« 『神戸事件を読む』 | トップページ | 世界武者修行 »

2005年6月18日 (土)

古典の素読

m001 拙宅には、子どもたち宛てにDMがよく届きます。DMの中身は様々ですが、最近になって一番多いのが学習塾からのDMです。主要科目の国語と算数以外に、英語も教えるという塾のDMもありました(小学生の英語教育については、別の機会に改めて取り上げます)。私の2人の息子の場合、本人たちが自ら塾に通うことを希望してきたので、友人が経営する学習塾に週2回通わせています(国語・算数)。しかし、本音を言えば、古典の素読をやらせてくれる、昔風の寺子屋を探していました。論語の素読を実施しているという、某幼稚園の記事を新聞か何かで読んだ記憶がありますが、今日に至るまで、古典の素読を行っている塾を発見ことはでませんでした。そこで、やむを得ず、私は2年前の一時期、2人の子どもに自ら論語の素読をやらせたことがあり、その当時の体験をまとめ、某ウェブ機関誌に寄稿したことがあります。素読の効用について見直していただく意味で、少々長くなるとは思いますが、以下に再掲しておきます。

漢文・漢詩のすすめ
 筆者には腕白盛りの小学校四年生と二年生の息子がいる。毎朝、朝食の前に下の子が二階にある筆者の仕事部屋に上がってきて、筆者がパソコンで特別に作成しておいた『論語』をおもむろに広げると、その日の素読が始まる。「論語第一巻 学而篇 子曰わく、学んで時に習う、亦説ばしからずや…」と最初に筆者が声を出して読み上げると、続けて息子が同じ箇所を大きな声を出して読み上げるのである。それを幾度か繰り返した後、今度は一人で2~3回繰り返して読ませ、支えずに読めるようになったら次に進むというやり方である。時間にして、15分ほどでその日の素読が終わる。夜になると、今度は上の子が二階に上がってきて同じように素読を行うのである。

 何故、筆者は二人の息子に素読をやらせているのか。それは、明治維新の志士たちの素養の基が四書五経だったからである。同時に、中国古典の素読を通じて人間として大切な志を持つようになって欲しいという願いもある。それが素読を子供たちにやらせている理由である。

 さて、今回のテーマの漢文・漢詩であるが、最初に漢詩を取り上げてみたい。漢詩について語る時、筆者の脳裏にいつも浮かぶのが『毛詩大序』である。その『毛詩大序』に以下のようなくだりがある。

  詩は志によって育まれたものである。心に秘めた時は
  志であり、言葉をもって表現すれば詩となる。
                     『毛詩大序』

 ここで言う「志」とは何か。著者は奈良本辰也の著した『志とは何か』の影響もあって、二人の子供に「●志」、「◆志」と名付けたほど「志」に強い関心を抱く者である。ここでは筆者の下手な「志」の説明より、在日の詩人・荘魯迅氏が語る「志」の方が分かりやすいと思われるので以下に転載させていただく。

  「志」とは心にめざす生き方であると同時に、異なる
  境遇におかれたとき人間の心に満ちあふれる哀歓をも
  指す。突きつめて言えば、詩は志の現れで魂の歌なの
  だ。詩人は鋭い感受性をもって社会生活に心身をゆだ
  ね、深い洞察力をもって人生の真意を観照したからこ
  そ心をゆさぶる多くの名吟を生み出した。それらの名
  吟に託された詩心に迫るためには、作品の行間に見え
  隠れする詩人の魂を凝視し、その喜びや悲しみの叫び
  に耳を傾け、そして感情がほどばしる心の脈動をとら
  えなくてはならない。
       『漢詩珠玉の五十首』まえがき(荘魯迅著)

 著者の荘魯迅氏は、他にも『物語・唐の反骨三詩人』(集英社親書)という本を著している。この本は反骨精神の塊のような陳子昴・孟浩然・李白を取り上げたものであり、なかなか読み応えのある本と言えよう。ただ惜しむらくは巻末の主要参考文献の一冊に岩波書店の『唐詩選』(前野直彬著)を取り上げているのが玉に瑕である。何故なら、この本には考えられないような誤訳が至る所で見出せるからだ。紙幅の関係で具体例は取り上げないが、関心のある読者は張明澄氏の著した『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち!』(久保書店)および『間違いだらけの漢文 中国を正しく理解するために』(久保書店)を参照されたい。ところで、荘魯迅氏は「反骨精神」という言葉を用いているが、筆者であれば「反骨精神」の代わりに「野ごころ」を用いたいところだ。「反骨精神」も「野ごころ」も根底では相通じるものがあり、「反骨精神」に満ちた人生、「野ごころ」ある人生といった言い方ができよう。そうした人生を送る上でのベースとなるものこそ、「志」に他ならない。

 誤訳・愚訳と言えば、小室直樹博士の著した『資本主義中国の挑戦』(光文社)を思い出さずにはいられない。小室博士の述べる誤訳・愚訳について、少し長くなるが以下に引用しよう。
  
   日本では聖人といえば、知恵が広大で行ないが正し
  い人、心の優しい人になる。君子は徳のある人、小人
  は凡人という意味だ。
 
   しかし、中国では聖人というのは為政者(政治権力
  者)のことであり、君子は統治階級に属する人、小人
  は一般庶民という意味になる。

   儒学者の説を聞いて最初に驚くのは、孔子が魯の国
  の大臣になって真っ先にやったのが大粛清だった、と
  いうくだりである。無能な政治家をすべて殺したし、
  諸候の会合で無礼な行ないをしたこびとや役人をも殺
  した。日本人の感覚からすれば、聖人が人を殺すとは
  なんと無慈悲で、そんな聖人なんかあるものかと思う
  だろう。政治上の問題で人を殺すのはスターリンだけ
  ではないのか、と思う人もいるのではないだろうか。

   論語の“誤読”で一つの例は「君子は義に喩り、小
  人は利に喩る」という言葉だ。これを正しく解釈する
  と「統治階級の人は義に喩り、庶民は利に喩る」とい
  う事実を述べているにすぎない。

   ところが日本人は「義に喩るのが君子で、利に喩る
  のは小人である。」と逆に読んでしまう。さらに、「
  君子は義に喩るべきであり、小人は利に喩るべきであ
  る」などとも読みたがる。いっそう徹底すると「あな
  たは義に喩って君子になりなさい。利に喩って小人に
  なってはいけません」という教訓にしてしまう。

   儒教の組織論はすっかり抜けてしまって、儒教が人
  間当為の教えであるという側面だけが、やたらと強調
  される。

   これほどの大きな“誤読”をする原因は、どこにあ
  るのか。それは、中国と日本とでは社会構造がちがい、
  しかも儒教は、中国の社会構造に深く根ざした宗教で
  あるからである。
   『資本主義中国の挑戦』p.200(小室直樹著 光文社)

 息子たちが高校生・大学生になったら、中国と日本の社会構造の違いを説いている小室直樹博士などの著書を勧め、そうした書籍から社会科学の観点に立ったモノの見方・考え方を身につけて欲しいと思う。それにより、息子たちが自分の頭で考え、自分なりの結論を出す人間になっていくことを期待したい。そして、そのような人間になるための下地造りが素読なのである。

 四千年に及ぶ中国の歴史の中から数多くの古典が誕生した。その中から一つだけを選べと言われたら、読者は何を選ぶだろうか。筆者であれば躊躇なく老子の『道徳経』を選ぶ。何故なら、人類の誇る至高の古典こそが『道徳経』に他ならないとからである。『道徳経』の素晴らしさについては、島崎藤村や森鴎外など日本を代表する文豪が以下のように書き遺している点に注目されたい。
  
   トルストイがその晩年に、老子の教を探し求めてゐ
  たといふことは床しい。思想とは完成するにつれて殻
  を脱ぐやうなものではあるまいか。あらゆるものを見
  尽くし、あらゆる試練に耐へ、その志を弱くし、その
  骨を強くするところまで行って、万苦を経て後に思想
  無きに到ったやうな人が老子ではあるまいか。  
                     『桃の雫』 (島崎藤村)

   聖人の道と事ごとしく云へども、六経を読破したる
  上にては、『論語』『老子』の二書にて事たるなり。
  其の中にも、『過ぎたるはなほ及ばざるがごとし』を
  身行の要として、無為不言を心術の掟となす。この二
  書をさへよく守ればすむ事なり。  
                『澁江抽齋』(森鴎外) 

 『道徳経』は文字数にして僅か五千文字の小世界だが、この小世界の何と深遠なことか。どの本が最も一流かという投票を世界一流の学者たちが行えば、多分『聖書』と『道徳経』が一位および二位を占めるのではないだろうか。『聖書』が宗教書として一位を占めることは容易に想像できるが、何故次に『道徳経』が来るのか? それは『道徳経』の言葉の一つ一つに含蓄が籠もっているからである。『道徳経』に関する解説書・研究書が山をなしていることから分かるように、多様な読み方が出来るのが『道徳経』であり、それだけ『道徳経』の深奥に迫ることが困難であるとも言える。

 それにしても、実にさまざまな『道徳経』の読み方があるものである。道教の聖典として読む識者がいるかと思うと、孫子やマキャベリなどを遙かに凌ぐ世界一の戦略書こそ『道徳経』に他ならないと語る識者もいる。現代科学の最先端をいく量子力学の発見が既に数千年前の『道徳経』の中に書かれていると主張する識者がいるかと思えば、仙人と錬金術を結びつけて『道徳経』を語る識者がいるという塩梅である。これからも、道草を食いながら五千文字の世界を彷徨うことにしよう。
 

出典:世界の海援隊 http://www.ibd-net.co.jp/official/kaientai/

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
写真は、私の住む街の中心から車で50分も山奥に入った所にあるダム湖です。

|

« 『神戸事件を読む』 | トップページ | 世界武者修行 »

コメント

一畳庵主人さん、コメントをありがとうございました。恐らく、漱石の『草枕』の冒頭について、一畳庵主人さんのコメントを読んだ訪問者は、色々と考えさせられたことでしょう。以下は、台湾人の張錦春さんの漱石論を『宇宙巡礼』(東明社)から引用したものです。これを叩き台に、訪問者の皆さんの漱石論を聞かせていただければ幸いです。サムライ拝


夏目漱石の言葉の重み

張錦春:戦争のストレスは若い人間に大きな影響を残し、いかに生きるかを真剣に考える機会を与えてくれ、その後の人生の在り方について模索しました。その時に一番大きなインパクトになったのが、若い時から愛読していた夏目漱石先生の著作であり、最も深刻なインプレッションは博士号拒絶という非日本人的な事件でして、私はそれを人生の理想にすることに決定し、地図の上に名称もない寒村で教員をやりました。若い人材を育てながら好きな数学と英語を教え、同時に高等学術に精通しようと考えたのだが、学者の中でも生徒の気持ちを維持して高等学術に没頭するなら、世にも希な学識豊かな人間になれる点については、ドイツの元帥で『戦争論』を書いた人の例があります。その事実があったことを自ら体得しようと考えたが、こういう人生は名利から遠く離れる必要があり、それは仙人になりたいという気持ちと同じタイプのものです。

藤原肇:そんなに若い頃から仙人になろうと考えたのは、張さんの気持ちの中に神仙世界に対しての憧憬があり、俗世間を振り捨てる覚悟があったからでしょうね。

張:最初はそれ程のことがあったわけではなくて、夏目漱石先生の『草枕』を読んだ時に、「とかく人の世は住みにくい。住みにくいと悟った後に詩や哲学が生まれる」というようなことが書いてあり、これを主人公の画工が山路を登りながら考えたので、私はこの言葉を繰り返して味わって検討しました。

藤原:『草枕』の冒頭にある文章として良く知られている、あの「智に働けば角が立つ。情に樟させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という言葉に続くものですね。最初の部分は日本では誰でも暗唱しているほどだが、張さんが注目した「住みにくいと悟った後で、詩や哲学が生まれる」は含まれていない。だから、張さんに言われて改めて考えてみたんだが、実のところ私が覚えているのも他の人と同じでして、知情意の三組を並べた口当たりのいい部分だけであり、哲学をするという所が脱落しているようだから、漱石を十分に読み込んでいない事実に気づかされましたよ。

張:そして、夏目先生が山路を登りながら考えたのなら、私は山の中に住みついてじっくり考えようと決心して、人里離れた山の中の学校を選んで奉職すると、山村で三十年間ほど哲学をしてみました。現在の私に多少とも学問の気配があるとしたら、それは夏目先生が下さったヒントのお蔭であり、先生に厚く感謝したい気持ちを感じています。

藤原:それで今から何年くらい前に山を降り、教員生活の仕事から引退したのですか。

張:ある時こんなに時間が経ったと気づいてびっくりし、思索の道に専念するために早めに退官してから、既に十数年くらいの歳月が過ぎています。晩年のアインシュタイン博士が試みた幽霊層の場(gohst-field)の理論に長い時間をかけて付き合い、動態幾何学の素晴らしさに感動していたのだが、人間は最後に神仙の道に結びつくものです。そして、この道を歩けたのは天地と祖先の加護の賜物だから、子孫として朝夕は祖先にお線香を差し上げるのを、自分の職務だと最近は考えて生きています。

藤原:そういう動機で張さんの一生が教職生活になり、人里離れた場所に住むことを決心させたとしたら、漱石の思想とか文学の威力というのは、実に凄い影響を及ぼすと言えますね。『脱藩型ニッポン人の時代」の中で近代文学を論じた時に、日本で文学と呼ぶに値するのは夏目漱石と森鴎外の二人だけだと私は書いているが、彼らは理と情の組合せとしての人間の問題を描き、鋭い歴史感覚を作品に反映する能力を持っていました。

張:私も全くその考えに賛成します。夏目先生は漢詩や英語の詩を書いていて、人間の精神についての共感が豊かだし、文学を数量的に分析した文学論も試みており、単に小説を書いたという以上のことをしている。しかも、英文学に精通してレトリックの本質を理解して、人間の心理を深く掘り下げているから、作品のテーマが普遍性を持っています。そこで試みとして、アインシュタイン博士風に表現してみますと、「世界文化の一体化(Onenessization)を認めるように、われわれの宇宙巡礼(Cosmic pilgrimage)は相互連絡性(Interconnectioness)を私たちに強要する」ということになるのです。


藤原:漱石と鴎外は漢文の素養を持っていたから、普遍性を持つ文明の次元での問題把握が出来たし、文明のサブシステムの日本文化に加えて、英語やドイツ語を通じた多次元文化をマスターしていた。だから、『草枕』のような漱石としては初期の作品でも、文章の中に深い思想を言葉として結晶させ、強い影響力を持つ作品にまとめ得たのです。

張:初期の作品だから全エネルギーが籠もっていたのです。二十代の初期の私が夏目先生の思想にヒントを得て、それ以降の四十年近くの人生の路線を決定し、住みにくいと悟った後の哲学の道に入ったのだから、影響力が絶大だったのは疑いの余地がありません。

藤原:漱石が中国人のあなたに対して人生の指針を与え、非常に大きな影響を及ぼしたということは、日本人として私はとても誇りに思うな…。それと同時に、私もそういった多くの日本人の一人であるが、あなたの国が生んだ老子や孔子を始めとした、シナ文明が誇る思索する沢山の偉人や、歴史の中に興味深い足跡を残した人間像によって、多彩で豊かな人生観を築けたという点で、中国の偉大な人びとに対して感謝の気持ちを表したい。お互いに中国人と日本人という国籍の違いはあっても、こうやって相手の持っている良質なものから、最も本質的なものを汲み取って自分のものにすれば、それが本当の意味での相互理解になるのだし、今後こういったことがいよいよ重要になるはずです。

張:オリンピックの趣旨は世界の理解と協調だが、スポーツだけでなく文学や経済活動でも、同じようなことが成り立つのです。明治の時代に夏目先生が果たしたのと同じで、二十一世紀の新時代にふさわしい日本の作家が生まれて、世界のために貢献して欲しいと思います。また、夏目先生は神経衰弱に感謝する境地にまで達しており、それを善用したことの重要性について、これまでの日本の学者は何ら想起していない。その点は実に惜しい心理学上の盲点であり、精神分析という新しい科学の将来を考えるなら、ルソーは直観の鍵でそれをこじ開けているのだし、ルソーと漱石の二人が共有していた暗闇の中に、上の最重要な部分が埋もれているのです。

藤原:その通りでして、漱石文学において最も興味深いのは、彼が神経症を病んでいたことが関係しており、フロイドが確立した精神分析とほぼ同じ時期に、漱石が既に深層心理を作品のテーマに使い、一連の心理小説を書いていたという事実がある。『夢十夜』なんかは精霊とか幻想を描いており、漱石の心像風景が愛と死の絡み合いで現れ、彼の意識の深層が夢の形で描かれているんですね。

投稿: サムライ | 2005年6月21日 (火) 午後 05時59分

古典を読むことの重要性は、もっと主張されていいことと
考えていますが、結局時の流れに押し流され
無視されているのが残念です。
かって、書籍は重要なものとして取扱われ、紙の消費量が
文化の地位を決定するといわれたのはここ30年程前の話だったと思います。
そうなれば、本として残されるものには限りがある一方で
必要なものは口で伝え続けるということもあったのではないでしょう。
私は、子供に本を読むことは強制しません。しかし、それとなく
学校の図書館には足を向け、自分の気に入った物を探しなさいと
言っています。学校の図書館は長い歴史の中で蓄積された
あったこともない多くの人たちの手を経て今日のこっているもので、
汚れたり、ぼろぼろになった本を見て、なぜこの本が多くの人から
読まれていたのかを考えて欲しいといっています。
(実際、子供にとってはどうでもよう、面白いかそうでないかでしかないのでしょうが、それでも時代が変わっても面白いものは面白いはずです)。
さて、最近は書店に行くと、名文を取り揃えた書籍をよく見かけます。
これについて、書き込みと同じく思ったことがあります。それは
折角の名文を誤った訳で平然と出していることが上げられるからです。
例として、余りに有名かもしれませんが、杜甫の「春望」での冒頭で
国破れて、山河あり。とありますが、東大をでた国語の先生が
国は戦争で破壊されてしまったが、と平然と訳しておられ、
そのあとの城春にして草木深しを (長安の都の)城は  と
とても読めない訳を続けれおられます。流れも何も合ったものではありません。でもこれが売れるのです。
それともう一つ、実はこの本を読みすすめていくと、口当たりの良いところだけが選択されています。平家物語、徒然草、奥の細道すべてが
冒頭の文章(所謂学校で暗記させられる部分)だけなのです。
決定的なのは、夏目漱石の草枕で、これについてはぜひ一度
本屋でかまいませんので、冒頭の文章の後の一文を紐解いてください。
ここに漱石の真髄が出ているのかもしれないと気づいていただけると思います。そして一人でも多く、感じた事を伝えて欲しいと思います。
古典は、長い時を過ごし、その中で、切り捨て、付け加えされてきているものもありますが、長い時間の洗礼を受け今日にいたっていることを
実感してください。
それと、これは自分にもいえることですが、古典を単に読んだだけでは意味がないということを知ってください。最近、わめいている多くの老人が、自分の自伝等で古典に親しんだと平然と書いていますが、
現実にやってきたことは、人畜にも劣ることが噴出しています。古典を読むことが重要でなく、それを自分の頭のなかで、インテレジェンスとして活用できるよう訓練を続けて欲しいものです。

投稿: 一畳庵主人 | 2005年6月21日 (火) 午前 09時01分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/114689/4600466

この記事へのトラックバック一覧です: 古典の素読:

» 漢文、明治文語文の出題を増やせ [入試過去問と著作権を考えるblog]
現在の大学入試において、漢文を課すところはほぼ文学部ばかりとなっている。自ずから、受験生も漢文の学習をおろそかにするようになっている。だが、日本人の思想・文化と漢文は不即不離の関係を結んできたのであり、漢文の学習をおろそかにすることは、まさに「国語」という科目の本分を失うゆゆしき事態であると思う。たとえば、道元禅師は漢文を独自の解釈で読み下すことによって、オリジナルな思想を生み出して来たのであり、「読み下し漢文」の文化は日本の至宝と言ってもよいだろう。 もし漢文そのものを出すことが受験生の負担を増... [続きを読む]

受信: 2006年2月 4日 (土) 午後 03時45分

« 『神戸事件を読む』 | トップページ | 世界武者修行 »