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2005年7月14日 (木)

『明治14年の政変』

b050714 「近代日本と大隈重信」という観点から、明治の元勲・大隈重信の足跡を振り返ってみた場合、明治14年の政変を取り上げないわけにはいかないでしょう。何故なら、明治14年の政変は大隈が深く関与していたからという理由だけではなく、その後の日本の運命を大きく左右した事件だったからです。そこで本日は、1年前にIBDのウェブ誌に載せた書評を一部公開します。書評の対象となった本は、元駐日韓国公使で大阪市立大学客員教授だった姜範錫氏が著した、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』(朝日選書)という本です。

大隈重信

明治14年の政変とは一体どのような政変だったのか、中学・高校時代の日本史で学んだはずであるが、おさらいの意味でCD版の百科事典『マイペディア』に当たっておこう。


明治14年の政変:1881年(明治14年)参議大隈重信とその一派が政府から追放された事件。1880年民権派の国会開設請願運動は頂点に達し,政府は憲法制定と国会開設を決意したが,開設時期に関して大隈は即時開設,伊藤博文,井上毅(こわし)は漸進的意見で対立した。1881年3月大隈は伊藤にはからず急進的な意見を左大臣有栖川(ありすがわ)宮を経て上奏。これを6月末伊藤が知り大隈との対立が激化した。このころ開拓使官有物払下事件が起こり,民権派の政府攻撃が高まった。反大隈派はこれを大隈が福沢諭吉らと結んで行った反政府陰謀であるとして,10月大隈とその一派を罷免した。同時に1890年を期して国会を開設し,その前に憲法制定を行うという詔書を公にして,プロイセン的な欽定憲法の制定にのりだすとともに,開拓使官有物払下を中止,伊藤・井上馨(かおる)を中心とする薩長藩閥政権を確立,明治国家体制形成のその後の方向を決定した。
『マイペディア』

 ここで最初に告白しておかなければならないことは、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』に接する前の筆者は、上記の『マイペディア』にも記述されているように、明治14年の政変の直接のきっかけは「北海道官有物払下事件(開拓使官有物払下事件)」であるとばかり思っていたという点である。すなわち、北海道官有物払下事件に乗じて一気に天下をとってしまおうとする大隈一派の陰謀説として捉えていたのである。筆者がそう考えていたのは、造船疑獄やリクルート事件などで代表されるように、日本では官有物の払い下げに必ず汚職が付き纏ってきたという暗い歴史が筆者の頭にあったからであり、かつ疑獄のルーツが北海道官有物払下事件に求められるだけに、明治14年の政変の大きなきっかけとして北海道官有物払下事件という疑獄を筆者は結びつけて考えていたのである。しかし、明治14年の政変は北海道官有物払下事件が起因であるとする筆者のそれまでの固定観念を、同書は物の見事なまでに打ち砕いてくれたのであり、同書を読み進めながら、「ある事象に関する情報を収集し、分析し、評価して、行動に移す」というインテリジェンスとはこういうことを指すのかと改めて思い知らされると同時に、論理という名の大理石を丁寧に積み重ねたような姜範錫氏の著作『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』に目を通した後、未だに己れのインテリジェンスの至らなさにため息をついた筆者でもあった。それにしても、これだけの良書でありながら絶版となっているのは実に惜しいという気がする。インターネットで調べたところによれば、姜範錫氏は他にも『征韓論政変 明治六年の権力闘争』(サイマル出版会)という本も出しており、残念ながらこの本も絶版扱いとなっているようだ。

 さて、肝心な姜範錫氏本人の明治14年説であるが、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』の冒頭で述べている以下のくだりを示せば、あとは同書の本文がどのような展開を示しているかは、ある程度明治時代についての知識を持ち、勘の鋭い読者であれば多少は推測できるのではあるまいか。


 明治14年の政変は明治6年の政変で確立された薩長藩閥主導の体制に対して、この体制の一角になお座を占めていた肥前出身の参議大隈重信を頂点とする政治的集団がなにかを挑み、挫折した政治的事件として捉えてはじめて、歴史のながれに沿った位置づけが可能になるのではないだろうか。明治政権の確定過程の観点からみれば6年政変の〝正〟、14年政変の〝反〟、そして〝合〟としての明治22年の憲法制定である。
『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』

 詳細は同書に譲るとして、同書の白眉は「6年政変の〝正〟、14年政変の〝反〟、そして〝合〟としての明治22年の憲法制定」として捉えているところにあり、ヘーゲルによって定式化された弁証法論理である正反合に準えて、明治14年の政変を「反」として捉えているあたりの姜範錫氏は流石と思わず唸った次第である。「正」である明治6年の政変は、同じ姜範錫氏が著した『征韓論政変 明治六年の権力闘争』を参照してもらうとして、「反」である明治14年に対する姜範錫氏自身の説を如実に示しているくだりを、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』から以下に引用しておこう。

 以上、明治14年年初における大隈、伊藤、井上の同志的結合関係が、国会開設要請の全国的運動の大きなうねりの中で政治的友敵関係へと変貌し、10月における大隈とその政府内党与の全面的退陣に帰結していった過程を通じ、明治14年政変の実相の解明を試みてみた。その結果、「政変」をもたらしたことの始まりは、大隈一党が薩長体制とは一線を画する独自路線を決意し、薩長藩閥政権へ取ってかわる姿勢と行動を実際にとったためであったことが明らかにされたと思う。薩長政権を実際に脅やかすことがなかったならば、「政変」に際しての常軌を逸した薩長の一連の行動を有効に説明することはむずかしい。
 参議大隈が薩長体制における〝伴食的〟立場からの離脱を決意するにあたっては、薩長「一、二種族の専有」打破に執念を燃やしつづけた小野梓の一連の献策が少なからず作用したであろうこともほぼ明らかにされたと思われる。
 薩長体制側にとっては〝獅子身中の虫〟ともいうべき大隈らの動向は、イギリス型政党内閣制を導入することによって薩長藩閥体制を立憲的、制度的に克服することを試みたものであったため、薩長側もこれを表立って斥けることができなかった。そこで、開拓使官有物払下事件にことよせての陰謀的手法(いわゆる大隈陰謀説)をも動員して大隈一党を一せい放逐するに至ったのである。
『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』

 ここで、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』を通じて得た筆者なりの明治14年の政変観を述べるとすれば、次のようなことがいえよう。すなわち、明治14年の政変は、単に大隈重信とその一派が政界から追放されたという性質の事件だけではなしに、政治形態としてイギリスをモデルにした「君民共治」という立憲君主制を構想していた大久保利通の遺志を継ぐ大隈重信およびその一派の追放を意味していたのであり、ここに大久保が構想していた「君民共治」、即ちイギリス型政党政治が日本に根付く機会を奪い去った一大痛恨事が明治14年の政変であったといえよう。そして、その後の歴史が物語っているように、明治14年の政変を境に日本はプロシア精神に基づく絶対主義と、その絶対主義を支える軍隊、官僚制、皇国教育等が盛んになっていくのであり、その御破算が1945年8月15日だったということになる。歴史に「もし」は禁物であろうが、もし大久保・大隈のイギリス路線が明治の日本に敷かれていたら、今日見る日本はまったく違った国になっていたのではあるまいか。

 ところで、もう一点、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』を読みすすめていく中で目から鱗が落ちる思いをしたのは、例の大隈奏書(明治14年3月に大隈重信が左大臣有栖川宮に提出した憲法に関する意見書)の起草者についてであり、筆者は通説通りに福沢諭吉の弟子であった矢野文雄の手による起草とばかり思っていたが、実は小野梓の思想が色濃く刻まれた奏書であることを『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』によって知り、ここにも世の中の通説を鵜呑みにすることの危険性を痛切に思い知らされたのである。ここで、何故今日に至っても大隈奏書は矢野文雄の起草であるという通説が罷り通っているのかと云えば、71歳だった矢野自身が『大隈侯昔日譚』に以下のような文章を遺しているからだ。


 さる著書に、当時大隈さんから岩倉さんに差し出したと云う、立憲制度樹立の意見書なるものがのっていた。それを読んで見ると、たぶん福沢先生が書いたものであろうとしてあるが、これは福沢先生の文章ではない。わが輩が書いたもののようである。
『大隈侯昔日譚』

 「わが輩が書いたもののよう」など、いかにも耄碌した老人の書き方である。その証拠に、有栖川宮とすべきところを岩倉と書き間違えている点などが挙げられよう。ともあれ、通説になっている「大隈奏書の起草者=矢野文雄」という図式は間違った説であり、正しくは「大隈奏書の起草者=小野梓」という説であることを理解して初めて、明治14年の政変の全容が掴めるのである。

蛇足ながら、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』を読みすすめながら何故か小野梓に惹かれる筆者であったが、同書の中に「18歳から22歳にかけての最も知的吸収度高い時期に英米を中心に世界のかなりの地域を見聞した経験は、生涯小野の知的活力の淵源になったに違いない。しかし言語上の制約、それにも増してほとんど実費で生活を支えなければならぬ苦労が重なったため、小野にとっては刻苦勉励の留学であったと考えられる」というくだりを読み、小野に親近感を抱いた訳が分かったのである。それは、筆者も小野と同じ歳の頃に、3年間の世界放浪の旅を体験してきた人間だったからだ。

 ところで、大隈重信の〝ライバル〟であった伊藤博文であるが、中江兆民が大隈と伊藤を並べて評しているので以下に引用しておこう。


  両者の間に逕庭なし、強て其相違を求めば、薄紙一枚の差あるのみ。伊藤は才子利口者としての頂点に達せり。世の才子利口者を学ばんとする物到底伊藤の上に出づべからず。大隈は其に反して英雄豪傑の天地にをる。しかれども其風格の低き、俗臭の大城、到底英雄豪傑の最下層を出でざる也。即ち一は才子小人の絶頂、一は英雄豪傑の下底、この間の差、薄紙一枚のみ。
『一年有半』(中江兆民著 岩波文庫)

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