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2005年7月 1日 (金)

『教育の原点を考える』 第II章

b050615先ほど、『教育の原点を考える』の第II章「学校の源流をめぐって」をアップしましたのでお知らせ致しします。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm

以下は、第II章の中で特に印象に残った下りです。

早川聖 それでいいのです。教師は人間を育てるという仕事柄からして、社会的な尊敬を与えられるのだし、常に批判精神を持つ独立した人格として人びとの鑑になるのも、豊かすぎることによって、人間として堕落しないということの反対給付に他ならない。人間は豊かすぎるとほとんどの場合が精神的に堕落するし、教師が精神的に堕落したらこの世は終りです。しかし、そうだからといって貧しさの中に追いこんでもいけません。

理想の教師像を、余すところなく説明した早川聖氏の言葉と謂えます。特に、「教師が精神的に堕落したらこの世は終わりです」という言葉には、重みがあるのではないでしょうか。教師としての矜持を保つため、人を育てるという大きな仕事を背負う教師は、お金に恵まれ過ぎると良くないという早川翁の戒めです。これは、何も教師に限らず、一般人にも言えることです。お金を持ち過ぎることの弊害を、もしかしたら子どもたちも何となく知っているようであり、一時は私の子どもたちの通う学校で、「良い人はドラえもん、悪い人はホリエモン」という言葉が流行っていました。私がライブドアの堀江貴文氏を批判したわけではなく、他の父兄が批判し、それを耳にした子どもたちが「良いのはドラエモン、悪いのはホリエモン」というのを流行らせたのだと勝手に想像してますが、子どもたちの言っていることはまともであり、なかなかやるわいと思った次第です。ただ、清貧は良いが、赤貧はいけないですね。いくらお金に困っているかとはいえ、お世話になった会社に乗り込んで、そこの社長を脅したり、友人・知人をぺてんにかけて金を巻き上げたりするというのは、人間して最低であって詐欺師以外の何者でもありません。逆に、清貧であり続ければ、人間としての精神的な美しさを保ち続けられるのです。

早川聖 要するに、学ぶのはそれぞれの個人だが、教えるのが誰かということです。もちろん直接教えるのは情熱を持った教師に違いないが、制度としての教育が教師の情熱と意欲をベースにするのか、それともその背後に国家権力や教会、あるいは専制君主や独裁者といった、特殊な目的意識を持った存在がひかえているのかどうかの問題です。私自身の立場は、教育は教師に始まって教師に終ると考えるので、本来あるべき教育というのは、学習も学問も勉強も含んだ幅広いもののはずだとおもいます。
藤原肇 ぼくは学問ということばが好きだし、教育ということばより高度で幅が広く、しかも主体性をより多く含んでいるので、教育より学問を上位のものだと確信しています。またルイ・アラゴンの詩の一節に、「教えるとはともに希望を語ること、学ぶとは、誠実を胸に刻むこと・・・・」という素晴らしい表現があるけど、これは早川さんが考えるところの、教師に始まって教師に終るという師弟関係のパターンの中でしか生きません。その意味で、学問をするための教育の場というのは、すべての権力的なものから独立していることが望ましい、といえる。

早川聖氏の言うように、学習・勉強・学問などを含んだ幅広いものが教育と言えるのか、あるいは藤原肇氏の言うように、学問は教育の上位概念なのかどうかは兎も角、そのあたりの判断の拠としてクローズアップされてくるのが、セマンティックス(意味論)だと思います。セマンティックスは、一般に日本では馴染みのない概念ですので、いずれ機会を改めて取り上げることにしましょう。いずれにせよ、今の日本で真にセマンティックスを操れるのは、小室直樹、正慶孝、藤原肇の三氏しかいないと云われています。尤も、こう書くと「俺だって意味論については知っている」と言う人たちが必ず出てきますが、そう思う人たちに対しては、「意味論音痴が日本を亡ぼす」を熟読してもらい、その上で再度意見を述べるようお願いしています。意見の内容によっては、「意味論音痴が日本を亡ぼす」の対談者も目を通すであろう、掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】での投稿をお願いするかもしれません。

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