『教育の原点を考える』 第III章

藤原肇 明治一四年(一八八一)の政変と呼ばれるクーデタで、大隅重信や福沢諭吉の門下生を政府から追放して、伊藤博文の絶対主義路線がはっきりします。その反動として、秩父事件や加波山事件のような反抗と弾圧が、明治の日本に激動の渦をまき起した。結局は、民権運動がしめ殺されていく中で国粋主義と絶対主義が支配的になり、民学を押しのけて官学の力が強まったことは、明治憲法と同時に教育勅語が発布になって、狂信的な水戸学的な思想がすべての教育機関に押しつけられた事実に象徴的に現われています。しかも、伊藤に協力して師範学校の軍隊教育化などを推進した文部大臣の森有礼でさえ、憲法発布の日に国粋主義者に暗殺されるほど、反動の嵐はすさまじくなっていく。 |
松崎弘文 しかし、日本のようにボス政治がまかり通っている国では、よほど準備して地方分権の努力をしない限り、各地方各市町村ごとに小さな文部省ができてしまい、いよいよ混乱することも考えられます。
早川聖 現にそれが口実になって、教育委員を任命制にする工作が文部省によって行われたのだし、一番いい例が自治体警察の運命です。戦後アメリカの制度を導入して自治体警察が生れたけれど、結局は国家警察に吸収されてしまった。日本人は体質的に中央集権的なものが肌に合っていて、お上に隷従するのが好きなんですな。 藤原肇 そこに教育問題の根幹があって、隷属思想が日本文化の特性であるならば、教育によって日本文化を乗りこえるような人間を育てなければいけない。 早川聖 そこまで言い切ってしまうから、藤原さんはラジカルで危険思想の持主だと烙印を押されてしまうんです。日本人がもっと民主的な考え方を身につければいい、といっておくだけで済むのですよ。現に、大正デモクラシーと呼ばれる時代は、中道的で人間的な印象を人びとに与えることに成功したが故に、あの絶対主義の時代にあっても、デモクラシーが一時的に花開くことができたんですから……。 |
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