2009年7月 3日 (金)

幾何学のすすめ

以下は、5年半前の2004年1月に国際契約関連の某コンサルティング会社のウェブに寄稿した、幾何学に関する原稿です。

 『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』(ダイヤモンド社刊 絶版)という名著を著した小室直樹博士が、世界を舞台に活躍する国際ビジネスマンにとって、数学が不可欠であると自著に書いているのを読者はご存じだろうか。例として、以下の『超常識の方法』(小室直樹著 祥伝社 絶版)のまえがきに目を通していただきたい。

 多民族の融合によって成る欧米社会にとって、民族的、個人的感情を超越した明確なる基準、つまり社会的規範の存在は不可欠であり、しかも、その成立過程に西洋近代精神も育成されたのである。では、その規範は何に準拠するのか。実は「数学の論理」こそ、その根底にあると言える。たとえば、欧米が契約社会であるはご存じのとおりだが、この「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また、「必要条件と十分条件」の基本がわかならければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」は理解しがたい。要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい。
小室直樹著『超常識の方法』P.3~4

 ここで、「契約の精神」という言葉が登場したので一言。国際契約コンサルティング会社であるIBDが発行する『海援隊』の読者は、国際契約に関わる仕事に従事されている方々が多いことだろう。契約書と言えば、拙稿「第三回・意味論のすすめ」でセマンティックスを意識して言葉をきちんと使うことが、国際契約書の作成において重要である旨筆者は書いたが、総合経営誌『ニューリーダー』1994年10月号に載った対談記事の中でも、小室博士がセマンティックスを無視した契約書を以下のようにバッサリと切り捨てている。

小室直樹:つまり、責任に対しての自覚もセマンティックスの意識もないのは言葉がきちんと使えないからであって、この点で日本は中国や欧米の支配層と全く違う。言葉がないことで典型的なのは、日本の契約書を見れば歴然としている。十数年前からアメリカとの障害が日常茶飯事になってから、契約書の形式も大分変わってきたとはいえ、昔の日本の契約書なんていうのは「もし争いが生じた場合には双方が誠意を持って談合する」なんてバカなことが書かれていた。
藤原肇:それに契約の概念だって無きに等しかったのは、数学がわからなかったからだと思う。数学つまり理の世界はレシオで比率が重要であり、契約とは比率の問題を明確にすることだから、責任の取り方の比例配分を決める。
小室直樹:契約の概念はないが約束という概念はあるというが、これはとんでもないことであり、セマンティックスのない約束なんてお笑いだ。欧米でもとくにアメリカにおける約束というのは、実に細かなところまで規定しており、契約書も大事なことは注にまた注をつけて、厳密で詳しければ詳しいほど良い約束である。日本での約束は「俺の目を見ろ、何も言うな」であり、言葉のない約束が最高のものということになる。この場合にはこうしてあの場合はこうしろと言っていたら、「俺のことを信用しないのか」と言って怒り出すんだから始末に困る(笑)。

出典:『ニューリーダー』1994年10月号-意味論音痴が日本を亡ぼす

 以上、小室博士が「数学は国際ビジネスマンに不可欠」と主張されている理由がよくおわかりいただけたと思う。国際ビジネスマンに不可欠な数学思考は興味の尽きないテーマではあるが、紙幅も限られていることもあり、急いで本稿の主テーマである幾何学に筆を進めよう。

最初に、数学の一分野である幾何学の英語は”geometry”だが、これは「土地測量」を意味するギリシア語の” geometria”から派生している。何故、幾何学の原義が「土地測量」なのか、ここで簡単に幾何学の歴史を振り返っておこう。

今から4000年前、チグリス・ユーフラテス河畔に古代バビロニア文明が発生。その遺跡から粘土板が発掘され、その粘土板に書かれていた楔型文字から、土地の測量などに必要な高等数学が発達していたことが明らかになった。それは古代エジプトでも同様であり、たとえばギザのピラミッドが高等数学を駆使して造られたのは周知の事実である。そうした古代の諸高等数学を『原論(Element)』という大著に集大成したのが、2500年ほど前のギリシアの数学者ユークリッドであった。ユークリッドの著した『原論』は、2000年以上の長きにわたって科学的思考の基底を成していた基本文献だったのであり、聖書に次いで多くの人びとに読まれた本でもあった。何故それだけ多くの人びとに読まれたのかと言えば、ユークリッド幾何学の持つ普遍性、すなわち国籍・人種・信仰・学歴・性別・年齢・身分の違いを超越した人類共通の「言葉」である数学が『原論』に書かれていたからであった。その後19世紀に入り、N・IロバチェフスキーやJ・ボイヤらによってユークリッド幾何学から一歩進んだ非ユークリッド幾何学が誕生している。

幾何学という言葉を目にして、プラトンが創設した学園「アカデメイア」の入り口に、「幾何学を知らざる者は、この門を入るべからず」と書いた額が飾ってあったという逸話を思い出した読者が多かったのではないだろうか。それにしても何故、かくもプラトンは幾何学を重要視していたのだろうか。実は、その答えを解く鍵がピタゴラスに隠されていた。

ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、紀元前570年ころにギリシア東南部のサモス島で生まれている。成長したピタゴラスはエジプトを訪れ、黄金比の中に宇宙の秩序が隠されているという古代エジプト人の秘密に触れ、彼らの秘密を自家薬籠中の物にした人物であった。そうした“エジプト派”のピタゴラスが創立したピタゴラス教団では、ペンタグラム(五芒星、pentagram))およびペンタゴン(五角形、pentagon)を同教団の符牒としていたのである。

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図1:ペンタゴンとペンタグラムがもたらす神秘的な2つの三角形
(ピュタゴラスの定理の原型と黄金の三角形)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.241

図1を見ていただきたい。上図のペンタゴンの中に、ピタゴラスの定理のモデルである底辺が三・高さが四・斜辺が五の直角三角形が描かれているのに、目を見張った読者が多かったのではないだろうか。さらに下図に目を移せば、ペンタゴンがペンタグラムの外縁であると共に内核を作っているのがお分かりいただけるはずだ。そのあたりに、ピタゴラス教団が五芒星の持つ神秘的な魔力を感じ、五芒星を守護用のシンボルにした理由があるのだろう。軍人たちも喜んで五芒星を魔除けに使ったようであり、その典型的な例がペンタゴンの形をしたアメリカの国防総省である。皮肉にも、9・11事件で一部を破壊されたが…。

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図2:ペンタグラムと黄金の三角形(H. Huntley原図)
(ΔABC:ΔABD:ΔDBC = Φ2:Φ:1)
出典:『間脳幻想』(藤井尚治・藤原肇共著 東興書院)p.243

ペンタグラムは幾何学的に素晴らしい魅力を秘めており、図形全体が黄金比で満たされているのを示しているのが図2である。ちなみに、ペンタグラムの星を構成するトンガリ帽子の二等辺三角形が、黄金の三角形と呼ばれているものである。何故なら、斜辺を1と考えると底辺は0.618の長さになり、これをギリシア文字のファイの小文字φで表わせるからである。さらに、底辺を1だと考えると斜辺は1.618になり、これは大文字のファイでΦと表すわけだし、底辺の長さをΦと考えると斜辺の長さは2.618になり、1プラスΦか2プラスφになるのがお分かりいただけるだろうか。ともあれ、2枚の図から様々なインスピレーションが閃くかもしれないので、頭の体操のつもりで暫し眺めていただければと思う。

このように、黄金の三角形が秘めている神秘的な力に魅せられたが故に、エジプト人は黄金分割を秘伝中の秘伝扱いにしたのだろうし、それを受けついだピタゴラス教団の人びとも、秘伝を外部にもらさないように秘密結社の形で秘伝を大事に守ってきたのであり、その伝統が今日のフリーメーソンにも引き継がれているのだと筆者は思う。かように、数学や芸術哲学は無論のこと、鉱物学、金属学、医学、心理学など、幅広い知の全領域に思考が及ぶ百科全書派の人間だけが真に習得することの出来る、人類至高の智慧こそが黄金比に他ならないのである。ここに、古代エジプト人の「黄金比の中に宇宙の秩序が有る」という信仰にも似た確信に、筆者も同意する所以である。

アカデメイアの入り口に「何学を知らざる者は、この門を入るべからず」という額を飾ったプラトンは、神秘主義を貫き通したピタゴラス教団を深く研究し、ペンタグラムにまつわる黄金の三角形の秘密を掴んでいたであろうことは、最早疑う余地がない。

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2009年7月 2日 (木)

野ごころ

昨夕、学校(埼玉県の某私立高校)から戻った上の息子(高一)が、開口一番「このままでは学校の成績が下がって、特待生の資格を失うかもしれない…」と打ち明けてきました。その言葉を耳にして、この春先に藤原(肇)さんに会わせただけの甲斐があったと、親父として非常に嬉しく思ったことでした。

このあたりの背景を少し説明しておきましょう。現在息子が通っている高校は最寄りの駅から出ているスクールバスで30分ほどのところにある、自然に囲まれた隣の市にあります。この高校では2年ほど前から特待生制度を設けており、中学生だった去年の暮れに校長面談を受けた息子は、無事に特待生として合格しています。無論、学校側が特待生に期待していることは、名の通った大学に進学して貰うことで学校の実績とし、より多くの新入生を募るところにあり、所謂広告塔という役目を息子は仰せつかったことになります。当然ながら、二年半後の大学入試を突破するための暗記型の授業が中心となるのですが、これが息子には苦痛のようです。そのため、学校の授業の全部とは言わないまでも、暗記中心の授業やマルバツ式の問題集を解く訓練が中心の授業などに、息子は嫌気がさしているようであり、このまま行けばそうした科目の成績が落ちることは目に見えているのですが、親父としてはそれはそれで良いと思います。

寧ろ、そのような暗記型、マルバツ式問題集型の学習に精を出すよりは、和漢洋の古典の大海を泳ぎ、部活で身体を鍛え、リーダーシップを養い、宮崎県知事の東国原英夫や大阪府知事の橋下徹のような、四流五流以下の人物ではなく、藤原さんといった一流の人物に引き合わせていくことで人物を観る眼を養って貰い、大勢の学友と時には夜を徹して語り合うといった、充実した高校生活を送ることの方が遙かに大切です。そのため、特待生の資格を失うことがあったとしても、それはそれで仕方のないことであり、寧ろ春先に会った藤原さんからの話を真に理解してくれたことを親として喜ぶべきなのです。こうした真の学問については本ブログでも幾度か書いてきましたので、以下に数例を挙げておくことで繰り返しを避けたいと思います。関心のある方は一読ください。

奴隷になる儀式が受験地獄の隠れた正体
21世紀を生きる子どもたちへの最良の指南書
一流教授の下で学べ

なお、2時間にわたった藤原さんとの話の中で、息子は色々と本人なりに学んだようであり、その現れが文系から理工系の道を進む決心をしたという、息子からの後日の報告でした。また、藤原さんが息子に諭すように語っていた、「数学、特に幾何学に打ち込むと良い」というアドバイス、今後も時折思い出して欲しいものです。そこで、「幾何学のすすめ」と題して明日アップしようと思います。お楽しみに。

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『間脳幻想』に書いて戴いた息子へのメッセージ

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2009年7月 1日 (水)

ブックオフは本のゴミ屋さん

今年の春先、二人の息子を連れて在米の藤原肇さんとお会いした時、ブックオフのことが話題になったことがあります。その時、藤原さんがブックオフのことを「ブックオフは本のゴミ屋さんだからね…」と喝破したとき、本好きな長男(高一)が呆気にとられた顔をしていたのを思い出します。

私の住んでいる街も御多分に漏れず、ブックオフが公害…、ではなくて郊外にあります。私は時々仕事中の息抜きに、子ども達を連れて車で件のブックオフに行くことがあり、オンラインの古本屋さんでも手に入らない本や、手に入るにしても高い値が付いている本などを探し出して入手するのが狙いですが、それ以外にも初めて接した本でなかなかの良書が定価の半額、時には105円で売っていることもあり、そうした場合は必ず購入することにしています。子ども達にもマンガ本以外は買ってやるから、好きなだけ選んでも構わないと言っているので、結構彼らなりに気に入った本をたくさん探し出してきます。その意味で、ブックオフにとって我々親子は良いお得意様かもしれません。藤原さんもロスにあるブックオフという本のゴミ捨て場に時々寄り、掘り出し物に当たることが時々あるとのことでした。

そのブックオフですが、ご存知のように集英社、講談社、小学館という日本を代表する大手出版社、そして大日本印刷がブックオフの株を取得したニュースは記憶に新しいところです。このあたりのニュースは6月27日付の東京新聞が詳しいので、記事のコピーを載せておきましょう。以下の記事をクリックして下さい。特に注目すべきは最後のページ右下のイラスト「ブックオフをめぐる出資の流れ」であり、この図を眺めることによって現在の出版業界の潮流が読み取れると思います。
090627_tokoyo00  090627_tokoyo01  090627_tokoyo02

ところで、上記の記事の中で、『だれが「本」を殺すのか』を著した佐野眞一氏は、今回の動きについて以下のように述べています。

すでに書店の淘汰は進んでおり、今回の動きで廃業が増えるとも思えない。出版三社の狙いはまだよく分からず、あまり大げさに考える必要はないのかもしれない

この佐野氏の発言を目にして、筆者は物足りなさを感じました。何故なら、筆者にとって本は単なる物ではないからであり、本を物扱いにしてバナナの叩き売りよろしく売りまくっているブックオフに対して、佐野氏は本と物の違いについて何か発言しなかったのでしょうか…。

藤原さんは本を非常に大事にする人であり、たとえば7年ほど前、東明社という出版社が自社の書庫を売却するため、藤原さんの本をはじめとして多くの本を裁断するということになった時、藤原さんは自著を含め、東明社から刊行された貴重な図書を買い取ったのでした。現在、その時の本は拙宅に大量に保管してあり、希望者には有償で頒布しています。以下は頒布本の案内のページですが、本に対する藤原さんの言葉の数々をページの最後の方にまとめてありますので、関心のある方は一読下さい。

「宇宙巡礼」書店のご案内

なお、近日中に藤原さんの新著が出る予定であり、詳細は以下の掲示板(投稿No.156~)を参照願います。

藤原肇の最新刊発売

ともあれ、上記の大手出版社の台所は火の車であるという情報を筆者は掴んでおり、その辺りから今回のブックオフ株の取得の裏を読み取っていく必要がありそうです。

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2009年4月 8日 (水)

インターネット版CIA(1)

佐藤栄作政権を支えていたのがアメリカのCIA資金であったことは、すでにアメリカでも情報公開された事実ですが、そのインターネット版のCIAの代表格ともいうべきなのが、グーグル(Google)をはじめとする大手検索エンジンです。

4月3日に[天安門事件とテレサテン]を、翌日の4月4日は[反証・山口貴生著「日本の夜明け]をそれぞれアップしました。しかし、今朝(4月8日)の段階で、数日前まではヒットしていた以下のキーワードでは、最早グーグルでヒットしません。

教育の原点を考える 反証・山口貴生著「日本の夜明け」
教育の原点を考える 天安門事件とテレサテン

ちなみに、以下のキーワードなら問題なくヒットします。

教育の原点を考える 『シルクロードの経済人類学』
教育の原点を考える 朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価
教育の原点を考える 世界大恐慌と翻訳者
教育の原点を考える 『邪馬台國論争 終結宣言』
教育の原点を考える 『免疫力を高める生活』

上記の記事ですが、[反証・山口貴生著「日本の夜明け]は慶応の高橋信一先生の記事が中心であり、過去に大量の高橋先生の記事をアップしていますが、今までは問題なく検索できていますので、今回は私がアップした[天安門事件とテレサテン]の巻き添えを喰う形になってしまったことになり、誠に申し訳なく思います。

ところで、[天安門事件とテレサテン]が検索エンジンから排除されたのは、天安門事件の真の犯人は鄧小平グループではなく、アメリカのCIAであったと書いたのが原因であると思います。

ともあれ、[天安門事件とテレサテン]はアップしてから一時間ほどでグーグルに載りましたが、2日ほどするとヒットしなくなりました。それでも、[天安門事件とテレサテン]を転載していただいた、以下の掲示板とブログならヒットしていました。

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/137.html
http://ameblo.jp/wayakucha/entry-10236908257.html

ところが、今朝(4月8日)に入ると上記の掲示板もブログもヒットしません。

実は、このようなことは今回が初めての事ではなく、今年初めにアップした[シルクロードの経済人類学]という記事でも同様なことが発生しました。参考までに当時の記録を以下の「★Googleから削除された記事★」に公開しました。なお、今後新たな変化が出ましたら、再び本記事の中でご報告いたします。

追加その1
本記事をアップしてから3時間ほどした午前10時、"天安門事件とテレサテン"(""で天安門事件とテレサテンを囲んで検索してください)で再びヒットするようになりました。(その証拠として、Googleで検索した検索画面を画像ファイルにして保存済み)

ただし、以下の「天安門事件とテレサテン」の記事そのもののURLは、本ブログ【教育の原点を考える】、掲示板【阿修羅】で"天安門事件とテレサテン"がヒットするものの、「天安門事件とテレサテン」そのものの記事のURLは依然としてヒットしない状態です。教育の原点のサイトでヒットするのは以下のURLだけです。しかし、クリックしてみると分かりますが、出てくるのは何故か『シルクロードの経済人類学』の記事です。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/01/index.html

グーグル(およびグーグルの裏に居る某組織)が、直接「天安門事件とテレサテン」の記事もヒット出来るようにするのは、いつ頃になるか楽しみですね。また、続報を流します。
2009年4月8日午前10:05

追加その2
依然として、「天安門事件とテレサテン」の記事のリンクが外されたままのようです。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/04/post-8ca2.html

その証拠に、上記記事の冒頭は「40代以上の世代の人たちのなかには、」という文章で始まっています。これを以下のように""で囲んだ形で検索してみてください。ヒットするのはゼロ件です。
"40代以上の世代の人たちのなかには"

ちなみに、ブログ【教育の原点を考える】にある他の175本の記事は、主題以外に本文も当然ながらヒットします。

2009年4月8日午前11:15

追加その3
「…これを以下のように""で囲んだ形で検索してみてください。ヒットするのはゼロ件です…」、と6時間前に書きましたが、現在は以下のアドレスが復活したようです。(以下のキーワードを使い、グーグルで検索した画面を証拠として保存済み)
ameblo.jp/wayakucha/entry-10236908257.html
"40代以上の世代の人たちのなかには"

しかし、以下のサイトにも"40代以上の世代の人たちのなかには"と書いてあるページがあるのにも拘わらず、未だに復活していません(ヒットしません)。最初のURLは掲示板【阿修羅】、後は本ブログ【教育の原点を考える】です。[阿修羅]は昨日まで、[教育の原点を考える]は4月5日あたりまでは"40代以上の世代の人たちのなかには"でヒットしていました。
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/137.html
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/04/post-8ca2.html
2009年4月8日午後19:05

追加その4
漸く、Google(グーグル)からの削除から外してもらえたようです。その証拠として、以下のキーワードで検索したGoogleの検索画面を証拠として保存しました。機会があれば、ホームページなどに公開します。(キーワードは、""で囲むのがポイントです)
"天安門事件とテレサテン"

上記のキーワードで検索すると、ブログ【教育の原点を考える】の「天安門事件とテレサテン」のページが冒頭にヒットしているのが分かります。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/04/post-8ca2.html

ただし、本文は相変わらず削除されたままであり、例として、以下のように本文の冒頭はヒットしません。これは本ブログ【教育の原点を考える】だけではなく、本文を転載して戴いた掲示板【阿修羅】も同様です。
"40代以上の世代の人たちのなかには"

「天安門事件とテレサテン」に関しては、今後も削除されていないか時折確認するとして、引き続き今回の経緯を纏めた本記事「インターネット版CIA(1)」が、Googleから削除されないか監視していきたいと思います。削除されるといった動きがありましたら、直ちに本記事で「追加その5」としてお知らせいたします。
2009年4月9日午前04:20

追加その5
グーグルやヤフーでは、広告主に対してすら言論の統制が行われているという記事を見つけましたので、以下にご紹介します。
http://www.mynewsjapan.com/reports/1032
グーグルもヤフーも使えぬ名誉

上記情報源の【My News Japan】は鋭い記事を出しており、相手が巨像トヨタであっても遠慮しません(筆者は同社が執筆した『トヨタの闇』で同サイトを知りました)。この機会に「お気に入り」に追加するとよいかもしれません。
http://www.mynewsjapan.com/

2009年4月10日午前06:05

 

★Googleから削除された記事★

『シルクロードの経済人類学』(2009年1月3日アップ)が、再びGoogleでヒットするようになるまでの詳細な経緯を示すコメント欄
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グーグルだけではなく、他の検索エンジンでも拙記事が外されたという報告がありましたので、以下にご報告致します。

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85 名前:調査人 投稿日: 2009/01/08(木) 09:36:56
サムライ様が仰せの通り、某国当局から何かしらの圧力、またはGoogleが自主規制をした可能性は高いと小生も考えており、過去を調べると似たような事例を幾つか発見することができます。
小生の方でも、このたびサムライ様が被った件に関して昨日いろいろと調べてみたところ、以下のことが分かりました。
調査にあたっては、「シルクロードの経済人類学」と、URLの直打ち「http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/01/post-c506.html」の両方を試しております。

◆ヒットした検索エンジン
Yahoo、ASK、Infoseek、Excite

◆ヒットしなかった検索エンジン
Google、MSN、goo、Baidu

尚、今朝の時点では殆どヒットしております。
但し、MSNは未だヒットせず、Baiduは「教育の原点を考える」の別の過去記事がヒットして、「教育の原点を考える」ドメイン(結果一覧と表示される部分)をクリックすると漸くヒット、といった状況です。

以上、ご参考までに。

86 名前:サムライ 投稿日: 2009/01/08(木) 12:11:14
調査人さん、有り難うございました。

本当なら、今回のグーグルの件は惚けた振りをして、敵の動きを見ていた方が良いと最初は思いましたが、『中国はチベットからパンダを盗んだ』を読んで、「ヒマラヤを越える子供たち Escape over the Himalayas」(Maria Blumencron監督)というDVDの存在を知り、かつブログ名を「教育の原点を考える」としている以上、このまま黙って見過ごすわけにはいかないと思い、敢えて当局とグーグルの関係を書いた次第です。

今回の件があって、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」でボランティアの翻訳スタッフを募集していることを知りました。生業が翻訳なので、今日あたりボランティアを申し出てみるつもりです。

サムライ拝
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http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2491/1118949881/

投稿: サムライ | 2009年1月 8日 (木) 午後 05時00分


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昨日(2008年1月7日)の夕方の時点では、"シルクロードの経済人類学"とグーグルに入力しても、決して以下のページはヒットしませんでした。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/01/post-c506.html

ところが、今朝(1月8日)になって、再びグーグルで"シルクロードの経済人類学"が、アマゾンに続いて第2位にヒットするようになりました。

1月6日・7日の2日間、何があったのでしょうか。

単にグーグルの検索エンジンのプログラミング的な問題と片付けるのは早計かもしれません。何故なら、改めて『シルクロードの経済人類学』を読んで気づいたのは、中国の“本当”の姿を書いたためにグーグルに圧力がかかった可能性もあります。以下は『シルクロードの経済人類学』に書いた問題の箇所です。

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中国の歴代の史書は嘘が多い事実も知っており、また現在の中国共産党の非情さといった面は、現在読み進めている『中国はチベットからパンダを盗んだ』(有本香著 講談社+α新書)を例に取り上げるまでもなく知っていたつもりだったし、人類の智恵が鏤められた中国古典の延長線で一方的に中国に畏敬心を抱いたことはないつもりでした。それでもなお、栗本氏の本を読み進めながら、まだまだ自分の中国に対する認識が甘かったと反省した次第です。中国の史書の正体は嘘偽りのオンパレードであり、鮮卑だの卑弥呼だのといった相手を侮辱するような漢字を多用しているという点に大きな特徴があります。
******************************

ここで、かつてグーグルが中国政府の“圧力に屈したという、過去の経緯を読者の皆様にお伝えしておく必要があります。これは記事『シルクロードの経済人類学』でも紹介した『中国はチベットからパンダを盗んだ』(有本香著 講談社+α新書)にも明確に書いてあることです。

「中国政府の情報統制に協力しているとして、ネット検索エンジン「グーグル」がアメリカ議会で激しく非難されたことは記憶に新しい。(『中国はチベットからパンダを盗んだ』p.202)

グーグルが記事『シルクロードの経済人類学』を1月6日・7日の2日間外したのは外したのは紛れもない事実であり、その証として以下の掲示板にも書き残しました。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2009/01/post_9258.html#comment-20310293

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2491/1118949881/

グーグルが上記を読んで再び記事『シルクロードの経済人類学』を検索対象に復帰させたのかどうかは分からないものの、グーグルが依然として中国の情報統制に協力している可能性は否定し切れず、今後も中国を批評した記事を書いたら、再び注意してグーグルの動きを見守りたいと思います。

■追伸■
中国を怒らせたとすれば、1980年代のNHKスペシャル「シルクロード」が中国の監視下に置かれたやらせ番組であることを、拙記事『シルクロードの経済人類学』にさらりと書いたことの方が大きかったかもしれません。このあたりは、栗本氏の『シルクロードの経済人類学』や有本氏の『中国はチベットからパンダを盗んだ』にも書いてありますので参照願います。ここで、栗本氏や有本氏の上記の著書と同時に、「ヒマラヤを越える子供たち Escape over the Himalayas」(Maria Blumencron監督)によるドキュメンタリーDVDをお薦めします。

投稿: サムライ | 2009年1月 8日 (木) 午前 08時21分


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Googleから削除された記事:『シルクロードの経済人類学』

昨日(2008年1月5日)までは、拙ブログ「教育の原点を考える」にアップした記事"シルクロードの経済人類学"はグーグルでヒットしており、アマゾンに続いて第2位に入っていました。

ところが、本日の夕方(2008年1月6日)は、もう拙"シルクロードの経済人類学"がヒットしません。念のため、記事の中から一部の文章で検索してみましたが、やはりヒットしません。
"遊牧民族が持ち込んだ文化である"

Yahoo!では"シルクロードの経済人類学"でも"遊牧民族が持ち込んだ文化である"ヒットします。

これは何等かの圧力がGoogleにかかった疑いがあります。今暫く確認作業を進めてみます。無論、私宛てにはブログ元のニフティや検索エンジンのグーグルからは何ら警告は届いていません。

投稿: サムライ | 2009年1月 6日 (火) 午後 07時56分
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2009年4月 4日 (土)

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

B090404 慶応大学の高橋信一准教授から、フルベッキ写真を取り上げた『日本の夜明け』(山口貴生著 文芸社)という単行本が発刊されたという連絡を受け、早速ジュンク堂に発注して取り寄せてみました。そして同書が到着したので早速目を通してみましたが、内容的に間違いだらけの酷い本であり、当初は取り上げる価値もないと思っていました。しかし、フルベッキ写真の背景を知らない一般の人たちが読めば、間違った知識を身につけてしまうことになりかねず、面倒ではあるもののこうした類の本が出るたびに、蠅たたきをしておく必要があると考えを改めました。よって、高橋先生に書いて戴いた同書の書評、今回も本ブログに公開させていただくことになりました。

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

 

慶應義塾大学 高橋信一

 久方振りに加治将一氏の「幕末維新の暗号」について行った検証と同じことをやる破目になった。2009年3月文芸社から刊行された「日本の夜明け フルベッキ博士と幕末維新の志士たち」の著者、山口貴生(隆男)氏が「フルベッキ写真」の陶板額を売り出した張本人である。彼の前著は、陶板額に付けて販売された解説書だが、「フルベッキ写真」自体の解明に纏わる事柄は記述されていなかった。これらについて最初に説明していないのは一種の情報操作である。彼に会ったのは3年前のことだが、その際にブログに掲載している私の「フルベッキ写真の調査結果」の草稿を送って、「陶板額の修正版を出すように」と言ったのに、無視されている。本書は、たくさんの歴史の記録を集めて来て、幕末・明治維新の周辺状況を詳述した労作には違いないが、そんな暇があったら、「古写真の歴史」についての学習を徹底的にした方がよかった。「古写真」を論じているのに、「古写真の歴史」がほとんど語られていない。参考文献として引用されているのは、渡辺出版の「上野彦馬歴史写真集成」のみである。それも、掲載する写真の引用に使っただけのようだ。「上野彦馬歴史写真集成」の巻末には「フルベッキ写真」に関する東京大学の倉持基氏の論考があるのに、それを読んだ形跡が認められない。読んだのなら、故意に無視しているとしか思えない。「古写真の歴史」の解明は、これまで限られた研究者によって行われて来たので、確かに不明な点は未だに多く、間違って解釈されてきたことが現在でも踏襲されているということがあることも否めない。「上野彦馬歴史写真集成」にも多くの修正すべき記述がある。しかし、「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオが上野彦馬のものでないということには断じてならないのである。そのことは、「古写真の歴史」をちょっと勉強すれば理解出来るはずである。

 偽説の信奉者たちは、秘密の会合の目的を主張しながら証拠写真撮影の目的を説明していない。坂本龍馬が持っていて近藤勇に見せたという土佐勤王党の血判状のようなものだというのか。では、でっち上げられた人物の誰が「フルベッキ写真」の保管者になったのか。現状、偽説に名前が上げられている人物の内、森有礼が所蔵したアルバムに大判のオリジナルでなく、名刺判の複写が残されていたのが、唯一である(平凡社刊 石黒敬章・犬塚孝明著「明治の若き群像」参照)。オリジナルと考えられるのは、フルベッキ自身が持っていたものと、長崎留学の記念写真を撮った岩倉具視の息子たち具定・具経兄弟の家にあったもののみである。これをもって、岩倉具視が最大の黒幕だったと言うのか。「フルベッキ写真」は秘蔵の写真ではなかったことが、2008年秋に明らかになった。横浜開港資料館に寄贈された明治前半のスチルフリード写真館が販売した写真アルバムの余白のページに、所有者オール氏が長崎の上野彦馬写真館で購入した数枚の長崎の写真の中に、「フルベッキ写真」のオリジナルが貼り付けられているのが見つかった。明治7年ごろには、上野写真館の店先で売られていたのである。明治初年における名刺判写真撮影の費用は現在の価格にして10万円くらいと推定される(図①に白米10kgの値段と比較した写真の値段の推移を示した。朝日新聞社刊「値段の明治大正昭和風俗史」と「続値段の明治大正昭和風俗史」参照)。1枚数万円はした大判の高価な写真を買えるのは、来日した外国商人たちくらいだった。このアルバムの複製は誰でも見ることが出来るようになっている。興味のある方は確認のこと。
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 以下に、「日本の夜明け」に見られる明らかな間違い・疑問点を順を追って指摘した。大筋は基本的に「フルベッキ写真の調査結果」以来、いろいろとブログで述べて来たことの再確認であるが、自費出版に近く、発行部数の少ない「日本の夜明け」は一般の書店に並んでいない。過去のブログを参照しながら、お読みでない方々にも、改めて「フルベッキ写真」に対する正しい認識を持っていただきたいと願っている。

 (1)  口絵説明・・・「フルベッキ博士の子孫と言われている中村保志孝氏」が所蔵する写真     や資料を基にして「日本の夜明け」を編纂したとしているが、私は中村保志孝氏と平成 18年3月にお会いして話しを伺った。ご両親の写真も複写させてもらった。父親は中 村氏が3歳の時に亡くなっているので、記憶は定かではないとのこと。長崎外人墓地の 墓碑を詳細に調査した長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授の「時の流れ を超えて-長崎国際墓地に眠る人々-」によれば、中村氏の父 ペーター・グースワー ド氏はフルベッキの次女エマが生れた翌年の1864年ごろオランダで生まれ、193 2年に長崎で68歳で死去した。顔もフルベッキとは似ていない。中村氏本人は当初か ら、子孫であることを認識しておらず、戦後知人から言われた。「フルベッキ写真」もオ リジナルでなく、ゼロックス・コピーを人からもらったと証言した。偽説のでっち上げ に利用されたのである。そうでないなら、フルベッキとの血縁を証明するべきであろう。

 (2)  p.4・・・「フルベッキ写真」のオリジナルに近いものは、平成9年岩波書店が刊行 した「上野彦馬と幕末の写真家たち」に掲載された産能大学所蔵の写真で初めて一般に 公開された。それ以外は複写写真である。「日本の夜明け」の「フルベッキ写真」の出所 を明らかにすべきである。「上野彦馬と幕末の写真家たち」のコピーであろう。

 (3) p.5・・・「緻密な研究による」というが、その根拠はこの本の何処にも書かれていな  い。「明治二年説」以外に「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏や私の「明治元年説」がある。「調査してまわったそれらの資料」の中に、名前が上げられた人物を識別出来るようにした、比較のための参照写真がまったく集められていない。どのようにして、「フルベッキ写真」に該当する人物を当て嵌めることが出来たのか、何の説明もない。

 (4)  p.39・・・フルベッキの「次女エマ・ジャポニカ」の誕生日を2月4日としている のは、「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏の解釈であるが、エマの誕生日は186 3年2月7日であることがクララ・ホイットニー「クララの明治日記」から読み取れる。 フルベッキの手紙(横浜開港資料館蔵「The Reformed Church in America, Japan Mission」)の原文を正確に解釈すると、マリアの陣痛が始まり出産の床に就いたのが2 月4日である。

 (5)  p.46・・・1869年3月23日フルベッキの東京出発に「長崎から36人の生徒 が付き添い」とあるが、佐賀藩士27名に東京等留学の許可が下りたのは、3月31日 であり、フルベッキと行動を共にしたわけではないし、全員が大学南校に入学したわけ でもない。

 (6)  p.48・・・横井小楠の甥「横井左平太・大平兄弟」は密航者であり、変名で渡航し たが、「日下部太郎」は幕府の渡航許可証を持ったれっきとした留学生である。変名では なく、新天地へ赴く意思をあらわすために改名した。

 (7) p.63・・・「フルベッキ博士の足跡」の日付けは村瀬寿代氏の「日本のフルベッキ」の年表に従って西暦で書かれているが、p.163からの「幕末維新の年表」は和暦で書かれているので注意が必要である。山口氏自身も混乱・混同しているようだ。肝心の(10)p.66に出て来る「西郷隆盛の空白期間」はどっちの暦年で考えるべきかによって、長崎でのアリバイがある人物とない人物が変って来る。いい加減な話である。

 (8) p.65・・・「2月4日」でなく、1863年2月7日に次女エマは生れた。

 (9) p.66・・・ここに上っている人物たちが済美館で学んだ記録はない。石橋重朝、丹 羽龍之助、中島永元、江副廉蔵、中野健明らは致遠館、陸奥宗光、高橋新吉は何礼之の私塾、大隈重信と副島種臣は致遠館設立以前にフルベッキの住居に通って個人教授を受 けた。村瀬寿代氏の研究論文(2000年「桃山学院大学キリスト教論集」と2006年「関西英学史研究」)を参照されたい。

 (10)p.66・・・「2月14日から3月4日頃」というのは、(48)p.187で私が扱 っている西郷隆盛の行動の記録のない空白期間を根拠にしているが、p.187の記述 は和暦で書かれているので、ここでは西暦に換算する必要がある。正しくは、1865 年3月11日から30日となる。それとも、西暦の2月14日から3月4日なのか。い い加減な記述である。記録がないのは、意味があってのことだと断定することは出来な い。単なる偶然である可能性が高い。空白期間を作るには、残っている記録の改竄が必 要になる。安易に改竄を主張するのは極めて危険である。

 (11)p.66・・・「3月22日」は和暦である。薩摩藩士たちが密航したのは、1865年 4月17日である。

 (12)p.67・・・「明治元年8月、庄村助左衛門が横井兄弟について相談にフルベッキを訪 れた」のは、慶応元年のことではないか。兄弟の留学希望を叶えるために、横井小楠が 庄村経由でフルベッキに頼んだ。

 (13)p.68・・・「折田彦一」は「折田彦市」の間違いである。折田彦市は岩倉兄弟といっ しょに長崎留学した人物で、「フルベッキ写真」に写っているはずの人物である。三高同 窓生の板倉創造著「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究-」を参照されたい。

 (14)p.75・・・「慶応元年説では問題ない」というが、この時期に長崎にいることの出来 ない人物がいないかどうかについて何ら説明されていない。明治二年がだめで、慶応元 年がなぜいいのか。

 (15)p.76・・・「上野スタジオで撮影したと断定されていない」というが、明治元年から 6、7年ごろまでに使われた上野写真館のスタジオは、専らこのスタジオであることは、 現在の古写真界の常識である。以前のブログの繰り返しになるが、昭和9年に永見徳太 郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置 き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のも のであることがわかる。参考になる撮影時期が明らかな写真をいくつか紹介する。1. 長崎歴史文化博物館が所蔵する明治2年1月10日撮影の振遠隊凱旋記念写真(ブログ に添付した写真① 振遠隊凱旋記念)と同じ日に幹部だけで撮られた集合写真。大正7年隊士の生き残り たちによって編纂された「振遠隊」にも掲載され、上野彦馬撮影と明記されている。こ の写真を見れば、このころ専ら使われていたスタジオであることが瞭然である。後者は 石黒敬七編「写された幕末3」にも掲載されている。2.明治2年6月撮影の山縣有朋・ 西郷従道洋行記念写真(「決定版 昭和史1」掲載)。(21)p.85に示されている「広 運館」の「フルベッキ写真」でもみられるように、スタジオの背景には欄干飾りの置物 が置かれている。これが、このスタジオの特徴である。「致遠館」の「フルベッキ写真」 では、大人数のため影に隠され、欄干飾りは見ることが出来ない。3.明治3年4月2 6日撮影の毛利元徳・木戸孝允ら集合写真。「写真の開祖 上野彦馬」に掲載、撮影日は 「木戸孝允日記」に記載がある。4.広運館教師レオン・ジュリーを囲む生徒集合写真 (写真② レオン・ジュリー)、「日本の開国 エミール・ギメ あるフランス人の見た明治」掲載の2枚。 上部の写真は明治3年10月にジュリーが広運館の教師になった際の記念に撮ったもの、 下部の写真は明治4年10月に退任して京都のフランス語学校に赴任する前に撮ったも のと思われる。スタジオの中央の敷石が外された時代の写真である。5.明治5年11 月14日撮影の「明治初年頃の外賓と外交官大隈侯」集合写真(写真③ 外交官大隈侯)。この写真は一 般にほとんど知られていないので、詳しく紹介したい。大正11年2月に大隈重信が亡 くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出て、多数の写真が口絵に取り 上げられたが、その中で大隈夫妻を囲んだ外国人たちの写真が掲載された。「大隈侯一言 一行」には、明治5年に大陸と長崎間に電信ケーブルが敷かれたのを機会に各国の外交 官と鉄道・灯台・電信関係者を引連れて長崎まで視察に行った際の大隈の述懐が載って いる。写っているのは大隈重信夫妻、山尾庸三夫妻、佐野常民、石丸安世、石井忠亮、 フレッシャー、ジョージ、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。横浜開港 資料館「図説アーネスト・サトウ幕末維新のイギリス外交官」、萩原延壽「遠い崖 アー ネスト・サトウ日記抄」、「灯台巡回日誌(「大隈文書」)」、「杉浦譲全集 第5巻」の「燈 台電信巡視日記」を見れば大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎 に滞在していたことが分かる。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事 なし」と書いてあり、仕事は休みとなったので、上野彦馬写真館で集合写真を撮った後、 会食している。このように、このスタジオは専ら、明治以降に上野写真館で使われてい たのである。その他、山口氏が引用する「上野彦馬歴史写真集成」にもスタジオの様子 が分かる写真が掲載されている。
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左より写真①、写真②、写真③(Ohkuma.pdf)

 (16)p.76・・・「フルベッキ博士と一緒に写っている子供」が男の子か女の子かの解釈に ついては人間の感性が同じでないことの証左であり、見解の相違は埋められない。断定 して、それに基づく推測をするべきではないと考える。(29)p.91で、再度触れる。

 (17)p.77・・・「名前なども判明しているはずが不明」なのは、「フルベッキ写真」が佐 賀藩の生徒たちには渡らなかったことが原因であろう。手元になければ、誰が写ってい るかの情報は残らない。岩倉兄弟の長崎到着を京都の親元に知らせるための記念撮影だ ったので、フルベッキと岩倉兄弟の分以外に焼き増しされなかった。留学生の身である 岩倉兄弟たちが、佐賀藩士たち全員に配ったとは考えられない。当時は一枚のネガから の拡大・縮小焼付けは出来なかったし、1枚数万円もする高価な大判写真は極少数しか 作られなかった。「フルベッキ写真」の名刺判が存在するが、後年の複写である。江副廉 蔵が持っていた複写は明治初年の鶏卵紙判ではなく、明治後半以降の銀塩写真である。

 (18)p.80・・・「フルベッキ博士の送別記念写真」ではないというのが、前述したように、 私の見解である。岩倉家に残っていたオリジナルは残念ながら戦災で焼失し、昭和の始 め岩倉具視50回忌「岩倉公記念祭」の際に複写したものが京都・岩倉記念館に残って いる。

 (19)p.81・・・「フルベッキ写真の写場」については、私の論考「書評 馬場章編『上野 彦馬歴史写真集成』」(2007年「民衆史研究」掲載)を参照されたい。ブログでも「上 野彦馬の写真館と写場の変遷」として詳しく扱っている。慶応3年の後半に上野邸の敷 地を囲む白壁の塀が新築された。その際に、今まで使われていた慶応年間の狭いスタジ オの一つが改造されて広いスタジオになったと推定しているが、断定出来るところまで 煮詰まっていないのが現状である。しかし、「明治15年、ビードロの家」というのは、 従来の研究者の見解を修正する必要がある。屋根にビードロ(ガラス)を張ったスタジ オの様子は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」に掲載の写真で知れる。その床 に敷かれた絨毯の模様を日本カメラ博物館刊行「写真館『上野撮影局』誕生 上野彦馬 が愛した長崎」に掲載されている明治10年までに成立したことが明らかな外国人所有 の写真アルバムの写真と比較すると、明治15年よりかなり早くから「ビードロの家」 のスタジオは完成していたと見なせる。このスタジオは先の欄干飾りを置いた「フルベ ッキ写真」のスタジオとは別に上野写真館の敷地内に作られたのである。同様な写真は 「上野彦馬歴史写真集成」にもあり、この新しいスタジオは明治7、8年ごろから既に あったと結論出来る。また、詳細は別の機会に取り上げるが、中島川沿いの塀際に建て られた上野写真館の二階家は明治5年には完成していたようだ。このような推測が出来 るのは、近年たくさんの幕末・明治の古写真が公開、研究者の目に入るようになったお 陰である。古い常識で、誤った妄想を正当化するのは、その内にぼろが出ることが必定 なのでそろそろやめた方がよい。

 (20)p.81・・・「植木と草履」のところには、植え込みを囲う置石も見えているが、広運 館の集合写真ではなくなっている。これが意味するところは、致遠館の「フルベッキ写 真」は明治元年の後半、広運館の「フルベッキ写真」は明治2年の前半と、撮影された時期の違いを示している。因みに「振遠隊凱旋写真」では植木の枝が残っている。

 (21)p.82・・・「勤務先の洋学所」は文久年間には江戸町にあった。その後の校舎の場所 の変遷は洋学所を引き継いだ現在の長崎市立長崎商業高等学校が刊行の「長崎商業百年 史」で辿ることが出来る。元治元年正月、大村町に移転し「語学所」に校名を改めた。 フルベッキはこの年の6月に教師として雇われた。(23)p.85の③の写真は、この ころのものであろう。慶応元年2月に新町の元長州蔵屋敷跡に校舎を竣工、8月に移転 して「済美館」となった。慶応元年2月に、p.86の①の「フルベッキ写真」が撮影 されたとすると、その場所は「洋学所」でも「済美館」でもなく、「語学所」である。「洋 学生」でなく、「語学生」でなければならない。「広運館」の前身「語学所」の教師と生 徒が写る方のp.87の③の「フルベッキ写真」がこのころ撮られたのであれば、大村 町の校舎がスタジオとして妥当かもしれないが、(28)p.89にあるように②「広運館」の「フルベッ キ写真」は明治2年に撮られた。その時、広運館は明治新政府によって移転させられ、 外浦町の西役所跡にあったのである。慶応元年と明治2年では、別々の場所にあったは ずの学校の校舎に同じ構造のスタジオがあり、両方で撮影されたというのか。訳の分か らない話である。①と②の二つの「フルベッキ写真」は同じスタジオで撮られている ことは疑いないので、「致遠館」の「フルベッキ写真」にはさらに相応しくない。このス タジオは日常的に写真を撮るために上野写真館の敷地内に作られた場所であり、たまた ま特別に用意されたものではないことは、(15)p.76の項で示したとおりである。

 (22)p.84・・・「薩摩藩の蔵屋敷」では、尚更のこと非常に特別な場所になる。考慮の他 である。秘密の会合から秘密のスタジオへと妄想が広がっているが、「古写真の歴史」だ けでなく、「長崎における洋学の歴史」が理解出来ていないことは明らかである。

 (23)p.85・・・「①」が致遠館の「フルベッキ写真」、②が広運館の「フルベッキ写真」、 ③は朝日新聞社刊行「読者所蔵 古い写真館」に掲載されたもので、元の所有者から板 橋区立郷土資料館に寄贈された。郷土資料館は明治2年の写真とは認定していない。根 拠もなく、勝手に決め付けている。こちらの写真はフルベッキが洋学所(語学所)で教 え始めた元治元年6月以降のもので、中列の右端に英語教師の岡田好樹(②の広運館の 写真にも写っている)、同じ列の左から二人目に柴田昌吉(岩崎克己「柴田昌吉傳」)が いるが、柴田は慶應3年3月、江戸の海軍伝習所の通詞として、柳谷謙太郎とともに出 仕したので、明治以降の撮影は考えられない。尚、この写真は長崎大学経済学部武藤文 庫にも複製が所蔵されている。ともに済美館に学んだ人物や教師が残したものであろう。 2007年版名古屋大学附属図書館研究年報掲載の中井えり子「『官許佛和辭典』と岡田 好樹をめぐって」を参照してほしい。3枚の写真の内、これが最も古い写真なのである。

 (24)p.86・・・「見事なまでの髭」はフルベッキの長崎時代の初期の姿そのものである。 長崎歴史文化博物館には、フルベッキの肖像画(「図説 大隈重信:近代日本の設計者生 誕150年記念」を参照)が所蔵されているが、それには髭が描かれている。フルベッ キは晩年にも髭を生やしていたので、時々そうしていたと考えた方がよい。「日本のフル ベッキ」の原書「Verbeck of Japan」には妻マリアと二人で写る晩年のフルベッキの写 真(写真④ フルベッキ夫妻)が掲載されているが、これには「立派な髭」が見られる。
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写真④

 (25)p.87・・・「②」のキャプションの「大隈重信、江藤新平、副島種臣」はどこにいる というのか。好意的に見れば、誤植である。偽説では①にこれらの人物が写っていることになっている。②にもいるなら、その位置も示すべきである。

 (26)p.88・・・「立派な髭」で年齢を考察するのは、笑止である。

 (27)p.89・・・「佐賀藩士としたら一体誰」かを追求するのが、地元の研究者の最大の課 題である。それを蔑ろにして妄想に耽っている場合ではない。「江藤南白」や「開国五十 年史」を読むべきである。致遠館に入学した佐賀藩士は岩松要輔氏によって杉本勲編「近 代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」にリストされている。山口氏はそれを 読んで、(37)p.123に名前を上げているのに、なぜ彼らの顔写真を集める努力を しないのか。

 (28)p.89・・・「③の写真が一番新しい」根拠は髭のようだが、武士たちの多くが、月代 を剃りあげている点はどう説明するか。月代をやめたのは、大政奉還以降であり、慶応 元年の時点では藩士たちの大部分は月代を剃っていた。「②の写真は明治2年、広運館 教師フルベッキ送別記念写真」と正確に記述しているので、世の中の常識に合わせてい る。この時、広運館は外浦町の西役所跡にあった。秘密のはずの①の「フルベッキ写真」 がなぜ、②の「フルベッキ写真」と同じスタジオで撮影されたのか。自己矛盾を取り繕 えなくなっている。

 (29)p.91・・・「男の子のようにショートカットはあり得ない」というのは、単なる思い 込みに過ぎない。平凡社刊行の石黒敬章・犬塚孝明「明治の若き群像」には明治11年 家族全員で米国へ発つ前に浅草の内田写真館で撮影されたフルベッキの家族写真(写真 ⑤ フルベッキとその家族)が掲載されている。後列には当時15歳の次女エマがショートヘアで立っており、 フルベッキが抱き寄せているのは、三女のエレノアである。フルベッキ家は妻マリアも 含めて髪を短くするのが伝統だったのではないか。「フルベッキ写真」の子供のチェック 柄の服は女の子のものであろう。
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写真⑤

 (30)p.96・・・秋田角館から出て来た「大礼服を着た謎の人物」は尾崎忠治であること が、東京大学馬場章研究室の研究で解明済みである。日本写真芸術学会平成15年度年次 大会研究報告予稿集で「歴史写真における新たな人物比定方法について」と題して報告 されている。倉持基氏の東京大学大学院情報学環・学際情報学府2003年度修士論文 「『歴史写真』における人物比定方法の基礎的研究」を参照のこと。尾崎家にも角館と同 様の写真が残っている。「フルベッキ写真」とは無関係である。「フルベッキ写真」の西 郷隆盛と名指しされた人物は鱈子唇ではない。

 (31)p.99・・・「只もちを延べたる如きめずらしき耳」の解釈は、耳タブが長い釈迦の耳 のようだと言ったに過ぎないのではないか。「もちをちぎったような」とは言っていない。

 (32)p.116・・・「フルベッキ小伝」は明治28年に刊行されてはいない。まだ草稿の段階であった。決定稿は1909年に軽井沢で開催されたオランダ改革派教会の集会でワイコフによって読まれ、出版された「Biographical Sketches read at the Council of Missions」(明治学院大学所蔵)である。2009年4月に明治学院大学から出版された「明治学院歴史資料館資料集 第6集『アメルマン・フルベッキ・ブラウン・ヘボン・J.H.バラ史料集』」に日本語訳が収められた。これには「日本のフルベッキ」からの引用が多く見られ、グリフィスの誤解の影響を受けているところもある点に注意すべきである。

 (33)p.118・・・戸川残花の「氏の交際せし人」以下の文章は正確に記述すべきである。 後世の研究者の誤解の元になった文章である。「氏の交際せし人、或は其門下の学生には 岩倉侯(具視でなく、具定のことである)、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之(博 之ではない)、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎(陶次郎ではない)の諸 君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和字典を著しし柴田(昌 吉)氏等のあれば美談逸事多しといえども氏の恭謙なる敢えて当年の事を語らず」。特に 秘密や世間をはばかったわけではない。

 (34)p.119・・・「長崎洋学生」や「維新前」についての厳密な議論に意味はない。(21)p.82で述べたように、広運館は慶応元年2月の時点では「洋学所」でなく、「語 学所」だった。戸川残花は総て分かって書いていたわけではないだろう。彼はフルベッ キが米欧回覧を提案したブリーフ・スケッチの存在を知らなかった。侍姿をほとんど見 ていない残花には、明治以前の写真に思えたと解釈出来る。

 (35)p.120・・・「致遠館の学生たち」と書かれても、反論しなかったのは、それが真実 だったからである。

 (36)p.122・・・「誰一人として反論しなかった」のは、p.121に上げられた人物が 「フルベッキ写真」に写っているとは戸川残花が主張していないからである。彼は人物 の特定を行っていない。勘違いすべきではない。

 (37)p.123・・・「香月経五郎」と「山中一郎」は写っている位置が、「中島永元」、「丹 羽龍之助」、「石橋重朝」、「江副廉蔵」、「大庭権之助」、「中野健明」は写っていると大正 3年刊行の「江藤南白」に明記されている。その他の歴史の中に消えて行った人物は5 0年が経過して、特定が困難になったということである。写真が高価でなく、佐賀藩士 の子孫たちに伝わっていれば、状況が変っていただろう。2008年、佐賀県立図書館 が刊行した佐賀藩の長崎における対外交渉役伊東外記(次兵衛)の日記(「佐賀県近世史 料 第5編第1巻幕末伊東次兵衛出張日記」)の明治元年10月27日の記録に「今晩か ら岩倉兄弟が致延(遠)館に寄宿することになった」と書かれている。この時、岩倉兄 弟が長崎に到着したのであり、その後に「フルベッキ写真」は撮影されたわけである。 また、それより少し前の10月8日に「中島写真館に副島要作らフルベッキ一同と出か け、写真を撮った後、藤屋で西洋料理を会食した」という記録があり、恐らく大判でな く、名刺判で撮られたであろう。この写真が現存すれば、「フルベッキ写真」解明の大き な手掛かりとなるはずだが、未だ発見されていない。私にはこちらの方が大変不思議で ある。佐賀の乱で佐賀市内一帯が焼けたこととも関係があろうか。

 (38)p.124・・・「致遠館の名前が分かっている」証拠は、「上野彦馬歴史写真集成」の巻 末にも取上げられた篠田鉱造の「明治百話」に載っているフルベッキの証言である。「長 崎の日本第一の写真師が撮った。一方は佐賀藩の侍、一方は幕府の侍」とあり、前者は 致遠館を、後者は広運館を指している。

 (39)p.130・・・「構図法」を島田氏が確かに実行したかは検証されていない。西郷隆盛 は対照写真が存在しないので、実行しても信頼性のある結論は出なかったはずであるが、それをまことしやかに説明しているのに写真の素人の歴史論文査読者が引っ掛かった。 彼の方法が真に科学的なら、その手法を山口氏自身が、対照写真の残っている人物に適 用してみせるべきである。恐らく、三者三様の結論が出るであろう。警視庁の科学研究 所は、鑑定に責任を持つべきである。鑑定が正しいのなら、46人全員に適用してみせる責任がある。

 (40)p.131・・・「①大隈侯八十五年史」には「フルベッキ写真」は登場しない。「開国 五十年史」の間違いである。「②江藤南白」は大正3年刊行である。「致遠館の教師とそ の門弟、明治初年記念撮影・・・・・」はちゃんと記述すべきである。「慶應年間長崎に 設立したる佐賀藩英語学校致遠館の教師及び其の門弟等が明治初年に於ける記念の撮影 中段の中央に在るは教師フルベッキ(米人)にして左側の少年は其長男右側は公爵岩倉 具定なり向って右より上段の第五に立てるは香月経五郎之に隣りして其六に在るは山中 一郎なり中島永元、丹羽龍之助、石橋重朝、江副廉造、大庭権之助、中野健明等亦此中 に在り」。江藤新平と大隈重信の名前は何処にも入っていない。江藤や大隈の存在を隠し たいのなら、写真自体載せなければよいのである。「フルベッキ写真」には真に彼ら二人 は写っていないのである。情報操作すべきではない。「江藤南白」には「フルベッキ写真」 以外に佐賀藩士の集合写真が数枚挿入されており、同定の参照写真として極めて貴重で ある。

 (41)p.134・・・「Verbeck of Japan」には致遠館の「フルベッキ写真」は掲載されてい ない。「広運館の写真」が、「フルベッキ写真」についての記述の近くに挿入されている。 グリフィスの日記によれば、フルベッキの息子のウィリアムは「Verbeck of Japan」出 版前にグリフィスと原稿の読み合わせを行っており、その際に「広運館の写真」をグリ フィスに貸したが、返却された。「Verbeck of Japan」に使われた写真のほとんどはラト ガース大学のグリフィス・コレクションに保管されているが、これらの二つの写真は現 存しない。

 (42)p.135・・・「大隈侯」が写っているとしたのはグリフィスの勘違いである。大隈と の面識はほとんどなかった。産能大の「フルベッキ写真」を拡大すれば、大隈とされる 人物の額に凹凸が見られるが、真の大隈重信にそのようなものがあったことはない。島 田氏は江副家の解像度の低い複写写真を基に同定を行っており、信頼性に大いに疑問が ある。

 (43)p.136・・・「江副暢子女史の手紙」が本物であるかどうかについて、論文では保証されていない。女史の筆跡を鑑定出来る、肝心な証言の部分を写真に撮って論文に掲載していれば、こんな疑念は生まれないが、そんなことは出来なかったのだろう。島田氏のでっち上げでないと言えるか。女史の記憶違いも含まれているであろう。大隈重信の最初の妻美登は江副廉蔵の姉であり、関係が深かったので、大隈が写っていれば、どの位置にいるかはっきり示せたのではないか。そうではなかった。

 (44)p.159・・・「集合場所は秘密が漏れずに安全な場所」というが、「フルベッキ写真」 のスタジオは日常的に使われて来た。

 (45)p.160・・・「中村先生の資料」が中村保志孝氏自身に渡ったのが、いつなのか、説 明してもらいたい。全員の名前と、撮影時期を明記したのは誰なのか。中村保志孝氏の 資料を基にして「日本の夜明け」を書いたなら、山口氏はそれらを明らかにすべきであ る。

 (46)p.160・・・「顕著な疑問点」についての反証は、前述までに既に論じて来たので繰 り返さない。

 (47)p.187・・・「西郷隆盛は太宰府で五卿と会談した」なら、なぜ、三条実美は長崎の 秘密会合に加わらなかったのか。岩倉具視が「フルベッキ写真」に写っているなら、三 条もいたはずではなかったか。

 (48)p.187・・・「西郷隆盛の空白期間2月14日から3月4日」に誰が何処にいたか、 もっと徹底的に調査すべきである。そうすれば、歴史の記録を改竄しなければ、辻褄が 合わない人物が大量に出て来るであろう。この空白期間を西暦で考えると、薩摩藩の密 航留学生は1865年2月15日から4月17日まで、鹿児島羽島に潜伏していた。残 っている記録(「森有礼全集」には密航の詳細な記録が収められている)は捏造されたも のなのか。「大久保利通日記」によると、大久保利通と吉井友実は1865年2月23日 (慶応元年1月28日)に博多に着き、27日に博多から西郷隆盛に手紙を出し、3月 4日に京都に着いた。一方、空白期間を和暦で考えても、薩摩藩留学生は長崎に行って いない。大久保利通は慶応元年2月から3月は京都におり、京都を発ったのは3月22 日(西暦4月17日)であり、鹿児島に4月3日(西暦4月27日)に着いた。坂本龍 馬と中岡慎太郎は京都にいて、2月22日(西暦3月19日)に大久保利通と会ってい る。小松帯刀はこの年4月まで京都二本松の私邸におり、鹿児島へ帰るのは4月後半で ある。後藤象二郎も慶応元年には鹿児島におり、長崎滞在の記録は存在しない。みんな で情報を持ち寄れば、如何に空白期間に意味のないことなのかよく分かるのではないか。

 (49)p.222・・・「人物の断定」の作業は放棄されている。杜撰な研究である。「本物」 といっても、所謂有名人が写っている写真と同じ顔が「フルベッキ写真」に写っている かどうかは別である。その判断の材料はまったく提供されていない。偽説に上げられた 有名人の内で、実際に幕末期に上野写真館で写真を撮り、名刺替りに配っていた藩士た ちは、伊藤博文、大隈重信、木戸孝允、後藤象二郎、坂本龍馬、副島種臣、高杉晋作、 中野健明、陸奥宗光、横井左平太・大平兄弟とかなりいる。萩原延壽「陸奥宗光」には、 陸奥宗光の遺族が持っていた慶応元年当時の狭いスタジオで写る陸奥宗光と横井左平太 ・大平兄弟らの集合写真が掲載されている。しかし、それ以外の人物も同時期に長崎に いたことが偽説では想定されているのに、写真が残っていないのはどうしたことか。こ のことは長崎に行っていないことを示すのではないのか。振り返って致遠館で学んだ佐 賀藩士たちの写真も現存するものは少なく、先に上げた「江藤南白」の口絵に数枚見る のみである。そうしたことから、佐賀藩士たちの人物像を現代の我々はほとんど知るこ とが出来ない。それをもって、佐賀藩士ではないと決め付けることは出来ないのである。 山口氏がやらない以上、ブログの読者にこちらから情報を提供するしかないと思い、主 な人物の参照写真の出所を以下に上げることにする。人間の顔は年齢と共に変化し、髭 や髪形でも印象が変る。出来るだけ慶応元年に近い年代に撮影された写真を集める必要 があるが、日本で写真撮影が始まって数年しか経っていない時期の写真はほとんど現存 しない。島田氏らは不完全な写真を基に同定を行ったはずで、同定というよりも、似通 っている人物の当て嵌めを行ったに過ぎない。それを実証するためにも、読者の方々も 同定作業を試みてほしい。

「fake.pdf」をダウンロード
フルベッキ写真に写る人物

 (50)p.224・・・「フルベッキ」:「フルベッキ書簡集」、「図説 日本医療文化史」、「明治 の若き群像」。

 (51)p.226・・・「ウィリアム・フルベッキ」:「明治の若き群像」中のフルベッキの家族 写真に次女エマと並んで写っているが、二人はよく似ている。小さい頃の写真は男女の 区別がつかなかっただろう。

 (52)p.227・・・「石橋重朝」:「佐賀 幕末明治500人」。

 (53)p.228・・・「伊藤博文」:「伊藤博文傳」、「幕末明治の肖像写真」、「伊藤公実録」、 「写された幕末3」。大正2年刊行の「歴史写真」には明治元年神戸で撮影の鮮明な伊藤 の写真が掲載されている。

 (54)p.230・・・「井上馨」:「世外井上公傳」、「幕末明治の肖像写真」。

 (55)p.231・・・「岩倉具視」:「幕末明治の肖像写真」。彼の公家の結髪姿は日本カメラ 博物館刊行「よみがえる幕末・明治 写真で楽しむ ときの流れ」の裏表紙に掲載され ている。彼は明治4年、米欧回覧でアメリカに行くまで、髪を伸ばすことはなかった。

 (56)p.233・・・「岩倉具定」と「岩倉具経」の留学は当時の「Japan Weekly Mail」な どで調べがついている。明治3年2月22日にAmerica号でサンフランシスコに向け出 航した。1月にアメリカに向けて出発した船はない。岩倉兄弟の写真は岩倉具忠「岩倉 具視-国家と家族-」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」を 参照。

 (57)p.234・・・「岩倉具綱」:「雑誌 太陽 明治30年2月号880ページ」。彼の写 真はほとんど知られていない。

 (58)p.237・・・「大室寅之佑(祐)」の名前が「フルベッキ写真」に登場するのは、近年になってからである。島田氏は関係していない。平成14年ごろからではないか。明治天皇すり替え説を補強するためにでっち上げられた人物である。写真など存在しない。

 (59)p.238・・・「江副廉蔵」:「佐賀 幕末明治500人」、「大隈重信と江副廉蔵」。彼が慶応元年から長崎に留学していた記録はない。「佐賀県教育委員五十年史」によると、致遠館の前身蕃学所設立当時の人物は、大隈重信、副島種臣、小出千之助、石丸安世、中牟田倉之助、馬渡八郎、中野健明、副島要作、中島永元、堤喜六、中山九郎、相良知安、綾部新五郎、本野周蔵、山口尚芳らである。江副廉蔵は慶応3年12月12日に致遠館伝習生として登録されている。ここでは、江副家からいただいた青年期の写真を掲載する。

 (60)p.239・・・「江藤新平」:「江藤南白」、「幕末明治の肖像写真」。

 (61)p.240・・・「大木喬任」:「日本人物百年史」、「近世名士写真」、「幕末明治の肖像写真」。

 (62)p.242・・・「大久保利通」:「日本人物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。

 (63)p.244・・・「大隈重信」:「実業之日本 大隈侯哀悼号 大正11年2月」、「日本人 物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。彼の最もよく知られている肖像写真は明治5年12 月にウィーン万博に出品するために横山松三郎によって撮影されたものである。「東京国 立博物館所蔵 幕末明治期写真資料目録」参照。彼は明治元年10月から11月にかけ て長崎にいたことが「大隈重信関係文書」の中の大隈の手紙で知れるので、「フルベッキ 写真」が真に撮影された明治元年10月後半には長崎にいて、撮影に参加した可能性は 否定出来ない。しかし、(42)p.135で述べたように、大隈の顔とは一致しない。 この「フルベッキ写真」の人物を「写真の開祖 上野彦馬」のp.55に写る人物と比 較してほしい。皆さんにはどのように見えますか。「日本のフルベッキ」のグリフィスは 「フルベッキ写真」に大隈が写っていると書いているが、彼が大隈と会ったのは187 1年1月以外に知られていない。グリフィスの来日当時の日記に大隈は登場しないし、 「大隈重信関係文書」や「グリフィス・コレクション」には彼らがやり取りした手紙は 残っていない。グリフィスが大隈について研究するようになったのは、1900年に「日 本のフルベッキ」を刊行したのが切っ掛けである。物事の順序を間違えてはいけない。 内海孝「大隈重信とW・E・グリフィス(「大隈重信とその時代」)を参照のこと。後年 の大隈の顔しか知らなかったことは十分考えられる。彼が正しいとすると、「フルベッキ 写真」には柳屋謙太郎が写っていなければならない。柳屋は何処にいるのか。

 (64)p.245・・・「大村益次郎」の写真は現存しない。

 (65)p.247・・・「岡本健三郎」:「幕末・明治美人帖」

 (66)p.248・・・「勝海舟」:「勝海舟」、「幕末明治の肖像写真」。

 (67)p.249・・・「香月経五郎」は「本物」として、写っている位置が同定されている数 少ない人物で、「江藤南白」に掲載の「フルベッキ写真」の説明の中に明確な記述がある。 (40)p.131の項を参照してほしい。この本には、他のページに佐賀藩士たちの 写真が何枚も掲載されており、「フルベッキ写真」との照合の格好の参照写真である。試 みられたい。

 (68)p.250・・・「木戸孝允」:「幕末明治の肖像写真」。

 (69)p.252・・・「日下部太郎」は慶応元年9月に長崎に留学した。福井県立図書館に記 録が残っている。3月には長崎にいなかった。彼の顔写真はほとんど知られていない。 1982年と近年刊行の「よみがえる心のかけ橋:日下部太郎/W.E.グリフィス」 以外は、ラトガース大学所蔵のグリフィス・コレクションに留学中の写真を見出すのみ である。どうやって同定したのか。単に当て嵌めただけだろう。

 (70)p.253・・・「黒田清隆」:「幕末明治の肖像写真」。

 (71)p.255・・・「五代友厚」:「幕末明治の肖像写真」。偽説を信奉する人たちは常に強 弁しているが、本当は山中一郎であり、(67)p.249でも述べたように「江藤南白」 に位置も明記されている。それを認めないなら、「香月」も削除されるべきだが、辻褄合 わせのため、どうしても「五代」を加えたいのであろう。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (72)p.256・・・「後藤象二郎」:「上野彦馬歴史写真集成」、「伯爵後藤象二郎」。

 (73)p.258・・・「小松帯刀」:「近世名士写真」。

 (74)p.260・・・「西郷隆盛」の写真は現存しない。どんなにそれらしい写真や肖像画を 持って来ても照合は意味がない。似顔絵で指名手配の犯人を逮捕するようなものである。同定はあくまでも、本人の写真と確認出来ているものを用いて行われなければならない。

 (75)p.262・・・「西郷従道」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「元帥西郷 従道伝」。

 (76)p.263・・・「坂本龍馬」:「クロニクル 坂本龍馬の33年」、「上野彦馬歴史写真集 成」。

 (77)p.264・・・「鮫島誠蔵」:「日本名家肖像事典」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アル バム」。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (78)p.266・・・「品川弥二郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名 士写真」。

 (79)p.267・・・「副島種臣」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「蒼海遺稿」、 「副島種臣全集」。慶応元年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮られた写真が「鍋島直正公伝」 に掲載されている。副島は明治天皇が洋髪になる明治5年まで丁髷をけっしてやめよう とはしなかった。

 (80)p.268・・・「高杉晋作」:「東行:高杉晋作」、「伊藤博文傳」。

 (81)p.269・・・「寺島宗則(松木弘安)」:「写真集 甦る幕末」、「幕末明治の肖像写真」。     慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (82)p.271・・・「中岡慎太郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「勝海舟」。

 (83)p.272・・・「中島信行」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士 写真」。

 (84)p.273・・・「中村宗見」:「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」。慶応元年薩摩 藩の密航留学生。

 (85)p.274・・・「中野健明」:「佐賀 幕末明治500人」。森重和雄氏の指摘によれば、 明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家 寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の 前に坐る人物、つまり「岩倉具視」の本当の姿の可能性がある。

 (86)p.276・・・「広沢真臣」:「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレ クション」。

 (87)p.277・・・「別府晋介」:「西郷隆盛」。

 (88)p.278・・・「陸奥宗光」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、萩原延壽 「陸奥宗光」。彼が中島信行、横井左平太・大平兄弟らと長崎に行ったのは慶応元年3月 18日、神戸の海軍操練所の閉鎖が決定した後である。陸奥は面長で知られていた。

 (89)p.280・・・「村田新八」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」。

 (90)p.281・・・「森有礼」:「森有礼全集」。これには森の若い頃の写真や両親の写真が あり、森の顔の特徴が遺伝によることがよく分かる。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (91)p.282・・・「横井小楠」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「横井小楠 傳」、「勝海舟」。

 (92)p.284・・・兄「横井左平太」と弟「横井大平」が米国に発ったのは慶応2年4月 28日である。西暦と和暦の混同がある。陸奥宗光らと上野写真館で撮った集合写真が 萩原延壽「陸奥宗光」にある。ここではラトガース大学留学中の写真をグリフィス・コ レクションから示す。

 (93)p.286・・・「吉井友実」:「北海道大学 北方資料室 明治大正期北海道写真目録」。 吉井の写真も非常に少ない。

 以上のように参考として上げた文献から抽出した参照写真を使って、偽説に名前が上っている人物について画像工学的な評価を少しずつ進めている。顔の何処の部分が一致して、何処が違うかを感覚でなく、画像認証の立場で見極める作業は容易でなく、感性に頼った同定作業に陥らないように古写真から人物同定するには何が必要かを検討している。いつか、まとめて報告したいと思っている。一般受けのするキャッチフレーズに惑わされずに、一つ一つの事実の記録を確証していくのが、本当の歴史の探求である。古写真(歴史写真)の分野でも同じことをやらなければならないことを理解していただきたい。何度も言うようだが、無名の佐賀藩士たちにも規模の大小はあれ、時代の変革期に生きたロマンがあったはずである。それを掘り起こすことにご協力いただける方が出て来ることを期待している。島田氏は西郷隆盛への思い入れが嵩じて偽説を創造した。「幕末維新の暗号」の加治将一氏はフリーメーソンへの幻想を脚色するために「フルベッキ写真」を利用した。偽説の総集編を書いたが、何を主張したいのか分からないいい加減な本だった。山口氏は大変革時代の日本の若者へのメッセージを形にしたかったかもしれないが、方法が間違っている。正しいことを論じるには正しいことの積重ねが必要であることを真摯に受け止めて間違いを訂正してほしいと思う。

(平成21年4月1日)

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2009年4月 3日 (金)

天安門事件とテレサテン

B090400 40代以上の世代の人たちのなかには、テレサ・テンのファンが大勢いると思います。私もテレサ・テンの歌はデビュー当時から時々耳にしていました。そして、その後大分時間が経ったある日、カミさんが持っていたCDから歌声のきれいな日本語の歌が流れてきたことがあります。最初は日本人だとばかり思っていたところ、昔聞いたはずのテレサ・テンの歌でした。そして、改めてテレサテンの歌声に惚れ直し、「テレサ・テン ベスト全曲集」(Polydor)を購入、今では気が向くと「時の流れに身をまかせ」、「つぐない」、「別れの予感」などを聞きながら仕事(翻訳)をしています。

B090402 さて、半年ほど前に有田芳生氏が著した『私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実』(文春文庫、以降『私の家は山の向こう』)に関心を持ち、オンラインで購入しました。そして、同書の中でテレサ・テンが漢詩を詠ったCD「淡淡幽情」の存在を知ったのです。(サンプルですが、アマゾンドットコムで試聴できます)

「淡淡幽情」

ちなみに、同CDに載っている漢詩は以下のとおりです。

1. 獨上西樓(ひとり西楼に登る)
2. 但願人長久(長寿を願って)
3. 幾多愁(悲しみが流れていく)
4. 芳草無情(無情な草の緑)
5. 清夜悠悠(寂しい夜に)
6. 有誰知我此時情(この心は誰も知らない)
7. 臙脂涙(涙は赤い花びら)
8. 萬葉千聲(離別の哀しみ)
9. 人約黄昏後(彼と契った黄昏)
10. 相看涙眼(別れの涙)
11. 欲説還休(憂愁)
12. 思君(あなたを偲ぶ)

上記のアマゾンドットコムでも、テレサ・テンのCD「淡淡幽情」を某読者は以下のように高く評価していました。

本作は83年に発表された、南唐・宋詞に新しく曲をつけてテレサが歌ったもの。このような傑作が存在することを今まで知らずにいたとは、自分の不明を恥じるばかりです。詞は中国の古典・韻律詩ですが、詩とちがって、元来詞牌というメロディーとともに歌うことを目的としたもの。残念ながら今となってはその詞牌がどのようなものであったか復元できないようですが、それを現代の曲で蘇らせようと考えたスタッフのアイデア、そしてそれに見事に応えたテレサの歌唱の見事さに脱帽します。千年も前の詞がこのように瑞々しく歌われようとは驚くばかり。もちろん厳選した詞ばかりなので、当然ではあるのですが、各曲の詞の素晴しいこと。是非ブックレットに印刷された詞を読み下し文で読んでみて下さい。昔の詩人の心が胸に響くでしょう。知らない詩人もいますが、南唐後主、蘇軾、歐陽修、朱淑真等の有名詩人の詞も含まれています。中でも南唐後主の詞を三作採用しているのは、外省人として台湾で生まれ育ったテレサの大陸への思いを反映したものでしょうか。

曲はどれも聴きやすく、古典の詞を歌ったものだから堅苦しいだろうなどと心配する必要はありません。千年前の古典を現代に蘇らせることに成功した破格の傑作に対し、同じ漢字文化圏の人間として、本作に限りない共感を覚えることは間違いないでしょう。

B090401 『私の家は山の向こう』は、筆者である有田氏のテレサ・テンに対する温かい思いやりで溢れており、等身大のテレサ・テンを伝えてくれる本であると思います。また、「テレサ・テンはスパイであった」とか、「テレサ・テンは中国に暗殺された」などという噂は、単なるデマに過ぎなかったことも同書を通読することで納得できるのではないでしょうか。

ところで、『私の家は山の向こう実』に以下のような記述があります。

 天安門事件の衝撃はとくに香港では深刻な波紋を呼んだ。1997年にイギリスから中国に返還されることになっていたからだ。民主主義を求める声が軍事力で弾圧されるならば、同じ運命を香港がたどらない保証など何もない。テレサ・テンもそう思っているひとりだった。
 テレサは「血の弾圧」のニュースを涙を流しながら見ていた。悲しさと衝撃で言葉も出なかった。何度も大陸で歌わないかと誘われて、そのつもりにもなっていた。しかし父母の祖国は、民主主義を戦車の力で踏みにじるような国だった。行かなくてよかったと思った。6月4日の事件はテレサ・テンから歌う気力を奪ってしまった。

『私の家は山の向こう』p.179

また、有田氏も天安門事件について同書の中で以下のように書いています。

 天安門事件は、意外な破門を世界に及ぼしていた。東欧諸国の社会主義体制が崩壊する象徴となったベルリンの壁の撤去である。そこに至る発端となったのは、東ドイツの中国大使館に対する抗議デモだった。テレサはベルリン市民が壁を破壊するシーンをニュースで見ていた。11月11日のことである。

『私の家は山の向こう』p.186

残念ながら、有田氏もテレサ・テンも天安門事件の背景について誤解しています。確かに、表層的には1989年6月4日の天安門事件を起こしたのは、鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派とされています。しかし、実質的な犯人はアメリカ(CIA)でした。また、有田氏はベルリンの壁の撤去の発端は、東ドイツの中国大使館に対する抗議であったと述べていますが、これも違います。

B090403 このあたりを明白に書いているのが故坂口三郎氏です。少し長くなりますが、以下に同氏の『世界騒乱の本質 天安門の黒い主役』(明窓出版、以降『世界騒乱の本質』)から引用しておきます。

 昨年(1989年)5月、北京の天安門広場の騒ぎは、元CIA長官、中国通、ブッシュの悪知恵から出たものである。
 このため、30年間断絶していた中ソ国交回復のために北京を公式訪問したゴルバチョフは北京に入ることもできず、空港で形だけの式典を済ませてモスクワに帰らねばならぬことになった。
 ブッシュの知謀はみごとに成功した。
 それから半年後、ベルリンの壁が撤去された。これが北京におけるブッシュの仕打ちに対するゴルバチョフの応答であった。
 これは、春の天安門事件よりも深刻な衝撃を欧米、特にフランスとイギリスに与えた。
 あわてたのはブッシュ、恐怖したのはミッテラン、困惑したのはサッチャー、歓喜したのは全ドイツ国民、戸惑ったのは日本の政治家、気をよくしたのは北京の首脳達であった。
 天安門広場におけるスローガン“自由と民主化”には実体はない。しかしベルリンの壁の撤去は40年間にわたってドイツ民族を苦しめてきた民族の血を喜びに沸かし、東欧諸民族を解放し、米、英、仏、の占領体制を崩壊させるものであった。
 第一次大戦におけるカイゼルの敗北はドイツにベルサイユ体制という苛酷な重圧を押しつけ、ヒットラーが出てこれを破壊したが、その破壊と共に、ヒットラー自身もその業績も消滅して、ソ、英、米、仏の戦勝国四ヶ国による占領体制がつづいたのであったが、その四ヶ国の中の最もドイツに対して強力な実力を持つゴルバチョフがこれを解放したのである。英も、仏も、米も、これに対して有効な打つ手はない。それで、全ヨーロッパの国家とその権力者達は動乱した。
 超大国の迫害と弾圧に苦しんできた全世界の弱小諸民族は解放と自由に奮起した。
 世界の現状を見て、共産主義の終焉失敗、資本主義の成功勝利、と考えるものが多い。しかしそのようなことはあり得ない。
 すでに明らかにしたとおり、四次元時空の宇宙の大法則により現在が過去化することはない。第二次大戦後の世界の現実は、共産主義よりも先に資本主義が滅びているのである。資本主義は、全体主義の王国、大英帝国の衰退から始まり、第二次大戦後のアメリカの金本位帝国によってその余暇を維持してきたが、ジョンソンとニクソンのベトナム制服の失敗によって昭和45年(1970)金ドルの交換は停止され、8月15日から資本主義は機能を喪失、脳死したのである。

『世界騒乱の本質』p.33

基本的に私も坂口氏の上記の主張に同意します。ゴルバチョフのソ連と鄧小平の中国は、中ソ国交回復に水を注されただけでなく、中国は深刻なイメージダウンにつながりました。そして、それに対する報復が半年後に起こったベルリンの壁の撤去という形になって現れたことになります。爾来、20年の歳月が流れ、すでに1970年に壊死していた資本主義は、誰の目からも明らかな形でを2008年9月16日(リーマンブラザーズの倒産)に臨終を迎えるに至りました。

現在の世界的な経済危機は百年に一度どころではなく、数百年に一度の割りで起こる、欧米主導型の資本主義の「リセット」であるという点に注意が必要です。これは今年の1月に久しぶりに会った脱藩道場の道友が主張していた点であり、私も正にその通りであると思います。巷では欧米型資本主義の終焉とか、中国の時代になるとか、日本が世界の牽引車になるとか色々と言われていますが、数百年のタイムスパンから見れば、やはり今度台頭するのも形を変えた欧米主導型の“新資本主義”のはずです。

それに加えて、産業革命が人類の思考・行動様式を根底から変えてしまったように、現在進行中の情報革命が間もなく完成し、誰の目にも明らかな形で登場した時点で、またもや人類は新たな大転換期を体験し、今までになかった全く新しい思考・行動様式を身につけていくことになると思います。リセットされた“新資本主義”と情報革命とが組み合わさって、どのような時代を迎えるのかと思うと、つくづく凄い時代に生まれ合わせた幸運に天に感謝したい気持ちで一杯です。

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2009年1月 3日 (土)

『シルクロードの経済人類学』

B090101 最近、栗本慎一郎氏の新著『シルクロードの経済人類学』(東京農大出版会、2007年8月1日刊)を手にしました。きっかけは、昨年の暮れにお会いした某ジャーナリストが同書を高く評価していたからであり、日頃から注目していたジャーナリストの言葉だけに、帰宅後私は早速オンラインで申し込んだのでした。その後、数日して届いた同書を一読していくうちに、私の北ユーラシア史観が音を立てて崩れていくのが分かりました。2ヶ月前、山形明郷氏の『邪馬台国論争 終結宣言』(星雲社)を読んで、自分の東アジア史観を根底から覆されたという体験をしたばかりであり、まさか同様の体験を2ヶ月もしないうちに再び体験するようになろうとは、夢にも思いませんでした。

同書から得た最大の収穫は、日本文化の土台(基礎)は「北のシルクロード(草原の道)」の遊牧民族が持ち込んだ文化であるという“史実”を知ったことであり、そのおかげで中国や韓国経由で今日の日本文化の土台(基礎)が構築されたという、従来の固定概念に囚われていた自分に気づいたことでした。さらに、ユーラシア大陸に存在していた遊牧民族の思考行動様式を同書で学んだことにより、長年にわたって中華思想や西洋思想の観点から捉えていた北ユーラシア史観から解放されたことにも繋がりました。

ここで、「草原の道」について簡単に触れておきましょう。私たち(40代以降)がシルクロードという言葉を耳にして最初に思い浮かべるのは、1980年代前半にNHKが中国領土内のシルクロードに足を踏み入れ、世界で初めて特集として放送したシルクロードではないでしょうか。NHKが放送したシルクロードは、タクラマカン砂漠からパミール高原を越えて長安に至る道であり、私たちにとって書籍や雑誌などを通じて馴染みのシルクロードです。しかし、実際には長安に至る道は他にもあり、それが「海のシルクロード」と上述の「北のシルクロード」です。以下の地図をクリックしてください。

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出典:Mr & Mrs Abraham's世界紀行

北のシルクロードが日本に及ぼした影響は、縄文中期から晩期かけての三内丸山遺跡(冬至夏至ネットワーク)、さらには古墳時代以降の大和三山を中心とする日本各地(聖方位)にも及んでいるのですが、このあたりは栗本氏が著した『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版)に目を通していただくとして、本稿では北のシルクロードについてさらに詳しく追求してみたいと思います。

北のシルクロードが日本に及ぼしたものの中で最も重要なものとして、栗本氏は「七世以降の律令制の整備と官僚制度および法概念の整備であって、これらはまさしく天皇制の基盤確立に繋がるものだ。またそこに宗教観までもが加わるとすれば、“関わった”と言うより“基本要素を引き継いだ”とさえ言いうるのではないか(p.11)」と述べており、さらに栗本氏は以下のように言葉を続けています。

 

 
 これら多くの基礎となるものをこれまでの歴史学では「中国から」あるいは「中国から朝鮮を経て」来たと言ってきたが、間違いである。技術的なもの(たとえば漢字)は確かに多数、中国朝鮮からやってきている。中国朝鮮の影響を日本が受けなかったということは絶対にない。しかし、主要な要素は「中国朝鮮を通らずに北から」日本へやってきていると考えるべきだ。
 たとえば法概念のように、確かに一見中国から日本へ持ち込まれたように見えるのでもそうだ。法は慣習の原点をよく調べると元は北方の遊牧民の世界において育まれたものが中国へ持ち込まれて、それが日本へ来たと考えるべきものが多い。そもそも中国は、隋や唐の大帝国が成立するまで紀元前からずっと北方世界の影響下にあったからである。そして隋も唐も鮮卑族の影響下に建国された帝国であったことが、(いささか政治的な判断に基づいて)不当に無視されていることも問題だ。要するに、これまでもとはすべて中国のものだと言われてきた「風水」や道教的な諸要素も、いずれも元来は北のシルクロードのものであったと考えることが出来る。確かにそこに漢民族文化の味付けがあったことも間違いない。だが、日本人はそれらの基となる北の文化とはなじみの深い民族であったから、必ずしも中国経由でそれを採り入れる必要はなかったのである」(p.11~12)

(注:栗本氏の本にも書いてあることですが、皇帝が遊牧民出身だったのは何も隋や唐だけではなく、その前の北魏も遊牧民鮮卑の築いた王朝だったという史実があります)

ここで、栗本氏の言う「いささか政治的な判断に基づいて」という下りを以下に補足しておきましょう。

私は四書五経をはじめとする、中国の主な古典は一通り揃えて目を通してきたし、特に唐詩といった漢詩が好きで、何処かへ旅に出るときは必ず旅行鞄に詰めていくのを専らとしています。その反面、中国の歴代の史書は嘘が多い事実も知っており、また現在の中国共産党の非情さといった面は、現在読み進めている『中国はチベットからパンダを盗んだ』(有本香著 講談社+α新書)を例に取り上げるまでもなく知っていたつもりだったし、人類の智恵が鏤められた中国古典の延長線で一方的に中国に畏敬心を抱いたことはないつもりでした。それでもなお、栗本氏の本を読み進めながら、まだまだ自分の中国に対する認識が甘かったと反省した次第です。中国の史書の正体は嘘偽りのオンパレードであり、鮮卑だの卑弥呼だのといった相手を侮辱するような漢字を多用しているという点に大きな特徴があります。

それはともかく、北のシルクロードの遊牧民族はどのような思考・行動様式を持っていたのでしょうか。この点は栗本氏の他、余裕があれば杉山正明氏、川田順造氏、岡田英弘氏らの書籍、殊に遊牧民族に関する書籍も、栗本氏の本と比較検討の意味で目を通すのも一考かと思いますし、さらには栗本氏の思想の根底を成すカール・ポランニーの一連の書籍(たとえば、ちくま学芸文庫で発行している『経済の文明史』)などにも目を通すといいかもしれません。本稿では、北のシルクロードの遊牧民族を理解するには、北のシルクロードとはどのような場所だったのかについて栗本氏の書籍を引用する形で述べた上で、遊牧民族の思考・行動様式に絞って筆を進めてみたいと思います。

最初に草原の道、すなわち北のシルクロードとは、どのようなルートだったのか確認してみましょう。以下の地図をクリックしてください。

Steppe_road
『シルクロードの経済人類学』p.8

真ん中の点線の道が通常知られているシルクロードですが、このように天山北路でもなく南路でもない、その北を通っている草原の道(北のシルクロード)、すなわち太い一本の矢印で引いた道こそが本物のシルクロードでした。そのあたりについて栗本氏は以下のように説明しています。

 

 
 真のシルクロードは、歴史において、あるいは歴史が書かれるようになるもっと前から遊牧民たちが支配し動かすルートにあった。地理学や歴史学からではなく、交易や移動に対する人類学や経済史や社会学の研究がなかったことがこの真実から目がそらされた原因のひとつである。
 シルクロードの根源的背景、すなわちユーラシア大陸の歴史における大きな流れを考えるなら、真に絹や民族や貴重財が移動したのは草原の道であったことは間違いない。そここそ、蘇我氏や天皇制の成立に大きな影響を持っていたユーラシアにおける本当の「文明の高速道路」(西突厥研究者内藤みどり氏)であった。その道なら、重たい鉄も比較的簡単に運搬できた。車輪が使えるからである。前三〇〇〇年前から南シベリア・エニセイ川上流域で栄えたミヌシンスク文化末期のタガール文化(前三〇〇〇~前一〇〇〇)では、各種の車輪が発明されていたことが知られている。それはいわばこの草原の道のためである。(p.63~64)

北のシルクロードとは、実際はどのような道だったのか、上記の引用でお分かりいただけたのではないでしょうか。次に、遊牧民族とはどのような思考・行動様式の持ち主だったのかを見ていきましょう。突厥を例に同じく栗本氏の書籍から引用してみ ます。

 

 
 簡単にだけ述べておくと、一見混乱のように見えるものはすべて遊牧民の国家が本質的に連合国家だったから起きたことにすぎない。逆に他国民から見るとまったく統一されているように見えても、内部ではカガン(皇帝)と副カガンは相互にかなりの独立性を保ちつつ協調していたし、指導部にずれが生じ混乱が起きたかに見えてもわずかな時間でシステムを復元させる力を持っていた。治下にあった諸王国に対しても、相当以上の自治権が与えているのが普通だが、軍事や税についてのように厳しく管理が徹底されているものもあった。これはまさしく、かのパルティアなどにも見られた遊牧民の帝国の特徴なのである。これを農耕民族中心の帝国観から見ては間違える。
 だから、五八三年東西突厥に分裂したといっても、二国が永続的に分立して完全に対立抗争するといった様相ではまったくなかった。その後、七世紀初頭でも東西突厥皇家は対立とともに協力も行っていて、なんと立場の相互交代をも繰り返した。東突厥系のアシナ氏が西突厥の皇帝になったり、また西突厥を追われた皇帝(タルドゥ)が東突厥の皇位を占める(バガ・カガンとして五九九年即位)ということも起きた。また東の第二可汗国は西突厥アシナ皇家滅亡後もモンゴル高原に勢力を残していた。有名なオルホン川流域の突厥オルホン碑文は、この第二可汗国のビルゲ可汗(~七三四)のころのものである。これは西側や中国側の歴史家には理解の外に出るものであったろうが、遊牧民の帝国では決して異常なことではない。パルティア帝国がそうであったように、争いは争いでありながら、帝国の政治的宗教的統一性はそれなり以上に保たれていたのである。(p.70~71)

この栗本氏の突厥に関する記述を読むだけでも、朧気ながらも今までに抱いていた遊牧民族に対するイメージとは異なるものを感じていただけたことでしょう。ともあれ、必要なのは遊牧民族の本来の姿を知ることであり、その意味で栗本慎一郎氏をはじめ、杉山正明氏、川田順造氏、岡田英弘氏らの書籍に目を通すと良いのではないでしょうか。以上の作業を行うことで、今まで遊牧民族に対して抱いていた間違ったイメージを払拭し、改めて己れのユーラシア史観を再構築していただければ幸いです。

最後に、同書では草の道の遊牧民族といったテーマ以外にも興味深いテーマがありますので、以下に列記しておきましょう。なお、聖方位に関しては、読者からの要望があれば『シリウスの都 飛鳥』(栗本慎一郎著 たちばな出版)を取り上げてみたいと思います。

★ 蘇我氏

 
 かくして3世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。最新の諸研究が示すように、聖徳太子はおそらく実存の人物ではなく、実存したのはただ蘇我氏の一団だった可能性が高いが、個人としての聖徳太子が実際にいてもいなくても彼らが律令制、大化の改新以降の天皇制の基礎を築き、弥勒仏教を導入し、日の本やスメラミコトの名称を導入し、漢字やそれを用いた日本史の編纂を行ったのである。
 その日本史『天皇記』(スメラミコトノフミ)はおそらく北シルクロード自出の日本王権の正当性を述べていたものだから、六四五年の乙巳の変のクーデター後、最緊急の課題として蘇我邸が急襲され焼却されたと考える。そのことのほうが蘇我入鹿の殺害より重要であった可能性が高い。そして聖徳太子や蘇我氏が書いた歴史に対抗して反蘇我勢力側が作らねばならなかったのが『日本書紀』と『古事記』である。要するに、今日に繋がる日本文化の基礎は彼ら(蘇我氏とそれに主導される一団)が築いたものだ。そして、聖方位について以外はどれも日本文化の基礎的要因だったと誰もが公式に認知しているものである。間違いなく蘇我氏こそ日本を日本にした帝王だったのだ。蘇我氏は北日本を土台にし、九州の王・物部氏を倒し、継体天皇に代表される北陸系の勢力(これも渡来勢力?)も抑え、全日本を統一した現実の帝王だったのだ。確かに蘇我一族宗家は乙巳の変(六四五年)で一掃された。しかし、その影響(そこまでの仕事)が日本を築き、その後の日本を大きく決定づけたことは間違いない。(p.20~21)

★ 聖方位

 
 聖方位とは、日本の著名な研究家で古代史家の渡辺豊和教授(京都造形芸術大学)が最初にペルセポリスと日本の巨大前方後円墳および主要神社、仏閣に共通する不思議な方位として発見し研究されたもので、真北から20度西に振った特別な北を持つ方位のことだ。言うなれば、北が20度西に振れている角度である。これを私は「聖方位」と名づけ、日本を中心にペルセポリス、バビロンなど多くの実例とその関係を研究したのが『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版 二〇〇五年)だ。

-------中略---------

 聖方位は実は、冬至の深夜の太陽シリウスの位置に関係する。冬至の深夜12時が新年の始まりならば特に関係がある。シリウスは大体南南東の夜空に輝く。基本的には真南から20度ほど東に振れた角度の空にである。そのシリウスを遙拝したとすると、その背中に当たる真後ろの方角は真北から20度西に向くことになる。これが聖方位だ。日本ではあるものの真後ろに当たる角度を「後ろの正面」と言って特別視するが、それはここから来ているというのが私の説である。(p.178)

★ 日本語

 
日本語はアルタイ語系と言われても一応、孤立語の性質のほうが強いということになっている。日常的ないくつかが似ているということから相互の共通性を一方的に仮定する議論はもうたくさんであろう。誤報や単語は「本質的な」ものについてだけの検討をなすべきだろう。その場合、何が本質的なのかという点についてはこれまでいかにも無勝手流の推測がなされてきた。だから、今のところここから決定的なものは引き出せないと考えるべきだ。けれども、すでに述べたとおり、王権や宗教および聖性などに関するものは別だ。これらは特別に重要なものであり、そこにおいて日本語と北ユーラシア諸語との共通性が大きいことは逆にあまりにも無視されてきた。スメラ、アスカ、ナラ、テン、ヤマト、マホロバなどの決定的に重要な語はいずれも北ユーラシアとの繋がりを示すものではないか。そして何よりも、蘇我およびサカであろう。(p.15~16)

★ 古墳

 
日本に突如生まれた巨大古墳の文化は、北のシルクロードどころかユーラシア草原の特定の地域に紀元前から広がっていたクルガン(巨大盛り土墓)と繋がるものであることは疑いない。(p.17)

★ ユダヤ

 
ところで、六五七年、東部分のアシナ家は権力を失ったが、それはイステミ系ながらトンヤブグの子の兄シェグイの系統の家系であった。西にはトンヤブグの子(名前不詳、王名はイルビス Irbis)を始祖とするアシナ朝カザール王国が残った。そこから今日のハンガリー、ブルガリアが生まれ、ロシア人諸王国(公国)が大きな影響を受け、そこから今日のユダヤ人の主流・アシュケナージ・ユダヤ人の主軸が生まれた。(p.155)

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2008年12月 1日 (月)

朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価

朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価

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※ 本論文に挿入した写真は、『甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社刊)よりスキャンしたものです

 

慶應義塾大学 高橋信一

 1986年から1987年にかけて、朝日新聞社が主催するオランダ国内各地に所蔵されている日本の幕末から明治にかけて撮影された多数の写真の展示会が全国各地で開催された。それらの写真を編集した写真集は最終的に1987年朝日新聞社版「写真集 甦る幕末」(1)に結実し、古写真の歴史資料としての価値を一般に知らしめる役割を担った。その展示会開催の経緯は巻末の解説と、その後に編集者によって刊行された二冊の本(2、3)に明らかにされている。この「写真集 甦る幕末」は、現在も古写真研究のバイブル的な資料となっているが、発表から20年以上が経過しており、出版当時の古写真に関する知識をこれまでの様々な研究成果を利用して更新する時期に来ているのではないかと考え、掲載写真に付されている説明の見直しを試みた。2007年秋に長崎大学はオランダのボードイン家から4冊の写真アルバムを購入し、2008年10月に長崎歴史文化博物館で「長崎大学所蔵ボードインコレクション展」を開催した。さらに、Web(4)上での公開を開始した。これを機会に「写真集 甦る幕末」のベースにもなっているオランダ・ライデン大学のボードイン・コレクションを始め、各種の写真の内容を一度整理し、理解し直すことは意義あることと考えたからである。
 「写真集 甦る幕末」に3つの異なるバージョンがあり、上記の最終版以外に1986年朝日新聞社刊の「甦る幕末」(5)と、それをベースにした1987年のライデン大学版「甦る幕末」(6)がある。その他に、1996年にライデン大学・アムステルダム海事博物館・ハーグ国立公文書館などから、オランダ国内の古写真を集めたCD版の「Memories of Japan(日本の想い出)1859-1875」(7)が出されている。これには所蔵元や撮影者、撮影対象など毎にソートを掛ける機能があり、ほとんどの写真の所蔵元や撮影者などの情報を知ることができる。中でもボードイン・コレクションにはアルバム毎の分類分けがなされている。そのコレクションには3つの大きなアルバムがあり、ベアトの「Views of Japan」や「Views in Japan」アルバム(8)掲載の写真やボードイン兄弟たち自身や上野彦馬が撮影した写真が混ざっているB1、B2、B3アルバム。その他に小さいアルバムが数冊あり、和紙で作られた手製のBDアルバムや350枚余りの1870年以降、A.J.ボードイン(Albertus Johannes Bauduin)の帰国後に収集されたと思われるBAアルバムなどがある。今回長崎大学の購入したアルバムは、この内のB1、B2、B3とBAのアルバムであり、CD版「日本の想い出」にも既に収録されている。その他のボードイン・コレクションはライデン大学が所蔵している。
 これらの資料を基に、オランダ貿易会社の日本駐在員であり、オランダ駐日領事だったA.J.ボードインの書簡集「オランダ領事の幕末維新」(9)やオランダ領事ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)の「ポルスブルック日本報告」(10)、長崎精得館オランダ人化学教師グラタマ(Koenraad Wolter Gratama)の「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(11)、そして2001年にオランダで出版されたボードイン写真集「Arts en koopman in japan(幕末のオランダ人兄弟 医師と商人)」(12)、ポルスブルック・コレクションを収蔵するアムステルダム海事博物館(13)のデータベースなどを参考にして、1987年朝日新聞版「写真集 甦る幕末」掲載の写真の所蔵元調査と説明文の再検討を行った。残念ながら、450件の写真の内、数件の身元は判明していない。表1に写真のタイトル・所蔵元コレクション名・撮影者を調べた結果をまとめた。1/3近くはボードイン兄弟以外、かなりポルスブルックの収集になることが分かる。Bは長崎大学所蔵のボードイン・コレクションを含むライデン大学のボードイン・コレクション全体。その内B1、B2、B3、BA、BDはCD版「日本の想い出」に使われているライデン大学のアルバムの分類記号である。先に述べたようにB1、B2、B3、BAのアルバムは現在長崎大学所蔵のものだが、ライデン大学の分類番号をそのまま使用した。Pはアムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクション。Gはオランダ民族学博物館のグラタマ・コレクション。Lはライデン大学のボードイン以外のコレクション。Hはハーグ国立公文書館のコレクションである。括弧付きで示した(B)はベアト(Felice Beato)の撮影。(H)は上野彦馬、(R)はロシエ(Pierre Joseph Rossier)、(AJ)はA.J.ボードイン、(U)は内田九一、(S)は下岡蓮杖、(Sa)はサンダース(William Saunders)、(Su)はサットン(F.W.Sutton)、(W)はウィルソン(John Wilson)、(I)は市田左右太の撮影である。撮影者の判定は、上記の参考資料や先輩諸氏の意見を参考に筆者の判断で行った。(AJ)とした写真については本文の中で根拠を説明する。その他のベアト以外の撮影者に関しての検討は進んでいない。かなりベアトのものが含まれているが、今後の課題である。また、ボードインとポルスブルックのコレクションの間で、かなりの所蔵の重複があることが分かる。ベアトの写真が相当数流布していたことを示している。
 先ず、「写真集 甦る幕末」と上野彦馬との繋がりを見つけるために、2007年の「上野彦馬賞」展示会の際に尼崎総合文化センターが出版した「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(14)(以後、「江崎べっ甲店アルバム」と呼ぶ)と比較した。これは、長崎の江崎べっ甲店が所蔵するもので、元々上野彦馬写真館が作製した写真アルバムであり、文久2年開業当時から慶応2年暮れごろまでに撮影された写真が収められている。両者を比較すると、「写真集 甦る幕末」の写真No.125は「べっ甲店No.39」と同じ。No.160は「べっ甲店No.44」と同じときに撮影された別バージョンである。小舟の影が水面に

No.160 

160
160 長崎・大浦川

投影しているが、角度が変わっていることを堺屋修一氏からご指摘いただいた。No.148は「べっ甲店No.42」に釣り人を加えて撮った同じ場面の写真である。No.126は「べっ甲店No.38」と同じではないが、ほとんど場所が一致する。東京国立博物館所蔵の上野彦馬によるウィーン万博出品アルバム「長崎市郷之撮影」(15)中の明治5年までに撮影の写真「長崎港 第二」と位置・構図が同じだが、それより、後年のものと思われる。No.143は「べっ甲店No.36」と近い別の日に撮ったものと思われる。何れにしろ、これらは上野彦馬が撮った写真と考えてよい。その他にも上野彦馬撮影のものがあり、後述する。上野彦馬撮影の写真はボードイン・コレクションには少ないが、グラタマは上野彦馬写真館で写真を買っていたのではないかと考えられる。

写真No.241、242

241
241 オランダ総領事ポルスブルック

 ここからは、ライデン大学所蔵のボードイン・コレクション解明のために人物写真 の再検討を始める。これらのポルスブルック所蔵の写真の内、前者はボードイン・コ レクション中にオランダ医師A.F.ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin)撮影と されている。長崎出島の旧オランダ領事館の書斎で撮影された可能性があり、次の項 で論じる本質的な問題に係わるが、筆者はA.J.ボードインの撮影だと考える。後者は ポルスブルック・コレクション中にベアト撮影とされるものである。写真No.30 3の項で中原猶介に関連して、また触れるが、名刺判で江戸のオランダ領事館でベア トによって撮影されたと考える。

No.259 

259_2
259 ボードイン兄弟のステレオ写真

 このステレオ写真のような写真について考える前に、書簡集「オランダ領事の幕末 維新」(16)を基にボードイン兄弟の来日後の行動について整理しておきたい。末弟の A.J.ボードインは1855~1859年までバタヴィアのオランダ貿易会社の東イン ド支社で働いた後、1859年4月3日にオランダ貿易会社の日本支社員として長崎 に到着し、出島に住む。同8月4日の家族に宛てた手紙で「ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)が写真に凝っているので、自分の写真を頼んだ」 と書いて、1860年3月の手紙ではその写真を本国に送っている。1862年10 月28日に次兄で医師のA.F.ボードインが長崎に到着、A.J.ボードインとは別に住居 を構える。この間にA.J. ボードインはポンペに感化されて写真術を覚えたと推測され、 撮った自分の写真を家族に送っている。1863年3月24日の手紙で、ステレオ写 真のようにして兄弟の写る2枚の写真を(A.J.ボードインが)撮って同封した。これが、 写真No.259である。A.J.ボードインは1863年8月にオランダ領事に任命さ れ、旧領事館に住むことになる。1864年にはA.F.ボードインもしょっちゅうこの 家で寝泊りしていたようである。1865年1月にA.J.ボードインはこの家を買い取 り、その6月に自分で自宅の写真を撮り、よく撮れたと本国に送った。つまり、この ころまでにA.J.ボードインは日常的に自前で写真を撮っていたと言えるのである。一 方、1865年10月のA.J.ボードインの手紙で「A.F.ボードインも時々写真を撮っ ている」と言っているので、A.F.ボードインが写真を撮るようになったのはこのころ と考える。全てがA.F.ボードイン撮影の写真であるという考えは修正されるべきであ ろう。現存する写真がどちらの撮影になるものかについては後に論じる。

262
262 ボードイン兄弟と友人たち

さらに、写場は1864年以前とそれ以降で変化することに注意する必要がある。即ち、写真No.258、259、262、267、287、301、302、303、304は最初のA.J.ボードインの住居で、写真No.241、254、255、257、260、263、264、274、277、286,288、290、298、299は旧領事館で撮影されたと思われるが、今後の検討により変更しなければならなくなる場合もあり得る。特に中庭での撮影に関しては判定が困難である。尚、1987年に長崎市が編纂した「出島図:その景観と変遷」(17)の「研究篇 第3章」の中村 賢「開国後の出島」にある「1860-1870年の出島借地人表」によれば、A.J.ボードインは1865年に旧オランダ領事館を買い取った時点で、最初の住居は引き 払い、領事館の住居は大阪に移ってから、一時帰国・再来日した1870年の時点で も所有していたことが分かる。1874年に帰国する前に長崎へ行って処分したと考 えられる。

No.277

277
277 オランダ医師ポンペ

 このポンペの写真は上野彦馬が撮ったと推定されているが、ポンペが在日していた 1862年の時点で、文久2年(1862年)秋に開業(18)した上野彦馬がこのよう な写真を撮れるはずはない。松本良順や緒方惟準ら養生所の医学生と撮ったポンペの 集合写真(19)(日本医事新報No.1739号「ポンペ先生とその弟子」)と比較すると、服 装が同じなので、同時期に同じ場所で撮影されたものと考えられる。

Photo
ポンペを囲む養生所の医学生たち(「日本医事新報No.1739 号」

A.J.ボードイン がポンペの自宅か、旧オランダ領事館で撮ったのであろう。A.F.ボードインでは有り 得ない。ポンペは1862年10月15日で全ての講義を終了し(「ポンペ日本滞在見 聞記」(20)、A.F.ボードインが来日した4日後の11月1日に離日している。仕事の引 継ぎで、それどころではなかった。おそらく、それより遥か以前にA.J.ボードインに よって撮られたものであろう。CD版「日本の想い出」(21)には全1188枚の内に7 16枚のボードイン・コレクションが納められているが、撮影者の名前にA.F.ボード インはあっても、A.J.ボードインの名前がないのは、甚だ疑問である。尚、ポンペが 離日した翌日、養生所(後の精得館)の伊東方成と林研海が、榎本武揚・赤松則良ら 7人と伴に第1回幕府派遣オランダ留学生として長崎から出発している(22)(「赤松則 良半世談:幕末オランダ留学の記録」及び村上一郎「蘭医佐藤泰然その生涯とその一 族門流」)(23)。これには9人の集合写真が載っている。一説にはポンペといっしょの 船で渡蘭したとされているが、明らかな間違いである。

No.256 

256
256 大坂のA.F.ボードイン医師

 CD版「日本の想い出」(24)によれば、この写真の裏面に漢字で「中川信輔、写真師、 長崎、北詰」と書いてあるので、大坂心斎橋北詰の中川信輔が撮影したものと思われ る。グラタマの「オランダ人の見た幕末・明治の日本」(25)にも、1869年6月10 日の大阪医学校「舎密局」開校式のA.F.ボードインらとの集合写真が載っているが、 その時のA.F.ボードインの服装はこの写真No.256と同じなので、集合写真も中 川信輔によって大阪で撮影されたと考えてよい。中川信輔は長崎の上野彦馬に学んだ 横田朴斎の弟子である(26)。

No.257 

257
257 ボードイン兄弟とその友人

 ボードイン三兄弟となっているが、根拠は明らかではない。この写真の写場はA.J. ボードインが1865年1月に購入し(27)、1867年末まで住んでいた旧オランダ 領事館(1863年に横浜に移転した)内に作られたものである。「写真集 甦る幕末」 ではA.F.とA.J.ボードイン以外に四男のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)が写っているとなっている。また、「オランダ領事の幕末維新」(28)では翻訳 者によって甥のフランス・デ・ライテル(Frans de Ruiter)とされているが、これらに は疑問がある。ドミニクスについては写真No.266で論じる。アムステルダム海 事博物館のデータベースで見ると、この写真の台紙にはA.J.とA.F.ボードインのとこ ろに名前が入れられているが、三人目には名前がない。ポルスブルックも確認出来な い人物であり、親族ではなかったのだろう。ドミニクスやライテルは1869年に別々 に初めて日本にやって来る(29)。A.F.ボードインは1867年4月末に江戸へ行き、 以降帰国まで長崎には行っていない。A.J.ボードインも1868年始めには神戸に住 んでいる。関係者のみの当て嵌めの一種である。この写真は1868年までのもので ある。

No.258 

258
258 オランダ領事A.J.ボードイン

 このA.J.ボードインの写真と写真No.303の項で詳しく検討する中原猶介の写 真は同じ草木の背景の下で撮影されている。それぞれ別々のB2とB3のボードイン・ アルバムにあるものだが、同じ1863年の夏に同じ場所で撮られたと思われる。ま た、CD版「日本の想い出」(30)によれば、No.254のA.F.ボードインの写真も写 真No.258といっしょにB2アルバムの同じページに貼られているので、同じ頃に 撮影されたと結論できる。このように見て行けば、各アルバムの成立過程が解明でき るのではないかと思う。

No.266 

266
266 ボードイン三兄弟

 この写真は1870年に大阪の大福寺でA.F.およびA.J.ボードインとドミニクスが 3人で再会して撮ったものと考えられる。「オランダ領事の幕末維新」(31)に三人の再 会について書かれている。写真中にはエリメリンス(C.J.Ermerins)と緒方惟準も写っ ている。エリメリンスは写真No.272で確認できる。石黒忠悳の「石黒忠悳 懐 旧九十年」(32)には三兄弟が同じ場所で写っている写真がある。三人目はエリメリンス だと書かれているが、間違いである。二つの写真の撮影者は大阪の写真家だと思われ る。確定できないが、存在するはずのA.F.とA.J.ボードインの両方のアルバムにある べき写真である。実際はA.J.ボードインが本国に送った写真を集めたと思われるBDア ルバムにのみ入っている。

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ボードイン医師とドムスおよび緒方惟準(「石黒忠悳 懐旧九十年」)

No.268 

268
268 A.F.ボードイン医師の小石川園送別会

 上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードイン に3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20 日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月 にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏 10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影され た。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写 真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。

No.273 

273
273 グラタマ医師と生徒

 このグラタマの写真は上野彦馬の撮影ではなく、写真No.274と同じ1866 年来日当初から住んでいた、A.J.ボードインの写場で撮られたものである。グラタマ は帰国後は写真の撮影を覚えた(34)が、日本では専ら人に撮ってもらっている。

No.274 

274
274 A.F.ボードイン医師とグラタマ

 このA.F.ボードインとグラタマの写真は1866年4月16日にグラタマが来日し て旧オランダ領事館に住んでいたころのものと考えられる。その年の暮に江戸に招聘 され、翌年2月には長崎を離れた(35)。

No.275、276

276
276 ベウケマ=ツワーテル夫妻

 これらは、1874年にA.J.ボードインによって撮影されたと考えるのが妥当であ る。撮影当時、A.F.ボードインは日本にいなかった。「オランダ領事の幕末維新」(36) に何回も出て来るが、この年の2月に結婚したバウケマ=ツワーテル(Tj.W.Beukema、 Mevr.I.C.Beukema-Toewater)夫妻は恋人同士のころからのA.J.ボードインの友人であ った。この写真が入っているBDアルバムはA.J.ボードインのアルバムと考えられる。 「写真集 甦る幕末」中には65枚以上のBDアルバム所載の写真が掲載されている。 しかし、アルバム中の写真の貼り方には疑問がある。CD版「日本の想い出」(37)によ れば、BDアルバムには260枚の写真が収められているが、その整理番号は何の脈絡 もなく振られているように見える。場所や撮影時期に無関係である。これは整理番号 がアルバム中の写真の順番に従って付けられたからである。二枚のバウケマ夫妻の写 真No.275と276は別の場所に貼られていた。恐らく、A.J.ボードインから家 族宛てに送られた写真を、彼らの遺族が内容を吟味できずに集めてアルバム化したと 考えられる。そのために、写真の前後関係が失われた。写真の内容は多岐に渡ってお り、BDアルバムの再構成を極めて困難にしている。

No.291 

291
291 オランダ領事A.J.ボードイン

 これは写真No.264から明らかにA.J.ボードインである。服装・帽子が同じで、 坊主頭が隠れている。彼の最初の家の中庭で撮られたものであろう。

No.292 

292
292 中国人召使い

 この中国人召使いの写真の椅子は写真No.308の椅子に近く、上野彦馬の文久 年間に使われていた椅子とも違う。堺屋修一氏は坐るところの構造や横木の位置関係 を計算して、上野彦馬の写真館と判定されている。耳や唇の形、足のポーズの形が似 ているので、写真No.293と同じ男の子であり、ポルスブルック・コレクション にあったことから、彼の召使いだと判定する。

No.293 

293
293 中国人召使い

 この写真はNo.176から179までの写真と同じ高輪・長応寺で撮影されてい る。ポルスブルックが宿舎にしていた。彼の召使いかもしれない。

179
179 オランダ公使館・高輪長応寺

No.296、297

297
297 徳川慶喜

 これらの写真は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」(38)で解明されているよ うに、慶応3年3月27日に大阪でイギリス公使パークスが徳川慶喜に謁見した際に 同行のサーペント号の技師長F.W.サットンが撮影したものをベアトが複製・販売して 広まったものである。他に写真No.225と226のパークス襲撃事件の犯人三枝 と林田の写真や写真No.390と391のアイヌの写真もサットン撮影である。

No.298、299

299
299 長崎奉行とその家来

 これらの写真はポルスブルック・コレクションにあるものだが、後者はボードイン・ コレクションのBDアルバムにも入っている。A.J.ボードインの1862年11月15 日の手紙(39)に、「近々新任の長崎奉行大久保豊後守忠恕が病院(養生所)を見学に来 訪する」と書かれているので、その際の記念に撮ったものの可能性がある。夫々旧領 事館の中庭とテラスの写場で撮影されたと解釈できる。

No.301、302

301_2
301 ボードイン医師と戸塚文海

 これらの写真に写る人物が、松木弘安(寺島宗則)だと、1987年のライデン大 学版「甦る幕末」(40)と「Arts en koopman in Japan」(41)で説明され、「写真集 甦 る幕末」にも記載されているが、誤認である。1865年当時、彼は隠密行動を取て おり、3月に英国密航を敢行する準備を長崎でしていた(42,43)。グラバーとは接触 したが、ボードインとは関係していない。彼が医者の出であることと、写真No.3 32の写真と似ているために当て嵌められたものであろう。松木弘安の家紋は丸に十 の字のはずだが、そのようには見えない。この人物と同じ人物が「出島の科学」(44) に掲載された「ボードインと医学生の集合写真」の中央近くに写っている。こちらの 写真は同時に写っている人物から池田謙斎(45)が長崎・養生所に入学した1864年 初めの撮影と推測される。この写場は背景に写る建物の構造が写真No.259の立 体写真もどきを始めとする、一連のA.J.ボードイン撮影写真に使われた旧宅のテラス の構造と同じであることは明らかである。また、CD版「日本の想い出」(46)によれば、 BDアルバムの、この写真No.302には、「長崎病院の二人の主任医師」という説明 が書かれているので、松木弘安であるはずはない。真の人物は当時の養生所頭取医師 戸塚文海(静珀)である。戸塚文海の写真は鈴木要吾「蘭学全盛時代と蘭畴の生涯」(4 7)に掲載されており、酷似している。
 さらに、次の項で触れるが、写真No.303と304の中原猶介が写る写真の写 場は椅子や背景から、この写真No.301と302と同じである。中原猶介が長崎 に出張したのは下関事件や薩英戦争直前の1863年5月から9月ごろまで(「贈正五 位 中原猶介事蹟稿」(48)及び「鹿児島県史料 忠義公史料2」(49))と考えられる。 先の写真No.259の写場の推定から、「出島の科学」の写真が撮られたのが、上記 のように池田謙斎ら幕府派遣医学生8人が養生所に揃った後の1864年始めとする と、松木弘安が長崎にいるチャンスはない。彼は1862年1月からの1年間、遣欧 使節で国外におり、帰国後の薩英戦争で捕虜になった後、1864年暮れまで江戸に 潜伏していた。「写真集 甦る幕末」では写真No.301と302の説明文に186 5年撮影とされている。これは、中原猶介の写真の撮影と矛盾する。

02
元治元年のボードインと医学生(「Arts en koopman in Japan」(12)掲載)

 ところで、「出島の科学」の「集合写真」とは別のものが「Arts en koopman in Japan」 (50)に掲載されていて、下1/3くらいが焼かれて破損している。「出島の科学」に 載っている完全な写真はコレクションが異なることが分かる。脇道に逸れるが、ここ に写る人物の同定に関して、推測の現状を述べる。後列A.F.ボードインの右隣は竹内 玄庵(51)、その右は土生玄豊(「図説 日本医療文化史」(52))、後列右から二人目は 相良知安(53,54)、中列右から二番目は緒方惟準(55,56)、その左は半井澄(57)、そ の左の中央の人物は前述した戸塚文海、その左は吉雄圭斎(渋谷雅之「近世土佐の群 像(2)萩原三圭のことなど」(58))、前列吉雄の前は三崎嘯輔(59)、その右二人目は 岩佐純(60)、その右は松本銈太郎(61)、その右後方は池田謙斎(62)、その右隣りはそ の後の精得館頭取高橋正純(63)と考える。中列右端の人物は写真No.302の前列 左の人物と似ている。中央の人物が当時の養生所の頭取の戸塚文海ならば、前列右の 人物は副頭取の可能性がある。BDアルバムには、この人物の単独写真がある。その他 に1862年秋に松本良順の後を受けて頭取になった八木称平(64)や池田謙斎といっ しょに長崎入りした8人の残りの医学生、佐藤道碩・大槻玄俊(65)もいる可能性があ る。つまり、この写真は8人が長崎留学した記念に撮影されたのかもしれない。一方、 撮影時期を1864年始めとすると、橋本綱常(66)は当時長崎にいなかったので、写 っていない。実際、似た人物はいない。尚、1862年から3年にかけては養生所の 頭取は八木称平で、彼は慶応元年3月19日(鹿児島市篇「洋学者伝 郷土読本」(67)) に亡くなる以前に、鹿児島に帰って藩校の教授になっていて、1864年当時は戸塚 文海が養生所の頭取だった。その後、相良知安(68)が頭取を務める。そのように考え て来ると、写真No.301、302の写真は1864年か65年に旧オランダ領事 館の中庭で撮影された可能性がある。

No.303、304

303
303 薩摩藩士・中原猶介

 この中原猶介の写真を考える前に、石黒敬七「写された幕末」(69)にある中原猶介 の写真について考えたい。

02
旧オランダ領事館書斎の中原猶介(「贈正五位中原猶介事蹟稿」)

石黒敬章氏(70)によると、石黒敬七氏がパリで見つけたベ アトの名刺判写真アルバムの中にあったものである。ベアトが複写した可能性も指摘 された。この写真の背景には書棚が写っているが、同じ写場で撮られた別の外国人の 写真がボードイン・コレクションのB2アルバムに含まれていて、「Arts en koopman in Japan」(71)には、それが「ベアトが1863年にA.F.ボードインの書斎で撮影した」 と説明されている。しかし、1863年にベアトが長崎に行った記録(72)はない。こ の写真の人物は特定されていないが、写真No.241と242の写真と比較してポ ルスブルックではないかと考えている。また、これらの写真に写る椅子は写真No. 254のA.F.ボードインが坐る椅子と同じであることを森重和雄氏から指摘された。

254
254 A.F.ボードイン医師

実は、「写された幕末」の方の中原猶介の写真を基にして画かれた日本人の肖像画が 1870年にフランスで出版されたA.アンベール(Aime Humbert)の「Le japon illustre」(73)、それの翻訳「幕末日本図絵」(74)(1969-70年出版)、「絵で見 る幕末日本」(75)(2006年新版)に載っており、「外国奉行付き通訳」と説明され ている。

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外国奉行付き通訳(「絵で見る幕末日本」)

この本に掲載されている何十枚にも及ぶ日本の版画絵は、スイスの参議院議 員のアンベールを全権とする遣日使節団が日本との修好通商条約締結のために、18 63年4月9日に長崎到着し、同27日に横浜上陸、以降1864年2月6日に江戸 のオランダ公使館(長応寺)で条約に調印して同17日に離日するまでに集めたスケ ッチ、版画、写真を基にして構成されている。しかし、全てが日本滞在中に収集され たり、図版が実際の現場を再現したものであるかどうかは検証が必要である。先の「贈 正五位 中原猶介事蹟稿」(76)によると、中原猶介は文久2年の暮れまで江戸の江川塾 にいたが、それ以降元治元年3月まで主に鹿児島、5月から8月まで長崎、京都にい たことが分かっている。その間、元治元年1月9日(1864年2月16日)に船の 買い付けの英国との交渉のために一時横浜に出張している(「薩藩海軍史 中卷」(77)) が、彼が江戸でアンベールの通訳として働くチャンスはなかった。アンベールの都合 で取り上げられたに過ぎない。
 それでも、アンベールがどのようにして、中原猶介の写真を手に入れたかを考える のは意味がある。アンベールは来日間もないベアト(78)を雇って、いっしょに江戸市 中を歩き回りながら撮影をさせているので、彼の写真を基にした版画絵が多数ある。 しかし、アンベールが滞日中にベアトからどの写真を手に入れていたかは明らかでな い。「写真集 甦る幕末」には写真No.2、3、4、5、7、8、9、10、11、 12、13、23、24、27、28、33、35、36、42、58、63、65、

No.65 

65
65 鎌倉・大仏

116、118、123、143、151、164、172、179、183、18 4、199、204、310、357、364、366、368、370、374、

No.143 

143
143 長崎・大音寺

375、376、379、382、403、425、432、447、450と18 64年の下関や1865年の長崎の写真を始めとして1868年に発売されたベアト の各種の「Views of Japan」アルバムから転用されたと思しき対応する写真が50枚 に程に及ぶ。特に、次の2枚は「幕末日本図絵」のフランス語の原本「Le japon illustre」 (神奈川大学図書館所蔵)に掲載されているが、写真No.118のベアトが上野彦 馬邸を中島川の下流側から撮影した写真が、そのまま版画絵に起こされている。また、 もう一枚、長崎大学古写真データベース(79)のNo.1297はベアトのアルバムの写真だ が、上野彦馬邸の前から下流を写した川岸に釣り人が座る写真も使われているので、 1863年より後年の写真を手に入れたことは明らかである。一部はアンベールの日 本滞在中にベアトから手に入れたとも考えてよいが、大部分は帰国後に「Le japon illustre」出版の前に雑誌「Le Tour du Monde」に1866~1869年にかけて日 本旅行記(80)を連載するに当たって「Views of Japan」等から集めたのである。尚、 「幕末日本図絵」と古写真の関係については、沓沢宣賢氏の「アンベール『幕末日本 図絵』所収の絵画と古写真との関係について」(81)(「日蘭学会会誌1998年、第 22巻第2号」)に先駆的な研究がある。

199
199 下関・前田下砲台占領

 今後はベアトと中原猶介の出会いを調べることが残されている。それについては写」真No.195の写真で再度述べる。まとめと、「写された幕末」(82)にある中原猶介の写真が撮影された場所は長崎の旧オランダ領事館の書斎だったと考えらる。撮影者はA.J.ボードインと結論する。さらに補足の情報は前述の「贈正五位 中原猶介事蹟稿」(83)及び「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」(84)の、「写された幕末」とは別バージョンの中原猶介の写真である。中原猶介はベアトに自分の写真を複写させ、焼いた写真を名刺代わりに親交のあった人たちに配っていたと考えられる。先の写真No.254の検討から写真No.303と304は、それとは別に、A.J.ボードインが旧オランダ領事館に引っ越す前の自宅の庭で撮影したと考える。撮影時期は1863年5~9月である。尚、この二つの写真の内前者はB3アル バム、後者はBDアルバムのものである。特に写真No.303は、アルバムの次のペ ージ以降にベアトから買ったいろいろな写真が貼ってあり、撮影時に日を置かずアル バムに貼られたと断定できない。1864年の鎌倉事件現場写真(No.215)や 1862年の生麦事件現場写真(No.188)が順序逆で貼られている。写真No. 303より前のページに1866年に撮ったA.F.ボードインとグラタマの写真(No. 274)がある。後年整理して貼ったと結論される。もう一つ付け加えると、この写 真No.303はグラタマ・コレクションにも入っている。彼はいつ・どこで手に入 れたのか。中原猶介は慶応2年(1866年)暮れにも長崎に出張しているので、そ の時にA.J.ボードインに紹介されたのかもしれない。

No.300、308、310、415

310
310 蘭通詞・石橋兄弟

 これらの写真は同じ写場で撮られているが、ボードインとは関係ない。ポルスブル ック・コレクションとライデン大学のボードイン以外のコレクションの両方にあった ものである。CD版「日本の想い出」(85)には1863年上野彦馬撮影となっているが、上野彦馬邸の白い飾り台とも違う。上野彦馬が文久3年にこのような写真を撮っていた形跡はない。これらの写真は前項の写真No.303、304と関連付けて考えることができる。「写真集 甦る幕末」とCD版「日本の想い出」(86)によると、写真No.310は長崎のオランダ通詞石橋兄弟の写真となっているので、それが正しいとすると、長崎での写真ということになる。それを裏付けるものとして、この写真No.310を版画絵にしたものが先のアンベールの「幕末日本図絵」(87)にある。つまり、写真No.308と310はアンベールら遣日使節団の通訳として彼らの世話をした人たちを撮ったものかもしれない。ボードイン・コレクションにはこれら4枚の写真は残っていないので、現状撮影者は特定できない。写真No.415はCD版「日本の想い出」(88)によると、「tea houseの娘」と説明されているので、出島に喫茶所があった可能性を示唆しているが、確証はない。長崎か横浜の領事館内での可能性も残されている。尚、これらの写真に写っている下部が四角で上部が丸い2種類の柱で構成される飾り台は伊藤博文や井上馨ら5人の長州藩士が密航したロンドンで1863年に撮った写真(89)にも写っており、一般的な飾り台だったようである。「下岡蓮杖写真集」(90)にもある。
 ここで、ひとつの仮説を提示する。アンベールの「幕末日本図絵」の抄訳の一つ、 東都書房刊「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(91)(講談社版「絵で見る幕末日本」 (92))にも書かれているが、1861年7月4日の江戸高輪英国公使館(東禅寺)襲 撃事件の補償の一環で建設されていた御殿山の洋式建築の英国公使館が1863年1 月31日、外国人に反発する長州の一派、高杉晋作、伊藤博文、井上馨らにより放火 され、焼失した。この英国公使館焼き打ち事件(93)を受けて各国公使館は横浜に居を 移し始める。1862年9月8日来日したアーネスト・サトウ(Earnest Satow)は12 月3日に建設中の御殿山英国公使館を視察した。「すこし離れて眺めると、二棟に見え る壮大なもので、部屋の高さや広さは雄大。床は漆が塗られ、壁と天井はきれいな壁 紙が張られている」と日記(「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」)(94)に書き、落成 間近だったことが知れる。焼き打ちの顛末は伊藤博文(95)や井上馨(96)の伝記に詳し い。写真No.300などの写真は、この洋館において撮影されたのではないか。使 用されたのが、完成前後の極めて短期間だったことから、その後の写真がまったく存 在しないことになった。とすると、撮影者はベアトやウィルソン、ロシエでもなく、 ソンダースの可能性がある。上海の英国人写真家ソンダース(William Saunders)は1 862年8月から3ヶ月間日本に滞在(97)し、横浜・江戸で撮影、パノラマ写真など を残した。時期的には附合するが、謎は依然として残る。

No.311 

311
311 長崎・精得館と生徒たち

 この写真に写っているのは洋学塾でなく、2003年にライデン大学に赴いた本馬 貞夫氏(前長崎県立長崎図書館副館長)らによって慶応年間の養生所(精得館)の病 棟と冠木門、そこで学ぶ医学生たちであることが判明した。A.J.ボードインの撮影の 可能性がある。病棟と冠木門は長与専斎の「松香遺稿」(98)に掲載されている写真で確 認できる。

No.312~354

337
337 遣欧使節団通訳・福沢諭吉

 これらの写真は、1862年にロシアとの樺太境界問題の交渉に臨む遣欧使節団が オランダを訪れた際の歓迎会で国王に寄贈した使節団員のアルバムで、ハーグのオラ ンダ国立公文書館が所蔵する写真である。CD版「日本の想い出」によれば、43枚の 内16枚がパリで、26枚がハーグで撮影されている。トータル85枚になる。その 内の30名近くの人物の写真は日本にも残されていて、明治38年8月号「写真画報」 臨時増刊第31号「樺太回復紀念帖」(99)に掲載されている。大正元年の「日本歴史写 真帖」(100)に転載された。しかし、ハーグで撮影された「松木弘安」以外はすべて違 う場所で撮られたものになっており、主にロンドンとサンクトペテルブルグで撮られ た。

332
332 遣欧使節団通訳・松木弘安

No.356 

356
356 竜吐水・火消し

 この写真はポルスブルック・コレクションのものである。これのトリミングされて いない原版からのベタ焼き写真がW.ブルガー(Wilhelm Burger)の写真集「Wilhelm Burger Ein Welt-und Forschungsreisender mit der Kamera 1844-1920」(101)に掲載されている。ブルガーはポルスブルックの1869年2月離日後の9月に来日しているので、オランダ帰国後に収集された写真である。ブルガーはヨーロッパで写真展を開いたりして自分の写真を売っていたので、それを手に入れたのだろう。ボードイン・コレクションもそうだが、必ずしも滞日中に得た写真ばかりではないことに注意が必要である。

No.1~13、23、33~36

8
8 三田綱坂・島原藩下屋敷

 「写真集 甦る幕末」掲載の写真の成立に係わる写真についての検討を一通り終え たので、写真の先頭に戻って見直しを試みる。ここに写真番号を示したもの以外にも 写真No.303、304の項で示したように、アンベールに使われた写真のほとん どはベアトが撮影したと思われる写真であるが、ここで挙げた写真はアンベールが江 戸市中を探索しながら、ベアトに撮らせた写真と考えてよいのではないか。スイス使 節団が江戸の宿舎にした長応寺にベアトの仕事場を設けていた(102)。また、薩摩藩下 屋敷をベアトが撮った際の様子が書かれている。しかし、挿入されている版画絵の元 になった写真No.8は松本健氏の「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問」(港区立港郷土資料館研究紀要4)(103)によれば、三田綱坂を撮ったものとされている。「幕末日本図絵」の記述にある薩摩藩下屋敷の写真は使われなかったということだろうか。

No.14~22

16
16 日光・神橋

 これらの一連の「日光」の写真は内田九一の撮影と考えられるが、明治5年にウィ ーン万博出品用に撮影されたものかどうか確認できていない。分かっているのは、写 真No.14と16が「The Far East」(104)の1873.5.1号に掲載され、本文には編 集者のブラックが外国人の友人と連れ立って日光へ撮影旅行した時の様子が、友人の 日記と彼が撮った写真とともに紹介されていることである。旅行記の最後に内田九一 が撮影した写真も使ったと記されているが、旅行は1872年6月中旬に横浜からは 始まっているので、内田九一の随伴は有り得ない。彼はこの時西国巡幸に従って九州 に滞在中だった。恐らく、その後に日光へ出かけたと考えられる。撮影時期は明治5 年7月から6年3月の間で詰めていく必要がある。尚、CD版「日本の想い出」(105) には大量の日光周辺で撮影された写真があり、専らBDアルバムに集中している。

No.23~54

33
33 横浜・弁天社

 ほとんどがポルスブルック・コレクションのものだが、ベアトの「Views of Japan」 にある横浜の風景ものである。

No.52  

52
52 横浜・ポルスブルック邸

 このポルスブルックの横浜の住居の写真はオランダ海事博物館(106)のデータベー スによると、1869年2月13日の撮影となっている。領事を退任し、オランダへ 帰る直前に撮影されたものである。

No.53  

53
53 神戸・競馬場

 写真の説明には「The Far East」(107)の1870.11.16号掲載の横浜の競馬場の二等 観客席だと記されているが、位置や構造が異なっている。ベネット(Terry Bennett)の 「Old Japan」(108)カタログNo.34中に掲載のNo.46にある1872年成立の「神戸 コレクション」には市田左右太か内田九一の撮影と思われる写真が入っている。「写真 集 甦る幕末」の写真No.101と102が対応している。その中に、この写真N o.53と同じスタンドが写っており、「神戸競馬場の大スタンド」と記されている。 横浜(1867年開設)と神戸(1869年開設)には同時期に競馬場があったので、 混同したのであろう。

No.72~82

78
78 富士宮・登山口

 ポルスブルックのコレクションにはベアトの写真が多数入っているが、それは、ベ アトの「Views of Japan」が1巻丸ごとあるためである。表1のリストでは、まだベ アトの作品の洗い出しを完全には終わっていない。1867年富士登山の途中で静岡 ・原宿の植松家に行った際の写真が有名だが、ここには1858年にポルスブルック が長崎から陸路神奈川に移る際に寄っている。

79
79 静岡・原宿植松家の人々

9年ぶりの再会である。ベアトが同行 した。1858年の際は、たくさんの警備の武士が付いていたが、今回はポルスブル ックの恋人が同行するくらい安全になっている。No.169の項で述べるが、No. 78に写る女性と同じであり、ヒュースケンでなく、ポルスブルックの恋人であろう。 彼らの子供もいっしょだったかもしれない。

No.83~92、101~105

102
102 神戸・布引の滝

 これらの大阪・神戸の写真はベネットの「Old Japan」カタログNo.34(109)掲載の No.46の写真と比較して市田左右太の撮影と考えられる。

No.114~116、118

118
118 長崎・中島川と彦馬邸

 この4枚の写真はベアトの初期の長崎の写真で、1868年以降に販売されるよう になった「Views of Japan」には入っていないので、ポルスブルックのコレクション にはない。A.J.ボードインが横浜で購入し、B1アルバムに貼って持ち帰ったと考えら れる。撮影時期はNo.133と同じ1865年6月と考える。一説には、1864 年と66年にベアトが長崎に来ていたとされているが、根拠は明確ではない。ベアト は1864年10月に下関で写真を撮っているが、長崎へは行っていない。特に、「江 崎べっ甲店アルバム」(110)の「べっ甲店No.41」にある「皓台寺の墓地」が、長崎大 学古写真データベース(111)では1866年にベアトによって撮影されたとされてい るが、これはベアトの「Views of Japan」にある「春徳寺」(112)の写真と混同してい る。他の資料から、厳密な立証が必要だと考える。

No.117 

117
117 長崎・中島川高麗橋

 この写真はNo.116のベアトの写真と同じ構図だが、後年のものである。撮影 時期を考えるヒントは長崎大学コレクション①「明治7年の古写真集」(113)の写真 No.14にある。これも同じ構図だが、中島川の高麗橋の左岸の袂に石油灯が立っている。 写真No.117の右岸にある石油灯は小屋に隠れて見えない。石油灯が中島川に設 置された時期を記録したものは見出せていないが、「上野彦馬歴史写真集成」(114)の 写真No.44から明治5年ごろと考えられる。こちらの写真は巨大サイズであり、上野 彦馬でなくスチルフリード(Raimund Von Stillfried-Ratenicz)が明治5年5月に撮影 したものと推定できる。日本カメラ博物館の「スティルフリードの見た日本」(115)の 彼の写真を集めたものに見られるからである。同時に撮影された別バージョンが放送 大学(116)のホームページにも掲載されている。これらの写真は彦馬邸の白い二階建 ての写場が明治5年前半までに建てられたことを証明している。この写真No.11 7の写真は明治5、6年撮影と結論される。撮影者は彦馬と考える。この写真はBDア ルバムのものなので、A.J.ボードインが1874年2月に彦馬の写真館で購入したと 考えられる。

No.119 

119
119 長崎・中島川上流を望む

 この写真の所蔵元は掴めていない。CD版「日本の想い出」(117)には収録されていず、 その他のコレクションにも該当がない。恐らく彦馬の撮影だと考えられるが、白い二 階建ての写場が出来て以降としか言えない。しかし、「明治7年の古写真集 長崎・熊 本・鹿児島」(118)の写真No.15の「中島聖堂の正門と上野彦馬邸」は、中島川沿いの 「もやし屋の井戸」と呼ばれる湧き水付近から上流を撮影したものだが、構図だけで なく、写っているほとんどの被写体が対応する。季節はずれているようだが、写真N o.119は明治7年ごろまでに撮影されたと言ってよい。

No.122 

122
122 長崎・伊良林からの展望

 この写真はB3アルバムにあるものだが、撮影時期、撮影者が不明である。上野彦馬 邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望 んだ写真である。手前左に彦馬邸、正面に高木邸とその倉庫の建物が写っている。上 野彦馬邸の東南の角の家屋は建て直される前のもの。写真No.130の写真と比べ ると、屋根の形が旧いものとなっている。しかし、塀沿いの西側の建物は撤去されて いるので、慶応年間の後半であろう。塀の様子が判然としないので、白壁の塀の築造 との関係は読み取れない。今後の課題である。明治以降に使われた広い写場について の考察は拙著「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究」第74号、 2007年12月号)(119)を参照されたい。

No.130 

130
130 長崎・風頭山からの展望

 この長崎の風頭山からのパノラマ写真は、長崎監獄があり、舞鶴座がないことから、 明治15年から23年の間に上野彦馬によって撮影されたと考えられる。上野彦馬邸 の玄関の西側には白壁で窓付きの新しい塀が作られている。東南の角の家屋の北側に 大工小屋が建てられている。CD版「日本の想い出」(120)によれば、所蔵はアムステル ダム海事博物館だが、その写真データベース(121)のポルスブルック・コレクション には含まれていない。別系統からの収集であろう。「写真集 甦る幕末」中に多数のポ ルスブルック収集の写真が含まれているが、上野彦馬由来の写真はない。ポルスブル ックは彦馬の開業前の1859年に神奈川に移った。1863年6月に一度長崎に行 ったが、下関事件に遭遇して、写真どころではなかった。専らベアトから買っていた のであろう。

No.133 

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133 長崎・大浦居留地

 この大浦居留地を望む写真はB1アルバムの中で、ベアトの撮影とされているもので ある。慶応元年2月に落成した大浦天主堂の3本の尖塔が写っているので、1865 年6月にベアトが撮影したとしてよいと考える。

No.134 

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134 長崎・大浦天主堂

 この大浦天主堂の写真はボードイン・コレクションでなく、オランダ民俗学博物館 グラタマ・コレクションの中にあったものである。グラタマは彦馬の写真館でいくつ か写真を買っていたようである。撮影も頼んでいたのではないか。彼は慶応2年の4 月から、その年の年末までしか長崎にいなかったので、その間に購入したのだろう。この写真は1866年末までに撮られたと考えてよい。「上野彦馬歴史写真集成」(122)には明治以降の写真とされているが、慶応年間だと思う。また、江崎べっ甲店アルバム(123)の「江崎べっ甲店No.25-3」は時期的に近い写真であり、1866~67年を想起させる。

No.142 

142
142 長崎・大浦妙行寺

 この写真は裏面に書かれている記名(124)から1859年6月、ガワー(Abel A. Gower)の撮影とされて来たが、斎藤多喜夫氏は「幕末明治 横浜写真館物語」(125) で、1859年ごろ来日したロシエによる可能性を示唆している。写真の所蔵はオラ ンダ・アムステルダム海事博物館のポルスブルック・コレクションである。ポルスブ ルックは1857年7月24日に長崎に来日し、1859年7月4日に神奈川に移っ た(126)。ロシエは横浜でもステレオ写真を撮っているので、そのころ買ったのではな いか。ポルスブルックの帰国は1869年2月ごろである。ところで、1869年9 月に来日したブルガーの写真集(127)には、この写真のネガからのベタ焼きが掲載さ れている。また、大英図書館(前大英博物館)が1872年から所蔵している56枚 に及ぶブルガーが日本で撮影した写真にも含まれていて、台紙にはブルガー撮影と印 刷されている。そこで、本当に1869年にブルガーによって撮られた写真かどうか を検証してみる。ベネットの「Photography in Japan」(128)には、1860年10月 にロシエによって撮られた大浦居留地造成前の梅ヶ崎のパノラマ写真が紹介されてい るが、妙行寺の向うに見える入り江は埋め立て前であることが分かる。写真No.1 42もそれと近い頃、恐らく前年の風景であると考えられる。明治以降の大浦海岸が 完成した時期の写真ではない。ブルガーはロシエからネガを買ったのであろうか。因 みにオランダ海事博物館の写真は16×21cmで、横浜開港資料館所蔵の写真とサ イズは同じだが、大英図書館の写真は14.5×19cmで、サイズが一致しない。

No.153 

153
153 長崎・鼠島ピクニック

 この長崎・鼠島でのピクニック写真はボードイン・コレクションの大型のB1とB2 の両方のアルバムにある。B1アルバムにはベアト撮影と思しき写真がかなりあるが、B2アルバムにはボードイン兄弟、ポンペとポルスブルックの肖像以外に長崎の写真がないのに、この写真のみが入っているのは何か意味があると思われる。ベネットは「Early Japanese Images」(129)の中で1865年5月24日のビクトリア女王の誕生日を祝うピクニック・パーティをベアトが撮影したとしている。

No.152、154、158

154
154 長崎港の郵船

 これらの写真は上野彦馬がウィーン万博用に1872年に撮影したアルバム「長崎 市郷の撮影」の一部で、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録3」(130)で確 認できる。最後の所でも述べるが、A.J.ボードインは日本での最後の年1874年2 月に長崎へ出かけ、彦馬の写場で写真を撮ってもらう。これらは、その際に購入した と考えられる。A.J.ボードインのアルバムにあるべき写真である。BDアルバムに入っ ている。

No.161 

161
161 長崎・大浦居留地と出島

 出島を望む写真の内、この写真と対をなすものが、「長崎古写真集」(131)の写真No.34 と「幕末:写真の時代」(132)の写真No.134にある。何れもベアトの撮影と言われて いるが、撮影時期が不明である。1864年から1866年の間と見られる。出島の 築足と馬廻しが完成した慶応3年よりは前である。「長崎古写真集」(133)の写真No.29 の「1865年6月」とのベアト撮影の説明がある「出島」の町並みと比べても差異 が見出せない。1865年としていいと考える。写真No.128にも写真No.1 61とほぼ同じ場所からのパノラマ写真があるが、こちらは1866年ごろ、上野彦 馬によって撮影されたと考える。グラタマのコレクションにあるものである。上野彦 馬の写真館で購入したものであろう。大浦海岸や梅香崎海岸の建物が増えている。

No.163 

163
163 長崎・出島

 これはボードイン・コレクションのB1アルバムとポルスブルック・コレクションの 両方にあるものである。写真No.161と近い風景となっている。

No.165~226、242~248

176
176 オランダ領事と護衛隊

 これらはポルスブルックの交友関係を示す写真である。

No.166 

166
166 ヒュースケンの遺体

 ヒュースケンの襲撃は1861年1月15日の夜、アメリカ公使館が置かれた善福 寺の近くで起こった。担ぎ込まれた彼の臨終には、プロシア使節団に随行したアメリ カ人写真家ウィルソンが立会った(東京大学史料編纂所研究紀要1996年3月号「ヒ ュースケン暗殺事件」(134))。その時、彼が撮影した写真だと考える。

No.169 

169
169 ポルスブルックの日本人妻

 この写真には「ヒュースケンの日本人妻」というキャプションが振られているが、 アムステルダム海事博物館(135、136)のポルスブルック・コレクションのものである。 ポルスブルックのアルバム中では「写真集 甦る幕末」の写真No.166の前のペ ージに1864年の鎌倉事件の写真といっしょに貼られているだけで、後から出て来 る写真No.166の写真と関連付ける根拠はない。アルバムは時系列的に貼られて いるわけではない。ポルスブルック自身の作製ではなく、キャプションも事情を知ら ないものが入れたのかもしれない。写真No.78の「富士宮登山口」に写る女性と 似ているので、ポルスブルックの恋人の可能性を考えるべきである。出島のA.J.ボー ドインの家か、旧オランダ領事館の中庭で撮影されたと考えられる。写真No.24 3のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)米国総領事が写る写真の背景と同じであ り、同じ場所で撮影されたと考えることが出来る。植え込みは出島の領事館の中庭に 生えているものと同じである。ポンペが撮影した可能性が高い。尚、写真No.24 3が写されたと思われる1859年4月のハリスの長崎行きにヒュースケンが同行し た記録はない。写真No.259の項で述べたように、写真No.169は1858 年4月にポルスブルックが江戸へ移る前に撮影されたと考える。

No.189

189
189 リチャードソンの遺体

 この1862年9月14日に殺害されたリチャードソンの写真は「Photography     in Japan」(137)でベネットはソンダースが撮影したと推測している。

No.195 

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195 中原猶介と江戸詰薩摩藩士たち

 この写真はベアトの撮影とされている。長応寺のベアトの仕事場で撮られたもので あろうか。説明にあるように1862年8月に起こった生麦事件でのリチャードソン 殺害の補償交渉に際し、1863年9月~12月に横浜に臨んだ薩摩藩士と幕府立会 人らの集合写真と言われている。しかし、もしそうだとすると、前列中央が鹿児島黎 明館(138)所蔵の写真から岩下左次衛門(方平)と比定できるが、ムースハルトの「Arts en koopman in japan」(139)の写真No.B2-18Aの後列右に中原猶介が写るとする記述 は間違いとなる。なぜなら、この交渉時の参加者はアーネスト・サトウの日記「遠い 崖2」(140)の薩英戦争の項に記述されているが、中原猶介は含まれていないからであ る。薩摩藩の代表重野厚之丞と高崎(正風の甥)猪太郎らは佐土原藩の介添え人二人 と長崎経由で横浜に向かうが、その当時中原猶介は熱病で床に就いていて横浜には行 っていないのである。9月20日に藩元に手紙(「鹿児島県史料 忠義公史料2」(141)) を書いた後、数日で長崎から鹿児島に帰った。この写真は中原猶介が1864年2月 に横浜の英国公使館で船の購入交渉をした際のものである。江戸詰めの岩下方平が同 席したことは「薩藩海軍史中卷」(142)で確認できる。横浜開港資料館「F.ベアト幕 末日本写真集」(143)には、この中原猶介と岩下方平を除いた同じ4人が写る写真が載 っている。特にはっきり言えることは、「よこはま人物伝」(144)にある、介添え人の 一人佐土原藩士の樺山舎人の写真に該当する人物はいないということである。家紋も 明らかに違う。「幕末明治 横浜写真館物語」(145)でも間違った解釈がされている。 4人は江戸詰の薩摩藩士であろう。前年秋に鹿児島から出向いた重野厚之丞と高崎猪 太郎ではなく、南部弥八郎・堀平右衛門・関太郎・肥後七左衛門・新納嘉藤次ら(146) の誰かである。写真No.303、304の所で紹介した旧オランダ領事館の書斎で の撮影された中原猶介の写真は、この時ベアトによって複製が作られたと考えられる。 尚、昭和25年鹿児島市が編纂した「洋学者伝 郷土読本」(147)には中原猶介の伝記 とこれまでとは別の彼の肖像写真が掲載されている。さらに、この本には松木弘安や 八木称平のことも書かれ、1864年2月に江戸潜伏中の松木弘安と中原猶介が会っ ていると記されている。

No.197 

197
197 ボクサー英国レイホーク艦長

 この写真はキューパー提督の写真ではない。写真No.250の合成写真を参照す れば、レイホース艦長のボクサー提督であることが分かる。

No.203

203
203 下関・占領された長州の砲台

 1864年9月6日に、下関戦争で占領された長州の砲台をベアトが撮影したもの だが、同じ場面をワーグマン(Charles Wirgman)がスケッチした絵がIllustrated London News(148)の1864年12月24日号に掲載されている。写真No.303、 304の項で述べたようにベアトの下関の写真はこの時に撮影されたものである。ア ンベールは帰国後にそれらを収集して利用した。また、アンベールはIllustrated London Newsに載ったワーグマンのスケッチも改変して利用している。

No.243

243
243 米国公使タウンゼント・ハリス

 1856年8月21日に通訳H.ヒュースケン(Henry Heusken)とともに下田に来航し たタウンゼント・ハリスが残した日記(149)は1858年6月9日までであり、その 間に長崎に出かけた記録はない。その他の記録(150)から1859年4月に長崎で病 気の療養をしたことが分かっている。この写真は、その時に撮影されたと推測される。 背景の木立ちは長崎・出島でのA.J.ボードインの写真によく登場する。しかし、この 段階ではA.J.ボードイン(151)は来日直後であり、写真を撮っていないので、ハリス の診療もしたであろうポンペが撮影したと考える。

 その他の検討した事柄について述べる。先ず大事なことだが、見過ごされていることが ある。A.F.ボードインは1867年6月13日に横浜から、緒方惟準、松本銈太郎、赤星 研造、武谷椋山ら4人を連れて一時帰国する(152)が、その直前の5月14日にアムステルダム行きのソリデ号にあらゆる私物と日本での美術収集品を23個もの木箱に入れて発送した。手配はA.J.ボードインがやった。しかし、貨物船はスペインのペスカドレス近海で沈没し、A.F.ボードインの財産は全て水泡に帰した。A.J.ボードインは家族への手紙(153)で悲嘆に暮れている。帰国後に知ったA.F.ボードインの衝撃は如何ばかりだっただろうか。つまり、1867年までにA.F.ボードインが撮影・収集した写真のほとんどは、この時失われたと考えられる。江崎べっ甲店アルバム(154)の「江崎べっ甲店No.3-1」にはA.F.ボードインが写る写真があり、同じものは「写真の開祖 上野彦馬」(155)の写真No.260にも掲載されているが、これは現在のライデン大学のコレクションには残っていない。これが意味することを結論付けるのは未だ早いかもしれないし、A.J.ボードインと共通の写真はA.J.ボードインのアルバムによって救われたかもしれないが、現在残っているA.F.ボードインのアルバムは1868年末に再来日して以降のものではないかと考えられる。ボードイン絡みの写真を論じる前に、この辺のことを明らかにしておくことが大前提ではないか。写真No.259で述べたようにA.J.ボードインが写真の撮影をしていたこと無視すべきではない。
 今まで「写真集 甦る幕末」とそれには入っていない写真を含むCD版「日本の想い出」 を再検討して来たが、A.F.ボードインが撮った写真と思われるものを、はっきり見出せていない。長崎でも大阪でも、A.J.ボードインがそばにいたことが多い。明治以降は、A.F.ボードインは移動が多いし、1867年にカメラ類を他の私物といっしょに本国に送った船が沈んで以来、自分で写真を撮っていないのではないか。CD版には、「写真集 甦る幕末」には入っていないが、大福寺(法性寺?)の本堂前で緒方惟準ら医学生とA.F.ボードインが写る集合写真がある(156)。ライデン大学のボードイン・コレクションのBDアルバムに入っているが、その台紙には大阪・佐野の写真師 横田朴斎の朱印が押されている。他の大阪舎密局関係で撮られた写真の撮影者もライデン大学では特定されていないが、先に写真No.256で書いたように中川信輔である。また、ボードイン・コレクションに入っている神戸近郊の写真は内田九一か神戸の写真家市田左右太が撮影したと考えられる。写真No.101と102は「The Far East」(157)にも使われている。このころはボードイン兄弟とも、撮影はやっていなかったのかもしれない。
 A.J.ボードインは1874年日本での最後の年の2月に、長崎で上野彦馬写真館で撮ってもらった肖像写真を家族に送っている(158)。A.J.ボードインは上野彦馬とは、伊勢津藩主藤堂高猷のために写真機材を販売して以来の付き合いだが、ボードイン・コレクションには上野彦馬由来の写真が少ない。彼らは自分の身の回りにしか興味がなかったのか。この1874年のA.J.ボードインの写真はライデン大学のボードイン・コレクションにはない。失われてしまったボードイン・コレクションが存在するのかもしれない。ボードイン・コレクションは兄弟が作製したアルバムのみではない。ボードインらは撮った写真を日本から家族に逐次送っている。ボードイン兄弟は生涯独身で、父母を早くに亡くしているので、専ら兄姉宛てに手紙を送った。送られて来た写真を家族がまとめたアルバムも含まれていると考えられる。「写真集 甦る幕末」にピックアップされた写真以外も精査して見なければならない。CD版「日本の想い出」をじっくり見直してみる必要がある。今回長崎大学の所蔵になったボードインコレクションの内、BAアルバムは1874年にA.J.ボードイ ンが帰国後に収集されたと思しき写真が多い。中には、銀座通りの明治9年から16年に存在した「共同社」の看板が写る明治10年ごろの写真(159)などがあり、今後の厳密な調査が望まれる。
 以上、いろいろと疑問を提示して来たが、筆者が把握している限り、ライデン大学におけるボードイン・コレクションについての見解は2000年10月に日本で開催された「日蘭交流400年記念シンポジウム」の報告が載っている洋学史学会「江戸時代の日本とオランダ」(160)中のムースハルト氏の「オランダにある初期の日本写真:ボードワン・コレクション」が最新のものである。国内の研究も個別のものはあっても、総合された研究結果は公表されて来なかった。多くの幕末・明治の歴史写真に関心のある方々が見直しに参加してくださることを希望する。今回の「写真集 甦る幕末」再評価に当たっては、堺屋修一氏、石黒敬章氏、姫野順一氏、森重和雄氏、倉持基氏を始め、多数の古写真に造形の深い方々のご意見・ご協力・ご指導をいただいた。浅学故の先走った間違いがあれば、著者の責任である。

(平成20年11月21日)

参考資料
(1)  後藤和雄・松本逸也編、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションよ り」、朝日新聞社、1987。
(2)  後藤和雄、「写真考古学:写された歴史と写した目と」、皓星社、1997。
(3)  松本逸也、「幕末漂流」、人間と歴史社、1993。
(4)  長崎大学がWeb上で公開している各種の画像情報「長崎大学電子化コレクショ ン(http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/)」の中に「日本古写真ア ルバム ボードイン・コレクション」として納められている。URLは  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/11.htmlである。
(5)  朝日新聞社編、「甦る幕末 オランダで保存されていた800枚の写真から」、     朝日新聞社、1986。
(6)  University of Leiden, ed.,“Herinneringen ann Japan 1850-1870(甦る幕末)”,           University of Leiden, The Netherlands, 1987.
(7)  I.Th.Leijerzapf and H.J.Moeshart,“Memories of Japan 1859-1875 Japanese           Photographs in Dutch Collections(日本の想い出、1859-1875 日本の写真・      在オランダ・コレクション)“, IDC Publishers, The Netherlands, 1996.
(8)  ベアトの写真アルバムの「Views of Japan」の一つはポルスブルックのコレク ションとして(13)に示すアムステルダムのオランダ海事博物館のデータベ ースで見ることができる。それ以外のベアトのコレクションとしては横浜開港 資料館が多数所蔵しており、横浜開港資料館編、「F.ベアト写真集1-幕末日本 の風景と人々」及び「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」、 (2006)に集約されている。
(9)  A.ボードウアン、フォス美弥子訳、「オランダ領事の幕末維新:長崎出島からの 手紙」、新人物往来社、1987。
(10) ポルスブルック、井熊 文訳、「ポルスブルック日本報告:1857-1870オランダ 領事の見た幕末事情」、雄松堂出版、1995。
(11) ハラタマ、芝哲夫、「オランダ人の見た幕末・明治 化学者ハラタマ書簡集」、      菜根出版、1993。三崎嘯輔、緒方惟準、松本銈太郎が写る集合写真がある。
(12) H.J.Moeshart, “Arts en koopman in Japan(医師と商人 幕末のオランダ人 兄弟)”, De Bataafsche Leeuw, Amsterdam, The Netherlands, 2001.
(13) アムステルダムのオランダ海事博物館のURL は  http://www.maritiemdigitaal.nl/である。
(14) 尼崎総合文化センター編、「長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局-開業初 期アルバム-』(「第7回上野彦馬賞フォトコンテスト」受賞作品展 特別企画 展目録)」、尼崎総合文化センター、2007。
(15) 東京国立博物館編、「東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録1-3」、国 書刊行会、1997-2002。
(16) 前掲(9)。
(17) 長崎市出島史跡審議会、「出島図:その景観と変遷」、長崎市、1987。
(18) 八幡政男、「評伝 上野彦馬 日本最初のプロカメラマン」、武蔵野書房、1993。
(19) 「日本医事新報 1739号」、医事新報社、1957。
(20) ポンペ、沼田次郎訳、「ポンペ日本滞在見聞記:日本における五年間」、雄松堂 書店、1968。
(21) 前掲(7)。
(22) 赤松則良、「赤松則良半生談:幕末オランダ留学の記録」、平凡社、1977。
(23) 村上一郎、「蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流」、房総郷土研究会、1931。
(24) 前掲(7)。
(25) 前掲(11)。
(26) 梅本貞雄編、「日本写真界の物故功労者顕彰録」、日本写真協会、1952。
(27) 前掲(9)。
(28) 前掲(9)。
(29) 前掲(9)。
(30) 前掲(7)。
(31) 前掲(9)。
(32) 石黒忠悳、「石黒忠悳懐旧九十年」、大空社、1994。
(33) 石井良助編、「太政官日誌 第1卷」、東京堂出版、1980。
(34) 前掲(11)。
(35) 前掲(11)。
(36) 前掲(9)。
(37) 前掲(7)。
(38) 石黒敬章、「幕末・明治のおもしろ写真」、平凡社、1996。
(39) 前掲(9)。
(40) 前掲(6)。
(41) 前掲(12)。
(42) 犬塚孝明、「密航留学生たちの明治維新:井上馨と幕末藩士」、日本放送協会、      2001。
(43) 犬塚孝明、「薩摩藩英国留学生」中央公論者、1974。
(44) 長崎大学「出島の科学刊行会」編、「出島の科学:長崎を舞台とした近代科学の 歴史ドラマ」、九州大学出版会、2002。
(45) 池田謙斎、「回顧録」(「医学のあゆみ」第30巻1~4号)、医歯薬出版、1959。
(46) 前掲(7)。
(47) 鈴木要吾、「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯:伝記松本順」、大空社、1993。
(48) 中原尚徳、中原尚臣、「贈正五位中原猶介事蹟稿」、中原尚徳、1929。
(49) 鹿児島県維新史料編纂所編、「鹿児島県史料 忠義公史料 第2巻」、鹿児島県、      1975。
(50) 前掲(12)。
(51) 岩崎克己、「柴田昌吉伝」、岩崎克己、1935。
(52) 日本眼科学会、「日本眼科を支えた明治の人々(日本眼科学会百周年記念誌 第 5巻)」、日本眼科学会、1997。
(53) 鍵山栄、「相良知安」、日本古医学資料センター、1973。
(54) 相良知安、「相良翁懐舊譚」(「医海時報」第499~541号)、医海時報社、 1900。この連載は知安からの直接の聞書きがまとめられており、今まで知られ ていなかった隠された事実が知れる。
(55) 前掲(11)。
(56) 前掲(32)。
(57) 宗田一、「図説 日本医療文化史」、思文閣出版、1989。
(58) 渋谷雅之、「近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど」、私家版、2008。
(59) 前掲(11)。
(60) 前掲(47)。
(61) 前掲(11)。
(62) 池田文書研究会編、「東大医学部初代綜理池田謙斎 上」、思文閣出版、2006。
(63) 長崎大学医学部編、「長崎医学百年史」、長崎大学医学部、1961。
(64) 鹿児島市編、「洋学者伝 郷土読本」、鹿児島市、1950。
(65) 前掲(45)。
(66) 日本赤十字社病院編、「伝記・橋本綱常」、大空社、1994。
(67) 前掲(64)。
(68) 前掲(54)。
(69) 石黒敬七編、「写された幕末」、アソカ書房、1957。
(70) 石黒敬章氏私信。
(71) 前掲(12)。
(72) John Clark,“Japanese Exchanges in Art 1850s-1930s with Britain,           continental Europe, and the USA“, University of Sydney, Australia, 2006.
(73) Aime Humbert, “Le japon illustre”, Hachette & Cie, Paris, France, 1870.           アンベールはこの本の出版の前に1866年から1869年まで雑誌「Le Tour du monde:nouveau journal des voyages(Hachette, Paris, France)」に絵入り紀 行記を発表し、それをまとめて、上記の二冊の本にした。すでに356枚の図版 が使われ、内43枚の版画の原写真が「写真集 甦る幕末」に入っている。
(74) エメェ・アンベール、茂森唯士訳、「絵で見る幕末日本」、講談社、2004。      この本は「幕末日本-異邦人の絵と記録に見る」(東都書房、1966)を底本に      している。
(75) エメェ・アンベール、高橋邦太郎訳、「続・絵で見る幕末日本」、講談社、2006。      この本は「アンベール幕末日本図絵」(雄松堂出版、1969-1970)を底本にして いる。
(76) 前掲(48)。
(77) 公爵島津家編纂所編、「薩藩海軍史 中卷」、原書房、1968。
(78) 前掲(73)。
(79) 「長崎大学古写真データベース」は「長崎大学電子化コレクション」(前掲(4)) からリンクされている。直接のURLはhttp://hikoma.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/
(80) 前掲(73)。
(81) 沓澤宣賢、「アンベール『幕末日本図絵』所収の絵画と古写真との関係について -『甦る幕末』所収のベアトの写真との対照を中心に-」(「日蘭学会会誌」第 22巻第2号)、日蘭学会、1998。
(82) 前掲(69)。
(83) 前掲(48)。
(84) 東京都港区教育委員会編、「写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレ クション」、東京都港区立港郷土資料館、1991。
(85) 前掲(7)。
(86) 前掲(7)。
(87) 前掲(75)。
(88) 前掲(7)。
(89) 犬塚孝明・石黒敬章、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」、平凡社、2006。
(90) 石黒敬章編、「下岡蓮杖写真集」、新潮社、1999。
(91) 前掲(74)。
(92) 前掲(74)。
(93) 宮永孝、「幕末異人殺傷録」、角川書店、1996。
(94) 萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄1 旅立ち」、朝日新聞社、 1998.
(95) 春畝公追頌会編、「伊藤博文伝 上巻」、原書房、1970。
(96) 井上馨侯伝記編纂会、「世外井上公伝 1」、原書房、1968。
(97) 前掲(72)。
(98) 長與専斎、松本良順、「松本順自伝・長與専斎自伝」、平凡社、1980。
(99) 樺太回復紀念帖(「写真画報」臨時増刊第31号)、博文館、1905。
(100)秋好善太郎編、「日本歴史写真帖」、東光園、1912。
(101)Gert Rosenbert,“Wilhelm Burger Ein Welt- und Forschungsreisender mit der           Kamera 1844-1920”, Wien: Christian Brandstaetter, 1984.
(102)前掲(74)。
(103)松本 健、「フェリックス・ベアト撮影『高輪・薩摩屋敷』への疑問 -幕末写 真の撮影地点についての一考察-」(「東京都港区立港郷土資料館研究紀要4」)、 東京都港区立港郷土資料館、1997。
(104)John Reddie Black,“The Far East: an illustrated fortnightly newspapers”          (1870-1875)、雄松堂複製、1965。
(105)前掲(7)。
(106)前掲(13)。
(107)前掲(104)。
(108)Terry Bennett, “Old Japan”, Catalogue 34, Old Japan, Surrey, England,           2007.
(109)前掲(108)。
(110)前掲(14)。
(111)前掲(79)。
(112)H. von Claudia Gabriele Philipp ed., “Felice Beato in Japan: Photographien           zum Ende der Feudalzeit 1863-1873”, Edition Braus, Munchen, 1991。
(113)長崎大学附属図書館編、「長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集 長崎・      熊本・鹿児島」、長崎文献社、2007。
(114)馬場章編、「上野彦馬歴史写真集成」、渡辺出版、2006。
(115)井桜直美、「明治の古写真 スティルフリードが見た日本」、日本カメラ博物館、      2005。
(116)放送大学附属図書館所蔵コレクションから放送大学のホームページ、「日本の残 像 写真で見る幕末・明治」に取上げられた。 URLはhttp://lib.u-air.ac.jp/koshashin/koshashin.htmlである。
(117)前掲(7)。
(118)前掲(113)。
(119)高橋信一、「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究 第74号」、      民衆史研究会、2007。
(120)前掲(7)。
(121)前掲(13)。
(122)前掲(114)。
(123)前掲(14)。
(124)長崎市教育委員会編、「長崎古写真集 居留地篇」、長崎市教育委員会、1995。
(125)斎藤多喜夫、「幕末明治 横浜写真館物語」、吉川弘文館、2004。
(126)前掲(10)。
(127)前掲(101)。
(128)Terry Bennett, “Photography in Japan 1853-1912”, Tuttle Publishing, Singapore, 2006。
(129)Terry Bennett, ”Early Japanese Images”, Charles E. Tuttle Company, Rutland, Vermont & Tokyo, Japan, 1996。
(130)前掲(15)。
(131)前掲(124)。
(132)小沢健志編、「幕末:写真の時代」、筑摩書房, 1994。
(133)前掲(124)。
(134)レイニア H.ヘスリンク、「ヒュースケン暗殺事件」(「東京大学史料編纂所研究 紀要」)、1996。
(135)前掲(13)。
(136)宮永孝、「開国の使者-ハリスとヒュースケン-」、雄松堂出版、1986。
(137)前掲(128)。
(138)吉満庄司、「岩下方平関係資料目録」(「黎明館調査研究報告」第19集)、鹿児島 県歴史資料センター黎明館、2006。
(139)前掲(12)。
(140)萩原延壽、「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄2 薩英戦争」、朝日新聞社、 1998。 
(141)前掲(49)。
(142)前掲(76)。
(143)前掲(8)。
(144)横浜開港資料館編、「よこはま人物伝:歴史を彩った50人」、神奈川新聞社、1995。
(145)前掲(125)。
(146)前掲(140)。
(147)前掲(64)。
(148)The Illustrated London News, 1842-1880, Reprint Ed., Kashiwashobo Pub. Co., 1997.
(149)T.ハリス、坂田精一訳、「ハリス日本滞在記」、岩波書店、1954。
(150)前掲(136)。
(151)前掲(9)。
(152)荒木康彦、「近代日独交渉史研究序説 最初のドイツ大学日本人学生馬島済治と カール・レーマン」、雄松堂出版、2003。
(153)前掲(9)。
(154)前掲(14)。
(155)鈴木八郎・小沢健志・八幡政男・上野一郎監修、「写真の開祖 上野彦馬 写真 に見る幕末・明治」、産業能率短期大学出版部、1975。
(156)前掲(7)。
(157)前掲(104)。
(158)前掲(9)。
(159)石黒敬章、斎藤多喜夫、青木祐介、松信裕、「古写真でみる文明開化期の横浜・ 東京」(「有鄰」第479号)、有隣堂、2007。
(160)J.ムースハルト、「オランダにある初期の日本写真」(「江戸時代の日本とオラン ダ」日蘭交流400年記念シンポジウム報告集②、洋学史学会、2001。

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2008年11月16日 (日)

世界大恐慌と翻訳者

現在の日本は、世界大恐慌という中波に翻弄されている木の葉のようです(今回の世界大恐慌は、100年に一度あるかないかという規模のものですが、人類全体にもたらしたインパクトの大きさという物差しで測るとすれば、今回の世界大恐慌は中波レベルのものに過ぎません。では、本当の大波とはどのようなものかと云うと、農業大革命、産業革命、情報革命の三つです。この三大革命については、拙ブログでも「21世紀を生きる子どもたちへの最良の指南書)」として取り上げており、現在の私は翻訳を生業としている関係から、来る情報革命において翻訳業界はどのような位置づけになるかについても、併せて同記事に書いておきましたので、関心のある翻訳関係者の方々に一読して戴ければ幸いです。
21世紀を生きる子どもたちへの最良の指南書

さて、今回は本記事の題名にある「世界大恐慌と翻訳者」に絞って筆を進めていきます。

私の場合、今回の世界大恐慌が誰の目にも明らかになった、9月16日のリーマン・ブラザーズの倒産以降、海外の翻訳会社からの仕事が激減しました。なかには、顧客からの値下げ要求が厳しいので、お前の翻訳料金を引き下げてくれという翻訳会社が出る始末です。こうした状況下にあってはジタバタしたって仕方がないので、ちょうど良い充電期間に入ったと考え方を切り替え、今までに読もうと思って購入しておいた二メートル近くの本を、片っ端から読み進めるという読書三昧の日々を送っています。無論、このような生活をいつまでも続けられるわけではなく、生活するためにも稼がなければならなりませんが、こうした状況に追い込まれて一番助かったと思ったのは、ProZ.comという世界最大の翻訳者のコミュニティのメンバーであったという点です。ProZ.comを経由して平均して週に一回のペースで、、世界各地の翻訳会社から仕事の打診やトライアルのすすめに関するメールが届きます。最近も、スウェーデンの翻訳会社からトライアルを受けてみないかという誘いのメールがあり、時間があったので受けてみたところ無事に合格、来週から実際に仕事がスタートすることになりました。今回はマニュアルではなく企業誌風の原稿であり、原文である英語を自然な日本語に翻訳する力が求められているだけに、やり甲斐があるなと思った次第です。

ともあれ、世界的な不況に突入した今日、日本国内だけでなく海外の翻訳会社も視野に入れることにより、それだけ仕事を獲得する機会が増えることが容易に想像できると思います。

海外の翻訳会社について
つい最近まで、国内の翻訳会社から英日の仕事を承るのが普通でした。しかし、ここ2~3年で様子が大分変わってきました。日本国外の翻訳会社からの英日翻訳の依頼が大幅に増えてきたのです。私の場合、3年ほど前までは100%国内の翻訳会社から英日翻訳の仕事を承っていました。ところが、1年ほど前には国内の翻訳会社からの依頼が全体の仕事量の10%に下がり、逆に海外の翻訳会社からの仕事の依頼が全体の仕事量の90%を占めるまでになっています。

今日では、世界各地の翻訳会社から仕事やトライアルの打診のメールが届きます。そして、ヨーロッパ・北米といった翻訳会社が設定している英日翻訳の料金は比較的よいのですが(分野によると思いますが、私の場合は自動車・機械・電気電子・半導体分野を専門としており、英文1wordあたり12円前後で設定しています)、逆に香港を含む中国、インド、タイ、ベトナムなどが設定している翻訳の料金は、5~6円と欧米の翻訳会社の半分(3~4円といった具合に、三分の一という翻訳会社もある)という低さです。同じアジアでも、欧米の翻訳会社並みに設定料金が良いのがシンガポールと台湾という印象を持っています。肝心な日本ですが、最近は欧米の翻訳会社よりも翻訳料金の低い会社がほとんどであり、インドや中国本土並みに翻訳料金の低い翻訳会社が増えてきています。そうした翻訳会社との付き合いを2年前から徐々に止めるようになった結果、現在では国内の翻訳会社との付き合いは2社のみとなりました。

ところが、折角付き合い始めた欧米の翻訳会社も、9月16日のリーマン・ブラザーズの倒産をきっかけに、めっきりと翻訳の仕事が減り、なかには小生の設定した翻訳料金を下げて欲しいと言ってくる海外の翻訳会社が出る始末です。また、つい最近まではユーローが強かったので、ヨーロッパの翻訳会社を中心に翻訳の仕事を承ってきましたが、最近はひどいユーロー安であり、そのためヨーロッパの翻訳会社から振り込まれてくるユーロを円に換える気が起こらず、もう少しユーロ高になったら一気に円に両替しようかどうしようかと頭を悩ませています。さらに、ドルも他国の通貨に対してドル高になっているのに、何故か円に対してだけはドル安という有様。したがって、アメリカの翻訳会社から振り込まれてくるドルも、当面は塩漬けにするしかなさそうです(尤も、近い将来ドルが紙屑になる可能性も否定できず、1ドル100円を上回ることも余り期待できないことから、タイミングを見て損を覚悟で円に換えるしかないと諦めの境地です)。そうした事情から、リーマン・ブラザーズの倒産以降、新たに取引を始めた翻訳会社に対しては、円建てでお願いすることにしました。ただ、円にしても所詮は単なる紙切れであり、知遇を得ている在米の藤原肇さんにプレゼントしてもらった『石油と金の魔術』を読みつつ、資産の三分の一程度は金にしようなどと色々と対策を考えています。

なお、資産については金を購入する他、株などを購入するという手もあると思います。特に株という投資を考えてる方は、下手なエコノミストや株評論家のブログやホームページを参考にして株を買うのではなく、飯山一郎氏のホームページを参考にすることをお勧めします。飯山さんとは、過日書いた新記事『邪馬台国論争 終結宣言』が縁で知己になりました。
飯山一郎のホームページ

自分を売り込む

ともあれ、考え方としては国内の翻訳会社だけではなく、広く世界の翻訳会社も対象に入れて自分を売り込むことが肝心です。そのためにも、一番良いのは上記のProZ.comのメンバーになることだと思います。関心を持った読者は、一度同コミュニティにアクセスしてみてください。
ProZ.com

同コミュニティは様々な試みを積極的に推し進めており、最近はProZ.com Certified PRO programという新しい試みを始めました。これは翻訳会社や翻訳者がProZ.com本部に推薦した翻訳者を同ProZ.com本部が審査する形をとり、審査にパスした翻訳者は客観的に実力を備えた翻訳者として認知されたことを意味し、かつそれだけ仕事を獲得する可能性も高まるということになります。幸い、私も数ヶ月前に同審査にパスしました。これからは周囲に居る実力ある翻訳者を積極的にProZ.com本部に推薦していき、英日翻訳のProZ.com Certified PROメンバーを増やし、お互いに仕事を融通し合えるチーム(仲間)ができればと考えています。それには力量ある英日翻訳者をある程度確保する必要があり、そのためにも今後もこの人はと思う英日翻訳者をProZ.com本部に推薦していき、メンバー数を増やしていきたいと思っています。ProZ.com Certified PROの詳細については以下を参照願います。
ProZ.com Certified PRO program

さて、ProZ.comに参加して2年が経った今、朧気ながらも分かってきた海外の翻訳会社が求めている英日翻訳者像について、以下に取り上げておきましょう。一読することにより、翻訳者として今後どのような研鑽を積めば良いのかが自ずと分かると思います。

山岡洋一氏という翻訳家がいます。山岡氏は「翻訳通信」という翻訳関係者には参考になる記事を毎月発行しており、当面は無料で発行する予定とのことなので、関心のある翻訳者は登録することをお勧めします。以下のサイトからダウンロードできます。過去の記事も保管してありますので、関心のある号をダウンロードして読むことも可能です。
翻訳通信 ネット版

さて、最新号の「翻訳通信」(2008年11月号 第2期第78号)の中で、ここ20年間ほどで翻訳の仕事が大きく変わってきたと、山岡氏は以下のように述べています。

 

 
 語学の仕事だった翻訳が大きく変わったのは、 1980 年代末ごろからだったように思う。産業翻訳は、 1985 年のプラザ合意後の円高で激変した。ひとつに は、円高のために輸出産業が打撃を受け、製品輸出 に伴って発生していた外国語方向への翻訳が減少し た。そのうえ、円高で日本の給与水準が高くなった ためだろうが、外国人が大量に日本に移り住むよう になり、日本語をしっかりと学んだ外国人の数が飛 躍的に増えた。そのため、日英などの外国語方向へ の翻訳は、外国人の翻訳者に任せることが多くなっ た。翻訳は母語方向に行うものという常識がようや く、日本でも通用するようになったのである。

 もっと大きかったのは、たぶん、日本人が外国語、 とくに英語に自信をもつようになり、同時に日本語 にも自信をもつようになったことだろう。1990 年代 になると、翻訳調の翻訳は嫌われるようになる。当 時、外資系企業の翻訳発注担当者から、こんな話を 聞いたことがある。数年前までは、製品カタログの 翻訳が翻訳調になっていないと、もっとバタ臭い文 章でないとありがたみがないと営業部門から苦情が でたが、いまでは翻訳調だと逆に、これでは顧客が 読んでくれないと文句をいわれるようになったとい うのである。ほんの数年の間に、翻訳に関する要求 が大きく変わったのである。

さらに読みたい方は、「翻訳通信」(2008年11月号 第2期第78号)をダウンロードしてください(pdf書式)。

「200811.pdf」をダウンロード

以上、山岡氏の主張を私なりにまとめるとすれば、日本語を母語とする産業翻訳者は、英日翻訳(英語以外の原語もありますが、マーケットの観点から英文が圧倒的に多い)を中心に手がけ、かつ専門分野を絞り、判読するのに苦労するような翻訳調の訳文ではなく、読めばスラスラと頭に入るような自然な和文に訳出する力が必要となるし、このあたりの翻訳力は各自それぞれのやり方で磨いていくべきだと思います。私の場合、ブログに様々なジャンルの記事を書いたり、企業への寄稿などといった形で自身の日本語力を磨いています。山岡氏も以下のように書いています。

 

 
 これで翻訳はほんとうに面白い仕事になった。翻 訳が「語学」の仕事だった時代には、産業翻訳者は 数年経つと筆が荒れてくるといわれていた。どのよ うな分野の文書でも、入ってくる仕事を分野を問わ ずこなしていれば、原文の意味を理解できないまま、 機械的に翻訳していかなければならない。これでは、 筆が荒れるのも当然である。これに対して、原文の 内容を十分に理解し、意味を適切に伝えられる優れ た文章を書こうと努力するのであれば、翻訳はいつ も新しい挑戦になる。年数が経てば筆が荒れるどこ ろか、円熟していけるようになる。だから、翻訳者 にとって、総合力で勝負できるというのはじつにあ りがたいことなのだ。

山岡氏の云う「総合力」で勝負できるようになれば、相手の翻訳会社やクライアントが日本国内であろうと、欧米、あるいはアジアであろうと関係なくなります。自分の「総合力」に見合うだけの翻訳料金を支払える翻訳会社を、世界中から探し出しましょう。最後に、本記事のまとめです。

世界最大の翻訳者コミュニティであるProZ.comのメンバーになる
山岡洋一氏の云う「総合力」を磨く

なお、山岡氏の云う「総合力」を磨くにあたって、最適な語学学校がありますので以下に紹介致します。関心ある読者は一度アクセスしてみてください。

サングローバル翻訳講座


ProZ.comの仲間である日本人翻訳者に上記の山岡氏の記事を送ったところ、以下のような感想がメールで届きました。知人の翻訳者の専門は医学ですが、他の分野でも似たような傾向にあると思います。

 

 
山岡洋一氏のお話を読むと気が引き締まります。
辻谷先生の本を読んでも(ショックを受けつつ)、同じような感情が湧いてきます。
でも悲しいかな、医学翻訳ってまだまだ「へんちくりん」な日本語を良しとする風潮がなんとな~く あって、「わけのわからん『暴れたろかっ!』という気になるような日本語=格調が高い」と勘違い してるようなところがあります。この傾向は、日本の製薬企業・医療機器メーカーに多く見られるとい う話。その反対に外資の会社(某製薬会社と某医療機器メーカーを除く)は、けったいな和訳をすると、フィ ードバックという名の苦情がきます(特に某社はすごかった。でもたった1回だけやけどホメてくれたし、 勉強にもなったけど)。

「大不況に関する11月18日付の東京新聞の記事」
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2008年10月27日 (月)

『邪馬台國論争 終結宣言』

B081001マヨのぼやき」というブログがあります。数ヶ月前に何かのきっかけで同ブログを訪れたところ、たまたまフルベッキ写真が話題になっていました。しかし、同ブログのオーナーであるマヨさんが、フルベッキ写真に写っているのは本物の坂本龍馬だの、高杉晋作だのという具合に書いているので、拙ブログのフルベッキシリーズを紹介した上で、マヨさんのフルベッキ写真に対する誤解をズバリ指摘したところ、素直に間違いを認めるマヨさんを見て大変驚いたものでした。なぜなら、他人から指摘されるのは普通であれば余り良い気持ちはしないものであり、却って開き直られることが過去に度々あったからです。しかし、マヨさんはそうした連中とは異なり、素直に自身の間違いを認めたのですから、誠実で信頼するに足りる人物だという印象を持つに至ったのであり、爾来いろいろと情報交換を行うようになった次第です。

そんなある日、マヨさんが「卑弥呼はころされた」という投稿をしていました。その投稿のコメント欄に山形明郷という人の著した『邪馬台國論争 終結宣言』という題名の本を、マヨさんが紹介していたのに目が止まったのです。あの古代史に強いマヨさんが推薦する本なのだからと云うことで、至急インターネットでサーチしてみたところ、ラッキーなことに絶版となっていた同書がインターネットの古本屋にあることが分かり、迷わず購入を決めました。そのお礼を同記事のコメント欄に書いたところ、マヨさん本人から以下のような回答がありました。

サムライさん、いつもどうも。山形氏は本物です。これ以上の本は出ていないでしょう……以下略

数日後、同書が届いたので早速目を通してみました。装丁が非常に丁寧であり、かつ色鮮やかな地図も何枚か目に飛び込んできました。そして、何よりも格調高い山形氏の文章が気に入ったのです。どうしてこれだけの格調高い文章を書けるのだろうと思いつつ、同書の冒頭に栃木県婦人ペンクラブ会長の吉田利枝先生の書評を最初に読み、さもありなんと思った次第です。大変優れた書評なので以下に吉田先生の書評を全文転載しておきましょう。

 

 
書評

 著者・山形明郷氏は、在野の古代東アジア史研究家である。

 我が国の古代史をめぐって、往年の松下見林、新井白石、本居宣長以降三百余年の歳月を閲しながら、今日尚古代の一国邑「邪馬台国」の確たる所在、その実相さえも明証し得ぬまま、いつ果てるともなき論争が終結をみない現況を座視し得ないとされる著者が、意を決して古代アジア・日本列島の実相究明にその人生の大半を耗して精魂を傾け、漸くにして成就させたこの著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である。

 未だに記述文化不毛の草創期の我が国が、その古代史形成に当たって依拠したのが、歴史大国・隣邦中国が蓄積保蔵する萬巻の大史録中の一誌(志)「魏志倭人伝」であった。これに依拠以降の我が国は、これを「日本古伝」と看做し、おしなべての国民が教育されて今日に及んでいる。

 古代中国の魏朝期、陳寿なる一吏員の筆になる右「魏志倭人伝」は撰者自らが「倭国」に出赴たわけではなく、当時の歴史的断片たる官府の記録や、自国近域の伝風聞、倭使からの情報や魏使の報告書等による雑記文的二千文字の小誌である。

 しかるに我が史学界は、散漫・粗笨の謗りを免れ得ないこの小誌を今日尚固執し続け、しかもこの叙述内容への驚くべき曲解、誤認の視座から、些かの躊躇もなく「倭」は日本国、「倭人」は日本民族と即断して疑わず、更に同誌上に登場する「女帝・卑弥呼」も、この倭国日本列島内の王朝「邪馬台国」に君臨した強大な首領だったとし、これらの所在地域に、「九州」、「近畿(大和その他)」等を各々が立論してその正当性を互いに譲らず、また古代の面影を遺して列島内各地から発掘・出土の遺構・墳墓・武具・刀剣・馬具さては金印・鏡・貨銭・玉等々を見分の都度も亦曲解、誤認の「倭人伝」を基底に繰返す憶測、謬見が賑う紛々の論争は、いよいよ真個の古代東アジア・古代日本の史実を遠ざけている。

 このような、現日本古代史が内包する曖昧模糊たる迷雲を払拭し、確固たる日本古代史の再構築を期する為には、何よりも先づ「魏志倭人伝」への固執、且つ歪曲の旧弊から決別し、「広大なアジアの一角に生きてきた古代日本の視座からの究明を」翹望される著者は、古代東アジア史研究家ならではの漢文字に通暁の非凡の手腕を駆使して、広汎な古代文献、即ち先にふれた有史四千余年の星霜が蓄積、保蔵する歴史大国・中国の古史録(原書)を本国からとり寄せて座右にし、畢生の大業に挑まれた。

 「正史二十五王朝史」総冊実に二百八十九冊・三千六百六十八巻に上る驚異の大冊原書に加え、「戦国策」「国語」「春秋左伝」「十八史略」「高麗史」「三国史記」等々、更に、現・人民中国編集委員会が発行する「月刊・人民中国」そして、李鐘恒氏をはじめとする現・朝鮮半島内学者と共に、在日朝鮮公民として亦斯界で活躍される全浩天氏諸兄の関係著作論文、その入手に苦労されたであろう往年の「大満州国地図」「中国歴史地図」をも机辺にされ、これら厖大、広範な古文献、多彩な諸資料を丹念に解読・精読を重ね更にこれら叙述内容への精緻な比較・照合・検索・検証に亦精魂を傾けられ、待望久しかった私どもは、この程漸くにして上梓完成されたこの珠玉の大著に見えることができた。

 まさに著者・山形明郷氏ならではの蘊蓄に彩られた峻厳・明晰の一大論証であり、余りにも長歳月に跨った紛々の論争に、鮮烈な「終結」を宣した我が国古代史界希有の大書である。

一九九四年 水無月の佳き日に

吉田先生も書評で述べておられるように、山形氏が目を通したという同書にある参考文献の一覧表を見て圧倒されました。同一覧表にあった『史記』、『国語』、『春秋左伝』、『三国志』、『十八史略』、『山海経』などは愚生も一応は目を通してはいるものの、あくまでも和文に翻訳された翻訳本に目を通したに過ぎず、その点、山形氏の場合は何十冊にも及ぶ参考文献を全て原典で読み通したというのですから、彼我の知的レベルの違いに圧倒されたのでした。そうした優れた漢籍の素養が有るからこそ、山形氏はあのような味わい深い文章を書けるのだということがよく分かったものです。

さて、同書の本文に目を通し、結論として山形氏の主張は本物であることが分かります。同書の白眉は何と云っても古代朝鮮の所在地を明白に解明してみせたという点にあり、それにより以下の◆印の結論に達するのですが、同書の冒頭から目を通した一読者としてどれもが納得できるものでした。以下の点について素直に納得できるということは、換言すれば過去の『魏志倭人伝』に対する解釈や卑弥呼像が全くの間違いであったことが分かるということに他ならないのです。

◆ 古代朝鮮・楽浪・前三韓の所在地は、旧満州であった(現在の朝鮮半島ではなかった)
◆ 卑弥呼の正体は、遼東侯公孫氏の係累であった(日本の卑弥呼ではなかった)
◆ 倭の所在地は、古代「韓」半島であった(日本ではなかった)

以上の三点のみを以てしても、日本さらには東アジアの古代史を根底から書き直さなければならないのは一目瞭然です。ともあれ、『邪馬台國論争 終結宣言』との出会いにより、己れが今までに築いてきた歴史観を根底から再構築しなければならなくなりました。そして、同書との出会いは拙ブログで公開しているフルベッキ写真シリーズを立ち上げた当時を思い出させてくれたのです。つまり、フルベッキ写真の存在を知った当時の自分は本当に驚いたものであり、本当に、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、大村益次郎、果ては明治天皇が写っているのだろうか、ことの真偽を確かめてやろというのが、一年間にわたって合計で100ページを超える「近代日本とフルベッキ」を某国際契約関係のコンサルティング会社のウェブに掲載し、その後は慶応大学の高橋信一先生とさらにブログでフルベッキ写真について追究してきたきっかけとなったのですが、今では、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、大村益次郎、明治天皇はフルベッキ写真には写っていないことを明白に断言できます。しかし、、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、大村益次郎、果ては明治天皇がフルベッキ写真に写っているという俗説を信じている人たちが未だに多いのが今日の日本であり、今の私にはそうした人たちと邪馬台国が九州だ近畿だのと未だに言い争っている人たちとがだぶって見えてきたのでした。

ともあれ、わずか一葉の写真の真実を追究するだけでも、かくも多大な時間とエネルギーが必要です。だから、日本では常識となっている上記の「邪馬台国=九州 or 近畿説」を覆すだけの証拠を、何百巻もの原書を調べ尽くして抽出してみせた山形氏の仕事を目の前にすれば、インテリジェンスが分かる者ならば誰もが山形氏が導き出した結論を率直に信用し納得できるはずなのです。同書冒頭の書評にある吉田利枝先生の、「我が国の古代史をめぐって、往年の松下見林、新井白石、本居宣長以降三百余年の歳月を閲しながら、今日尚古代の一国邑「邪馬台国」の確たる所在、その実相さえも明証し得ぬまま、いつ果てるともなき論争が終結をみない現況を座視し得ないとされる著者が、意を決して古代アジア・日本列島の実相究明にその人生の大半を耗して精魂を傾け、漸くにして成就させたこの著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である」という言葉は決して誇張ではありませんでした。

残念ながら、同書は絶版であり、私がサーチした限りオンラインの古本屋さんでは『邪馬台國論争 終結宣言』の入手は不可能です。よって、最寄りの図書館で探していただくか、東京・神田の古本屋街などに出向いて探していただく他はなさそうです。山形氏のホームページもあるものの、私がそうであったように、それだけでは十分に納得できないでしょう。『邪馬台國論争 終結宣言』は、その人の持つ今までの東アジア古代史観を、根底から覆してしまうだけのパワーを秘めた本であり、その意味でも是非一度は同書を紐解くようお勧め致します。

・比較図(画像をクリックしてください)

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2008年10月17日 (金)

『免疫力を高める生活』

B081017 2ヶ月前に夏休みを利用して、下の息子(中学一年生)を連れて比国レイテ島を訪問したものの、息子が滞在中に下痢になり、帰国しても治らないので近所の医者の診断を受けました。最初はアメーバ赤痢かもしれないということでしたが、検便の結果はシロでした。そうだとすれば潰瘍性大腸炎の可能性があるということで、近くの大学病院で精密検査を受けるべく紹介状を作成してもらい、再び大学病院でも検便や血液検査などを行ったのですが、やはり結果は同じくシロでした。そうこうするうちに今までになく腹痛がひどくなったと息子が訴えてきたので、急ぎ同大学病院を再訪、その場で緊急入院ということになった次第です。掲示板【藤原肇の宇宙巡礼】の道友に別件でメールした折りに息子の件に触れたところ、西原克成医学博士の著書に潰瘍性大腸炎について言及している箇所があるとメールで教えてくれたのでした。そこで、久しぶりに『免疫力を高める生活』(サンマーク出版)を再読し、改めて西原先生の凄さを再認識した次第です。

恐らく、息子だけではなく全国にさまざまな難病に苦しんでいる人たちが多いことを思い、改めて西原先生の著した『免疫力を高める生活』をベースに西原先生の革新的な治療法について以下に述べてみます。以下を一読の上、西原先生の考え方に共鳴していただけるようでしたら、是非とも『免疫力を高める生活』を入手して今後の生活にご活用ください。

最初に、世間一般では潰瘍性大腸炎をはじめとする難病についてどのように考えているのか、難病情報センターというサイトで確認してみたところ、潰瘍性大腸炎の原因について以下のように書いてありました。

「原因は明らかになっていません。これまでに腸内細菌の関与や本来は外敵から身を守る免疫機構が正常に機能しない自己免疫反応の異常、あるいは食生活の変化の関与などが考えられていますが、まだ原因は不明です」
http://www.nanbyou.or.jp/sikkan/009.htm

しかし、西原先生は潰瘍性大腸炎の原因を突き止め、また大勢の潰瘍性大腸炎の患者を完治させています。私は言葉こそ交わしたことはないものの、共通の知人(藤原肇氏)を囲む集い(脱藩会)で西原先生にお会いしたことが数度あります。西原先生は数多くの本を出版されていますが、そのうちの一冊『免疫力を高める生活』(サンマーク出版)に以下のように冒頭に述べています。

「私の研究所が、いわゆる難病に苦しむ人たちの間で「医療界の駆け込み寺」といわれているのは、原因不明で根治が難しいとされる免疫病の治療に、大きな成果をあげているからでしょう」(p.2)

さらに、以下のようにも西原先生は述べています。

「眼科、耳鼻科の病気をはじめ、消化器、循環器、泌尿器、呼吸器、婦人科系などの病気も、治し方と予防法は同じ。とにかく、免疫力を高める生活に切り替えるだけでよいのです」(p.4)

免疫力の高め方には以下の七つの方法があり、それらの背景を正しく理解して実践すれば難病も完治すると西原先生は述べておられます。


(1) 鼻で呼吸する
(2) 両顎でよく噛む
(3) 上向きで寝る(骨休みする)
(4) 冷たいものを飲み過ぎない、食べ過ぎない
(5) 軽い運動とリラックスを心がける
(6) 太陽の光を浴びる
(7) 「心に優しいエネルギー」を取り入れる(「心に優しいエネルギー」とは、要するに笑いや入浴の心地よさを味わう、すなわちリラックスのことです)

何故、上記の七つの方法を実践するだけで、潰瘍性大腸炎といった難病が治せるのかという点については割愛しますので、ここは是非同書にあたって頂ければ幸いです。

なお、本ブログでは西原理論について二年前にも言及しています。併せて一読ください。

『内臓が生みだす心』

『究極の免疫力』

以下は西原理論で直せる難病の例です(クリックしてください)。

Mouth_breathing_related_diseases_01 Mouth_breathing_related_diseases_02

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2008年2月18日 (月)

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について

フルベッキ写真の一環として、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生から、「下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について」についての掲載の許可を先月の1月25日にいただいておりましたが、パソコンの不調でアップが大変遅くなり申し訳ありません。急ぎpdfにまとめたものをアップさせていただきましたので、一人でも大勢の方々に目にしていただければ幸いです。よろしくお願い致します。

「080125.pdf」をダウンロード

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2007年9月 1日 (土)

靖国カルト議員と御用評論家たちによる恥晒し

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第10回です。今回は「靖国カルト議員」を取り上げています。

『財界にっぽん』2007年9月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第10回



靖国カルト議員と御用評論家たちによる恥晒し

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



トンチンカンだった日米首脳会談の置きミヤゲ

 日本政府の戦争責任への自覚の無さのせいで、米国下院の外交委員会が慰安婦問題を取り上げて、日本政府に対して非難する決議を行った。自民党政府のアカウンタビリティの低さに対して、世界が嘲笑した事実をメディアが報道しないので、国民はその深刻さに気がついていないでいる。

 慰安婦問題へのお粗末な対応のクライマックスは、6月14日付けの「ワシントン・ポスト」の全面を買い取り、「FACT」と題した意見広告を出したことで、日本人は世界中から物笑いになったのだが、広告の下に大量の国会議員が名前を連ねていた。宣伝用の太鼓の叩き役を演じたのは、怨念の気分に取り付かれた国粋主義者たちだが、恥も外聞もかなぐり捨てた広告に対し、米国政府や両院の議員たちが眉をしかめた。

 親友のアメリカ入記者からさっそく電話がかかり、意見広告を見たかというから「ノー」と答えたら、見ない方が精神衛生に良いとからかわれた。アジア・ウォッチャーの彼の情報には興味深いものが多く、安倍の訪米で慰安婦問題の手回しをした時に、「安倍首相は謝罪したわけではなく、謝る気持ちがあると言っただけなのに、慰安婦でもないブッシュが謝罪を受け入れると答えたのは、トンチンカン(off base)な日米首脳会談見本だった。だから、皆が悪いジョークだと呆れている」と教えてくれた。

 戦争責任という大きな政治問題全体の中で、慰安婦問題は部分的で小さな事柄だと思う私は、そんな枝葉のことに関心が無かったが、親友に言われて仕方なく「ワシントン・ポスト」を買い広告ページを開いて驚いた。恥の上塗りに等しい主観的な自己主張の羅列は、何もいわない方が未だマシというお粗末さで、理論構成の幼稚なことは保育園児の水準の代物なのに、国会議員が40人も同意者として名を連ねていた。

 「事実」と題した大きな活字の見出しの下には、二枚の写真入りで五つの「事実」という項目が並ぶが、こんな程度のものを証拠として法廷に出せば、完全に敗訴で終わる程度のお粗末な内容だから、米国入が「厚顔無恥だ」と反発したのは当然だ。

 第一の事実と称すものは、陸軍のメモ2197号のコピーであり、日付の1938年3月4日だけが事実だと分かる程度で、反論として役に立たないゴミ情報だ。

 第二の事実と称すものはハングル文字の新聞コピーで、発音からすると東亜日報(Dong-A Ilbo)で!939年8月研日号だが、こんなもので反証できると思う幼稚さは、FTに「凡庸な失敗演説だ」と決め付けられた、安倍の施政方針演説と同じレベルである。

 第三から第五までは駄弁の羅列であり、鋭さや英知の片鱗も感じない代物だから、こんなものを読まされたワシントン子は呆れて、マッカーサーが半世紀前に日本人は12歳と評価したのに、今では退化して4歳児になったと感じたに違いない。自分が無罪だと論じるための証拠に使うものとして、客観的な証拠の提示が説得力を生む土台だが、好都合な情報の一部を示すだけなら、法廷で勝つのは不可能だと分かりきっているのに、日本流の田舎芝居をワシントンでゃったのだ。

 『小泉純一郎と日本の病理」にレポートしておいたが、米国の大学に留学したと称した安倍のロスでの経験は、南加大(UCS)に行ったというが単位ゼロであり、言葉の学校に行った程度でほとんど何も学ばず、法廷闘争の手順にも無知なレベルである。そんな青春を持つ世襲議員が首相になり、未熟なまま政治の手綱を取る危うさが、議会政治が機能していない理由でもある。背広姿で国会に出入りしていても、議論抜きで強行採決に明け暮れる日本の現状は、馬賊政治と大差が無いことが一目瞭然だ。

 だから、議案を文章批判で読み抜く訓練が欠け、陣笠議員は何が書いてあるかを理解しないまま、同意者として名前を連ねても不思議ではない。しかも、英語の文章を読んで理解する能力において、彼らがどれだけの資質を持つかは未知数だし、そんな人間でも議員として国政に関与するから、近隣諸国からも敬意を払われていないのだ。

 件のお粗末な意見広告について取り上げ、6月16日付の「朝鮮日報」は鬼の首をとった気分で、『日本の知識人の道徳水準をさらした慰安婦広告』と題して、この広告の内容を社説であげつらっている。しかも、最後の締めくくりとして「日本は首相や外務相をはじめとする不道徳な日本の政府関係者に、不道徳な国会議員、さらには知識人までが加わり、犯罪の歴史を闇に葬り去ろうとあがいている。だが彼らがそうした行動をとればとるほど、日本国民の誇りが地に墜ちるばかりだということに、もはや気づくべきだろう」と書いている。

 政治家は日本でも韓国でも不道徳な者が多いし、汚職が絶えないことはよく知られているが、この粗雑な意見広告に名前を出しているのは、靖国カルトに属す国会議員と彼らに追従して恥じない、政府ご用達の文化人たちの代表なのだ。御用文化人が知識人に属す存在ではないのに、この記者は知識人と考えているらしい。売文業者を知識人だと思い込むようでは、朝鮮半島の新聞人の見識が問われても当然で、日本の現状把握での底の浅さが露呈してしまう。

 世界の側から見て日本政府がおかしいのは、慰安婦問題を公文書のレベルだけで捉えて、官庁の資料が存在しないことを根拠に、犯罪行為が無かったと誰弁を使う手口や、責任逃れをする姿勢が卑劣だからだ。公文書以外の私文書も法的にみて証拠になるし、新聞や雑誌の記事というハードでなくても、体験者の記憶や物語としての伝聞を含め、エクリチュールと呼ばれる表現自体が、ある出来事や事件についての証言として、証拠力を持つ情報として認められている。

 意見の中身が世界の常識から逸脱していたのに、安倍一座のチンドン屋の役割を演じたのは、幼稚な理解能力を露呈した国会議員と、言論活動をメシの種にする御用文化人たちだったが、広告費のスポンサーは誰だったのだろう。

 職争責任について問われていることを思えば、慰安婦問題は氷山の一角に過ぎないのであり、戦地における暴虐行為を始めとして、戦争捕虜の虐待についての責任追及や、植民地人に対しての強制労働もあるし、日本の一般市民への犯罪行為も含まれている。これから戦争責任についての追及が広がり、それが国家の信用問題と一体化して行くはずだ。その過程で戦時中に強制労働やPOW虐待をして、悪名を高めた麻生炭鉱の御曹司の麻生太郎が、外務大臣をしている不見識に対し、批判の火の手が上がることに準備することは、重要な危機管理の一つになるはずだ。

 戦争犯罪に対しての糾弾は続いて行くが、謝罪したり賠償し続げるだけでは駄目であり、再び侵略の過ちを犯さないことが肝腎だ。そのためには安倍が進める危険な軍国主義路線を放棄して、平和的に近隣諸国と共存する上で、新しい国家の生存戦略の確立が不可欠であり、強行採決をやることにしか能がない、安倍の馬賊政治の清算が何にも増して急務である。

 平和路線の価値を再認識するためには、歴史が教える教訓から学ぶことであり、2000年代を1930年代に結び付けてはならない。

 時代錯誤の戦時体制への回帰を狙う安倍政治は、靖国カルトに支えられているのであり、その妄動を封じて亡国の悲劇を防ぐために、狂気の「安倍レジーム」からの脱却が不可欠である。

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2007年8月23日 (木)

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真に関して新たな発見があったということで全く新しい考察論文が届きました。ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

 「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。

 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。

 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。

 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。

(平成19年8月22日)

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2007年8月 8日 (水)

温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が、『財界にっぽん』に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新版です。依然として首相の座に居座り続ける安倍晋三と、中国の温家宝首相との器の違いを浮き彫りにした記事です。

『財界にっぽん』2007年8月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第9回



温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



温家宝首相の国会演説の草稿

 国際感覚と理性的な判断力に欠けた小泉首相は、個人感情のおもむくまま靖国神社の参拝を繰り返し、近隣諸国を刺激する頑迷な姿勢を取った。そのために長期間にわたり中国と険悪な外交関係が続いたが、小泉首相の退場を機会に日中が歩み寄り、2007年4月に中国の首相が六年半ぶりに訪日した。

 しかも、慰安婦問題で安倍首相が軽率な発言をして、国際世論から手厳しい批判を受けていたので、出来るだけ穏便に計らう意図に基づき、日本政府は中国の首相を国会演説の主賓として遇した。温家宝の演説日程は4月12日だったので、外務省は中国側に「草稿を訪日前に見たい」と申し入れたが、「首脳会見の結果次第で内容を改める可能性がある」と言って、事前に草稿を見せるのを中国側は拒絶している。

 だが、11日にあった日中首脳会談において、安倍首相の口から「日本は台湾の独立を支持しない」という発言を得たので、会談後に中国側は佐々江アジア太平洋局長に演説草稿を渡した。やっと草を手に入れた外務省は草稿を検討して、「拉致問題について触れて欲しい」と申し入れたが、「日本側の希望は受け入れられなかったし、靖国神社問題に触れていないのに満足した」と外電は報じている。

 時事通信が配信した「検証・温家宝訪日」という記事は、「演説は温首相自らが執筆した。温首相は一文字も欠かさず、精魂を傾けて書き、日本国民に伝えたいメッセージだと語った」と見え透いた嘘を並べている。だが、外交官なら誰でも知っていることだが、首相や閣僚が外国に行って行う挨拶文を始め、演説の原稿は何人もの役人が草稿をまとめるし、欧米諸国ではスピーチライターが担当して書くものだ。

 時事の記事は伝聞調で信用度は低いが、演説草稿を首相が精魂を傾けて書いたと信じ、記者がそれに感激したのならお粗末の極みで、政治の実態についての認識が甘すぎる。補佐官や秘書が準備した草稿に手を入れて、講演者が自分の言葉にして喋るのがトップのやり方なのに、この新聞記者はそんなことも知らないのだろうか。


文献判断と解析作業の必要性

 日本人はインテリジェンスの訓練が不足していて、大部分の場合は文字面を読んで納得してしまう。だが、書かれたものの意味を読みぬくだけでなく、行間を読み取る能力が更に問われているヒに、何が書いてないかを判読する洞察力が必要だ。各国の外交機関やシンクタンクなどにおいては、その解析作業が行われているのであり、最も優れた人材がその仕事を担当しているが、日本の政治機構にはそれが欠落している。

 こうした作業プロセスを文献批判と呼んでおり、江戸時代までは仏教原典や本草学などで、厳しい訓練をする伝統が日本にもあった。だが、最近の外交官や幹部官僚には鍛えられた者が少ないし、ジャーナリストや政治家もその訓練が不足している。

 日本のこうした特殊事情を承知した上だろうが、温家宝は役人が書いた演説草稿を読み上げ、阿倍仲麻呂や鑑真の名前を列挙して、日本人の自尊心をくすぐったのである。だが、少し歴史の裏面に詳しい人なら気づくが、阿倍仲麻呂は日本から頭脳流出した人材だし、鑑真はミッションの使命を帯びて訪日した唐の僧であり、ベクトルの流れの方向に真意が秘められているのだ。

 日中関係で日本が誇る歴史的な人物を扱う時には、当時の世界の中心だった唐で密教の神髄をマスターして、法灯を日本に伝えた真言開祖の弘法大師とか、シナ学の巨人としてアジアの至宝の内藤虎次郎が聳え立つ。空海や湖南を引用したのなら胸を張ってもいいが、阿倍仲麻呂や鑑真の名前に感激してしまい、「歴史人物を列挙して友好を強調した」と喜ぶのでは、余りにも単純でお人よしだと笑われてしまう。

 現に温家宝の演説の全文を読んで感じるのは、中国が侵略された歴史をソフトに表現しており、残留孤児や日本人の引き上げの美談物語に続いて、「中国は昔から徳を重んじ武力を重んぜず、信を講じ、睦を修めるという優れた伝統がある」という、文飾の国にふさわしい自己宣伝までやっている。しかも、草稿にあった「中国人民は日本人民が平和発展の道を歩いていくことを支持する」という部分を省き、事前の打診を抜いて天皇に北京五輪の訪中を招請したことで、安倍内閣を軽視した記録まで残ったのである。


軍国主義と反動路線で萎縮する未来の日本

 こんな指摘をしても私は反中国の人間ではなく、世界で仕事をして身につけたノウハウの中に、無言の発言に重要な意味を潜ませる技法があるので、相手の意図としてそれを読み取っただけのことだ。したたかな中国外交を構造主義の立場から、その伝統的な政治感覚を分析したのであり、外交辞令の裏の意味を読み取ったに過ぎない。

 議会政治の基本と伝統に無知な安倍首相は、国会での慎重な議論の手続きを省いて強行突破する、独裁者が好む「始めに結論あり」のやり方で、「教育基本法抹殺」、「防衛省への昇格」、「国民投票法のごり押し」という具合に、問答無用の強行採決の手法を繰り返して来た。強行した安倍内閣は世襲議員集団で、日本の「七光り族」は中国の特権族の「太子党」に等しいが、北京の政権中枢には太子党などいないのだ。

 戦略なしで執念だけで盲進する安倍政治は、自滅に向かう「義和団」の日本版であり、幼稚なトップに率いられた日本の進路決定が、時間の関数であることは温家宝首相に丸見えだ。温家宝流の長期的な国家戦略に基づけば、日本は孫子が『軍争篇』で論じた「逸を以って労を持つ」の対象で、彼の訪日は日本の運命の転換点に重なった。

 戦前レジームに回帰して軍国主義化する日本は、消耗して疲労する路線を遭進することで、美辞で粉飾した虚妄の国家はファシズム体制になり、その運命は没落への一方通行へ突入して行くだけである。それに対して、ブリックス(Brazil, Russia, India, China)に属す中国の未来にはより希望が持ち得て、独裁的な共産党支配が破綻してもその後には内乱を経て、民主的な社会の登場を期待できる。だから、日中の独裁政権が共に行き詰まりに直面するに際して、似たように破綻しても受ける打撃が異なることは、歴史の教訓が示唆する通りなのである。

 ブリックスという言葉を最初に提示したのは、ゴールドマン・サックスが出した『ブリックスと見る夢2050年への道、Dreaming with BRICs: Path to 2050)』と題した2003年秋のレポートである。この報告書にある具体的な内容としては、2050年におけるGDPは1位の中国が44・5兆ドルであり、2位の米国の35・2兆ドルにインドが27.8兆ドルで続き、日本は6・6兆ドルで6兆ドルのブラジルに肉薄され、追い抜かれるという構図として予想されている。

 安倍が美しいと妄想している日本の未来は、軍国主義と反動路線に熱を上げた愚行により、中国や米国の二割の経済力に萎縮してしまい、国民は軍国憲法と教育勅語で威圧され、「自由」という言葉に憧れる奴隷国家になる。それがどんな意味を持っているかについては、歴史意識に乏しい安倍晋三に分からなくても、地質学を専攻し時間と空間の問題に詳しい温家宝にとって、「自明の理」だと類推せざるを得ないのである。

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