一流教授の下で学べ
昨日取り上げた『反「暴君」の思想史』の将基面貴巳氏ですが、学生時代にカナダに留学した体験があり、その時に藤原肇氏の『日本脱藩のすすめ』を鞄に詰めて持っていき、ボロボロになるまで『日本脱藩のすすめ』を繰り返し読んだそうです。その藤原肇氏と将基面貴巳氏との対談が実は本になっています。この本は私も編集協力をした思い出の本なのですが、『賢者のネジ』(たまいら出版)という本です。同書の第三章「高等教育と世界を舞台に活躍する人材の育て方」という、教育関係者にとって注目すべき対談がまさにそれであり、関心のある方は同書を手に取ってみていただければ幸いです。なお、同書はアマゾン・ドットコムでは販売していませんので、クロネコヤマトのブックサービスを利用すると良いでしょう。
http://market.bookservice.co.jp/
第三章「高等教育と世界を舞台に活躍する人材の育て方」は、教育がテーマであるだけに本ブログで取り上げたいテーマが沢山あるのですが、今回の投稿の題名にもあるように「一流の教授の下で学べ」に焦点を絞って取り上げておきましょう。実は、第三章「高等教育と世界を舞台に活躍する人材の育て方」に、“「どこの大学」より「誰に学ぶか」が問題”という小見出しの個所があり、東大しか頭にない日本人にとって良い意味でのショック治療法になると考え、以下に一部を転載します。これにより、東大信仰から抜け出す日本人が1人でも増えてくれれば嬉しく思います。
藤原肇 先程のハーバードの教授によると、 ひとり木の下で本を読んでいるのは大体が日本人で、 「なぜ本学にいらしたのですか」 と聞くと 「アメリカでいちばんだがら」。 「あなたの専門分野でいちばんの先生の下にきたのではないですか」 と重ねて問うと沈黙する、 という調子だそうです。 私の留学当時、 構造地質学ではレニングラード大のベローゾフ教授がトップだったのでまずここを目指したのですが、 成績が悪くソ連政府給付の奨学金をもらえず断念した (笑)。 2番目がグルノーブル大のテバルマス教授だったので入学したわけです。 私は世界で、 1、 2の先生の下に行こうと考えたのであって、 大学に行こうという発想は露ほどもなかった。 「偏差値が高いから東大に行きたい、 ではなく、 自分の専門分野で誰が最高の力を持っているか評価する識見や限力を持たねばならない。 将基面貴巳 その識見を持つにはしかるべき勉強をしておかなければならない。 それがすべての前提条件になります。 東大に行くにしても、 どの先生につくために東大に行くのかを最初に問わなければならない。 私の場合を申し上げると、 日本では慶応大学に進みましたが、 高校時代、 慶応のパンフレットに教科ごとの担当教授が記されているのを見た私が、 「これはいいlと級友にいうと、 「そんなことどうでもいいじゃないか」 と一言で片付けられた。 そもそも、 誰に学ぶかという意識がないのが一般的なのです。 藤原 著書を読めば誰がどういう発言をし、 どういう思想を持っているかは分かるにもかかわらす、 まず学生自身が知ろうとしない。 また、 日本には予備校が存在し、 とにかく東大を目指せ、 慶応に行けというだけだ。 さらには、 大学も情報を外に出さない。 例えば医学部なら、 内科と外科で教授陣はいかに違い、 外科でもこの分野で業績を上げているのは誰である、 に至るまで情報を提供するべきです。 こうした意味で、 日本の教育界に情報公開がまったくない。 将基面 太学における研究のあり方においても、 欧米では情報公開が徹底している。 すべての研究誌が自由投稿制で、 あらゆる国、 あらゆる分野のあらゆる学者が自らの研究を自由に発表し、 各誌の編集部と外部のレフェリーが匿名で審査する。 しかも、 審査においては投稿者自身も匿名の形を取るため、 もっぱら質だけで評価されるわけです。 ところが日本では自分が所属する大学に提出する。 共通の土壌がない限り、 自由投稿制にしても誰も投稿しようとしない。 つまりは、 自分の所属外の誰かに評価されることを恐れる。 この事実を研究者はいいたくないし、 いう人間もいません。 |
日本では東大は〝最高峰〟の大学であっても、ハーバード大学の某教授が作成した世界の大学の格付表をもとにすれば、東大は世界でも200番単位に辛うじて入る大学に過ぎません。私は自分の子どもたちに対して、今のうちに様々な体験を積み、たくさんの本を読み、高校生あたりから自分の進みたい分野をある程度絞らせ、その分野で世界一という教授を捜し出そうと時折語ることがあります。無論、捜し出した教授が必ずしも日本の大学で教えているとは限らないし、また教授が日本人でない可能性も高いと思いますが、大学という箱物(ハードウェア)などに惑わされることなく、自分が目指す分野で世界一の教授の所へ行って欲しいと祈っています。
写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
ナワシロイチゴ
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コメント
西登日東沈さん、中野雄氏の『丸山真男 音楽の対話』を取り上げるあたり、流石ですね。それで1年前のアマゾン・ドットコムに『丸山真男 音楽の対話』の書評を投稿したのを思い出したので、今朝のブログにアップしておきました。一読いただければ幸いです。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/08/post_d47c.html
ところで、私は丸山真男氏と交流のあった藤原肇氏を囲み、年2回のペースで意見・情報交換の場を設けていますが、それは丸山真男氏を中野雄氏らが取り囲んでいる場を彷彿させます。私が関係する掲示板にも以下のようなことを書いたことがあります。ご参考まで。
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さらに悪いことは、今までに何度も大勢の人たちが藤原博士から貴重なお話を伺っていながら、その記録が形として残されていないということです。恐らく、藤原博士も内心非常にがっかりされているのではと愚考しております。その点、故丸山真男の場合は中野雄さんという弟子に恵まれたという点で幸せな人生だったと言えるのではないでしょうか。中野さんは『丸山真男 音楽の対話』(文春新書)という本を著しており、そのあたりの経緯についての心温まるエピソードが以下のURLに載っていますので、皆さんに一読をお勧めします。藤原博士にも「中野雄」が現れんことを切に祈りたいと思います。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/link.cgi?url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/book/nakano.htm
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http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/mb/board/0311sokai.htm
それにしても…、
>だた、最近多いのは、弟子が利用するだけ、利用して
>はいそれまでよ というケースも多く、全体のレベルが
>大きく低下し、アカデミズムが危機に瀕しているものと思われます。
世も末ですね。
投稿: サムライ | 2005年8月 5日 (金) 午前 04時37分
この件に関し、中野雄氏が、きわめて適格な指摘を
されています。
要旨は、もしその先生のすべてを吸収したければ、
その先生とひざ詰で話をし、その息までも感じ取ることが
必要だと。
中野氏の先生とは有名な丸山真男氏であり、
実際そのことは、文春新書から出ている
丸山真男 音楽の対話 に書かれています。
実際、学問とは師との真剣勝負であり、もし選んだ師が取るに足らなければ、其処から出ることが弟子には認められているはずです。
しかし、実際には、権力化した教師の圧力に屈することが多く
その場合、多くは海外に出ることになるケースが多いようです。
だた、最近多いのは、弟子が利用するだけ、利用して
はいそれまでよ というケースも多く、全体のレベルが
大きく低下し、アカデミズムが危機に瀕しているものと思われます。
投稿: 西登日東沈 | 2005年8月 4日 (木) 午後 04時09分
コメント有り難うございました。
>しかも、この患者達が世で言われるところの「先生」
>という立場であったならば、これはもはや悲劇を通り
>越して喜劇であると言っても過言ではありません。
関連して、第三章「高等教育と世界を舞台に活躍する人材の育て方」の「情けない〝(日本の)大学教授の英国留学事情〟(p.72)に目を通されると良いと思います。具体的な内容は実際に『賢者のネジ』を手にして頂いたときのお楽しみとして、ここでは同章の最後で語られている将基面氏の次の発言を引用しておきましょう。
--ある国際組織が象をテーマにエッセイを募集したところ、世界各地から集まった。イギリス人からは「象はいかにして役に立つか」。フランス人からは「象の恋愛関係について」。ドイツ人からは「象に関する研究方法論序説」。そして日本人からは、「世界各地で象について何が語られているかについて」であった--
しかし、続く藤原氏の発言はさらに強烈です。
--日本の教育はどん底状態だから、すべてご破算にして、まずは日本の大学教授の95%をクビにするところから始めよう。そうすれば、希望が持てるかもしれません(笑)--
投稿: サムライ | 2005年8月 3日 (水) 午前 04時53分
日本にも僅かながら世界レベルで一流と呼べる先生も存在しますが、
そのような優れた先生の下で学ぼうとしても、そこの場にあるのは、
優れた師の下で切磋琢磨する弟子達の姿ではなく、優れた先生に
よるご高説の拝聴をもって生徒達が互いに癒し合う、もっと平たく申し
上げると、優れた医師からカウンセリングを受けている単なる患者達の
集いであったという悲惨な例も多く見受けられるようです。
しかも、この患者達が世で言われるところの「先生」という立場であった
ならば、これはもはや悲劇を通り越して喜劇であると言っても過言では
ありません。
世界という、より広い場で活躍するためには、その実体としての場に
ついても、やはり”世界”という舞台へ可能な限り早いうちから飛び出す
ことが、世界で一流と呼ばれる先生の下で学ぶことと併せて大切なこと
と思いました。
投稿: 行当場当 | 2005年8月 2日 (火) 午後 11時21分