章でも既述したように、フルベッキ写真に写る“岩倉具経”は、実は江副廉蔵であったことを高橋助教授に指摘していただき、大変有り難く思った次第です。その高橋助教授の承諾を得た上で、「フルベッキ写真の考察」と題する同助教授の論文を以下に転載します。なお、「フルベッキ写真の真偽」と題して、昨日まで公開していた「謎のフルベッキ写真」とともに以下のURLにアップしましたのでお知らせ致します。

■謎のフルベッキ写真
■フルベッキ写真の真偽

「フルベッキ写真の真偽」の一番下側の江副廉蔵、中野健明らの氏名が入った写真は、高橋助教授が作成したものです。
高橋助教授の論文中の付表1は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
chronology01.xls

「フルベッキ写真」に関する調査結果

慶應義塾大学 高橋信一

 最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月雑誌「太陽」に戸川残花によって初めて一般に紹介され、大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載された。戦後肖像画家の島田隆資が昭和48年と50年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の人物の比定を試みている。しかし、比定の方法や時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館の関係者と写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。

 島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っているというものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。

 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい野外写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。この研究は40年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。

 万が一、慶應元年の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に英国に送り込んだ事実がある。慶應2年6月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島を送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(大塚孝明の「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だった藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影された際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士が5名写っていることになっている。

 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英語塾、致遠館係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のために、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っていて間違いないところである。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」によって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭の「鍋島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武の「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大橋昭夫・平野日出雄の「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」と村瀬寿代訳「日本のフルベッキ」を参考にした。

 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具実、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具実公傳」などで調べた。相良知安は鍋島閑叟の侍医として、京での行動を共にしている。この表から推測すると、明治元年の10月に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟の面倒を命じられた久米邦武はフルベッキに預けることにして、相良知安に長崎まで送らせたのではないか。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎商業百年史」に掲載されている。フルベッキは11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新しい大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。

 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。

相良知安  左端の立ち居の人物(鍵山栄の「相良知安」他)
中野健明  知安の右隣り(福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
丹羽龍之助  大隈重信の左隣り(「江藤南白」)
江副廉蔵  大隈重信の前(「佐賀 幕末明治500人」)
岩倉具経  大隈重信の右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)
山中一郎  後列右から6人目(「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」)
香月経五郎  山中一郎の右隣り(「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人
副島要作  香月経五郎の右隣り(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
中島永元  後列右から2人目(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)
石橋重朝  副島要作の前(「佐賀 幕末明治500人」
岩倉具定  フルベッキの右隣り(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」。尚、岩倉具綱・具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、弘道館に入ったので、長崎に来ていない)

 その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時副島は40歳に近く、月代を剃っていた。似ているというだけで、人物を振り当てるのは学問的でない。伊藤博文は兵庫県知事としてどのような仕事をしていたか、フルベッキとの繋がりなど明らかになっていない。致遠館に学んだものとして、日下部太郎、横井大平、横井左平太は当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。当時、薩摩・長州・土佐から何人か長崎に遊学するものがいたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も付表2に見るように東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀は京にいた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光は面長であったことが各種肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。

 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に詳しく記載されているが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本のフルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、堤喜六、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎などを特定出来ていない。

 佐賀藩の多数の出身者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なものだったが、明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるが、佐賀出身者は20名余りと薩摩・長州の数分の一である。各種の明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎が断罪された佐賀の乱を引き金とする明治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの傾倒を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、明治の後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。

(平成17年8月23日)

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2005年8月29日 (月)

フルベッキ写真(最終回)

meiji01 本日のフルベッキ写真(最終回)は明治天皇を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“明治天皇”です。

最終回の本日は、フルベッキ写真の中でも最大の謎である〝明治天皇〟を取り上げることにしよう。最初に、三葉の写真と肖像画を眺めていただきたい。

 明治天皇は嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に誕生しているから、松浦玲・村瀬寿代説によるフルベッキ写真の撮影時期である1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)当時の明治天皇は、16歳(ちなみに、佐宗邦皇氏等が唱える慶応元年説に従えば、フルベッキ写真が撮影された慶応元年当時の〝明治天皇〟は12歳)のはずであり、フルベッキ写真に写る〝明治天皇〟も大体同じような年格好の青年である。しかし、明治天皇の即位の礼は1868年(慶応4年、すなわち明治元年)8月27日に行われており、同年11月4日(明治元年9月20日)に明治天皇は京都を出発、11月26日(明治元年10月13日)に江戸城に入っているので、そうした日本の歴史が大きく転換しつつあった時期に明治天皇が長崎のフルベッキのもとを訪れたという証拠資料はなく、その点を考えただけでもフルベッキ写真に写る〝明治天皇〟は偽物であることが明らかだ。しかし、フルベッキ写真に写る〝明治天皇〟とされた青年の意志の強そうな表情から察するに、地道ではあっても日本の近代化にそれなりの貢献をした人物ではなかったかと、ふと思った。

※明治天皇肖像画については、『天皇の肖像』(多木浩二著 岩波書店)を参照のこと。

 なお、 問題になったフルベッキ写真の広告であるが、これは昨年の暮れに五大紙がフルベッキ写真の広告として掲載したものであり、フルベッキ写真に対する関心の高まりを示したものと言えそうだ。ただ、以下の広告のコピーからもお分かりのように広告主は東京書芸館という会社だが、写真は本物であるとは云え、写真に勝海舟や坂本龍馬が写っているとして10万円以上もの値を付けて販売しているのは人をバカにした話であり、そのような広告を載せる新聞社も新聞社である。このように、モノの真贋を見分ける眼力すら最早失ってしまった大手マスコミの凋落ぶりは目を覆うばかりではないか。

 最後に、1年ほど前にフルベッキを囲む志士たちの集合写真に初めて接した時の驚きは、まるで昨日のことのように覚えている。フルベッキ写真に写っているのが日本人なら誰でも知っているはずの明治天皇、西郷隆盛、横井小楠、勝海舟だと言われても信じられない思いだったが、写っている人物が本物か偽物かについて明白に断言できるだけの自信もなかった当時の筆者であった。しかし、1年間にわたって連載を続けていくうちに、フルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟を除き、あとはほぼ間違いなく“贋物”であると確信が持てるようになった。ともあれ、1年間続いた本シリーズに最後まで付き合っていただいた読者に対し、この場を借りて御礼を申し上げるとともに、いつの日か再び『世界の海援隊』誌上でお目にかかれるのを祈念しつつ筆を擱く。

謎のフルベッキ写真

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2005年8月28日 (日)

フルベッキ写真(9)

ito01 本日のフルベッキ写真(9)は伊藤博文を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“伊藤博文”です。

 伊藤博文の場合、幸いにして数多くの写真が残されているので、フルベッキ写真に写っている(とされる)伊藤博文との比較がし易いはずだ。また、フルベッキと交流のあった伊藤だけに、フルベッキ写真に写っていたとしても決して不思議ではないはずだが、果たしてフルベッキ写真に写る伊藤は本物なのだろうか? さっそく伊藤博文の写真を比較してみよう。

本シリーズでは、坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信と、フルベッキ写真に写る人物が本物かどうかについて検証してきたが、実際にフルベッキ写真に写る人物と本物の写真とを並べてみて、フルベッキ写真に写るのは果たして本物かどうかの見極めに迷うことが都度あった筆者であり、その点は読者も同じではと思う。今回のフルベッキ写真に写る伊藤博文にしても、「似ていると言えば似ているし、似ていないと言えば似ていない」と思う読者が多いのではないか。また、伊藤博文の写真(2)、(3)、(4)、はいずれも本物の伊藤博文であるが、それとは知らずに初めて写真(2)、(3)、(4)を目にした読者であれば、果たして全部の写真が本物の伊藤博文なのだろうかと戸惑うのではないだろうか。

ここは“直感”に頼るしかなさそうであるが、フルベッキ写真を初めて目にした時の筆者は、坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、大村益次郎等々、幕末から明治にかけて活躍した蒼々たる元勲が一堂に集うというのは現実離れしているし、フルベッキ写真には何処か嘘があると直感的に感じ取ったのであるが、伊藤博文にしても本物の写真と較べて何処となく違うものを感じたのである。

念のため、松浦玲・村瀬寿代説によるフルベッキ写真の撮影日である1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間を調べてみると、その間は初代兵庫県知事に就いていた時期(1868年5月23日 - 1869年4月10日)と重なるのであり、筆者が調べた限りでは1868年12月~1869年1月30日間に兵庫県知事として長崎を訪れたという記録は残っていないようだ。その意味でも、フルベッキ写真に写る伊藤博文は贋物とみて良いだろう。

 ご参考までに、フルベッキ写真に写っているとされる他の有名な長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)、大村益次郎、高杉晋作の写真も載せたので、フルベッキ写真に写るそれと比較していただきたい。この他にもフルベッキ写真に写っているとされる長州藩士に、広沢真臣、品川弥次郎、井上聞太(後の井上馨)らがいるが割愛させていただく。

 大村益次郎の場合、写真が一枚も遺されていないとされており、我々は上に掲げた一枚の肖像画によってしか在りし日の大村に想像を巡らすしかないのだが、特徴的な広い額などからフルベッキ写真に写る大村益次郎は本物に違いないと主張する某識者が存在する。その識者はフルベッキ写真について独自に調べたようであり、筆者の知己でもあるから、もしかしたらフルベッキ写真の大村益次郎は本物かもしれないが、筆者自身で調べたわけではないので現時点では何とも言えないところだ。

 桂小五郎の場合、素人目にも他人であることがわかるような写真であり、フルベッキ写真に写るのは桂小五郎ではないと判断して差し支えないと思う。高杉晋作の場合、馬と並ぶと馬の方が丸顔に見えるというくらい面長だったと伝えられているが、フルベッキの写真に写っているとされる高杉の顔の長さは人並みであり、また、その他の顔の特徴などを較べてみても、フルベッキ写真に写っているとされる高杉晋作は本物ではないと筆者は思う。第一、高杉の場合は維新直前に病死しているのだから、明治元年に撮影されたフルベッキ写真に写っているはずがないのである。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(最終回)に続く

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2005年8月27日 (土)

1980年・日本の破局(上)

本日、ホームページ【宇宙巡礼】にアップしたのは、堺屋太一氏の対談記事です。これは堺屋太一氏と藤原肇氏が今から四半世紀前に1980年代を予測した対談であり、官僚である堺屋太一氏と国際ビジネスマンである藤原肇氏との間には、発想に大きな開きがあるのがよく分かると思います。この記事について述べたいことがある方は、掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]に積極的に投稿してください。お待ちしております。

1980年・日本の破局(上)

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2005年8月26日 (金)

フルベッキ写真(8)

ohkuma01 本日のフルベッキ写真(8)は大隈重信を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“大隈重信”です。

今回は大隈重信を取り上げよう。筆者がフルベッキ写真(6)で、謎のフルベッキ写真に写っている大隈重信とされる人物は、本物の大隈重信にほぼ間違いないと述べたのを覚えている読者も多いと思う。そして、その理由については大隈重信を取り上げた際に言及する旨約束していたので、今回大隈重信=本物説について筆を進めたい。

 最初に、フルベッキ写真に写るのは間違いなく大隈重信だと語っているのは、『Verbeck Of Japan』(Reprint Services Corp)を著したウィリアム・エリオット・グリフィスである。そのグリフィスの『Verbeck Of Japan』を訳した村瀬寿代氏による『新訳考証 日本のフルベッキ』(洋学堂書店)の中に、グリフィスが問題の “フルベッキ写真”について言及している個所があり、フルベッキ写真に写っているのは間違いなく大隈重信であることを示す興味深い内容になっているので以下に全文を引用しておこう。

 フルベッキ氏がアメリカに送った、教師とその生徒たちの写真(筆者注:フルベッキ写真)は日本の歴史家にとっては非常に価値のある資料であろう。この若者たちの中には、後に政府の様々な部署で大きな影響力を持った多くの人物を認めることができる。各省の長、大臣、海外派遣の外交官、そして皇国の首相になった人物など。本の助けや、人に聞くことなく筆者(筆者注:グリフィス)が思い出したり、判別できる中に岩倉兄弟[岩倉具定・具経]がある。また、大隈伯[重信]がいる。日本の新体制の下、この40年間に大隈伯の活躍はめざましく、財務の長や外務大臣、大学の創立者となった。1874年に中国に派遣され外務卿となった副島[種臣]とともに、大隈はフルベッキ氏の下で特に合衆国憲法を学び、ほとんどすべての西欧諸国の基本法に精通した。柳谷謙太郎は特許局長であり、その他にも、1874年にキリスト教国に派遣された使節団の中に、写真に写る者を多く認めることができる。

『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)p.119

ちなみに、グリフィスはフルベッキが福井藩の教師招聘をラトガース大学に要請したのをきっかけに来日している。一年近く福井藩で教師を勤めた後のグリフィスは、南校(東京大学)の教師として雇用されており、当時南校の教頭をしていたフルベッキの日々の仕事および生活をつぶさに観察出来る立場にいた。

次に、肝心なフルベッキ写真の撮影時期であるが、問題のフルベッキ写真が撮影されたのは1869年(明治二年)という世間で通説となっている撮影時期でもなく、また佐宗邦皇氏らが主張する1865年 (慶応元年)という撮影時期でもなく、撮影時期を1868年12月(明治元年10月)から1869年1月末(明治元年12月)の間と松浦玲・村瀬寿代の両氏が推定しているのは以下の理由による。

 岩倉兄弟、大隈、フルベッキの行動は概ね記録が残っているので、この四名が長崎で会することのできる時期を調べれば撮影時期が推定できる。大隈が長崎で起きた英国水兵斬殺事件の審査のために来崎したのが1868年10月(明治元年9月)頃である。事件解決後、1869年1月30日(明治元年12月18日)には京都に戻っている。岩倉兄弟は1868年12月(明治元年10月)頃来崎する。また、彼らは1869年1月3日(明治元年11月21日)には佐賀に招かれ、フルベッキも同行したようで、フルベッキはその前日1月2日(旧暦11月20日)に鍋島閑叟の別荘に招かれる。以上から、岩倉兄弟・フルベッキが佐賀を訪問する1868年12月末~1869年1月初頭(明治元年11月)を除き、岩倉兄弟が来崎した1868年12月(明治元年10月)から、大隈が長崎を離れる1869年1月末(明治元年12月)までの二ヶ月足らずの間に、写真が撮られたと推定できる。

『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)p.138

 さらに、フルベッキ写真には従来から謎めいたところが多々あったと指摘しつつ、その原因を佐賀の乱に村瀬氏は求めているが、なるほど一つの考え方であると思った。そのあたりの村瀬氏の推測に関心のある読者は、直接村瀬氏の『新訳考証 日本のフルベッキ』を参照されたい。

最後に、三葉の大隈重信の写真をお見せしよう。大隈重信(1)はフルベッキ写真から、大隈重信(2)は北海道大学付属図書館がオンラインで公開している大隈重信の写真である。大隈重信(3)は後年の大隈重信であり、読者にも馴染みの写真だと思う。なお、岩倉兄弟の写真も併せてアップしたので一度見て頂ければと思う。岩倉具定(1)はフルベッキ写真から、岩倉具定(2)は以下の集合写真からのものである。その次はフルベッキ写真から抜き取った岩倉具経(1)と上記の集合写真から抜き取った岩倉具経(2)である。

 ちなみに、下側の集合写真は『専修大学1880-2000』に掲載されたもので、写真の表題(写真左下)が「米国ニュージャージー州ラトガース大学の日本人留学生(明治4年)となっており、岩倉具定・具経兄弟が写っている。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(9)に続く

訂正: その後、フルベッキ写真に写る“岩倉具経”は、江副廉蔵であることが判明しました。また、フルベッキ写真で従来は“岩倉具綱”とされていた人物が、実は岩倉具経であることが判明しています。このあたりについての経緯は、本シリーズ「フルベッキ写真」を終えた後に報告します。

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2005年8月25日 (木)

フルベッキ写真(7)

saigo03 本日のフルベッキ写真(7)は西郷隆盛を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“西郷隆盛”です。

 最初に、西郷隆盛の写真をクリックしていただきたい。最初に目に飛び込んでくるのが、東京の上野公園にある西郷隆盛の銅像(1)、イタリア人の画家キヨソネが描いたという西郷隆盛の肖像画(2)、フルベッキ写真から切り取った西郷隆盛(とされる)写真(3)である。

実は、今回改めて三葉の写真を並べてみてピンときたことがある。それは、三葉の写真に共通して見出せる太い眉毛と大きな目、ずんぐりとした体躯といった、南九州から沖縄にかけての南方系の日本人たちに多く見られる身体的特徴である。筆者の兄弟は沖縄の女性と結婚したが、彼女の兄弟を見ても明らかに顔立ちが本土の人間と異なることが分かるのである。フルベッキ写真の西郷隆盛(とされる)写真(3)にしても、太い眉毛や目許などの特徴が西郷隆盛(1)と(2)と共通しているので、もしかしたら本物かと一瞬思ったほどであるが、下唇と顎の間に大きな瘤のようなものがある他、顔の輪郭などから見ても明らかに西郷隆盛(1)と(2)とは“別人”であることが分かる。しかし、そもそも我々が“本物の西郷隆盛”と思っている銅像(1)と肖像画(2)にしても、本当に西郷隆盛にそっくりなのかどうかについて確かなことは言えないのである。何故なら、西郷隆盛の写真は、少なくとも現時点において、一枚も“発見”されていないからだ。

1899年、上野公園の銅像除幕式に列席した西郷隆盛の未亡人イトが亡夫の銅像を見た瞬間、「宿んしは、こげなお人じゃなかったこて」(うちの人は、このような人ではなかったのに」)と思わず声を出すと、隣席に腰かけていた西郷縦道がイトの足を踏んでたしなめたというエピソードが噂となって全国に広まり、それが元になって銅像の西郷隆盛の顔は本物と似ていないと信じる人が増えたということを物の本で読んだことあるが、このイト未亡人の言葉は「銅像の顔が記憶に残る亡夫の顔と似ていない」ことを意味するのではなく、「銅像のように、西郷が着物姿で人前に現れるはずがない」という意味であったと、新人物往来社編集の『西郷隆盛 七つの謎』に書いてあった。参考までに、『西郷隆盛 七つの謎』でも紹介されている財団法人西郷南洲顕彰会の『敬天愛人』誌第二号に載った、河野辰三の「南洲翁と博文約礼」と題する論文の一部を以下に引用しておこう。

これは筆者が少年時代に祖母から聞いた話である。

南洲翁の上野の銅像が竣工してその除幕式の時、翁の知己朋友であった維新の生き残りの元勲を始めとして、朝野の貴顕名士が『こりゃ、本当に西郷じゃ』と異口同音に讃歎する中に、独り南洲翁の未亡人のみは、『あんな不様な格好では、世間の皆様に対して、まことにお恥ずかしい次第でございます。西郷は、ふだんうちに居る時でも、服装などはやかましく、いつもきちんと端坐し、決してあぐらをかいたり、寝そべったりしたことはありませんし、あんな格好で、世間の皆様の前に立っていますことは、西郷もさぞ心苦しいことでしょう』と言われたそうである。

あの銅像は、誰が見ても、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり、この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり、と言われた翁の面目風貌をいかにもよく表している傑作である。又、未亡人のいわれる不様な格好であればこそ、永く一般民衆から、西郷さん西郷さんと、親近感を以て呼ばれるゆえんであるが、未亡人のいわれることも真実であった。

柴山海軍大将の言に『私が、南洲翁に親しく接して殊に感じたのは、翁は日本の大黒柱で、国家の為繁忙な人であるのに、私の如き小僧が会いに行っても、用さえなければ、何時でも快く会見し、礼儀厳かに一時間でも二時間でも正座して、ついぞ膝を崩されたことがない。我輩如き小僧に対するもなおこの通りであって、帰りには自ら見送り、チャンと畳に両手をつき、別れを告げるという風であるから、誠に恐縮した』とあるが、これは未亡人の言を裏書きするものである。

『敬天愛人』誌第二号「南洲翁と博文約礼」(河野辰三著)

しかし、上野公園の銅像こそが本物の西郷隆盛だと主張する『敬天愛人』は、西郷隆盛を敬う組織が発行する雑誌なので多少は割り引いて読む必要があるだろう。事実としては西郷隆盛の写真が未だに発見されていないことから、上野公園の銅像こそが本物の西郷隆盛だと言われても俄には同意できないというのが正直なところだ。ちなみに、肖像画はキヨソネが西郷の弟の従道などをモデルに描いたもので、その肖像画をモデルにして西郷隆盛の銅像を高村光雲が制作している。

 最後に、昨夏(2003年8月)新聞等で「西郷隆盛の肖像画発見」というニュースが一斉に報道された件に関連して一言述べておきたい。最初に、以下に新聞記事を引用する。

西郷隆盛の肖像画見つかる 僧侶・五岳が直接会い?描く

 明治維新に活躍した西郷隆盛(1827~77年)の肖像画が、大分県日田市で見つかった。幕末・明治期に日田で文人画家として活躍した僧侶の平野五岳が掛け軸に描いたもので、西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。西郷の写真は残されておらず、肖像画数点も伝聞をもとに描かれたとされる。掛け軸は五岳が直接会って描いたとみられ、鹿児島県立歴史資料センター「黎明館」(鹿児島市)は「貴重な史料」と評価している。

 掛け軸を保管していたのは五岳研究家として知られる日田市在住の川津信雄さん(73)。10年ほどまえに骨董(こっとう)品店で見つけて買い求めたという。河内昭圓・大谷大文学部教授が調査。肖像画に描かれた「丸に十字」の薩摩藩の紋付き羽織が、西郷南洲顕彰館(鹿児島市)で保存されている遺品の紋付き羽織と同じと見られると判断した。肖像画は上半身で、顔にはうっすらと彩色が施されている。

 漢詩は、五岳が西郷にあてた書簡。西郷が在野の身でありながら天下を思う気骨をたたえ、「お会いしたい」と申し入れている。

 書簡の日付は明治9(1876)年10月で、西南戦争の4カ月前。同月、鹿児島を訪問した五岳は、西郷の蜂起を思いとどまらせるよう明治政府の大久保利通から依頼を受けていたといわれる。これまでは五岳は西郷に会えなかったとされてきたが、川津さんは「五岳は書簡の原文を手元に残したうえで鹿児島で直接西郷に会い、後にまとめて掛け軸に残した」と推測している。

http://www.asahi.com/top/update/photonews/0827/OSK200308270008.html

実は、上記の肖像画と同一人物と思われる若いころの“西郷隆盛”の写真を発見した人がいる。ホームページ【カシオペア紀行】のオーナーである。以下が問題の写真であり、同写真と情報を快く提供してくれたホームページ【カシオペア紀行】のオーナーに、この場を借りて篤く御礼を申し上げる次第である。

 ホームページ【カシオペア紀行】のオーナーによれば、真ん中の立っている人物の目許が朝日新聞などに報道された西郷隆盛の肖像画と似ていると言う。なるほど、確かに目許が似ているかもしれない。しかし、キヨソネが描いたという肖像画とあまりにもかけ離れ過ぎており、どちらが本物の西郷隆盛なのだろうかと戸惑う読者も少なくないのではなかろうか。ちなみに、右側に腰を掛けている人物は、西郷隆盛の“影武者”と言われた永山弥一郎だが、一時は西郷隆盛本人と間違われていた人物であった。問題の掛け軸、上記の写真に写る“西郷隆盛”、永山弥一郎等についてさらに詳細を知りたいという読者は、ホームページ【【カシオペア紀行】】を訪問されたい。

謎のフルベッキ写真

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2005年8月24日 (水)

フルベッキ写真(6)

yokoi02 本日のフルベッキ写真(6)は横井小楠を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“横井小楠”です。

 世に出回っている横井小楠の写真(1)と、フルベッキ写真に写っている(とされる)横井小楠(2)の写真を以下のURLに並べてみた。

横井一族の写真

 フルベッキと交流のあった横井小楠だったのでフルベッキ写真に写っていたとしても決して不思議ではないのだが、上記横井一族の写真のよう実際に二枚の写真を並べてみると頬のあたりの特徴などが似ているものの、フルベッキ写真に写っている横井小楠の方が年齢的に一段と若く見えることからして同一人物である可能性は低い。

 次に、横井小楠とされる人物の下に座っている(とされる)甥の横井左太平と横井太平の二人についても見ておこう。横井左太平(2)と横井太平(2)と思われるセピア色の写真は共にフルベッキ写真から切り取ったものであり、白黒写真の横井左太平(1)および横井太平(1)はホームページ【維新の散歩道】に掲載されている本物の写真である。写真を比べて見る限りでは同一人物の可能性があるような気もするが(特に横井左太平)、二葉ずつの写真だけでは明確な断定が困難であるので、現時点における断定は差し控えたいと思う。なお、白黒写真の横井左太平(1)および横井太平(1)については、ホームページ【維新の散歩道】のオーナーの承諾を得たものであり、この場を借りて御礼を申し上げる次第である。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/

 写真の比較だけでは何とも言えないので、次に撮影日を確認してみよう。最初に、撮影日を1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間という松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、新政府の参与として出仕した小楠が京都で暗殺されたのは1869年2月15日(明治2年1月5日)だったので、松浦玲・村瀬寿代説のフルベッキ写真撮影日から幾許もなくして暗殺されたことになる。さらに、暗殺数ヶ月前の小楠は病床に伏せていたのであり、そのような病身で長崎に行けたとは到底思えない。

 一方、撮影日を元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日の間とする佐宗邦皇説はどうか。当時の小楠は熊本に居た上に、フルベッキと交流を重ねていた小楠だったので、元治2年という撮影日が本当であれば、写真に写っている人物が小楠本人である可能性は高いと思う。

 しかし、佐宗邦皇氏がフルベッキ写真の撮影日を慶応元年としているのは、『日本歴史』三三二号に「維新史上解明されていない群像写真について 其の二」という題の論文を発表した島田隆資氏の説に基づいていることは明白である。その島田氏の論文については松浦氏が以下のように第一印象を述べている。

本文のこの部分を書き終えたあとで、島田隆資の「維新史上解明されていない群像写真について 其の二」(『日本歴史』三三二号)に接した。慶応元年長崎で写したフルベッキを囲む群像写真中に、西郷隆盛・西郷縦道・大久保利通・大隈重信・中岡慎太郎・副島種臣・伊藤博文・江藤新平・小松帯刀等々に加えて横井小楠もいると断定し、また、推定人物中には、坂本龍馬・陸奥宗光等々の他に横井左平太・太平兄弟の顔も見えるという驚くべきものである。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.292

 以上のように島田氏の論文を紹介した上で、フルベッキ写真に小楠は写っていないと松浦玲氏は断言しているのである。

評伝選(『横井小楠 儒学的正義とは何か』)刊行後に少し検討して、これだけの人物が一堂に会する時間的可能性は皆無だと断定した。慶応元年の撮影という島田(隆資)氏の判断も誤りである。横井小楠と甥の左平太・太平は写っていない。
『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.292

 松浦氏が横井小楠は写っていないと断言できたのは、撮影日が明治元年の暮れであると確信していたからである。筆者が既述したように、明治元年暮れの小楠は病床にあったのだから長崎に居るはずがないと筆者同様に松浦氏も考えたのであろう。

 なお、ここで読者に改めて思い出していただきたいのは、「フルベッキ写真はフルベッキが明治政府に招聘されて上京する前の記念撮影であり、従って撮影日はフルベッキが長崎を発つ明治2年(1869年)3月23日の直前である」というのが世間一般に信じられているフルベッキ写真を巡る説であるということだ。それを裏づけるかのように、問題のフルベッキ写真を撮影した日本の写真の父・上野彦馬と縁のある某人物も、フルベッキ写真を撮影した場所は明治2年に完成した上野撮影局のスタジオであることは間違いないと証言しているのである。では、どうして松浦氏はフルベッキ写真の撮影が上野撮影局のスタジオが完成する前の明治元年であると断言しているのか、さらには何故(島田隆資)佐宗邦皇説の撮影日が間違いであると断定できるのかという点については、近い将来に大隈重信について取り上げる機会があれば言及するつもりである。何故なら、フルベッキ写真に写っている(とされる)大隈重信は、本物と断定しても差し支えないだけの確かな証拠があるからであり、その大隈の存在によってフルベッキ写真の撮影時期、すなわち大隈が長崎に滞在していた時期が特定できるからに他ならないからである。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(7)に続く

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2005年8月23日 (火)

フルベッキ写真(5)

ryoma 本日のフルベッキ写真(5)は、坂本龍馬を取り上げます。写真は、フルベッキ写真に写る“坂本龍馬”です。

 最初に、写真真に写っている(とされている)龍馬を見て頂きたい。

次に、一般に出回っている龍馬の写真6枚が【坂本龍馬の写真】に公開されているので、上記のフルベッキ写真に写っている(とされる)龍馬と見比べていただきたい。ちなみに、【坂本龍馬の写真】はホームページ[龍馬写真館]のオーナーに直接メールを送って承諾を得たものであり、この場をかりて篤く御礼を申し上げる次第である。ホームページ[龍馬写真館]では、龍馬の写真以外にも貴重な幕末明治の写真を数多く展示しており、一度訪問する価値はあると思う。

 それにしても、フルベッキ写真に写っているとされる龍馬は、唇や鼻などが何処となく似ている気がするが、目許から受ける印象が大分違う上、同時期に撮影した割には全体的に受ける印象としては若すぎるような気がする。しかし、同一人物をほぼ同時期に撮影した場合でも、まるで他人のように見えたりするケースも多いことからして、何とも判断しかねるところである。果たして、読者の判断は如何だろうか。

 一歩譲ってフルベッキ写真の龍馬が本物の龍馬だとしたら、果たしてフルベッキ写真が撮影されたとしている時期におかしな点がないかどうか見ておこう。

 最初に、撮影日を1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間という松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、龍馬が暗殺されたのは慶応三年(1867年)の12月10日であるので、写真の〝龍馬〟は偽物ということになる。一方、撮影日を元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日の間とする佐宗邦皇説が正しいとすれば、龍馬が暗殺される前であり、時期的に長崎で海援隊の活動を開始した頃に重なるので、写真に写っているとされる龍馬が本物という可能性も出てくる。佐宗邦皇説の元治2年(慶応元年、西暦1865年)2月中旬から3月18日以外の時期に撮影されたものだとすれば、文久二年(1862)の3月に土佐藩を脱藩し、同年10月に勝海舟を訪ねて思想転換した時以降から、暗殺される慶応三年(1867年)の12月10日までのおよそ5年の間のいずれかの日ということになろう。

ところで、その期間中において、1864年10月頃から翌1965年の4月にわたって龍馬の行動が空白になっているのが大変気になっている。『石の扉』によれば、その期間に龍馬がイギリスに渡った可能性があるという。なかなか面白い話ではあるものの、俄には信じ難いというのが正直なところだが、好奇心旺盛の龍馬のこと、当時であれば半年でイギリスを行き来することができたことからして、その間にイギリスに行っていたとしてもおかしくはない。何故なら、確証があるわけではないものの、ヨーロッパで体験した者だけが持つある種独特のものの見方・考え方が龍馬に備わっているように見えるからであり、もしかしたら本当にイギリスに行ったのかもしれないと、ふと思ったりもする。

 本シリーズの主人公であるフルベッキと龍馬は、実際に会ったことがあるのだろうか。好奇心が旺盛だった龍馬のことを考えれば、間違いなく幾度かフルベッキと会っているはずだと筆者は思いたい。そのフルベッキから西洋事情に関する多岐にわたる情報を収集しながら、西洋思想を龍馬流に自家薬籠中の物にし、当時の日本人にはないヨーロッパ風の合理性精神を知らず知らずのうちに龍馬は身に付けたのではと筆者は思う。以下のように、『賢者のネジ』でもフルベッキと竜馬とが会っていると想定しているようだ。

藤原肇:坂本龍馬がフルベッキに学んだとは誰も書かないが、あれだけ好奇心の強い龍馬のことだから、彼が長崎で海援隊を動かしていた時期に、頻繁にフルベッキの塾に出入りしていたはずです。長崎奉行所が作った済美館と佐賀藩の致遠館は、ともにフルベッキが校長として教えた教育施設だし、致遠館の逸材が大隈重信と副島種臣でした。だから、大隈が創立した早稲田大学は致遠館が源流で、明治になると、東京に招聘されたフルベッキが大学南校の教頭に就任している。私学と官学の源流に立つ人だったわけです。

『賢者のネジ』(藤原肇ほか たまいらぼ出版)P.150

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(6)に続く

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2005年8月22日 (月)

フルベッキ写真(4)

 フルベッキが長崎滞在中に問題の写真が撮られたというのが事実とすれば、フルベッキがアメリカから上海経由で長崎に到着した1859年11月7日夜から、明治政府に招聘されて長崎を発つ1869年3月23日までの、およそ十年の間に撮影された写真ということになる。では、具体的にそれは何時だろうか。そのヒントの一つが、写真に写っているフルベッキの長男ウィリアムだ。まだ幼いウィリアムを連れてきたフルベッキが、大勢の侍たちに囲まれて記念写真に収まるのはどういうケースなのだろうか。

 フルベッキ夫妻は11人の子供を授かっている。夫妻の最初の子供は1860年1月26日に誕生した長女・エマ・ジャポニカであったが、生後まもなく病気にかかり、同年2月9日に天国に召されている。翌年の1861年1月18日に、写真に写っているとされる長男ウィリアムが誕生。ちなみに、ウィリアムはその後立派に成人し、1930年8月24日に亡くなった。ウィリアムの次に誕生したのが、1863年2月4日に生まれた次女のエマ・ジャポニカであった。夭折した長女の名前を継いだ形になったのだが、次女の場合は天命を全うし、1949年に亡くなっている。その次に誕生したのが次男のチャニング・ムアであるが、残念ながら正確な誕生日は分かっていない。三男のグスターヴが1867年(誕生月日は不明)に生まれているから、次女のエマ・ジャポニカが生まれた1863年2月4日から三男のグスターヴが生まれた1867年の間ということになるのは確かである。続く四男ギドーは1868年7月15日に生まれた。その他の子供たちはフルベッキが長崎を発った1869年3月23日以降の生まれなので本稿では割愛する。以上、フルベッキが上京するまで生まれた子供たちを一覧表にまとめると以下のようになる。ちなみに、松浦玲・村瀬寿代説あるいは佐宗邦皇説とあるのは、各人が主張するフルベッキ写真の撮影日のことである。

子ども
子ども
松浦玲・村瀬寿代説※1
佐宗邦皇説※2
ウィリアム(男) 7歳11ヶ月~8歳 4歳1ヶ月~4歳2ヶ月
ジャポニカ(女) 5歳10ヶ月~5歳11ヶ月 2歳~2歳1ヶ月
ムア(男) ジャポニカと年子であれば4歳10ヶ月~4歳11ヶ月 ジャポニカと年子であれば、1歳~1歳1ヶ月
グスターヴ(男) 1歳~2歳 誕生していない
ギドー(男) 5ヶ月~6ヶ月 誕生していない

松浦玲・村瀬寿代説※1…1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間に撮影。
佐宗邦皇説※2…元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日の間に撮影。[筆者注:元治2年=西暦1865年]

 ところで、写真に映っているフルベッキは椅子に座っている。そしてウィリアムであるが、著者はウィリアムがフルベッキの脇に立っているのだろうと当初考えていたが、ウィリアムの姿勢から察してフルベッキがウィリアムを膝に抱いていると思うに至った。いずれにせよ、写真から受ける印象では、ウィリアムは5~6歳といったところだろうか。当時の銀板写真技術では、明るい場所でも20分は同じポーズを取り続けなければならなかったと聞く。とすれば、佐宗邦皇説の4歳2ヶ月の子供が長い間同じポーズを取っていられるとは到底思えないという声もあるが、実は1851年に上野彦馬が湿板写真を発明しており、露光時間も秒単位になったので、たとえ4歳の子供でも問題はなかったと思う。仮に松浦玲・村瀬寿代説が正しいとすれば、撮影時のウィリアムは「7歳11ヶ月~8歳」の小学二年生ということになろうが、小学三年生の子供がいる筆者からみれば、写真のウィリアムは小学二年生にしては小さすぎるのではと思う。無論、同学年の子供でも身長にばらつきがある点も考慮しなければならないだろうが、兎も角写真に写っているウィリアムは5~6歳に筆者には見えるのである。

仮に、写真に写っている子供がウィリアムでないとしたらどうだろうか。松浦玲・村瀬寿代説を当て嵌めれば、次女のジャポニカの5歳10ヶ月~5歳11ヶ月と、ほぼ6歳の年齢であるが、写真に写っている子供は蝶ネクタイをしているので男の子であることが明らかであるので、ジャポニカではないことは確かだ。次に、具体的な誕生日がはっきりしていないムアが年子だったと仮定すれば、写真撮影時のムアは4歳10ヶ月~4歳11ヶ月であり、かろうじて〝合格〟ということになるが、残念ながら確実な裏付けがない。結局、写真に写っている子供はウィリアムであると考えるのだが如何だろうか。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(5)に続く

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2005年8月21日 (日)

フルベッキ写真(3)

5W1H
そこで写真の真贋について調査していくにあたり、本シリーズでは原点に立ち返り、5W1Hの観点から写真の真贋について慎重に筆を進めていこう。

5W1H
5W1H
松浦玲・村瀬寿代説
佐宗邦皇説
When 1868年12月(明治元年10月)~1869年1月30日(明治元年12月18日)の間 元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日の間。[筆者注:元治2年=西暦1865年]
Who 上野彦馬 上野彦馬
Where 長崎・上野彦馬写真スタジオ 長崎・上野彦馬写真スタジオ
What 致遠館の生徒 各藩勤王党の志士
Why フルベッキ上京前の記念 各藩の勤王党志士が一堂に会した記念
How 戸川残花がフルベッキ博士から借りて、明治28年に雑誌『太陽』に発表 戸川残花がフルベッキ博士から借りて、明治28年に雑誌『太陽』に発表

写真を撮影したのは何時か(When)…撮影時期を元治二年とする根拠として佐宗氏は、(1) 刀と丁髷、(2) ウィリアムの年齢の2点を挙げている。刀と丁髷に関して佐宗氏は、明治二年になっているのにも拘わらず全員が刀を差している上、丁髷を結っているのはおかしいと言う。しかし、断髪令が発令されたのは2年後の1871(明治4年)8月9日であり、廃刀令に至っては7年後の1876年(明治9年)3月28日であった。だから、明治2年の段階であれば刀を差し丁髷を結った侍で占められた集合写真であってもおかしくはないと筆者は思うのだが、当時について詳しい読者にご教示いただければ有り難い。

次にウィリアム・フルベッキはフルベッキの長男であり、1861年1月18日に誕生している。佐宗氏の説が正しいとして逆算すると、写真撮影時のウィリアムは4歳になったばかりということになる。逆に松浦・村瀬説が正しいとすると、ウィリアムは7歳から8歳にかけての年齢である。果たして、読者の目にはウィリアムは何歳に見えるだろうか。

写真を撮ったのは誰か(Who)・写真を何処で撮ったか(Where)…長崎・上野彦馬写真スタジオで上野彦馬が撮影したということで両者とも一致している。誰が写真を撮ったかということはあまり重要ではないが、何処で写真を撮ったかという点になると慎重な検証が必要であろう。本シリーズにおいては長崎・上野彦馬写真スタジオ説が正しいと想定して筆を進めていくが、途中で新事実が発見されて思わぬ展開になるかもしれないことを予めお断りしておく。

写真に写っているのは何(誰)か(What)…インターネットの様々なサイトで問題の写真を取り上げているが、写真に写っている侍は致遠館の生徒であるとするサイトが大半を占めており、勤王の志士とするサイトは少数派といったところだろうか。ともあれ、これから本シリーズにおいて写真に写っている志士を一人一人検証していくこととしたい。

写真を撮った目的は何か(Why)…フルベッキ上京前の記念撮影という松浦・村瀬説は頷けるものがあり、実際にそのように説くサイトも多い。一方で佐宗氏の場合、「各藩の勤王党志士が一堂に会した記念」の集合写真であるとしている。本稿ではどちらが正しいかといった結論を急いで出すのではなく、慎重に筆を進めていくつもりである。

写真はどのようにして存在が知られたのか(How)…明治28年に雑誌『太陽』に発表されてから存在を知られるようになったと主張するサイトが大半である。松浦・村瀬説および佐宗説もその例に漏れない。なお、『新訳考証 日本のフルベッキ』にも口絵に問題の写真が紹介されているが、その説明文は「長崎の上野彦馬写真館で撮られたと思われる写真。フランスで発見した」となっていた点が興味深い。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(4)に続く

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2005年8月20日 (土)

「軍医」森林太郎と「文豪」森鴎外 捩れた人格

先週、「“明治の大文豪”森鴎外の隠された真実」という対談記事をアップしましたが、本日は同記事の続編ともいうべき『「軍医」森林太郎と「文豪」森鴎外 捩れた人格』 をアップしましたのでお知らせ致します。今回も相変わらず西原氏が森鴎外に対して辛辣な批評を加えています。私の場合は事前に『森鴎外 もう一つの実像』(白崎昭一郎著 吉川弘文館)に目を通していましたのでショックも軽くて済みましたが、初めて森鴎外の裏の顔を知った人たちはショックであったものと推察します。

なお、今回アップした『「軍医」森林太郎と「文豪」森鴎外 捩れた人格』 を巡り、興味深い情報・意見交換が行われていますので、以下の「藤原肇の宇宙巡礼」を一度訪れて戴ければ幸いです。

森鴎外 もう一つの実像

前回同様、一読して意見がある方は、【藤原肇の宇宙巡礼】に遠慮なく投稿して下さい。お待ちしております。

次回、いよいよ堺屋太一氏が登場します。
■1980年・日本の破局(上)vs.堺屋太一…8月27日アップ予定
■1980年・日本の破局(下)vs.堺屋太一…9月3日アップ予定

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2005年8月19日 (金)

フルベッキ写真(2)

 写っている人物の服装などから、幕末から明治にかけての写真だという見当が直ちにつく。しかし、この写真は単に幕末あるいは明治初期の写真だから珍しいというのではなく、近代日本史に関心のある人たちの間では今でも話題にのぼることの多い謎の写真なのであり、その謎を色々と回り道をしながら解き明かしていこうとするのが本シリーズの狙いである。

 最初に、写真の真ん中で椅子に座っている西洋人を紹介しよう。この西洋人はギドー・ヘルマン・フリドリン・フルベッキ(Guido Hermann Fridolin Verbeck, 1830~1898)といい、本シリーズの主人公となる人物だ。小さな子供はウィリアムで、フルベッキの長男である。そのフルベッキ親子を取り囲む侍の一団であるが、佐賀藩が長崎に開いた致遠館の生徒たち、すなわちフルベッキの教え子というのが通説となっている。ところが、フルベッキを取り囲む侍の一団は致遠館の生徒たちではなく、写真には日本の近代化に貢献した明治維新の元勲が写っているという驚くような説もある。すなわち、勝海舟・西郷隆盛・横井小楠・大村益次郎・大隈重信…と、日本人なら誰もが知っている志士が一堂に会した写真だという説なのである。しかし、突然そのようなことを言われても、初めてこの写真に接した読者であれば俄には信じられないであろう。参考までに、写真に写っているといわれている志士の氏名を以下に掲げておくので、人物に番号を振り当てたイラストを参照にしつつ、再度写真を眺めて頂きたい。

フルベッキ写真
1.勝海舟 2.中野健明 3.中島信行 4.後藤象二郎
5.江藤新平 6.大木喬任 7.井上肇 8.品川弥二郎
9.伊藤博文 10.村田新八 11.小松帯刀 12.大久保利通
13.西郷隆盛 14.西郷従道 15.別府晋介 16.中村宗見
17.川路利良 18.黒田清隆 19.鮫島誠蔵 20.五代友厚
21.寺島宗則 22.吉井友実 23.森有禮 24.正岡隼人
25.陸奥宗光 26.中岡慎太郎 27.大隈重信 28.岩倉具綱
29.ウィリアム 30.フルベッキ 31.岩倉具定 32.高杉晋作
33.横井小楠 34.大村益次郎 35.桂小五郎 36.江副廉蔵
37.岩倉具経 38.岩倉具慶 39.広沢真臣 40.明治天皇
41.岡本健三郎 42.副島種臣 43.坂本龍馬 44.日下部太郎
45.横井左太平 46.横井太平

写真の真贋について
 ここで、写真の真贋について世間はどう捉えているのだろうか。最初に、写真は贋物であると主張する人たちの代表として松浦玲氏を挙げておこう。松浦玲氏は幕末から明治にかけての日本史研究家として多くの著作を世に送り出しており、中央公論社刊『日本の名著 第30巻 佐久間象山・横井小楠』の責任編集・解説を担当している。同書の付録「変革期の政治と思想」は松浦玲氏本人と作家の小田実氏との珍しい対談であり、松浦玲氏の人となりを知る上で格好の資料となっている。その松浦玲氏が、『新訳考証 日本のフルベッキ』(W・E・グリフィス著 松浦玲監修 村瀬寿代訳編 洋学堂書店)の「序」で問題の写真について言及しているので少々長くなるが以下に引用しておこう。

村瀬さんが修士論文で取り上げたフルベッキについて、私には小さな因縁があった。一九七六年に朝日評伝選で『横井小楠』を出したとき、校正も終わろうという時点で雑誌『日本歴史』二三二号に「維新史上解明されていない群像写真について其二」が載った。長崎のフルベッキを囲んで西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・大隈重信・副島種臣・中岡慎太郎・伊藤博文等々、そして横井小楠が写るという刺激的な説が披露されていた。私は子細に検討する余裕を持たなかったので、このような論文が出たということだけを巻末に注記し判断を保留した。次いで拙著刊行後になったが、挙げられた人物群が一堂に会する可能性の皆無であることを確認してこれはニセモノだと判定し、それきり写真のことを忘れた。

 関心が甦ったのは、修士論文準備期の村瀬さんが精力的にフルベッキ関連の資料を集めては報告してくれる中に、この写真のことが出て来たからである。考えてみれば西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀……横井小楠と、写っていない人物を列挙するからニセモノになるのであって、写真そのものは紛れもなくフルベッキを囲む群像だった。合成写真の類ではない。

 論文準備中の村瀬さんの報告を聞くのは楽しかった。佐賀藩の中牟田倉之助など以前から私の守備範囲に居る人物が、フルベッキとの関連で意外な側面を見せてくれる。それが手掛かりになって初耳の佐賀クリスチャン武士のことにも焦点を合せやすく、既知の事実と未知の話が頭の中で絡まりあって脳細胞に新しい襞が刻まれるという感触を何度も味わった。教師である私にとって非常に勉強になった。 問題の写真は、そういう勉強の過程で再浮上した。フルベッキを囲むのは佐賀藩が長崎に開いた致遠館の生徒らしいということまでは既につきとめられていた。村瀬さんは写っている人物について他ならぬグリフィスの証言があることを押え、それにより撮影時期を明治元年末と絞りこんだ。

 これは村瀬さんが修士号を獲得し、私は桃山学院大学を退職した後のことになるのだが、前記『横井小楠』の増補版を二〇〇〇年の二月に朝日選書で出したとき、原著の注に追記するだけでは足りないと感じたので「補論」中に問題の写真を掲げ、村瀬さんの修士論文にも言及した。この拙著増補版での紹介は、村瀬さんのフルベッキ探索の網が広がることに聊かは貢献したようだ。写真については、そのたどりついた結果が本書の口絵と注記に示されている。(口絵写真3)

『新訳考証 日本のフルベッキ』W.E.グリフィス著 松浦玲監修 村瀬寿代訳編 p.i

 ここで取り上げた『新訳考証 日本のフルベッキ』は、佐賀県の洋学堂という書店が〝直販のみ限定500部再版予定なし〟という触れ込みで2003年2月1日に刊行したものである。洋学堂のホームページでも高らかに謳っているように、グリフィスの原著『Verbeck of Japan』にある誤謬を克明に論考・校正した良書であり、フルベッキが近代日本に及ぼした影響の大きさを思えば、同書はフルベッキの研究さらには近代日本史の研究に不可欠な資料の一つといえよう。

 次に、写真を真物とする人たちの中で注目すべき発言を行っているのは、ワールドフォーラム代表幹事の佐宗邦皇氏である。問題の写真の真贋について佐宗氏は、「科学と歴史の掲示板」という掲示板の2002年度版に投稿している。本稿で全部を取り上げたいところだが佐宗氏の投稿は長文であるため、筆者の独断で重要かつ問題の写真と関連があると思われる箇所のみの抜粋にとどめた。(誤字脱字などは、一カ所(*1)を除き、未訂正のまま転載)佐宗氏の投稿を全文で読んでみたいという読者は、以下のURLを参照されたい。
http://www32.ocn.ne.jp/~yoshihito/notes/board5.html

この写真は、勝海舟の親戚の戸川残花が明治28年に雑誌「太陽」にフルベッキ博士から借りて、「佐賀鍋島藩の致遠館での英語の生徒達との長崎での送別会」の記念集合写真だということで発表されたものです。明治2年その塾生であった岩倉一家や伊藤博文や大隈重信らの明治新政府によって顧問就任のために赴任するべく、行われた送別会だったというのだが、「ご一新後」の明治2年にもなって全員が「刀と丁髷」というのもおかしなことであり、フルベッキ博士の長男ウィリアムは、この写真では5ー6歳の幼稚園児ぐらいであって、もし明治2年なら9ー10歳になっていたはずであり、この写真と符号しません。従ってこの写真は元治2年(慶応元年)2月中旬から3月18日までの間と推定され、実質的な西南雄藩の討幕派志士達の結成大会でありますから、実質的な薩長同盟であり歴史では同盟成立は翌慶応2年1月のことですからはるかにその約1年も前のことでした。しかし、いかなる歴史書にもこの会合の記録もこうした歴史的事件の意義も説かれてはおりません。何故か?第1には、そこのフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」の存在があるからです。しかし「刀と丁髷」の孝明天皇の皇太子「裕宮(さちのみや)」が朝廷のある京を離れて長崎にこうして討幕派志士達と共にいること自体が奇妙なことです。孝明天皇は極めて保守的な考えの持ち主であり、その外国人嫌いによるその「攘夷」の気持ちが皇室の過激派を育て、「尊王攘夷」運動を引き起こした一方、その京都守護職松平容保に対する深い信頼や親近感や妹和宮を降嫁させたことからも討幕派には同調してはいません。そこで孝明天皇の皇太子「裕宮」が、追放され長州藩に匿われてていた三条実美ら尊攘過激派公家らと同調する討幕派の結成大会に参加している筈がないのです。すなわち、このフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」は、孝明天皇の皇太子「裕宮」ではないのではないか?となると、翌年12月25日の孝明天皇暗殺の際に、同時に皇太子裕宮も父親と共に暗殺されていて、ここに写っていた14歳の少年とすり換えられて明治天皇として新たに擁立された可能性が強い。それで翌年1月7日の明治天皇即位までの2週間の空白も、すり替えに要した時間と解されます。更に、江戸への遷都の際にも、殆ど女官や公家らこれまでの朝廷の人々は連れて行かなかったということや、そもそも遷都しなければならなかったというのも、京都近辺の皇太子裕宮を知る人々の目を恐れてと読み取れます。事実明治末期に、北朝と南朝の正統性について質問された明治天皇は本来は自分が北朝出身である筈なのに、「南朝」の方が正統だと思わず口を滑らしてしまいました。長州藩の防府に代々住み続けてきた「大浦*1」という南朝の末裔が、岩倉具視らにかつがれて皇太子裕宮に成りすまして明治天皇になったとも推定されます。

第2には、実質的な薩長同盟成立の主人公は、勝海舟であったことが翌判り、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」以来歴史では同盟成立は坂本龍馬がやったとなっているが、この写真1枚で勝が西郷を使って倒幕派志士の集合をかけさせて、実質的な薩長同盟を行ない、実務は坂本龍馬が、薩摩藩預かりとなって長崎駐在となり、師匠の勝海舟に代わって仲立ちをするために、亀山社中や海援隊を作って薩長間の橋渡しをしていたことが判る。

こうした事実が表面化しては困る、孝明天皇の暗殺の下手人達(岩倉、大久保、伊藤博文ら)の生き残りの伊藤博文が、この写真と事実の公表に圧力を掛け続けて、遂にはこの事実そのものが抹殺されたのでありましょう。こうして歴史は、時の権力者に都合の良いようにいつも修正、捏造、抹消されてきたのであり、このように歴史には、間違った歴史が定説となって通用しております。

2002年度版 「科学と歴史の掲示板」過去ログ

筆者注:*1「大浦」ではなく、「大室(寅之祐)」の間違い

以下も同様で、佐宗氏が2002年4月17日付の「科学と歴史の掲示板」過去ログに書き込みをした投稿の抜粋である。

この写真の真贋についてはNHKのあるプロジューサーが番組作製の目的で注目して徹底的に調べ上げて、100倍近く拡大してその着ている着物の家紋からその人物を特定した結果、後の明治の元勲達が勢揃いした「本物」であることが判明しましたが、問題の人物が後の明治天皇であることも100%間違いないことをつきとめましたところ、いずこよりかの圧力により番組作製を断念せざるを得なかったという曰く付きのものです。この写真の中央奥に立つ西郷隆盛こそ本物の西郷三で、キヨソネの絵以来騙されて信じ込まされている西郷イメージは、上半分が西郷従道下半分が大山巌の合成モンタージュ画です。晩年象皮病という皮膚病にかかりドイツ人医師から薦められれて飲んだ薬の影響で禿げ上がり、誠に醜くなってしまったのに加えて、西南戦争の賊軍の首魁となり反乱軍として特定されるのを嫌い偽の肖像画を行き渡らせたのと郷土の英雄がこんなに醜くてはとの郷里薩摩の人々の願望からあのような似ても似つかないデブの西郷イメージが流布してしまい、西郷の真実暴露を嫌う勢力もまた、この写真の偽物説を言い立てるのです。

2002年度版 「科学と歴史の掲示板」過去ログ

 以上、写真を贋物とする松浦玲氏に対して、写真は真物と主張する佐宗邦皇氏の間には意見の大きな隔たりがある。ともあれ、写真の贋物を巡る諸意見があれども真実は一つしかないのであり、松浦氏あるいは佐宗氏のいずれか(場合によっては両者)が間違っているのは確かである。さらに穿った見方をすれば、両氏のいずれかが偽情報(ディスインフォメーション)に踊らされているか、逆に両氏のいずれかが故意に偽情報を流しているのかもしれないといった、様々な可能性も念頭に置くべきかもしれない。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(3)に続く

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2005年8月18日 (木)

フルベッキ写真(1)

verbeck 私は「近代日本とフルベッキ」と題したシリーズを、国際契約コンサルティング会社のIBDのウェブ機関誌に1年間にわたって執筆したことがあります。シリーズの内容は、フルベッキ本人およびフルベッキと縁のある人たちを毎月1人ずつ取り上げるというものでした。

1年間の間に取り上げた人物は、坂本龍馬、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、明治天皇です。同時に、それと並行して「フルベッキ写真」という謎の集合写真についての私見も毎月書き続けてきました。題名は「追跡:フルベッキ写真」というものだったのですが、これを本ブログ用に再編集し、数回に分けてアップしたいと思います。なお、ブログ上の分類ですが、「教育」の分類に入れることにしました。本来であれば、「歴史」あるいは「写真」といったジャンルが相応しいのでしょうが、煩雑になりますので余りブログのジャンルを増やしたくないのと、物事の真偽を見極める姿勢を示すことも教育の道につながると考え、敢えて「教育」のジャンルに分類してあります。

verbeck01 スタートにあたり、フルベッキ写真を一度眺めてみてください。写真を見ると、フルベッキ親子を取り囲むようにして、勝海舟、後藤象二郎、小松帯刀、江藤新平、伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛、西郷縦道、黒田清隆、五代友厚、吉井友実、陸奥宗光、中岡慎太郎、大隈重信、高杉晋作、横井小楠、大村益次郎、桂小五郎、広沢真臣、坂本龍馬、副島種臣、明治天皇と、錚錚たる人物が一堂に会した写真とされており、初めてフルベッキ写真を目にするする皆さんは唖然としたのではないでしょうか。実は、フルベッキ写真には多くの謎が隠されているのであり、明日より順を追ってフルベッキ写真について筆を進めていきたいと思います。

※IBDに投稿していた「追跡:フルベッキ写真」は「である」調でしたので、本ブログに明日から再録する「フルベッキ写真」も、そのまま「である」調を残すことにします。

謎のフルベッキ写真

・フルベッキ写真(2)に続く

※追伸:ブログ上の分類を「教育」から「フルベッキ」に変更(2005/08/24)

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2005年8月17日 (水)

『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』

b050817 『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』(深田匠著 高木書房)は、読み応えのある本であると思います。たとえば、同書の国連に関する記述について私は賛成であり、本ブログにもその旨書きました。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/post_1464.html

ただ、国際政治に関するユニークな視点を提供してくれる意味で同書は読む価値があると思いますが、何分にも著者の深田氏が極端な保守主義の思想の持ち主なので、それを念頭に読み進めていかないとミイラ取りがミイラになりかねませんので注意が必要です。例えば、深田氏の保守思想が良く表れているのは以下の記述でしょう。

 私は「大東亜戦争こそが、人類に対する日本の最大の使命の入口の扉であった」と先述した。「一つの世界」が成立するためには人類平等が前提になる。その人類平等の世界を到来せしめたのは大東亜戦争だ。日本は人類の進化を司る何らかの「法則」によって選ばれ導かれ、自らの手で「最後のユートピア」へと連なる入口の扉を開けた。私は日本が神国であり大東亜戦争が聖戦だというのは観念論ではない。事実その通り、日本は人類の進化のために選ばれた国なのだ。日本がキリスト教暦紀元前の時代から実に二千六百数十年間、この万世一系の天皇を護持し続け、さらに天皇が神道文明の伝統を護り続けてこられたその目的、その意義、その使命の全ては、この「人類最後のユートピア」を築くために他ならない。そしてそれはパール判事が夢に見た「世界連邦」の始まる瞬間でもある。 
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.574

大東亜戦争を“聖戦”と断言し、天皇家が“万世一系”であると固く信じ、日本こそ人類平等の世界を到来せしめる“神国”であるとする深田氏の思想は、何かユダヤ教の選民思想を彷彿させるものがあり、到底受け容れることはできないものの、そうした思想的立場の違いを抜きにしても、同書を読むことによって“二つのアメリカ”といったユニークな視点が得られる他、国際政治に纏わる情報入手の観点から、落穂拾い的な本としての利用価値がある本であると思います。 ここで、深田氏の主張する“二つのアメリカ”については、同書の第四章「米国の世界戦略」に詳しいので目を通してください。ただ、深田氏は「量子理論や宇宙物理学・幾何学などをベースにして構築を試みてきた神哲学体系は、その到達した結果として神道に回帰した」(『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.565)と述べていますが、例えば宇宙物理学について言えば、深田氏はビッグバンやブラックホールの存在を信じているようであり、将来においてビッグバン説が否定されたとしたら深田氏が構築を試みてきたという神哲学体系はガラガラと音を立てて崩れ落ちるのは必定で、そうなったら深田氏はどう対処するのだろうかと、人ごとながらも心配になります。なお、私はビッグバンやブラックホールの存在を信じていません。そのあたりについては、本ブログの間違いだらけ宇宙論で既に述べました。 ところで、以下は例によって私が同書に引いた多くの赤線や青線の一部です。

 「土井たか子が実は帰化した在日北朝鮮人で、土井の実姉は朝鮮労働党幹部と結婚して平壌に住んでいる」という説が巷で飛び交っているが、この件についての真偽はまだ不明である。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.35

 「日本はアメリカの属国だ」と主張する方々に改めて申し上げたいのだが、それは十数年前までの古い感覚であり、ジワジワと中共の日本内部侵食か続いた結果、今や日本はアメリカではなく中共の属国になりつつあるのだ。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.125

 性犯罪者や快楽殺人者のDNAが家系に同じ傾向の者を多く誕生させることは優生学でも証明されており、昔から言うように「血は濃い」のである。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.207

私のコメント:優生学を説く深田氏の思想は、どこか渡辺昇一氏の思想を思わせるところがあります。

 公明党は、1999年4月に韓国政府がそれまで認めなかった創価学会の韓国法人「韓国仏教会」の認可と交換条件に、在日韓国人への参政権付与を密約している。これは学会の利益のために国家の未来を売り渡したということだ。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.220

 現在使用しているアメリカの中学・高校用の教科書には、(日本の敗戦および中国内戦における国民党軍の敗退によって)「全世界人口の四分の一近くの人類が共産主義陣営に組み込まれることになってしまった。中国を失った責任者を追求する共和党は、トルーマン大統領とアチソン国務長官を激しく攻撃した。共和党はさらに、共産主義者が侵食している民主党の諸機関が蒋介石に対する援助を意図的に抑えたために国民党軍は崩壊してしまった、と批判した」という記述がある。つまり民主党の容共主義とそれを批判する共和党といった図式は、アメリカでは教科書にも載る公知の事実なのだ。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.309

私のコメント:「二つのアメリカ」を説く深田氏だけに、なかなかの説得力があります。

 保守派知識人の中でも日本の核武装に反対する人物が多く存在しているが、この核保有の是非をめぐる見解こそが、自立思考の真の保守主義者なのか、いわゆる「戦後民主主義」の中で職業的に保守を標榜しているだけなのか、それをあぶり出す「踏み絵」ではないだろうか。親米だのといった白黒二元論の幼稚な色分けではなく、日本の核武装を認めるか否かこそ、真の保守とエセ保守(営業保守)を区別するバロメーターとなることを私は指摘しておきたい。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.424

 中共と北朝鮮という2ヶ国が日本を仮想敵国として核ミサイルの照準を向けている以上、日本は緊急迅速に核武装を行い、また中朝と戦争になっても引けを取らないだけの人員・平気・装備の大々的拡張を行って、中共との軍事力の均衡を図ることが必要となる。それが日本を他国の核攻撃から守る唯一確実な方法であり、妄想的な観念平和主義ではなく現実的な平和維持戦略ということなのである。非核政権を含め日本が自らの軍事力を抑えることは、何の平和維持にもつながらないばかりか、敵対国の攻撃を誘発する要因でしかない。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.426

私のコメント:深田氏は核をはじめとするハードだけが平和を維持すると主張していますが、そんなことはありません。ハード以上に大切なのがインテリジェンスであり、頭脳を用いたソフトな戦略を展開することを考えるべきなのです。よって、私は『タレイラン評伝』(ダフ・クーパー著 中公文庫)あるいは『インテリジェンス戦争の時代』(藤原肇著 山手書房新社)を深田氏に推薦したいと思います。

 現在の日本には、政治に関心のないノンポリシーの層を除けば保守主義とマルクス主義の二つの層しか存在しておらず、欧米でいうところのリベラル層(中道及び中道左派)は存在していない。16世紀イギリスから発祥した「人間は自由かつ機会平等」という本来の意味でのリベラル(自由主義)とは、現代の日本に置き換えるとコンサーバティブ(保守主義)の思想と同一のものとなる。一方、共産党の一党独裁支配により自由を弾圧し、強烈な不平等階層社会(例えば北朝鮮は「3階層・51分類」)を構成するマルクス主義とは、完全に反リベラルの思想である。しかし何故か日本ではマルクス主義を信奉する左派の政治家(無自覚マルキストを含む)がリベラルを自称するという不可解な現状にあるのだ。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.471

 実現の可否は別にして私が理想と考える仮想政権は、日本再生のグランドデザインを持つ石原慎太郎首相、平沼赳夫副首相兼官房長官、阿倍晋三外相、西村真悟国防相、高市早苗文部相、伊吹文明経済再生・金融相、平沢勝栄情報相、米田建三国家戦略担当特命相、また民間からであれば加瀬英明氏・中村粲氏・小室直樹氏・中西輝政氏らの閣僚登用が最適であり、税制改革特命相を任命するなら渡部昇一氏おいて他にない。さらにそれに加えて、日本国籍を持つフジモリ元大統領に日本政府顧問に就任して頂ければ、対テロ対策や危険管理の有力なアドバイザーになるのではないだろうか。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.528

私のコメント:ブラックユーモアもいいところであり、果たして深田氏は正気なのだろうか…。尤も、深田氏の思想的背景を考えれば、深田氏の考えそうな仮想閣僚ではあると思います。

 地政学上においては日本人が決して忘れてはならない二つの方向が存在している。一つはランドパワーとシーパワーは必ず衝突し対決する運命にあるということ。そしてもう一つは、もし対決をどちらかが避けた場合は、避けた側が相手側の属国となるしかし国家として生き残る道がなくなるといとう方向である。日清戦争も日露戦争も、シーパワーとランドパワーの対決であった。米ソ冷戦もそうだ。今回のイラク戦争も、米国のシーパワーとイラクのランドパワーとの対決である。そしてこのイラク戦争において米国のイラク攻撃を支持した主要国は、日本、英国、イタリア、オーストラリアなど全てシーパワーたる海洋国家(および中間国家)であり、反対したロシア、中共、仏、独は全てランドパワーたる大陸国家である。賢明なる読者諸氏はもうお分かり頂けたであろう。世界は全て地政学で動いているのだ。私が本書で述べてきた全ての国際情勢は、地政学に基づいての二つのパワーの衝突なのである。
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』p.550

私のコメント:異見はあるかもしれませんが、「二つのアメリカ」と共に、地政学に関する深田氏のユニークな考察は、『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』のもう一つの優れたものであると思います。

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2005年8月16日 (火)

『人類の月面着陸は無かったろう論』

b050816 最近の東京新聞に以下のような記事が載っていました。

110億円で月旅行
米社が2人募集、08年にも

【ニューヨーク10日共同】宇宙旅行をあっせんしている米国のスペース・アドベンチャーズ社は10日、民間人を対象にした月への宇宙観光旅行を計画していると発表した。募集は2人で、参加費用は1人当たり1億ドル(約110億円)。早ければ2008年ごろの実現を目指す。

 民間人を対象にした宇宙旅行は徐々に始まっているが、国際宇宙ステーション(ISS)までにとどまっており、月への旅行が実現すれば初めてになる。

 同社によると、ロシア宇宙庁と契約し、旅行には宇宙船ソユーズを使用。船長はロシアの宇宙飛行士が務める。宇宙船とは別に打ち上げられたロケットと地球の周回上でドッキングし月に向かう。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/detail/20050811/fls_____detail__034.shtml

この記事を読んで思い出したのは、副島隆彦氏が書いた『人類の月面着陸は無かったろう論』という本です。同書で「人類は月に行っていない」と副島氏は主張しており、もし人類が月面着陸に行っていたことが判明したら、筆を断つとすら副島氏は宣言しているのですから、それなりの覚悟と自信があってのことでしょう。しかし、実際に世の中に目を向けてみるに、副島氏の人類の月面着陸は無かったろう論に対して反論している人たちが大多数のようです。たとえば、[トンデモの部屋]というホームページは、『人類の月面着陸は無かったろう論』を否定しているサイトの一つといえるでしょう。

その後、[トンデモの部屋]と対比させながら、地元の図書館から借りてきた『人類の月面着陸は無かったろう論』の一部を読んでみたところ、以下のような[トンデモの部屋]の記述に目が止まりました。(下線を引いてあるのは、『人類の月面着陸は無かったろう論』からの引用との由)

 私が少しだけ調べて分かったのは、静止衛星というのがあって、これは、かなりの遠くを飛んでいることが分かった。(P.33)

 調べるまで知らんかったのか!? 衛星放送の電波はどこから来ると思ってたの?

 静止衛星がなぜ3万6000キロの遠距離にあるのか、といえば、それは、地球の引力(重力)あるいは向心力と、自転から生まれる遠心力が均衡する点だから、そこで衛星が静止できるのだろう。(P.33)

 大間違い! 衛星の公転周期は地球から遠ざかるほど長くなり、高度3万6000キロではほぼ24時間になるので、地球から見ると天空の一点に静止しているように見えるからこう呼ばれる。

 ちなみに、うちの8歳の娘が持っている小学生向けの図鑑にも、静止衛星についての正しい解説が載っていた(^^;)。この人は小学校からやり直したほうが良さそうである。

 もし、6回の月面着陸が実在するというのなら、その痕跡と残骸の機材が、今なら地球から精密な高性能望遠鏡で見えるはずなのだ。(P.43)

 ハワイ・マウナケア山にある国立天文台の望遠鏡「すばる」(口径8.2m)は、分解能が0.2秒角(1度の1/1万8000)である。38万km離れた月の場合、0.2秒角はおよそ350m。つまりこれより小さいものは見えない。

 2004年の今は、相当にものすごいマイクロ波式の望遠鏡や電波望遠鏡もあるから、月の表面ぐらいは、何でも写し出せるはずなのだ。(P.43)

 e-VLBIでも分解能は20ミリ秒角(1度の1/18万)で、月面に向けても35m以下のものはとらえられない。

 それ以前にこの人、電波望遠鏡の原理が分かってないフシがあるんだけど。

以上は[トンデモの部屋]からの一部引用ですが、実際に人類が月に行ったか否かを云々する前に、『人類の月面着陸は無かったろう論』および[トンデモの部屋]とを単純に比較して読めば、[トンデモの部屋]に軍配を上げざるを得ません。

人類が初めて月面に着陸したという世紀のニュースを報道した新聞を、私は今でも大事に保管していますし、人類が月面着陸したというのは今でも事実だと思っています。ただ、副島隆彦氏が人類は月面着陸をしていないと発言したり、脱藩会でよく顔を合わせる知人のUFO研究家、竹本良氏がNASAによるUFOおよびET隠蔽について発言したりしていたので、私自身のアポロ計画に関する知識不足も手伝って、ひっとしたら彼らの言うことは本当かもしれないと思っていた一時期がありました。

ところで、そもそも私が副島隆彦氏に見切りをつけたのは、船井幸雄氏のような人物との対談本(『日本壊死―新しき人目覚めよ』)を出版したからであり、それからというもの私の副島氏に対する見方がガラリと変わったのです。そのためでしょうか、最近は副島氏の粗ばかりが目につくようになったのです。しかし、かつては日本のことを憂い、一生懸命にやっている評論家だと思って期待していたただけに、現在の副島氏を見ていると大変残念な気持ちになります。なお、私は船井幸雄氏という人物についてメールマガジンに一筆書いていますので、関心のある方に以下のメールマガジンを一読頂ければ幸いです。

メールマガジン【日本脱藩のすすめ】第59号

メールマガジン【日本脱藩のすすめ】第60号

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2005年8月15日 (月)

『阿片王 満州の夜と霧』

b050815 本日は敗戦60周年ですが、8月15日に相応しいテーマの本を最近読みましたのでご紹介します。その本とは、過日書いた「ホリエもんの錬金術」に投稿してくれた野牛一刀斎氏のコメントにあった本であり、1年ほど前に『週刊新潮』に短期連載された佐野眞一氏の記事の単行本です。野牛氏のコメントを読んだ私は、早速にクロネコヤマトのブックサービスを通じて『阿片王 満州の夜と霧』(佐野眞一著 新潮社)を取り寄せてみました。そして入手した同書を通読していくうちに、次第に里見甫という人物に惹かれていく自分がいました。そうした里見甫の人となりは、特に同書の第八章「孤高のA級戦犯」に鮮明に描かれているので、同章を中心に里見甫という人物を上手く描いていると思われる個所を以下に抜粋しておきましょう。

 他人にすべて罪をなすりつけて口をぬぐう田中隆吉の節操のなさや、自分を大きく見せることだけに躍起となる児玉誉士夫の小物ぶりとは対照的に、自分の知っている範囲のことはすべて答えるが、知らないことは知らないときっぱり断る里見の答弁は、男らしくて惚れ惚れする。
『阿片王 満州の夜と霧』p.256

 里見さんについては、父から「私欲のまったくない人だった」と訊いています。たしか、テレビに笹川良一が出演していたとき、父は「笹川と里見はまったく違う。里見は私欲のために動かなかったが、笹川は私欲で動いて財産を築いていた。里見はもしカネに困ったら笹川のところへ行けばいくらでももらえる立場の人なのに、そういうことは一切しない人だった」
『阿片王 満州の夜と霧』p.279

上海の麻薬王とまで云われた里見甫は、帰国後はひっそりと余生を送っていますが、そんな里見を同書は以下のように描いているのが印象的でした。

 戦後の余生と見定めた里見にとって、バラと女と宗教は、失われた満州と失われた上海、そして自分の手のなかからこぼれ落ちていったアヘンと謀略工作を取り戻すための、見果てぬ夢のなかをさまようアヘンの陶酔にも似たたまゆらの愉楽だったのだろうか。
『阿片王 満州の夜と霧』p.288

同書は単に里見甫その人について筆を進めているだけではなく、阿片を目的に日本が日中戦争に突入した背景についても述べているのであり、戦争の裏に阿片があったという史実は、今まで一般に対して極力伏せられてきただけに、大変貴重な本となりそうです。

 (日本)軍部を無謀な日中戦争に踏み切らせた心理的理由の一つとして、中国の軍閥たちが独占するアヘン利権を武力で収奪することにあったことは確かだ。
『阿片王 満州の夜と霧』p.138

阿片と旧日本軍との深い繋がりについては、『阿片王 満州の夜と霧』以外にも沢山の阿片戦争に関連した書籍がありますので、今後は折りあるごとに他の本についても取り上げていきたいと思います。

さて、里見甫という黒幕について言及したついでに、もう時効だと思いますので黒幕に関連した個人的な体験を書いておきましょう。

『阿片王 満州の夜と霧』を読み進めながら脳裡に浮かんできたのは、二十代の時に体験した韓国旅行でした。私にとって初めて韓国旅行であり、時期も今と同じ夏でした。下関からフェリーで釜山港に入り、一週間ほど韓国の各地を訪れた後、再び釜山港に戻り、翌日は再びフェリーで帰国するのでホテルに泊まろうと思い、道行く人に尋ねたところ、近くの某ホテルが良いと教えてくれたのです。ホテルに着き、雨に濡れてドブネズミのような格好でホテルのフロントでチェックインをしていると、サングラスをかけた小柄な日本人がいつの間にか横から声をかけてきたのです。Tシャツとジーンズというヒッチハイカーの格好をしてチェックインしている私をジロジロ見つめながら、「びっしょりだなぁ…、それにしても凄い格好だ!」と呆れたように言い放ったのです。それが、当時の日本の某政商O氏の“秘書”をしていたというK氏との出逢いの始まりでした。K氏は、「泊まるなら俺の部屋の隣にしろ」と云い、フロント係に対して隣の部屋のカギを私に渡すように指図し、その日から数日間にわたり、K氏と行動を共にするという何とも奇妙な数日を過ごすことになったのです。

たまたま私が宿泊したホテルも政商O氏の所有するホテルだったようで、K氏の話によると某政商O氏は、ソウルにもさらにグレードが上のホテルを所有しているとのことでしたが、我々が宿泊している釜山のホテルは中クラスのホテルであり、頻繁に韓国に出張しているK氏の顔を余り知らない同ホテルは落ち着けるとのことでした。それでも、隣のK氏の部屋の前にはベルボーイが受付用デスクと椅子を置いて24時間にわたって周囲を見張っていました。チェックインの後、荷物を部屋に置いて俺の部屋に遊びに来いというので、荷物を自分の部屋に放り投げて、ノコノコと隣のK氏の部屋に遊びにいくと、そこにいたのはK氏だけではなく、日本語が堪能な韓国人美人がK氏の横にいたのです。その女性は韓国の女優だとK氏は紹介してくれましたが、韓国の芸能界に暗かった私にとっては初めての“韓国人女優”との対面でした。暫く歓談していると、「サムライ君も1人では寂しいだろう」と云って、何やら電話をしてくれたのです。するともう1人の韓国人美女が我々の部屋に尋ねてきました。何でも、K氏の横にいる女優の“友人”だとのことです。

それからの数日間は、韓国企業の社長らしい人たちが来てはK氏と商談しているのを傍らで耳を傾けたこともあれば、近くのカジノに行きK氏とは顔馴染みの女将とコイコイ(花札)を楽しんだこともあります。物凄く賭博に強い女将で、K氏や私は徹底的に負かされました。無論、夜は夜で酒を酌み交わしながらK氏と色々な話もしています。私が本田技研に勤めていると云うと、「ホンダ…、あぁ、あのオートバイ屋さんか。本田(宗一郎)さんとは顔なじみだから、今から電話してやろうか」と云われたり、私が十代の時に南米大陸を半年ほど放浪した話をすると、チリで事業進出するから来ないかと云われたりしたものです。その他にも色々と語り合っていますが、これ以上K氏との話の内容を述べるわけにはいきませんので割愛するとして、K氏の話から印象に残ったものの一つは人と人との出逢いについての話でした。人と人との出逢いについてK氏は、「この広い宇宙の芥子粒のような地球という場所で、しかも150億年の今という時に、人と人とが出会うということは、これは物凄い“奇跡”なのだよ、サムライ君」としみじみとK氏は語ったものです。

そうした奇跡というのか奇妙といとうのか分かりませんが、K氏との体験も明日で終わりという前日、一流料亭、一流カジノに連れて行ってもらっただけでなく、ホテルでかかった費用も一切合切K氏が払ってくれたので、「それでは申し訳ない」と云うと、「今度、信州あたりで会ったら、信州ソバでも奢ってくれれば十分」とK氏は静かに言うのでした。そして翌日、後ろ髪を引かれるような思いで私は釜山を離れたのです。会社の出勤に間に合わせるため、帰りは飛行機で帰国したのですが、飛行機はJAL(日本航空)だったと記憶しています。K氏が親切にも座席を確保してくれたのでした。

帰国してから友人に韓国での体験を話すと、「お前、担がれたんじゃないのか…」と当時は良く言われたものです。しかし、当時のことを改めて振り返ってみるに、K氏はほぼ間違いなく某政商O氏の右腕だったのだと思います。その後の人生で様々な人物との出逢いがあり、私なりに人を見る目が若いときよりは肥えていますし、さらには本物の詐欺師との出逢いを体験し、時には痛い目にも遭っているので、少なくとも今では人物の本物と偽物の区別くらいはできるようになっていると思います。ちなみに、某政商O氏とは故小佐野賢治のことです。ただ、『阿片王 満州の夜と霧』を読み終えた時、里見甫と較べて小佐野賢治の人物が小さく見えて仕方がなかったことを、ここに告白しておきます。

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2005年8月14日 (日)

サムライの由来

m017 本ブログでは、「サムライ」というハンドル名を用いていますが、サムライは私が3年間の世界放浪の旅の途中で出逢った人生の先輩のニックネームでした。その人生の先輩の名前を本郷七郎さんと云い、本郷さんについてメールマガジン【日本脱藩のすすめ】に以下のように書いたことがあります。

(第11章)
 三十輻共一轂   三十の輻、一つの轂を共にす。
 當其無有車之用  其の無に当たりて、車の用有り。
 挺埴以爲器    埴を挺めて、器を為る。
 當其無有器之用  其の無に当たって、器の用有り。
 鑿戸以爲室   戸ゆうを鑿って以て室を為る。
 當其無有室之用  其の無に当たって、室の用有り。
 故有之以爲利   故に有の以て利を為すは、
 無之以爲用    無の以て用を為せばなり。

意味(電脳仙人倶楽部):[例えば三十本の棒が一点に集まり車輪の真ん中には空っぽの穴があってそこに車軸が入るから車の用を為す。また土をこねて器をつくるにしても器はその中が空っぽだからこそ器の用を為す。あるいはまた部屋をつくるにしても土の壁に穴を掘って出入り口をつくり、その中を空っぽにするからこそ部屋となる。だから有用なものとは、その中が空っぽで何もない事で、何もないからこそそこにものの用が生まれると言うもの。]

解説(電脳仙人倶楽部):《この章は実に解り易い話で、しかもそれが決して陳腐なものとならないのは、あたかも明快に物の「存在と無」についての哲学的命題を解こうとするからだろう。しかもこの解かり易さは「無」を以って「道」を語り、「有」を以って「生命の有様。」を語り、「老子」全体その八十一章の中にしっかりと組み込まれて今に伝わる。これまでは何やら漠然としたその物言いが、にわかに身近な物に例えられて語られるが、確かに茶碗の中まで土がつまっていたら、それは茶碗の用を為さないし、家だってそうである。「だから有る物の有用性とは、それは空っぽで何も無いから、そこに物の用が働きを持つ。」と、逆に「無」の有用性を説いて、有るか無いか解らない様な「道」の有用性を併せて説明しようとする。この事は別の章でも、「優秀な人材などというものは無くてよいもの。彼はせいぜい一部所の長ぐらいには使えるが、そんな優秀さなどは要らない。」と同じような事を説いている。人は優秀さを競う。ぼーとなんかしていられない。優秀な技術、優秀な資格、そんなものをどんどん取り込んで頭の中を一杯にし、有りもしないものを求めるより、目の前の手にする事のできるものを大切にする方が先だ。時代は物質文明の時であり、掘り出した石がダイヤモンドの原石なら、せいぜいカットに磨きをかけてこれを大切なものとする。いやまさに老子はそんな現代の風潮にも痛烈な皮肉をこめる。しかしいったい、道祖神や「道」を説く事を好んで老子のことばを伝えて来たかつての日本はどこへ行ってしまったのだろうか。科学が「核」の恐怖をして我々の生活を豊かなものにするというその万能性を失い、またその限界を露呈する今、我々は「知恵のことば」の前に自らの優秀さを「無」にして、現代に新たな調和を作り出すための価値観を再構築する必要があるのだろう。しかもそれはこころの世界の事だから、我々がそうしようと想えば叶う事で、現代は、この「想うこころ」が萎えてしまった時代でもあるのだろう。知識優先の時代に、意識の萎えた時代に我々は生きているに違いない。誰しも子どものようなこころを持ち続ける事も難しい事で、いつまでも子どもである事を許す社会でもない。しかし「道」に照らすなら勉強する事は本当に必要なのだろうか。》

 第11章を目にするたびに思い出す人物がいます。本郷七郎さんといい、昭和40年代前半のある日、用があって銀行に行ったときの話です。銀行の窓口で待っている間、たまたま手にしたのがヨーロッパのスイスの街並みやアルプス山脈の神々しいグラビア写真集でした。そして、本郷さんはその写真を眺めているうちに無性にヨーロッパに行きたいという思いに駆られたのです。そして、本郷さんの夢は実現しました。しかし、数カ月間ヨーロッパを廻って帰国するはずが、「流れる雲を追って地の果てまで」と旅を続けているうちに、結局7年半の海外放浪の旅になってしまったのです。

 見方によっては、本郷さんの7年半は、自分の出世に結びつくわけでもないし、また、長年日本を留守にしていたため、なかなか自分の国に馴染めないという、いわば、自己危機に陥って、苦しむといったさんざんな目に会っています。

 一流大学を出て、一流企業に就職することを人生の最大目標とする人たちから見れば、なんという無駄な生き方だと捉えられるのではないかと思います。 しかし、本郷さんにとっての7年半が、かけがえのない体験として、今日の本郷さんの人生に活きています。

 必死になって日本社会に復帰した本郷さんは、その後、ガムシャラに仕事に励み、現在では小さいながらも一つの会社の専務取締役を担当するまでになりました。また、最近は心にゆとりができ、7年半の間撮りまくった写真が、今までは辛くて見るのも嫌だったのに、今では写真を眺める喜びが出てきたそうです。

 若い頃は、本郷さんのように空白の期間を持つことは大切なことです。7年半という期間はともかく、脱藩道場でも若いメンバーに少なくも1年間程度の海外武者修行をすすめる所以です。老子流に言えば、無用の用のすすめということになりそうです。 

以上、本ブログのサムライの由来でした。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
ヤマホトトギス

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2005年8月13日 (土)

“明治の大文豪”森鴎外の隠された真実

仕事部屋の本棚に、『森鴎外 もう一つの実像』(白崎昭一郎著 吉川弘文館)という題名の本が置いてあります。書名の副題から想像がつくように、同書は文豪・森鴎外の〝表〟の顔ではなく、軍医・森林太郎の〝裏〟の顔を描いた本です。同書の後書きで著者の白崎昭一郎氏は、「脚気こそは鴎外の最大のアキレス腱であった」と表現しているのに目が止まります。何故、脚気が鴎外にとっての最大のアキレス腱であったのか、本日アップした記事・「“明治の大文豪”森鴎外の隠された真実」の対談者の1人、西原克成医学博士は以下のように語っています。

西原 具体的には、脚気に対しての森林太郎の偏見で、それに基づいて彼が実施した『日本兵食論』の誤りです。脚気の問題で森林太郎が犯した致命的な過ちは、日本の医学史において恥ずべき汚点であり、脚気は陸海軍で日清戦争直前に克服されていました。ところが、白米中心の陸軍兵食にこだわった森軍医は、軍医部長の麦飯給与の進言を退けた。それで、戦闘で死んだ者よりも脚気で死んだ者のほうがはるかに多い、という大失策を犯したのです。

また、上記の対談記事の中で「森鴎外は女癖が悪かった」という話もあり、森鴎外に対して抱いていた“日本の誇る文豪”というイメージが崩れ落ちてしまった人もいるのではないでしょうか。森鴎外のもう一つの裏の顔を、西原氏は以下のように述べています。

西原 『舞姫』はあくまでも彼の自己弁明の作品であり、実際の生活と小説はあまり関係ないのです。現にエリスとは同棲して結婚の約束をしており、それで彼女は日本まで追いかけてきた。それだけではなくて、森は女悪くてその道に通じていたから、東京からベルリンにきた軍人たちに女を世話し、後でそれを暴いて筆誅を加えて攻撃している。自分のえげつなさを隠して、他人のことをあばいて騒いだのです。陸軍の誰それはあれをしたこれをしたと暴き、自分はまるで聖人君子のような顔をした。日本人はその虚像に騙されてしまったのです。
上記は本日アップした西原氏の対談記事の一部ですが、全文を読んでみたいという方は“明治の大文豪”森鴎外の隠された真実をクリックしてください。一読後、意見がある方は【藤原肇の宇宙巡礼】でご遠慮なく述べて下さい。お待ちしております。

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2005年8月12日 (金)

研究社の英和辞典を巡る“論争”

副島隆彦氏が著した語学関係の著作に、『欠陥英和辞典の研究』および『英語辞書大論争!』(共にJICC出版局より出版)という本があります(最近になって復刊となったようで、副島氏のHPで2冊合わせて5千円で発売していました)。確か10年以上前に発行された本であり、その当時の私は同書を入手して目を通したことがあるものの、3年ほど前に書架を整理する際、他の300冊ほどの本と一緒に処分しているので最早手許にはありません。『欠陥英和辞典の研究』および『英語辞書大論争!』を処分したのは、山岸勝榮氏という英和辞典の編集者のホームページ《山岸勝榮 英語辞書・教育研究所》を訪問したのが切っ掛けでした。副島氏の『欠陥英和辞典の研究』および『英語辞書大論争!』は、研究社の『新英和中辞典』および『ライトハウス英和辞典』を辛辣に批判した本であり、山岸氏は『新英和中辞典』および『ライトハウス英和辞典』には関与していないものの、同じ英和辞典の編者として副島氏の『欠陥英和辞典の研究』および『英語辞書大論争!』に対して批判を書いたのであり、その山岸氏の批判に対する副島氏自身の回答が、漸く十数年後になって副島氏の掲示板に載ったのです。しかし…

[74](2) これは、山岸勝栄(やまぎしかつえい)のサイト 投稿者:副島隆彦投稿日:2003/04/26(Sat) 07:29:04
副島隆彦です。
以下のサイトは、私、副島隆彦の本を批判する事で、ご飯を食べいてる山岸勝栄(やまぎしかつえい)という人のサイトです。
はじめて覗いて、随分と、商売になっているようだと、驚きました。
馬鹿な人だけど、こういうのが、典型的な日本人の一種なのでしょう。

副島隆彦記

上記ののサイトのURL

http://jiten.cside3.jp/index.html

b050812a 上記の文章を読み、皆さんはどう思われたでしょうか?

山岸氏が副島氏に対してどのような批評を行ったのかは兎も角、山岸氏に批判されてから十数年後も後に、しかも正面から反論するわけでもなく、「馬鹿な人だけど、こういうのが、典型的な日本人の一種なのでしょう」と訳の分からないことを言い放つあたり、副島氏には一社会人としての常識があるのかと、呆れるより他はありませんでした。

山岸氏によれば、上記の副島氏の回答は既に削除されてしまっているとのことですが、それは恐らく副島氏が己れ自身の非を認めたものなのでしょう。幸いなことに、副島氏の上記の回答は今でも山岸氏のHPの[XXI 『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う]というページに残してありますので一度目を通してみてください。私も確かに3年ほど前に副島氏のサイトで上記の投稿を1~2回読んだ記憶があります。

山岸氏自身のHPに「副島氏に論争の意思がおありなら私まで連絡を乞う」と書いてありましたが、十数年も経て漸く届いた副島氏の上記の回答を見て流石の山岸氏も呆れたようであり、[XXI 『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う]のページに以下のように述べています。

 私は、氏の英語に関する言説を主に問題とし、前記諸論考で、上記2書の中身の学問的検証を行ないました。従って、それに対する学問的な論駁や反証のための書き込みなら大いに有益だと思いましたし、私もそれらを冷静に受け止める用意がありました。しかし、今はもう何を言っても無駄という思いを強くしています。氏にかかれば、白は黒になり、黒は白になるようですから。自著には『欠陥英和辞典の“研究”』だの『英語辞書“大論争”!』だのと立派な題名を掲げ、その中では「この本(『欠陥英和辞典の研究』)のどこが『揚げ足取り』で、なぜ『言いがかり』なのかを、明確に論証しなければならない」(170頁)などと大見得を切っておきながら、いざそれに学問的・建設的反論を寄せようとする人(たち)が出て来ると、今度はその人(たち)に猛然と敵意を示すというような氏の姿勢に、陋劣(ろうれつ)さ、頑陋(がんろう)さを感じるのは決して私一人ではないでしょう。

b050812b 私のような一介の翻訳者も含め、山岸氏といった語学のプロからみて考えられないような数々の誤謬を犯した『欠陥英和辞典の研究』および『英語辞書大論争!』を復刊したとのことですが、少なくとも山岸氏から指摘された誤謬だけでも訂正されていることを期待したいと思います。なお、翻訳家の山岡洋一氏も、自身のホームページの翻訳通信で意見を述べていますので目を通してみるといいでしょう。

追伸: 光栄にも山岸教授からメールをいただきましたので、以下に転載致します。

サムライ様
 メールを拝読致しました。良くぞ書いて下さったと言うのが、偽らざる気持ちです。誰しも間違いを犯しますが、問題は、間違いを犯した本人がそれと気づいた時の態度、それを指摘する人間の指摘の仕方だと思います。その意味において、S氏の言動はあまりにも醜悪であり、常軌を逸しています。
 サムライ様のお陰で、私の真意を知ってくださる方々が一層増えることを期待しております。
 産業翻訳に従事しておられる由、ご成功を心より祈念致します。今後、いろいろとご教示ください。ありがとうございました。
8月13日 山岸勝榮

追伸:また貴サイトを訪問させていただきます。

長野県の某高校で英語教師をやっておられる方が、副島隆彦氏の著した『欠陥英和辞典の研究』を理路整然と批判していました。

欠陥「欠陥英和辞典の研究」の研究

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2005年8月11日 (木)

一流の翻訳者

時たまですが、翻訳の仕事をしたいという人たちから一流の翻訳者について訊かれることがあります。その場合、「森鴎外、夏目漱石、福沢諭吉あたりかな」と私は答えるのを常としていますが、夏目漱石については『昭和の劇』を取り上げたときに簡単に触れましたし、森鴎外については今週の土曜日に対談記事「〝明治の大文豪〟森鴎外の隠された真実」のアップのお知らせの際にも筆を進める予定でいます(尤も、2人の文豪の“裏の顔”について取り上げたものであり、翻訳とは無関係の投稿になっています)。よって、もう1人の一流翻訳者である福沢諭吉について簡単に触れておきましょう。以下は私のパソコンに保存してある5年前のフォルダに入っていた、『「文明論之概略」を読む』と題した一流翻訳者に関する文章の一部です。(※ 一部書き直してあります)

 私自身が翻訳を本業にしているからでしょうか、当藤原ML(注:5年前に私が主宰していた「藤原肇」というメーリングリスト)には翻訳者が大勢参加しています。その「翻訳」に関して、丸山真男が『文明論之概略』の「第一講 幕末維新の知識人」で取り上げていますので一言述べさせていただきます。(余裕があれば、同じ丸山真男と加藤周一の対談、『翻訳と日本の近代化』を一読されるとさらに思います)

「日本の学者というのはヨコのものをタテにしただけ……つまり、横文字を読んで、それを日本に紹介しただけ……じゃないかと。たしかにそのとおりです。しかし、ヨコのものをタテにするというのは実は大変なことなのだ、ということも考えていただきたい。これは、福沢諭吉を理解する上で非常に大事なことなのです。まさに、福沢は、ヨコのものをタテにするために大奮闘した先駆的思想家です。」

『「文明論之概略」を読む』は丸山真男の優れた著作の1冊であるので、1人でも大勢の人たちに一読していただければと思います。また、同書は4年前に藤原肇氏を囲んでの脱藩道場総会で採用したテキストでもありました。当時書いた『「文明論之概略」を読む』の書評が見つかれば、本ブログに載せたいと思います。

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2005年8月10日 (水)

『紙の爆弾』9月号

0509kami 『紙の爆弾』の出版元である鹿砦社の松岡社長が逮捕された後、残された同社の社員が『紙の爆弾』の発売は続けると鹿砦社のHPに書いていました。しかし、本当に出版ができるのだろうかと心配していましたが、その後無事に宅急便で同誌が届いたのであり、心配は杞憂に終わりました。早速ページを開いてみると、予想していた通りに松岡社長逮捕に関する記事で埋め尽くされていました。そして、記事を書いた人たちのほとんどが、鹿砦社が警察との裏の繋がりの深いアルゼを追求したことにより、アルゼ関係の警察OBの逆鱗に触れたのを逮捕理由としていたのが印象的でした。無論、そうした可能性は否定できないのも確かなのですが、松岡社長を逮捕することにより、却って自分たちと鹿砦社との間で起こっている騒動が世間の注目を浴びてしまうことが容易に想像できることから、検察を動かしたのがアルゼと関係する警察OB、あるいはプロ野球の阪神関係者であると明確に断言できないのではないでしょうか。そこで他に考えられるものに何があるかと考えるに、権力の中枢に近いところが検察を動かしたという線も考えられます。もし、この推察が当たっているとすれば、権力側に相当の焦りがあったことは確かであり、その根拠が掲示板【宇宙巡礼】で実際に傍聴した永岡浩一氏の発言などです。

 神戸地裁はもともと反動的ですが、1年生の裁判官が完全に検察とグルになり、検察の作ったであろう作文を読むのみ、松岡社長の弁護士の質問にはすべてはぐらかせ、勾留した理由を、証拠隠滅の恐れがあると言っても、民事訴訟や国家賠償請求になっているのに、それはおかしいと弁護士が追求したら、全て「答えられない」とか、全くお粗末でした。

永岡氏や他の傍聴者の発言から、周到に準備した上での逮捕ではないことが明白であり、上(権力側)が慌てて逮逮捕を「指示」したという可能性も残ります。逮捕を「指示」した権力側として考えられる人物に、例えば阿倍晋三氏がいます。山岡俊介氏が『紙の爆弾』に書いた「阿倍王国は崩壊寸前! 阿倍晋三の地元・下関市長選で公選法違反が告発された」といった記事があるのですが、その程度の記事で阿倍氏が慌てふためいたと考えるにしては、記事そのものに(阿倍をはじめとする権力を動かすほどの)パンチ力がないような気もします。恐らくは別の記事か何かによって生じた権力の焦りだったのかもしれません。その他、松岡社長の逮捕は(サラリーマン記者を除く)ジャーナリストへの“見せしめ”だという意見も一部にありますが、それにしては神戸地裁の仕事ぶりはお粗末でした。

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2005年8月 9日 (火)

『ゲーテの「ファウスト」と<カタカムナ>』

b050808 昨日ゲーテについて少し取り上げましたので、それに関連して『ゲーテの「ファウスト」と<カタカムナ>』について言及してみたいと思います。

最初に、初めてカタカムナという言葉を耳にした人たちには信じられないことかもしれませんが、縄文時代をさらに遡った太古の日本には「カタカムナ人」が存在していたと云われています。そうしたカタカムナ人が直感で森羅万象を感じ取り、それを象形文字の形で遺したのがカタカナ文献ということになります。この文献を発掘したのは楢崎皐月氏と云い、1949年に兵庫県の金鳥山で出逢った平十字なる謎の人物からカタカムナ文献を借りて筆写した後、独りでカタカムナ文献の内容の解明に努めたと云われていますが、このあたりの話は謎が多くて信憑性に欠けるところもあります。それは兎も角。その楢崎氏の後継者に宇野多美恵女史がおり、宇野氏が設立した相似象学会から『相似象』という学会誌が長年にわたって刊行を重ねていて、カタカムナ文献を研究する者にとって貴重な基礎文献となっています。私が本格的に相似象について取り組んでみようと思ったのは2年ほど前でしたが、その後に風水師のK氏と知り合ったので相似象についての話をしてみたところ、「若い頃に相似象に取り組むのなら兎も角、中年になってからでは遅い。(相似象の世界に入るのは)諦めろ」と言われてしまいました。相似象の奥義を究めるには並大抵のことではないのだなと、K氏のアドバイスに耳を傾けながら思ったものの、それでもカタカムナ文献について知りたいという欲求は抑え難く、例えば最近は宇野氏が著した『相似象』の1984年2月刊の特別号である、『ゲーテの「ファウスト」と<カタカムナ>』と題した本を読み進めています。せめて、カタカムナ文献とはこういうものだということだけでも知りたい、というのが密かな私の願いです。

そうした宇野女史のカタカムナとの取り組みを如実に述べた下りがあります。

三人の師はまだ不徹底であつた。宇野八十歳で独学の原因

孔子も老子も釈尊もゲーテも、彼らの思想は皆、それに一生をかけた結果のものである。かつて筆者は彼らの思想にココロから共振を感じ、一歩でも彼らに近づきたいと夢にまで念願した。その心が本当に本気であつた証拠に、唯々、『釈迦の言葉は漢訳辞典ではなく、釈迦の話した原語で聴かねばわからぬ』という老師の言葉にしたがう一心で難解な梵語を学び、又『孔子の言葉は孔子の体験を通して感受しなければならぬ』といわれれば本当にそうだと思う一心で説文.殷虚文字.甲骨文.尭舜の世までさかのぼり、そして又、ゲーテがファウストを書き上げた八十歳の心情を、富永老師の直観にしたがって吟味したいばかりに、ドイツ語を(単位をとる為でもドイツ文学を学ぶ為でもなく)寸暇のない家事仕事の合間に独習したものである。

(『相似象』第十号 p.195)

[カタカムナ]
http://www.astralscience.com/katakamuna/

※上記のURLはカタカムナに関する基礎的知識を与えてくれるだけでなく、様々なカタカムナ関連のサイトも紹介していますので、一度訪問してみるといいかもしれません。

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2005年8月 8日 (月)

クラシックのすすめ

m016 数日前に『丸山真男 音楽の対話』を取り上げていますので、クラシック音楽に関して2年前にIBDのウェブ機関誌に寄稿したものを以下に再掲しておきます。

クラシックのすすめ(音楽編)

 筆者の場合、原稿を執筆する時は自宅の仕事部屋に籠もり、クラシック音楽(CD)をBGMにパソコンに向かってキーボードを叩いていることが多い。尤も、筆者の場合はクラシック音楽に関しては素人の域を出ず、楽器演奏にしても二十代前半に通信教育でクラシックギターを数ヶ月練習したに過ぎない。拙稿の第一回目「日本脱藩のすすめ」の中で、三年間の海外放浪の途中にニューヨークの日系レストランでアルバイトをしていたことを書いたが、その同じレストランでやはりアルバイトをしていた三浦さんという先輩がいた。三浦さんはニューヨークに来る前はスペインに滞在しており、当地でクラシックギターの師匠に従事して練習に励んだという変わり種だった。その三浦さんが仕事を終えた後にアパートで「禁じられた遊び」を弾いてくれたことがあり、筆者は非常に感動したことがある。その時の三浦さんの演奏がよほど印象に残ったのだろう、帰国後の筆者は早速クラシックギターを購入し、ギターの通信教育を申し込んだのだった。そして、いつの日か大勢の友人・知人の前で「禁じられた遊び」を弾いてやろうという夢を見ていたのだが、結局果たせずに数ヶ月で挫折している。

 さて、クラシック音楽がテーマである本稿では、丸山眞男(1914~1997)を最初に取り上げたい。丸山がクラシック音楽に造詣が深かったことは有名な話であり、そのあたりを如実に物語っているのが『フルトヴェングラー』(脇圭平・芦津丈夫著 岩波新書 絶版)である。最初に、丸山がフルトヴェングラーについて語っているくだりを以下に紹介しよう。

丸山眞男:若い批評家などがフルトヴェングラーのジャケットに解説を書いて、芸術は宗教じゃないんだから盲目的な傾倒はこまる、とか、冷静に聴け、なんて説教しているのを見ると、「しゃらくせえ」(笑)といいたくなる。こういう小賢しい言い草をする輩に限って、宗教的体験に無縁などころか、本当に内面的な音楽的感覚からも遠い、ただちょっと「耳のいい」才子が多い(笑)。

『フルトヴェングラー』(p.122)

 丸山のフルトヴェングラーへの傾倒ぶりが一目瞭然に分かる文章ではないか。それにしても、あの碩学の丸山が「しゃらくせえ」などと言うあたり、微笑ましく感じるのは筆者だけではあるまい。

 上述の『フルトヴェングラー』、さらに本稿の書評で紹介している『丸山真男 音楽の対話』(中野雄著)等に目を通してからというもの、筆者は折りあるごとにフルトヴェングラーの数々のCDに耳を傾けてきた。手許に『クラシックCDの名鑑』(宇野功芳・中野雄・福島章恭共著 文春新書)という本があるので、同著の中からフルトヴェングラーの演奏に対する評価の一部を引用してみよう。

■シューマン《交響曲第4番》ベルリン・フィル 1953年

・「シューマンの《四番》だけは他のどこのレコードを持って来ても、1953年のフルトヴェングラーのスタジオ録音には敵わない。(宇野功芳)

■シューベルト《グレイト》ベルリン・フィル 1942年

・おそらく彼(フルトヴェングラー)の数多いレコードの中で最も、燃え切り、自己の内面を赤裸々にさらけ出したのは、ベートーヴェンの《第五》とこのシューベルトの《グレイト》であろう。(宇野功芳)

・(第二次大戦という状況下における)指揮者(フルトヴェングラー)と楽団員の明日なき思いが聴く者の胸を抉る。(中野雄)

■ベートーヴェン《交響曲第9番》バイロイト祝祭管 1951年

・フルトヴェングラー《バイロイトの第九》は、戦禍で中断していたバイロイト音楽祭の復活記念コンサート(1951年7月29日)のライブである。平和到来の喜びの背後には、ナチズムとワーグナー思想(反ユダヤ主義)の関わり、フルトヴェングラー自身のナチ協力疑惑(裁判の結果無罪)など、複雑にして微妙な問題が潜んでいた。音楽が再現芸術である以上、「空前」であっても「絶後」の名演はありえないはずであろうが、背景にあるこうした事情を考えてみると、この演奏から得られる以上の感動がこの地球上で再現される可能性は、限りなくゼロに近い。(中野雄) 

 筆者の場合、ベートーヴェンの交響曲に関しては、フルトヴェングラーの他にトスカニーニ、ワルター、イッセルシュテットらの演奏も聴いてきた。その中で、フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの交響曲の場合、魂が強く揺すぶられるような、何か強烈なパワーが出ているのを感じるのである。それは、フルトヴェングラーの融通無礙な演奏の姿勢から来ているのかもしれない。換言すれば、楽譜から滲み出る作曲者(ベートーヴェン)の魂を掴みとり、フルトヴェングラー自身の「思想」なり「哲学」で以て語りかけているからこそ、フルトヴェングラーの演奏が心に響いたのだろう。単に楽譜を忠実に演奏するだけであったならば、筆者の心をかくも強く動かすまでには至らなかったはずだ。

 次に、『フルトヴェングラー』の以下の箇所に注目してみよう。

彼(フルトヴェングラー)の有機的音楽観には、まぎれもなくゲーテの思想が流れ込んでいる。自然研究家としても知られるゲーテは、つねに有機体をプラスとマイナス、拡大と収縮、弛緩と緊張、呼気と吸気などの極性作用を通して生成発展する生命として把握していたのである。

『フルトヴェングラー』(p.85)

 ゲーテの自然研究は、『植物のメタモルフォーゼ』(1790年)という自然科学論文として結実しているのはご存じの通りである。そして、このゲーテの自然科学観は、拙稿第二回・「メタサイエンスのすすめ」で述べた黄金比がその根底にある。さらに、ゲーテの自然観は中国の陰陽原理を連想させるものであり、それが老子の『道徳経』および『道徳経』をビジュアライズ化した『易経』へと繋がっていくのである。

 また、ゲーテはヨーロッパ中世に興ったルネッサンス精神の継承者の一人であり、百科全書派を彷彿させる幅広い教養を身につけた巨星であった。そして、ゲーテはフリーメーソンの一員として、ドイツさらにはヨーロッパに大きな影響をもたらしたのは言うまでもない。無論、かのモーツァルトもフリーメーソンのメンバーであったことは周知の事実であり、論より証拠、モーツァルトの歌劇『魔笛』にフリーメーソンの儀式か色濃く出ていることからして明らかである。なお、日本でフリーメーソンというと、未だに得体の知れないもの、秘密結社のような扱いをされるが、日本でのロータリークラブのように、欧米では何も珍しい存在ではなく、隣の家がフリーメーソンだったということがざらにある。そのフリーメーソンが門外不出の「智慧」として、代々メンバーに伝えられてきたものの一つに黄金比がある。そして、J・S・バッハの作品群に黄金比が見え隠れしているのはよく知られている事実だ。

 バッハと言えば音楽の父として知られているが、ここでヨーロッパのクラシック音楽の歴史を顧みるに、クラシック音楽が初めて記譜されたのは中世キリスト教の典礼音楽が最初であったことが思い出される。そして典礼音楽の最高傑作と言えば、バッハの《マタイ受難曲》をおいて他になく、まさに人類の至宝、最高の宗教音楽と言えよう。かかるクラシック音楽が誕生した近代とは、思想と芸術の多くが宗教から離れ、人間へと関心が移ってゆくという時代であった。そうした時代の中にあって、人間を超えた存在である神というものを己れの音楽で表現したのがバッハだったのではないだろうか。しかし、バッハは信仰のみに生きた人間ではなかった。同時に、狭い意味での宗教を超えていたのがバッハだったのである。齢を重ねていくにつれ、筆者もいずれバッハに帰っていくのだろうか。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
サワガニ

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2005年8月 7日 (日)

間違いだらけの宇宙論

m015 世の中ではビッグバンがあったとする説が、当たり前のように受け容れられています。しかし、本当にビッグバンはあったのでしょうか…。私の尊敬する2人の科学者・故糸川英夫氏と藤原肇氏との間で行われたビッグバンを巡る議論を以下にご紹介します。

20世紀の哲学としてのビッグバン仮説

糸川英夫:20世紀において記念すべき哲学の成果として、ベルサイユ条約とマーシャル・プランが挙げられるが、サイエンスの世界で画期的だったものとしては、ビッグバンの仮説があると私は考えます。

藤原肇:ビッグバンですか。私はビッグバンは存在しなかったと考えており、宇宙の生命が150億年の歴史しかないというのは、作業仮説として余りにも短すぎるから、仮説の有効性の面でも短期的だと予想します。

糸川:私は40年間にわたってビッグバン問題を追いかけ、ロケットにX線の撮影機を乗せて打ち上げ、ビッグバンがあったかどうかを確かめました。そして、150億年前に宇宙の一点で大爆発が起こり、真空の中からすべてが生まれたというのは、実に大変なことだと考えています。私は本を読むだけでは納得しない男でして、そのためにペンシル型のロケットを打ち上げたが、狙いはビッグバンの存在の確認のためです。

藤原:それで、先生はビッグバンの存在を確認したのですか。

糸川:しました。自分で計って確認したから絶対に確かです。私が計測する前は教科書上の仮説であり、ハッブル天文台が赤外線観測で発見した、赤色偏移による宇宙膨脹説が根拠だった。だが、自分でX線の考えに基づいてロケット観測をして、星が大変な速度で遠ざかっていると確認したので、宇宙が一点から始まったことになりますし、ゼロの中にプラスとマイナスが同時に存在して、ビッグバンで総べて始まったと確信します。

藤原:だけど、ビッグバン仮説を支持する物理の專門家たちは、ゼロと無限の間の微分できる領域だけを考えて、ゼロや無限大の彼方について無視している。先ほど先生に差し上げた「宇宙巡礼」というメタサイエンスの本の中で、私は無限の彼方の空とゼロの彼方の無が、メビウスの輪によって繋がっており、ゼロ次元が特異点であると論じています。

糸川:特異点があることはホーキンスも論じており、ビッグバンがなかったと考える人も沢山いるが、50年を費やして自分でロケット実験をして、カメラで宇宙を撮影した結果からしても、私はビッグバンの存在を疑っていません。この結論への批判や反論はそれでいいのであり、20世紀の人間はそこまでやったのです。

藤原:でも、21世紀の人間がホロコスミックスの理論を体系付け、空と無の繋がり具合について解明すれば、ビッグバンに関しての新しい理解が生まれるし、更に包括的な新仮説が登場するかも知れません。

LA INTERNATIONAL』 2000.03月号

私の場合は宇宙に関する本が好きで、今までに100冊以上は読んでいると思います。尤も、単に目を通しただけに過ぎず、100冊に及ぶ本を読み進めながら思索に耽るというほどのものではなかったので大したことはありません。そうして読んだ多くの本の中でも印象に残る1冊に、在ロサンゼルスの知人である佐藤氏が推薦してくれた『宇宙進化論』(ジョン・グリビン著 麗澤大学出版会)があります。しかし、同書はビッグバン説を支持している本であり、かつ私たちの住む宇宙以外にも沢山の宇宙があると書いてあるのですから、初めて同書を読んだときは大変驚いたものです。ともあれ、現在はビッグバン説が主流ですが、それでも少数派ながらビッグバン説を否定している人たちも世の中に確実に存在しているのであり、その1人が上記の藤原肇氏です。私も藤原氏同様にビッグバン説を否定する1人ですが、左を見ても右を見てもビッグバンの熱心な信者ばかりであり、ビッグバン否定派として肩身が狭い思いをしてきました。そうした中、「間違いだらけの宇宙論」というホームページとの出逢いが最近あったのです。サーッと同HPに目を通した私は思わず唸りました。同HPのオーナーは私同様に天文学に関しては素人であると自ら告白していますが、同じ素人にもピンからキリまであるのであり、わたしのようなキリに属する者と違い、同HPのオーナーはピンに属する人物であることが分かります。それどころか、ブラックホールの専門家とメールで堂々と議論を交わしているのです。

ここで、今の中学・高校ではビッグバンについてどのように教えているのかと気になりました。「間違いだらけの宇宙論」のオーナーは、以下のように述べています。

 少なくとも小学校から大学院まで先生と呼ばれる人たちは、「ビッグバン宇宙論の勝利は既に確定しており、定常宇宙論をいまだに信じているのは風変わりな人たちである」「ブラックホールは存在することが確認されている」と言うような偏見による教育は中止すべきです。「ビッグバン宇宙を支持している人たちのほうが多いが問題も多く決着はまだついていない」「非常に高密度となった天体は存在するようだが、それが正確にブラックホールと呼ばれるような状態であるかどうかについてはまだわからない」と正確に教育すべきです。 こんな馬鹿げた時代が早く終わり、宇宙論の世界が先入観にとらわれず確立された物理学を尊重しながらも自由に討論のできる場となる事を祈ります。

ホームページ「間違いだらけの宇宙論」は長い間休眠中だったとのことでしたが、最近になって再開されたようであり、今後の同HPの執筆活動に注目していきたいと思います。

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
猛暑の中、生育順調な稲穂

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2005年8月 6日 (土)

ジャンクフード

m014 今朝の朝日新聞でジャンクフードの記事が目に入り、実に不愉快な気分になりました。学校へ出向いて“ジャンクフードのすすめ”を説く企業も企業だが、それを受け容れる学校も学校です。企業の商魂の逞しさと云えばそれまでだが、ジャンクフードの正体を学校はキチンと子どもたちに伝えるべきだとつくづく思った次第です。そのあたりを理解してもらう意味で、以下の記事を転載しておきましょう。

「学問は光なり」と「賢者のネジ」の表紙にあるロゴの持つ秘力の意味

藤原肇 投稿日: 2005/01/05(水) 07:13

髪が長くなったから短く刈るというのでは、腹が減ったらファストフードの店に入って、ジャンクフードを食べて満足するのと同じであり、食事がいかに大事であるかを見失って、人生を餌付けに似た状態にしてしまっている。30年以上もアメリカに住んでいる私は、これまで2 回マクドナルドに行った過去を後悔しているが、それはどこかに書いたと記憶しており、床屋も食事処も自分の流儀に合う場所を選ぶべきで、偏屈と言われてもこの姿勢は変えられない。これはもっともらしい原則論であるが、実は私の食事の仕方が余り感心したものではなく、良く噛まないで飲み込むように早く食べ、脂肪質のものを質も考えずに手当たり次第に、短時間で片付けるように食事をしている、と五六年前に大雪山さんに注意された。そして、この食事の仕方では胃の機能が歪んでしまい、そのために土が水を克すので腎をやられ、悪い食習慣が私の健康を損なっている原因だから、それを直すには一定期間の訓練が必要だと言う。

そこで懐石料理を昼と夜に一週間食べながら、食事の躾を施して歪みを直すことが必要だが、東京でそれをしたら費用が大変だから、新鮮な魚が安い北海道に来ませんかと言われて、旭川に一週間ほど招かれて行き特訓を受けた。

その時に衣食住に注意することがいかに重要で、先ずは食の問題から悪い習慣を改めて、住に関しては土地の問題で地の利を使えと学び、その延長で衣料をどうするかにまで発展し、ラクダの毛の靴下が送られて来たので、ここに来て五行力学について強く意識したのである。

http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/mb/board/gakumon_wa_hikarinari.htm

以下は今朝の記事です。

外食、菓子産業が子どもに食育授業

 外食や菓子メーカーが、子どもを対象にした食の教育(食育)の出前授業に相次いで乗り出している。授業を通じて「健康に悪いジャンクフード」というイメージを変えるのが狙いだ。総合学習のテーマ選びに悩む学校側が飛びついているが、専門家からは「内容が偏らないよう、教師がきちんと授業を取り仕切る必要がある」との指摘も出ている。

 「スナック菓子は体に悪いと目の敵にされますが、量と時間を守れば、食べていけない食品などありません」。今月2日、東京都八王子市教育委員会の教員研修会。100人を超す教師を前に、カルビー広報の麦田裕之マネジャーは力説した。

 模擬授業では、アニメビデオを見たり、スナック菓子をはかりに載せたりして「ポテトチップスも1日に小袋(35グラム)なら食べてもいい」と説明し、スナック菓子も配った。

 カルビーは03年から小学生を対象に出前授業「スナックスクール」を始め、今年度からは全国に拡大して年160校での実施をめざす。

 日本マクドナルドは7月、自社のホームページに「食育の時間」というサイトを開設。9月からは全国の五つの小中学校に社員が出向き、出前授業をする。ハンバーガーなどを例にした栄養素の分析がテーマ。同社は「バランスがとれていればファストフードを食べても問題はない」と説明する。

 モスフードサービスも10月ごろから全国の小学校でハンバーガーを実際に作るなどの体験型出張授業を始める。

 各社の力が入る背景には、健康意識の高まりに伴う、ファストフードやスナック菓子の販売不振がある。「食育」でイメージを改め、長期的な消費の底上げを期しているわけだ。受講した小学校からは「食育でメーカー側の考えを聞く機会は少なく、意義があった」と歓迎する声もある。

 半面、教師の側が「企業にお任せ」という手軽さにひかれている面もある。総合学習の導入で、教える内容に現場の裁量の幅が広がったが、実際にはテーマ選びに苦労する教師が多いためだ。

 ある教師は「教材一式を用意してもらい助かった。外部の人が参加すると、子どもが授業に集中する」と話す。

 高知大学の針谷順子教授(食物学)は「企業側は『食べ過ぎなければいい』と考えるが、子どもはこうした食品を一度食べたらやめられなくなる。仮に出前授業を受けるにしても、教師が別の考え方も紹介するなど適切に仕切らないといけない」と指摘している。

http://www.asahi.com/life/update/0806/002.html

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
過日、子どもたちの遊ぶ学校のプールを監視していたら、トンボが飛んでいました。暑い中にも秋の気配を感じさせます。

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「今、問題なのは日商岩井だ」

この記事は、若者に人気のあった『PENTHOUSE』の1983年6月号に載った記事です。1983年当時の私は、当時の日商岩井本社ビルの裏にあったヨガの先生の実家である店に数度足を運んだことがあるだけに、20年以上も経った今日に至り、再び当時の日商岩井に関する記事を目にするのは妙な気分になったものでした。しかし、その後の日商岩井は2003年にニチメンと合併し、さらに1年後の4月1日を以て日商岩井の社名から双日という社名に変わったのであり、時の流れを感じさせます。

http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/nisshoiwai.htm

1975年に安宅産業が倒産していますが、歴史は繰り返すと言われているように、1983年当時の日商岩井も安宅産業と同じ道を歩みつつありました。しかし、その後の日商岩井は社名が変わりながらも辛うじて今日まで生き延びてきたのはご存じの通りです。そうした日商岩井の過去を取り扱った同記事の中で、特に注目すべきは以下の下りでしょう。

 石油やLNGは現代における戦争のバリエーションである。国際政治を動かすほどのダイナミズムと多くのドラマを生みだす。石油、LNG開発は三井グループのIJPCの例を見てもわかるように、国際政治、国際経済を舞台にした大きな賭けである。この賭けは最大の勇気とともに冷静な判断と細心の調査が必要条件であることは言うまでもない。安宅事件はこのことを痛切にわからせてくれたはずだ。
今、問題なのは日商岩井だ

なお、同記事で取り上げてあるドームゲート事件は、『無謀な挑戦』という本にもなっており、同書は筆者の承諾を得て電子化してアップしてあるので、関心ある方は目を通してみてください。。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/petro/petro.html

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2005年8月 5日 (金)

『丸山真男 音楽の対話』

b050805 7月30日に「一流教授の下で学べ」と題した投稿をしたところ、幾人かの訪問者がコメントを寄せてくれ、その中の1人の西登日東沈さんが『丸山真男 音楽の対話』を取り上げていました。西登日東沈さんへの回答は以下のURLをクリックしてもらうとして、偶然ですが私も1年ほど前にアマゾン・ドットコムに『丸山真男 音楽の対話』の書評を投稿していますので、以下に転載させていただきます。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/post_dfeb.html

生まれながらにして名著の地位を約束された本

 『丸山真男 音楽の対話』は、下手な音楽のプロも足元に及ばぬほど音楽に造詣が深かった丸山眞男と音楽との関わりについて述べたものであり、丸山眞男の息遣いが伝わってくるような本である。特に以下の丸山の発言は強く筆者の印象に残る。

 「音楽という芸術のなかに『意志の力』を持ち込んだのはベートーヴェンです。『理想』と言ってもいい。人間全体、つまり人類の目標、理想を頭に描いて、〈響き〉=〈音響感覚〉でそれを追求し、表現する。凄まじい情熱ですね。これを『ロマンティック』と言わずして、他に何がありますか。『ロマン』は単なる情熱やセンチメンタリズムではない。人間の理想の追求が『ロマン』なのですから……。」

『丸山真男 音楽の対話』(p.75)

 「音楽のなかに『意志の力』を持ち込んだベートーヴェン」という丸山の発言を目にした読者は、今までとは違った角度からベートーヴェンを聴くようになるのではないだろうか。まさに、「人間全体、つまり人類の目標、理想」という丸山の発言にあるように、ベートーヴェンは18世紀という時代精神の申し子であり、紛う方なきフリーメーソンであった。

 なお、今までに丸山眞男の一連の著書に目を通したことのある読者は既にお気づきの通り、丸山の著書群には執拗低音(バッソ・オスティナート)という音楽用語がたびたび登場する。この執拗低音は、丸山思想を真に理解するためのキーワードとされており、執拗低音とは何かということについて教えてくれるのが本書だと思う。したがって、本書は丸山の音楽に対する熱い思い、丸山の息遣い、人となりが伝わってくる本というだけではなく、真摯に丸山眞男の思想を追求したいという人にとっては欠かせぬ本なのである。その意味で、本書は生まれながらにして名著の地位を約束されたといっても過言ではない。

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2005年8月 4日 (木)

『謎のカタカムナ文明』

b050804 カタカムナという言葉は、今までに一度や二度は耳にしたことがあると思います。本日ご紹介する『謎のカタカムナ文明』(阿基米得著 徳間書店)は、私にとってカタカムナ文献の入門書となった記念すべき本ですが、同書を的確に評価している本に、『アメリカから日本の本を読む』があります。

謎のカタカムナ文明

 俗な表現だとオカルト・ブーム、もう少し改まった言い方なら、ニュー・サイエンスが多くの人の関心を集めている。しかも、これは日本だけではなくて、世界的な現象である。
 ある意味で、これは世紀末現象だ。また、これは一つの文明から別の文明への過渡期を示すと共に、これまでわれわれが慣れ親しんできた価値観やモノを理解する上での基準であるパラダイムが、有効性を喪失している事実の露呈でもある。
 こういう不確実性が支配する時期は、焦躁感が人びとをおし包む。この不安な気分から逃れたいということで、宗教にすがる人もあれば、芸術に耽溺したり政治活動に熱中する場合もある。
 そして、共通する意識として最も強いものは、行く手を指し示す現代の松明と呼べる何かが欲しい、というひたむきな願望が渦となり、独得な時代性を生むのである。また、そんな思いに駆られて暗中模索する時に、いつの時代に有効なのは、歴史をさかのぼって過去の中に解答を捜す努力をすることだ。
 なぜなら、過去は未来の序章に他ならないからである。
 過去の中に現在がかくあるための選択があったという事実からすると、現在に向けて過去からのばした線の延長上に、未来が位置している確率は大きい。しかも、螺旋状に発展する進化のパターンからすると、過去のモデルには学ぶべき教訓が多く存在し、問題は次元の展開をいかに行うかにかかわっている。
 そこで多くの人が過去に分け入り、色々なものを掘り出してきた。だが、普遍的な価値が無かったが故に、歴史のフィルターで選別され見捨てられていたのに、古いというだけの骨董趣味で無理にスポットライトをあてられているものも実に多い。
 占星術、超古代文書、古代秘術といったものだけでなく、最近の日本で賑やかに行われている復刻本や全集ものなど、玉石混交というより、そのほとんどがキワモノにすぎない。
 この出版社が『謎シリーズ』と銘うって売り出している本の大半はその手の仲間だ、という読後感を残している。その理由は、有効性が無かったが故に亡びていた情報が、商業主義のお囃子と共に、時代の新しい粧いでこの世に蘇生させられているせいである。
 だからといって、全体否定をしてはいけないのであり、ガラクタであるが故に絶滅して、長い間暗黒の底に沈んでいたものと、タブー視されてきたが故に地下にもぐっていたものとの区別は大事である。カタカムナ文献との出会いのエピソードを信用するかどうかはともかく、この本の中の相似現象学としてのテクノロジーを扱う風景工学や錬金術の取り扱い方はなかなか真面目で、著者の視座が堅固な技術観の足場に支えられていることが分る。
 単なる人騒がせで売らんかな主義を満たそうとしているのではないという意味で、巷間に氾濫している類書とは性格を異にしている。その点で、本書はオカルト・サイエンスの入門書をちょっと読んでみたいという人には恰好であろう。
 偶然なことに、公害の産物で何の役に立たないヘドロのようオカルトの本が、日本列島にはあふれているのに、この本は大分まともだと思いながら読み進んでいたら、ヘドロについての記述に出くわした。
 カタカムナという謎のことばで言うミトロカエシによると、ヘドロこそ生命誕生の最も基本的なメカニズムを持ち、物性還元エネルギーの母体を構成するという。「気体のガス、液体の水、固体の土がここではほど良く混りあい、コロイド状になっている……。このよう状態の下では、想像もつかないことが起っているのだ」という記述は、気体、液体、固体という三つの相が異相界面作用をすると、宇宙的規模の現象が起ることの分りやすい解説である。これはケルヴランの生体内原子転換説や、その実証として有名な、一九六四年六月二一日午後五時に、世界最初のナトリウムの低温低圧下でのカリウム原子核への転換を記録した、桜沢如一『無双原理・易』の実験と共に、ことによると二一世紀をリードする、原子転換工業の突破口になるかもしれないアイディアを内包している、と思った。
 また、『性の魔術が人類を救う』という章の、《水素シ12》とか《オルゴン》についての共鳴は、私はまだいささかの抵抗を感じる。だが、性器の優位に縛られて来た性から、エロスをパーソナリティ全体の愛の表現形式として捉え直す相似現象は、セックス・アニマル化している現代日本人に対して、極めて適切なメッセージを含んでいるようだ。
 「ヒノキの大樹の下で、一人の男が太い幹によりかかっていた。まるで親しい恋人とあい対しているかのように、彼はゆっくりとくつろぎ、なにごとかを語りかけながら、幹の表面を大きく指をひろげた手のひらで、愛情をこめて愛撫した。
 やがて大樹は男のしぐさに反応するようになり、ゆっくりとした細やかなうねりのようなものの交流が、見えない次元で起りはじめた。男と大樹、この二つのものは強く結合し反応しあって結びつき、完全に一体となり、区別というものが無くなっていた。
 少しずつ男の体内には大樹のもつ植物の力が満ちていった。(中略)
 涼しい風が吹いていた。そして、大きな枝をのばしたヒノキの大樹と、一人の男が立っていた」
 これだけ素晴らしい生の歓喜の描写は、明治以来の日本文学の中で、ついぞ出くわしたことがないが、このあたりに、現代の日本人が喪失している大事な感受性の根源があるのではないか。
 カタカムナ文明の存在はともかくとして、馥郁とした古代精神の片鱗を味わう可能性を秘めた本として、「あらゆる本である一冊の本」と謳いあげるこの本を、ロスのスモッグで汚れた頭の洗濯のために、マリプの海辺で読んでみるのも、健康法としていいかもしれない。

〔ノート〕
 (1) 生体内原子転換説……フランスの生化学者ルイ・ケルブランが主張した原子転換説によると、自然界ではバクテリアや酵素の働きで低温低圧下においても、原子が転換するという。自然食運動の指導者桜沢如一は、自製の装置を使ってナトリウムを常温下においてカリウムに原子核転換するのに成功している。
(2) マリブ……サソタモニカの海岸から一五キロ北方に位置する高級住宅地。本当の富豪たちの邸宅があり、ロス近郊では最高級の場所。

今日『謎のカタカムナ文明』を取り上げたのをきっかけに、今後も折に触れてカタカムナ文献について様々な角度から筆を進めていく予定です。

http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/yomu/katakamuna.html

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2005年8月 3日 (水)

『究極の免疫力』

b050803 今日紹介する『究極の免疫力』(講談社インターナショナル)を書いたのは、嘗て本ブログでも取り上げた『内臓が生みだす心』の著者である西原克成氏です。『内臓が生みだす心』については、己れの生命観を根底から覆された本として、訪問者の皆さんに紹介したのは記憶に新しいところでしょう。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/06/post_2c24.html

さて、同じ西原氏の著した『究極の免疫力』もなかなかの良書であり、今までの私たちの〝医学的常識〟が如何に間違っていたものであるかを痛切に思い知らせてくれる本です。ご参考までに、以下はアマゾン・ドットコムから引用した同書のデータです。

出版社/著者からの内容紹介

●身体を温めると、なぜ病気が治るのか?
●口呼吸が万病を招いている
●短時間睡眠は短人生の恐れ
●離乳食は2歳を過ぎてから

 現在、多くの人々が健康に生きるための「免疫力」に注目し、テレビや雑誌などのメ ディアでも、さかんに取り上げられています。しかし、免疫力の本体については、意 外なほどふれられていません。著者の西原克成氏は、長年の臨床経験と進化生物学の 研究を下に、細胞のレベルで免疫力の根源を見いだしました。
現代人の生活は、細胞レベルのリモデリングを妨げ、無用に細菌を身体の中に取り入 れてしまう行動様式に満ちています。例えば、よくかまずに食べたり、身体を冷やし たり、睡眠を十分にとらなかったり、口で呼吸をしていると、身体中の細胞に細菌が 蔓延し、難病といわれる免疫病を引き起こしてしまいます。身体をきちんと温かく 保っていれば、全身のミトコンドリアが生き生きと活動し、細胞のリモデリング=新 陳代謝がスムーズに行われます。このリモデリングこそ、私たちの生命が流れる渦の ようなものなのです。
当たり前の正しい生き方をすれば、私たちは病気から逃れて生きることができます。 しかし、日本の医学は、残念なことに、こうした根本的なことには目を向けていませ ん。日本医学が、人間の身体を総体的にとらえなくなったことが、難病が治らないま まにされている原因にもなっています。
健康に生きるためには、生き方を改めなければなりません。口呼吸を鼻呼吸に改め正 しく呼吸し、身体を冷やさず、正しい食物をよく噛んで食べ、よく眠り、正しくエネ ルギーを摂取して生きていれば、文明が進んで疫病の多くが克服された現代社会で は、健康生活が手にいれられるのです。

上記のアマゾン・ドットコムの引用を読み、「あれ? 今までの医学的常識と違うぞ」と気がついていただくことが、正しい医学的常識を身につける第一歩となるのであり、正しい医学的常識を身につけられるという点だけでも同書を手にする価値があると思います。なお、以下は同書の中から特に印象に残った個所です。

東京大学の場合、歯科学教室が設立当初から今日に至るまで崩れていたため、東京大学の医学部のレベルはすでに明治時代から最低の状態に陥らざるを得ませんでした。そして現在の平成の世にも、A教授のごとく学力も倫理観もない東京大学の医学部の一部の教授たちが今日的に明治時代の誤りを再現するような人選を行っています。そして、血液製剤のエイズ感染が発生するという失態が露見するまでの戦後の日本医療のほとんどすべての重要事件が、東大医学部出身者にゆだねられてしまってきました。今日の日本の医学がおかしくなったのは、そうした背景があったのです。
『究極の免疫力』p.70

『スポック博士の育児書』は1946年にアメリカで書かれ、ベストセラーになったもので、日本では当時の東大教授の高津先生によって昭和41年(1966年)に監訳されました。大学紛争の頃からインテリ層に浸透し、育児のバイブルのような扱いをうけました。しかし、1970年代にアメリカで発生した乳児ボツリヌス症事件で2歳半までの赤ちゃんの腸の特性が大人とはまったく異なることが明らかになり、スポックの育児法は全面的にアメリカで否定され、代わって昔の日本式の2歳半まで母乳中心に切り替わりました。
『究極の免疫力』p.81

免疫病がミトコンドリアの障害でおこっていることに気づいている人はまだ皆無といってよいでしょう。身体の中で赤血球以外のすべての細胞はミトコンドリアをもっています。
『究極の免疫力』p.227

余談になりますが、今月の中旬から下旬にかけて、『ニューリーダー』という雑誌に半年前に掲載された西原氏の対談記事を皆さんに紹介する予定ですが、対談の主テーマは明治を代表する文豪・森鴎外についてであり、その森鴎外を徹底的に批判した内容の対談になっています。お楽しみに。

■〝明治の大文豪〟森鴎外の隠された真実 「日本最悪の医者」としてその犯罪を裁く(『ニューリーダー』 2005年2月号 )…8月13日アップ予定

■「軍医」森林太郎と「文豪」森鴎外 捩れた人格 〝虚飾の栄達〟とその贖罪に見る日本人の〝貌〟(『ニューリーダー』 2005年3月号 )…8月20日アップ予定

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2005年8月 2日 (火)

『日経新聞の黒い霧』

b050802 『日経新聞の黒い霧』(大塚将司著 講談社)という本に目を通しました。過日、私は日経新聞の落日について投稿していることからお分かりのように、以前から日経新聞社の動向について関心を持っていました。詳細は以下を一度再読していただければ幸いです。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/financial_times_b7c0.html

私がアマゾン・ドットコムに日経についての書評を投稿したのが、当時の鶴田卓彦相談役が退任してから2週間後の2004年4月14日でした。日経の記者が株主総会で鶴田社長の解任を要求する株主提案を提出したという内容を新聞記事で読み、それが頭の片隅に記憶として残っていたこともあり、同書を読み進めながら、「あの時に株主提案を出したのが、本書を著した大塚将司氏だったのか」と思い出した次第です。日経内部に居ないと書けないような内容を多く含む同書であり、当時そして恐らく現在でも根底では大差ないであろう日経の実態が良く描かれており、日経さらには日本の大手新聞社には本物のジャーナリズム精神を持つ記者がほとんどいないのかという理由が、同書を読むことで理解できるのではないでしょうか。これは、岩瀬達哉氏の著した『新聞が面白くない理由』(講談社文庫 )を読めば一層明らかになります。

ところで、私は本を読むときに線を引きながら読む癖がありますが、同書についても多くの線を引いています。そうした線を引いた中から、これはと思う下りを以下に羅列しておきましょう。

 「日経らしさ」。
 日経新聞社の編集局で頻繁に使われる言葉だ。
 私は長いこと、その意味するところがよくわからなかったが、鶴田社長時代になってそれが徐々に見えるようになってきた。どうやら「日経らしさ」とは、米国の受け売り、世論迎合、事なかれ主義だけを是とすることのようだった。理念とか哲学とは無縁の「情報サービス会社」として風見鶏のように臨機応変に立ち回ることが重要で、それは本来の言論報道機関の役割を放棄することを意味していた。
『日経新聞の黒い霧』 p.159

 90年以降の経済政策の結果、多くのサラリーマンたちが人生設計を狂わせ、苦しみもがいている。その責任は政治家、官僚、企業経営者だけに帰属するものではない。経済を専門とする日経新聞の責任も重い。しかも、この間、私は記者、デスクとしてその最前線にいた。意図してスクープだけを追い、ジャーナリストとしての自覚に欠けていたのは紛れもない事実である。
『日経新聞の黒い霧』 p.193

 「君な、新聞社なんて、最も遅れているんだ。組織の内部は1970年代くらいの日本企業並みじゃないか。いや60年代かもしれないぞ。まあ、つい最近まで大手銀行だってそうだったけど、この金融危機で相当変わっている。まだソニーみたいなわけにはいかないが、徐々に変わってきている。新聞社だって変わらないと、生まれ変わった日本の経済社会についていけない。そんな遠くない将来、そういう時がやってくる。その突破口を開いたのは君だろう。それでいいじゃないか」
『日経新聞の黒い霧』 p.336

 「君ね、日経新聞社のこと、言論報道機関だなんて思っている人は大企業にはほとんどいないよ。単なる情報サービス会社なんだよ。そりゃ、面と向かっては誰も言わんさ。第四の権力なんだから、反撃が怖い。でも、内心ではそう思っている。
『日経新聞の黒い霧』 p.337

最後に、以下に過去私が書いたジャーナリズム論の一端を転記しておきます。これをきっかけに、社会の木鐸としてのジャーナリストの使命とは何かについて、再び考えを巡らせて頂ければ幸いです。

本来、ジャーナリストの使命は権力の監視にある。日本の権力が辿ってきた道程を振り返ってみよう。先の第二次世界大戦による敗戦の後、祖国復興の意気に燃えていたのは何も日本国民だけではなかった。日本の権力の中枢を担う自民党にも高い理想を持って祖国の為に尽力した政治家も少なからずいたのである。やがて、そうした先人達の努力が実り、高度成長期を経て完全な復興を遂げた日本であったが、その反面、1970年代頃前後から政界が利権の漁場と化し、愚民政策による日本社会の退廃が進んだのも周知の事実である。その後の日本は経済大国の道を歩み、やがてバブル景気に沸き、日本中が好景気に酔いしれていたまさにその時、突然バブルが弾けたのであった。それからの日本は十年以上の長きにわたる平成大型不況に突入し、今日に至っても依然として大型不況からの出口を見出せぬどころか、さらに奈落の底へと突き進んでいる。このように、日本が亡国寸前にまで陥った原因の一つに、ジャーナリズム精神の墜落が挙げられるのではないだろうか。社会の木鐸という言葉を持ち出すまでもなく、権力を監視し、警告を発していくのがジャーナリスト本来の使命のはずであるが、ジャーナリストのサラリーマン化と言われて久しく、最近の日本のジャーナリズム精神の墜落は目を覆うばかりであり、とても政界や財界、あるいはマスコミ界自身に対して「鋭い知的洞察をもって(権力による)その邪用・誤用を戒める」だけの覇気は、日本のジャーナリスト、より正確には大手マスコミには最早無いと断言しても差し支えないであろう。時代は、我々自身で「鋭い知的洞察をもって(権力による)その邪用・誤用を戒める」よう要求しているのである。そして、そのために必要となる武器こそがセマンティックスなのだ。ここに、「個人の生き方に知的判断を回復させようとする努力」のすすめを説く所以である。
『日本脱藩のすすめ 第三回・意味論のすすめ』

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2005年8月 1日 (月)

「ホリエもんの錬金術」

私が関与する掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】で、藤原氏が以下のようなメッセージを書いていました。

10 名前:藤原肇 投稿日: 2005/07/27(水) 14:22:38

相良さんが5でアドレスを教えてくれたので、「ホリエもんの錬金術」を非常に興味を持って読み、おそらく半世紀前にルルーの「黄色い部屋」を読んだときのように、謎解きの醍醐味を味わいました。アメリカのIPOを使ったサギ話に比べると、日本は20年遅れていると長らく思っていました。それは「ジャパン・レボリューション」の第四章に書いた、「孫正義のバブル商法と悪名高いパートナー」という記事を読めば、アメリカの実態が判ると思います。それにしても五年間で一株が36万株に分割され、上場時に1440倍に化けたという錬金術はサスガデり、しかも、144というフィボナッチ数の十倍だというあたりに、珪水さんが熟知している数字の魔術が関係していて、とても興味深いと思ったので、最終回のところに私のコメントを寄稿しておきました。

上記の「ホリエもんの錬金術」とは、以下のブログのことであり、藤原氏のコメントも載っています。
http://consul.club.or.jp/item/342

上記のブログに藤原氏がコメントを載せたところ、以下のような筋金入りの藤原肇ブッククラスターから私信をもらったそうです。藤原氏からの承諾を得ていますので、以下に藤原氏の読者の手紙を転載させていただきます。

前略 藤原 様

突然、メールを差し上げる無礼をお許しください。

自慢話で恐縮ですが毎日新聞社の週刊誌「エコノミスト」
1978年2月7日号(なんと280円)、「石油ビジネ
スのババ抜き合戦」を今でも保存している、日本で唯一人
の愛読者でしょう(笑)

「インテリジェンス戦争の時代」は読み返し過ぎてボロボ
ロになりました。

後にも先にも福田赳夫を上海ダマと表記する本はないから
でしょう(笑)

おかげさまで、最後は朴橿という方の「日本の中国侵略と
アヘン」(第一書房)まで読み広がったほどです。

「朝日と読売の火ダルマ時代」は姪の亭主が朝日の記者な
ので、貸してやったら「それっきり」

まさか、山根氏のブログで、ご芳名を拝見するとは夢にも
思いませんでした。

東証のデタラメぶりをご指摘されていらしたので、ご参考
になればと思い、ご報告いたします。

申し送れましたがメルマガ「東京アウトローズ」に寄稿し
ております、宝田豊と申します。

以下、ご笑覧いただいたら有り難く存じます。

草々 

< 東証はカジノより劣る鉄火場? >
http://www.tokyo-outlaws.org/takarada/kazino.html

< 事故が起きてから信号機を設置 >
http://www.tokyo-outlaws.org/takarada/gyoku.html

< 上場廃止と寺子屋 >
http://www.tokyo-outlaws.org/takarada/terakoya.html

< 松下電産の失われた21年 >
http://www.tokyo-outlaws.org/takarada/kinko.html


東京アウトローズ 「宝田豊 新マネー砲談」番外編
http://blog.melma.com/00057117/200507

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『教育の原点を考える』 第III章

b050615先ほど、『教育の原点を考える』の第III章「絶対主義と皇国教育」をアップしましたのでお知らせ致しします。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm 以下は、第III章の中で特に印象に残った下りです。 同章の冒頭は以下のような出だしになっています。
藤原肇 明治一四年(一八八一)の政変と呼ばれるクーデタで、大隅重信や福沢諭吉の門下生を政府から追放して、伊藤博文の絶対主義路線がはっきりします。その反動として、秩父事件や加波山事件のような反抗と弾圧が、明治の日本に激動の渦をまき起した。結局は、民権運動がしめ殺されていく中で国粋主義と絶対主義が支配的になり、民学を押しのけて官学の力が強まったことは、明治憲法と同時に教育勅語が発布になって、狂信的な水戸学的な思想がすべての教育機関に押しつけられた事実に象徴的に現われています。しかも、伊藤に協力して師範学校の軍隊教育化などを推進した文部大臣の森有礼でさえ、憲法発布の日に国粋主義者に暗殺されるほど、反動の嵐はすさまじくなっていく。
本当に、明治14年の政変は日本の将来を左右した分水嶺でした。その時の中心人物の1人であった大隈重信について、私は拙ブログでも取り上げていますので、一読していただければ有り難く思います。 http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/post_a6bb.html
松崎弘文 しかし、日本のようにボス政治がまかり通っている国では、よほど準備して地方分権の努力をしない限り、各地方各市町村ごとに小さな文部省ができてしまい、いよいよ混乱することも考えられます。

早川聖 現にそれが口実になって、教育委員を任命制にする工作が文部省によって行われたのだし、一番いい例が自治体警察の運命です。戦後アメリカの制度を導入して自治体警察が生れたけれど、結局は国家警察に吸収されてしまった。日本人は体質的に中央集権的なものが肌に合っていて、お上に隷従するのが好きなんですな。

藤原肇 そこに教育問題の根幹があって、隷属思想が日本文化の特性であるならば、教育によって日本文化を乗りこえるような人間を育てなければいけない。

早川聖 そこまで言い切ってしまうから、藤原さんはラジカルで危険思想の持主だと烙印を押されてしまうんです。日本人がもっと民主的な考え方を身につければいい、といっておくだけで済むのですよ。現に、大正デモクラシーと呼ばれる時代は、中道的で人間的な印象を人びとに与えることに成功したが故に、あの絶対主義の時代にあっても、デモクラシーが一時的に花開くことができたんですから……。

『教育の原点を考える』は四半世紀前に発行された本ですが、それからの日本は根底的に全く変わっていないようです。拙ブログ[教育の原点を考える]は、己れを取り囲む日本人としての壁を乗り越えるためのヒントになればと思って始めたのですが、ほとんど反応もないのも、末期症状の日本だからこそなのでしょう。 追伸 『教育の原点を考える』の電子化が完了する今年の9月30日まで、本ブログの投稿を精力的に続けていきたいと思います。それ以降は拙ブログの更新を停止(場合によっては閉鎖)、あるいは停止とまではいかなくても更新の頻度を大きく下げる予定(月に数回程度)です。よって、もう暫くの間は五月蠅いかもしれませんが、お付き合いのほど宜しくお願い致します。ともあれ、6月中旬からブログを体験することにより、ブログとはどういうものか分かりましたので、関与している掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】に何等かの形で反映出来ればと思っています。 http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/

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