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2005年6月26日 (日)

フルベッキ

m005 人材育成と言えば、幕末から明治にかけて活躍したお雇い外国人の一人、G・F・フルベッキを取り上げないわけにはいきません。私は、ある企業のウェブ誌に1年間にわたり、「近代日本とフルベッキ」と題して、フルベッキおよびフルベッキを取り巻く明治の志士たちを描いてきました。さらに、この1年間の間に「近代日本とフルベッキ」という臨時ホームページを公開してきましたが、今月号を以てウェブ誌への掲載が終了するのに伴い、来月の上旬に臨時ホームページも閉鎖の予定です。よって、日本近代化の父の一人であったフルベッキに関心のある方は、閉鎖する前に一度訪問していただけたら幸いです。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/ibd/

今月の最終号で、私は以下のように書いています。

フルベッキの遺志を継ぐ

 明治2年から明治10年にかけて、フルベッキが貢献した分野は何も上述の法律制度だけではない。法律制度以上に貢献したのが教育制度ではなかったかと思う。俗に日本の大学の源流は長崎にあると言われるようになった当時の長崎の致遠館などの私塾では自治の精神に溢れ、学問の自由を謳歌していたのであり、これが日本の近代化に大きく貢献したことは言を待たない。ただ、こうした自由な気風が後年の大学設立に生かされることなく、文部省という権力に屈したものに成り果てたのが現在の日本の教育制度であり、そのために日本社会の真の進歩が中途半端なものになってしまったのは返す返すも残念なことであった。現在の日本はバブル崩壊から久しく、かつ近い将来には嘗ての産業革命に匹敵する大きな社会的変革が日本はもとより世界を襲うのは確実であり、そうした新時代に相応しい人材育成に欠かせないのが自治の精神と学問の自由である。その意味で、人材育成という観点から教育のあり方を見直すことは、今日における緊急の課題であるといえよう。幸い、【宇宙巡礼】というホームページを管理している筆者の知人から、人材育成について深く考えさせてくれるという今や絶版となった『教育の原点を考える』(早川聖・他 亜紀書房)という本の筆者の了解を得て、同本を電子化して公開したという知らせが届いた。以下が『教育の原点を考える』のURLであるが、教育とは何も学校教育という問題だけではなく、広くは日本の将来をも左右しかねない大きな意味を持つものであるからして、一人でも多くの読者に目を通して頂き、教育の原点について考えるきっかけとなれば大変有り難く思う。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/edu.htm

 とまれ、教育は正しく国の骨幹であり、微力ながら筆者も何らかの形で世の中に貢献できればと願っている。その意味で、近代日本の父・フルベッキの遺志を思い出し、明日の日本を背負う若者たちの踏み台になりたいと、心から願う今日この頃である。

http://www.ibd-net.co.jp/official/kaientai/index.html#7

フルベッキについては、『日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)や『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』(大橋昭夫・平野日出雄共著 新人物往来社)がお薦めです。なお、W・E・グリフィスの著した『Verbeck of Japan』を翻訳した村瀬氏の講演会が、来月下旬に神戸大学で行われます。フルベッキその人に関心を持つ訪問者は、この機会に参加してみてはいかがでしょうか。

公演:「幕末期、日本人の西洋文化受容-長崎における新教宣教師、フルベッキを中心として-」村瀬寿代(桃山学院大学)
日時:2005年7月22日(金曜日) 午後1時30分~5時
場所:神戸大学国際協力研究科棟 1階 大会議室

その他詳細は、以下のURLを参照願います。
http://www.nime.ac.jp/jsmr/kenkyukai_kansai03.html

写真提供:むうじん館 http://www.fsinet.or.jp/~munesan/
田植えを体験する子どもたち。

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コメント

グリフィス著「皇国」(「明治日本体験記」山下英一訳・平凡社東洋文庫)130ページで三つの髪型でその思想を見分けたという興味深い記述があります。
西洋型(散髪・ざんぎりあたま)、王政復古型(惣髪)、伝統的サムライ型(半髪・ちょんまげ)です。フルベッキ写真では大隈を除いてすべて二番目のタイプのようにみうけられます。
最近発刊された「明治の若き群像ー森有礼旧蔵アルバムー」犬塚孝明・石黒敬章共著・平凡社)では子供はフルベッキ師長男と断じているようです。
9ページに鮫島尚信のベートーベン(ライオン)型
の写真がありますが、小泉元総理の祖父でしょうか。そうであれば、同じロンドン大学の先輩でもあり、激務のためパリで倒れた「気高き働き人」を
元総理は深く尊敬されて同じ髪型にされたのではないでしょうか。

投稿: 南沢満雄 | 2007年4月20日 (金) 午後 09時48分

東京新聞による島田隆資氏
1985年、5-6月、東京新聞特報部はフルベッキ写真について、詳細にとりあげました。
6月、24日と27日号では特に島田隆資氏とその研究についてレポートされています。
本名は北川健児、肖像画家のかたわら、とりつかれたように解明にとりくみ、成果を本にして刊行しようとした直前に53歳で脳出血で東京葛飾区で亡くなられたこと。
その研究は熱心なだけでなく”良心的”だったと記載されています。
ところで『日本歴史』への氏の寄稿文で氏は江副廉蔵氏のご子息夫人からの昭和47年5月20日の手紙を紹介しいます。
東京大田区在住の江副暢子女史(日本画家・77歳)からで「・・この写真は私の舅(義父)、江副廉蔵の記念のためため私が持っているものでございますが、もしお望みでございましたら
いつでもお目にかけます。・・・江副廉蔵は前列、左から三人目に座っております。これは生前の父から直接聞きましたからたしかでございます。またいちばん左はしは木戸さんか、岩倉さんでございます。西郷さんのほか、伊藤さんも大隈重信も石橋重明も居ると父から
聞きましたが、私はどれがどなたである忘れてしまいました。まことに残念でございます。・・・」島田氏はさっそく江副家を訪問し、写真を見せてもい、墓地も訪問したいきさつが述べられています。
その後、『五代友厚秘史』(1960:五代友厚75周年追悼記念刊行)353ページの「グラバ-は武器輸入者であったばかりでなく、文明の輸入者でもあったことを銘記しなければならない。
つづいて、日本の働きぶりを見ると、当時長崎で薩摩屋敷に隠れ、幕吏に追われていた桂小五郎の危難を救い、また1865年上海から
蒸気機関車を輸入して、大浦海岸に鉄道を
敷設して運転した。・・」に接し、証言を確認しております。

私も古書で『五代友厚秘史』を求めましたところ、島田氏の著述のとおりでした。
さらに同書に五代友厚が1865年ロンドンに渡って撮った写真が載せられていますが、髪型は違いますが、顔はフルベッキ写真に写るとされる本人にそっくりであることが分かりました。

投稿: 南沢満雄 | 2006年3月20日 (月) 午後 08時12分

http://blog.livedoor.jp/bakumatusaga/archives/cat_1396352.html
で写真、江副廉蔵のことをとりあげられていました。
1865年学びのため、長崎に向かったことも記されています。
http://www.333.ecnet.jp/togawazanka.htm
で残花と幕末年表あげましたが、1865年
被写体と称される人物が長崎に滞在している
ことはほぼ間違いないと思います。

投稿: 南沢満雄 | 2006年2月22日 (水) 午後 09時14分

フランス語訳訂正
「お役人にかこまれた大君(将軍)の子供たち」
と訂正させていただきます。

投稿: 南沢満雄 | 2006年2月16日 (木) 午後 12時33分

フランスで発見されたと言われる「フルベッキ
写真」(日本のフルベッキ:洋学堂参照)には
フランス語でLe fils duTaikoun entoure de 
Yakouuniness (Japoan)と説明文が記されています。
Taikounは大君、Yakouninessは役人と
日本語のフランス読みでしょうから
「役人をかこむ大君(将軍)の子供たち」
ということになるでしょうか。
もし、明治以降の撮影でしたらでしたら、ミカドの子供たちと書かれたのではないでしょうか。

投稿: 南沢満雄 | 2006年2月 9日 (木) 午後 09時42分

http://www.333.ecnet.jp/taiyo.htm
に雑誌「太陽」戸川残花の訳あげました。
写真説明は読みにくいですが「維新前の長崎洋学生」
STUDENTS OF FOREIGN LANGWAGES AT NAGASAKI BEFORE RESTORATION
とあります。

投稿: 南沢満雄 | 2005年12月 5日 (月) 午後 10時20分

雑誌「太陽」第一巻7号(明治28年)「フルベッキ博士とヘボン先生」戸川残花

明治28年(1895年)の戸川残花牧師の上記文章の口語訳を終えたところです。
写真は「維新前の長崎洋学生」
STUDENTS OF FOREIGN LANGWAGES AT NAGASAKI BEFORE RESTORATION
と説明文があります。
(秀英舎印刷・小川一真写真彫刻銅版)

戸川師はフルベッキ博士の小伝を編纂中の
ワイコフ宣教師の友人で、その原稿と自身の
記憶を元に記述したとのことです。
1895年当時フルベッキ博士は東京のみならず信州や水戸の日本各地で伝道活動をしていました。
戸川師は「自らのことはほとんど語らなかった
フルベッキ師から写真だけは借りることができた」と述べております。

写真について「氏が、佐賀の学生と共に撮影した写真を見ると、30年前の武士が眼前に現れるような感じがする。氏は特に佐賀の藩士に知人が多く、村田若狭が教えを聞いて受洗
し、キリスト教徒になったのは今から29年前のことであり、わが国におけるキリスト教徒のさきがけである。」とあります。

フルベッキ師自身この雑誌に目を通されたでしょう。
つまり、撮影は維新前になされていたことは
自明のことであったに違いないのです。

撮影場所が野外写真場との説があるとのことですが私にはどう見ても屋内に見えるのですが。


投稿: 南沢満雄 | 2005年11月23日 (水) 午後 06時09分

alibiと動機
推理ドラマは「アリバイ(ラテン語で他のところという意味で現場不在証明)と動機」の調査プロセスを楽しむように構成されています。
資料を読む限り、戸川残花も島田隆資も1865年撮影説にたっております。
かなり入念な調査もなされております。
 そこで、それぞれの立場に、何らかの意図、動機が働いているかという視点も考えるべきでありましょう。
 私は牧師ですから、同業者であった、戸川花残、キリスト者であろう島田隆資の意向に共鳴いたします。
 横井湘南は中国語の聖書を読んでいたそうですから、グリフィスばリンカーンと共通する博愛と実践の使徒であったとみたようです。
 しかし彼は儒学者であり、その弟子は明治天皇のブレ-ンであり、井上毅と共に「教育勅語」の草案を書いた儒者元田永孚(ながざね)です。
教育勅語はプロイセンの思想と、中国の儒教
の合作であり、その後、皇民化思想へと傾斜して行ったといえば言いすぎでしょうか。
ドナルド・キーンは「明治天皇」(上)、『教育勅語前夜」
において「この時期から、明治天皇の見解は目だって保守的になった。天皇は、日本が採るべき進路に関してグランド将軍の助言を熱心に聞いた。しかし元田の影響力は、それに
遥かに強かった。それは天皇が、繰り返し教育における儒教の徳目の重要性を力説したことにも顕著に表れている。」

人間間の道徳、倫理を高調することは、大切ではあるが、それが絶対的創造主との垂直的関係を軽視ないし無視したとき、その意図した理想とは程遠い結果を生み出すのではないでしょうか。
絶対者を相対化すると、人は相対的被造物を
絶対化するに至ります。
マルクス唯物論が、独裁者を擁立せざるを得なくなり、人間間の徳を重んじた仁義忠孝思想が現人神の思想に行き着いたのであります。
家永三郎は『田辺元の思想的研究』(法政大出版)巻末において真の宗教は『さまざまの
狭雑物のうちにも永久に朽ちることのない、人間の相対性、歴史の有限性と、これを止揚する絶対永遠への道を指示する原理を含んでいる』と述べております。

グリフィスの「ミカド」もドナルドの「明治天皇」も大室寅之助には全く触れていません。
しかし、「明治天皇」を読んでいて、写真に写るかつての志士達との交流の場面になると、人間天皇の自由な喜怒哀楽が湧出するかのように描かれてます。
時には冗談を言い合い、またその死に涙する姿です。
私にとってやはり、謎は消えません。

憲法と教育基本法が見直されようとする
今日、この写真の解明は重い意味を持つのではないでしょうか。

 

 

投稿: 南沢満雄 | 2005年10月25日 (火) 午後 02時14分

『日本歴史』(308号・332号:吉川弘文館)
「維新上解明されていない群像写真について」(島田隆資)

県立図書館よりコピ-郵送していただき読み終えたところです。
多くの資料と証言に基づいた考証がなされて
おります。
更に原資料とも言うべき雑誌『太陽』第一卷
第7号の戸川残花の投稿文なども参考になると思います。

大室寅之祐については、まったく言及がありませんでした。

投稿: 南沢満雄 | 2005年10月15日 (土) 午後 05時25分

亀山社中と致遠館 in 1865

前者が同年に結成されたことは間違いなく
一方致遠館 についても早稲田大学等の
資料からほぼ同年とみてよいと思います。
ところが「日本のフルベッッキ」を訳された
村瀬さんは致遠館開校を3年くらい後だと
推定されます。
従って、写真撮影もも1968年前後との
結論に落ち着かれたようです。

この推定(前提)はもう少し検証される
必要があるのではないでしょうか。
以前指摘しましたように1865年、
高杉晋作は長崎に入ったとの資料があります。
今日、大室寅之祐が高杉軍に加わったという
コメントに触れ、ひとつの謎が解けたように
思いました。
写真前方に、横井小楠と、福井藩の日下部
太郎、横井兄弟が肩を並べて座っております。
村瀬説を支持される松浦玲氏ですが「横井小楠」(朝日選書)P292において「神戸海軍操練所から佐平太、太平の兄弟を引き取った
小楠が二人を長崎に学ばせるにあたって、おそらく慶応元年(1865)の春、長崎まで足を
運んだ可能性はある」と記されています。
日下部太郎も一緒だったと思います。
写真にはフルベッキ親子の両隣に岩倉兄弟が椅子に腰掛けています。
本来ならば親が腰掛けるべきでしょうから、これは父兄同伴の入学式のような写真といえないでしょうか。
(大隈重信は学校創立の立役者ですから
腰掛けています。)
勝海舟は身長152センチだったそうですから
本人にも見えますが、息子さんがいない点、容姿が似てないことからも相良氏ということになるでしょうか。
しかし、神戸海軍操練所以来、横井小楠
、勝海舟、坂本竜馬は密接な協力関係を築いていましたから、翌年の薩長同盟をも視野に入れた亀山社中結成と致遠館開校(或いは
その予備校のようなもの)は切り離せない
ものだったようにも思います。

米国では1865年、南北戦争が終結し、軍務を終えたグリフィス青年が同年、ラトガーズ大学に入学、やがて友、日下部太郎の死に遭遇、追悼の後、福井藩に招かれることになります。
グリフィスは「ミカド」(亀井訳:岩波文庫)27章で「近代政治の展開を政党の動きからみて見ると、そこには二つの思想系統がある。ひとつは宣教師党、ないしアングロ・サクソン党であり、もうひとつは神道党、ないしプロシア党である。」(p281)と述べております。
どのような、歴史観を持つかによって、過去の史実の推定にもかなりの相違が生まれるように思います。
自然科学と違って、仮説を実証する実験手段をもたぬ運命である以上、やむをえないことでしょうか。

尚、フルベッキはフリーメーソンとは
一切関わりはないと思います。
フルベッキのルーツがユダヤ人だったことから
そのような誤解が生まれたのでしょう。

投稿: 南沢満雄 | 2005年10月 5日 (水) 午後 11時34分

AD1865年
この年坂本竜馬が長崎で亀山社中を結成、翌年、薩長同盟を成功させました。
従って、この前後志士たちの会合がもたれたことは間違いないと思われます。
1865、高杉晋作も長崎にはいり、洋行を志しましたが、グラバーの忠告で断念しています。
やはり、同年、福井藩士、日下部太郎は藩命により、長崎に着き、フルベッキより英語、数学を学ぶことになります。
後に、ラトガース大学に留学、1870年卒業を前に、肺患のため逝去。同大学で生前の日下部にラテン語を教え、親しかったのがやがて福井藩に雇われるウイリアム・エリオット・グリフィス。http://info.pref.fukui.jp/kouho/graph/200312/seiyou.pdf
薩摩藩士、五代友厚 森有礼鮫島誠蔵
中村宗見、寺島陶蔵 その他も1865年4月7日、英国留学のため長崎から出発(「日本のフルベッキ」・グリフィス著村瀬訳、「幕末維新の海」(渡辺著)参照)していましたから長崎に滞在していました。
横井小楠と越前藩主(福井藩)松平越前の関係については「ミカド」(グリフィス著・亀井訳)8章に詳述、二人の甥はやはりラトガース大学に留学、グリフィスは教師であった。
尚、「ミカド」ではフルベッキを英語読みにヴァーベックと訳されています。

フルベッキの長男ウイリアム君の年齢から1865年撮影と、推察して調べておりますが
今現在、確認がとれましたのは以上です。
参考にしていただければ幸いです。


投稿: 南沢満雄 | 2005年9月30日 (金) 午後 03時15分

撮影時が1865年と推察するからです。
フルベッキ師の息子さんウイリアムは1861年生まれですから写真からみてご本人に間違いないでしょう。村瀬さんは次女のエマさんだと推測されておられるようですが、写真は女の子ではないと思います。
1865年前後の維新の志士たちの動向を年表でしらべると長崎周辺にいたことが分かります。特に勝海舟はフリーな立場で当地付近にいたようです。
皇室は一般に思われている以上にキリスト教とは縁が深く、それはフルベッキ師の影響が強かったと思います。残念ながらドイツ寄りの
絶対君主制に移行してやがて日本は第2次大戦という破局を迎えました。
山本七平氏も江戸時代はもっと自由に天皇制が論じられていたと述べております。
英国の皇室のように自由で国民から親しまれるようになってほしいと願います。
 私の判断は半ばそのような願望もかねた
かなり主観的推察かもしれません。


投稿: 南沢 | 2005年9月15日 (木) 午前 10時48分

南沢さん、大変ご無沙汰しております。かつてIBDのウェブ機関誌『世界の海援隊』に「近代日本とフルベッキ」を投稿していましたが、その時に一度南沢さんからお便りを頂戴したことがありましたが、その節は有り難うございました。リンクに関しては一向に差し支えありません。宜しくお願い致します。なお、お時間のある時で良いのですが、南沢さんは具体的に「フルベッキ写真」について、どの点を以て佐宗氏の説が正しいと仰せなのか、後学のため御教示いただければ幸いです。宜しくお願い致します。

今後の南沢さんのご活躍を祈念しつつ--


サムライ

投稿: サムライ | 2005年9月13日 (火) 午後 05時30分

詳細な論究感銘いたしました。
ホームページにリンクさせていただきましたのでご了承ください。もしご迷惑でしたらご一報ください。
私は写真は佐宗氏の推察が正しいと思います。作家丸谷才一氏が朝日新聞「袖のボタン」に明治帝が南朝を正統としたのは御霊信仰だと断じておりました疑問です。
あの勅裁が出されたのは伊藤博文が暗殺された翌年でした。
祝福をお祈りします。

投稿: 南沢満雄 | 2005年9月13日 (火) 午後 05時11分

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受信: 2005年12月 4日 (日) 午後 12時40分

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