『横井小楠』
次に、士農工商の「士」は武士を意味していないということについて一言述べるとしよう。尤も上記の引用を注意深く読めば、朱子学で云う士農工商の「士」は日本で云う武士のことではないことを朧気ながらも察することができると思うのだが、念のため「士」について説明した個所を以下に引用しておく。 |
儒教でいう四民すなわち士農工商の「士」は、「さむらい」ではない。読書人であり読書人中から選ばれて官僚となったものを指す。政治の学である儒教のテキストをよく勉強してすぐれた政治ができると評価される人材、それが士である。中華帝国においては、そういう人材を官僚に抜擢する方法として科挙が設けられ、中国における近世すなわち宋以降(宋以後近世説は内藤湖南…宮崎市定に従う)では、どのような出身であろうと科挙に通るだけの学力があればただちにトップレベルの官僚に就任できるたてまえになっていた。そういう道を選ぶことも、選ばないことも自由であり、むろん途中でやめてもよかった。 だから、日本の近世徳川時代の武士を、士農工商の士に当てて、あたかも儒教では日本の近世武士のごときものを「士」と呼んでいるかによそおったのは、実に無理無体なのである。日本の近世武士は、身分統制令によって強制的に固定された支配階級であり、しかもその中での主従原理は強烈で、将軍や藩主は家臣に対して生殺与奪の全権を持つ。そうして、そういう身分関係の全体が世襲されている。似ているところなど、ちっともありはしないのである。 『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.328~329 |
以上のように、儒教本来の姿とは似ても似つかないのが徳川幕府および諸藩の儒教、なかんずく正学としての朱子学であったことが明確にお分かりいただけたと思う。ご参考までに上記の引用は『横井小楠 儒学的正義とは何か』の「増補2 アジア型近代の模索」からであり、筆者はこの増補2を『横井小楠 儒学的正義とは何か』の白眉とすら思うのだが、それは兎も角、「実学」・「士」同様に徳川幕府および諸藩によって歪曲されてしまった「忠」と「孝」等についても増補2で解説を加えており、「実学」・「士」・「忠」・「孝」といった儒教が持つ本来の理念を徳川幕府および諸藩によってかなり歪曲された事実を知らない人が圧倒的に多いと思われる今日、横井小楠を真に理解するためにも是非目を通して欲しい増補である。ともあれ、ここで改めて強調しておくべきことは、小楠のように儒学的正義を貫こうとする行為の意味するものは、日本流に歪曲・矮小化された儒教とは真っ向から対立すること、換言すれば幕府諸藩と対立することに他ならないということであり、これは容易に想像できるように当時であれば非常に勇気の要ることであった。 ここで、本稿冒頭で筆者が「〝徳川政府〟から明治政府へという転換期」と表現したことを思い出していただきたい。実は、松浦氏が云う「世襲武士支配体制」は明治になっても根本的に改められておらず、寧ろ徳川政府の編み出した鵺的正学をそのまま引き継いだのが明治政府なのであり、それが今日に至っても日本および日本政府に影を落としているといえよう。そうしたニュアンスを込めて本稿冒頭の「〝徳川政府〟から明治政府へという転換期」という表現になったのであり、明治政府さらには今の日本政府も〝徳川政府〟と精神的に何ら変わるところがないということを暗示したつもりである。だからこそ、幕末維新期を「中世から近世へ」と表現するのに躊躇し、代わりに「〝徳川政府〟から明治政府へ」としたのである。さらに、産業革命に続く情報革命が世界を覆いつつある今日であるというのに、もしかしたら人間性としては徳川時代よりも現代の日本人の方が劣っているのではという気がしてならず、幕末維新期には居たフルベッキ、佐久間象山、横井小楠、福沢諭吉、西郷隆盛らに相当するだけの人材が周囲を見渡しても見あたらないということからして一層の現実味を帯びてくるのである。 |
時折、以下のようなことを考えることがある。「もし、横井小楠が暗殺されず、病も回復して新政府で存分に腕を振るったとしたら……」。歴史に「もし」は禁物であろうが、もし小楠が暗殺されず、かつ病気から回復し、新政府に長く尽力していたら、と思うと残念でならない。何故なら、松浦玲氏の言葉を借りれば、「日本は明治維新で西方覇道に切替え、そのことにより植民地化をまぬがれたけれども、西方覇道の手先になってしまった」という誤った道に日本が進むのを防止してくれたであろう人物こそが、横井小楠のはずだったからである。 |
小楠は最後まで儒学者であり、その儒学的理想を日本に実現し、世界に拡げようと念願し続ける政治家であった。小楠をここまで追跡してきた私には、彼の理想が、実現不可能だとはとても思えない。多年講学し続け、その上、越前藩や幕府での実践を得た、ずっしりと手ごたえのある思想だと感じられる。むろん小楠自身もそう自負していた。明治元年の廟堂では、おそらく彼一人が、自分を中心として世界に仁義の大道を敷くというほどの大構想を持ち、それを本気で実現するつもりだったのである。 暗殺は、その大構想を、まだ実現の緒にもつかないうちに絶ち切ってしまった。小楠を失った明治政府からは、自分のところでまず正義を確立し、それを世界に及ぼすという理想の存在は、まったく感じとれない。世界の大勢にいかにうまく乗っていくかということばかりが前面に出ており、国内体制も、その目的に沿ってつくりかえられていく、明治元年に横井小楠という参与がいたのは、夢かまぼろしかという感じが強い。 『横井小楠 儒学的正義とは何か』p.279 |
人材が枯渇している今日、〝平成の横井小楠〟の出現は望むべくもないのだろうか……。 |
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