2008年2月18日 (月)

下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について

フルベッキ写真の一環として、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生から、「下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について」についての掲載の許可を先月の1月25日にいただいておりましたが、パソコンの不調でアップが大変遅くなり申し訳ありません。急ぎpdfにまとめたものをアップさせていただきましたので、一人でも大勢の方々に目にしていただければ幸いです。よろしくお願い致します。

「080125.pdf」をダウンロード

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2007年9月 1日 (土)

靖国カルト議員と御用評論家たちによる恥晒し

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第10回です。今回は「靖国カルト議員」を取り上げています。

『財界にっぽん』2007年9月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第10回



靖国カルト議員と御用評論家たちによる恥晒し

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



トンチンカンだった日米首脳会談の置きミヤゲ

 日本政府の戦争責任への自覚の無さのせいで、米国下院の外交委員会が慰安婦問題を取り上げて、日本政府に対して非難する決議を行った。自民党政府のアカウンタビリティの低さに対して、世界が嘲笑した事実をメディアが報道しないので、国民はその深刻さに気がついていないでいる。

 慰安婦問題へのお粗末な対応のクライマックスは、6月14日付けの「ワシントン・ポスト」の全面を買い取り、「FACT」と題した意見広告を出したことで、日本人は世界中から物笑いになったのだが、広告の下に大量の国会議員が名前を連ねていた。宣伝用の太鼓の叩き役を演じたのは、怨念の気分に取り付かれた国粋主義者たちだが、恥も外聞もかなぐり捨てた広告に対し、米国政府や両院の議員たちが眉をしかめた。

 親友のアメリカ入記者からさっそく電話がかかり、意見広告を見たかというから「ノー」と答えたら、見ない方が精神衛生に良いとからかわれた。アジア・ウォッチャーの彼の情報には興味深いものが多く、安倍の訪米で慰安婦問題の手回しをした時に、「安倍首相は謝罪したわけではなく、謝る気持ちがあると言っただけなのに、慰安婦でもないブッシュが謝罪を受け入れると答えたのは、トンチンカン(off base)な日米首脳会談見本だった。だから、皆が悪いジョークだと呆れている」と教えてくれた。

 戦争責任という大きな政治問題全体の中で、慰安婦問題は部分的で小さな事柄だと思う私は、そんな枝葉のことに関心が無かったが、親友に言われて仕方なく「ワシントン・ポスト」を買い広告ページを開いて驚いた。恥の上塗りに等しい主観的な自己主張の羅列は、何もいわない方が未だマシというお粗末さで、理論構成の幼稚なことは保育園児の水準の代物なのに、国会議員が40人も同意者として名を連ねていた。

 「事実」と題した大きな活字の見出しの下には、二枚の写真入りで五つの「事実」という項目が並ぶが、こんな程度のものを証拠として法廷に出せば、完全に敗訴で終わる程度のお粗末な内容だから、米国入が「厚顔無恥だ」と反発したのは当然だ。

 第一の事実と称すものは、陸軍のメモ2197号のコピーであり、日付の1938年3月4日だけが事実だと分かる程度で、反論として役に立たないゴミ情報だ。

 第二の事実と称すものはハングル文字の新聞コピーで、発音からすると東亜日報(Dong-A Ilbo)で!939年8月研日号だが、こんなもので反証できると思う幼稚さは、FTに「凡庸な失敗演説だ」と決め付けられた、安倍の施政方針演説と同じレベルである。

 第三から第五までは駄弁の羅列であり、鋭さや英知の片鱗も感じない代物だから、こんなものを読まされたワシントン子は呆れて、マッカーサーが半世紀前に日本人は12歳と評価したのに、今では退化して4歳児になったと感じたに違いない。自分が無罪だと論じるための証拠に使うものとして、客観的な証拠の提示が説得力を生む土台だが、好都合な情報の一部を示すだけなら、法廷で勝つのは不可能だと分かりきっているのに、日本流の田舎芝居をワシントンでゃったのだ。

 『小泉純一郎と日本の病理」にレポートしておいたが、米国の大学に留学したと称した安倍のロスでの経験は、南加大(UCS)に行ったというが単位ゼロであり、言葉の学校に行った程度でほとんど何も学ばず、法廷闘争の手順にも無知なレベルである。そんな青春を持つ世襲議員が首相になり、未熟なまま政治の手綱を取る危うさが、議会政治が機能していない理由でもある。背広姿で国会に出入りしていても、議論抜きで強行採決に明け暮れる日本の現状は、馬賊政治と大差が無いことが一目瞭然だ。

 だから、議案を文章批判で読み抜く訓練が欠け、陣笠議員は何が書いてあるかを理解しないまま、同意者として名前を連ねても不思議ではない。しかも、英語の文章を読んで理解する能力において、彼らがどれだけの資質を持つかは未知数だし、そんな人間でも議員として国政に関与するから、近隣諸国からも敬意を払われていないのだ。

 件のお粗末な意見広告について取り上げ、6月16日付の「朝鮮日報」は鬼の首をとった気分で、『日本の知識人の道徳水準をさらした慰安婦広告』と題して、この広告の内容を社説であげつらっている。しかも、最後の締めくくりとして「日本は首相や外務相をはじめとする不道徳な日本の政府関係者に、不道徳な国会議員、さらには知識人までが加わり、犯罪の歴史を闇に葬り去ろうとあがいている。だが彼らがそうした行動をとればとるほど、日本国民の誇りが地に墜ちるばかりだということに、もはや気づくべきだろう」と書いている。

 政治家は日本でも韓国でも不道徳な者が多いし、汚職が絶えないことはよく知られているが、この粗雑な意見広告に名前を出しているのは、靖国カルトに属す国会議員と彼らに追従して恥じない、政府ご用達の文化人たちの代表なのだ。御用文化人が知識人に属す存在ではないのに、この記者は知識人と考えているらしい。売文業者を知識人だと思い込むようでは、朝鮮半島の新聞人の見識が問われても当然で、日本の現状把握での底の浅さが露呈してしまう。

 世界の側から見て日本政府がおかしいのは、慰安婦問題を公文書のレベルだけで捉えて、官庁の資料が存在しないことを根拠に、犯罪行為が無かったと誰弁を使う手口や、責任逃れをする姿勢が卑劣だからだ。公文書以外の私文書も法的にみて証拠になるし、新聞や雑誌の記事というハードでなくても、体験者の記憶や物語としての伝聞を含め、エクリチュールと呼ばれる表現自体が、ある出来事や事件についての証言として、証拠力を持つ情報として認められている。

 意見の中身が世界の常識から逸脱していたのに、安倍一座のチンドン屋の役割を演じたのは、幼稚な理解能力を露呈した国会議員と、言論活動をメシの種にする御用文化人たちだったが、広告費のスポンサーは誰だったのだろう。

 職争責任について問われていることを思えば、慰安婦問題は氷山の一角に過ぎないのであり、戦地における暴虐行為を始めとして、戦争捕虜の虐待についての責任追及や、植民地人に対しての強制労働もあるし、日本の一般市民への犯罪行為も含まれている。これから戦争責任についての追及が広がり、それが国家の信用問題と一体化して行くはずだ。その過程で戦時中に強制労働やPOW虐待をして、悪名を高めた麻生炭鉱の御曹司の麻生太郎が、外務大臣をしている不見識に対し、批判の火の手が上がることに準備することは、重要な危機管理の一つになるはずだ。

 戦争犯罪に対しての糾弾は続いて行くが、謝罪したり賠償し続げるだけでは駄目であり、再び侵略の過ちを犯さないことが肝腎だ。そのためには安倍が進める危険な軍国主義路線を放棄して、平和的に近隣諸国と共存する上で、新しい国家の生存戦略の確立が不可欠であり、強行採決をやることにしか能がない、安倍の馬賊政治の清算が何にも増して急務である。

 平和路線の価値を再認識するためには、歴史が教える教訓から学ぶことであり、2000年代を1930年代に結び付けてはならない。

 時代錯誤の戦時体制への回帰を狙う安倍政治は、靖国カルトに支えられているのであり、その妄動を封じて亡国の悲劇を防ぐために、狂気の「安倍レジーム」からの脱却が不可欠である。

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2007年8月23日 (木)

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶応大学の高橋信一助教授から、フルベッキ写真に関して新たな発見があったということで全く新しい考察論文が届きました。ご本人の承諾を得た上で皆様に一般公開させて頂きます。

彦馬が売っていた「フルベッキ写真」

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

 「フルベッキ写真」の解明を進める過程で、私はこの写真のオリジナルがフルベッキ自身と岩倉具視の関係者以外に渡っていなかったと推測した。それ以外の森有礼らが持っていた名刺判などは後年のコピーであるとした。しかし、産能大が所蔵するオリジナルに近い写真は米国の教会経由で流出した可能性を指摘しただけで、確定的なことは分からなかった。そうした中で、最も基本的な理由付けが欠落していたことが今回分かった。当時は写真の撮影というのは高級武士や金持ち商人の極めて高価な道楽であった。明治初年の写真館での撮影料は名刺判サイズで現代の貨幣価値にして10万円程度だったと思われる。大判写真ともなれば、数十万円になる。鶏卵紙に焼付けて写真館の店頭で土産用に売っていたものでも数万円はしたのである。一般庶民に手の出る商品ではなかった。しかし、当時海外からやって来た人々は日本訪問の記念に長崎や横浜で積極的に様々な風景や日本人の姿を写した写真を購入して持ち帰った。また、それを商売にしていた貿易商もいた。

 そうした写真の中に、「フルベッキ写真」が見つかったのである。平成16年に横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏が著した「幕末明治 横浜写真館物語」には海外流出の立役者になった横浜を中心とした内外の写真家たちが紹介されている。その中で平成4年にデュッセルドルフ近郊在住のオール氏より横浜開港資料館に寄贈されたスチルフリート写真館作製のアルバムについて言及されている。このアルバムにはスチルフリートが明治5年ごろまでに撮影した日本の風景写真が多数貼られているのであるが、実は余白のページに上野彦馬が撮影した写真が何枚か貼り付けられていた。その内、4枚は明治6年のウィーン万博に出品された写真であることを私が確認した。それ以外もほぼ同時期の撮影であろう。このアルバムが成立した状況は以下のように考えられる。オール氏の先祖は来日した商人であり、明治7年に帰国する以前に横浜のスチルフリート写真館でアルバムを購入し、長崎の上野写真館で購入した写真を、アルバム中に貼って持ち帰ったのである。そして、この中に「フルベッキ写真」が残されることになった。

 この新たに発見された「フルベッキ写真」は、産能大の写真と比べても遜色ない極めて状態のよいきれいな写真であり、一部トリミングされているが、全体のサイズは実際には産能大のものより大きい。当時は引き伸ばしの技術がなく、ネガから密着焼付けをしていた時代であり、オリジナルからの複写も等倍あるいはそれ以上への拡大は画像の劣化をもたらした。こうしたことを考慮すると、現状で唯一存在するオリジナルの「フルベッキ写真」であると言ってよい。つまり、明治7年当時、上野写真館の店頭では「フルベッキ写真」が実際に売られていたのである。門外不出の極秘写真ではなかった。高価過ぎて、一般日本人には手を出せなかっただけである。産能大所蔵の写真も同様にして海外に流出した可能性が示された訳である。

 このスチルフリートのアルバムの内容や成立の経緯の詳細は、本年9月14日から来年1月14日まで横浜日本大通りの横浜都市発展記念館が横浜開港資料館と共同で開催する企画展示「写された文明開化-横浜 東京 街 人びと-」の後期(11月1日~1月14日)の特設コーナー①で展示公開され、その際に刊行されるパンフレットで明らかにされる予定になっている。偽説の信奉者だけでなく、「フルベッキ写真」も含めた歴史写真に興味のある方はぜひ、自分の目でご覧になることをお勧めする。

(平成19年8月22日)

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2007年8月 8日 (水)

温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が、『財界にっぽん』に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新版です。依然として首相の座に居座り続ける安倍晋三と、中国の温家宝首相との器の違いを浮き彫りにした記事です。

『財界にっぽん』2007年8月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第9回



温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



温家宝首相の国会演説の草稿

 国際感覚と理性的な判断力に欠けた小泉首相は、個人感情のおもむくまま靖国神社の参拝を繰り返し、近隣諸国を刺激する頑迷な姿勢を取った。そのために長期間にわたり中国と険悪な外交関係が続いたが、小泉首相の退場を機会に日中が歩み寄り、2007年4月に中国の首相が六年半ぶりに訪日した。

 しかも、慰安婦問題で安倍首相が軽率な発言をして、国際世論から手厳しい批判を受けていたので、出来るだけ穏便に計らう意図に基づき、日本政府は中国の首相を国会演説の主賓として遇した。温家宝の演説日程は4月12日だったので、外務省は中国側に「草稿を訪日前に見たい」と申し入れたが、「首脳会見の結果次第で内容を改める可能性がある」と言って、事前に草稿を見せるのを中国側は拒絶している。

 だが、11日にあった日中首脳会談において、安倍首相の口から「日本は台湾の独立を支持しない」という発言を得たので、会談後に中国側は佐々江アジア太平洋局長に演説草稿を渡した。やっと草を手に入れた外務省は草稿を検討して、「拉致問題について触れて欲しい」と申し入れたが、「日本側の希望は受け入れられなかったし、靖国神社問題に触れていないのに満足した」と外電は報じている。

 時事通信が配信した「検証・温家宝訪日」という記事は、「演説は温首相自らが執筆した。温首相は一文字も欠かさず、精魂を傾けて書き、日本国民に伝えたいメッセージだと語った」と見え透いた嘘を並べている。だが、外交官なら誰でも知っていることだが、首相や閣僚が外国に行って行う挨拶文を始め、演説の原稿は何人もの役人が草稿をまとめるし、欧米諸国ではスピーチライターが担当して書くものだ。

 時事の記事は伝聞調で信用度は低いが、演説草稿を首相が精魂を傾けて書いたと信じ、記者がそれに感激したのならお粗末の極みで、政治の実態についての認識が甘すぎる。補佐官や秘書が準備した草稿に手を入れて、講演者が自分の言葉にして喋るのがトップのやり方なのに、この新聞記者はそんなことも知らないのだろうか。


文献判断と解析作業の必要性

 日本人はインテリジェンスの訓練が不足していて、大部分の場合は文字面を読んで納得してしまう。だが、書かれたものの意味を読みぬくだけでなく、行間を読み取る能力が更に問われているヒに、何が書いてないかを判読する洞察力が必要だ。各国の外交機関やシンクタンクなどにおいては、その解析作業が行われているのであり、最も優れた人材がその仕事を担当しているが、日本の政治機構にはそれが欠落している。

 こうした作業プロセスを文献批判と呼んでおり、江戸時代までは仏教原典や本草学などで、厳しい訓練をする伝統が日本にもあった。だが、最近の外交官や幹部官僚には鍛えられた者が少ないし、ジャーナリストや政治家もその訓練が不足している。

 日本のこうした特殊事情を承知した上だろうが、温家宝は役人が書いた演説草稿を読み上げ、阿倍仲麻呂や鑑真の名前を列挙して、日本人の自尊心をくすぐったのである。だが、少し歴史の裏面に詳しい人なら気づくが、阿倍仲麻呂は日本から頭脳流出した人材だし、鑑真はミッションの使命を帯びて訪日した唐の僧であり、ベクトルの流れの方向に真意が秘められているのだ。

 日中関係で日本が誇る歴史的な人物を扱う時には、当時の世界の中心だった唐で密教の神髄をマスターして、法灯を日本に伝えた真言開祖の弘法大師とか、シナ学の巨人としてアジアの至宝の内藤虎次郎が聳え立つ。空海や湖南を引用したのなら胸を張ってもいいが、阿倍仲麻呂や鑑真の名前に感激してしまい、「歴史人物を列挙して友好を強調した」と喜ぶのでは、余りにも単純でお人よしだと笑われてしまう。

 現に温家宝の演説の全文を読んで感じるのは、中国が侵略された歴史をソフトに表現しており、残留孤児や日本人の引き上げの美談物語に続いて、「中国は昔から徳を重んじ武力を重んぜず、信を講じ、睦を修めるという優れた伝統がある」という、文飾の国にふさわしい自己宣伝までやっている。しかも、草稿にあった「中国人民は日本人民が平和発展の道を歩いていくことを支持する」という部分を省き、事前の打診を抜いて天皇に北京五輪の訪中を招請したことで、安倍内閣を軽視した記録まで残ったのである。


軍国主義と反動路線で萎縮する未来の日本

 こんな指摘をしても私は反中国の人間ではなく、世界で仕事をして身につけたノウハウの中に、無言の発言に重要な意味を潜ませる技法があるので、相手の意図としてそれを読み取っただけのことだ。したたかな中国外交を構造主義の立場から、その伝統的な政治感覚を分析したのであり、外交辞令の裏の意味を読み取ったに過ぎない。

 議会政治の基本と伝統に無知な安倍首相は、国会での慎重な議論の手続きを省いて強行突破する、独裁者が好む「始めに結論あり」のやり方で、「教育基本法抹殺」、「防衛省への昇格」、「国民投票法のごり押し」という具合に、問答無用の強行採決の手法を繰り返して来た。強行した安倍内閣は世襲議員集団で、日本の「七光り族」は中国の特権族の「太子党」に等しいが、北京の政権中枢には太子党などいないのだ。

 戦略なしで執念だけで盲進する安倍政治は、自滅に向かう「義和団」の日本版であり、幼稚なトップに率いられた日本の進路決定が、時間の関数であることは温家宝首相に丸見えだ。温家宝流の長期的な国家戦略に基づけば、日本は孫子が『軍争篇』で論じた「逸を以って労を持つ」の対象で、彼の訪日は日本の運命の転換点に重なった。

 戦前レジームに回帰して軍国主義化する日本は、消耗して疲労する路線を遭進することで、美辞で粉飾した虚妄の国家はファシズム体制になり、その運命は没落への一方通行へ突入して行くだけである。それに対して、ブリックス(Brazil, Russia, India, China)に属す中国の未来にはより希望が持ち得て、独裁的な共産党支配が破綻してもその後には内乱を経て、民主的な社会の登場を期待できる。だから、日中の独裁政権が共に行き詰まりに直面するに際して、似たように破綻しても受ける打撃が異なることは、歴史の教訓が示唆する通りなのである。

 ブリックスという言葉を最初に提示したのは、ゴールドマン・サックスが出した『ブリックスと見る夢2050年への道、Dreaming with BRICs: Path to 2050)』と題した2003年秋のレポートである。この報告書にある具体的な内容としては、2050年におけるGDPは1位の中国が44・5兆ドルであり、2位の米国の35・2兆ドルにインドが27.8兆ドルで続き、日本は6・6兆ドルで6兆ドルのブラジルに肉薄され、追い抜かれるという構図として予想されている。

 安倍が美しいと妄想している日本の未来は、軍国主義と反動路線に熱を上げた愚行により、中国や米国の二割の経済力に萎縮してしまい、国民は軍国憲法と教育勅語で威圧され、「自由」という言葉に憧れる奴隷国家になる。それがどんな意味を持っているかについては、歴史意識に乏しい安倍晋三に分からなくても、地質学を専攻し時間と空間の問題に詳しい温家宝にとって、「自明の理」だと類推せざるを得ないのである。

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2007年8月 4日 (土)

上野彦馬の写真館と写場の変遷

 慶応大学の高橋信一准教授から「上野彦馬の写真館と写場の変遷」と題する論文が届きましたので、本ブログ上で以下に一般公開致します。

上野彦馬の写真館と写場の変遷

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

「フルベッキ写真」が幕末・維新の英傑が多数写っていると喧伝され、それが多数の支持を得ていることの原因は、歴史のロマンの対象になりやすい素材であることと相俟って、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の巻末で上野一郎氏によって解明された撮影場所と時期についての結論の一般大衆への流布と理解が不十分であることも挙げられる。上野一郎氏は幕末維新当時の長崎に到来し写真を撮った志士たちの事蹟や彦馬の家族の生没年、写場の構造や写し込まれた小道具といった手懸かりを駆使して写場と小道具の変遷を解明した。細部には昭和50年当時、十分な情報がなかったことに起因する間違いも見受けられるが、概ね正しく、根本的な誤謬は認められない。「フルベッキ写真」の撮影者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい屋外の写場であることが、背景に配置された石畳、戸板、出入り口、敷物の模様などによって特定出来る。この写場にはロクロ細工の欄干飾りを施した置物が全体に渡って置かれていることが、同じ写場で撮影された別の写真から知られている。「フルベッキ写真」では集合者が写場いっぱいに広がっているため、置物は隠されてしまっている。それまで使われていたのは横幅が半分以下で、慶應元年3月ごろ伊藤博文と高杉晋作(伊藤博文公伝)が従者と撮った写真や、福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている慶應2年から3年の始め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影された佐賀藩士たち9名の写真が撮影された狭い写場である。こちらの写場で使われていた小道具も上野一郎氏によって明らかになっている。

ここでは、上野一郎氏の研究結果を参考にするとともに、その後の知見を交えて、彦馬の写場の変遷を明らかにする。先ず、上野撮影局開設以前に、長崎は中島川(銭屋川)の辺、その後に新大工町と呼ばれる町外れに彦馬の父、俊之丞が天保年間に開いた硝石精錬所があった。この場所の家屋の配置は俊之丞自筆の絵巻「長崎製硝図絵」(化学古典叢書:紀伊国屋書店)に見ることが出来る。その敷地内の建物の名残は、ライデン大学が所蔵するベアトらによる長崎などの写真を集めた「写真集 甦る幕末」中のNo.120の写真にも残っており、敷地の東南の角の建屋が完全に同じである。また、慶應年間には中島川沿いの境界が石を積み重ねたなまこ塀となるところは、それまで生垣があったことが分かる。この場所は盛り土がされており、中島川の氾濫に対処する堤防になっていたようである。東側は木の板塀が家屋と家屋の間に作られ、北東側に出入り口があったことが分かる。中庭で鶏やひよこと遊ぶ子供たちの一人は彦馬かもしれない。No.120の写真は慶應元年から2年にかけての冬場に撮影されたことが、阿弥陀橋近くに立つ反り屋根の小屋と並屋根の水車小屋の存在、彦馬邸の前の川縁には、まだ石灯篭がないことから分かる。慶應2年に初代の石灯篭が出来るが、慶應3年ごろに水車小屋とともに洪水で流され、石灯籠は2代目が置かれた。それ以前の様子を知ることが出来るのは同じ「写真集 甦る幕末」中のNo.118にあるベアトによって慶應元年6月ごろ撮影された川中に牛が立っている写真である。これには、東南角から川沿いの建屋となまこ塀、彦馬邸の玄関の様子がよく写っている。中島川を中心とした彦馬邸周辺を写した写真は多数残っており、彦馬邸並びに写場の変遷解明の貴重な資料である。

上野撮影局が開設されたころの写場は、邸内の空き地に青天井の下で設営されていて、江崎べっ甲店が所有する上野写真館のアルバム「上野彦馬撮影局-開業初期アルバム-」(尼崎総合文化センター)に多数見られる。このアルバムには慶應2年ごろまでの写真が貼られており、「フルベッキ写真」に使われた広い写場の痕跡はない。「写真集 甦る幕末」中のNo.122には中島川を挟んだ伊良林の奥、若宮神社辺りからの眺望が写っている。この写真は慶應3年ごろのものと思われ、東南角から2棟目の建屋は壊されて空き地が出来ている。さらに彦馬邸の景観が変わるのは、恐らく慶應3年から慶應4年に掛けて行われた大規模な改築によるが、改築中の写真は、今のところ見出されていない。唯一変化を証明出来る写真が「Felice Beato in Japan」に掲載されている。これは1991年にヨーロッパで開催されたベアトが日本で撮影したと考えられる写真の巡回展示に使われたものであるが、全てがベアトの撮影という訳ではない。その中に、明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中の写真が4枚含まれており、その一つが、彦馬邸を含む長崎市内を風頭山から一望するパノラマ写真で、明治5年秋の撮影である。これは「東京国立博物館所蔵 幕末明治期古写真資料目録3」にも「長崎全景」として掲載されている。これを最大限に拡大すると、既になまこ塀は白壁の塀に変わっており、東南角の建屋も形を変えている。内部には川縁と東側の塀近くに大きな空き地が2箇所あることが分かる。「写真集 甦る幕末」のNo.130にある長崎のパノラマ写真は片淵の長崎監獄が写り、明治20年以降に撮影されたものであるが、それと比較すると後者には川縁の塀際の空き地には、「ビードロの家」と言われる素となった2階建てが見え、東側の空き地には「大工小屋」と言われる小さい建屋が完成している。

ここで、2箇所の空き地のどちらを広い写場に比定するかを考えるために、「フルベッキ写真」と「長崎全景」の拡大写真を見比べてみる。「フルベッキ写真」では3方が高い壁に取り囲まれており、2方には可動式と思われる格子状の大きな板戸が嵌められている。このような状況に当て嵌まるのは、東側の空き地ではないかと思われる。永見徳太郎は昭和9年1月「アサヒカメラ」や「カメラ」、「長崎談叢」などで「白壁の塀際に幕を垂れ、ロクロ細工の欄干飾りを置いて、その前で青天井で撮影した」と言っている。彼は、広い写場の時代には生まれていなかったので、伝聞に過ぎないが、証言は矛盾しない。この写場で撮影された写真で、時期が特定出来るものは慶應4年以降にしかない。慶應4年2月ごろに沢宣嘉が長崎鎮撫総督として来た際に撮った写真(「長崎図説」)、4月ごろに松方正義が日田県知事を拝命した際に撮った写真(「松田正義」)、彦馬の家族を撮影した写真(「写真の開祖 上野彦馬」)などである。明治2年以降になれば、明治7年まで時期を確定出来るものが多数ある。フルベッキが写っている写真としては、明治2年2月ごろ、長崎奉行所管轄の済美館の後継、広運館の教員らと撮影されたもの(「日本のフルベッキ」原本)があり、致遠館の「フルベッキ写真」と対をなしている。こちらには集合者たちの背後に欄干飾りの置物がはっきり写っている。続いて、明治2年6月に山県有朋や西郷従道らが洋行前に撮った写真(「決定版 昭和史1」)がある。11月に彦馬が家族や弟幸馬と写真(「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.25)を撮っている。さらに、明治3年4月26日に毛利元徳ら一行が木戸孝允と撮った写真(「写真の開祖 上野彦馬」)があり、これは「木戸孝允日記」に記載されている。

さらに、撮影日が判明した写真として、大正11年2月に大隈重信が亡くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出たが、その口絵に掲載された「大隈夫妻を囲んだ外国人たち」の写真を挙げることが出来る。この写真は明治5年10月29日に灯台及び電信視察のため大隈等が巡視船テーボル号で大阪・神戸・長崎に向け出航した「灯台巡回」の際に撮られたものである。乗り込んだのは大隈重信、山尾庸三、佐野常民、石丸安世の他に杉浦譲、石井忠亮、佐藤興三、フレッシャー、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。これらのことは、「図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」、「灯台巡回日誌(大隈文書)」、さらに「杉浦譲全集 第5巻」の「燈台電信巡視日記」で知れる。また、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」には大隈と山尾が夫人同伴で行ったと書かれている。つまり、大隈たちは明治5年の11月12~15日の4日間だけ長崎に滞在していたのだ。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事なし」と書いてあり、巡視船への石炭積み込みのため仕事は休みとなったので、上野写真館に行って写真を撮った。「サトウの日記」には、その日の夕方に明治天皇がこの年の6月に巡幸の途中で泊まった料亭で会食したと書かれている。と云うわけで、この写真は明治5年11月14日に上野彦馬の写場で撮影されたものである。この写真では明治4年の後半に手前にあった石畳を剥ぎ取った跡が写っている。

その他に、明治3年と4年にフランス語教師のレオン・ジュリーが広運館生徒らと集合写真を撮っており、「日本の開国」に載っている。このように、「フルベッキ写真」の広い写場は紛れもなく、上野彦馬の写場であり、慶應3年の後半から慶應4年にかけて作られたことが分かるが、その場所には「大工小屋」が建てられて消滅し、名残を後年に留めることはなかった。広い写場で撮影された写真で最も新しいものは、「上野彦馬歴史写真集成」中のNo.20に紹介されており、台紙の裏の記述から明治7年9月である。この頃までは青天井の広い写場が使われていたと結論出来る。その後、明治6年ごろ邸内の北東の端に屋根にガラスを張った写場が出来、屋内での撮影に移っていった。2階建ての写場の完成は明治14、5年とされているが、これも確定的なことは分かっていない。撮影日のはっきりした写真の発見が望まれる。最後に明治6年ウィーン万国博覧会に彦馬が出品したアルバム「長崎市郷之撮影」中のパノラマ写真「長崎全景」の一部を東京国立博物館所蔵の写真より複写拡大してお目にかける。右隅の家屋が彦馬邸の東南の角に当たる。広い写場を置く余地は、この角の棟の西側か北側の白壁の塀際のどちらかである。西側の塀際は「長崎製硝図絵」の通り、盛り土の堤防があったとすると写場を作るのは無理だったと思われる。以上から、広い写場には東側の塀際の空き地が使われたと結論する。     

(平成19年8月3日)

* 以下の写真をクリックしてください
Part_of_nagasakis_panorama_photo__2 Part of Nagasaki’s panorama Photo by Ueno Hikoma
Image:TNM Image Archives, Source:http://TnmArchives.jp
提供:東京国立博物館

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2007年7月 4日 (水)

『ヒバクシャ』

「原爆しょうがない」発言で久間防衛相がついに辞任しました。
久間防衛相の『原爆しょうがない』発言部分の映像

それにしても、後任の防衛相が小池百合子首相補佐官とは世も末です……。これは人材が枯渇している日本を象徴した人事と言えるのであり、安倍首相の選んだ小池百合子という人物の裏の顔については以下の記事を再読願います。
安倍内閣の世にもお粗末な首相補佐官人事

さて、この久間発言を巡って大騒ぎになったマスコミ界ですが、そうした騒動の陰でうっかり見落としそうな、重要な原爆関連の記事がJANJANに載りました。
遺族に無断で臓器を摘出・英核燃料再処理(1)
遺族に無断で臓器を摘出・英核燃料再処理(2)
遺族に無断で臓器を摘出・英核燃料再処理(3・終)

B070704 原爆と言えば一般に広島と長崎の被爆者を連想するのが普通であろうし、過去の話と考えている読者も多いと思います。しかし、実際は第二次世界大戦が終わった当時よりも、現在の方が事態はより深刻なものになってきており、日本の国土に住む人たちのほぼ全員が「ヒバクシャ(内部被曝者)」になる可能性があるのです。ここで、被爆者とせずにヒバクシャとしたのは、『ヒバクシャ』というドキュメンタリー映画を制作した鎌仲ひとみ監督の定義に従ったものであり、鎌仲監督はヒバクシャを以下のように定義しています。

 「ひばく」といえば、「被爆」という漢字を使うが、これは身体の外から放射線を浴びた場合の「ひばく」であり、身体の中から浴びる場合は「被曝」という漢字を使う。しかし、私は、カタカナで「ヒバクシャ」と表現することにした。
『ヒバクシャ』(鎌仲ひとみ著 影書房)p.35

B070703 私の言う、「日本の国土に住む人たちのほぼ全員がヒバクシャになる可能性がある」は後者の「被曝」の危険性を指しています。「被曝」の怖さにいつては鎌仲監督が著した『ヒバクシャ』や同監督のドキュメンタリー映画『ヒバクシャ』を実際に観ていただくとして、なぜ、「日本の国土に住む人たちのほぼ全員がヒバクシャになる可能性がある」と言い切れるのか、映画『ヒバクシャ』の中で肥田舜太郎医師の発言に耳を傾けたり、ウェブで読むことのできる肥田医師の以下の発言に注目してください。

乳ガンはなぜ増えたか

 アメリカの白人女性の乳ガンは、1950~89年に倍増しました。婦人運動の要請を受けて政府は原因を調査、大気汚染や化学物質のせいだと説明したのです。

 本来は企業系のいわゆる御用学者だったJ.M.グールドは、その説明に不審を抱き、たくさんのスタッフをやとって統計を分析しました。全米3053郡のガンの統計を調べてみると、乳ガン患者が増えている郡は1319だけです。

 1319の郡について、水や食べ物の汚染といったあらゆる諸要素との相関を、グールドは緻密に調べました。すると1319郡はすべて、100マイル(約160km)以内に、原子炉(軍用、発電用、研究用など)があったのです。

……中略……

 私はいま、日本でも同じ相関がないのかどうか、確かめようとしています。日本では、原子炉が160km以内に無い県はないので、80kmで試行錯誤しています。作業の協力者を求めています。(筆者:肥田さんの作業の途中経過は『内部被曝の脅威』(ちくま新書)で、すこし触れられています)

当初、自分で被曝の怖さについて一筆書こうと思っていましたが、上記の被曝に関する優れた記事「かくされてきた被曝 ぶらぶら病」で十分言い尽くされていると思いましたので止めます。トドメとなるのが以下のサイトでしょう。オーナーは以前原発に勤めていた平井憲夫さん(故人)です。
原発がどんなものか知ってほしい

原発の怖さを知っているはずの東電をはじめとする日本の電力会社が、どうして未だに原発を推進しているのかについての話は別の次元の話になりますので、機会があればいずれ執筆してみたいと思います。ともあれ、日本の場合は原発が恐怖の内部被曝につながるという点を記憶に留めておいてもらえれば幸いです。

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2007年6月30日 (土)

相伝のワシントン流の謝罪術と遁走曲

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が『財界にっぽん』に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新版です。ホームページ【宇宙巡礼】にも先ほどアップしました。

『財界にっぽん』2007年7月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第8回



相伝のワシントン流の謝罪術と遁走曲

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



 国内政治は問答無用の強権政治で押し切ったが、慰安婦問題についての発言で安倍は無責任さを露呈し、軽率な首相の恥が全世界に伝播した。3月10日号の『エコノミスト』は「安倍よ恥を知れ Shame on you」と書いたし、3月24日の『ワシントンポスト』の社説はタイトルに「アベシンゾウの二枚舌 Shinzo Abe’s Double Talk」と表現した。だが、国内メディアはこの件を触れなかったので、国民は日本の評価が大暴落した事実について、何も知らない状態で放置されたままだ。

  しかも、昔から「弱り目に崇り目」と言う言葉があって、第二回目に書いたようにネオコンとして安倍の保護者を任じていた、ポール・ウォルフォウィッツ世界銀行総裁のスキャンダルが、ワシントンで炎を燃え上がらせ始めた。3月28日の『ワシントンポスト」はカーメン記者の署名記事で、ポールが愛人のシャハ・リザに特別便宜を与えて、それまで13万ドル強の年俸を19万ドル強に増やし、給料は銀行持ちで国務省に出向させていた事実を取り上げ、これがお手盛りだったと問題にした。

  もっともポールとシャハの愛人関係については、スキャンダル好みの英国のタブロイド紙が取り上げて、ポールの世銀総裁就任が決まった直後から、『デーリー・メール』などが問題にして書き立てていた。リビアに生まれサウジで育ちトルコ人と結婚したシャハは・ロンドンのLSEを出てオックスフォード大で修士を取り、アラブ語、トルコ語、英語、仏語、伊語を操る才媛で、念の入ったことに英国国籍の持ち主だった。

  レオ・シュトラウスの学風を身につけたアシュケナジのポールが、米国のネオコンとして幾ら派手に動いたにしても、セファラダムの彼女に牛耳られるだけというのが、中東情報に詳しい英国風の筆致に感じ取れた。だから、英国でキナ臭い煙を出していたスキャンダルが、『ワシントンポスト」の記事で燃え上がった後で、英国の『フィナンシャル・タイムス(FT)』は取り上げて記事にしたのに、ネオコン系の『ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)』は暫く事件を黙殺してから、やっと世界銀行総裁を擁護する記事を書き始めた。

  国際世論の非難の的になっていた安倍首相には、ネオコンで庇護者のポールの不始末の重要性について、思い巡らす心の余裕も頭脳力もなかったし、四月には何かと慌ただしい日程がぎっしり詰まっていた。六年振りに訪日する中国の温家宝首相を始め、各地の首長が決まる地方選挙が控えていたし、月末に始まる連休を使った恒例の外遊では、米国や中東諸国を訪問する日程があり、特に米国で盛り上がっている慰安婦問題を前にして、ボロを出さないかが大きな懸案だった。憲法改訂のための国民投票法を成立させるには、中国の温家宝首相が国会演説をするドサクサ紛れに、委員会採決と衆議院の与党採決を強行することが、安倍にとっての最重要のスケジュールであり、それを予定通り実行したのである。だが、曲者の温家宝は役人が書いた演説草稿を読み上げ、阿倍仲麻呂や鑑真らの名前を列挙して、日本人の自尊心をくすぐっただけではなく、草稿の「中国入民は日本人民が平和発展の道を歩いていくことを支持する」という部分を省いた上に、事前の打診を抜き天皇に北京五輪の訪中を招請して、安倍内閣を軽視する姿勢を記録に残した。

  外交では無言の発言に重要な意味を潜ませるが、そういう「エクリチュールの意味論」に疎い鈍感な安倍首相は、国民投票法の衆議院通過に満悦していた。また、世界銀行のスキャンダルがワシントンで火を噴き、安倍の後見人のポール・ウォルフォウィッツが記者会見で謝罪して、強情を張る安倍に謝罪の手本を示したが、共に自発的に責任を取って辞任しないで居直った点では、「この師にしてこの弟子あり」の見本だった。

  だが、この段階では未だ真意が日本に伝わらず、安倍は那覇基地で行われた自衛隊員の葬式に出かけたが、輸送中のヘリコプターが墜落した程度の交通事故は、本省の輸送課長や儀典担当官の仕事なのに、わざわざ首相が参列したのだから呆れる。現に4月16日の『朝鮮日報』は東京特派員の記事として、「果たして韓国の大統領が、韓国軍の葬送式に参席したことがあるだろうか」と疑問を呈していたが、今後の交通事故などでの葬式のことまで考えれば、それなりの立場に居る者は行動を自重して、慎重に振舞うのがけじめだと知るべきであった。

  居座るために一応は謝ったポールのやり方を見て、同じ手口が使えると考えた外務省の役人が試みたのは、共にネオコンの砦として知られたメディアを使い、首相の訪米の時に世論の沈静化を図るという企画だった。質問事項を限定し『ニューズウイーク』と『ウォールストリート・ジャーナル』にインタビューさせ、それで批判の楯にするという広報活動の一環でもあった。だが、取材記者を高級すし屋で接待漬けにして、機嫌を取った裏話まですっぱ抜かれたのは、よほど慌てていたにしても脇が甘かった。

  首相官邸で安倍がインタビューを受けていた頃に、右翼に銃撃された伊藤長崎市長が死亡して、軍国主義への傾斜が急速に進む中で、日本ではテロの季節が本格化していた。国連の軍縮局のライデル上級政務官が謹んで、「立派な大儀を持った真のリーダーを失った」と述べたが、異論を問答無用で圧殺する政治的狂気が、「戦後レジームからの脱却」の名で蘇ろうとしている。

  しかも、戦争屋として田中真紀子が嫌悪したアーミテージが、安倍に即席の知恵を授ける目的で駆けつけ、言葉遣いやテーマの展開を教える師匠として、首相官邸で訪米直前の手ほどき工作をしたのである。安倍が余りに頼りないと判断したにしろ、一国の首相が外国の役人に指図されたのでは、とても独立国と呼ぶことが出来ないが、世界に通用しない隷属関係を目の前にして、日本のメディアは不感症を呈していた。

  更に、安倍の訪米に合わせて韓国系のグループが、『ニューヨーク・タイムス』などの主要新聞に広告を出し、慰安婦問題で安倍首相に謝罪を求めるとか、ワシントンで抗議デモを組織すると言われていた。だが、バージニア・テク大学での銃撃事件の犯人が韓国系だったので、強い衝撃のために盛り上がらなかった。その影響で安倍訪米へのメディアの関心も低調だったが、心配の余りに二日だけの短期滞在で済ませ、安倍は逃げるようにしてアメリカを立ち去り、次の予定地の中東諸国に向かったのである。

  奇妙奇天烈だったのは安倍がとった態度であり、一部の米国議員や大統領に謝罪の意思表示をしたのに対して、ブッシュは「私は首相の謝罪を受け入れる」と答えたが、朝日新聞が社説で指摘していたように、首相が謝罪すべきは元慰安婦に対してのはずだ。現に4月29日の『朝鮮日報』の社説はそこに噛み付いて、「頭がおかしい安倍首相、話にならないブッシュ大統領」という見出しで、「日本の首相はなぜ慰安婦の人々ではなく米国の大統領に謝罪し、米国大統領は何の資格があってその謝罪を受け入れるというのか」と非難していた。

  それにしても、慰安婦問題は戦争責任の一部に過ぎない。しかも、植民地人や戦争捕虜を使った強制労働を始めとして、戦地での住民殺教や略奪の問題が山積みであり、軍国主義が安倍内閣の手で復活することで、日本人への警戒心と非難は高まる一方だ。そうした課題を解決せずに先送りして、その上に大きなシコリを残したことにより、2007年4月は迷走と暴走によって彩られた、不吉な曲がり角を右折した「卯月ならぬ憂月」になったのである。

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2007年6月28日 (木)

フルベッキ写真検証 落合莞爾

070629newleader 経営誌『NEW LEADER』7月号に「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」という記事が載っています。この記事は落合莞爾氏の筆による連載物であり、同氏は『平成日本の幕末現象』(東興書院)や在米の国際ジャーナリスト藤原肇氏との共著『教科書では学べない超経済学』(太陽企画出版)などを著しており、私は両書から色々な意味で啓発されたものです。そして、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」という落合氏のシリーズ物も、近代日本の裏の歴史を知る上で大変興味深い内容だと今まで読んできたのでした。しかし、今週届いた経営誌『NEW LEADER』7月号に目を通し、落合氏がフルベッキ写真を取り上げているのに気づき興味津々で読み進めてみたものの、同じ落合氏の筆によるものとは思えないほどお粗末な内容であったので落胆した次第です。その落合氏が記事の中でフルベッキ写真について言及している箇所を最後に転載しておきますので、読者にはじっくり目を通してもらうとして、落合氏の記事の何処が出鱈目なのか以下に列記しておきましょう。ちなみに、灰色の囲みは落合莞爾氏の記事「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」から、茶色の囲みは慶應義塾大学准教授の高橋信一氏の論文やメールからです。

1.撮影場所

撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

以下の論文を落合氏は見落としているのが一目瞭然です。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

2.子供

次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

私は高橋先生とのメールのやり取りで、以下のような情報を頂いています。加治氏だけではなく、落合氏の意見も是非聞かせて欲しいところです。

所謂一般市民に、この写真を知らしめたのは石黒敬七さんで、島田氏よりはるかに早い、昭和32年の「写された幕末」で、娘と書いています。その写真が石黒敬章さんの「明治の若き群像」に転載されました。彼は、想像でキャプションを書いたはずですが、感性は正しかったと思います。また、村瀬寿代先生がブログの掲載の前から、娘だと私に言われていました。服飾の歴史の専門家に聞いて子供が着ているのは、女の子のドレスだそうです。

2007年5月27日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

3.大室寅之佑

さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

まさか、大室寅之佑(明治天皇)が写っているといった出鱈目を落合氏が信じているのでなければいいのですが…、万一そうだとすれば、「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」の信憑性を根本から見直す必要が出てきそうです。

4.伊藤博文

私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」

この下りを読んだ瞬間、自分の心の中では雲の上的存在であった落合莞爾像はガラガラと崩れ落ちました。同記事に目を通した高橋先生も呆れたようで、落合氏の記事についてサムライが何か書くことがあれば、以下のメッセージも載せて欲しいという依頼がありましたので、一部を割愛の上、転載させていただきます。

落合莞爾氏は佐賀藩士を平凡な人生と言ってますが、「フルベッキ写真」に写る彼らの半分は当時としては破格の海外留学経験をし、それを活かして明治の世の中を作っていった人たちです。それらの価値を掘り起こすのが、平凡な作家の使命のはずです。西郷や伊藤などだけが歴史を作ったのではないことを伝えてください。

2007年6月28日付の高橋信一先生からサムライ宛のメールより

落合氏は高橋先生の以下の論文に未だ目を通していないようなので、ここは是非一読を勧める次第です。目を通した後でも落合氏の目が覚めないようであれば、「駿馬も老いては駄馬に劣る」という諺を落合氏に贈る他はなさそうです。

「フルベッキ写真」に関する調査結果
小説「幕末維新の暗号」の検討結果

「フルベッキ写真」検証
行方不明の坂本龍馬は…

 吉井友実が宣教師フルベッキに親炙したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい数力月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面化する兆しが生じた。

 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。

 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢から推測することで、撮影時期が慶応元年(一八六五)か二年に絞られた。折しも慶応二年一月には薩長秘密同盟が締結され、翌年には薩土秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。

 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。

 私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、この人物を伊藤博文と判断したのである。言われてみれば、確かに文久三(一八六三)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。

 吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラバーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。

 一八六四(元治元)年二月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、八月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、十一月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を立つ。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(二〇八頁)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年四月五日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。

 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。

 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くが、グラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。

 結局、明治維新の真相の一班にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。

『NEW LEADER』7月号

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2007年6月13日 (水)

「この道」 小錦八十吉

東京新聞の夕刊に元大関小錦の手記が連載されていますが、特に今日の記事(第111回目)には心を打たれました。最近取り上げている在米の国際コメンテーター・藤原肇氏の「愛国心」に相通じるものがありそうです。

070613_konishiki ボクが来日したのは一九八二年だった。人と車の多さに目を丸くしたのを今でも覚えている。それから二十五年。日本はずいぶん変わったね。変わったというより、悪くなった。若者の乱れは深刻だ。とくに若い女性が心配だよ。だって、平気で売春するんだもの。それを日本の社会は深く追及しない。見て見ぬふりをする。

ハワイでは売春をやっているとすぐに捕まるから、簡単にはできない。性風俗の乱れに加えて、麻薬が簡単に手に入るのも社会のひずみにつながっている。六本木や渋谷の盛り場に出かけて、一万円も出せば麻薬が買えてしまう。これは恐ろしいことだよ。

この前、ハワイで一番偉い米連邦捜査局(FBI)の捜査官と学校をまわった。行く先々でビデオをまわした。子どもたちに麻薬を乱用すると死に至ると啓蒙してきた。子どもは社会の宝でしょ。その子どもたちにたやすく麻薬が手に入る社会なんてボクには考えられないよ。

早く手を打たないと、本当に怖い社会になっていく。実際、東京は国際的な犯罪都市になりつつある。金のためなら平気で人を殺す風潮がまん延しつつある。精神的に荒廃した子どもたちが、そのまま大人になったら…、と考えただけでも恐ろしくなる。

今の日本人には愛国心がなくなったね。愛国心といっても戦前の軍国主義につながる愛国心じゃない。日本の社会と人を思う心だ。本当に国を愛する気持ちがあれば、ボクが嘆く問題を少しでもよくしようとするはずじゃないか。

例えとして適当かどうかは分からないが、尖閣諸島・魚釣島問題で、エスカレートした一部の中国人活動家がかつて、魚釣島に上陸した。領土問題の是非はともかく、あれくらいの勢いがないと駄目だと思うね。

日本人に愛国心が出てくるのはスポーツのときだけでしょ。「ニッポン、チャチャチャ…」というときしか、愛国心を発揮できないのは寂しく、悲しいね。

社会を変えるにはまず家庭を大切にすることだ。誰もが家族を思う気持ちがあれば社会だって自然と変わっていく。

「この道」 元大関 小錦八十吉

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日本の荒廃を世界に曝した阿倍政治の醜態

在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏が『財界にっぽん』に毎月掲載している、「遠メガネで見た時代の曲がり角]の最新号が出ましたので以下に転載いたします。

『財界にっぽん』2007年5月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第7回



日本の荒廃を世界に曝した阿倍政治の醜態

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



 世界に通じる教養に不足した日本の首相が、慰安婦問題について十分に熟慮しないで、「強制した事実を裏付ける証拠は無い」と断言して、政治責任(アカウンタビリティ)の欠如を明白に露呈したために、それが世界から反発の嵐を巻き起こした。幼稚で粗野な安倍晋三の思い込みに従い、その場逃れと嘘の上塗りを放置したので、安倍首相に向けた「恥知らず」という非難は、世界のメディアが書く責任論の洪水として、日本の悪名の形で世界を駆け巡っている。

 3月6日の『LAタイムス』のオピニオン欄には、ジョージ・ワシントン大学法学部のシェルトン教授が、「日本はこの恥知らずを隠蔽できない」と題して寄稿したし、同日の『ニューヨーク・タイムス」の社説は安倍発言について、「女性たちは強制徴用されたのに、日本は事実を捻じ曲げ恥を晒している」と書き、8日には一面を使った記事で「安倍は戦時中の過去を抑え込んで、成り上がった国家主義者だ」と糾弾した。

 韓国と中国の非難は定番通りで激しかったが、東南アジアで侵略された国ぐにも声を荒げて、『マニラ・タイムス』や香港の『明報』は「歴史の改窟だ」と日本政府の卑劣さを攻撃している。

 だが、問題は未だ「慰安婦」が中心になっており、戦時中の植民地人や捕虜の強制労働を始め、日本兵による戦場での残虐行為については、表立った形で取り上げられていない。だから、強制労働をした麻生炭鉱の御曹司が、靖国カルトの外務大臣である点は見過ごされており、内閣全体が火ダルマになるには至っていない。

 それにしても安倍首相は相変わらず居直り続け、鉄面皮で責任逃れの愚策を弄しているのに、言論界はこの破廉恥男の辞職さえ求めていない。しかも、刻々と日本の立場が損なわれて行くのに、こんな人物が首相である事実により、世界で生きる私でも日本人であることが恥ずかしくなる。

 日本人なら誰でも知っていることだが、安倍は閣僚になった経験がないだけでなく、政治家としての経験も至ってお粗末であり、世界に通用する常識や政治理念も持ち合わせていない。だから、3月13日に岡山で記者会見した小沢一郎は、「首相というのは政治理念 や哲学をきちんと勉強し、持っているのが普通の場合は要請されるが、そういう点が見られない。その時々に言葉を発しているだけだ」と安倍をけなしている。

 『小泉純一郎と日本の病理』に書いたように、留学と称してロスに滞在していた安倍青年は、取得した単位がゼロだっただけでなく、学歴詐称と同様に不透明な過去を持っている。そして、韓国の諜報機関や統一教会と密着した、政治フィクサーだった朴東宣に手なづけられ、「ぺーパークリップ作戦」で反共闘士の洗礼を施されたとか。

 しかも、北朝鮮に対しての強硬姿勢を前面に出し、祖父が首相の血筋と若さを売り物にして、ヤラセ同然だった総裁選挙に勝ち、自動的にトップに立ったのが安倍の経歴だ。だから、党内では「ぼくチャン首相」と呼ばれるし、安倍晋三の実態は「ふ金総裁」に過ぎないから、難局に直面すると簡単にボロを出してしまう。

 小沢が言う政治理念の無さに加えて、政治を語る自分言葉も持ち合わせていないので、発言の中身がないのを直ぐ見抜かれてしまう。そして、施政方針演説が「空虚な言葉の羅列」だったと、『フィナンシャル・タイムス』が世界に報道したように、実力の無さは見くびりの対象にと転化する。小泉劇場に見とれる程度の大衆が相手なら、奇兵隊員向けの田舎芝居でも済むが、世界に向けてメッセージを発信するためには、感情ではなく論理と知性の裏づけが必要である。

 「事実を裏付ける証拠は無い」と断言した安倍晋三は、この言葉で十分に説明を果たしたと思っただろうが、政治家としての彼の経験と頭脳程度では、役人に教えられた発想しか出来ないために、事実や証拠を物質的なものに限定して、公文書だけが証拠だと考えたに違いないと思う。公文書を抹殺すれば証拠が無いので、責任の追及から逃れられるというのが、役人の特徴的な発想だからである。

 昔から落城のときに証拠になる文書を燃やし、領主に責任追及が及ばなくするという仕事が、家老に与えられた最大の責務だった。また、現在でもライブドアー事件の時の手入れ直前において、シュレッダーで書類を徹夜で破壊したことは、活字になって衆知の事実として知られている。

 現に橋本内閣による省庁大合同によって、どれほど大量の書類が廃棄になったかは、当事者たちしか知らない事柄に属しており、国民の知る権利は闇に葬られている。特に大蔵省は竹下や橋本が牛耳った時代に、現在の金融崩壊と経済破綻があったので、合理化の口実に便乗した証拠隠滅が、試みられていた可能性は濃厚だ。自民党体制の崩壊を前にした1990年代は、責任追及を回避するために証拠を隠滅し、誰も責任を取らずに済むように考えて、敗戦の時の知恵を借りた者がいたはずだ。


敗戦の時の証拠隠滅工作のエピソードと責任の回避

 拙著の中に『情報戦争』と『インテリジェンス戦争の時代』があり、その中に次のような記述が記録としてあるが、敗戦に臨んだ外務省であった情景である。

 「この時期の外務省は大混乱に陥っており、外相は東郷茂徳から重光葵に代わって、引継ぎや閣議であわただしかったが、暗号解読の特別情報班はすべてが支離滅裂で、ロッカーの中から書類を全部庭に持ち出し、大急ぎで掘った穴の中で焼却処分した。暗号帳などはなかなか燃えにくかったから、石油をかけて二日がかりでやっと灰にしたが、最後にはマル秘のハンコまで火の中に放り込んだ…。」

 これは外務省のブラックチェンバーの統括責任者だった、早川聖さんが物語った体験談であり、当時カナダにいた私は彼に出会い、毎週のように彼を招いて夕食を共にしながら、八年を費やして全体験を聞き出し、数十本のテープに録音したものを書き起こして、歴史の証言として本にしたのである。

 この例を見ても明らかなように、書類を保存して資料として残すよりは、証拠を隠滅して責任追及を逃れることが、役人や政治家にとって優先事項であり、職員が総出になって書類を燃やす伝統が日本にはある。

 しかも、慰安婦問題を取り上げたNHKに対して、権力者として放映直前に圧力をかけ、安倍幹事長代理と中川経済産業相が番組改鼠を要求し、憲法や放送法違反を犯した事実がある。それだけではなく東京高等裁判所が、番組改竃だ違法だとの判決を下したのに、安倍は「介入はなかった」と開き直っており、嘘つき男としての悪名をテレビで広め、首相の名前を汚辱まみれにしている。

 こんな不塔な暴虐政治が行われているのに、安倍は現在も首相のままで中川昭一は政調会長であり、違法行為に対しての反省も無いまま、今度は世界に向かって嘘をつきまくっている。こんな日本のでたらめ政治と暴君に対して、世界が猛反発するのは至って当然であり、亡国路線を改めない限り日本に未来は無い。

 これを見ても日本がいかに狂った国に成り果て、自力ではとても正常な状態に戻れないので、世界からの外圧に期待するだけという、実に惨めで情けない状況に陥っていると分かる。だが、こうした破廉恥な政治家たちの放置を止め、狂気に満ちた火遊びを防ぐ努力をしない限りは、日本は世界から嘲笑され続けるだけで、亡国路線の中で悲惨な状態を目指して没落して、最後には天罰まで受けるのではないか。

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9条改憲の賛否を問う質問 回答まとめ

いよいよ参議院選挙が来月に迫ってきました。過日アップした「参院選候補者への質問発送」の結果が出ましたので、以下の名月さんの報告を一読願います。
9条改憲の賛否を問う質問 回答まとめ

先に取り上げた教育法改正も9条改憲に結びつくことは容易に想像できます。
我が子を戦場に送っても良いのか…

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2007年6月 7日 (木)

閉鎖された加治将一氏のブログ

過日、「『幕末維新の暗号』に投稿された偽りのコメント」というテーマの記事を投稿し、加治将一氏本人のブログから以下を引用したのを覚えておられると思います。

『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

ところが、その後上記のかじまさ.netが閉鎖されているというメールが道友から届きました。あれだけの“名文”が読めなくなるということは大変惜しいことなので、以下に加治氏本人が自著『幕末維新の暗号』について述べていた箇所を再録しておきましょう。後は読者の判断にお任せします。

『幕末維新の暗号』あとがき

 Kaji

『幕末維新の暗号』を出してから、有形無形の圧力を受けている。脅しさえも。
 日本には『幕末維新の暗号』という、一介のフィクション小説の出版さえ、許さない得体の知れない勢力がいる。

 言論弾圧、出版妨害。

 あるものは政府機関を名乗り、あるものは弁護士を名乗り、あるものは教育者を名乗り、あるものは学者を名乗り、いややはりその中には、まったく名乗らない闇の勢力もいる。  妨害には、さまざまな方法がある。 『幕末維新の暗号』はもっともらしいことを並べ立てて、反証してみせ、これはイカサマ本だと言いふらす卑劣な方法は一般的だ。だが、よく検証すれば分かるが、根拠の薄いものばかりで、こじつけの手法が多くとられている。
 そもそも小説に、史実と違うという攻撃など、トンチンカンな話で、その意図がミエミエではないか。

 『幕末維新の暗号』は、盗作で読む価値なしだという言いがかりもよく使われる。

 『幕末維新の暗号』は、駄作だと中傷する古典的な方法がある。
 いずれも、知識遺産を知りたいと思う情熱を抹殺する恥ずべき人間のやることだが、そうはいっても確信犯的な連中には通用するわけはないのだが・・・

 出版社や新聞社に、『幕末維新の暗号』の書評を載せるなと、圧力をかける方法もある。
 そして直接版元に、本の抹殺を狙って難癖をつける方法もとられるが、現代において、もやはそれは成功しないはずだ。
 情報が公開され、一定程度の言論の自由という意識が浸透している時代になってきているからだ。

 さらにまた、作家やその周辺を震えるほどに脅す方法がある。オーソドックスだが、効果的だ。


 正直、身の危険を感じている。
 しかし加治は、屈服する年齢ではない。
 もう充分、好きなように生きてきたし、この世に未練はあまりない。この先、長く生きてもせいぜいあと20年だろうか。それが仮に数年短くなったとしても、冷静に受け止められると思っている。
 正直に生きるためなら、あえて危険な領域に踏み込むことはいとわない。
 とは言え、セキュリティのために公表していた顔写真を引っ込め、暮らしを移させてもらった。これはすべきことだと思う。 


 過去における真実とはなにか?
 個人が決めることじゃない。多くの人が、さまざまなことを知り、考えることに参加すれば、より真実に近づけるはずだと信じている。
 それにはまず、知ること。
 加治は『幕末維新の暗号』という小説で、世に問題を提起した。この本は長い取材と調査。そして多くの人の協力があっての賜物だった。

 もう一度、見つめようではないか?
 考えようではないか? 
 我々、日本という国を・・・
 我々には、それが可能なはずである。

 『幕末維新の暗号』は、発売わずか3週間で、4度も刷り増しするという栄誉にあずかった。
 購入し、読んでいただいたみなさんには、深い感謝と尊敬の念を抱かざるをえず、さらにより多くの人が、『幕末維新の暗号』を自分なりに見つめていただきたい気持ちでいっぱいでだ。
 そこになにかを見出し、気付いていだだければ、作家としては本望なのだ。



 応援歌がたくさん聞こえる。 すべての人に、感謝と愛情をこめて・・・

加治将一
by kaji-masa | 2007-05-18 07:01

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2007年6月 4日 (月)

藤原さんとの出会い

在米の国際ジャーナリストである藤原肇氏が、『財界にっぽん』という経済誌に毎月掲載している「遠メガネで見た時代の曲がり角]を本ブログでは過日転載しています。先ほど本ブログに載せた政治評論家の森田実氏の記事を目にした、藤原肇氏と交流のあった元朝日新聞の記者の斎藤義雄氏が、私が副管理人を務める「藤原肇の宇宙巡礼」に以下のような投稿をしてくれました。

名前:斉藤義雄 投稿日: 2007/06/04(月) 17:10:44
久しぶりですね。元気で活躍されている様子とホームページの存在をを知り、懐かしさと共に嬉しくなってお便りしました。三十年ほど前に取材して記事を書いた朝日の経済部の斉藤です。私が読んだ記事でみる昔変わらぬ鋭い発言は、今の日本にとって何よりも必要な言論の威力です。この記事は大切だと思うので再掲載しておきます。
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK35 > 772.html
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Re: 藤原肇氏の徹底的な安倍政治を批判した記事の威力
http://www.asyura2.com/07/senkyo35/msg/772.html
投稿者 ものぐさ太郎 日時 2007 年 6 月 04 日 15:36:17: .yeE2v5B/41rM

(回答先: 藤原肇氏(フリーランス・ジャーナリスト、在アメリカ、『小泉純一郎と日本の病理』の著者)からの手紙 (森田実の言わねばなら 投稿者 天木ファン 日時 2007 年 6 月 04 日 08:23:35)

森田実氏が紹介して絶賛している藤原肇というは米国在住のジャーナリストは、20年位前は『文芸春秋』や『エコノミスト』などによく執筆して、現役時代のわれわれ新聞記者は国際政治とか、石油についての国際情勢について多くのことを教えてくれた。最近は日本の主流の雑誌が迫力のある記事を掲載しないので、こういう真実を語る人の記事が雑誌から消えて久しいと思っていた。われわれオールド記者にとって懐かしい名前だから、検索して探したら『宇宙巡礼』というホームページがあるのが見つかった。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/
そうしたら『財界にっぽん』に連載していると分かったし、古い記事はかなりダウンロードして読めるようになっていた。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/abe04.htm
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/abe02.htm
その中でも上の二つの記事は安倍内閣の無能さについて徹底的に論じており、こういう記事が日本の総合誌から消えたことが、日本の言論界の衰退の原因だと痛感した。実際問題として藤原記者が書いた『小泉純一郎と日本の病理』は、小泉政治がいかに支離滅裂であったかを暴露していた点で、これに勝る本は未だに日本には登場していないのである。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334933688/250-5330185-1699445?v=glance&n=465392
そうであれば、『財界にっぽん』に連載されている記事は、次に予想される安倍晋三という暴君の狂った政治の病理について、本として出版されるものを予告しているのではないかと考えられた。そこでサイトでは読めない最近の記事が読みたくなり、書店を探したがなかなか見つからなかったが、ようやく日本橋の丸善で最新号を買うことが出来た。
七月号の記事は「相伝のワシントン流の謝罪術と遁走曲」という題で、この四月における安倍の支離滅裂な行動がみごとに総括されているだけでなく、ネオコンで安倍の保護者として君臨し、世界銀行の総裁のポール・ウォルフウィッツのスキャンダルについて、驚くべき詳細な分析がしてあったので驚いた。こんなすごい記事は世界の新聞を幾ら読んでも、誰も書いていないのではないかと思った。
民主党がこの記事のコピーを何百万枚か作り、参議院選挙の一週間前に駅の改札口とか、通行人に手渡せば選挙に圧勝できるかも知れない。それほど強烈で衝撃的な内容の記事だと思った。現在発売中なので記事の紹介は差し控えるが、日本の新聞記者仲間や評論家にぜひ読むことを勧めたい。念のために地方に住む場合には財界にっぽん社に連絡することで、手に入れることも可能かもしれないので電話番号を書く。Tel;03-3257-6701、

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森田実の言わねばならぬ[281]

B051030 以下の記事は『森田実の時代を斬る』に載った在米の国際ジャーナリスト・藤原肇氏の記事です。なお、文中の『NEW LEADER』2007年5月号の「《安倍首相に直言する》“意味論オンチ”が日本の評価を大暴落させた」は7月ころ、『財界日本』6月号の記事は数日の内にホームページ【宇宙巡礼】にアップ致します。

2007.6.2(その1)
森田実の言わねばならぬ[281]

平和・自立・調和の日本をつくるために【192】
藤原肇氏(フリーランス・ジャーナリスト、在アメリカ、『小泉純一郎と日本の病理』の著者)からの手紙

「賢を見ては斉(ひと)しからんことを思う」(孔子)[自分よりすぐれた人に接したら、その人のようになろうと心掛けることが大切である、という意]

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 著名な国際ジャーナリストであり、在アメリカのフリーランス・ジャーナリスト、藤原肇さんからご丁寧なお手紙をいただいた。
 藤原さんは、「NEW LEADER 2007.5」によると、「仏グルノーブル大学理学部博士課程修了。理学博士。多国籍石油会社で石油開発担当後、米国で石油会社経営。ビジネス引退後、ジャーナリストとして活躍。著書は『小泉純一郎と日本の病理』『賢く生きる』等多数」。
 藤原肇氏からのお手紙にはこう書かれている。

《私はアメリカに住む日本人で、40歳の頃にビジネスを引退し、日本には真の意味でのジャーナリストが不在なので、それ以来はフリーランスとして世界で仕事をしています。最近の日本のメディアは本当に腰抜けになってしまい情けないかぎりです。》

《最近の大兄の記事でウクライナのスカチコ氏との一問一答の読みました。国内に向けて何を言っても日本人の脳が動いていない以上は、このように外に向かって発言してそれを国内に逆流させるのが最良と思っていますので、こういうやり方を続けてください。
 私が日本で本を出しても、大事なところはバサッと削られてしまうので、言論の自由など存在しないと実感しています。そこでフランス派の私が苦労して英語で書いたりしていますが、アメリカの大新聞の編集長のレベルが低いために、ヨーロッパでしか記事にならなくて残念です。日本語では100年後の歴史の資料になるだろうと証言を残しています。》

 藤原氏のような才能豊かな強い精神の持ち主が、世界を舞台にしてジャーナリストとして活動していることは大変心強く、ありがたい。天に感謝したい気持ちである。 藤原氏は、最近、日本の雑誌に論文を書いておられる。

 一つは「NEW LEADER」2007年5月号の[《安倍首相に直言する》“意味論オンチ”が日本の評価を大暴落させた――「美しい国」どころか醜悪な暴政に陥る危険性――]。

 藤原氏はこのなかでこう述べている。
《日本の信用と国家の威信が損なわれ続け、日本が蔑視されている現実こそが問題だ。安倍首相が従軍慰安婦問題について「強制性を裏付ける証拠はない」と断言したことが、世界の世論の猛烈な反発を引き起こしたため、安倍晋三のせいで日本の評価は大暴落した。》

《今の日本には怨念と屈辱感に支配されて、「一つ覚え」のように憲法改正を叫びまくり、不可欠な理念や理想の議論が脱落したまま、強引に押し切る悪しき手口が蔓延している。》
 安倍政権への厳しい批判である。

 もう一つは『財界にっぽん』2007年6月号の[〔遠眼鏡で見た時代の曲がり角〕日本の荒廃を世界に曝した安倍政治の醜態]。
 このなかで藤原氏はこう述べている(pp.4-7)。
《世界に通じる教養に不足した日本の首相が、慰安婦問題について十分に熟慮しないで、「強制した事実を裏付ける証拠は無い」と断言して、政治責任(アカウンタビリティ)の欠如を明白に露呈したために、それが世界から反発の嵐を巻き起こした。幼稚で粗野な安倍晋三の思い込みに従い、その場逃れと嘘の上塗りを放置したので、安倍首相に向けた「恥知らず」という非難は、世界のメディアが書く責任論の洪水として、日本の悪名の形で世界を駆け巡っている。》

《それにしても安倍首相は相変わらず居直り続け、鉄面皮で責任逃れの愚策を弄しているのに、言綸界はこの破廉恥男の辞職さえ求めていない。しかも、刻々と日本の立場が損なわれて行くのに、こんな人物が首相である事実により、世界で生きる私でも日本人であることが恥ずかしくなる。》

《北朝鮮に対しての強硬姿勢を前面に出し、祖父が首相の血筋と若さを売り物にして、ヤラセ同然だった総裁選挙に勝ち、自動的にトップに立ったのが安倍の経歴だ。だから、党内では「ぼくチャン首相」と呼ばれるし、安倍晋三の実態は「ふ金総裁」に過ぎないから、難局に直面すると簡単にボロを出してしまう。》

《(安倍首相らは)世界に向かって嘘をつきまくっている。こんな日本のでたらめ政治と暴君に対して、世界が猛反発するのは至って当然であり、亡国路線を改めない限り日本に未来は無い。
 これを見ても日本がいかに狂った国に成り果て、自力ではとても正常な状態に戻れないので、世界からの外圧に期待するだけという、実に惨めで情けない状況に陥っていると分かる。だが、こうした破廉恥な政治家たちの放置を止め、狂気に満ちた火遊びを防ぐ努力をしない限りは、日本は世界から嘲笑され続けるだけで、亡国路線の中で悲惨な状態を目指して没落して、最後には天罰まで受けるのではないか。》

 在アメリカのフリーランス・ジャーナリスト、藤原肇さんの安倍政治と日本の未来を憂う論説に学ぶこと大である。藤原氏の訴えに真剣に耳を傾けたい。  
 藤原肇さんの憂国の情がひしひしと伝わってくる。われわれ日本国内で言論活動をしている者は、この藤原さんの憂国の情に応えなければならないと思う。

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2007年6月 3日 (日)

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。

「フルベッキ写真」の汚名の変遷

慶應義塾大学准教授 高橋信一

明治元年10月、岩倉具視の息子具定・具経兄弟が長崎の佐賀藩藩校致遠館に国内留学した際、フルベッキや致遠館関係者と撮影された集合写真、「フルベッキ写真」は明治28年7月号雑誌「太陽」で戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の中で初めて一般に紹介された。文中に「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されており、素性は明らかである。その後の偽説に利用された軌跡を辿ってみることにする。

先ず、明治33年米国で出版されたW.E.Guriffisの「Verbeck of Japan」では写真は掲載されていず、説明のみ書かれている。それには岩倉兄弟の他大隈重信と柳屋謙太郎が写るとしているが、後者二人については疑